第十章
「トゥレイスって思ってた以上に自由だね」
「それがあの国のいいところよ。自慢にもならないけれど、国軍を目指すような人たちにとっては住みやすい場所かしらね」
ユーリアと二人の病室。誰もいない事を良い事に寄り添った彼女から感じる体温と、結ばれた手のひらの温度の境目が分からなくなるほどで。当初あったはずの緊張感は、既に安堵へと変わってしまい。彼女特有の、凛とした雰囲気を纏う女の子の匂いも、どこか日常のように慣れてしまった語りの時間。
少し気になる事があれば、ずっと手を取られていると密室の所為か暑くなって。時折冷を求めて指を動かすのがくすぐったいこと。その度に傍へと寄り添う彼女は嬉しそうに笑みを浮かべるから、クラウスも無闇に解く事を躊躇われて。
ずっと眠っていた感覚からすれば、つい先日のユーリアと比べて全然違う空気を湛える違和感の差異にはまだ慣れない。
クラウスの記憶の中の彼女は、いつも刀のように真っ直ぐで。嘘と冗談が苦手な実直な女の子。クラウスに対してよく呆れては仕方ないと諦めを見せるような、どちらかと言えば感情の起伏が目に見えにくい性格だった筈だ。
けれど今こうして隣にいる彼女は、その記憶とは随分異なって心を許し甘えるように……それこそアンネたちと交わすような、親愛にして安堵に溢れた柔らかい物腰でたおやかに控える。
その変わり様は、まるで幼児退行にも似ていて……けれど確かに感じる繋がりを求める仕草や雰囲気には、相応の色香を纏う。
…………いや、もう認める以外ないのだろう。彼女のこの態度は、クラウスだからということだ。
少し前に確かめ合った気持ちがそう教えてくれた。ユーリアは、クラウスの事が好きなのだ。だったら恋人にそうするように、全てを預けて委ね、その上で離さまいと繋ぐ手のひらの温かさが何よりもユーリアらしいと納得を導く。
なにせアンネ曰く、ユーリアは独占欲と横暴で粗野の塊らしいから。
大切だから傍に置いておきたい。その極端な例だと思えば、彼女に必要されていると男として嬉しくなる。
「やっぱりユーリアも得る物はあった?」
「何よりクラウスを手に入れたわよ」
恥ずかし気も無く答える。まさかいきなりそちらに話が跳ぶとは思わなかったと驚きつつ、けれどならばといつもの調子を取り戻して紡ぐ。
「……気付いてるとは思うけど、最初に欲しがったのは僕の方だからね?」
「後も先もどうでもいいわよ……。クラウスは私の物。そして、私はクラウスの物……。だからお願い。私が欲しかったなら、私を見捨てないで。ずっと私の傍にいて……」
「…………ユーリアは、極端だね」
「気持ちなんて不安定なものだもの。だったらはっきり分かりきってる方が安心するでしょう?」
「……どうあっても僕の一番は僕自身だよ。けど選んだ隣としてなら、きっとユーリアが一番だから」
「…………浮気は、許さないから」
少しだけ強く握られた手のひら。立てられた爪が少しだけ手に食い込んで痛覚を刺激する。やがて離れた後に残る熱い感覚。彼女に付けられた、独占欲の証。
どうやらクラウスは、とても愛の重い女の子に恋をされたようだ。その気持ちを、クラウスが全て受け止めるのかと思うと、少しだけ心配になる。
彼女の愛情の深さは、信頼の裏返しだ。
自惚れてもいいのならば、クラウスはアンネと同じほどに心を許してもらえている。いや、もしかするとアンネ以上に……。
何よりも友好関係がそこまで広いわけではないユーリアが、その中で特に気に掛けている相手だ。狭く深く。少ない心許せる相手だからこそ、その愛情の大きさは彼女に認められている証。
それはどこか、リャナンシーが齎す愛のように。際限なく尽きる事無い膨大な感情の嵐だ。
だからこそ、裏切った時には覚悟とけじめが待つ。ユーリアは、きっと嘘を吐かない。もしクラウスが心移りをすれば、それに気付いた瞬間、苛烈な批難とそれ以上の愛情が押し寄せるだろう。
言ってしまえば、感情に狂ったユーリアが何をするか想像がつかない。その気になれば、クラウスを殺して彼女自身も後を追う……なんて嫌な想像さえ巡るほどに、その愛情はとても深く大きい。
……少しだけ、個人的に言えば。確かに彼女の言う通りそれだけ求められればクラウスも安心していられると。
そんな風に、一歩間違えれば景色が歪んでしまう関係は、同時にクラウスがどうしようも出来ない正義の塊で。だから隣にいて欲しいと望んで手を伸ばしたのだ。
これまで様々な物をどうにか手のひらの上で転がしてきたクラウスが、唯一自由に出来ないのが、彼女なのだ。
だからどこかでユーリアの事を分からない自分がいて。それが怖くて、彼女を想う感情を認める事に恐怖を抱いているのかもしれない。
だからクラウスから思いを伝えなかったのかもしれない。
酷い話で、ただの逃げ道だろうか?
「……出来る限りユーリアを優先的に考えるとするよ」
「絶対って言いなさいよ。……言ってよ」
「…………分かった。絶対に、ユーリアを好きで居続けるから」
「嘘吐き」
証を求めるようにクラウスに覆い被さるユーリア。それで彼女は満たされないのだろうけれども、今この時だけの言い訳になるのならばクラウスに抵抗なんて出来ない。
されるがままに彼女を受け入れれば、重ねた気持ちの途中で小さく笑うユーリア。それから体を起こして、こちらの瞳をじっと覗き込みながら告げる。
「……いいわ、いつか言わせてあげる。私以外いらないって」
紫苑の瞳の奥に燃える暴虐なる愛情の炎。今にも飲み込まれそうなほどに荒れ狂う濡れた双眸に、少しだけ魅入って。気付けば伸ばしていた手のひらが彼女の頬を撫でれば、擽ったそうに妖艶な笑みを浮かべた。
「言ったところで、ユーリアはそれで満足なんてしないでしょ?」
「さぁ、どうかしらね?」
求めた先に更に求めて。溺れるように渇求し続ける彼女に愛されるならば、クラウスだって自分を見失えないと。
彼女に肯定されている間は、まだクラウス・アルフィルクとしてここにいられると。
「それじゃあその時までの勝負だね」
「……私とは戦いたくなかったんじゃないの?」
「勝ってユーリアを僕のものに出来るなら、その勝算を描くだけだよ」
重ねた言葉に彼女の肩が震える。そうしてその瞳を更なる愛欲に震わせるから、クラウスだって負けられない。
「なら先制攻撃ね。クラウス、私の事を知って。教えてあげるからしっかりその記憶に刻みなさい。そうやって、あたし以外の事を考えないで」
言って再び重ねた唇。その隙間から語られる、先ほどの物語の続き。
舞い戻ったクラウスへ降り注ぐ鎮魂歌にして、否定の許されない同意だけを求める協奏曲。
その結末へ向けて、クラウスが欲した最後の旋律が紡がれる。
* * *
ヒルダと約束を交わした翌日。暇潰しと個人的な欲求を果たす為に諸々の準備を整え、約束通りにいつも場所を借りている練習場へと向かう。と、何処から聞きつけてきたのか、随分な数の野次馬達が設えられた舞台を取り囲んで歓声で出迎えてくれた。
こんな事を言うと勘違いをされるかもしれないが……心地いい。熱気に包まれ、確かな期待を込められ、これから起こる景色に胸を躍らせる。
宛らそれは祭りへ向けて溢れる高揚感。それさえももっと熱く冷たい、奮え。
ユーリアが人垣の闘技場の真ん中で立ち止まれば、一際大きく声が重なる。
少しだけ視線を回せば木製の大きな板。書かれているのはヒルダとユーリアを称える修飾語に、決闘という分かりやすい形。それから互いの名前の下にずらりと並ぶ人の名前。
どうやら賭けでもしているらしい。俗物な事だと小さく笑う。
「……余裕そうね?」
「どうでしょうか。今だって平常心とは言えませんから」
交わした言葉は先に来て待っていたヒルダとの挨拶。
彼女の隣には、これまでも幾度かしか目にした事がない……話だってまともに交わす機会のなかった彼女の契約妖精が浮いていた。
眩いばかりの金髪を長い三つ編みにして纏めた、雌黄色の双眸を持つ女の妖精。名をニミュエ。水の属性に愛されし、ヘルフリートと同じ英雄的妖精だ。
戦を治めたその絶対なる威圧感と、無双を誇る死を告げる裁姫が並び立つ光景に畏怖さえ抱く。
けれど後悔はないし、負けるという想像もいらない。猛る感情は胸を突く衝動となって、今か今かと切って落とされる開始の合図を待ち望む。
そんなユーリアに、ヒルダが笑う。
「大事にして悪いわね。彼らも悪気はないのよ」
「大丈夫です。ただ認めさせるだけですから」
驕りにも似た自信を振り翳せば、ヒルダの目に闘志が宿る。
あぁ、駄目だ。これ以上はもう待てないっ。
「威勢の良い事。なら殺す気で来なさい。それで丁度いいわ」
「どんな結果になっても恨まないでくださいねっ」
空気に乗せられて普段では言わないほどの喧嘩腰を据える。
そうして取り出したガバメント。弾を確認して安全装置を外し薬室に気持ちを込める。
右手には使い慣れた相棒。それから開いた左手には取り回しのしやすい短剣を一振り。
「それではこれよりヒルダ・グラフィアス対ユーリア・コル・レオニスの試合を開始する。武器、妖精術を使用した実戦形式で執り行うっ。勝敗はどちらかの申告によってのみ受領されるっ。以上の条件の下、両者同意しここに布武を示さんと覚悟するなら、構えッ!」
試合の審判を担当する男性の声に呼吸一つ。意識して周りの喊声を除外すれば、目の前に厳然たる敵を見据えて心を凪ぐ。
勝利以外に、認めないっ……!
「試合、開始ぃっ!!」
その始まりの声を。聞き終えるが早いか瞬時に大地を蹴る。
展開したのは身体強化の妖精術。出来る限りを振り絞るその限界まで。
加速した視界で眼前に捕らえたヒルダに肉薄する。
距離を取るでなく前へ。遠距離戦を得意とするユーリアだからこそ、ヒルダだって警戒するはずで。ならば相手に接近を許す前にこちらから近付いてしまえば、初動だけでも飲み込めるっ。
戦術の裏、なんて話ではない。裏も表も、この試合には関係ない。ただあるのは、負けられないという意地だけだ。
「っふ!」
一年隣で過ごしてきた記憶が教えてくれる。
彼女の武器はたった一つ。その腰に下げた綺麗な刀だ。
中でも得意なのは一撃必殺。鞘に収めた状態から放つ一刀一殺の抜剣技。更にそこから繰り出される二の太刀や、精妙無比に振るわれる踊るような剣術の数々。
その御技で、これまでどれだけの障碍を切り伏せてきたのか。考えるだけでもこちらが削り取られるほどに洗練されたその初撃。
視認することさえ出来ないほどに早く振るわれる一刃が、まるで刀身が生えるようにいつの間にか近くに迫る。
けれど全てにおいて入りというものはあるわけで。柄の握り方、鞘の傾け方、重心の置き方。それらから紐解けばある程度狙いは分かる。
刹那に、雷光の如く唸る剣閃が須臾の時さえ切り裂く。
そうして散った火花。
見れば響いた金属同士の擦過音が、切り結ばれた短剣と刀を交錯させて軌跡を逸らす。
同時、接射の距離で突きつけた銃口から吼える亜音速。手に残る感触が音さえ置き去りに空を駆ける瞬間に、ヒルダが手のひらを返して閃いた銀色が、確かに捕らえて飛来物を両断する。その切断の瞬間に見えたのは僅かな虹色。刀身に纏わせた妖精力が妖精銃弾の妖精力で出来た被殻ごと、水でも斬る様に振り抜かれていた。
次いで巻き起こったのは暴発。妖精銃弾が存在を保てなくなり中に込められた風を辺りに烈風として撒き散らす。
逆巻く色のない刃に体さえ浮きそうな中、ユーリアは静かに笑ってガバメントを手から離す。落ちる自動拳銃は次の瞬間に虹色の空間に飲まれて姿を消す。リーザの特技、契約召喚が有する彼女の領域にガバメントが格納されたのだ。
それと入れ替わりに現れたのは、見るものを圧倒する長い銃身の鉄の塊。ユーリアがガバメントと同じほどに愛する狙撃の相棒──デグチャレフ。
その重々しい色をしたユーリアの半身を担ぎ上げれば、銃口が目の前のヒルダの側頭部にぴたりとくっつく。
同時、ユーリアの首筋に触れた冷たい鉄の感触は、上半身を捻り陽光を受けて輝く、見惚れるほどに綺麗な刀。
ヒルダが笑い、ユーリアが笑う。
「リーザッ!」
「ニミュエっ!!」
叫んだ声に呼応して絞った引き金と加速した刀。
刹那、眩しいばかりの虹色の妖精力が辺りに弾ける。
ユーリアの放った妖精銃弾は接射であったにも関わらず、何か過程を捻じ曲げたようにヒルダを貫くことなく。
ヒルダの振るった一刃は重ねた防御方陣と幾重にも固められた風の防壁によってユーリアには届く前に軌道を逸れる。
それでも互いに衝撃までは殺しきれなくて。気付いた時には吹っ飛ばされていた体をどうにか持ち直して立つと、距離を開けて睨み合う。
意味の分からない強さのヒルダとニミュエに知らず笑いが込み上げてくる。
何であの人は今立っているのだろう。確かに隙間のないほど銃口を押し付けて撃ち抜いた筈なのに。一体どんな妙技で逃れて見せたのか。
分からない……怖い……面白いっ!
「いいっ? 隠し玉は無しよっ! 持てる全部を見せなさいっ!!」
「だったら後で、今のをどうやってかわしたのか教えてくださいっ……!」
後顧の憂いを立つように言葉にして、再度大地を踏み切る。
あぁ、嫌だ。このままずっと、終わらないでいて欲しい。互いに死ぬ事も殺すこともないまま、永遠にこの時間が続けばいいのに…………。
そんな風に考えながら、ただただ目の前の強敵に、ユーリアは全てを賭して言葉にならない何かをぶつける。
それに答えるようにヒルダも気概を滾らせ応えて。
大地を震わせるほどに轟く鬨の声に、答えなどない答えを見つける────
ヒルダとの戦いは随分な盛り上がりを見せて、途中から勝手に訓練場の敷地内に入ってきた民達もが賭けに観戦にと興じて。
そんな戦いの終幕は当たり前のようにユーリアの負けで締めくくられた。
勝てる見込みは、無かったわけではない。けれどどこかで決まっていたように、最初の交錯でその結末まで見えてしまったのだ。
彼女と私では、実力差がありすぎる。
ヒルダは世界に認められ、第二次妖精大戦さえも戦った兵だ。彼女の隣には英雄的妖精であるニミュエも肩を並べてユーリアの前に立ち塞がる。
振るわれる技の冴えはユーリアが知っているどんな剣士よりも鋭くて。きっとテオだってヘルフリートの力を借りても敵わない強者。
その気になれば、ユーリアを斬り捨てる事だって何度か出来た交錯の中で、手を抜いていると感じながらも彼女の胸を借りられた事に嬉しくなって。軍属を返した時に一緒に手放したグロックやM82があればもっと善戦出来たかもしれないと悔しく思う。それでもきっと、届かなかったのだろうけれども……。
それほどに圧倒的で鮮烈な戦姫は、いつしかユーリアの憧れになって。
組み立てる戦術はまるっきり違うけれど、それでも参考にするべきは向上心の果てが無いその心だと。
今のままではまだ満足できない。こんなのでは、クラウスを守れない。
己の未熟さをそんな風に痛感して練習場に仰向けに倒れれば、少しだけ息の上がった彼女が手を差し伸べてくる。
「……惜しいわね。このままここにいればいいのに。可愛がってあげるわよ?」
「待たせてる人が……待ってる人が居ますから」
「残念っ」
手を借りて立ち上がればそのまま静かに負けを認める。
終わりを告げれば響いた歓声。そこでようやく周りの顔が増えている事に気付いて、それから少ないながらも自分に賭けてくれた人に申し訳ないと思いつつもヒルダに尋ねる。
「そういえば最初の……銃口を押し付けた接射。あれどうやってかわしたんですか?」
「単純なこと。水の膜を作るのよ。地の次に物理的な干渉を起こせるのが水の面白いところでね。特に銃での攻撃は水が衝撃を吸収してくれるの。だからそれで勢いを殺して、それから避ける。……いい経験になったわね」
口ぶりからして、その技術は先の大戦でも彼女の身を守り抜いたもの。話にも挙がった通りヒルダの得意な属性は水だ。戦いには余り向かない属性だが、それを補って余りある剣術と妖精術の応用方法にただ感服する。
「妖精術は相性だけが全てじゃないわよ。発想と使い方。無から有を作り出す異能力なのだから、自分に都合のいい結末の為の方法論を描きなさい。それを肯定する為の力を振るいなさい」
ユーリアは、言ってしまえば頭が固い。決められた事をこなすことは出来ても、教えられない事に関しては戸惑うことが多々ある。その分野においては、クラウスやアンネの土俵。自由という翼は彼と彼女の為にあるように、不条理を覆し理想を結実させる一見無謀な正しい行い。
遊びが足りない。柔軟性をもっと身につけなければ。
当分の課題を見つけつつ彼女の言葉に頷けば、それから返った疑問。
「一つ答えたから一つ質問。……ユーリアにとってその手にある物は何?」
「これは……私の一部です。銃の重さは、命の重さ。その覚悟の証です」
手のひらに収まる相棒……相銃のガバメント。学院に入る前からの付き合いになる、リーザより共に時間を重ねた金属の塊は、一歩間違えれば簡単に命を掠め取ってしまう。
「軍属である父に言われた言葉です。その手と指は他人の命さえ左右する。その責任と覚悟を背負えないのなら捨てろ、と」
厳しいのは当然で、当たり前のことなのだ。だからこそ武力としての意味を持ち、これがあるからユーリアはユーリア足りえる。
「いいお父さんね。ハインツさん、だったかしら?」
「はい」
「だったらこれも同じね」
言って腰に下げた刀を揺らすヒルダ。彼女の愛刀だって命を奪える道具だ。戦時中には必要だからと幾人もの血を滴らせたことだろう。
ユーリアの語った言葉の重みは、彼女だって理解しているはず。
「……どうしてそんな質問を?」
「あたしがそれを握った事が無いから。握った者に出会っても、名前を知る前に機会を失ったから。だったらその人達の分まで知って、背負えるものなら一緒に背負いたいじゃない? これは償いじゃないわよ? ただの驕り。戦争なんて言い訳で名前も知らない誰かを沢山殺して、英雄なんて祀り上げられたその戒め」
どこか寂しそうに告げるヒルダ。その手は遠の昔に血に濡れていて。拭いきれない怨嗟を背負って、それでも毅然と前を向いている。忘れたわけではない。その顔があった事を受け止めた上で、今ここに立っている。
それを英雄なんて呼ぶと彼女は自嘲したように笑ってくれるだろうかと。
「って、こんな話をするつもりじゃなかったんだけれどね。分かったら、こうはならないで頂戴。特に、待たせてる人が居るならその人を悲しませちゃ駄目よ?」
「っもちろんです……!」
言葉の外で男でしょうと問うて来る彼女に意地悪なことだと知らない振りをして。
「それから、気が向いたらまた来なさい。今度は最初っから最大限に歓迎してあげるわよ」
「期待してますっ」
交わした約束がまたいつか果たされる事を願いつつ、とりあえずの思い出を溢れるほどに沢山刻んで時は進む。
それからクサーヴァーより当初の目的であるミドラース探査の許可を貰って自国へと帰る。
その間にもまた一つ任務があったりもしたのだが、その話はまた機会があれば。流石にこれ以上病み上がりのクラウスに無理はさせられない。冗長に話し過ぎた分だけ、余計な部分は大幅に短縮しよう。
ブランデンブルクに戻ったのは夏季休暇終了直前。報告を終え、軍属と学院への復帰手続きをして寮に戻れば、山のように積み重なった学院の宿題。
今にも風の刃で粉微塵に粉砕したいほどの無言の圧力に溜め息を吐く。失敗した。夏季休暇中ではなくて夏季休暇明けからの復帰にすれば課題を無視できたのに……。
面倒をまた一つ背負いこんだと諦めたその翌日に、何処で聞いてきたのか意地悪な顔をした親友が部屋に顔を見せた。
「……前々から思ってたんだけどさ。馬鹿だよね、ユーリって」
「煩い、締め出すわよ?」
「そんな事言っていいのかなー?」
春の頃よりまた少しだけ髪の伸びた気がするアンネ。彼女がからかうように言って伸ばした手の先には、好意と慈悲で持って来てくれた夏季課題の答え……アンネが解いたそれ。
「別にいいんだよ? ユーリが一人で頑張れば先生の評価も上がるだろうし」
「一人でまともに解けるわけ無いでしょうが。ハーフェンだって進級しただけで授業には出席してないのに」
「開き直らないでよ……」
呆れたように肩を揺らすアンネに付き合うほど余裕も無くて、すぐに手元へ視線を落とす。
ユーリアがハーフェンへ進級したのは今年の春だ。アンネはずっとブランデンブルクに居たお陰で、学院の授業も恙無くこなし、去年には一足先にハーフェンへ。流石にフォルトまで手を伸ばすつもりはなかったようで、友達として危険な場所にこれ以上足を踏み入れて居ない事に少し安心したのは内緒。
それから遅れるように、ユーリアもトゥレイスからの一時帰国の際にアンネの計らいもあって進級試験を受けた。向こうでの任務の功績やこれまでの実績を評価してもらって余り問題も無く進級。けれどそれ以降再び許可を貰いにトゥレイスへと向かった為に、夏季休暇前までの授業は受けられていないのだ。
その内容を夏季課題として指定されれば解けないのは当然。授業だって話を聞いて半分納得できればいい程度。自分から進んで教材を開こうなど考慮の外だ。
そんなユーリアの事を見かねたのか、アンネが手伝いに来てくれて今に至る。
「こっちで何か問題はあった?」
「別に?」
「何があったのよ」
少なくとも彼女の親友であるという自負は揺るがない。自惚れてもいいのならば、同性で彼女の事を一番よく分かっているのは私だ。
だからこそ、即答で返った隠し事の響きに詰問の色を灯して尋ねる。
「……ユーリ尋問官にでもなったら?」
「アンネのことなんて今更知らなくていいわよ」
気恥ずかしさを我慢して言葉にすれば、アンネは逃げるように視線を逸らす。これでもクラウスに認められたのだ。それくらいの仕返しは出来る。
「…………本当に、ユーリには関係のない事だよ。というか首を突っ込んだら面倒だからやめておいた方がいいと思う。一応言うならクラウス君は関係ないから」
「ならいいわ。巻き込まれたのなら精々頑張りなさい」
「薄情な親友だねぇ……」
茶化す彼女にそれ以上は諦めて手元へと視線を落とす。
別に、噂程度ならユーリアだって耳にしている。学院の雰囲気が悪いらしい。
けれどそんな事、一年以上居なかった身からしてみれば知ったことではないのだ。
それはそこにいた者達が作り出した風潮。ユーリアが悩むのはお門違いというもの。
それこそ学院のことなのだから、生徒会長たる彼がどうにかする問題だ。
「そう言えば次の役員候補は? 話くらいは出てるんでしょう?」
「生徒会長はエミちゃんじゃないかな。他数人持ち上がりと、一人新しい子じゃない?」
「……別に興味ないけど」
「ならなんで聞いたのさっ」
どうでもいい会話で無言を埋めつつ手元を動かす。
相変わらず彼女と居ると沈黙が珍しいと感じつつ、けれどその賑やかさはトゥレイスには無かった安堵だと感じながら今を揺蕩う。
もう少しすれば再び国から指令が下るだろう。今度こそようやくミドラースの地への遠征だ。彼を取り戻す手がかりに踏み込める……。
ここまで長かった。けれどそれ以上に個人的な収穫が沢山あった。
中々無い経験を振り返りつつ未来を夢想する。
早く。早く、彼に帰って来て欲しい。
そうして、この胸に燃える気持ちに答えが欲しい。
夏季休暇が終わりに近付いた頃。ユーリアに課せられた課題もどうにか一区切りついた拍子に舞い込んできた、国からの召集。
そう言えばヴォルフやニーナとは最初にトゥレイスに向かった日から全然顔を合わせていないなどと思いながら。アンネに連れられていつもの部屋へと向かえば、どうやらユーリアが最後だったらしい。
「お久しぶりです」
「あぁ、久しいな」
「大変だったみたいね」
席に着きつつ、まだ来ていない様子のカイを待つ傍ら雑談に花を咲かせる。
「皆さんをお待たせして申し訳ありませんでした」
「いいわよ。一番面倒な国だもの。あたしの想像よりは早かったし」
変わらない様子のニーナ。当たり前のようにテオの隣へ座る彼女は、どこか上機嫌に労いの言葉を掛けてくる。
そんな変化に少しだけ尋ねる。
「先輩は何か良い事でもありましたか?」
「良い事って程じゃないわよ。ねぇ、テオ?」
「だから俺にその話を振るのはやめてくれ」
「……私が来たときからこうだったのだ」
「…………邪魔なら散歩でもしてくるけど?」
「やめてくれっ。気とか遣おうとするな!」
仲のよさそうなテオとニーナ。特にニーナがテオに寄りかかっているようなその雰囲気に、ヴォルフでさえも呆れたように小さく笑う。
二人の関係から少しだけ考えれば分かりきったことだ。ユーリアの知らないところで何かしらの進展があったということだろう。
からかうように尋ねれば照れるように声を返すテオ。流石にここまであからさまな関係を見せ付けられると、こちらの精神に影響を及ぼしかねないと。
何よりもこの場から逃げたいのは自分かもしれないなどと考えつつ、ヴォルフと二人感情を共有する。
「先輩の方はどうですか?」
「特に問題はないさ。次期当主としてまだやるべき事は沢山あるがな。……そういう君はどうなのだ?」
「私は…………」
返った疑問の矛。そこに込められた未来に少しだけ悩む。
彼が聞いているのはクー・シーのことだろう。その名を継ぐのかと。
実を言うとまだ悩んでいる。
ハインツは自由にしろと言って、それ以降話すことはあっても特に話題に挙げることはない。それは彼なりの気遣いなのだろうが、それが余計にユーリアの中で渦巻くのだ。
どうするのがいいのだろうと。自分はどうしたいのだろうと。
クー・シーは、父親であるハインツに与えられた称号だ。だから彼が退役した時には返す名で、その名前が欲しければ彼から受け継ぐか、軍の中で実力を得て認められるしかない。
強くなるのは、嫌いではない。力があればそれだけ責任も増えるが、求められるもので誰かの力になれるのならば、正しき行いとしてそこに嘘はない。
けれどそれと肩を並べるのはユーリアの気持ちだ。
随分前にニーナが口にしていた言葉。
力を求められる軍にいて、平穏を目指せるのかと。
国軍は、抑止力でありいざとなった時の戦力だ。だから最悪を想定すれば掲げる理想からは遠くなってしまう。
それにもう一つ。ユーリアの守りたい物がユーリア個人の思いだけなら限られるということ。
大好きな親友と隣に居たい彼と、それから今ここに居る顔ぶれたち……。幾ら欲張ったところで一人で守りきれるのはその程度が限界で、それにだって優先順位がどこかである。
だったら、本当に守りたいものを守る為に、軍に居るべきなのかと迷うのだ。
「っと、待たせたな」
ヴォルフの言葉に考え込んでいると叩かれた扉。それから部屋へと入ってきたのはこれまた見慣れた顔。テオの兄であるカイ・グライド少佐だ。
陸軍所属の身からすれば、配される部隊に違いはあれど彼は私の上官に当たる。こういう場でなければ礼で以て答えるのが規律だ。
しかし今回は軍内部の縦社会的な意味合いは殆どない。
それは陸軍少佐としてではなく、ヒルデベルト陛下の代わりとして彼が私たちを招集したからだ。
私達の目的は至って単純ながら、その実障害が沢山あって。言わば国家事業のような側面さえ孕んだ体裁の上に成り立っている薄氷なのだ。
それほどにミドラースという名前の価値は重く。こうして数人で訪れるだけでも一年以上の下準備が必要な一大作戦。
けれどようやくその第一歩を、今日明確に踏みしめることができる。
本題はこれから。とりあえず個人的な疑問は横へ置いて目の前に集中する。
体裁としてはミドラースにおける現地調査部隊として、軍属のユーリアと英雄的妖精のヘルフリートの名前を筆頭に、小規模な探査任務を行うという形での探索となる。
当然ながら普通ならば許可などされない。けれども一年以上をかけて直接許可を取り付け、建前の裏にクラウスという無視できない影響力で補強して、今回の無理が成り立っているのだ。
学生の身で反転術式を開発したり、その能力を露草姫に買われて回帰の揺籃歌の開発に協力したり。
彼が残してきた功績をしっかりと精査すれば、今ここで失っていい人材ではないと説得の一欠片に出来るくらいには、埒外で無法な有望株。
だからこそどうにか漕ぎ着けたこの瞬間であり、ここからだ。
失敗は、多方面に負債を生む。
ともすれば一世一代と言っていいほどの、大冒険だ。
もちろん失敗するつもりなど微塵もない。が、準備をしないのはそれとはまったく別の話で。
私達の胸の内など端から知っているカイも、無駄なことは一切言わず淡々と必要事項だけを並べ立てて。
逸る気持ちをどうにか抑えながら纏まった話は、まず夏季休暇中に一度足を運んでみようと決まり。早ければそれだけ後に余裕を持てると急かされれば、予定に刻み込まれたのは明日の早朝。
国からの支援の準備はカイやアンネの方でしてくれるというので、ユーリアたちは詳しい話を聞き終えた後各々帰途に着く。
中身の薄い会話をしながらの道中、ヴォルフと別れた後、卒業したはずの学院へと共に足を向けたニーナ。
そこで初めて知ったことだが、どうやら彼女は無理を捻じ曲げて男子寮のテオの部屋に転がり込んでいるらしい。巻き込まれて追い出された元同室のマルクス・アルテルフは、一つ余っていた空室でのんびり一人暮らしだそうだ。
ニーナがそこまで惚れ込んでいると聞いたときには胸焼けしそうに思えたが、アンネ辺りに言わせれば私も同じような話なのだろうと客観視して。
けれどそれに恥ずかしげもなく胸を張れば、ニーナの気持ちも理解できた気がしたのだった。
翌日、呼び出しに応じて準備を整えブランデンブルク城に向かえば、そこ用意されていたのは馬車。道中の案内と世話係として同行するのは当然の如くアンネ。彼女も大概責任感が強いと。
朝早くにも関わらず、見送りには話を聞いたのだろうエミやレベッカに加え、なんとなく見覚えのあるそばかすが印象的な女中服の女性も並んでいた。
ニーナとテオが特に挨拶をしていたようだったが、残念ながらユーリアの記憶にはないにも等しい。どこかで見た気もするのだが……。
けれどそんな疑問は過去を振り返ることの少ないユーリアにとっては些細なことで、直ぐに記憶の彼方へ。覚えていないということは、きっと私には関係のない誰かなのだ。
道程は片道だけで数日。ミドラース探索も含めれば、帰って来るのは夏季休暇の終わり間際。
学生らしく遊ぶ時間もなければ、そんな気持ちの余裕もない。
一日でも早くクラウスの目が覚める方法を探し出したい。そんな衝動が胸の奥を炙るように焦がし続け、どうにもじっとしていられなくなる。
出発からしばらく。周囲の景色が緑に溢れ、路面の振動に体が慣れ始めた頃。ずっと手綱を握って御者代に座るアンネに声を掛ける。
「疲れたなら代わるわよ?」
「大丈夫だよっ。仕事柄お客さんの送り迎えとかしてるから慣れてるし。暇なら話相手になってくれると嬉しいけどね」
どうやらヴァレッターの仕事内容には要人の送迎も含まれているらしい。ユーリアにとっては苦手な部類の仕事だ。狙撃の為にじっとしているのは別に苦ではないのだが……一体何の違いだろうかと。
考えつつ身体能力にかまけて歩みを止めない馬車から一度外へ。すぐに御者台に飛び乗り、彼女の隣に腰を下ろす。
一瞥をよこした親友は、私の胸の内を見透かしたように小さく笑って他愛のない雑談を紡ぎ始める。
「ユーリ進路は?」
「…………どうしようかしらね。アンネは?」
「多分ユーリ次第」
「何よそれ」
幾らユーリアと言えど彼女の将来までは背負えないと視線を向ければ、どこか諦めたように紡ぐアンネ。
「……私さ、クラウス君の専属の傍付きだよね」
「そうね」
「だったらクラウス君の行くところに着いて行くのが道理だよね」
「………………」
彼女が何を言いたいのか。真剣な水色の瞳の奥に野望にもならないあわよくばを見て、苛立ちを募らせる。
「……で?」
「後はユーリの想像してる通りだよ。雇ってくれるかな?」
「…………駄目よ」
「どうして?」
「よくもそんな惚け面が出来たものね」
呆れるように告げれば、楽しそうに笑みを浮かべるアンネ。
彼女の言いたい事は簡単だ。どこかで描いている理想には、彼女の言う通りに卒業後クラウスと暮らすという景色もある。いわゆる同棲……ユーリアには、それだけの覚悟はあるつもりだ。
そうなればアンネは契約に基づいて首を突っ込んで来るだろう。そうして、引っ掻き回して彼を奪っていくかもしれない。アンネがクラウスの事を諦めていないのは彼女を見ていれば分かる事だ。
けれどそんなの、ユーリアは許せない。それならまだ顔も知らない使用人を雇う方が精神衛生上いいだろう。
「……別にね、私にその気がないわけじゃないよ? だって他の誰かを好きになるなんてありえないから。でも私にしなくて困るのはユーリだよ?」
「何でよ」
「今回のこれは何?」
「クラウスの……ミドラースの調査任務ね」
いきなり跳んだ話題。目の前に合わせられた焦点に表向きの理由を返す。
「色々調べたらね、ミドラースってクラウス君の目指していた野望に近い事が分かったの。もしそんなところで仮に何か発見があったらどうなると思う?」
「……世界的に動きがあるでしょうね」
「それに最初に手を伸ばしたのは?」
「それは私達が…………っ!」
「そうだよね。その手柄は、きっとクラウス君が利用する」
幾ら実行に移したのがユーリアたちでも、ここに居るのは委員会の面々とクラウス専属の傍付きであるアンネだけ。言ってしまえば、彼の私兵部隊だ。
幾ら横暴であろうとも、隊の成果はその長のものになる。ならば目を覚ました彼が言いがかりでも振り翳して、お得意の理詰めで利用してしまうだろう。
そうして世界に刻まれる彼の名前。
大きな躍進の一歩は世界に波及し、やがて最初に偉業を成し遂げた者として羨望され、嫉妬されるだろう。
「クラウス君の手柄になったら、狙われるのはクラウス君。英雄みたいな扱いを受ければそれをよく思わない人たちも出てくるだろうね。その人たちの差し向けた者が、例えば使用人に扮してクラウス君に近付いたらどうなるかな?」
「……………………」
語らなくたって見える結末。だからこそと指を一つ立てたアンネは薄く笑って告げる。
「私達にしてみれば誇りだよ。なにせ大好きなクラウス君だからね。だったら守らないと。クラウス君が自分さえ駒にしてるのは知ってるでしょ? だったら彼を守るのは誰の役目? どれだけの手が必要?」
尤もらしい理由な事だ。もしかしてユーリアの居ない間ずっとそんな事を考えていたのだろうか。
「信頼できる人で周りを固めるのが鉄則。少なくとも、私はクラウス君をどうにかしようなんて思わないよ?」
「……………………条件付きよ」
「どんな?」
「私とクラウスの邪魔をしないこと」
「もちろん。ユーリのことだって大好きだからね。……けど、もしクラウス君の方から手を出された時は許してね?」
よくもそんな言葉がユーリアの目の前で吐けたものだと。視線に宿る光を強くすれば、いつものように笑みを浮かべるアンネ。
全く、どうしてこんなのが私の親友なのだろうか……。
「その時は幾らアンネと言えど容赦しないわよっ」
「そうなる前に毒でも盛るから大丈夫♪」
やっぱり誰よりも危険なのは彼女だと。
けれどどこかで安心している自分にさえ呆れて、小さく溜め息を吐けば遠くに川が見えてくる。
国境でも、ましてや領境でもない。まだブランデンブルクの王都……その寮内から出てすらいない。これから幾つも超える有り触れた景色だ。
けれどもようやく、物理的な意味でも近付いた距離。気持ちが動かないなんて嘘に決まっている。
旅行などでは決してない。任務ほど生易しくない。この未来には、私の全てが詰まっているのだ。
未知にして無謀。それら全てを乗り越えて、クラウスを連れ戻す。
ようやくここまでやってきたのだと実感を抱きながら緑生い茂る道を行く。絶対に手にするべき未来は直ぐそこだ。
街道をひたすら進み、初日で二つの領を超え。それでも半分の半分すら至らない遠い目的地に思いを馳せながら。
宿で休み、食事を取って、携行品を補充して、再び一路ミドラースへ。
そんなことを飽きる程繰り返して、ようやくミドラース最寄りの領地へ到着する。
国境と、ミドラースという秘所の維持。騎士も多く駐留するこの地は伯爵領で、治める辺境伯様は俗に国境伯とも呼ばれる国防や世界安寧の大事な柱の一つだ。
騎士の中にはこうした最前線に身を置くことを目的をする者もおり、こうした地での経験を誇りに思う者もいる。
国境付近は基本的に精鋭が、長期間送られる場所ということもあって、国軍に入って日の浅いユーリアが知らない顔も多数存在する。
が、肌で感じられる情報は多く、実力者や先の大戦経験者など、一目見ただけでそうと分かる強者が多数見受けられた。
もしかしたら、私も将来的にこうした場所へ配属されるのかもしれないと。……そうした場合、彼とは離れ離れになってしまうのだろうかと。
微かに過ぎった想像は、けれどもこの先に彼を取り戻さなければ悩むこともできない贅沢だと、目的達成の燃料へと変える。
絶対に、答えを見つけて帰るのだ。
そう意欲を燃やしながら、一泊。
領主様にも再度許可を取ってミドラースの地へ踏み入る準備を整え、馬車に揺られる。
しばらくして見えてきた砦に辿り着けば、アンネが許可証を提示してそのまま殆ど止まることなく未知の領域へと足を踏み入れた。そうではないはずなのに、空気が変わった錯覚さえ覚えて、息を詰める。
最初こそ道らしい物はあったが、進むに連れていつしかそれもなくなり、気付けばいつの間にか大自然の中。
方向感覚が狂うほどの辺り一面緑の壁。高く聳え立つ木々の隙間から差し込む木漏れ日が眩しいほどに薄暗く、足元も延び放題の草の絨毯。獣道さえない自然の空間。
馬車で乗り付けられる限界まで辿り着くと、足を押し返すほどの鬱蒼とした緑の絨毯を踏みしめる。
地図上で空想した限りではミドラースの中心部まではそこまで時間は掛からないはずだが、それよりも恐ろしい者がここには存在する。
そんなことを考えながら前を見れば、ここに来るに至った最初のきっかけ──アルが、静かに飛びながら森の奥へと進んでいく。
ユーリア達が目指す場所。それを考えれば、妖精である彼女には何かが見えているのだろうか。
物語の一節のように、妖精の後を追い駆け道なき道をかき分けて進んでいると、前を先導するように飛んでいたアルが不意に人化の妖精術を使って人間大に大きくなり足を止める。その背中には二対四枚の虹色の翅。不完全な人化。
「……ここから先は人間が入ったら気紛れでしか帰ってこられない場所。覚悟はいいかしら?」
「因みに気紛れってのは?」
「…………妖精の戯れよ」
テオの疑問にアルが困ったように答える。どうやら彼女は何か知っているらしい……が、それを聞いたところでユーリア達にはきっとどうする事もできない。ならばそういうものだと納得するだけ。
「手を出して。繋いでないと瞬き一つした瞬間にどれだけ近くに居ても見失うから。ここはそういう場所なの」
「…………妖精の国」
知らず呟く。けれどアルはそれに頷かない。前に言っていた通り、彼女にとってここはそう呼ぶべき場所ではないのだろう。
物語の中で語り継がれる幻想の都。妖精の故郷にして、彼女達が本来居るべき隣の世界。
妖精は何処より来たりて何処へと向かうのか……。その問の答えに、きっと最も近い場所。彼が欲した、その終着点。
肌が震えるのは辺りに妖精力を感じるからだろうか。別に誰も妖精術なんて使っていないのに……。
その不思議な感覚……胸の奥を擽られるようなざわめく感覚に覚悟を決めて、彼女の手を握る。もう片方は隣に居たアンネ。
「……行こう。クラウス君が待ってる」
「えぇ」
彼女の言葉に頷いて踏み出す一歩。刹那に、景色が一変する────
溢れた光。何かの膜を通り抜けた感覚は、次の瞬間視界を七色に染め上げる。
空から差し込むのは金色の光。それに照らされるのは天を貫くほどに伸びた木々に揺れる赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の葉。それから天へと昇っていく幾つもの光の泡沫。頬を撫でる風さえも肌どころか回路を刺激して温かく体の中で唸る。
まるで御伽噺の世界だ。……いや、そうか…………だから御伽噺なのだ。
あるはずのない妖精の尻尾を追いかけるような夢物語。人の世界では童話や英雄譚という形を持つそれらの総称に納得する。
「離れたら置いていくから」
響いたアルの声に現実に引き戻されて前を見る。
とても幻想的で不思議な場所。肌を刺激するそこら中に溢れた妖精力が、ここは妖精が居るべき場所────人がいるべき場所ではないと、知らず教えられる。そんな景色にフィーナたち妖精ですら辺りを見回していた。
こんな場所が、世界の中心にあったとは……。
先ほど感じた、膨大な妖精力の塊。恐らく壁のようなそれは、きっとこの地を守護する結界のような何かだったのだろう。出なければ、一歩で景色が様変わりするなんてありえない。
まさに異界というべき、境界線の向こう側。きっと人の世界ではない──なにか。
今まで自分を構成してきた常識の外の、さらに裏側。そんな埒外に居場所を探すように、辺りを見渡しながら。
繋いだ手のひら。その先にいる短く黒い髪の、人間大の妖精の少女を見つめる。
これまで組織された研究班でさえここにはきっと立ち入っていない。そんな場所につれてきてくれたアル。
彼女は一体何者なのか……。そんな疑問が渦巻いて、それから理不尽な納得の理由を見つける。
彼女は、クラウスの選んだはんぶんの一人だ。ユーリアにとってはそれでいい。
考えながら歩き続ける事しばらく。変わらない現実離れした風景が、やがて大きく開けた空間に出る。
辺りを見回せば瓦礫のような大きな欠片が地面に突き刺さり、その表面には緑の苔が沢山見える。あの塊は恐らく……人工物。人の手によって創られた何かの残骸だ。妖精の地であるここに何故……?
「あ……」
と、募る疑問に答えを見つけようとしていると離れた手のひら。思わず零れた声にアルの方を見れば、彼女は意地悪に笑って告げる。
「ここなら大丈夫よ。少し待っててくれるかしら?」
「え、えぇ……」
今更彼女の言動に変な勘ぐりはしない。そもそも、アルがいなければここまで来る事は出来なかったはずなのだ。
砦を通過してからずっと、彼女は全てを知っているように前を歩み続けていた。
何よりも今までだって、不思議な言動をする妖精だったのだ。彼が選んだ妖精なのだからそれだけの意味はあると思っていたのだが、覚悟していても尚その全容が分からない。
彼女は一体何を知っているのか。彼女の思惑とは一体……?
仕方の無い疑問が頭の中を埋め尽くす。
「……すごいね、ここ。見た事無いや…………」
声は隣のアンネから。未だ握ったままの手のひらは互いに離そうなんて思わなくて、ここに居ることへの場違い感から身を寄せ合うようにして自分を繋ぎとめようとする。
もしユーリア一人だけだったなら、こんな場所で自分を見失わずには居られない。
「妖精の国……ではないのよね」
「彼女がそう言ってたからね」
それはユーリアたちがミドラースの許可を貰いに行く前、集められて方針を固めた時に聞いた言葉。
妖精の国がないからクラウスはつくりたいと野望を振り翳した。つくりたいということは今はなくて、だったらこの場所は妖精の国では無いということなのだろう。人の住む土地というには些か野生的過ぎるか。
「何だっていいわよ。クラウスを助けられる手段があるなら、それを利用するだけだもの」
「……ユーリ、随分変わったね」
「アンネに言われたくないわよ」
お互いを認めるようにいつも通りやり取りをしながらしばらく待てば、やがて森の奥へと消えて行ったアルが戻ってくる。彼女の隣には妖精が一人。
眩い金色の髪を揺らした女の妖精。彼女の事は事前の調査である程度見当がついている。
「貴女がマブさんですか?」
「……名乗る手間が省けたわね。とはいえそれは妖性として。わらわ個人を指すならばメーヴと呼んで欲しいところね。ようこそ、妖精の宮廷へ」
フィーナの問いに答えて妖精、メーヴが薄く微笑を浮かべる。
妖精の宮廷。物語に時折登場する幻想の土地で、妖精の住まう宮殿の名称だ。ここはどうやら、妖精の国ではなく妖精の宮廷らしい。と言われても、辺りに城らしき建物は見当たらないのだが……。
考えつつ少しだけ辺りを見回して。それから隣に立ったアンネがメーヴを見据えて告ぐ。
「メーヴさん。今回は貴女にお願いがあってきたの」
「何、蜂蜜酒でも欲しいのかしら?」
「え…………?」
「違った?」
返った言葉。心の底を言い当てられたような真っ直ぐな響きに思わず聞き返す。
これはここへ来る前にアンネから聞いた話だが、マブの作る蜂蜜酒はいわゆる秘薬らしい。
妖精の病に聞く万能の酒で、それを口にすれば妖精の見えない者でさえ契約を交わすことさえできるようになると謳われる、超常染みた言い伝え。今までは想像でしか語られた事はなく、誰一人としてその杯を手にした事はないとされ、これまた御伽噺に登場するだけの極めて稀にして……あるのかも定かではなかった想像上の産物。
それが本当に存在すると、目の前の彼女の言葉で立証されて面食らう。
「ねぇアル。そういう話って記憶してたんだけど……」
「知らないわよ。貴女の未来視が間違ってたんじゃないの?」
メーヴの隣に浮かぶアルに向けて小さく零すメーヴ。どうやらユーリアたちが来ることを知っていた様子。かの妖精王オーベロンだって未来を知る事が出来たと語られるほどだ。先ほどの名乗りからしてきっと彼女が今この土地を統べているのだろう。
いわば彼女が妖精達の現在の王様。ならば未来予知くらいのこと、できて当然なのかもしれない。
「あ、いえ。欲しいのはその通りなんですけど……例えばそれを人に飲ませた場合、妖精の悪戯や干渉が原因でずっと眠っている人を起こす事は可能ですか?」
「さぁ……。ただ可能性は捨てきれないわね」
どこかつまらなそうに答えるメーヴ。曖昧で不安定な答えに訝しみながら、けれどそれ以外の方法がないのだと割り切って頭を下げる。
「……分かりました。それでは改めて。蜂蜜酒を少し分けてもらえませんか?」
「見返りなしは駄目よ」
「…………はい」
真実と誓約を愛し、裏切りを悪とする妖精、マブ。彼女との取引に約束事は不可欠だ。
「……ではわらわの願いを聞いてもらうとしよう。それが呑めるなら小瓶を授けよう」
ニーナ達へと視線を向ければ、全員が頷いて返す。もちろん彼女が願い事を一つだけ、と言わなかったことには気付いている。けれど幾らだって答えるつもりだ。そうして彼が帰ってくるのならば、たったそれだけの犠牲は厭わない。
「蜂蜜酒に誓って」
「いい返事ね、人の子。その言葉が偽りでない事を信じさせて頂戴」
言って手招きをするメーヴ。彼女に導かれて近くまで行けば、中空に虹色の球体が生まれて、そこから透明な小瓶が一つ降ってきた。咄嗟に受け止めれは少しだけ温かい。中には黄金色に輝く蜂蜜酒。
「手を出して」
と、大事にそれを手に持てば響いたメーヴの声。顔を上げて言われた通りに右手を差し出せば、彼女はその甲を手に持った小枝で軽く叩く。
刹那に、虹色の光を発して手の甲へと浮かび上がった刻印。天秤の両端に杯が吊るされた文様。
「ここにメーヴの名において禁忌を刻む。誓い守りし者には祝福を。破りし者には禍を──」
虹色に輝く刻印を見つめて拳を握る。
これがマブの求める真実の誓約。偽りなき誓い。
一体どんな無理難題を押し付けられるのだろうかと……。考えつつ、けれど今はどうにか得られた結果に満足する。
「その内気が向いたらお願い事をするわ。その時に必死になって応えて頂戴」
「はい」
「…………さて、帰るわよ」
「……アル、帰ったら話があります」
「勝手にしなさいな」
メーヴの言葉に頷けば、逃げるように来た道を戻り始める黒髪の妖精。今一度妖精の女王に挨拶をして、それから直ぐにアルの後をついて歩き出す。
そんなアルに声を掛けたのはフィーナ。彼女は真剣な表情を崩さないまま詰問するように音にする。
彼女の胸にある疑問は、ここに居る誰もが抱くものだ。
先ほどの一幕だってそう。アルは、メーヴと面識があったのだ。
何を隠してるかなんて知らないけれど。そこにある真実は紛れもなく妖精の根源に迫る何か。それを知りたくないと言えば嘘になる。
けれどきっとユーリアたちが問うたところで彼女はそれに答えない。それを引き出せるのは、彼女が選んだ彼だけだ。
すべては彼が帰って来てから…………そうだ、何よりも、ユーリアにとってはそれが一番大切なことだ。
とりあえずの目標は達した。今は、それでいい……。
何よりも様子見でやってきていきなり目的のものが手に入ったのだ。これ以上無い進展に彼の事を想えば、ユーリア個人の疑問など些細なこと。
納得を導き出すように自分に言い聞かせれば、気付けば辺りの景色が見慣れた緑の森へと変わっていた。
* * *
「それからここへ帰って来て蜂蜜酒を僕に飲ませて……それでようやく今に繋がると」
「えぇ。……退屈で、有り触れた話だったでしょう?」
「…………そっかぁ、マブか……」
遠い記憶に思える自分の知識を遡ってその名前に少しだけ嬉しくなる。
アンネがクラウスの部屋で見つけて手がかりにしたように、クラウスも随分早い段階……イェニー女史にあの本の名前を聞いた後くらいには、同じ結論に至っていた。
妖精の国は今は存在しない。けれどそれと似た場所がミドラースには存在していて、そこに今の妖精達を統べる存在が居ると。
クラウスの手では明かしきれなかったその真実に彼女達は手を伸ばしてくれた。クラウスがするはずだった役目を成し遂げて、その答えを立証してくれた。
その事に嬉しくなる。
「……随分な大冒険だったね」
「クラウスの為なんだから、感謝しなさいよ?」
「もちろん。何より、ユーリアがここに居てくれる事にとても嬉しく思ってる」
そして何よりも、クラウスに意味を見出してくれた彼女に、感謝をしている。
ようやく手に入れたのだ。クラウスが欲した、クラウスにとっての正義。クラウスの、大切な人。
「ずっと待ってたのよ。帰って来てから蜂蜜酒を使っても、中々目を覚まさなかった。意識はあったのにそれでも半年ほど眠ってた。効果がないかもしれないって、別の方法を探す案もあった。けど、…………待っててよかった」
そこに居る事を確かめるように、クラウスの胸へと顔を埋めるユーリア。その綺麗な髪を優しく撫でて噛み締める。
クラウス個人の感慨で言えば、どちらも意味があったのだ。
クラウスが眠っている間、こちらの世界では彼女達が手段を求め続けて。クラウスはクラウスで魂だけの存在でありながらオーベロンとタイターニアに認められ、ピスカの力を借りてその妖精力から歪んだ波長を消し去って。
彼女達はクラウスを連れ戻す為にマブのところまで行って蜂蜜酒を手に入れて。
きっとどちらが欠けても戻ってこられなかったはずの、まるで仕組まれたような幸運だ。
裏返せば、それだけクラウスが認められているのだと驕る事が出来る。この先に、クラウスの求める野望がある事を示している。
「……ねぇクラウス。クラウスは、妖精の国を目指すのよね?」
「…………そうだね」
「そこへ、私も一緒に連れて行ってくれる?」
縋るような瞳。真っ直ぐに揺れる紫苑の双眸に射抜かれて、クラウスは静かに笑う。
「……もちろん。ユーリアは僕の唯一だからね」
「ん…………」
答えれば、契りを結ぶ様に重ねられた柔らかい感触。随分と長く待たせた礼だ。今だけは彼女の気持ちに存分に答えるとしよう。
…………そんな言い訳よりも。ただ単純に僕がそうしたいだけかもしれない。
少しだけ正直になって、それからユーリアを受け入れて。
交わした甘く苦しい繋がりを少しだけ離せば、とても嬉しそうに微笑を浮かべるユーリア。
そんな彼女にまた一つ溺れて。再びいつも通りに戻ってくれば疑問を零す。
「卒業式いつ?」
「二週間後。休学扱いだから復学手続きとかしないとね」
「それじゃあそれまでに歩ける程度までは回復したいけど……」
「いざとなったら私が運んであげるわよ」
記憶の中のユーリアでは考えられないような甘い言葉に小さく笑って。そうしてずっと疑問だったもう一つを尋ねる。
「ユーリアもそうだけど。みんなの力があったから戻ってこられたんだよね。だったら、功労者であるフィーナ達とも少し話がしたんだけど…………彼女達は?」
「………………………………」
その言葉に、ユーリアが僅かに瞳を曇らせる。
ずっと、何かがあると思っていた。
クラウスも薄々気付いていた。
ここに戻ってきてから、クラウスは一度たりとも妖精の姿を見ていない。彼女達と話をしていない。
リーザたちは他人の契約妖精だから。こんな深夜ならば部屋で寝ているのだろうと理由は見つけられた。
けれどフィーナやアルは違うだろうと。彼女達は、クラウスだからとずっと傍に居てくれたはんぶんだ。
ここまで尽くして戻ってきて欲しいと願い続けてくれたのは、今までの話で痛いほど分かっている。
それなのに傍にいないというのは少しおかしな話だ。クラウスだって、目が覚めて一番最初に目にするのは彼女達だと思っていたのに。
それを確認できていない。
「……言ったわよね、クラウス。話をしたら真実に向き合う事になるって」
「うん」
「だったらこの事実も、受け止めて」
そうして告げる言葉。
アンネたちが逃げ回っていた、たった一つの今という答え。
「クラウスの体は今、妖精従きでも────妖精憑き(フィジー)でもないの。妖精との交信が、できないの……」
「え…………?」
蜂蜜酒に踊った即興曲は、クラウスを新たな舞台へと押し上げる。




