第九章
「何で話をしたのよ…………」
気付けば病室の出入り口に立っていたニーナ。彼女は恥ずかしそうに視線を逸らしてミアを糾弾する。
「……だってそうしないと…………。私だって本当はこんな事話したくなかったよ」
「最初に自爆したんだよ。俺の所為じゃないからな?」
ミアの視線から責任逃れをするテオに思わず笑う。
全く、クラウスがいなくたって世界はいつも通りで。そんな面白い事があったのに、そこに自分がいられなかった事に悔しささえ滲む。
本当に、失敗したと。色々な後悔を積み重ねて、それでもここにいるのだと。
「クラウス君、体調は?」
考えているとニーナの後ろから顔を覗かせたアンネ。どうやら彼女も起きてきたらしい。その顔に、まだ少し疲れは見えるけれど、指摘するだけ無粋か。ここで彼女の機嫌を損ねると後が怖い。
「大丈夫だよ。お腹は減ってきたけど……」
「経過を見て流動食から固形食ね。一日も早く復帰したいなら適当に無理をする事ね」
「従っとく方が身の為だぞ。フェアリードクターと言えど妖精だけじゃなくて妖精従きの容態も診るんだ。変な医者よりよっぽど的確だ」
テオの言葉に尋ねる。
「なれたんですか、フェアリードクター……?」
「夏にね。試験は年二回あるから。あたしくらいになれば万全なら普通に通るわよ」
その自信こそがニーナである証だと。テオに聞いた話のニーナはらしくなくて、少しだけ居心地の悪い物を感じていたが、それはその時だけ。
随分な偶然が重なって落ち込んでいただけで、いつもの彼女はこれが本領。……様々な経験を経て、少しばかり記憶より不遜になった気もしないでもないけれど。
「流石にあたしが面倒見るわけにはいかないけれど、助言くらいならするから何かあったら言って頂戴。早く戻ってきて貰わないとあたし達の努力が実らないから」
ニーナの言葉に頷く。
そうだ。クラウスは許されて、ここにいる。彼や彼女達に助けられて、今一度ここに舞い戻ってきたのだ。
「……それで、話はまだ終わりじゃないよね? 個人的に一番大事なところ……どんな方法で僕が戻ってきたのか、それを聞かないと」
「そうだなぁ……けど少し喋り疲れたし、誰か代わってもらえないか?」
ようやく戻った本題。その先を催促してテオに言葉を向ければ、彼は疲れたように笑う。
そう言えばもうそろそろ陽が昇ると。クラウスの感覚にしてみればまだ寝て起きて半日も経っていないのだが、彼らにしてみればそれまでにもやるべき事があって、寝る時間まで割いて付き合わせたのだ。
そろそろ限界だろうか。
「別に今日じゃなくてもいいけどね」
「なら私が代わりに────」
言って名乗りを上げてくれたのはアンネ。休息をとって少し元気の戻った彼女がまた語り部を進言して……けれどそれとほぼ同時、クラウスの足の方で身動ぎをする気配。
少し賑やかにしすぎたかと。思わず口を閉ざした空気にアンネが笑って、それから彼女の肩を揺する。
「……ユーリ、起きて」
「…………んぇ……?」
寝起きが弱いのは昔のままか。
情けない声と共に体を持ち上げたユーリア。その仕草に、長く綺麗な黒髪が揺れて、擦った視界に妖艶な紫苑の瞳と交わる。
「おはよう、ユーリア」
「……おは────えっ、クラウスっ!?」
「遅いお目覚めだね、眠り姫」
「なっ……だ! ……それはクラウスの方でしょうがっ」
「病院だよ、静かに……」
段々と覚醒していく彼女が、その事実を受け止めて慌てる。
そうして、周りを気にしないままに彼女が抱きついてきた。思わぬ衝撃に持ち上げていた上体が寝具へと押し倒される。
「ほ、本物、よねっ? 嘘じゃないわよねっ? 夢じゃないわよねっ!?」
「……ん、痛いって感じるくらいには現実かな」
「うるさいっ!」
理不尽に怒鳴られて、けれど小さく笑うと、胸に顔を埋めた彼女の後頭部を優しく撫でる。
次いで聞こえた啜り泣き。病衣に染みる暖かい感触に……何よりも彼女自身の温かさに、事実を噛み締める。
「おかえり……クラウスっ」
「ただいま、ユーリア」
それから彼女が泣き止むまで、その綺麗な髪を梳きながら時を過ごして。
空気を察してくれたのか、アンネたちは早くに病室から姿を消した。そこまでお膳立てされると、流石に少し気恥ずかしいけれど。
「……落ち着いた?」
「…………ん、ごめん」
「謝らないでよ。それに、感謝をするべきなのは僕の方でしょ? きっと、ずっと看病してくれてたんだろうから。今日だって、ずっと傍にいてくれた」
胸に顔を埋めたまま、びくりと肩を揺らすユーリア。そうして僅かに動くたびに、彼女の柔らかさが押し付けられる。
そういえば、彼女とこうして直接的に触れ合うのは初めてだと。だから余計に彼女の事を感じるのだろう。
華奢な体。柔らかい肌。線の細い輪郭に、美しい髪。それから、今は見えないけれど、泣き崩れた整った顔立ち。香る彼女の匂いには、ここが病院だという事すら忘れさせるほどに強く。ユーリアはクラウスを強く抱いて離さない。
どんな状況であってもクラウスは男だ。性として、仕方なく女性を意識する事は止められない。そこばかりは仕方ないと何かに言い訳しつつ、けれど出来る限りいつも通りを装って湧き上がる衝動を押し殺す。
まだ駄目だ。まだ、許されていない。
現実逃避にそろそろ痛いのも慣れてきたと。別の思考逃避行を考え始めた頃に、ようやくユーリアは顔を上げる。
綺麗な顔に残る涙の後を指で拭えば、彼女は擽ったそうに目を閉じる。
「…………ん。ずっと、待ってた」
「それは、どれを?」
彼女には二年前に残した物が多すぎる。
そのすべてが、これから彼女に返すべきクラウスの業だ。
「そんな色気のないこと言わないで……」
「…………その髪留め、よく似合ってるよ」
拗ねるような口調、逸らした顔。その仕草に揺れた前髪と、そこに光る青色の髪留めに指を添える。
それは、クラウスがユーリアの誕生日に送る予定にしていたものだ。直接、彼女の元へ届くように日時指定をしていたお陰か、クラウスが倒れた後でも順当に彼女の手元に渡ったらしい。
妖精力と親和性の高い鉱石を削って作られた一点物。その気になればクラウスの愛用するあの短剣と同じように、妖精術を一つくらい込められる代物。もちろんそれなりの値段はした。その点は反転術式や連結術式の見返りに大いに感謝だ。
もちろん値段よりも彼女が似合うかどうかという基準が一番だ。
その髪留めを、ユーリアは当たり前のように身に着けてくれている。
「……意識を失ってまでこんなものを送り届けてくれるんだから。使わないと失礼でしょ?」
添えたクラウスの手に重ねるように自分の手を宛がって、それから優しく微笑むユーリア。
その、過去に見た事がないほどに嬉しそうな笑みに、思わず押し込んだ衝動が再び競りあがる。
語った言葉も。見せた表情も。二年前とは比べ物にならないほどに妖艶で、気持ちの篭った仕草。……いや、比べるのは無粋か。あの頃だって、表現の仕方が少し特殊だっただけで、気持ちは変わらないはず。
ただその思いを、二年経った今、彼女は恥ずかしげもなくクラウスに見せてくれる。その変化に、クラウスだって軽口を叩けるほど子供ではない。
気付けば交わっていた視線。
真っ直ぐに光る、宝石のような紫苑の瞳。吸い込まれそうなほどに深い色を湛えたその奥に、クラウスは確かに言葉にならない色を見て取って────
「……ん…………」
微かに触れ合った繋がりに、やがてユーリアは逃げるように顔を逸らした。
「……順番が、逆でしょうが…………」
「やり直す?」
「それこそ嫌よ……」
呟きに小さく笑って、それから静かに音にする。
「ちょっとばかり遅くなったけど、最後のユールの贈り物、してもいいかな?」
「随分気の長いちょっとね……。けど駄目、それは、私から言わせて。そうじゃないと、納得できない」
それは二年前に交わした彼女との約束。
────私と、クラウス。今抱えてるその二つが片付いたら、そしたら
その答えを、返す時だ。
ユーリアにしてみればずっと吐き続けてきた嘘。クラウスの軽口を戯れだと……それ以上だと気付いてなお、ずっと背け続けていた気持ち。
この二年で、彼女にも何かがあって、心情に変化を齎した。
だからこそ、クラウスだって必死におどけて来たユーリアとの思い出に、彼女から答えを返す事によって、向き合いたいのだろう。
格好がつかないから、やっぱりそういう事は男のクラウスからさせて欲しいのだけれども。これまで全ての答えを彼女に託してきたように、今回だってそうするしかないと気付けば、諦めにも似た懇願が胸を突く。
逃げ続けてきたユーリアが、今一度本当に素直になる為に。
「好きよ、クラウス。愛してる。答えは要らない。ただ私のものになって」
何処までも真っ直ぐで、何処までも情熱的な気持ち。
返す言葉なんて、二年前から決まっている。
「代わりにユーリアをくれるなら、僕はユーリアだけのはんぶんになるよ」
答えれば差し出された左の手のひら。その白く細い手をとって、薬指に口付けを落とす。お返しにと、クラウスの左の薬指にも微かな感触が触れる。
「裏切ったら殺すから」
「一緒に死ねるなら本望だよ」
飾らない言葉で答えれば、彼女と再び唇を重ねた。
それからしばらく睦言を囁きあって。けれどしかし、出来ない事と衝動を押し殺したまま、ようやく互いに少しだけ距離を置く。
それは安心というには少しだけ残酷な、繋がり。誓い合った言葉が満たされるように紡いだ幾つもの確認。その上にようやく、互いを認めて一つ落ち着きを取り戻す。
まだまだ二年間を埋めるには至らない。彼女の欲はきっと満たされていない。けれどとりあえず、今一時安堵するだけの繋がりを見つけて、腰を落ち着ける。
そうすれば、やはり間に転がった恥ずかしさ。幾らクラウスと言えどこの距離感は初めてだ。これまで誰にだって許してこなかったそこに、大切な人がいる。互いに気持ちを確かめ合って、認めたからこそ余計に違和感のように重く蟠る。
けれどそれが当たり前なのだと。クラウスが望んだ唯一なのだと納得すれば、どうにかいつも通りを取り戻す事が出来た。
ユーリアも、やっぱり落ち着かない様子で身動ぎをしていた。頬を染めて、視線が合うたびに肩を揺らして。そんな愛らしい姿に幾度も胸を打たれながら。長い沈黙の後に彼女も整理が着いたのかようやく一つ息を吐いた。その吐息が熱っぽくて、また少しクラウスの心がざわついたのは、彼女に対する確かな気持ちの証だと。
「…………えっと……。だから……っ!」
紡いだ音は細く消える。
もう既に、ユーリアの方は目的を見つけられないままに溺れているようで。クラウスだってようやく戻ってきたのに、また泥沼に嵌りそうだと苦心しながら声を掛ける。
「ユーリア」
「はいっ」
随分な緊張だね。そんなにしおらしいユーリアはやっぱり新鮮だ。
けれど意識して客観視すれば、どうにか慣れの端を掴む。
「……僕がいなかった間、何か変わった事はあった?」
「…………いろいろ、あったわよ」
「幾つかは先輩達やテオ、それからアンネさんにも聞いたんだ。僕の為に動いてくれたって」
「なら大体その通りよ。クラウスが戻ってこられるように、色々な手を捜したの」
空気から逃げるように事務的な物言いで零せば、ユーリアもそれに乗っかっていつも通りの口調で話を続けてくれる。
よかった、これで色々と元いた場所に戻れそうだ。
「ただその詳しいところ……確かな方法論とかを聞いてはいないから、それを聞かせてもらえたらとは思うんだけど……」
呟けば、ユーリアは僅かに視線を逸らす。
彼女もか。
四人……ミアも入れれば五人だが、それぞれの話を聞く中で、クラウスの居ない二年間を語ってくれる彼らはどこか、その結末から逃げるように明確な事を口にはしなかった。
それどころか、話そちらにが及びそうになると、聞きたくもない身の上話で逸らされもした。
お陰でアンネの覚悟やヴォルフの確かな一歩、テオとニーナの進展にミアの事まで知れはしたが、そもそもクラウスが聞きたいのはこうして戻ってくる事が出来たその詳しい方法論。
「よかったら聞かせて欲しいんだけど……」
「…………多分、迷ってたんだと思う」
「迷う?」
沈黙の後に零れたユーリアの声に聞き返す。
すると彼女は、意を決するように答えてくれた。
「聞けばクラウスは逃げられなくなる。真実に向き合う事になる。だから、それを恐れてたのかもしれない」
「……僕の野望の事だよね」
確かに告げれば、ユーリアが一つ間を開けて頷く。ならばこそ、逃げるという選択肢は最初からない。
「だったら覚悟は出来てる。どんなに酷い話だって受け止めて……納得するだけだからね」
「…………本当ね? だったら信じるから。クラウスならきっと大丈夫だって」
彼女の言葉に頷き返せば、ユーリアは一呼吸空けて紡ぎ始める。
クラウスのいない物語。彼女達が紡いだその結末への最後の一遍。今一度舞い戻ったクラウスに送る祝歌にして、すべてが今へと繋がる即興曲を。
* * *
いつからだろうか。誰よりもまず、彼のことを考えていたのは。
最初は、国から下された命。監視をしろとの達し。紡いだ繋がりはそれから目に見える確かな関係へと変化して、校内保安委員会という場所で肩を並べた。
彼と私は違う。性格も、考え方も、性別だって。その何もかもが異質にして対極だ。
人は自分にないものを求め、相手に感じる安堵を選ぶ。言ってしまえば、ユーリアにとってそれがクラウスだったというだけ。
自分らしく嘘を吐かないままにいられて、それを肯定してくれる彼の隣が居心地がよくて。
気付けばいつの間にかで、知らぬ間にそれは経験した事のない感情に変わっていた。
それはもしかしたら、何も隠さずに振舞う大好きな親友が近くにいたからかもしれない。
学院に入った頃からの付き合い。同性で、互いの足りないところを補い合う友達という関係は、けれどユーリアが勝手に縋っていた拠り所。
彼女に甘えて寄りかかっていた怠惰にして許されざる罪だ。
そんな親友にして恋敵。アンネ・ルキダという女の子は、何処までも優しい少女で。
トーアに進級して、その春に新設される校内の風紀を取り締まる組織……校内保安委員会にユーリアが抜擢されると何処からか知った彼女は、その持ち前の心配性と優しさで居場所を作ってくれようとした。
ユーリアがユーリアらしくいられる場所。本来ならば、ユーリア自身が自分で掴み取るはずのその安堵は、けれど甘えきっていた子供な私にはどこか遠い別の世界の事のように無関心で。だから孤立しないようにといつものようにアンネは世話を焼いてくれようとして……。
そうしてあの屋上で、決定的に何かを違えた。
積み重ねてきた友達という関係や。彼女が犯した彼女自身を苛むだけの罪。それを舐めあうように共有して、それまでより確かに周りの事を見るようになった。
焦点を結んだ先にいたのが彼。私の今の最愛にして……きっと何をするにしても許せない埒外の異端児──クラウス・アルフィルク。
その言動は何処までも常識外れで、けれど言葉にならないほど否定の殻に包まれた正しい真実で。
そんな危ないような……しっかりした彼の存在に、いつの間にか興味を抱いていた。
多く一緒に行動していたのは最初の悪戯事件で揃わない歩調で歩んだからだろうか。確かに真実だけを突きつけて答えを示す彼に、私は勝手に理想を押し付けた。
もっと正しくあって欲しいと。もっと新しい事を教えて欲しいと。
そうして募った想いは、いつしか彼へぶつける否定となった。
軽口を交わして、彼の言動を否定する。そうする事でユーリアのできる範疇に押し留めて、更に彼はまた一歩正しい事を証明する。
そんな前進を何度も繰り返した。
時に理解の出来ないほど卑劣に。時に誰よりも温かく。
彼は彼が抱く野望を追い駆け続けて、私はそれに自分の気持ちを重ねた。
妖精。世界の伴侶にして、まだ謎の多い存在。
何処より来たりて何処へと向かう隣人。その存在を追い駆け続けて、私も幾つか景色が変化をする場面に同席して。
その末に、彼は失敗した。
あってはならない間違いを起こした。
この胸に夢のみならず深く熱い気持ちまで植えつけて眠ってしまった。
本当なら、先ほど確かめ合った気持ちは、あの時に得ていたはずの答えだ。
これでも鈍いつもりはない。彼の気持ちにも気付いていたし、私の気持ちもそうだった。
だからこそ分かり切った答えに安心して、それが返らなくなった事に絶望した。
もしかしたらそうなる事を止められたかも知れないのに。彼が眠ってしまったのは、元を辿れば私の所為なのに。
そんな自責と後悔の念で押し潰されそうになった。
何度彼の病室に足を運んだだろうか。どれ程無為な時を費やしただろうか。
一人では立ち直れなかったはずの失意の底で。膝を抱えて子供のように殻に閉じ篭っていた私を連れ出してくれたのは、大好きな親友だった。
────本気になれない人に、意味なんてないんだよ
本気にならなければ何も分からない……。そんなのはユーリアだってよく知っている。けれどそんな言葉を改めて突きつけられて、気付いた。
私はまだ、私を捨ててまで本気になっていなかったのだと。やっぱりまだ甘えていただけなのだと。
だからこそ自分を捨てた。それまでの、甘えきって他人に頼り続けた素直じゃない私自身を切り捨てたのだ。
大好きな親友の語った契約とも呼べない杜撰な目的。クラウスを連れ戻したいという衝動的で中身のない言葉に、私だけでなく彼の幼馴染も、そして先輩達も頷いた。
そうして同じ気持ちを胸に言動でぶつかって勝ち取った。
私が手にしたのは、クラウスを連れ戻す為にトゥレイス騎士団国へ赴き、ミドラースへ踏み入る為の許可を取り付けること。また、それとは別に、私が私の意思を持つ事というのが父親であるハインツに出された問題だった。
その目的の達成の為に、私は全てを捨てた。
国から授かった特使という肩書きだけ。それ以外には、頼れる相棒とだけ連れ立ってトゥレイスへと向かった。
まず以て、トゥレイス騎士団国は国民全員が騎士の称号を持つという一風変わった土地だ。そんな場所に軍属のユーリアが行けば諍いの火種になるのは目に見えたこと。
だからこそ軍属の地位を一先ず国へ返した。
さらにはクー・シーの名前も置いてきた。その家名は、国より下賜された称号だ。
妖精犬士。ブランデンブルクに仕える妖精騎士の中で、最高峰の権限と実力を持つ者にのみ与えられる栄誉ある称号。本当の意味でそれを授かったのは私の父親、ハインツではあるが。同じ軍属として、彼の一人娘としてユーリアもクー・シーの名前を振りかざしていた。
そうする事で無益な折衝を嫌い、思い出す毎に自分への戒めとして更なる高みを目指せるようにと目標にもしてきた。
……私個人を指す言葉ではないから、そう呼ばれることには抵抗があって、クラウスにもその名では呼ばないで欲しいと願った事もあった。
けれどその異名は、他国からしてみれば脅威の象徴だ。戦時中にも名を轟かせたクー・シーの称号。それを背負って他国へと赴けば何が起きても不思議ではない。目立った諍いのない時代ではあるが、その火種はまだどこかに燻っているのだ。それを刺激して世界情勢を悪化させるわけにはいかないと。
だから私はクー・シーの名前を一旦外し、私が生まれる前にハインツが持っていた本当の家名────コル・レオニスを名乗った。
その家名の意味は、獅子の心臓。気高き獅子の魂を抱きし、孤高にして最強を謳う名前。ユーリア・コル・レオニス……それが私の本当の名前だ。もちろんこの名前も大好きで、誇りだ。
そうして不必要なものを捨て、代わりに手にしたのは自分自身を信じられる証。クラウスから届いた誕生日の贈り物。
綺麗な青色をした妖精力に縁の深い鉱石から作られた髪留め。
彼が昏睡して、けれどもユーリアの手元に届いたそれは、きっとユールの時か、それ以前より用意を進めてくれていた彼なりの気持ちの表れ。
そこに込められた彼の想い。
その気持ちを履き違えるほど、ユーリアだって子供ではない。分かったつもりで……そうだと信じないまま身につけて。彼がそこにいるという安心感と共に足を出した。
そうしてユーリアが向かったのは、ブランデンブルク王国のほぼ真西に位置する大国──トゥレイス騎士団国。国民全員が騎士の称号を持つという異質な風土。
馬で数日駆けて国境を跨げば、やがて辿り着いたその国の中核。
景色だけで言えばブランデンブルクともそう大差ない、人が溢れ活気のある賑やかな街だ。違うのは建築様式と、人々の性格だろうか。
お国柄というか、ユーリアの感覚では随分と箍の外れたように感じる雰囲気。幾つもの差異に軽く眩暈すら覚える。
まず最初に訂正……というか再確認したのは暮らす人々について。
騎士団国であり、そこに住む者は騎士の称号を持つというのが国民の証ではあるが、どうやらそれはただの飾りである場合が殆どらしい。
行き交う人々は別に物騒に着飾っているわけでもなければ、殺気立っているわけでもない。もしかしたら服の下に懐剣を忍ばせているかもしれないが、けれどそれを感じさせないほどに人々の纏う雰囲気は心地のいいほどに陽気だ。
更に、当たり前のように昼間から開け放たれた酒屋には沢山の影が出入りし、店の傍に設えられた机と椅子も半分以上が埋まっている。中にはユーリアよりも年下の姿もあって、そういえばと思い返す。
ここトゥレイスでは、飲酒は14歳から可能と定められていたはずだ。ブランデンブルクを発つ前に少し勉強した限りの記憶が正しければ、だが。その年齢制限は、四大国の中でも最も低い。
体が未成熟なうちからそんなものを飲んでいて大丈夫なのだろうかと心配になりつつも、ユーリアは目的地を目指す。
その道中、見慣れない店や食べ物も幾つかあって。土地が違えば流行り廃りも違うかとどうでも良い事を考える。
ユーリアは別に観光をしにきたわけではない。しっかりとした理由がある。
特使として堅苦しい黒尽くめをしているからか、すれ違う人々には奇異の視線を向けられる。が、それも慣れた頃、手配された宿屋へ辿り着いて宿泊手続きを行う。
ここの主人は女性。宿自体が女性専用を掲げた経営方針で、無理を言ってここを一室押さえてもらったのだ。
何と言ってもユーリアは女だ。自分で言うのもなんだが異性に対しては警戒心が強い……親友に言わせれば視線で怯えさせているそうだ。それは別に私の所為ではない。ついて回る軍属という地位と、誰かが勝手につけた神童の異名。それからいつも隣にいる彼女が女性らしさを湛えた愛嬌の塊だから相対的にそう見えるだけだ。
まぁそんな言い訳はいいとして、ここは他国で、法が違えば少し物騒だとも聞く。身を守る為には当然の事だとカイに談判をすれば、彼も頷いてくれたのだ。別に脅したわけではない。断じてだ。そこは明言しておくとしよう。
そんな長くに渡ってお世話になるだろう店主と不器用にも挨拶などをしながら、書きなれない名前を懐かしく感じつつ綴っていると肩を叩かれた。
先ほどまで感じなかった気配に驚いて直ぐに振り返る。するとそこに立っていたのは一人の女性。
年上だろう、クラウスよりも背の高い気後れするほどの美人。長い常盤色の髪を頭の後ろで一つ括りにした、藤色の瞳を持つ人物だ。目を引くのは、その双眸が片方、黒い眼帯で覆われていること。
見惚れるほどの研ぎ澄まされた真っ直ぐな姿勢に視線を落とせば、左腰に差した長い業物。一目でそれが鋭利な切れ味を持つ刀だと気付く。
そんなユーリアに、目の前の彼女は声を掛けてきた。
「……ユーリア・コル・レオニスさん…………よね?」
「えっと……」
「それともクー・シー殿と言った方がいいかしら?」
「っ…………!」
思わず視線に込める意志を強くする。そんなユーリアに、女性は慌てたように訂正する。
「あぁ、違うのよ。別に荒事を起こしたいわけじゃないの。貴女をお迎えに上がったのよ。あたしはヒルダ。ヒルダ・グラフィアス」
「……ヒルダって…………もしかしてあのワルキューレ?」
「懐かしいわねその名前。東の名前だったかしら?」
否定をしないその仕草に確信する。
ヒルダ・グラフィアス。先の大戦で、ブランデンブルクの先代国王、英雄ヘンリック・アヴィオールと覇を競い幾度も衝突したと言われるトゥレイスの戦姫。ヘンリックの異名として恐れられた災厄の騎士たち、凱淵騎士団に準えて、ブランデンブルクで付いた彼女の呼び名が──死を告げる裁姫だ。
他にもエキドナなど、幾通りのもの名を持つ世界に認められし実力の持ち主だ。そんな人物がどうして……。
「外交特使ユーリア・コル・レオニス殿。早速で悪いけれどトゥレイス騎士団国総長クサーヴァー・グラフィアスが貴女を召致するそうよ。一緒に来ていただけるかしら? 宿の事はこちらでしておくから」
「……分かりました」
いきなりの言葉。その中にあったこの国の主の名前に緊張しながら頷く。
一国の長直々の命令に目通り。一介の旅人にしてそれが目的のユーリアには断る権利も意味もなく。静かに頷けば踵を返した彼女について歩き出す。
本来ならば、今日一日休息を取って改めて明日にでも挨拶をしにいこうと思っていたところだが、それが少し早まっただけ。何よりこの胸に抱く目的の為、進む交渉は早い方が彼の為なのだ。
切り替えた気持ちで町中を歩く。
すれば辺りから向けられる視線。それは殆どヒルダへ向けて、それから後ろを着いて歩くユーリアには奇異と畏怖の色。
考えてみれば当然、ヒルダは世界に名を轟かせる実力者だ。この国ではブランデンブルクで言うヘンリックのように語り継がれている事だろう。彼と違うと言えば、目の前の彼女はこうして生きているということ。その存在感たるや、ユーリアが押し潰されてしまうほどに大きく堂々としている。
今更ながらに置かれている状況を見つめ直して緊張する。
トゥレイスのお膝元に着いた初日にこれでは先が思いやられると。まだまだ足りなかった覚悟を今一度胸の奥に据えて確かな一歩を踏み出す。
どうあっても退けないのだ。ならば気をしっかり持つこと。逃げるなんて選択肢はいらない。
考えつつ、注目される事に慣れたクー・シーの仮面を被りなおしてようやく自分を取り戻せば、いつの間にか目の前には大きな城が。
それはブランデンブルクの中心とは違い、どこか砦のように物々しい雰囲気の造り。これもまたお国柄かと。
物々しい雰囲気を肌で感じながら、ヒルダに連れられて敷地内へ。彼女が歩く先からすれ違う者達が足を止めて挨拶をする。使用人はもちろん、騎士に、中には研究職までが見て見ぬ振りはしない。
これほどまでに注目されるというのは、ブランデンブルクで言えば今は亡き露草姫と同等だ。
ヒルダは、世界には注目されこそ騎士で、言ってしまえばただの兵。けれどそれに釣り合わないほど、ここでは敬われているようで。
その違和感に疑問を抱いていると足を止めたヒルダ。思わずぶつかりそうになって慌てたのも束の間、目の前の扉を開けた彼女は何故か大きく溜息を吐いた。
「…………呼び出しといていないとか何様なのよ。いや、国王様なんだけど……」
呟きは彼女の愚痴。直ぐに振り返ったヒルダは困ったように首筋を掻いて告げる。
「……ごめんなさい。少しここで待っててもらえるかしら? すぐにあの愚兄を捕まえて来るから」
「え、あ、はい……」
答えるが早いか、ヒルダはユーリアをその場に残し、早足で廊下を曲がって姿を消す。
他国……それもその中心たる城の敷地内。土地勘もない場所で一人残されて途方に暮れる。
賓客の持て成しにしては随分な事だと。その奔放さ、不躾さに思わずクラウスの性格を重ねれば、いつの間にか近くに居た女性から声をかけられる。
「コル・レオニス様ですね。どうぞこちらへ」
声に振り返ってそこにいたのは使用人。落ち着いた物腰の、使用人らしい使用人。まるで私の友人とは似ても似つかない振る舞いだと。
そんな事を考えながら女中に案内され部屋の中。椅子に腰を下ろせば、目の前に飲み物が差し出された。
何というか、目まぐるしく、忙しない。
それはまるで学院にいるようだと錯覚しながら、そうしてどうにか落ち着きを取り戻す。
改めて、ここはユーリアの知らない場所なのだと溜息を吐く。……クラウスの癖が移っただろうか?
そんな風に腰を落ち着けてしばらく。やがて再び顔を見せたヒルダの表情は、苛立ちと申し訳なさに彩られていた。
「…………ごめんなさい。あの人今外にいるらしいの。もうすぐしたら戻って来ると思うからそれまで待っていて貰える?」
「はい、大丈夫です」
常識外れ、なんて責めるつもりはない。彼は国の主、忙しい身だ。きっと何か急用が入ったのだろう。
それに、だ。得た自由で気持ちを整理する事も出来るし、募った疑問だって解消できる。
それまで世話をしてくれていた使用人に仕事に戻るようにと言付けて、徐にヒルダが向かいに座る。そんな彼女に声を掛ける。
「……あの」
「何?」
「幾つかお聞きしたい事があるのですがいいですか?」
「いいわよ。どうせ暇なだけだしね。貴女の話も聞きたいから」
それはクー・シーに関わるところだろうか? もしそうなら内政干渉とでも言ってかわすとしようと思いつつ、随分と大らかな彼女の胸を借りる。
「……先ほど、兄と仰っていましたが」
「えぇ。この国の主である彼は、あたしの兄よ。尤も義兄で、血の繋がりはないけれどもね。国を治める者の妹であるならば、一応王族って事になるのかしらね?」
返った答えに幾つかの疑問を解消する。
ここへ来てから彼女が敬われていた理由。一国の主を捕まえて愚かとも語った彼女。そんな振る舞いに、親近感さえ沸く。
そうだ。当たり前なのだ。世界に認められた彼女だって、元は人間。少し常人とは違う肩書きを持つだけのこと。その人格は、彼女自身に宿るものだ。
「色々理由はあるのよ? 先の大戦で功績を残したから彼と契りを交わしたとか。あたしに親がいないとか」
次から次へと色々な事を口にするヒルダ。隠す気の更々ない態度に少しだけ圧倒される。
「あたしだって人並みよ。語る分だけ人間らしさが露呈する。……だからそんなに身構えないで。国の客である貴女をどうこうしようなんて思ってないから。そうならないからこそ、懸念なのよ」
胸の内の緊張を言い当てられて肩を揺らせば、ようやくヒルダも薄く笑った。
そうしてユーリアも安堵し、謝罪する。
勝手に想像して、それを押し付けて。クー・シーとして、他人の評価を強要されるその苦痛に関しては自分もよく知っていたはずなのに。それを彼女にぶつけてしまったと。
けれどそんな失礼に、彼女は笑って許してくれる。
「余り大手を振るわけには行かないけれど……友達からでいいかしら?」
「……はい」
浮かべた笑顔に、ようやくユーリアを取り戻す。
そういえば、この頃ようやく自分の為に笑えるようになったのだと。それも理由を求めれば、きっとあの眼鏡なクォーターの所為──お陰という事になるのだろうけれども。
そんな一つを取っても、ユーリアはまだ彼に何も返せていない。
だからこそ、彼が戻って来る事に、意味を感じる。
「だったら、そうね……友達として一つ進言なんだけど…………」
「何ですか?」
「ここに居る間、あたしの妹にならない?」
突飛な言葉に思わず身構える。するとヒルダは、少し慌てたように言葉を継いだ。
「あぁ、いやっ。別に変な意味じゃなくてね。家族みたいに気さくにして欲しいって事。もしその気なら幾らでも胸を貸す。力にだってなりたい。……だって貴女は、何故か他人な気がしないから」
それは、どういう意味だろうか。ユーリアに何を感じたのだろうか?
「強いでしょ……?」
そうして紡いだ音に、片方だけの透き通った綺麗な藤色の瞳の奥に燃える炎を、ユーリアは見逃さなかった。
「……どうでしょうか。学院にいた時は持て囃されていましたけど、それはただ釣り合うだけの誰かが近くにいなかっただけですし、クー・シーである事もありましたから」
「名前と実力は違うでしょう? 名前だけあっても実力が伴わない者なんて沢山いる。けれどそれに見合うだけの評価を、貴女は受けてきた。努力を続けてきた。そんな自分を卑下する事なんてない。力を持つ者には、それに見合った振る舞いを求められるものよ」
世界に名を轟かせる者として、その言葉に重みを感じる。彼女がそうであると、示す。
だからこそ、胸の奥に何かが収まる。
「……何か、理想はない?」
「理想、ですか?」
「こうなりたいとか、何をしたいとか。誰かに追いつきたいとか……」
誰かに。そうと割れて脳裏を過ぎった顔に、理由を見つける。
「あるみたいね。だったらそれに見合うように、自信を持って……自信を持てるように努力し続ける事よ。それが持つべき者が振り翳す、ありかたってもの」
優しく──厳しく諭されて今一度見つめ直す。
ユーリアがユーリアの意思を持つ事。ハインツに出された問題の、その答えに一番近い気がする何か。
その傍を通り過ぎた気がして、知らず手を伸ばす。
「…………はい。覚悟、ですね?」
「えぇ、好きよ、その眼。確かに信じるものを持った、強い色。誰もが持てるものじゃないわ。貴女だから……選ぶ事を躊躇しないで」
「はい」
真っ直ぐにヒルダの瞳を見つめ返して頷けば、彼女は薄く笑う。
「その内でいいわ。ここに居る間で、手が空いた時に、お手合わせ願えるかしら?」
「是非に」
自分でよければ、なんて卑下するようなことは言わない。
それは驕りにも似た自信で。そうしたいという気持ちと共に紡いだ言葉。
ヒルダも一つ頷く。
「客人だからといって負けてはあげないわよ?」
「もちろんです。でも、面子を潰したらごめんなさい?」
売り言葉に買い言葉。
火花さえ散りそうなほどに真っ向から言葉を返せば、やがて二人して吹き出したのだった。
しばらくして部屋に顔を見せたのは随分と陽気で飾らない態度の男性。
山吹色の長髪を全て後ろへ流し、強い意志の灯る深緋色の瞳でこちらを射抜く。記憶では四十代だったはずの彼は、ユーリアより二周りも大きな背丈。彼は最敬意を以て挨拶をしようとしたユーリアを手のひらで制して、向かいの椅子に座って告げる。
「あぁ、いいんだ。そう言うのは苦手でね。どうでしてもというのなら略式に留めておいてくれ」
王の器にしてはやはり規格外なそのあっけらかんとした性格に驚いて、言うべき言葉を見失う。思わずヒルダに目を向ければ、彼女は視線で謝ってきた。
どうやらこれが普通らしい。ユーリアからしてみれば王たる者としてそれ相応の振る舞いをしていて欲しいのだが……そうでなくとも少し前までそう言った話を彼女ともしていたというのに。
そんな雰囲気を意に介さない、強すぎる自分を持った堅固な鎧に身を包む男性。名を、クサーヴァー・グラフィアス。ここ、トゥレイス騎士団国の総長にして、先の大戦で名を馳せた世界を支える四大国の一柱。ユーリアを呼び出した張本人。
「……はじめまして。ユーリア・コル・レオニスです」
「クサーヴァーだ。イクスともなんとでも、好きな風に呼んでくれたまえ」
「それは貴方の子供の頃のあだ名でしょう?」
クサーヴァーの言葉にヒルダが疲れたように溜め息を吐く。
奔放にして豪快なクサーヴァーに何かを挟む余地もないままに振り回される。
何というか、意図せず周りを振り回す嵐そのものだ。驕りとも、自信とも違う。ただそう信じて疑わない、自分が正しいという正義感が人の形になったような存在感。まるで物語の中から抜け出てきた英雄のようなそれ。直感でそんな感慨を抱きながらどうにかついていく。
「……あの、私を呼んだのは…………」
「ん?」
空気に呑まれたまま言葉を発せば、思わず不敬なもの言いになる。その音に、視線を向けた彼の仕草に息を詰まらせる。流石にそこまでは許されないか……。
そんな事を考えた刹那に、けれどクサーヴァーは少しだけ笑って告ぐ。
「あぁ、そうだった。いや、何。だからそんなに畏まらないでくれ。そのままでいいんだ。その方が俺も話しやすい」
咎められる、どころか肯定された。余計にクサーヴァーの事が分からなくなり、反面心のどこかで安堵する。
それは軍内で挨拶のように交わされる中傷に覚える、安心感に似たそれ。だからこそ、目上たる彼にそんなユーリアをぶつける事に畏れ多くなる。
「……まぁ追々でいい。ここを去るときに君が見られる事を期待してる」
期待されても……。
下手な事をして祖国に火種を持ち帰ってもいけない。だからこそ色々懸念して準備をした上にここへ来たというのに。まるでその努力や覚悟が否定されたように聞こえて頭が混乱する。
けれどそんなユーリアを気に留める様子もなく、彼は彼の調子で紡ぐ。
「話は聞いている。ミドラースだろう? 別に俺は構わんよ。あの地にそれほど思い入れもない。ただそうだな、体裁として二つ返事をしたとあっては後々面倒になる事が分かっているからな……。ヒルダ、何かいい案ないか?」
「あたしに預けてもらえるなら表向きはどうにか整えるけれど」
「なら任せた」
目の前で交わされる会話に眩暈さえ覚える。
本当にこの二人が、この国の主と畏怖と羨望の上に立つ死を告げる裁姫なのかと……。思うだけ不敬に当たる気がするのに、けれどそれさえも当然に思えて来るのだからもう何が正解か分からない。
常識が崩れて行くというのはこういうことなのだろう。
クラウスの近くに居た分だけ、ある程度順応性はあると思っていたのだが、世界は広いものだ。彼でさえ、体裁を気にする分まだ安心できると。
考えるだけ無駄な気のして来る光景に頭痛を感じ始めた頃、ようやくユーリアは謁見にもならない一室から出る事が出来た。
というかそもそも、一国の主と同じ机を挟んで座るなんて行為を謁見と呼称してもよいものなのだろうかと…………。
「…………驚いたかしら?」
「……………………い、いえ……」
口を突いたのは思ってもない否定。それほどまでに彼は規格外だった。
そんな憔悴した様子のユーリアに、ヒルダは笑う。
「あんなのだから、うちの総長は他国に野蛮だとか脳筋だとか言われてるの。政にはからっきし。…………けどね、この国には必要なの」
騎士団国。騎士が治めるその土地に君臨する絶対王者。
なればこそ、彼のような性格は必然で、彼でなければならないのだろう。理解は出来るが、やはりどこかで納得出来ない自分がいて……。
「血気盛んって程ではないけれどね、確かに粗忽で乱暴者が多い。けれどその分だけ賑やかで、陽気で、楽しいの。そんな騎士たちを、いざというときに一喝で纏め上げて指揮を執るのがあの人。貴女にしてみれば、付き合いやすい部類でしょう?」
「……葛藤しかありませんよ…………」
疲れたように呟けば肩を揺らすヒルダ。
これから少しの間、ここで暮らすのかと思うと不安以上の疲労感が追い駆けてくる。
「……えっと、それで、私はどうすればいいですか?」
「そうねぇ…………。クー・シーの名前がないって事は軍属も外してきたんでしょう? だったらうちの隊に来なさいっ、歓迎するわよ? 仕事もあげる。報酬も出る。体裁も整う。何より──楽しみでしょ?」
けれどそれ以上に、胸の奥に燃えるのは期待。
軍属として積み重なった武人としての心が騒ぐ。ユーリアの根底に眠る熱い部分が行き場を求めて暴れ出す。
ここは、とても心地がよくて安心できる場所だと。軍属としてのユーリアが自分らしく居られる、期待いっぱいの居場所だと。
「……それしかないのであればそうします」
けどそれを素直に言うのは何かが許せなくて。
結果口を突いたのはそんな言い訳染みた音だった。
それからのトゥレイスでの日々は、ユーリアにとってとても居心地のいいものだった。
随分と親しく接して来てくれる同僚は気の良い者ばかりで。軍で気の許せる相手と任務や訓練をしているような感覚。
それはこの国の大らかさと陽気さが良い方へと傾いた産物で、実力と僅かの冗談が求められる場所に元々いた身からすれば、ヒルダの周りは溶け込みやすい場所ではあった。
任務だってそう頻繁に起きるわけではない。要人警護や国境付近のやり取りなど国に関わる重要な話はユーリアの元には回ってこないし、例えあったとしてもそこにはヒルダがいて、彼女の後ろから事の成り行きを見守っている程度のこと。
それでもブランデンブルクにいた頃は経験したことの無かったような仕事もあったりして新鮮ではあった。
中でも驚いた仕事は、城下から離れた領地に行って、そこで育てられている果物の収穫の手伝いをしたこと。そんな仕事、自国の軍では無縁の話で。騎士と言えば争いごとや物騒な事件に対応する事が殆ど。時折町に出て警邏をするのが唯一人の中に溶け込むような仕事で。その時でさえ、武力の象徴であるからか遠巻きに見られ、好き好んで近付いてくる輩もいない。別にこちらは悪さをしていない者を捕まえて冤罪に仕立て上げようなんて思ってもいないのに……。
そんな規律と治安を守ることこそが軍属としての勤めだと思っていたユーリアは、トゥレイスでの役割に最初こそは面食らった。
けれど考えてみれば、騎士だって普通に人間。少し武力を持っているだけのことで、携えている武器を外せば腕っ節くらいしか変わらない。服を着替えれば権力はただの暴力へ成り下がる。
それでさえ女のユーリアと比べれば、日頃から運動が好きで鍛錬している人の方が強いかもしれないほどに、そこに言葉以上の差はないのだと。
だとすれば訓練ばかりしていても何れは飽きが来るし、守るべき民の事も分からない。
ならば雑用とはいえ民を助け、その程度の仕事で平穏が続いている事を肌で感じれば、それこそが更なる争いの抑止力にもなる。
思えば、トゥレイスに来てから事件などの物騒な話を殆ど聞かない。大小問わなければブランデンブルクでは毎日のようにあった折衝事が、ここではありえないほどに静かに鳴りを潜めている。
それ一つを考えて見ても、トゥレイスという国は平穏で。騎士団国などという物々しい名前とは正反対な、楽しげな雰囲気の漂う場所だ。
先入観でものを考えていたユーリアは、けれどヒルダの隣で仕事をするに連れてその認識を書き換える。
ここは、ユーリアのような戦いに身を投じつつも、それが無ければいいと心のどこかで平穏を願う者にとって、とても過ごしやすい土地だ。
担当する話は簡単なものばかり。客人たるユーリアにそこまで面倒な話を回せないという配慮もあるのだろうが、それでも騎士のあり方を考えさせられるほどにはとても一般的で……。
気付けば馴染んでいた風土に浮かんだ疑問は、ある日にヒルダへと問うた言葉。
「トゥレイスって……思ってた以上に穏やかですね」
「勝手に物騒だと思い込んでるのは貴女達の方よ。まったく、誤解もいいところ……それを解こうとしないあの人にも原因はあるんだろうけれどもね」
話題に挙げて何故か誹謗されたのは、彼女の義理の兄にして国の長たるクサーヴァー。
彼は彼で王の器としては少しずれた気概の持ち主だが、過去にヒルダが語ったようにこの国には必要な人物なのだろう。
陽気で、軽快で。国の長だというのに周りに集まる彼を慕う者は気さくに声を掛け、何かあれば頭を小突きあって。けれど必要な時には敬われ、武人としての顔で声を響かせるその姿はどこかユーリアの父親たるハインツにも似ている気がして。
だからだろうか……彼に対して早いうちから居心地のいい場所を見つけられたのは。
「俺は国の長である前にクサーヴァー・グラフィアスだからな」
それはいつ彼が零した言葉だったか。なんにせよ、彼の中では国の代表としての顔は二つ目。第一には騎士としての彼がいて、それが普段の彼なのだと。
知ってしまえば同じ騎士として……実力的にはまだ及ばないだろうが、それでも対等を望むような彼の気持ちに応えるように、ユーリアもいつも通りに振舞う。
そんな風にヒルダとクサーヴァーに目を掛けてもらいながら日々を過ごして。任務の報酬も出たのでそれを僅かに使って休日に気晴らしを行ったりと充実した毎日を刻めば、気付けば目の前に迫っていた一年の約束。
これだけ楽しくて好きな場所だけれど、最初の目的はミドラースに関する許可。その答えは未だ貰えていない。
ブランデンブルクにいる者達には申し訳ないが、今回の帰国では返事は保留のまま持ち帰る事に。許可を取り付ける為にまたやってくることにはなるだろうが、報告も兼ねて一時帰国。
それからユーリア個人で言えば、休学扱いの学院ではそろそろ卒業式。ユーリアのそれはまだ一年先だが、今年はヴォルフが出席する。委員会の面子として肩を並べていた実力者の先輩だ。世話になった礼として、しっかりとその門出を祝うとしよう。
考えつつ、生まれ育った国へ戻ってくれば懐かしい雰囲気。過ごしやすいのはトゥレイスの方かもしれないが、安心するのはどうあってもこの国が一番だ。何よりここには、大切な人が沢山いる。
まずはブランデンブルク城へ。カイに報告をすれば一度寮へ戻って荷物を置いて着替え、それから向けた足は病院へ。
ニーナやアンネの計らいで国と提携したブランデンブルクの現状最高峰の医療施設。そこで眠る、ユーリアの大事な人……。
国軍との繋がりもあって殆ど手続きのいらないユーリアは、直ぐに病室へと通してもらう。
扉を叩いてみたが返る声はない。どうやら今は誰もいないようだ。だったらそれもまた好都合かもしれないと。
脳裏を巡った二人きりという想像に少しだけ胸を跳ねさせながら中へと入る。
部屋の中は、一年前と殆ど変わらない。一人部屋の寝具に横になって健やかに眠るクラウスと、誰かさんが足繁く通っているのか綺麗な花が活けてあって、それから後は見舞いの品と。病室としては在り来たりで、けれどどこか人の温かさのない寂しい空間。
どうせ彼の事だ、見舞いに来る顔ぶれも限られていて、だから少し寂しいのだろうと。
ある意味彼らしいと寝具の直ぐ隣に腰掛ければ、視界に見慣れないものが映って少しだけ考える。
それは鉱石。透明な色の綺麗に加工された手のひら大の宝石のようなそれ。記憶の片隅に引っかかる何かがあって手を伸ばせば、その石から妖精力を感じて思い出す。
あぁ、そうだ。これは記録結晶。術式封印石のように妖精力や妖精術を込められるもので、特に思い出や記録を封じておく際に用いられる特殊な鉱石だ。
妖精力によって閉じ込められた過去の一瞬。勝手に見るのは……とも思ったが、ここにあるという事はクラウスに関する何かで…………だったら知りたいと願ってしまった小さな出来心。
気付けば触れていた鉱石の表面に、僅かに妖精力を流せば中に込められた記録が中空に浮かび上がる。
それは過去を切り取った刹那の風景。映っているのは、大柄な男性と細身の女性。それから二人の間に無邪気な笑顔で映る一人の少年。
「…………これ、クラウス……?」
真ん中の灰色の頭をした男の子。きっとそれが今目の前で眠る彼なのだろう。……という事は彼を挟む様にして立つ二人の大人は、彼の両親か。
クラウスはクォーターだ。だから親は片方が人間で、もう片方はハーフィーのはず。普通に考えれば妖精は女性の方が多いから、男性の方が人間で、女性の方がハーフィー。それぞれの隣に契約相手も見えないから、恐らく二人が妖精従きとその契約妖精で……その間に生まれたのがクラウスか…………。
この二人がクラウスを生んで育てた、親……。
彼はクォーターである事を理由に謂れの無い批難を受け続けてきた。だから自分を守る為に……それから家族や幼馴染を守る為に、自分に関して多くを語ってはこなかった。両親の事も、ユーリアは聞いた事はない。
僅かに覚えがあるのは、他愛の無い雑談の中で聞いた故郷の事。たしか、ソラリウム……ブランデンブルクの東の果てに位置する小さな村だ。
テオは彼の幼馴染だから同郷で、だとすればカイも同じ出身。その気になればクラウスのことなど彼らに聞けば知る事が出来る。
けれどそれをユーリアは、して来なかった。
これまで荒事を避けてきたクラウスだ。そんな彼が過去の事を勝手に暴かれていい気がするだろうかと。だったら知りたいのなら、彼から直接聞くべきだと。もし話してくれるのであれば、それを受け止めるだけの覚悟を持って聞き届けなければと思っていた。……それはきっと、彼と気持ちを確かめ合ってからでもいいとどこかで先延ばしにしていた。
そのつけがこれで、今ユーリアは走り回っている。
……相変わらず一筋縄ではいかない。彼が絡めばそれだけ面倒に、そして色鮮やかに景色が動くと。
早く知りたい。彼の事を、聞かせてくれるなら受け止めたい。
彼の全部を、手に入れたい。
胸の内で燃える感情はいつしか新たな原動力となって足を動かす。
記録結晶をまた一つ叩いて刹那の記憶を中へと戻すと、立ち上がって帰る準備をしながら少しだけ考える。
記録結晶の中に収められた刹那から考える限り、幼い頃のクラウスを知っていて、一緒に映っている人物が彼の両親だとするならば。これはきっと二人がここへ来たということなのだろう。
連絡はきっと渡っているはず。二人が眠るクラウスに何を感じて、その経緯をどこまで知っているかは定かではないけれど。その不安を取り除いて……それからユーリア個人の思いを遂げる為にも彼には早く帰ってきてもらわなければと。
それから、勝手に彼の過去を覗いて悪かったとは思う。けれどそれ以上に、彼のことを知られて嬉しかったと小さく笑みを浮かべる。
気付けば伸びていた手のひらが、眠る彼の頬を撫でる。
早く、帰って来て。また元気に軽口を叩いて、それに私が溜め息を吐いて。そんな懐かしいやり取りを早く取り戻して。それから私の全てを、攫って──
────私を連れ去ってくれる?
過去の、約束にもならない音を思い返して小さく笑う。
口付けは、また今度。答えを聞いたその時に……。
我慢は、それだけ胸を燃やす力になるから。
名残惜しさと共に、少し荒れた唇を指先で撫で。別れを告げて病室を後にする。
さぁ、あと一息だ。今度トゥレイスに向かったら、その時は直ぐにでも許可を取り付けると。
気持ちを新たにしながら踏み出した一歩は、確かな覚悟と共に小さな足音を病院の廊下に響かせた。
ヴォルフの卒業式に出席して再びトゥレイスへ。
卒業式は、有り触れた式典のように賑やかにはならなかったけれど、それでも彼の門出を祝えて嬉しかった。何よりも先輩で、時折彼に助けられる事もあったのだ。そういう意味ではとても世話になったし、感謝もしている。
それにクラウスという道化を間に挟めば、彼が卒業したところで他人にはならない。少し曖昧な関係でコルヌの事もあるけれど、そこはレベッカがまだ学院にいるし、何かあれば彼女に話をするのも悪くない。そう思えるほどには、自分で誰かと繋がりたいと考えるようになったのだ。
それもこれも彼のお陰……彼の所為と言えば、胸の奥が暖かくなる。
それから久しぶりに顔を合わせたテオは生徒会長を続けていて、この春の進級試験でフォルトにまで手を掛けるらしいと聞いた。彼の学力と実力なら特に問題もないだろう。委員会や生徒会での実績もある。そこが評価されれば超えられない関門ではない。
話を聞いた際に少しだけ想像をした、もしかすると……。それはクラウスが無事で平穏に過ごしていたのなら、テオと一緒にその場所へ自分も望んでいたのではないだろうかという未来図。……けれどきっと、私は至れなかったのだろうと自嘲する。
ユーリアは、彼ほどに座学の成績がよろしくない。委員会の面子で言えば、一番問題児だったのだ。
だからこそクラウスに教えも乞うた。
今になって思い返せば、どうして主席を我が物顔で抱え込むテオではなく彼に頼ったのか……。その理由に……胸に燃える気持ちに、嘘を吐こうとは思わない。
彼を失って初めて気付いた。私は、私が思っている以上に彼の事を想っていたのだと。それから目を背けて、けれど向けられる興味には甘えて……。
そんな風な日常に縋っていたのだと気付けば、嘘吐きな過去をなかった事にしてしまいたいと思うほど感情が膨れ上がる。
どうしてもっと素直にならなかったのだろうか。後悔なんてするべきでない事は、分かりきっていたはずなのに。
気付いてしまえば何ということはない。だからこそ、それさえも彼が戻って来る理由になる。
あの時の約束を果たす為に。今度こそ、真っ直ぐに向き合って彼に答える為に……。何よりも自分自身の為に。
そんな風に考えればようやく私は一人で歩き出せた気がしたのだった。
再びトゥレイスへとやってくればその足は直ぐにヒルダの元へ。特に問題も無く通してもらって訓練中の彼女の元へと駆け寄る。
「ヒルダさん」
「あら、早かったわね。お帰りユーリア」
お帰りだなんて、ここはユーリアの故郷ではないのだけれども。そう迎えられる事に心地よさを感じながら、けれどやるべき事をしっかりと思い出して告げる。
「お話したい事があるんですけれど」
「何? また手合わせでもする?」
確かにそれも楽しいかもしれない。彼女と本気でやりあった事はこれまで一度もないから、その機会があるなら是非にと答えたいところだ。しかしそれよりも優先すべき事柄。ユーリアのそもそもの目的、特使としての意味。
「それもいいんですけれど……いきなりな話でご迷惑をお掛けしますが、ミドラース捜索の許可をそろそろ頂きたいと思いまして」
「………………あぁ、そう言えばそうだったわね。……ごめん、すっかり忘れてた」
彼女らしい返答だ。血の気の多いというか、目の前の事に一生懸命な彼女にとって過去の約束なんてその程度のこと。それは一年彼女の隣で過ごしてよく知っている。
そんな彼女の性分を曲げるようで悪いと思いつつも、必要なことだからと自分を貫き通す。
「帰った時に話してもいいと言われたのでお伝えすると、他の国からは既に許可が下りたそうです」
「あー……、何かごめん。けど必要な事だったの。許してもらえる?」
ヒルダの言葉に納得を生み出す。
トゥレイス騎士団国は新進気鋭の、まだ歴史の浅い国だ。その明確な建国は第二次妖精大戦中で、だからこそ他国からは色々な事を言われている。
歴史の浅いものは周りにそれよりも長く積み上げた何かがあれば興味を持たれる。それは歴史で言えばエルフのように、拗れて新たな騒乱の火種を振り撒く可能性だってある。
そうでなくとも騎士団国という名を冠し、戦後処理の燻る時代。下手な事をすれば刺激をしかねない状況で、トゥレイスとしては一日も早くその懸念を取り去りたい。
だからこそ目立つ事はできなくて、結果他の国の機嫌を伺いながら最後に巻き込まれるような姿勢で結論を出すしかなかったのだ。
長いものに巻かれるわけではないが、それが今回における世界を脅かさない最善手。その内大国として今以上に名が轟けば、ブランデンブルクやスハイル、カリーナとも対等に肩を並べてフェルクレールトという大地を支える大事な柱になる筈だと展望を語りつつ、不満を言うでなくヒルダの話を受け入れる。
「直ぐに話は付ける。けれどこっちにも色々事情があるから、貴女が国に話を持って帰るにはまだもう少し掛かると思う。だからそれまで……最後の思い出作りでもしないかしら?」
「思い出、ですか?」
「えぇっ。本気で、全力で来なさい。言葉なんて信用のならないものより、確かな体感の方が記憶に残るって物でしょう?」
楽しそうに語るヒルダは話題を戻す。どうやら先ほどの提案は冗談というわけではなかったらしい。だとするなら望むところだ。ユーリアだって体を動かすのは嫌いではない。
何より、世界に名を轟かせる彼女の胸を借りられるのならば、そこに期待しないわけにはいかない。
どうあっても、ユーリアの根幹にはそういう自分がどこかにいるのだ。
「お姉さんだからね。受け止めてあげる。溜まった鬱憤、ここで発散して行きなさい?」
それほど心労を重ねた気はしないけれど。彼女の胸を借りられるというのならば甘えるとしよう。
「いつにしますか?」
「明日の午後に、ここで」
そうしてヒルダが楽しそうな笑顔を浮かべれば、近くで話を聞いていたのだろう男の騎士が煽るように指笛を鳴らしたのだった。




