第八章
「なるほどね。僕のいない間に学院も大変だったんだ」
「言っとくがクラウスの所為じゃないからな? 誰の所為ってのもおかしな話だが、言うなれば俺の不手際だ。生徒会長としてやるべき事をやり損ねたんだからな」
テオの語って聞かせてくれた学院でのこと。これまでもアンネの話で少しでていた話題だったが、その詳しいところを知って他人事に語る。
クラウスの寝ていた間に起きたこと。クラウスにどうしようも出来ない事なのだから、彼の言うように悩んだりはしない。
それに幼馴染に対する理由のない確信もある。
「それでもどうにかしたんでしょ? 卒業間際のこの時期だとテオはもう生徒会長じゃないだろうし、学院の雰囲気も改善し終えたって事でいいのかな?」
「どうにか俺の任期内に方は付けたけどな。うまくできたかって言われれば難しいところだ。俺一人の力じゃなかったし……」
「……カペラさん以外に手を貸してくれた人が誰かいたの? 」
誤魔化すような濁し方に長年付き合った勘で疑問をぶつければ、返ったのは居心地の悪そうな答え。
「…………今ここにいないから名前を出すのは控えるけど、もう一人な。その人がいなかったらもっと乱暴な決着になってたと思う……」
曖昧な答えに、その声に宿る不安定さに少しだけ思考を巡らせる。
いつもは実直に真実へと邁進する彼が見せる逡巡。歯切れの悪い彼の言葉は、長い付き合いから裏を返せば大体どの辺りの人物を指しているのか想像がつく。
これまで聞いてきた話。特にテオを中心に視界を回してそこから伸びた関係の糸で不明瞭な場所。他の者達が語ってくれた長い物語を、どうにか片付いたという結末から過程を振り返れば、そこに関わって来るだろう重要人物の名前を思い出す。
「……もしかしてリリウムさん、かな?」
「え、なんでクラウスが……」
「面識はないこともないけど、話だけならさっき先輩に聞いた中に出てきたしね」
ほぼ肯定の答えが返った事に安堵しながら、頭の中ではこの後彼が語ってくれる物語の運びも大体想像できる。
けれどまぁ、それは彼の口から詳細な部分を添えて紡いでもらう方が楽でいいだろう。
「…………先に当てたら楽しみが減るぞ?」
「だったら分かりきった結末へ向けて、面白おかしく語って聞かせてよ」
「随分な注文だなっ」
慣れ親しんだやり取りに少しだけ彼へ意地悪をすれば、仕方ないという風に笑ってそれから姿勢を正す。
「……じゃあ掻い摘んで話す事にするよ。脚色するのは苦手なんだ。結末を知る楽しさを殺した物語への挽歌……気楽な体勢で聞き流してくれ」
* * *
長く続いていた学院内の重苦しい雰囲気。その改善に向けて、ようやくイーリスとも折り合いをつけて取り掛かっていく。
とは言ってもそこまで劇的に変化をするような特効薬はない。
ただ出来る限りいつも通りを演出して、今まで以上に生徒会長としてやるべき事をやって、ほったらかしになっていた校内保安委員会もどうにか再起動。
そうしてどうにか不安を解消できるまで。噂がその効力を無くすまで辛抱を重ねる。
テオは考えるのは苦手だから。直ぐに景色を変える為の策なんか思いつかない。けれど結果を示すだけの行動力と、それを手繰り寄せるだけの椅子には座っている覚悟があって。生徒会長として横柄に振舞うつもりはないけれど、何よりも生徒の……学院のためにと尽力を重ねた。
目に見える結果ではないのが曖昧で得た物が分かり辛いのが難点だが、それでも必要な事だと。
そうして耐え忍ぶように時を過ごせば暦は夏を目前に。一応祭礼日である季節の転換期、夏を知らせるリサを日常同然に過ごしたある休日、テオはカイに呼ばれてブランデンブルク城まで来ていた。
因みにリサと言うのは無病息災や縁結びなど様々な意味を持つ夏目前のお祭りだ。ハロウィン同様魂の世界との境界が薄くなり、不思議な事が起こりやすい日。この日を境に暦の上では季節を夏として考え、学院でも衣替えが行われる。
とは言っても公式の呼び出しともなれば服装はいつもの黒一式。まだ風がある分だけ涼しくて我慢できるが、夏本番ともなれば冬には寒く感じるこの服はその意を裏返したかのように煩いほどの暑さを押し付けてくるのだろうと。
もう少し融通の聞かないものかと胸の内で悪態を突きながらブランデンブルク城内を歩く。
少し前にトゥレイスから帰って来たユーリアは今日は軍での仕事があるので現地集合。ヴォルフも直接ここで落ち合う事になってはいるが、さてニーナはどうだろうかと。
アンネに調査を任せて以降目立った報告はない。彼女が直ぐに見つけられないという事はテオ達の知らないどこかへいるのだろうが、ならば何故そんなところにと疑問も募る。
けれどしかし、今回の召集は彼女にも届いているはず。委員会宛の命であったから、ここにくれば顔を見る事もできると思ったのだが……。
考えつつ扉を開ければ中にいたのは仕着せに身を包んだアンネ。彼女はもてなしの準備をしていたのか、物音に振り返っていつものように小さく笑う。
「……まだ皆来てないのか?」
「テオ君に報告したい事があって。だから少し早めに来て貰えるように頼んだんだ」
「報告? ……もしかして」
「うん、遅くなってごめん。やっと見つけたよ」
言ってお茶を差し出した彼女はその足で部屋の外へと向かう。
「何処へ行くんだ?」
「お客を呼んでくるの。先輩の居場所を知る人、その人がテオ君と話をしたいって言うから。連れて来ちゃ駄目かな?」
「話はその人からって事か?」
「うん。実を言うと私もその人が知ってるって事を知ってるだけで、直接何処にいるとかまだ聞いてないんだ」
どうやら随分と迷惑を掛けてしまったらしい。この件のお礼は手厚めに考えておくとしよう。
「分かった。ここで待ってればいいのか?」
「うん、それじゃあ迎えにいってくる」
「あぁ」
小さな背中を見送って、それから一人残された部屋の中で息を吐く。
ようやく捕まえた、彼女の尻尾。流石にテオもこれ以上待てない。
どこかで考えていた自分なりのけじめ。
学院の事を片付けてから彼女と会いたいとも思っていた。いつからかそれは学院の問題を片付ける原動力にもなっていた。
学院での事は確かな解決と言うにはまだ時間は掛かるけれど、好転の兆しは順調でこの調子ならばテオの生徒会長引退の時期にぎりぎり間に合うという目算だ。もちろん何を持って雰囲気の回復と言うのかは判断に迷うところだが……とりあえず次期会長に問題なく引き継げるだけの懸念を無くすというのが落としどころだろうか。
彼女の代に続いて、二年も引っ張った上にそこまで好転しなかった学院の雰囲気。託された想いはあまり成し遂げられなかったと自嘲して。けれどそんなものだと諦める自分に嫌気が差して……。
クラウスが会長ならばもっとうまくやったのだろうかと。彼の事だからきっと全ての悪を背負ったまま次の生徒会長を持ち上げて自分を卑下する事で次代が上手に回るように舞台を作り上げるのだろう。何処までも独りよがりでこれ以上ない彼らしさに笑みが零れる。
……なぁクラウス。もしお前が今隣にいたのなら、俺をどんな風に利用して何処まで連れて行ってくれたんだ?
夢想の翼は未来の先に妖精の国の姿を幻視する。
と、そんな風に考え事に溺れていると扉が叩かれて。生徒会室にいる気分になっていたテオはいつもの癖で返事をする。
「どうぞ」
言って失敗したかと考えたのも束の間。開かれた扉の向こうに立つ人物と視線を合わせる。
その人物は、女性。胡桃色の短い髪は癖なのか毛先が少し遊んで外に跳ね、こちらを見つめる双眸は落ち着いた灰茶色。頬の辺りに印象的なそばかすを散らした節目がちな人物。その体は、アンネと同じ使用人服に包まれていた。
「…………テオ・グライド君ね?」
「あなたは…………?」
「私は、ミア・リリウム。今アルケスと一緒に暮らしてるの」
それから部屋の中で腰を落ち着けて。いつもの調子で世話を焼くアンネを間にミアの話を聞く。
「アルケスを探してるって聞いた。私は……今アルケスに迷惑してるから引き取り手がいるならって思って」
どうやら彼女は今、ニーナと一緒に寝泊りをしているらしい。それは彼女の部屋で。一人暮らしをするミアの部屋にニーナが転がり込んできたのは彼女がブランデンブルクに帰ってきたその日から。
「……私にも責任はあるんだけどね。ただいつまでも傍にいられると鬱陶しいし、あんなアルケス見てたらこっちまで変になりそうで」
「…………何があったんだ?」
何が来てもいいように気持ちを整えて尋ねる。
テオの声に、ミアは少し考えるような間を開けて静かに語りだす。
「……アルケスがスハイルから帰ってきた日、迎えに出たのが私だったの。この春からこの城で使用人として働く事になって、その研修期間として練習してたんだけど」
「因みにここでは私の後輩っ」
「……で?」
アンネの言葉は無視をして先を促す。今は彼女の冗談に付き合う気にはなれない。そういうのはクラウスの役目だ。
「その時に、少し話をして…………」
「どんな……?」
言ってまた、口を閉ざすミア。話し辛いこと、なのだろう。けれどテオには必要な事なのだ。今彼女が何かを理由に殻に閉じ篭っているのならば、それを聞きたい。聞いて、そこに踏み込むための覚悟は出来ている。
「言い難い事だろうけど、頼む。ニーナの事が心配なんだ。どうにか出来るなら、してやりたいっ」
「…………お人好し?」
「彼氏だ」
恥ずかしげもなくそう告げれば、ミアに宿る視線が強くなる。何かまずい事でも言っただろうか?
やがて彼女は、じっとテオを見つめた後静かに溜息を吐いて口を開く。
「…………私ね、アルケスの元同級生なの。生徒会にも、副会長として参加してた」
「え…………あ、リリウムって名前……」
「思い出してくれた?」
「……あぁ」
今更ながらに目の前の彼女の事を思い出す。
少し頭に引っかかっていた違和感。それはテオが彼女の事を僅かに知っていたからだ。
「君とは学院で少し話をしたんだけど、覚えてる?」
「……覚えてる」
完全に忘れ去る事なんてできない。それはニーナの降級騒ぎの頃だ。
その時は偶然、テオ一人で学院の廊下を歩いた時に。階段の踊り場で話し込む数人の女生徒を見かけて足を止めた。
その時に聞こえたのが、ニーナの陰口。あの頃は彼女がエルフである事に起因した確証のない下賎な話が飛び交っていた。そんな数あるうちの一つ。
あの時のテオは、ただ他人を貶す事が格好悪いと……ニーナがかわいそうだと感じて、どこか彼女に味方するように振舞っていた。だからそれもテオにしてみれば当たり前の事で。
陰口を叩く彼女達に、テオはいつもの性格で考えるより先に口にしていたのだ。
噂ばっかり信じて何になる、と。
その声に、それまで悪口を笑っていた女生徒達が一人を残して顔を逸らすようにその場から立ち去って……そこに最後まで残ったのが、ミアだった。恐らくその時の事を言っているのだろう。
「私、怒られたんだよね、君に。それで言い返した。『君に何が分かるっ』って」
「そうだったな……」
言い残して早足に去っていくその背中を少しの間見つめていたのを思い出す。
────君に何が分かるっ
その言葉が、何故か胸に刺さって。
「あの時に流れてた噂……その中にあった一つを、アルケスにまたぶつけたんだよ」
ニーナが……その母親であるエルゼが、スハイルの前皇帝の愛人で、その間に生まれたのが彼女だと。
けれどそんな悪評、テオは耳にしていない。
「その噂、俺は覚えがないけど」
「それはそうだろうね。だって揉み消されたから」
「…………」
噂を揉み消す。そんな事ができるのは限られた者だけだ。
きっとエルゼ・アルケス。それが真実にせよ嘘にせよ、娘想いな彼女ならば、そこまで行きすぎた噂を野放しにはしないはずだ。
「……久しぶりに会って、アルケスには色々言いたい事があったんだ。けど顔を合わせたら、何を言っていいか分からなくなって、気付いたらそんな事を言ってて…………」
テオもあの時に起きた事を全て知っているわけではないけれど、彼女の味方として振舞っていた都合上耳にした事はある。
そもそもあの騒動の引き金は、ミアが先導したものだと────
「それからアルケス塞ぎこんで……。ほっとけないから、うちに連れて帰ったの」
矛盾が、渦巻く。
ミアがあの降級騒ぎの中心にいたのは間違いない。だからこそ責任を取るように学院を途中で退学したのだ。
後悔を、していたのかもしれない。彼女に癒えない傷を背負わせた事に謝りたかったのかも知れない。
けれど何かが邪魔をして、それを素直に口に出来なくて、またニーナを傷つけた。その償いに、今彼女の傍に寄り添っているのだろう。
ここまでの話を聞く限り、彼女は根の優しい少女だ。落ち着いたというか、素朴な雰囲気の女性で、けれどどこかに明るさはあって、率先して陰口を叩くようには見えない。
そもそも、だ。あの降級騒ぎが起きるまで、ニーナとミアは仲がよかったはずだ。学院内でも、エルフとして一目置かれ、その上で生徒会長として正しく振舞うニーナと、その隣で彼女の右腕とまで称されて生徒会を支え続けたミアの、互いに心を預けたような無二の相棒の二人。それがテオの記憶に一番強く残る二人の姿だ。
エルフの生徒会長と敏腕副会長。学院内では知らない者はいないほどで、廊下でよく二人笑いあっている姿を何度も見た。
そんな二人の間に、簡単に亀裂が入るとは思えない。そんな事をする人物には、ミアは見えないのだ。
それとも、そうなるほどに何かが二人の間であったのだろうか……?
けれどそんな話は聞いた事がないし、だとしたら全ての始まりがミアの所為だなんて言う方が噂話に思えてくる。
それにもう一つ。あの時にミアがテオに突きつけた鋭い言葉。
────君に何が分かるっ
どんな心情から出た言葉かまでは分からない。けれど、その一つ前に語った彼女に言葉にも引っかかる。
────私、怒られたんだよね、君に
怒られた、と言ったのだ。つまりは、悪い事をしたと、自覚している。
それは後悔しているからこそ感じている言葉だ。
だとしたら、ミアはあの時に起きた騒動にテオが知っている以上の何かを抱えているのではないだろうか……?
渦巻く疑問が、やがて過程を通り越して問い掛けになって昇華する。
「一つ、訊いてもいいか?」
「……何?」
「ニーナの事、どう思ってるんだ? ……どう、思ってたんだ?」
きっとそれが全てだ。彼女がニーナを理由もなしに追い詰めるはずがない。これは、テオの勝手な想像で、魂に由来する直感だ。
ミアは、何かを隠している。
「……………………」
けれどそんな問いに、彼女は答えてくれない。ただ俯いて。膝の上で拳を握り何かを考え込むように口を硬く閉ざす。
しかしどうしても知りたいのだ。それが分かれば、全てに辻褄が合う気がするから。
だから足りない頭で考えて、今はいない彼のように振舞う。
「……質問を変える。ニーナの事、嫌いか?」
好きか、ではない。そう問えば彼女はきっと答えを返してはくれないだろうから。好意を明言するわけではない。ただ嫌いと言う可能性だけを潰しにかかる。
そうして向けた言葉に、ミアは静かに首を横へ振った。
「…………分かった。ニーナ、今何処にいる?」
「……私の、部屋。町に借りてる一室。外に出歩いてなかったら、そこにいると思う」
言って、家までの地図を渡してくるミア。
その行動に、気付く。
彼女はもう、何も出来ないのだ。何かしたいとは思っているのだろうが、自分から変える事が出来ない……。だからテオが差し伸べた手に、縋った。
それはどこか、学院のことで悪循環に嵌って手を拱いていた自分にも重なって。自分の過去を見ているような気がして、重ねるようで悪いがテオにとっても心の内を整理するいい機会だと勝手に利用させてもらう。
それに今更深くまで言及するつもりはない。ただ確かに、彼女が託してくれたと言う事実があればテオにはそれだけで十分だ。彼女の居場所が分かれば十分だ。
「アンネ、彼女の事頼む」
「任せて」
一つ息を吐いて立ち上がると部屋を出る。その際に、微かに聞こえた声に、けれど足は止めずに歩き出す。
────ありがとう
その言葉は、まだ早い気もするし、テオが受け取るべき言葉ではない。俺はただ、落ち込んでいる恋人を慰めに行くだけだ。……なんて気障な話だろうか。
しかしどうやって元気付けようか。そんな事を考えながら目的地へと歩き出す。
ブランデンブルク城を後にして、しばらく歩けば地図に記された分かりやすい目印。十字路の角にある飲食店。そう言えば随分前……まだニーナがスハイルに行く前に、一緒に来た事があると思い出す。
まだあの頃は、彼女の恋人だと胸を張る事に不慣れだった。テオは、よく勘違いをされるのだが、別に異性に対して強いわけではない。
どちらかと言えば慎重で、言ってしまえば弱気だ。テオに魅力を感じて声を掛けてくれる異性は沢山いる。それは素直に嬉しいし、時には困ったりする事もあるけれど。テオにはそれが分からない。自分にそれほどの魅力があるとは胸を張れない。
だから堂々としていて欲しいと言われたところで、難しい注文だ。
けれどそんなテオの心中を察したのか、それとも生来の物か。ニーナはそれをテオには求めてこなかった。
引っ張っていってくれなんて言わない。隣に並んで欲しいとも言わない。ただ自分の事で精一杯で、テオには見合わないからと、テオからしてみれば目の前を引っ張って行ってくれている。
それは、ニーナからしてみればテオが前を歩いているからそうせざるを得ないということらしい。
互いが互いを尊重して、自分の価値より相手の事を考えるからこそ成り立っている不安定な関係。だからこそ彼女との間に、恋人と言う感慨は余り湧いてこない。
仲のいい……負けたくない仇敵にも似ているかもしれない。負けられないから努力して、それに見合おうと更に追い縋って。結果できあがった今の関係。ようやく見つけた立ち位置。
そこにテオはテオらしさを感じて胸を張っていられるのだ。
だから恋人だなんて言い振らすつもりはないけれど。ただ自分らしく居られる場所であるというだけの、心の平穏だ。
そんな彼女に、テオはいつも通りでいて欲しいから。エルフである事に……ニーナ・アルケスである事に自信と誇りを持っていて欲しいから。落ち込んでいると聞いたのならば手を貸すのがテオの道理だ。
いつの間にか辿り着いていた目的地。横長な二階建ての建物は、横に三つの部屋を並べた計六室からなる集合住宅。
地図の端に書かれた部屋番号まで歩いて、それから気付く。
そう言えば鍵、借りていないと。試しに戸を開けようとして見たが当然の如く動かない。郵便受けにも部屋の鍵は見当たらない。
……失敗した。もう少し考えて行動するべきだったと。
小さく息を吐いて、呼び出しを押そうかとも思ったがやめる。ニーナの事だ。本気で落ち込んでいるのならばそれで出てくるような事はしないだろうし、余計に警戒心を強めてしまう。
どうしようか、と……。考えて止めた足が、次の瞬間には感情的に動いていた。
考えたところで妙案が浮かぶほどテオは経験を重ねてきたわけではない。ならば一番の予想外で目の前の壁を壊すだけだ。乱暴なのは幼馴染にも認められたいつものこと。
ミアの部屋は二階の突き当たり。少しだけ面倒だと思いつつ回りこんだ裏庭で見つけた、突き当たりに生える大木に覚悟を決める。
子供の頃、故郷にいた頃はクラウスとよく近場の大樹に登ったりもした。木の上には、過去の誰かが作った秘密基地もあって、一時期テオたちも他人の目を盗んでは一緒に遊んでいた。
過去の記憶と勘を頼りに、あの頃よりも二回りほど大きくなった背丈で一気に昇る。
そうして茂る枝葉を掻き分けて木から顔を出せば、目の前にミアの部屋。
洗濯物を干すように建築されたベランダまでは少し距離があるけれど、跳べないことはないだろう。一応届かなかった時の事も頭の片隅に留めつつ、できる限り距離を縮めようと細い枝に足を掛ける。そうして重心を傾けたところで、力をかけた枝の感触が鈍い音と共になくなる。
遅れて細い枝と、葉が幾つか眼下の芝に落ちる。
……危ない、もう少しで転落するところだった…………。
考えれば単純、昔より体が大きくなっているのだから過去の感覚そのままに行動に移せばそうなるのは当然だと。
冷や汗を垂らして深呼吸。そうして顔を上げれば、それと同時に目の前の戸に掛けられた遮光布が引かれた。
「あっ…………」
「えっ……?」
思わず零れた間抜けな声。それもそのはず、今目の前にはこちらを見つめるニーナの姿。
彼女のマリンブルーの瞳が驚愕に見開かれて言葉を失う。そうして掻き分けた布を戻そうとした彼女に慌てて声を掛ける。
「待ってくれっ。……ニーナ、話があってきたっ。開けてくれないか?」
「…………話って……?」
「っ色々。心配だから……」
透明な扉越しのくぐもった声に答えを返す。
恐らく先ほどの木が折れた音で何事かと顔を覗かせたのだろう。この気を逃すわけにはいかない。
「俺ならどんな話でも聞いてやれるっ。力にだってなれる。俺は、ニーナの味方だっ!」
要領を得ない言葉。まだどうすればいいかも分からないうちから、けれどそれしかないのだと伝える。
彼女にしてみれば突然やってきた、顔さえも随分長く見ていない相手だ。不信感と不安はテオが想像する以上に募るだろうし、疑いの果てに否定されても文句は言えない。
テオだってどこかで逃げていたから。彼女の事を受け止められなかったらと怖かった部分も確かにあったから。
テオより先を生きる先輩として、その経験にずっとついていく自信がなかったのかもしれない。
好きだ嫌いだなんて、言葉では上っ面だけ。だからこそテオは、彼女の隣にいて、彼女の前にいたくて努力し続けてきた。
それでも届かないかもしれないと。逃げ続けた事を見透かされて否定されてしまうかもしれないと。何度も考えた。
けれどそんな考える時間さえまともに与えられないままに、今こうしてここにいる。
だったらもう、胸の最奥に眠る本能に従うしかない。
彼女の傍にいたいという、たったそれだけの個人の欲望を振り翳すしかない。我が儘で勝手で無遠慮な自己満足を、彼女にぶつけるしかない。
そうする事でしか、テオはテオを伝えられないっ。
少し遠くに聞こえる喧騒が煩いほど鮮明に響く時間。体感は現実以上に間延びして汗さえ垂らす経過の中で、やがて長く息苦しい沈黙の後、再び遮光布が開けられた。
「…………嘘だったら、許さないから……」
「もちろんだっ」
直ぐに頷けば彼女は戸の鍵を開けて部屋の奥へと消える。直ぐに飛び移って靴を脱ぎ彼女を追って部屋の中へ。
鼻を突いた生活臭と、女性独特の香りに思わず足を止めて、けれど直ぐにニーナの姿を見つける。
綺麗に片付けられた部屋の中、寝具に腰掛けてこちらを見つめる彼女。そこでようやく、ニーナが寝間着である事に気がついた。
微かに跳ねた髪の毛先。よれて少しはだけた首元。僅かに傾げた首筋が白く、差し込む光に照らされて艶かしく曲線を描く。
知らず緊張するテオに、ニーナは視線を逸らして隣へと呼ぶ。
「……座って…………」
「あ、あぁ……」
とりあえず頷いて彼女の隣に腰を下ろせば、僅かに肩を揺らしたニーナ。その忌避のような距離の取り方に告ぐべき言葉を見失う。
そんなテオを責めるように、彼女は告げる。
「…………ミアでしょ」
「………………あぁ。無理言って頼み込んだ。話があったからな」
「嘘言わないで」
「嘘じゃないっ。これは俺の我が儘だ」
彼女にこれ以上悪役は押し付けられない。ここに来るまでに幾つか考えていた想像が、ミアは悪くないと気付いたから。
だから今回のこれだって、テオが彼女を振り回しただけだ。ミアに責任はない。
「……それで、話って? スハイルでのこと? ミドラースの許可の事? フェアリードクターの試験に落ちたこと? それとも──あたしの生まれの事?」
「…………全部。……落ちたのか、試験」
「落ちた。見事に回答一つずらしてね」
どこか責めるような口調に、けれど覇気はない。その理由に、彼女は心当たりがあるのだろう。いや、彼女でなくとも、今の話の中に理由ならあった。
「考え事しながら試験に臨むものじゃないわね……」
「生まれの事か?」
断言するのが怖くて尋ねるように言葉にすれば、ニーナは口を閉ざす。
それ以外に、彼女がこんなところにいる理由も、きっと普通ならば受かっていて当然な試験に落ちるわけも、ありはしない。
「聞いたんでしょ、彼女から」
「あぁ、聞いた。けどそんな事はどうでもいい」
「どうでもいいって、あたしにとっては────」
「ニーナはニーナだっ!」
悩むなんておかしな話だ。誰がどんな生まれや過去を持っていたとしても、その者はその者でしかない。
「ニーナが悩むのは分かる。俺だって同じ立場ならそうなるだろうな。けど、それより先にやるべき事が二つある」
彼女に反論を許さないままに、テオはテオの全てをぶつける。
「ニーナがニーナである事を信じる。本当か嘘かを確かめるっ」
前者は自分にも言い聞かせた言葉。彼女が彼女以外であるはずはない。今ここで生きているのだから、それは間違えようがない。
「…………確かめるって」
「エルゼさんのところに行ったか?」
「っ…………!!」
率直な言葉に肩が揺れる。きっとそうだろうと思っていた再確認をして、静かに紡ぐ。
「……怖いのは分かる。迷惑を掛けたくないのもわかる。それはニーナの問題だ」
誰よりも誇りと愛に溢れているのは彼女だ。
エルフである事に、エルゼの娘である事に。だからこそ、怖いのだ。
一度拒絶されたから。取り戻した仲だけれども、今ここで真実を問えば、彼女はまたニーナを守ろうとするかもしれないから。
優しい嘘を吐くかも知れないから。傷つく真実を突きつけられるかもしれないから。
だから彼女は悩んで、塞ぎこんでいるのだ。
けれど、そんなニーナを、テオは許せない。
「悩むなとは言わないけど、本当の事を知りたいなら聞きに行くべきだ。一人が怖いなら俺が付き添ってやる。その痛いのを半分だけ、背負わせてくれ。俺は、ニーナの、彼氏なんだろっ。だったら、俺にもニーナを背負わせてくれ。ニーナを好きでいるために、全部教えてくれっ」
クラウスみたいに上手には出来ないけれど。今彼女の背中を押すことはできる。支えて、一緒に立つ事は出来る。傷ついた時に隣にいる事が出来る。
それがテオが望んだあり方だ。彼女の男として選んだ道だ。
それだけの覚悟がなければ、あの時ニーナの気持ちに頷いてはいない。
気付けば顔を逸らして俯いていたニーナ。少しだけ跳ねた髪から伸びる長い耳殻が、赤く染まっている事に気付く。
けれどもう退けない。逃げる選択肢なんてありえない。
「一緒に居たいんだっ。それが理由じゃ駄目か……?」
「……自分が何を言ってるか分かってる?」
「分かってる……つもりだ」
責めるような、縋るような響きに確かな気持ちで答える。
「…………だったら誓ってっ。今ここであたしを────」
その言葉の先を、振り返った彼女を優しく抱きしめて塞ぐ。
「……精霊ヴィーラの名の下に誓いて母なる水に還るまで貴女を愛する」
「っ……!」
「…………あってたか?」
「……ん」
彼女に向けて語ったのはエルフの婚礼の儀で誓いの言葉として謳われる一節。
死して水に還るまで愛する者を愛し抜く。水の精霊ウンディーネと同列に語られる妖精ヴォジャノーイ。その妻である、死する花嫁ルサールカ。ヴィーラと言うのはルサールカの別名で、彼女に捧げる誓約の詔。この誓いによって結ばれた二人は死後母なる水にその体を返す水葬で弔われる。
水の精霊ウンディーネへの誓いは、幾つもの禁忌の上に成り立つ真実の愛だ。
ウンディーネが罵倒されれば水に還ってしまうように、愛だけを囁き続けなくてはいけない。
誓いを破りその愛を最愛以外に向けたときには、代償として命を捧げなければならない。
そうしてウンディーネが最愛を手放し魂を失わないように、最愛亡き後も愛し続けなければいけない。
当たり前といってしまえばそれまでの、真実だけを求める禁忌だ。
ニーナと会えない日が長く、その間に募った想いが見つめた一つの答え。
テオの中では、それ以外を考えられなくて。その内彼女に明かそうと密かに調べていたその証。
勢い任せに言ってしまったが、けれど後悔はしていない。
「俺はニーナを信じてるから。何かあったら俺がお前を守ってやる」
「だったらあたしも誓うわ。この身は精霊サラマンダーに捧げ、燃え尽きる事なき愛で貴方を庇護し続ける」
言って交わした口付けに、行為以上の意味を感じながら。次いで顔を隠すようにテオの胸に頭を預けた彼女が静かに呟く。
「…………着替えるから外にいて。愛するからといって意味もなく肌を見せるほど貴方に縋るつもりはないもの」
「……下着姿なら既に一度見たしな」
「死にたいの?」
「その時は一緒にな」
それから身だしなみを整えたニーナと一緒にフィーレスト学院へと向かう。休日明けにはいつも通りに授業があるために、その準備に来たのだろう教員達の姿が幾人か見える。
ニーナと連れ立ってのところを声を掛けられて少し立ち話をしたりしながらやがて辿り着いたのは学院長室。
多忙な彼女はいるだろうかと少し考えて、隣のニーナと一つ頷き合うと扉を叩く。
少し間を開けて返ったのは声。
「誰?」
「あたしよ。少しいいかしら?」
「……入りなさい」
深呼吸一つ。それから扉を開けて部屋へと入る。
机に向かって手元の書類に筆を落とすエルゼの姿。その視線がテオを捉えて僅かに止まった。
「……あぁ、そう言うこと」
「何?」
「いいえ何でも。それで、用は?」
彼女が何に納得したのかまでは定かではないけれど、とりあえずここにいる事に文句は言われなさそうなのでしっかりとニーナの手を取る。
「……聞きたい事があるの。あたしの、生まれの事」
「生まれ?」
息を飲むニーナと飄々とした様子のエルゼ。そこでテオは、薄々勘付く。
そんな隣で、ニーナが意を決した風に尋ねる。
「少し前にミア・リリウムに会ったわ。そこで彼女から話を聞いたの。あたしがスハイル前皇帝の隠し子だって。…………本当?」
飾らない言葉にエルゼが筆を止めてこちらを見る。そうして溜息一つ。疲れたように零す。
「嘘に決まってるじゃない」
「ならどうしてその噂を揉み消したの?」
「ワタシなりに貴方を守りたかっただけよ。それからワタシ自身を守るため」
聞いてしまえば呆気ない理由だ。エルゼがそういう性格なのは、少しでも付き合いを持てば分かる事。自分本位で、娘想いなよき母親だ。
「それじゃあどうしてお母さんが国の人質なんかになったの? どうしてあたしをオーラフさんに預けて行ったの?」
「あの人が居たからよ」
言って、少し寂しそうな視線がディルクに向けられる。
「話してあげたら……?」
「…………隠すつもりはなかったって言うか……無駄な心配させたくなかっただけって信じてくれよ?」
その視線に答えて、ディルクが語り出す。
「オレは、あいつの……御嬢の父親の契約妖精だった。随分な妖精騎士でな。他国でも名前を知られてるほどに腕の立つ奴だった。この国で言えばクー・シー……あれに匹敵するくらいだ。そうなれば少なくない恩賞や期待、関係を持つ事になる。前皇帝にだって頼られて大事にされてたさ」
それはディルクが知る、ニーナの父親のはんぶんとして生きた過去。ニーナが生まれる前か随分幼かった、彼女の記憶にないほどの頃の事。
ニーナは純粋なエルフだから、彼女の父親もエルゼ同様にエルフ。エルフであるならば精霊術が使えた筈で、同時にディルクと契約を交わす妖精騎士でもあったのだから妖精術も扱えたはず。
その辺りはエルゼも、そしてニーナも同じだ。
二つの力は組み合わせることで強大な効果を齎す。精霊術と言うだけでも対策は限られる分利用価値が高く、言葉以上に期待され、戦場に赴いたはずだ。
「それでも戦争だ。ちょっとした事で命を落とす」
「……片腕を無くして、治療は受けたけどそのまま亡くなったわ。その時の担当……当時スハイルで最も腕が立つ帝国付きの医者だったのがオーラフさんよ」
国の最大戦力を失うわけにはいかないから、それに見合った支援を付ける。当然の事だ。
因みにオーラフと言う名前は彼女がスハイルへ向かう前に幾度か聞いた事がある。確かニーナが尊敬する故郷の医者だったか。
「けど国の最大戦力がいなくなったと他国に知られれば攻め崩される要因になる。だからその代わり……肩書きや象徴としての役目を引き受けたのが、あいつの伴侶だったエルゼだ」
「ワタシが彼の代わりを演じたの。もちろん最前線には居なかったけれど、他国へ情報を流して居るように工作はした。例えはったりでも、戦況を大きく動かすよりはよかったし……何より彼が遺したものを、ワタシも守りたかったの」
それはニーナのことだろうか。少しだけ考えながら耳を傾ける。
「その内英雄的妖精がスハイルにも現れて、戦は膠着状態に陥った。落ち着いたわけではないけれど話し合う余地ができて、どうにか取り決めがされてワタシはここへ連れて来られた。けれどそれは、ワタシが持つ彼から受け継いだアルケスと言う名前に重さがあったから。これがまずワタシがここに居る理由」
幾つか納得のいく話がある。
これまでエルゼはクラウスの野望やテオ達に協力をしてくれていた。幾ら人質としての意味合いを持つエルゼでも、所詮ここは他国。普通ならばそこまで融通をしたりは出来ないはずだ。
けれど彼女の持つアルケスと言う名前が、戦時中に畏怖を込めて他国まで響いた英雄染みた意味を持つのならば。称え、それ以上の火種を無くすために国賓以上の待遇を受けるのも納得はいく。
他国であるブランデンブルクまで来て、彼女が周りを利用してこられたのにも理由は見つかる。
「それから貴女を置いて行ったのは、戦争が終わったばかりの他国に貴方を連れて行きたくなかったからよ。幾らアルケスの名前に何かを動かすだけの力があっても、それで新たな火種がおきる可能性だってある。そんな危険なところに貴女を連れてはいけないもの」
進んで危険に巻き込むわけには行かない。子を愛する母親として当然の答えだ。
「そうなれば安心できる自国においておくしかない。その中でも、戦後比較的安全な場所で、その功績を称えられて国からの庇護を受けていて、尚且つ彼の事を最後まで諦めないでいてくれたオーラフさんならと思って託したのよ。寂しい思いをさせた事については謝るわ。けれどそれだけの理由が、ワタシにもあったの」
知ってしまえばどうって事はない。ただ愛に溢れた一幕が、真実を知らない噂に騙られただけだ。
「戦争は確かに終わったわ。けれどその火種は今でも燻ってる。国境近くはまだ緊張が解けていないところもある。それを助長するように変な噂が立てばワタシを……そして貴女を守るために否定して揉み消すくらいはするわよ」
それがエルゼが噂を消した真実。全ては愛する子供を守るための彼女の愛だ。
求めた答え、その全てを聞いて沈黙の後に零れたのはニーナの声。
「…………ごめんなさい」
「何で謝るのよ。親が子供を守るのは当然の事よ。貴女はいつまで経ってもワタシの娘なんだから、子供の世話をする親の役目まで取り上げないで頂戴。そうでなくてもこれまで随分と誤解させてきたみたいだしね。少しくらい母親らしくさせなさい」
母親らしい優しく暖かい眼差しにニーナが項垂れる。その手のひらをテオは今一度しっかりと握り返して言葉にする。
「……つまり、噂のような事実は、何処にもないんですね?」
「えぇ。ニーナは、正真正銘ワタシと彼の娘で、純潔にして誇り高きエルフの末裔よ」
確かな言葉を聞いて安堵する。
真実なんて、呆気ないものだ。今回はそこに、多くを語らない彼女の愛が少しの誤解を招いただけ。何も悩む必要なんてない。
「……確かに愛しているし誇りに思うわ。けれど一度置いて行ったワタシに、母親の資格なんてあってないようなものよ。だから今更貴女に何かを背負わせる気なんてない。やりたい事を目指して、好きな人と一緒に居ればいい。必要なら、そのときにまた母親面させて頂戴」
「……うん…………うんっ。ありがと、お母さんっ……!」
嗚咽と共に頷いたニーナを、優しく抱きしめる。
代わりになるつもりはない。ただテオにとって、ニーナが大切なだけだ。だからエルゼが許してくれるのならば、テオはニーナを愛し続けよう。その最初にして、一緒の一歩がこの時だ。
「テオ君も、ニーナのことをよろしくね」
「任されました。俺の命に代えて、誓います」
「…………ん。……さぁほら。泣き虫が居ると気が散って仕事が出来ないわ。さっさと帰ってくれる?」
不器用なエルゼの物言いに小さく笑って、それから一礼をすると学院長室を後にする。
小さな声を上げて泣く彼女を連れてとりあえず休憩場所にと選んだのは生徒会室。
彼女から受け継いだ、今のテオの居場所。そして、彼が帰ってくるべき場所。
備え付けられた茶器で温かい紅茶を用意すれば、静かにそれに口をつけるニーナ。その隣に座って言葉なく寄り添えば、しばらくして啜り泣きも聞こえなくなる。
「……気分は?」
「最悪よ、全く…………」
笑みを浮かべるニーナにくすりと笑って流石に間違えずに席を立つ。
彼女が視線で訴えてきたから。今は一人にして欲しいと。
別れ際に口付けの一つでもすればよかったかと少しだけ考えて廊下に出る。
さて、何処に行こうかと。考えたところで場違いに催した欲求。緊張が解けたかと自分に呆れてお手洗いに向かう。
その道中、廊下の向こうから女性が一人歩いてくる事に気付いて、すれ違い様に声を掛ける。
「生徒会室に居るよ」
「……ありがとう」
どこか覚悟をしたように響く声。遠ざかっていく足音に振り返らないまま、少しだけ時間を潰そうかと考える。
それは、彼女のけじめだ。テオにどうこう出来る問題ではない。
ただ少しでもうまくいくようにと願って、テオも胸の内で祈る。
誰も悪者にならない、良い事尽くめの物語になりますようにと。
* * *
「結局身の上話だけになったね」
「だから言っただろうが、話すのは苦手だって」
一区切り着いた話に茶化せば、テオは視線を逸らす。
「……この話、僕が聞く意味あったの?」
「知るか。聞きたいって言ったのはクラウスだろうが」
確かにそうだけれど、と……無駄な時間を過ごしたと考えながら、けれどどうでも良い事のように安心する。
テオもテオで、大切なものを見つけたのだ。それはクラウスも欲したニーナの味方だったのだと。
だったらようやくクラウスも避け続けてきた問題に直面する頃かと。
────エルフはエルフじゃない
その本当の意味に、世界を揺るがす時が。
と、そんな事を考えていると扉を叩く音。返事をすれば開いた戸。そこに立つ花を持った女性の姿に首を傾げる。
どうやらお見舞いに来てくれたらしいが、誰だろうか。記憶のどこかに引っかかっている違和感に会った事があるような……と考えていると女性が紡ぐ。
「クラウス・アルフィルクさん、ですよね? 私、ミア・リリウムと言います」
「……あぁ、リリウム先輩。直接言葉を交わすのはこれが初めてですかね」
名前を聞いてようやく思い出す。
ミア・リリウム。クラウスが生徒会副会長を臨時でやっていた年の、前任者。ニーナの降級騒動後退学をした、クラウスの先輩に当たる人物だ。先ほどのニーナやテオの話にも出てきたがニーナの元同級生。学院内で何度かニーナの隣に立つ彼女の姿を見た覚えがある事。
記憶に薄かったのは隣にいたのがニーナで、ミア自身も見た目がそこまで派手ではないからだろうか。それでも十分に整っていて、顔に散ったそばかすが素朴な愛嬌として彼女らしさを彩っている。
「…………何を話したんですか?」
「ニーナとの事を色々」
「生徒会室の事まで?」
胡桃色の髪に灰茶色の瞳。全体的に淡い印象を受けるものの、こうしてしっかりと顔を合わせれば、大人びた魅力を纏う落ち着いた雰囲気の女性。
そんな彼女の視線がテオに向けられる。そこには少しだけ棘が篭っている様な……。
「生徒会室……何かあったんですか?」
頭の片隅に色々想像しながら尋ねれば、ミアの肩が揺れる。
恐らくそれは先ほどテオが最後に語ろうとした部分。どうせなら彼女から聞きたい話だが、語ってもらえるだろうか?
「…………どうしてあなたに教えないといけないんですか」
「やめておいた方が身のためだと思うよ。こうなったクラウスに隠し事したらいらない事まで暴かれるから」
「失敬な。言うべき事と胸に秘めておく事の判別くらいついてるつもりだよ」
「……こういう奴だ。無駄な秘密握られたくなかったら自分で語った方が賢明だとだけ進言しておきます」
「…………聞いてた通りの人ですね。……分かりました。その代わり、一方的に聞くだけにしてください。それ以上は言葉にしないでください。それを約束してくださるならお話します」
「もちろん、約束は守るよ」
人のいい笑顔で答えれば視線を強くしたミア。それから彼女は溜息と共に語ってくれた。
* * *
言っておきますけどこれは仕方なくですから。本当に、途方もなく低い関係を持つから貴方に慈悲でお話するんです。曲解したら許しませんから。
私が彼……グライド君に学院で再会して、彼に教えられた通りに生徒会室に向かうと、そこには窓から中庭を見下ろすニーナの姿があった。
その背中に、過去の記憶が重なってぶれる。
彼女を……ニーナ・アルケスを追い詰め、軍属の地位の剥奪と、ハーフェンからドルフへの二階級降級を助長したのは紛れもなく私だ。
だからこそ、その自己嫌悪に耐えられなくなり、私は学院を去った。その後風の噂で、彼女が再びハーフェンへと戻ったと聞いた。
あの頃より少しだけ伸びた背丈。大人びた雰囲気。変わったはずのその背中に、けれど私はあの頃のニーナを重ねる。
「……何、忘れ物でもした?」
錯覚にまた自分を追い込んでいると、不意に響いた彼女の声。少しだけ震えたニーナの言葉に緊張が走る。
けれど聞いた音に、私を責めるような旋律は含まれていない。ただ単純に、興味と疑問。
だからこそ、大きく深呼吸して震える唇で答える。
「えぇ、忘れ物。ずっとここにあった、心残り…………」
「…………聞かせてくれる、ミア?」
言って振り返ったニーナ。そこに宿る真っ直ぐで透き通ったマリンブルーの瞳に息を詰まらせながら、それでも搾り出す。
「────ごめんなさい。今更なんて、そんな都合のいい事は言わない。許して欲しいとも思わない。ただ一言──ごめんなさい」
出来る限りの誠意、深く下げた頭で告げる。
どれだけ謝っても償いきれない。私が犯した過ちは、彼女の一時を確かに狂わせたのだ。その失ってしまった時間を取り戻す事なんて出来ないから。
これは、言わば私自身が勝手に救われるだけの自己満足で、彼女に嫌な思いをさせるだけの一人よがりだ。
そんな事は、私が一番分かっている。
けれど言葉にしないわけにはいかない。必要ならば、この命を捧げる覚悟だってある。
それほどに、私は許されない事をしたのだ。
「…………顔を上げて、聞かせてくれる? どうしてあんな事をしたの?」
私は彼女に生かされている。それを自覚しながら、ニーナの言葉に許し難い自分を押さえ込んで答える。
「……嫌だったの。高潔なエルフで、生徒会長として慕われ、正しい事に胸を張っている貴女が──私は耐えられなかった」
最初にしてたった一つの気持ちを言葉にすれば、歯止めが聞かないほどに溢れてくる。
「私は弱い人間よ。他人の顔色を伺って、その場の雰囲気に流される。そんな自分に言葉にならないほどの嫌悪があった。だからこそ余計に、貴女が羨ましかった。そんな風に、振舞って居たかった」
自分に自信を持てない。それはこの冴えない見た目の所為もあったかもしれない。そばかすだって、何度なくなればいいと思ったか。それだけでいじめられた事だってある。
「けど思ってても、ずっとそうして来た自分は変えられなかった。だからいつの間にか周りに染まって、貴女を批難してた」
誰が言い出した訳ではないニーナへの悪態。それはエルフである事に起因し、渦巻いた色も形もない空気が何かを促しただけの事。
周りがそんな空気になったから、自分もそうしなければ。
そんな言い訳が、いつの間にか彼女を責めていた。
「…………それで? ……ねぇ、違うわよね。それはミアの思ってることじゃない。周りに流されただけの言い訳でしょ? ミアはどう思ってたの?」
問われて、もう既に壊れた感情の錠前が落ちて扉を開かせる。
「……っ。…………好きだったの。ずっと憧れてたっ。貴女が正しい事をするたび、私は尊敬して、隣を歩いていたいと思ってたっ!」
陰で言われていた事を知っている。彼女が責められる以前から、ニーナが生徒会長を真っ当にできているのは、副会長で補佐をするミアのお陰だと。
けれど違うっ。ニーナは確かに正しかったっ。振り回されて追い縋っていたのは、私の方っ!
「だから嫌だったっ。正しい事をしているはずのニーナが責められて……なのに私はそれを止められなかった! 止めるどころか、周りに流されて思ってもない事を沢山口にしたっ! 正しいニーナが、悪者にされてるのが耐えられなかったのっ!!」
憧れが崩れていくのが。彼女を好きな気持ちに嘘を吐くのが。
裏切るようなその行為が。
だから耐えられなくなって、私は自主退学をしたのだ。
彼女に合わせる顔がないと。
「好きだったの、ニーナ! エルフで、生徒会長で、軍属で……すべてにおいて正しいニーナが、大好きだったのっ!!」
「……ありがと」
「違うっ!! そういう意味じゃないっ! 私は、ニーナ・アルケスが好きだったのっ!! 一人の女性として、好きだったの!」
伝わらない。どうすればこの想いは伝わるのか……。
これまで素直になってこなかった自分が恨めしい。事ここに至っても、本当の言葉を、気持ちを伝えられない……!
「許されないってのは分かってる。けどそれは憧れじゃないっ。尊敬じゃない! ただ……ただ私はっ、本当の意味でニーナが大好きだったのっ!!」
大好きで、大好きで。許されないから隣に居るだけで我慢していたほどに────
「ニーナに恋してたのっ!!」
喉が枯れるほどに。今この時しかないのだと心の限りに叫ぶ。涙なんて拭えない。視線を逸らしたくないっ。今ここで、ニーナの答えを聞きたい!
「答えてっ!? 私の事どう思ってんのっ!?」
言葉はいつの間にか糾弾に変わって彼女の胸へと刺さる。
そうしてこちらを見つめる瞳には────ほら、戸惑いだ。
分かっている。こんなのは分かり切った事だ。
ニーナは女で、私も女。好きだと言う気持ちだけは肯定されても、それを許されないのが歴史で、常識だ。
だから彼女を困らせるだけ。こんな告白は、今好きな人が居るニーナにしてみれば迷惑な話だ。
けれどもう引き下がれない。ずっと秘めてきた想いに、ようやく嘘偽りなく向き合えるから。
その先に夢見た答えがない事を、知っているから…………。
「…………………………そっかぁ。……そっっっかぁぁぁ…………」
呟いて困ったように笑う彼女は、頬を掻く。僅かに染まっているのは差し込む夕日の所為だろう。
だって彼女は、純粋に友達だから。
「……うん、えっと…………。ありがと。あたしもね、ミアの事は好きだよ。……けどやっぱり、その好きは、ミアのとは違う。友達としての、好き。だから……ごめん、その気持ちには答えられない」
「…………うん、ありがと……」
分かり切った答えに、胸が締め付けられる。
当たり前の事なのに、認めたくない気持ちが募る。
けれどやっぱり、それは当然の事なのだ。だからずっと隠してきたのに。初めて会った時から感じていたこの気持ちを……何年も押さえ込んできたのに…………。
俯けば、目から涙が零れ落ちる。止め処なく溢れるそれを、拭って拭って……痛いほどに噛み殺す。
きっと、これで最後だ。本当に、彼女に合わせる顔がない。
だから、ニーナと私の幕引きにしては最高級に最悪な仕上がりだ。大好きだった彼女を突き落としてしまった私の罪だ。
胸を突いた衝動に踵を返そうと……こんな私に付き合ってくれたニーナにせめてものお礼がしたいと上げた視界に──とても近くにニーナの顔があって。
「────ぇ……あ、ニーナ…………」
「残酷な事、してるかな……?」
優しく抱きしめられた温かい感触に言葉が、胸が詰まる。
「でもね、聞いて欲しいの。……もし、もしね……嫌じゃなかったら。まだニーナの友達でいてくれる? 傍にいるのが嫌だったら、顔を合わせなくていいから。手紙でもいい。ミアの事、あたしは忘れたくないから」
「そん、なの…………!」
答えたいのに。頷きたいのに。溢れた涙が言葉にならない感情を募らせて喉の奥を塞き止める。
「あたしにはね、ミア以上に心を許せる友達なんていないんだよ。何せエルフだからね、敵が多いんだよっ。そんな中にね、一人でも信頼できる人がいたら心強い。好きでいてくれて、味方になって、愚痴聞いたり笑いあったりしてくれる友達がいたら嬉しい。そんな友達に、なれないかな? 一番の親友じゃ、駄目? 駄目だったら突き飛ばして。それで諦めるから」
耳元で囁かれる優しい声に唇を噛んで心の底から答える。
「……ず、るいよ…………そんなのっ。何でそんなに、自信ないのっ。何で胸を張って友達って言ってくれないのっ!? そうじゃないと許せないよっ! 私が好きになったニーナじゃないっ!」
「ふふっ、何でミアに怒られてるんだろうね」
「知らないよっ!!」
泣き叫んで、それから想いの限りに彼女の体を抱きしめ返す。
「ミアは、ニーナの大好きな友達よっ」
「うんっ…………うんっ!! 好きだよっ、大好きだよ! ニーナぁ!!」
* * *
翌日。既に始まっていた夏季のフェアリードクターの試験受付にニーナに付き添って二人で応募をしに行って。それから学院へと顔を見せれば遅刻を原因に怒られたのは今となってはいい思い出。
けれど胸の支えが取れたのか、学院の雰囲気もしっかりとを顔を上げてみればまだ改善の余地はある事に気付いて。それから放課後に生徒会室へと向かえば、机の上には今日やるべき書類仕事と一緒に連絡事項が一件。目を通せば、それとほぼ同時に叩かれた扉の音。
分かりきった来客に呼び入れる。
「どうぞ」
「……失礼、します」
顔を見せたのはミア。どこか遠慮がちな足取りに、けれど昨日感じた触れたら壊れそうな雰囲気は今はない。その躊躇は、途中退学で学院を去った身で、その直前までいたこの生徒会室に入ることへの忌避感か。
やっぱりそれ一つをとっても、彼女は悪い人ではないのだと。あの時の直感は正しかったのだと嬉しくなる。
「座ってください。……それで、話ってなんですか?」
先ほど確認した訪客予定。テオ個人の客人である彼女を前に生徒会長の椅子に座る気にはなれなくて、部屋の真ん中に設えられたソファー……ニーナが私物で置いていって、生徒会の財産として引き継いだそれに、ミアの目の前に腰を下ろす。
「……その、今回のニーナの事、色々考えたらやっぱり原因は私にあって。それに君まで巻き込んだから……」
「謝られるのは俺も何か違う気がするんだけどなぁ……。もっと早くにニーナの傍に俺がいられていればここまで拗れた事にはならなかったはずだし」
「それ以上に、ちゃんとニーナに謝る機会も準備してくれて……。だから何よりもまず、ありがとうって」
深々と下げた頭。直ぐには上がりそうにない胡桃色の頭に少しだけ困って話題を変える。
「それはまぁ、いいんだけど。……結局あの後何があったんだ? ニーナに聞いても教えてくれなくて……」
「………………言いたく無いんだけど」
返ったのはどこか尖ったような口調。合わせてこちらへ突き刺さった彼女の灰茶色の視線には棘を感じる。俺何か悪い事したか?
「……けど、君は私に出来なかった事をしてくれた、恩人だから。その恩の分だけは答える事にする」
それはまるで自分に言い聞かせるように。やがて呼吸一つ整えたミアは、じっとこちらを見据えて告げる。
「ニーナに告白したの」
「……何をして来たかって事だろ。で、それを謝って────」
「違うっ」
「え……?」
ミアの紡いだ失敗の過去を告白したのでは? そのために気を利かせたのに、それ以外のことで利用されたと?
「ニーナに……好きだって…………」
「…………それは、友達として……?」
「……………………」
「……まじか…………」
沈黙の肯定に、聞かされた真実に思わず面食らう。
初めて会ったときから感じていた違和感。何かがおかしいと思っていたのは確かだ。
ニーナを追い詰めた彼女が償いたいと思っていたのは分かる。その上に重ねて再び追い込んでしまったことへも胸を痛めたのだろう。
それらに対して責任を感じて、彼女を放って置けなくて自分の部屋に連れて帰った。それも分かる。
けれどずっと疑問に思っていた事が一つ。
どうして彼女はニーナの出生の噂が嘘だと知っていてエルゼに連絡を入れなかったのか。そして嘘だとニーナに直接告げなかったのか。エルゼもニーナがスハイルから帰って来てから彼女の姿を見ていないことには心配をしていたようで、テオがニーナの事で確認を取りに言ったときも余り作業が手に付いていない感じではあったのだ。
けれど例えばそこに、彼女個人の思惑が絡むのだとしたら……。
「……酷い話だよね。女の子同士で、気持ち悪いよね」
「……………………」
「でもね、例え落ち込んでるニーナでも、一緒にいられて嬉しかったんだ。歪んでる上に独占欲って救いが無いけど……そうして満たされてた部分が、やっぱりどこかにあったんだ……」
好きな人の近くにいたい、なんてのは誰もが考えることだ。だから愛を確かめ合った男女は所帯を持つし、その結晶として子を授かる。それがただ、ミアの場合は相手が同性で、ニーナだっただけ。
「本当は、私一人でどうにか出来るならそうしたかったの。私一人の力でニーナに元に戻って貰えたら、少しは感謝して、私のことを見てくれるんじゃないかなって……」
何処までも献身的で深い感情。彼女は先ほどそれを独占欲なんて言ったけれど、テオはそうは思わない。それは当たり前の感情だ。あるのは程度の差。
「でもね、ある日聞いたんだ。ニーナ、付き合ってる男の子がいるんだって。その人が探してるって、何か知らないかって……ルキダさんから」
あぁそうか。それであの景色に繋がるのか。
「私ニーナのこと大好きだから。……だからニーナが幸せになるならその方がいいと思ったんだ。私とは、どうあっても許されないから。……それに、私一人じゃどうしようもないこと、どこかで気付いてたから」
「それで、アンネさんに話をして、俺がやってきたと」
頷くミアに、彼女の胸の内を考える。
大好きなニーナの事を助けたくて、けれどどうしようも出来なくて。気持ちとは裏腹に身も引かないとと思い詰めて……。だったらあれは、仕方の無いことなのだろう。
「……あの時リリウムさん、俺に対して嫉妬してた?」
「…………みっともないよね。そもそも私の気持ちは私だけの物で、それを君にぶつけるなんて。君は私の気持ちなんて知ってるはずは無かったのに」
ニーナの居場所を教えてくれた時、どこか距離を置くように話をしていた彼女。最後まで聞こえなかった彼女の本心に、テオはずっとどうしてと疑問を抱いていた。
けれどこうして知ってしまえば呆気なくて、彼女からしてみれば当然の事。
好きな人の彼氏。自分の知らない間に出来た理解者に憧れと不安が綯い交ぜになって、嫉妬と言う形を持ったのだ。
きっと先にニーナの事を好きになったのはミアの方。それを後から現れたテオに奪われれば、敵視してもおかしくはない。
「……でもね、顔を見て……目の色を見て、君で少し安心した。この人ならニーナを守ってくれるって。何かあったときに絶対に味方になってくれるって。嬉しくて、悔しくて…………一番嫌なのは君が格好良い事っ。自覚してる?」
「……否定は、したいけど。周りがそうさせてくれないから諦めてる」
「それじゃあ許せないっ。ニーナの隣に立つんだから、自信を持ってもらわないと」
どうして俺は彼女に説教されているのだろうか……。
浮かんだ疑問は、けれど吹き出した笑みに変わって彼女と二人肩を揺らす。
「……話は、だから…………まだ負けたつもりはないって事っ」
「え、謝りに来たんじゃ……?」
「それはもうしたからっ。それにまだ二人結婚してるわけじゃないんでしょ? 学生だし」
「それは、そうだけど……」
「私とはそうなれないけど、引き離すだけならできるんだからっ。覚悟しておいてね?」
意地悪に笑うミア。どうやらエルゼより先に、彼女の眼鏡に適わないとニーナの隣にはいられない仕組みらしい。彼女は一体ニーナの何なのだと。
「その不屈さには負けるよ……」
「なにせニーナの一番の親友だからねっ」
そうしてミアは、最初に抱いた素朴なんて印象とは程遠く可愛らしい微笑みで胸を張るのだった。




