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フェアリー・クインテット  作者: 芝森 蛍
望郷の協奏曲(コンチェルト)
73/138

第二章

 やってきた過去らしい場所で土地勘もないまま、ピスカに先導されて森を歩いき山道へと合流する。

 人の温もり、踏み固められた茶色い土の道を見下ろして思わず足を止める。

 時間にして十分くらいだろうか。体感距離は約700メントほど。獣道と言う言葉でさえ優しく聞こえる森の中を、ピスカについて歩いてきた。ピスカは樹木や草葉に干渉範囲を持つ妖精なのか、その通り過ぎた先から手も振れずに道を作り出していた。少なくとも自然に何かしらの繋がりを持つ存在なのだろう。ふと振り返ればクラウスが踏み締めた草葉が折れて僅かな通り道ができていた。


「置いていくよっ」


 振り返らずそう零した声。中性的な性別の曖昧な響きが、虹色に輝く短い髪と共に揺れる。

 殆ど言葉を交わさずにここまで出てきたが、未だにその存在が男なのか女性なのか分からない。

 もしかして性別などないのだろうか?

 こんな過去の事を詳しくは知らないけれど、クラウスの見聞ではその可能性すらも見えてくる。

 けれど多分その可能性はない。オーベロンと名乗る彼だってきっと男だ。もちろん男と名乗っている女性の可能性もあるが……。だとすればピスカもまた性別で分類できるはずだ。

 考えて、しかし答えの見つからなかった疑問は一度棚上げして溜息と共に再び歩き出す。そうして、横に並んでようやく気付いた。


「……あれ、人化…………」

「人間に見える? ならいいや。初めてやったけど意外と簡単なもんだね」


 人間大のその背丈。クラウスより10セミル程小さいその身長は、アンネと同じくらいだろうかと比べつつ新たな疑問を考える。


「…………ピスカは純粋な妖精だよね?」

「何を馬鹿な事を。当たり前に決まってる」

「ならどうして人化を?」

「……この姿が人を模したものだってのは知ってる? 人に似た姿になれるんだからもっと人に似せる事が出来るのは当たり前」

「……妖精術とかじゃないのか?」

「好きな風に考えれば?」


 視界の端で確認してみるがその背中に二対四枚の虹色の翅はない。完全な人型だ。

 クラウスの知る知識では一人でそんな事が出来るのはハーフィーだけだ。けれどピスカは純粋な妖精。普通なら翅付きの人化どころか、人間大にだってなれないはずだ。

 それに回路から妖精力を引っ張られたような感じもしなかった。となるとやり方は限られてくる。一番可能性が高いのはピスカの固有技能……特技だ。


「別にそんなの一々考えることじゃないと思うけど。あぁ、それと人間の波長少し貸して?」

「貸す?」

「ほら、君の特技。何て言ったっけ……」

調波(アベレージング)?」

「そう、それ。その指環だけだと不十分だし、いつまでもこのままだとこっちの気分が悪くなる」


 言って指環を指差すピスカ。銀色の環に幾つかの宝石が込められた豪奢な装飾品。ピスカとクラウスを仮初の契約で繋ぐ媒体。


「……随分と僕の事について知ってるんだな」

「今回の仕事と一緒に教えられたから。仕方なく覚えただけ」


 オーベロンの仕業かと。

 御伽噺で全知の存在として描かれる彼に顔を思い浮かべつつ呆れる。全く、個人情報もあったものではない。

 面倒臭いのに掴まったものだと嘆息しつつ差し出された拳に自分の物をくっつけて特技を発動する。

 どうでもいいがこの時代でも妖精力に基づく力はクラウスにも使えるらしい。それとも特技だけだろうか?

 見た目にはない変化に、ピスカはその手のひらをしばらく見つめて鼻を鳴らした。


「何でこんなのが……」


 吐き捨てるようにそう告げて歩き出すピスカ。だから一体何に怒っているのだと。

 理不尽な矛先に言い返す気力さえ見つからず再び歩き出す。

 隣を進むピスカはじっと前を見つめたまま口を開かない。聞きたい事は山ほどあるのに、そのどれにも答えないという確たる姿勢に少しだけ諦める。

 とりあえずはピスカが今の相棒だ。その関係をこれ以上悪化させてもクラウスには何の得もない。

 胸に渦巻く色々な疑問を全て飲み込んで目先の目標を尋ねる。


「……それで、彼の頼み事って言うのは?」

「とある植物の苗を取ってくること。ミズナラとサンザシと……あと、あぁ、トネリコっ」

「子供のお遣いか」


 もっと大義名分のありそうな事かと思えば随分と庶民的で小さな願い事だ。

 確かに樹木の苗なら一人で運ぶのは大変かもしれないが、そんな事にクラウスが振り回される理由が分からない。


「嫌なら聞かなければいい。必要なことだから成し遂げる。全部が君に関係あるなんて考えない事だね」


 そんなクラウスの頭の中を覗くように告げるピスカ。いや、回路が繋がっているのだから可能と言えば可能か。

 ピスカだってオーベロンの近くに居た妖精だ。妖精力の扱いに長けていてもおかしくはない。


「残念だけどその話こそ聞けない相談だ。帰れる見込みがあるならそのために行動を起こす。帰って、やらなきゃいけない事があるからな」


 まだ彼女に答えを返していない。

 保留にして、置いてきて、こんなところまで逃げてしまったから。そのつけを清算するために、クラウスは帰らないといけないのだ。


「……好きにすればいい。どうせ君は異邦人だ。その体だって借り物。真に馴染めやしない」

「借り物…………?」


 返った言葉にまた疑問が湧く。

 それではまるでクラウスが誰かの体に憑依しているみたいではないか。


「そうだ、それは君の体に似せた紛い物だ。見た目は君の魂に()っているけどね」


 またややこしい話方をすると。オーベロン然りだがその古めかしい語調はもう少しどうにかならないのだろうか。


「君のその体は元の肉体ではない。君のために用意した特別製だ。魂だけの存在が何かを起こせるって言うのは稀だ」

「その考えは魂魄理論に近いかな……」

「魂はそれだけでは意味がない。依り代となるべき体があってこそ何かをなせる。魂だけの存在である君がこうして何かをするには必要な拠り所ってこと」


 そう言えばオーベロンも言っていた。魂を連れてきたと。

 あの時の質問には答えが返らなくてその疑問を棚上げしていたのだが、どうやら言葉通りの意味合いだったらしい。

 少し冷静に考えてみる。

 クラウスはクォーターで、そこに四分の一だけ妖精の波長が宿るからこうして彼に招かれてここに来た。逆に考えればその妖精の部分があったからこそ連れて来る事ができた。ならばその波長と言うものは、やはり肉体ではなく魂に宿る概念と言う事だろう。


「その体は形のない妖精が人の体を得るための依り代……魂の器。そこに宿る波長によって見た目が変わる、無貌の器」


 似たような妖精が居た気もするが、どんな名前だったか……。

 妖性大辞典で流し見をした記憶を遡ってみるが曖昧で思い出せない。クラウスだって全てを覚えておけるほど余裕があるわけではないのだ。


「波長に依存する借り物の体、ね……。だったらやっぱり余り妖精術とか使わない方がいいのかな?」

「…………使いたいなら使えば? どうなってもピスカは知らないけど」


 相変わらず自己責任を押し付けてくると。きっとその時になってもピスカはクラウスの手助けをしてくれないのだろう。まだまだ分からない事はたくさんあるのに何故かそれだけは確信できる。回路のお陰だろうか?


「無駄話するごとに君と一緒にいなくちゃいけない時間が増えるんだっ。早くしてくれ」

「なら引き換えに一つお願いだ」

「何っ」

「せめて名前で呼んでよ。魂にこそ個人があるのなら、例え借り物でもここに居る僕はクラウス・アルフィルクだ」

「…………人の名前は言い難いんだよ、クラウスっ」


 素直なのか頑固なのか分からないことだ。もしそれが演技なのだとしたら大したものだと思いつつ小さな笑いと共に足を出す。

 顔を背けたピスカは、それから一つ溜息を落として歩き疲れたという風に人化を解いてクラウスの頭の上へと座り込んだ。だったら人化なんてしなければいいのに。

 考えつつ顔を上げれば合わせて後ろに傾いだその頭頂で、驚いた風に髪を掴むピスカの声が小さく響いたのだった。




 それからしばらく整備のあまりされていない土の道を突き進めば、段々と空気に人のにおいが混じってくる。

 生活の息吹。人の温もり。食べ物の匂い。普段は意識のしない空気を染める色のないにおいが辺りを包み込む。

 更に歩けば馬が牽く荷車とすれ違った。御者台に乗った男は手綱を握りどこか疲れたようにぼぅっと前を見据える。森の方から歩いてきたクラウスには目もくれずに傍を通り過ぎて、それから一つ欠伸をしたようだった。


「町が近いのかな?」

「人の群れてる場所だっけ。名前は確か……あぁ、そう。ミドラース」

「……もしかして通行許可証とか必要だったり?」

「ないない。体裁整えるみたいに壁はあるけど」


 退屈そうに答えるピスカ。その言葉を借りて遠くに見えてきたそれを見据える。

 ミドラース。それが町の名前だろう。いや、土地だろうか。もしかしたらそこを治める者の名前かもしれない。

 学院の授業でも習ったがその名前には幾つかの由来があったりする。国の名前は治めた者の名前であったり、地理的な意味が。小さな土地だと有力な者の家名がつく事もある。


「ミドラース……意味は間の地……いや、中心地、かな?」

「知らないよ。人の事になんて興味ないっ」


 薄情な事だとピスカの知識は当てにせず辺りを見渡す。

 森に囲まれた地形。随分遠くには薄く緑の稜線も見える。空気は澄んでいて、ここへ来るまでに川も渡った。きっと近くに流れている事だろう。

 ミドラースと言うその地名が、何か大きなものの中心地なのか、それともここら一帯を指しているだけなのかは定かではないが、少なくとも人が栄えるだけの条件はあるようだ。

 水と、土と、空気。

 そこに住まう生物と資材と人があれば、村や町ができるのは必然の事だ。

 人の密度からして人口は……三万人くらいか。意外と狭い土地に集まっている事からその密度は高そうだ。もちろん、狭いといっても町と言える程度。有権者の豪邸程度ならいくつか建っていてもおかしくはないほどだ。


「で、お遣いを果たす手段はもうあるの?」

「だから人の世には興味ないって。そんな事ピスカが一々知るわけないじゃん」


 当たり前だと言う風に告げるピスカ。その緑と青の瞳の奥の無邪気な色に溜息すら吐く。

 勝手に押し付けておいて方法論は丸投げとは、それを信頼と感じるには些か紡いだ関係が薄すぎる。


「なら好きな風にやってもいいんだよね?」

「あ、そうだ。はいこれ」


 全てを任せてもらえるならばいつも通りクラウスのやり方でどうにかするまでだと。そう確認を取れば返ったのは的外れな声。相変わらずクラウスとは噛み合わない波長の持ち主だと呆れつつ、頭の上から降ってきた巾着を受け止める。

 ずしりと重い感触。締めてある紐を緩めれば、中には黄金に輝く貨幣が山のように詰まっていた。


「これは?」

「資金。どうせ一日じゃ終わらないだろうからって宿代とか含めて渡されたやつ」

「……全部金貨(ギニー)なんだけど」

「何か問題が?」

「…………いや、ありがたく使わせてもらうよ」


 金貨は貨幣の中でも最も価値の高い硬貨だ。その表面に刻印されている絵柄はクラウスが知っている時代のそれとは違うがそんなのは些細な事。

 貨幣に描かれる人物や建物なんて大体がその時代や国、地域の象徴だ。クラウスの居た時代でも国ごとに貨幣の模様は違う。ただし貨幣そのものの価値は殆ど変わらない。時折貨幣に含有される鉱物の割合で上下したりするが、これだけ沢山あればそれも誤差だ。

 妖精と繋がりの深い大地で、その助けを借りれば鉱脈など幾らでも掘り当てられる。だからこそ貨幣価値は僅かな変化。戦いで金属が必要になれば話は別だが……。

 あとはこの時代における金貨がどれ程の価値を持つのかを知るだけだ。とりあえず最初は市場にでも向かうとしようか?

 金貨ばかりと言うのは少し使い勝手の悪い事だと考えつつ、何処で銀貨(シニー)銅貨(キニー)と交換しようかと考えていると、いつの間にか遠くに見えていた町の景色が目の前に迫っていた。

 足元が土の道から石畳のそれに変わっている事に気付きつつ流れる人の流れに埋もれていく。

 ようやく身近に感じた人の温もり。クラウスにとっても慣れ親しんだ雰囲気に少しだけ安堵する。

 と、そこで頭の上のピスカが物珍しそうに周りを見渡している事に気が付いた。その姿、驚愕と興奮に彩られた月目のその奥の揺れる炎に覚えのある色を見る。


「珍しい?」

「っ、べ、別に……!」


 声を向けられて知らず慌てたピスカ。そんな様子に小さく笑いつつ重ねる。

 まるで契約したばかりの頃のフィーナのようだと。クォーターとして人に近しいはずの彼女が人の世界の事を余り沢山知らなくて。だからこそ抱いた興味の感情に少し新鮮な感覚を味わっていた春の頃。

 あの頃の彼女とよく似ていると思いながら、けれど正反対の素直ではない性格に今度はアルの姿を重ねる。

 例えばフィーナとアルを混ぜて一つの妖精にしたらピスカのようになるのではないだろうかと。

 どうでも良い事を考えながら人の波に揺られて活気のある町の中心部へと向かった。

 移る景色。歩くたびに流れる風景は段々と活気付き、色を鮮やかにしていく。

 遠目から見た町の全容は円形だった。森に囲まれたこの地域。野生動物との接触も鑑みて全方位に警戒をしながら発展したことで、町を支える主要なものは自然とその中心へと集まる。

 物の流れ、人の流れ、金の流れ。

 それらがある一点に向かって分布するこの町は、中央に近づくに連れて更に賑やかになる。

 外縁部では少し殺気立った雰囲気の空気が段々と緩み、視界を彩る色も豪華になっていく。

 この辺りの貧富の差、生まれる格差は何処でも同じかと。ブランデンブルクの貧困街での事を思い出しつつようやく目的地に辿り着く。

 町の中心部。この辺りは所謂富裕層……生活に不自由をしない人たちが集まる場所だ。物流が盛んで人の密度も高い。結果少し苦しいほどに空気が淀む。

 先ほどまで森の中を歩いていたクラウスからしてみれば、やはり少しだけ息をするのが辛い。


「この町の最も活気のある場所だよ。色々知りたい事があるし少し見て回ろうか?」

「……好きにすれば? ただしあまり時間はつかわないことだね」


 どこか呆けたようにそう零すピスカ。言葉こそ僅かに尖っているが、その語調は緩みきっている。

 それは見たこともないほど群れる人の景色に、だろうか。

 ピスカ自身も言っていたが人の世には疎いらしい。逆に見れば、こういう景色はピスカにとってまだ見ぬ新鮮な感覚の宝庫だ。

 その質量に、圧倒されるのは別に間違ってなど居ない。クラウスだってオーベロンに呼び出されたあの幻想の都で、少しだけ自分と言う存在を見失いかけたのだ。

 誰にだって然るべき感情にして有り触れた一幕だ。

 活気に当てられてクラウスも人らしさの仮面を取り戻す。

 一度空を見上げて時間を確認。そろそろ昼頃だろうか?

 次いで視線は声を張り上げる露天の方へ。特に注意するのは飲食店だ。立ち上る煙などを合図に幾つかの店先を覗いて回る。

 流石にクラウスの知らない過去の時間。使われている言語も少しだけクラウスの時代と異なるが、それでも人間の文化。細かいところまでは分からなくても大まかに分かればそれで十分だ。

 何より助かったのは数字の表記が昔と今では変わらなかった事。クラウスの知っている知識で類推が出来るのだから欲しい情報は次々に集まる。

 市場の売り物から季節を。周りの人々の身形や相場から金銭感覚を。何より街の雰囲気から土地柄を。

 視界に違和感を感じつつそうして幾つか回れば、時折頭の上から小さな声が聞こえている事に気が付いた。


「あぁ……ううぅっ…………え、何…………あ、匂いがぁ……」


 それはピスカの呻き声。移る視線の向かう先にはどれも露天──飲食を取り扱う店ばかり。

 ピスカの興味の矛先に少し意地悪に音を紡ぐ。


「そろそろ昼か……。何か食べないとな…………」

「え……食べ…………」

「何がいいかな……」


 クラウスとしても少し目移りする露天の数だ。クラウスの知らない時代、過去の事であって元いた時代ではない料理も存在する。豪快なのは骨付き肉だろうか。未来のブランデンブルクではどうでもいい理由で販売が禁止されていた。確か食べた後の骨をそこら辺に投げ捨てた事で白骨死体だと勘違いされ、一時期騒然となったからだったはずだ。

 一部の作法が守れなかった人たちが起こした自業自得といえばそれまでだが、そんな人たちのお陰でクラウスも食べられなくなったのは残念だ。

 その言わば幻のような食べ物。ある程度値も張るちょっとした贅沢品。元いた時代では大きな催し事でしか目にする事のなくなった憧れの一品だ。

 幾つかの味付けのある種類豊かな食べ物。少しだけ考えて覚悟を決める。

 幸い懐事情は明るい。それに何より思い出も欲しい。

 オーベロンに呼ばれ、その遣いをやらされているこの魂ではあるが、それだけで貴重な時間を遣い潰すのは何か腑に落ちなかったところだ。

 何よりピスカが言った通り、方法論なら既にこちらへ委ねられている。ならば道中自由な折に何をしようとクラウスの勝手だと。

 理由を並べ立てて好奇心を正当化すれば屋台へ。そうして買い求めた一品は随分と重量のあるものだった。

 思いの外安かったのはまだこの時代では高級品として扱われていなかったからかもしれない。

 そんな事を考えつつ市場の一角、休憩空間に開いた椅子に腰掛けてようやく口に運ぶ。

 鼻先を擽る香辛料の刺激的な香り。持ち手に滲む重いほどの肉汁の珠。何より肉厚なその圧倒的な質量。

 見ているだけでも満足なその重量に少しだけ楽しくなりつつ口を開く。


「あぁぁ……」


 と、そこで響いた情けないような声。もちろんのこと、その出所はクラウスの頭の上の妖精から。

 ちらりと一瞥すればピスカの視線はクラウスの手元へと熱心に注がれていた。

 そう言えばそういう拷問があると耳に挟んだ事がある。

 目の前で美味しそうな食べ物を並べ、その匂いだけを嗅がせ、最後の一押しに自分が食べる。

 抗い難いほどの欲を刺激して理性と忍耐の箍を外させる非道な拷問。そうして必要な情報を吐き出させるという手法だ。

 クラウスのいた時代ではブランデンブルクの真西……トゥレイス騎士団国でもまだ使われていると聞く原始的にして意外と効果のある方法。例えば訓練を受けていたとして、けれどその抗い難い欲求にいつまで反抗し続けられるだろうかと。

 もしクラウスならどうにか口舌で切り抜けるのかもしれないとその時の想像をしつつ焦点を目の前に。


「どうかした?」

「ふぇっ……? あ、違っ!」


 問い掛けに音が聞こえそうなほど生唾を飲み込んだピスカ。その瞳に宿る好奇心の色は消せないまま、言葉だけが無情に尖る。

 もちろん分かっている。妖精にとって楽しい事……自分が納得する興味こそが何処までも抗い難い欲求だ。もしこの肉塊に食欲をそそられているのであれば、きっとそこまで長くは嘘を吐き通せない。


「この時代に来た記念だよ。別に食べちゃいけないとは言わないよね?」

「え、あ、……うん…………」


 既に聞いているのかいないのか。返った答えに上の空な音を聞いて小さく笑う。

 そんな意地悪にピスカははっとして唸った後、クラウスの髪の毛を一房引っ張った。


「別に欲しいならそう言えばいいのに」

「誰もそんな事は言ってないっ! それともピスカに分けてくれるって言うなら、その、貰ってやらなくもない、けどっ」


 そこは折れる事のできない一線か。難儀な性格だと笑ってそれから手に持った骨付き肉を刺し出す。


「……だったら一口どうぞ。僕一人じゃ食べ切れそうにないし」

「全く、自分で自分のことが分からないとか……ぬひひっ」


 思ってる事を隠せない方が僕はどうかと思うけど。

 それが妖精らしさかと諦めればようやくピスカとの付き合い方を見つけた気がしたクラウスだった。




 そうして昼食に少し豪華な食事を堪能して。休憩の後に再びミドラースの町を歩き回る。

 幾つかの目立つ建物。その位置関係から頭の中にこの土地の地図を作っていく。

 オーベロンのお遣いは、けれどその殆どこちらに丸投げされているお陰で中々に難題だ。何せ目的の苗が何処で手に入るかすらピスカは教えてくれない。

 ならば自力でどうにかするしかなくて、そのためにはある程度腰を据える必要がある。

 そのための地盤作り。

 一から自分の足でと言うのは少し億劫で、けれど冒険譚のように子供心な楽しみを胸に抱く。

 何せ知らない土地、経験した事のない文化が宿る場所だ。それを学ぶというには少し日常的になりすぎているクラウスにしてみれば貴重な経験。今しか出来ないだろう事なら今するべきだ。それが何かの役に立たなくとも経験は感性を豊かにする。人間らしく、振舞える。


「あれほど張り切っていたわりに随分失速したね?」

「何よりもまず知る事だよ。僕はここについて何も知らない、知らなさ過ぎるからね。いきなり連れてこられたこの場所で無法を振り翳すにはそこにある正しいものを知っていないと」


 ピスカの声に答えてそれから改めて見つめなおす。

 どこにいてもクラウスはクラウスで、それは変わらない。クラウスのやりたいようにやるのなら、クラウスがクラウス以外を演じるのは不合理だ。

 正論を知るからこそ穿ったものの見方が出来る。クラウスらしさと言うのはきっとそれだけの事なのだ。

 子供の頃から周りの目と悪態に晒され続けてきたこの身だ。だからこそクォーターとして何が人間らしくてそうではないのかを誰よりも知っている。

 欠けた者として、より人間らしく振舞う事については呼吸と同じほどにこの体に染み付いた処世術だ。

 その知っている正しいだろう人間らしい道徳を裏から見つめて、クォーターらしい視点を作り上げる。

 つまりはクラウスの人並み外れた考え方と言うのは、ただ正しい事を反対側から見つめて裏返しただけの、言わば子供の反抗心のようなそれだ。

 クラウスはクラウス以上に人間らしい正しさを知っている他人を知らない。その気になれば根拠のいらない誰もが頷く正しさと言うものを幾らでも振りかざせる。

 しかしそれではクラウスではないから。どうあってもクラウスはクォーターだから。

 だからクラウスは人間ではなくクォーターとして……クラウス・アルフィルクとして振舞うのだ。

 こんな歪んだ考え方、どうしてそうなったのかと問われれば必要なら答えてもいい。けれどできることならそれを口にせず我が儘に暴論と悪行を振り回し続けていたい。

 だってそれは、クラウスの幼少期の記憶を暴きたて、誰も得のしない現実と言う過去を見つめるだけの寂しい事だ。

 何よりそれがクラウス一人の問題ならば、悲劇の主人公を気取れたのかもしれないと少しだけ苛む。

 語れば他の人までを巻き込んで、その人の過去の尊厳を踏み躙ってしまうから。クォーターらしく人の道を外れるクラウスの、最後の人間らしい部分がそれを許せないから。まだ人間らしく振舞いたいから、それを口にするのを躊躇われる。

 フィーナ辺りは回路を通して幾つか知っているかもしれない。アルはその時の裏の当事者だ。気になるなら二人を餌で釣って喋らせればいい。クリームパンとプリンだ。安い貢物だろう。


「……人間らしいことだ」

「誰よりも人間だよ、僕は」


 そして誰よりもクォーターだ。

 だから同情されるなんてごめんだ。

 そんな人間らしい日常を取り戻すために、僕は戻らなければいけない。

 そのために今を懸命に生きる。


「…………さて、大分頭に入ったかな。宿とかはどうなってるの?」

「任せる。と言うか今後そういう事をピスカに聞かないでくれっ」

「分かった、好きにやらせてもらうよ」


 一応の確認に放った疑問には想像通りの返答。よし、ならばここを最初のクラウスの都合としよう。

 見上げた空の色。そこにある天蓋は知っている色と変わらず、茜色に染まる雲が綺麗な色でゆっくりと流れていた。

 宿に止まるにはお金が掛かる。けれど幸いか多いほど持たされた資金。金に糸目をつける事はしないで済みそうだ。

 ただ料金が高いからといって必ずしも望んだものが手に入るとは限らない。今回に限って言えば最悪寝泊りできればそれで十分だが……。


「……あそこにしようか」


 ふと目に入った宿屋。出入り口に掛けられた看板には『泊木亭』の文字を見つける事が出来た。

 クラウスはこの時代における異邦者だ。きっといつかは元いた場所に帰る身の放浪者。渡り鳥だと語れば丁度いい宿だ。

 周りに幾つか食事処もある。余り不自由はしなくてよさそうだ。

 そう考えて叩いた扉。戸を潜った先にあった景色に少し驚く。

 内装は酒場のようなそれ。直ぐにそこが宿屋を兼ねているものだと気付いて少し嬉しくなる。

 今回に限っては好都合だ。


「すみません、宿泊希望なんですが」

「ちょいまちーっ」


 入って見当たらなかった店主の姿に店の奥へ声を投げれば返ったのは威勢のいい女の声。しばらくして出てきた女性は短い髪を頭の後ろで一つ括りにした快活な雰囲気の人物だった。


「おや、若いね。一人?」

「ふた…………あ、はい、一人です」

「んじゃこれに名前書いて。にしても君みたいな坊やが珍しいね、旅かい? 自分探しかい? まさか家出?」


 差し出された帳簿に筆を走らせつつ向けられた言葉に返す。


「……聞いてどうなるんですか?」

「何、ちょっとした楽しみさ。羽振りがいいお客ならちょいと色をつけようかとね」

「それを自分から言うのは……あぁ、そういう」

「何だ、ただの坊やかと思ったら存外頭の回転がいいね。いいよ、気に入ったっ。この部屋使いな」


 人に慣れた狡賢い会話だ。思ってもいないのに言葉にしてこちらの顔色を窺う。もう少しで痛い目を見るところだった。

 小さく笑えば彼女もまた肩頬を吊り上げて笑顔を見せると長机の下から木製の鍵札を取り出す。


「賑やかなのは勘弁してくれ、それが売りなんだ」

「大丈夫ですよ。その方が安心できます」

「いいね、嫌いじゃないよ、話の分かるやつは。部屋は二階の突き当たりだ。ゆっくりしていくといい」

「ありがとうございます」


 鍵を受け取って僅かに軋む階段を上がる。一階の酒場から離れれば途端に空気が寒くなった。


「……ちょっと、どういうこと? さっきの何?」

「別に、特別な話じゃないよ。ただちょっと暴利を突きつけられそうになっただけ」


 ピスカの問いに答えて小さく笑う。

 もしあそこで旅人だなどと嘘を吐けば気付かないくらいの無駄金を払う事になっていただろう。別に痛い話ではないが何よりもその得で彼女の信頼を買えたのだからこちらの儲けだ。彼女にしてみても面白い客なのだから悪い話ではないはず。

 残念なのはクラウスはここを離れた後、どうあっても同じ宿を二度と使う事がないということ。その辺りは言わぬが華。知らない方が幸せな事だってある。

 何よりクラウスにとっての得だ。今更文句をつけられても知った事ではない。


「あぁ、後出来ることならこの宿屋にいる間はその姿のままでいて。人化してるところ見られると面倒な事になるから」

「……その話を聞くだけの見返りは?」

「出来る限り食事を有意義なものにしてあげるよ」

「……ふむ、まぁいいよ」


 相変わらず一筋縄ではいかない単純な妖精だと、けれどそこに楽しみを見出しつつ割り当てられた部屋の扉を開く。

 内装は木製の温かい造り。思いの外上質な寝床と小さな机に椅子。そして通りを上から見下ろせる小窓。加えて備え付けの小さな浴室もある。浴室といっても浴槽があるわけではなく、捻れば出る蛇口と桶がついただけの小部屋だ。

 しかしここはクラウスのいた時代より随分と過去。小さくてもこんな設備が整っている分まだ豪華で、好待遇な筈だ。

 いい部屋を──宿を引き当てたものだと偶然に感謝をしつつそれから一息吐く。


「さて、これからどうするかだけど……」


 一通りこの町を巡ってみて分かったのは、まず花屋はあってもそこでは樹木の苗は取り扱っていないという事。

 そもそも木材が欲しければ少し外へ歩いて自力で切り倒してくれば幾らでも手に入る。植生さえ理解していれば好きな種類の木材を手にする事だって簡単なはずだ。

 探せば(きこり)くらい見つかるかもしれないが、偶然の出会いを探すよりはその苗だけを追いかけた方が早いはずだ。

 そのためにはまずは情報を。物の流れを追ってその名前の尻尾を捕まえなければ。

 考えて、それからふと脳裏を過ぎった事実に気付く。


「そう言えばピスカについて何か言ってくる人は殆どいないけど……もしかしてこの時代だと妖精従き(フィニアン)って珍しい?」


 これまで町を巡ってきた記憶を思い返す。

 まず妖精の姿を殆ど見かけない。

 クラウスのいた時代では野良の妖精なんて数えるのが億劫なほどそこらに沢山いる。妖精従きの数だって万と言う単位で存在する、ある種の生態系といってもいい。

 けれどこの時代は違う。

 妖精従きどころか妖精の姿すら見つからない。町を探索した時間はそれほど長くはないが、それでも両手の指で足りるほどしか見ていないのだ。


「珍しい……と言うかまだ生まれてすらいないね。妖精が見える人もそう多くない。一部の人たちだけ」

「……って事は随分な昔だね、ここは」


 ピスカの言葉に記憶を辿る。

 学院の授業で習った通りなら、妖精と言う存在が現れたのは人の歴史……原生歴を数え始めてから500年以上経った後だ。

 そこから増えた妖精憑き(フィジー)……妖精が見える者との間に契約が結ばれ、妖精従きが誕生するのが更に何年も後。

 つまりこの時代において人間からすると妖精という種はまだまだ歓迎されるには程遠い存在だ。


「ただ妖精ってだけなら別に珍しくはないよ。気付いてないだけで」

「……と言うと?」

「人化で人の中にいるってだけ。あの技を使えば妖精が見えない者にも普通の人間と変わらずそう見える」


 人間大に大きくなって二対四枚の翅が消えれば妖精は人と大差などない。

 人化の術と言うのはその波長に人間のそれを混ぜて人間らしくなるというものだ。

 人との間に関係を築きたかったオーベロンが妖精を人の似姿で景色に溶け込ませる。だから妖精は人型で、妖性を剥き出しにはしていないのだ。


「ピスカも人型だね。妖精のその姿はこんなに昔からあったのか……」

「そうじゃないと人間はピスカたち妖精を敵対視するから」


 改めて思う。

 妖精と言う存在は人間より先に生きる種族だ。

 人よりも人の事を知っていて、何者よりも自分たちの事を知っている。

 それはもしかすると、この大地における人類の歴史よりも長いほどに……。


「苦労してるんだね」

「させてるのはどっちだと思う?」

「……そろそろ夕食だけどどうしようか」

「任せる」


 ピスカの言葉に答えから逃げて話題転換。窓から差し込む群青へと変わる景色を眺めながら一階へと降りる。

 変わらない盛況さはこの店の売り。ならば今回はその賑やかしにクラウスも首を突っ込むとしよう。

 店内を見回して盛り上がっているその間を抜けながら、空いていた店主であり宿主の目の前の席へと座る。


麦酒(エール)を一杯」

「なんだい、外で食べてこないのかい? 自慢じゃないがそこまで凝ったものは出せないよっ」

「折角いい店に出会えましたからね。それは失礼って話じゃないですか?」

「……まぁ構わないけどね。はい麦酒っ。好きに悪酔いすればいい」

「そこまで飲むつもりはありませんよ」


 温かみのある木製の柄を受け取って一口下す。

 久しぶりに飲んだその感覚に少し度が強いかもしれないと少ない経験でものを語ってそれから食事を頼む。

 そうして更けていく夜。煩いほどの酒飲み共の歓声と笑い声に飲んだ以上の酩酊を覚えつつ、満足を得られたいいところで水差しを持って自室へ上がる。

 いつの間にかピスカの定位置となった頭の上からは小さな呼吸の音。そう言えば興味本位と言ってピスカもエールには口をつけていたと。妖精の体に酒精はいいのだろうかと少しだけ考えつつ、けれど回った酔いで纏まらなかった思考の結論を丸投げする。

 健やかな寝息を立てるピスカを寝床に横たえてクラウスは一人窓際へ。

 両開きの扉を開けば月明かりに照らされた町の姿を遠くまで見渡せた。二階なのに少し上から他の屋根が見えるのはこの土地が少し高い場所に作られているからだろうかと。半分に欠けた天上の銀色を見上げて熱っぽい息を吐く。

 頬を擽る冷たい夜風。下から聞こえる男達の声は未だ煩いほどに、景色の中に溶けていく。


「……疲れた」


 珍しく零れた独り言は飲んで箍が外れたからか。言葉にしてようやく今日あった事を思い出す。

 オーベロンに、ピスカに、妖精の国(アルフヘイム)。過去にしてクラウスの未来のつまった理想郷へとやってきたこの身は、一体どうなっていてどうなってしまうのだろうかと。

 揺れる頭が浮かんだ疑問に答えを捕まえる前に手の届かないところへ消えていく。

 そうしてふと脳裏を過ぎるここへ来る前のこと。ようやく整理のついた記憶は体の中に温度のない刃が(わだかま)っているような違和感を湛えたまま相棒達や取るべき責任の象徴たる彼女の顔を思い出す。

 あの後、一体どうなったのだろうか……彼女達は、無事だろうか?

 何よりもまず彼女達の事を心配して、それから小さく笑う。

 まぁ大丈夫だろうと。根拠のない理想を掲げて今前へ進む原動力とする。

 まずは未来に帰らなければ。そのためにオーベロンの願いを叶えて……できる事ならその瞳に映る真実に我が儘にも手を伸ばしたいと。

 何が何処から狂っていたかなんて今更どうでもいい。ただ単純に、まだこの胸の中に渦巻く野望と言う名の幻想の都に向かうその気持ちを……否定したくないと暴れる子供の理想を無邪気に振り翳す。

 帰る事が出来るのなら、もう一度その夢を追いかけられると。今度こそ失敗しないようにもう一度立ち上がるのだと。

 そのために今この時間を無駄にしないための努力をしようと。

 軽く回る頭に全ての理由を投げて積極思考で盲目に追いかける。


 ────可能性を信じるくらいの執着は見せたらどうだ?


 風に乗って響くように反響するオーベロンの言葉。

 それもまた正しいとどこかで諦めてそれから水を一口。気持ちのいい浮遊感に全てを任せて寝具に倒れこむと微睡の奥へと沈んでいく。

 とりあえず、明日は、本格的に情報を──

 花弁が舞い落ちるような微かな目的を最後に意識が途切れる。

 その瞬間、クラウスは自分が妖精であるような自由の錯覚を僅かに味わったのだった。




 翌日、目が覚めたクラウスは少しだけ重い頭を冷たい水で覚醒させると一つ伸びをした。

 昨日は必要に駆られて色々な事をしたが、今日からは本格的に自分のために他人の手のひらの上だ。

 情報を集めつつ必要なら首を突っ込んで目的に近づく。いつもやっている事だと改めて自分なりに解釈すれば、呼吸を取り戻してクラウス・アルフィルクを演じられると。

 とりあえず寝汗等を洗い流して昨日の内に買った服に着替え心機一転。健やかな寝息を立てるピスカの姿に小さく笑って声を掛ける。


「ピスカ、朝だよ」

「んん~……」


 唸るピスカ。どうやら寝起きは悪いのだろう。掛けた毛布で頭まで隠して抵抗の姿勢を見せるその姿にユーリアの事を思い出す。

 彼女のように女性で、クラウスの特別なら最大限譲歩はしたのだろうが、相手はピスカだ。

 自分で性別非公開を希望したのだからこの対応は然るべきピスカの責任だ。


「ほら、そこまで寒くないから。今日も付き合ってもらうよ?」

「あぁあぁああっ……悪魔ぁ!」

「そんなの昔からだよ。おはよう、ピスカ」

「…………おはよう」


 寝具に座り込んだ妖精は目を擦る仕草に虹色の頭髪を揺らしながら答える。

 まだ完全に目が覚めてはいないのか、頭を揺らしてこちらを見据える瞳に、けれどクラウスは何も悪くないと無視をしたままこれまた昨日買った玩具の小さな杯に水を注いで差し出す。まだこの時代に妖精規格のものは無い。その代替品に一応気を利かせたその一つだ。

 また幾つか唸るピスカ。けれどそれが通用しないと分かった途端、何かに折れるように水を煽って怒った風にその杯を机へ叩きつけた。


「でっ、今日は何するのっ?」

「何をするも何も、オーベロンに言われた探し物。地道に探すしかないけどね」


 取りあえず町を巡りつつ酒場も回って情報を集めるとしよう。時間が掛かるのは分かりきった事。そこはもう仕方がない。諦めてできる事を地道にするだけだ。


「さて、朝早いけどそろそろ出るよ。朝じゃないと手に入らないものもあるからね」

「面倒臭い……」


 呟いて、けれど頭の上に座り込んだピスカに小さく笑う。

 監視役、仮初の契約。理由なら幾らでも作れるかと一人ごちて階段を下りると、まだ開店前の酒場に店主の姿をみつけた。


「おや、おはよう。早いね」

「おはようございます」

「どこか出かけるのかい?」

「そうですね。あ、まだ滞在はしますので今晩もよろしくお願いしますね」

「ん、あいよっ。……あぁ、鍵は置いていきな。こっちで預かるから」

「ありがとうございます」


 快活な声に元気を貰いつつ宿を後にする。

 まだ朝早い時間で、少し肌寒いほどの風が吹く頃合。けれど人の波は健在で、町の中央へと向かうその流れにクラウスも身を任せて混じる。


「……すごい数」

「そろそろ朝の市場が開く頃だからね。いいものを手に入れようと思うとそうなるのは必然じゃないかな?」

「朝からよくそんな気になるね」

「それが生活の一部なら苦にはならないと思うよ。早起きも出来るし、健康的だ」


 他愛ない会話は段々と重なり大きくなっていく人の喧騒に掻き消されていく。

 町の中心部にまでくれば既に沢山の人の群れ。熱いほどの存在感に負けじと響く各方面からの呼び込み。

 店先を通っただけで声を掛けられるほどの盛況さはここがミドラースの物流の中心だと教えてくれる。

 そんな場所で、けれど買うのは目に見えるものばかりではない。

 言葉の端に漂う流言。耳に入ってくる鮮度の高い噂を時折盗み聞きしてはこの辺りの情勢を探る。

 クラウスの知識において苗木などと言う代物はこんな市で取引されるような品物ではない。好事家や金のある者が庭先に植えるために取り寄せたり、どこかに献上するといった話で稀に聞く程度だ。

 だからこそ、そこに名前を連ねる家や土地の事を中心に調べていく。

 そんな折に鼻先を掠める匂い。朝一で取れた新鮮な果物で絞った飲料や焼いたパンの音に聞く芳しい色が腹の奥を悪戯に擽る。

 少し早いが確かに朝飯時だ。見渡せば幾人かは人の波から外れて食事をしている者もいる。

 それから頭の上では、もちろんと言う風に瞳を輝かせたピスカが物珍しそうに視線で辺りを物色していた。どうやら既に目が覚めたらしい。


「何か食べようか。食べないと歩き回るのも一苦労だ」

「うむっ、そうだなっ!」


 別に一食抜いたところでクラウスはどうとでもなるのだが。声に大きく頷き返した言葉にピスカの心を見つけつつ店先に顔を覗かせる。

 並べてあったのは焼きたての眩しいほどに輝く狐色の麺麭(パン)。風に乗って漂う小麦の匂いが否応なしにこちらの空腹を助長する。

 一緒に並べられた凝乳(クリーム)の瓶を一緒に一つ買って人の流れより少し外れる。その間、胸元に抱えた紙袋より立ち上る匂いに少しだけ辺りの視線を集めながら、ようやく陰となる細い路地に入れば、待ってましたとばかりにピスカが人化を使って人間大に大きくなって、丸い麺麭をその手に抱く。

 その時見せた子供のような瞳の輝きにピスカの既に隠しきれない妖精の部分を見て、座り込んで凝乳の瓶を空ける。

 まだ温かい柔らかな感触。一口大に千切って少し多めに乗せた凝乳が青空に描かれる雲の如く純白に輝く。

 何も特別なものなど一つもない。ただ一欠片の焼き物に甘い塗り物。たったそれだけの食べ物が、けれど何故か無性に食欲をそそる。

 指先の柔らかな感触を重宝するようにゆっくりと口の中へ投げ込めば、途端に広がった甘さ。牛乳の優しい風味と香ばしい小麦の弾ける旨み。それから僅かに香るのは焼く際に付けられた牛酪(バター)の匂いか。

 焼きたてだからこそ感じる特別感と、その贅沢とも思える食感に思わず時を忘れて満足感に浸る。

 と、そんなクラウスの隣で声なく騒ぐのはピスカ。人里にあまり来た事のないはずのその身にしてみれば初めて味わう味かもしれない。

 クラウスが我に返るほど夢中に一心不乱に食べ続けるピスカのその姿に、見ればもう半分ほどなくなっている一塊のパンに驚いた。


「……そんなに美味しかった?」


 問い掛けには、けれど一瞥だけで声の返答はなかった。ただその一瞥に込められた、虹色にも勝る歓喜と幸福の色は見た者を知らず笑顔にさせる不思議な魅力があった。

 そうしてしばらく朝食を楽しんで。終始無言だったピスカは食べ終えると満足そうな溜息を重く零す。

 妖精というのはどうしてこう食べ物相手に無防備なのだろうか。いや、人間の世界でもそれに訴えた拷問があるのだから共通の幸福なのだろうが。

 満ち足りた表情のピスカに相棒の事を思い出しつつ、やがて人の波へと戻っていく。

 気付けば顔を覗かせた空の太陽。青空から大地を照らすその光に変わらない温かさを感じながら旅人を装って幾つかの話に首を突っ込む。

 活気のある市場だ。ある程度の対人技能があれば苦もなく必要な話は聞ける。

 クラウスに人見知りの特殊能力がなくてよかった。人生経験に感謝をしながらその歪んだ経験に裏打ちされる視点から集めた情報を考察していく。

 そうやって手に入れた幾つかの事実。物の流れから推測する有効な手立て。思い至った方法論は、けれど中々難しい相談だと結論を出す。

 やはり想像していた通り樹木の苗と言う珍しい品はそう簡単には見つからない。例え見つかってもその行く先は力持つ者の手元だ。

 そんなところにクラウスが押しかけたところで正攻法で手に入れるのは難しい。

 ならばやるべき事は限られる。

 時間を掛けて手に入るところまで追いかけ続けるか、裏技の抜け道を模索するか……。

 方法論はクラウスに委ねられている。だとしたらクラウスのやりやすい方法でするのが正しいのだろう。

 さて、どうしてやろうかと。考えつつ辺りを見回したところで耳に大きな声を捉えた。

 何事だろうかとそちらへ向かうと、市場の一角で人だかりが出来ていた。

 体を滑り込ませて何が起きているのか確認すれば、陳列された果物の幾つかが石畳の大地へと無造作に転がっていた。

 話がそれだけならばきっとここまで大事にはならなかったのだろう。

 それよりも目を引いた──赤く広がった液体。血液……と考えたのも束の間、けれど直ぐに近くに割れて転がる西瓜の存在に気付く。

 どうやら売り物が駄目になったらしい。

 一体誰がと求めた先で見たのは恰幅のいい店主だろう男と睨み合う様にして立つ少年と少女の姿。

 少年の方は今にも飛び掛りそうな勢いで、怒る店主に対して真っ向から言葉を返す。その隣で、一歩引いたところから少年の袖を後ろに引っ張る少女。口元からは細く窘めるような声が零れている。

 喧騒に紛れてしばらく話を聞けば、少年が店先に置いてあった西瓜を落として割ってしまったらしい。

 看板のように売り出していた大玉の果実。それを駄目にされたのだから店主の怒りは(もっと)もだろう。ただそれに対して少年の方にも言い分はあるらしく、落ちてもおかしくないような場所に置くのが悪いと……それは事故だったと言い張っている。

 その時の事を見ていないクラウスにしてみれば少し目障りな喧嘩だが、当人達にとっては一大事。

 けれどやはりクラウスには関係がないと、その場を立ち去ろうとしたところで衆人環視の中から囁き声が耳に転がり込んできた。


「……あの嬢ちゃん、ブレンメ家の一人娘じゃないのか?」

「ブレンメってあのブレンメか?」

「ってことはあの坊主が嬢ちゃんの許婚かっ」


 ブレンメ。記憶に引っかかったその言葉に頭の中を旅して見つける。確か昨日の夜、酒場で聞いた話の端にあった家の名前だ。このミドラースの地で随分位の高い権力を持つ家柄だった気がする。

 彼らの言っている事が本当なら名家のお嬢様とその許婚が起こした一騒動と言う事だろう。

 ただその事実に、あの店主はまだ気付いていない。気付いていればこんなに大事にはしないだろう。下手に転がればあの男の首だって飛ぶかもしれない案件だ。

 そんな事を考えつつ、けれどクラウスの頭の中ではもっと別の可能性が組みあがっていた。 


「あっ、ちょっとっ!」


 ならばこの好機を逃すわけには行かないと。その他大勢の中から一歩足を踏み出す。

 不意の事に置き去りにされたピスカが声を掛けてきたがそれに振り返る事はしない。

 必然、周りの目が集まる中で覚悟を決めたクラウスは告げる。


「あのー、大きな西瓜があるって聞いてきたんだけど、まだ売ってます?」

「あ?」

「西瓜です。まだ残ってれば買おうと思ったんですけど」

「……ちぃっ! それならそこに転がってるっ」

「おっと…………。ふむ……」


 張り詰めた緊張の中、場違いに飄々と渡り歩いて考えるような間を一つ。店主の威圧さえも意に介さないという風に感情を捨てた笑顔の仮面でいつも通りの道化を演じる。


「じゃあそれください」

「えっ……?」

「幾らですか?」


 間抜けに響いた疑問の声は少女のもの。店主に尋ねつつ少年の袖を引く彼女の方へ視線を向ければ、呆気に取られたようにその瞳が揺れていた。


「幾らって……正気か兄ちゃん? もう食い物には…………」

「いいんですよ。別に食べれるかどうかなんて気にしませんから。それで、幾らですか?」


 飛んできた野次に答えつつ冷たい笑顔を貼り付けたまま店主に再度尋ねる。

 集めた視線の中で、苛立たしげに舌打ちをした男は、それから吐き捨てるように指を三つ立てる。

 相場から考えて銅貨三十枚。実際は五十枚ほどだったのだろうが割れて価値が下がって、けれどそれでも酷い暴利な値段だと。

 けれどそんな不満は静かに飲み込んでごつごつとした店主の手に三枚の銀貨を握らせる。


「……坊主、まさか相場がわからねぇ分けじゃ──」

「友人の非礼も含めて、です。それから──まだここで商売を続けたかったらこれ以上事を荒立てない方がいいですよ?」


 言ってピスカを呼ぶと、呆れたように溜息を零しながら人垣の中から疲れたように出てきた。


「そっち持ってくれる?」

「全く、本当にどうする気?」


 悪態吐きつつ、けれど行動は素直なピスカが割れた半分の玉を抱えあげる。

 その信頼関係は先ほど培われた食事の分だろうか。何にせよ今この時に話を合わせてくれるのはありがたい。

 クラウスももう半分を抱えて少年の方へ向き直る。

 こちらへ視線を向けるその色は……怒りだろうか。

 仲裁紛いに間に入り込んで場を全て攫ったクラウス。彼にしてみれば予期せぬ闖入者だ。

 しかしそんな事はクラウスには関係ない。クラウスが欲しいのは彼の後ろにいる少女との繋がりだ。


「ほら、早く」

「ぇ、あ、ありがとう、ございますっ……」


 隣を通り過ぎる際に少女の耳元で囁けば、彼女は一度肩を震わせてそれから小さくお礼を寄越した。

 礼儀正しい事だと。その正しさをもう少し振り回せばよかったのにと思いつつ、歩く先から割れていく人垣を堂々と闊歩する。


「あ、掃除どうします?」

「……こっちでやるっ、早く行け! ほら、見世物じゃないんだっ! お前らもどっか行け!」


 ふと脳裏を過ぎった事後処理。足を止めて首だけで振り返った景色の中で、どこか青ざめた様子の店主に懸念を取り払う。

 どうやら誰を相手取ろうとしたのか気付いたらしい。どうにか繋がった首の皮に、けれど悔しそうな表情を浮かべた彼は怒鳴り散らすように周りへ矛先を向けた。

 別にクラウスにとって彼がどうなろうと知った事ではないけれど、彼が理由であの少女への道標が消えるようではクラウスにとって不都合だから。

 ついでの道草に要らない出費をしたと思いつつ手元の真っ赤な果実に視線を落とす。


「……さて、どうしようか、これ」

「どうするって、考えてなかったのか?」

「あの場で欲しかったのは彼女の記憶に残る事だからね。流石に落ちたものを食べるほど食事に困ってるわけでもないし……」


 言いつつ、近くの店で袋を貰ってその中に投げ込むと下げて歩く。

 重い。半分に割れていても、体感だが三、四キロンほどあるのではなかろうか。こんな大玉が取れる季節から考えてやはり季節は夏ごろか。炎天下の中重い物を持ち歩くのは苦行もいいところだ。

 早く処理方法を考えないと熱さで腐ってしまう。買った責任は背負わなければ……。


「おいっ!」


 そんな事を考えていると背後に声を聞いた。何事かと振り返ればこちらを見据えた視線に射抜かれて思わず足を止める。

 そこにいたのは先ほど騒ぎの中心にいた少年だった。紺青色の短髪に青磁色の瞳。その瞳に見える炎は敵意さえ灯してクラウスを見据える。

 彼の隣、少し後ろにはこれまた先ほどの少女。鶯色の長髪に、蜂蜜色の双眸。全体的に色の薄い印象を受ける彼女は、体の線までも細いのか随分と華奢に見える。

 仄かに染まった頬は少し荒い息と共に揺れる。先ほど耳に挟んだ話と合わせて考えるなら、余り外を知らないお嬢様らしさだろうか。


「やめよ、ねっ?」

「お前、名前はっ!」


 遠慮がちに引き止める少女。けれどそんな制止を無視してクラウスに言葉の矛先を向ける少年。その姿にクラウス個人として少し苛立ちが募る。


「……人にものを尋ねる時は自分から明かしたらどうかな?」

「うるさいっ、いいから答えろ!」

「…………クラウスだ」

「クラウス……? 聞かない名前だな」

「しがない旅人だよ。知ってる方がおかしいでしょ」


 人の話を聞かない小僧だと。年はそれほど変わらなそうな少年を冷静に見下して横柄に告げる。

 何をそんなに粋がっているかは知らないが、そんなに因縁をつけられるような事をした覚えはない。


「お前──」

「もういい加減にしてよっ」


 感情を宿さない声で告げれば、少年が何か食って掛かろうとして、けれどそれを細く裂けるような声が遮った。

 見れば隣に立っていた少女が力一杯少年の腕を引っ張っていた。


「ご迷惑をおかけしてすみません、旅人さん。先ほどはありがとうございましたっ。わたしたちそれを言いに来たんです」


 その瞳に宿る震える色。

 それは彼女なりの精一杯だろうかと。直感で悟りつつ、その先の言葉をクラウスが受け取る。

 これ以上少女に無理はさせられない。それは淑女が淑女でいるための、男の役目だ。


「いや、大丈夫だよ。わざわざありがとね」

「いえ、その……。本当にありがとうございました。ほら、いくよっ!」

「え、まっ、何を──」


 綺麗な一礼。仕草の端にどこか気品を感じつつ次いで返した踵に足音が続いて少年を引っ張ったまま少女が歩いて行く。

 そうして後ろ向きに引っ張られた少年は、こけそうになりながらも少女の方へと向き直って歩き出した。

 遠くなっていく背中。

 一体彼は何を言いたかったのだと思いつつ、あれが子供と言う理由なのだとどこかで諦めて深く考える事をやめる。


「……何だったの、あれ…………」

「彼女の言った通りでしょ。僕は別に特別な事をした覚えはないけどね」


 いつものように気取った言葉を気負うことなく零せば、隣のピスカは半眼でこちらを見つめてきた。

 あぁ、別にそういうのは望んでないと。

 ピスカの性格をまた一つ知りつつ、しばらく去っていった二人の事を眺めてクラウスも歩き出す。


「……で、それどうすんの」

「どうしよっか」


 自然への供物と嘯いて野生動物たちにでも捧げようか。

 特にいい解決方法が見つからないまま町の外へと歩みを進める。途中で袋を一つ借りてその中に放り込むと瑞々しく重い手提げに引っ張られるように歩く。

 見た目より重く感じるのは先ほどの一幕の所為か。袋を今一度持ち直して、クラウスは疲れたように溜息を零すのだった。

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