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フェアリー・クインテット  作者: 芝森 蛍
望郷の協奏曲(コンチェルト)
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72/138

第一章

 景色の先で地面に伏せるその体に視界が暗く染まる。


「っ!! ふ、ざけるなぁああああっ!?」


 口から迸ったのは怒号。

 一体何処に溜まっていた感情なのか。分からなくなるほどに体を我武者羅に動かす。

 指先に宿る虹色の光。それが方陣を編み込んで顕現し、嵐となって目の前の死神に襲い掛かる。

 刹那に、校庭の砂を巻き上げて砂塵となった暴風はそのままデュラハンを巻き込んで吹っ飛ばした。

 けれどそれではまだ収まらない。

 次いで手を翳し方陣を描けば、風の槍が幾条も出来上がる。

 指揮者のように手を振れば、それに呼応して音さえ置き去りに空を駆ける風の杭。未だ竜巻の中にその存在を捉える死の権化に、風さえ引き裂く擦過音を突き立てる。

 同時、烈風止んだ景色の中、四肢に数多もの風の刃を打ち込まれたデュラハンが固い大地に縫い止められた。

 声にならない声が瘴気となって辺りに充満する。

 駄目だ。あいつは────殺さなければ。

 あいつはクラウスを傷つけた。その手に掛けて、斬り捨てた。ならばその報いは、私が償わさせるべき道理だっ。

 心の内を埋め尽くす衝動に従って再三妖精力を練る。

 そうして結実した、妖精力の塊。果物大の球体はみるみるうちに妖精力を掻き集め、人の頭を優に超えてまだ大きくなる。

 感情の猛るままに振るうその被害たるや──トーアの身には余るのは確実だ。


「死────」


 ね、と。

 人差し指立てて銃口で狙いを定めるように方陣挟んで見据えたその先。大地に縫い付けられたデュラハンに照準を合わせて、心の引き金を引く直前────目の前に割って入った異物に思わず指先をずらした。


「やめろっ、撃つな!」


 瞬間に空を駆ける一条に凝縮された破壊の一撃。

 僅かに逸れた狙いは、目の前に立ちはだかるテオの頬を掠めてデュラハンの傍に着弾した。

 衝撃に抉られた大地が岩塊の如く宙を舞って煙と共に振動を響かせた。


「退いてっ! あいつは、クラウスを────」

「死んでねぇからっ! 落ち着け!」


 視界を遮る赤い髪の友人の肩を押し退けようとして伸ばした手首が、男の力で遮られて行き場を無くす。

 同時に耳に飛び込んできた言葉に思考が停止すると、視界は倒れた彼の方へと向いていた。

 そこには既にニーナが傍に跪いて治癒の術式を展開していた。

 直ぐに駆け寄って声を掛ける。


「クラウスっ、返事して! クラウスッ!」

「揺らさないでっ、術が効かなくなる!」

「あっ……」


 彼に触れたその手を引っ込めれば、真剣な表情で手を翳し俯くニーナの横顔を窺う。


「…………クラウス……」

「大丈夫よ、息はある。死んでない……。ただ意識が────」

「何で、こんなことに…………」

「グライド、手が空いてるなら来いっ。デュラハンが動くっ!」


 目の前で静かな顔で眠る彼の姿に呆然となる。何で、どうしてという感情が心を埋め尽くしていく。

 けれど景色と時間の流れはそんなユーリアを待ってはくれない。

 次いで耳に飛び込んできたのはヴォルフの声。

 デュラハン、その名前に顔を上げれば既に極炎闘衣(ラーヴァ・メイル)を展開したテオがヴォルフの隣に並んでいた。

 彼らが睨みつける先には瓦礫に埋もれたその体を重く持ち上げる頭のない黒い騎士の姿。

 その異容さに今更ながらに恐怖が湧いて来る。


「さっきのでもまだ動けるんすね……」

「奴とて不死身ではないはずだ。身に危険が迫ればその内退く筈だが」

「うへぇ……。長引く戦いは余りしたくないんすけど…………」

「つべこべ言うな……来るぞっ」


 纏う炎の鎧の色を白から黄色に変化させる。防御としての質よりも持久力を。

 そうして構えた直後、視界の先のデュラハンが音にならない咆哮を上げ、衝動を景色へと変え始めた。




              *   *   *




 声なき瘴気の声。それは妖精力での会話。一方的にこちらへ突きつけられた声のない声。

 隣で顔を顰めた妖精達がじっと睨み返して妖精力を練る。

 死は何者をも待たない。

 そう体現するように漆黒の鎌を手に持ったデュラハンがこちらに向けて走り出す。

 対して視線を交わしたテオとヴォルフは、息を呑んでそれぞれの役割を遂行する。

 その手に持った炎の双剣。火の粉舞い散る黄色い刃を構えて、デュラハンが振るう死の色を纏った斬戟(ざんげき)を受け止める。


「殺さず死ぬななんて無茶な命令だなっ」


 辺りに舞った炎の残滓には目もくれず、襲い来る一撃を悉(ことごと)くを弾いてみせる。

 破壊する事に長けた炎の妖精力に愛されしテオには、守るよりも打って出る方が得意分野だ。しかし今回の相手は模擬戦でも無ければ人間でもない。

 撫で斬れば確実にそぎ落とし、その存在した証を削り取る実戦。長く人間と共に肩を並べて歩いてきた妖精相手の戦闘だ。

 幾ら目の前の存在が悪であり死の権化であったとしても、テオたち妖精従き(フィニアン)には妖精であるかの存在を傷つける事はできない。

 例え痛めつける事は出来ても、その存在を消し去ってしまえば妖精殺し(フィリング)と後ろ指を指される事になる。

 それは妖精従きにとっての不名誉で、この世界で生きていくには重過ぎる枷だ。

 何よりこれより先の未来に暗雲を灯す事になる。

 それだけは避けなくてはならない。この世界は妖精無しでは成り立たないのだ。


「せめて時間稼ぐ手立てがあれば別なんだけどな……」

「稼いだところでどうなる?」

「軍が来てくれれば俺が戦わなくて済む……っ!」


 距離を取ったのも束の間。言葉を操る暇もなく目の前の死神はただ死を求めて戦いの縁で踊る。

 瞬く間に距離を詰めたデュラハンは再びその刃を振るう。

 テオとしてはただ純粋にその黒き鎌を振り回すだけというのが最後の拠り所だ。

 もしも妖精らしく妖精術を行使されては今の均衡を保つことは難しい。

 逆に、妖精変調(フィーリエーション)の影響下で回帰種(フィーリス)となった妖精は妖精術が扱えないのかもしれない。という仮説が脳裏を巡る。

 もしそうであればどれほど楽かと確証のない希望に縋りつつ、休む暇もない連撃をどうにか往なし続ける。

 まず防戦というのがそもそも苦手分野で、その上に意思があるのかどうかもあやふやで、追い打ちのように疲れ知らずの攻防。

 それを既に数分維持しているだけでも称えられて然るべき苦行だ。


「まだかっ!?」

「今、整った!」


 そうしてテオがデュラハンの気を引きつけている間、倒れたクラウスに意識を注ぐニーナとその隣で何かに俯くユーリアに矛先が向かないようにどうにか立ち回っていると、ようやく待ち望んだ声を耳に聞く。

 そろそろ限界だと首筋に伝う汗と上がった息に、虚勢の笑みを被ってどうにか気概だけで最後の力を振り絞る。

 目の前で大きく振り被った漆黒の鎌。大上段から迫り来るその瘴気の刃を睨むように見上げて腕を交差する。

 刹那に双剣が解け炎に戻るのと同時、大きな盾を顕現させる。

 取り合えず拒むものというので思いついた想像が成した防御の形。構成される炎が黄色から白を経由して眩いばかりの銀色に変わっていく景色の中で、その表面に触れた闇色の鎌が蒸発するように分解されていく。

 極炎法衣(ラーヴァ・スケイル)と恐れられ、炎の絶対防御とも謳われたその不沈要塞の要。ブランデンブルク先代国王ヘンリック・アヴィオールを象徴したその炎の衣が、テオに渡ったその手の中で鎧という新しい形を与えられて戦場で燃え盛る。

 極炎闘衣と名を変えた世界に轟く大法が、触れる先から全てを燃やし尽くし消滅させる。

 振り下ろされた黒い鎌は、光に飲み込まれるように消え去っていく。その様を目の前で見たデュラハンは逃げるように鎌を手放し後ろへと下がった。


「ぬぃっ!」


 その後退に合わせて、既にかの存在の足元へ展開された大きな方陣。虹色に輝く儀式術式のその全容が、冬の陽を山の奥へ隠した灰色に染まる景色を七色に彩る。

 瞬時に隆起したフィーレスト学院校庭の大地達が、逆立つ氷柱の如く次々にその矛先をデュラハンに向けて殺到する。

 次の瞬間、岩塊同士のぶつかり弾ける音と振動が空気を揺らしてテオを跪かせた。

 それでもなお止まない土の槍。既にデュラハンが見えなくなっても次々に襲い掛かる土塊(つちくれ)は、やがて家をも凌ぐ大きさになり芸術品のような圧倒的質量で視界を埋め尽くした。


「すっげぇ……」

「加減はしてある。中にデュラハンの存在も……む…………」


 零した感嘆に、いつの間にか隣に来ていたヴォルフが答えて、けれど直ぐにその顔を曇らせた。


「何処へ行った……」

「は…………?」

「いや、あの中から逃げられた」

「馬鹿言わないでくださいよ。虫一匹でさえ通さないほどに雁字搦めに捕まえたんでしょう?」

「そのつもりだったが……今ふとその存在を見失った」


 何を馬鹿な事を。人一人ほどの大きさの存在が目の前の岩塊から逃げ出せる道理などあるものか。

 もしそれが妖精力なら見逃すはずはないと、ありえない事を考えながら警戒の度合いを高めていく。

 手に握ったのは炎の槍。合わせてヴォルフも儀式術式をいつでも操れるようにその身の妖精力を滾らせて行く。

 その刹那。いきなり背後に現れた存在感。死のにおいを纏った瘴気の流れを肌で感じ取って振り返ろうとする。

 けれどそれより数瞬早くその刃が首筋を切り裂く幻想を脳裏が描いた。


「っ……!?」

「ぬ……!」

「間に合ったっ……!」


 やられる、と過ぎった警鐘は、けれど現実にはならなかった。

 振り返った視界で見たのは、土の壁が黒い刃を受け止めている景色。それから間を開けず女の声を耳が聞く。

 その音に聞き覚えがある事に気付きながら。体は勝手に攻撃行動を取っていた。

 目の前に存在する土の壁。その向こうから伸びる鎌の切っ先を見て、手に持った炎の槍を土壁を貫いて刺し出す。

 手に残るのは土のそれと妖精力を引き裂く形無き手応え。

 壁の向こう側。そこにいると確信した頭がすぐさま槍を振り回して交差模様に斬り付けた。

 一瞬の空白の後、滑るように崩れ落ちた土の壁の向こう側、そこによろめくデュラハンと、こちらに向けて手を翳す女生徒の姿を見つける。


「目を閉じてっ!」


 その少女──緩く波打ったライトブラウンの頭髪を揺らして、水色の瞳でこちらを見つめるアンネ・ルキダは、叫ぶと同時にその手に持った何かを投げた。

 咄嗟に声に従って顔を庇えば、刹那に辺りが焼かれるほどの眩しい光に染め上げられる。

 これは閃光……投げたのはそれが込められた術式封印石かと悟ったのも数瞬後。気付けば光の収まった景色の中に、死の化身にして幼馴染の体を引き裂いたデュラハンという名の妖精は見当たらなかった。

 霞む視界を擦りながら辺りを見渡す。

 直ぐにヴォルフが足元の大地へ手を添えて周囲の探査を行うが、首を振って答えた。どうやら逃げられたらしい。

 仇は取れなかったと胸の内で悪態を吐いて極炎闘衣を解けば、小柄な彼女が近くまで寄ってきていた。


「どうして君が……」

「ユーリが嘘吐いてまで出てきたからそれを追いかけて……。そしたらデュラハンがいて。話は聞いてたから撃退しようと思って」


 撃退。そういえばデュラハンは光を恐れていたと。

 彼女がそれを知っていたのはユーリアから聞かされていたのだろうか。何にせよ、彼女の機転で助かった。もう少しであの刃にテオたちまでやられてしまうところだったのだ。


「ユーリは?」

「あっちに」

「……っ! クラウス君っ!?」


 心配そうな彼女に答えれば、向けた視界の中に目を閉じて横たわる彼の姿を見つける。

 声を上げて驚いたアンネは、直ぐに駆け寄って近くに座り込む。

 テオも遅れて傍に寄れば、顔を上げたニーナが告げる。


「…………ごめん。生きてはいるけどやっぱり意識が戻らない。それから、回路がぐちゃぐちゃに……」


 胸の内に込み上げてくる喪失感。そこにいるのに目を覚ます気配のない彼に、指先が冷たくなっていく感覚を味わう。

 ニーナの言葉を聞いたアンネが咄嗟に治癒術式を展開したが、ニーナがその手を掴んでとめた。


「やめなさい。下手に触れれば貴女まで負の感情に飲み込まれるわよ」

「でもクラウス君がっ」

「生きてるならどうにかする手立てはきっとあるっ。だから今は飲み込んで」

「……クラウスさん…………」


 ニーナも辛そうに零す。

 治癒術式に関しては自信を持っていた彼女だ。その知識で今はまだどうにもならない事が分かってしまうから余計に不甲斐なさを感じてしまうのだろう。

 眠ったような顔で静かに呼吸するクラウスに、弱々しく近寄った彼の契約妖精……銀髪を着流したフィーナがその名前を呼ぶ。

 彼女はクラウスの契約相手だ。ニーナが零したように回路へ何か影響を受けたなら、彼女も無事ではいられないはずだが……。


「フィーナちゃん、だっけ……。体は大丈夫?」

「…………はい。保険が効いたみたいですから」

「保険?」

「契約解除よ」


 ヴォルフの声にいつもクラウスの傍にいる黒い短髪の妖精、アルが答える。


「契約、解除……? 何よそれ…………」

「言葉の通りよ。妖精との契約を解除する妖精術。クラウスに何かあったらそれを使ってフィーナを守れって言われてたのよ」

「契約の解除だなんて……そんな、妖精との歴史に泥を塗るような…………」

「色々言いたいこととか聞きたいこととか沢山あるけどそれは後回しよっ。まずは彼を安全なところへ。話はそれからにして」

「……担架持ってきますっ」


 次から次へと重なる景色にニーナが口を挟んで場を纏める。彼女のその言葉に、最初に我に返ったのはアンネ。誰よりも先に必要なことだけを言い残して立ち上がると、校舎の方へ向かって走り出した。

 その背中に、何かを言う前に喉が何かで蓋をされて次ぐべき言葉を見失うと、何も出来ない事を呪うようにただその冷たい景色を見下ろし続ける。


「どうしてこうなるんだよっ」


 ようやく零れた音は、それが自分の声ではないような気がしながら現実に打ちひしがれる。

 そうしてアンネが担架を持って戻って来るまで、テオたちはその場から一歩も動く事が出来なかった。




              *   *   *




「ようこそ、理想郷へ」


 虹色の葉を揺らす樹木が景色を彩る。大地からは絶え間なく光の泡が浮き出ては、天へと吸い込まれて消えていく。

 まるで物語の中の理想郷だと錯覚する景色の中で、その妖精の姿をした誰かは何よりも先に名乗る。


「はじめましてだなっ。君の尺度に合わせてここでは妖精王を名乗らせてもらうとしよう。我が名は──オーベロンだ」


 オーベロン。

 その名は幾度も夢想した妖精の国(アルフヘイム)という想像上の土地を治めた妖精王の名前だ。

 二対四枚の薄翅に長い耳殻。妖精らしい小さな体躯を見惚れるほどの黄金色の長髪で着飾って、申し訳とばかりに頭に頂く月桂冠。こちらを見据える緑翠色の瞳は未来でさえも見通してしまうそうなほどに透き通った色を湛える。

 あまりの出来事に頭痛さえも覚えながら視界と記憶を冷静な頭がどうにか整理していく。

 見回した視界に映るのは言葉に尽くし難い理想郷。

 風に揺れて音を鳴らす木々に萌えるのは鮮やかな七色の葉。天をも貫くその幹には人の大きさほどもありそうなその大きな玉の果実が幾つか実っている。頬を撫でる風は優しく、まるでこちらの心地のよい温度を分かっているかのように絶妙に傍を通り過ぎていく。

 ふと視界の隅に、木々の隙間からこちらを見つめる目が幾つもある事に気付いた。

 その姿は、妖精。どこかでその存在が当たり前だと肯定する種族が、忌避するようにこちらを遠巻きに見つめてくる。

 妖精がいて、世界は七色に包まれていて、数多もの光の泡が天へと昇り、目の前には妖精の王を名乗る存在がいる。

 まるで幻想の都だと考えて、それからようやく思考はそれまでの記憶を順に思い返してきた。

 つい先ほどまではフィーレスト学院の校庭で死の象徴たるデュラハンと文字通りの死闘を繰り広げていた。最後に不意と欠けた注意から足を掬われて────

 今でもこの胸にはあの温度のない刃がゆっくりと通り過ぎていく感触が鮮明に残っている。死の刃、瘴気の一撃。

 抗い難いほどの絶望感が胸を埋め尽くし、意識が遠のいていく感覚を味わい…………。

 そんな経験則がどこかで一つの終着点を見つけ出す。

 自分は、あの時に──デュラハンに斬られて、死んだ。だからそう、これは、言わば死後の世界。


「…………聞こえて居(お)るか? ……もやょかにいてにみとがっかたあしおかなしさんうしし?」

「え………………? あ、その……」

「何だ、聞こえて居るのではないか。ならばはよう返事をせい」

「……えっと…………? …………はい」


 ようやく納得できる理由を見つけた頃、耳に再び声が届く。

 それは細く高い、変声期前の少年のような音。紡いだ声がそのまま楽譜となって音楽を奏でそうなほどに端正な発音の、どこか時代錯誤なずれた口調。

 意味も分からず言われるがままに答えて、それから改めて目の前の年若い男の妖精を見る。

 女の見た目以上に妖精の見た目ほど年の分からないものはない。

 何せその身は妖精力で構成された体だ。その心が望むままに形を作り変える、無貌の存在。膨大な妖精力さえあれば、ドラゴンのような巨大なものにも化身できる存在だ。それを見た目だけで判断しようなど到底無理な話。

 こちらを見つめてくるその透き通った双眸に思わず息を飲む。

 一体彼は何者だろうか? 彼の言葉を信じるのならば、オーベロンという名なのだろうが……果たしてそれを信用してもいいのだろうか。

 そもそもここは本当に何処なのだろうか?


「うむ、ようやくまともに話が出来そうだが……。まず初めにそれを飲んでもらいたい」

「飲む……?」


 子供のように繰り返せば目の前の妖精は頷いて指を差す。

 つられて視線を向ければ、そこにはいつの間にか隣に小さな丸い木の机が存在していた。先ほどまでそこにあっただろうかと自分の注意力のなさに少しだけ心配になりながら、その机に置かれた小さな杯を手に取る。

 すると何故かそれまで空だったはずの杯に、誰が注いだわけでもないはずの赤れんが色の液体がなみなみと湧き出てくる。

 思わずびっくりして取り落としそうになったその杯をどうにか持ち直してじっと見つめる。


「何、体に害な物は何一つない。どちらかといえば君にとっては理に適ったもののはずだ──クラウス・アルフィルク」


 ……何故名前を知っているのだろうか、この妖精は。クラウスは記憶の限りでは彼に向けて名乗った覚えはないのだが。

 視線で催促する彼に訝しむ様な色を見せて、それからまずは慎重に匂いを嗅ぐ。

 鼻先を掠めたのは果物の匂い。この芳香はクラウスの記憶にも知ったものがある。葡萄(ぶどう)だ。

 赤い液体で葡萄の匂い……となればこれは葡萄酒(ワイン)というものだろう。

 酒精飲料……フェルクレールトの大地では専(もっぱ)ら麦酒(エール)の方が沢山飲まれているが、それは市民の間だけで、公的な場では飲まれることが多いのは葡萄酒の方だ。

 大量生産され安く酔える麦酒とは違い、熟成期間が長くその数は麦酒に比べ多く出回ってはいない。その為特別何かを祝ったりする際に振舞われる、少しお高い酒精飲料だ。

 地域によっては聖なる物の血とも崇められ、儀式的な意味合いで重宝されるところがあるとも聞いた事がある。

 生憎クラウスは葡萄酒は飲んだ事がない。麦酒なら春に一度口にした事はある。

 あれはクラウスが17歳になった春先のこと。寮へ帰れば寮母へ呼び出され祝いだと無理やりに飲まされたのだ。流石に学生のクラウスには翌日もあって酔い潰れるほど飲みはしなかったが……それでも寮へ帰ってからの記憶が曖昧になったことだけは覚えている。

 ブランデンブルクでは飲酒が出来るのは17歳からと定められている。この辺の決め事はやはり国によって違い、クラウスが聞いた知識が正しければ、カリーナ共和国だと19歳、スハイル帝国では16歳。西のトゥレイス騎士団国に至っては14歳という話だそうだ。

 クラウスの価値観からしてみれば14歳などまだ学院へ入りたての子供だ。最初に聞いた時は耳を疑ったものだが、それはお国柄。騎士団国と名乗るその土地では別におかしなことではないのだろう。

 あの国は少々特別すぎるというのがクラウスの見解だ。国民全員が騎士の称号を持つとか戦争の火種としか思えないっ。

 そんな個人的な価値観はいいとして。ようやくいつも通りの思考が戻ってきた感覚に、その杯をじっと見つめる。

 視界の端で腕を組んだ少年の妖精はただクラウスを見やって、その先に有無を言わせない何かを秘めた沈黙を辺りに振り撒いていた。

 …………仕方ない。どうせ死んでいるのならば今更何を躊躇うことがあるのだと。

 幾つも渦巻く疑念をその杯の葡萄酒と共に飲み下す。

 刹那に、匂いでは感じなかったほどの強烈な酩酊が感覚を揺さぶった。

 立っていられないほどの前後不覚に陥って思わず膝を折る。

 一瞬だったはずの酩酊は、けれど体の内側を駆け巡るように胸の奥へ重く蟠った感覚を残した。


「……さ、れいもうにりどつでこて──はなしができる。どうだ、言葉が理解できるか?」


 揺れる感覚にどうにか立ち上がれば耳に届いたのは妖精の声。

 前半部分は意味の分からない音の羅列に聞こえていた声が、後半から理解の出来る言語へと変わっていく。

 考えるに、今飲んだ葡萄酒に何か特殊な効果があって、その影響で彼の言葉を理解できるようになったということだろうか?

 ならば一体その効果は……理解できるようになった言語とは……?

 まだ定まらない思考でどうにかそんなところまで考えて、けれどその先には至れなかった。まだ情報が少なすぎる。


「……あぁ、聞こえる。一体何をしたんだ…………」

「君達の流儀に合わせて喋っていては面倒なのでな、こちらの都合に従ってもらった。付け焼刃の言葉では正しく伝えられる自信がない」

「人間の言葉と…………あぁ、妖精か」

「察しのいい事だ。その聡明な頭を見込んで話があるのだが……さて、その前に君の話を聞こうか」

「話……」


 どうやら妖精の言葉でする会話を先程の葡萄酒で会得したらしい。考えるに、言語の平均化の妖精術と似た何かか。

 考えつつ唐突に振られた話題。随分と上から目線な物言いに少しだけ刺激をされながら辺りを見回す。

 視界に映る幻想的な風景。一体ここは何処だろうか。

 初めに浮かんだその疑問が再び鎌首を擡げる。


「…………ここは、何処だ?」


 先ほどの葡萄酒の所為か、舌先に感じる小さな虫が転げ回るような感覚を飲み込んで尋ねる。

 その傍らで、冷静に戻った頭はどこかその答えを想像していた。けれどどこかで認める事を躊躇っていた。

 そんなクラウスの頭の中を覗いたかのように、彼は小さく頬を吊り上げて告げる。


「決まっているだろう? ────妖精の国だ」


 妖精の国。

 その御伽の国の名前に、少しだけ頭痛を感じながら重ねる。


「だからオーベロンか……?」

「戯言を口にしているつもりはないのだがねっ。信じられなければそれでいいが、信じたいのは君の了見だろう?」

「………………」


 ここが、この場所が妖精の国…………。

 確かに子供の頃幾度も物語の中に出てきた理想の郷のようではあるが、それが実在しない事は何よりも知っている。だからこそクラウスはそれに手を伸ばして、そうしてあの校庭で────


「デュラハンに斬られた」

「……!」

「クラウス・アルフィルク。その身に妖精の魂を宿す四分の一の少年よ。信じることを抜きにして、納得すればいいのではないか? 例え死後の世界だとして、けれどその場所を妖精の国だと認識を歪めてしまうのは、一人称の特権だ」


 口にする前から全てを言い当てられて、心の中を見透かされたようなその音に鋭い視線を向ける。

 横たわった沈黙に、目の前の彼はさも当たり前という風に腕を組んだ姿勢を崩さない。


「君にとってここは何処だ? 絶望の淵か? それとも理想の都か?」


 こちらを見据える緑翠色の双眸。その奥に宿る強い光を見返して、それからクラウスは溜息と共に諦める。


「……分かった。ここは妖精の国で、君は妖精王オーベロンだ」

「許そうぞ、人の子よ。我が寵愛を受けしその魂、今一時この場に繋ぎ留めて置くとしよう」


 それは精一杯の威厳か。小さな体で胸を張られても尊敬など出来そうにないと小さく落胆しながら、理想の彼の姿を、どこか間抜けなたったこれっぽっちの妖精という小さな形に押し込んで納得する。

 認めてしまえばそれまで。ならば今いるここを妖精の国だと偽って認識するとしよう。彼をオーベロンだと敬おう。


「それで、それほどまでに知ってるって事はどうして僕がこんなところにいるのかも教えてくれるんでしょう?」

「もちろんだとも。さて、では少しばかり、話に付き合ってもらおうか」


 そう言って語り出すオーベロン。彼は優雅に中空を漂ってそれから丸い木の机に腰を下ろす。


「別に難しい話をしようというわけではない。君を呼びたてたのは他でもない、この妖精王だ」


 随分と変わった一人称だと胡散臭く思いつつ耳を傾ける。


「君には一つお願い事をしたくてね、その魂をここへ連れてきた」

「魂を……?」

「ここは妖精の国、妖精の集う都だ。ならば妖精の血の混じる君が訪れても何の不思議もないだろう?」


 ずれた回答にその先を尋ねる事を遮られる。今は聞くなということだろうか。

 どうでもいいが面倒臭い性格のようだ。ならば話をしてくれるうちは我慢するとしよう。彼の調子に合わせてまずは静観だ。


「この身にしてみれば君など塵芥にも等しい命の一つだ。けれど君はある時その平凡から抜け出してしまった」


 一々横柄な言葉遣いだ。もしそうすることで偉くなれるのだとしたら今頃王様が乱立する世界がどこかにあるはずだ。


「反転術式。君は世界を変える御技を手にしてしまった。それを手にした時の事を君は覚えているかい?」

「…………惚けたところで意味がないのなら、初めからその体で話せばもっと円滑に話が構築できると僕は思うけどね」

「例えそこに証拠がなくとも想像だけで可能性に至ってしまう。だからそんな言葉が出てくる。あぁ、愛されし児(こ)よ。何故(なにゆえ)君はその禁忌に手を伸ばし欲する……」


 ……よくもまぁ次から次へとこちらの神経を逆撫でするような振る舞いが出来るものだと。少しだけ感情を振るわせれば、手を広げて天を仰ぐように見上げていた彼は小さく溜息を吐いてこちらを一瞥した。

 けれどそんな彼は、きっと紛れもなく妖精王オーベロンなのだろう。

 これまでクラウスが積み上げてきた記憶と知識が線で結ばれ一つの想像に収束する。

 彼という存在を肯定するには何処から語ればいいだろうか。……何処からでも結果は変わらないか。


「そうさ、君が思うように、妖精王たるこの手には君の考える事が分かるぞ?」


 それは妖精語の、感情での会話。フィーナとクラウスが交わしていたそれの発展系。相手の波長に宿る感情を読み取り、そこから思考までをも想像してしまう他への侵害にして侵略。

 きっと妖精の王という場所に座る彼が得た、嘘を超えた真実さえも見通す瞳。


「妖精語の会話の、その先……。未来さえ見通す異次元の瞳」

「止してくれ給え。そんな崇高な技ではない。これはただの、決まった歴史を見る未来視だ」


 未来視。確かにそれが正しいだろう。

 歴史さえも見通すその瞳。

 そう核心に至る根拠が幾つも沸いてきては次々に想像の景色を埋めていく。

 その先にある真実が、ここがクラウスがいた時代より過去だと教えてくれる。


「で、こんなところに呼び出してまでする頼み事って言うのは?」

「まぁそう焦るな、忌み児よ。順を追って話そうではないか」


 無駄な時間だと得た結論を振り翳せば、彼は指を一つ鳴らす。すると後ろに感じた気配。首だけで振り向けば、そこに木製の椅子が一つ存在していた。

 どうせ彼の手のひらの上だ。彼の匙加減一つで招かれたこの魂を、クラウスがどうこう出来る気はしない。

 諦めて腰を下ろせば目の前に紅茶の注がれた器が差し出された。

 視界を誘導して、見えていないところで細工をして……。まるで手品のようだと、その仕組みの理解を夢幻にして有限なる妖精力という異能の力に全て丸投げする。

 立ち上る湯気を指で遮って本物である事を確認すると口にする。今更出された物を疑うのも馬鹿らしい。

 そもそもクラウスをどうにかしようというのなら既にどうにかなっている。


「さて話を戻そう。君は反転術式を手にした。その時に不思議な体験をした、違うか?」

「………………」

「それまで殆ど妖精術の開発に手を出したことのなかった一介の学生が、あんな高度な術式を作り出せること事態がまずおかしな話だ。今の君の実力では出来て精々あの連結術式どまりだろう」


 全て本当のこととは言えそれを今更話の種にされ、剰(あまつさ)え小馬鹿にしたような口調で嘲(あざけ)られれば幾らクラウスといえど気分のいいものではない。連結術式だって立派な妖精術で、クラウスにしてみれば初めて自分で無から有を生み出した結晶だ。


「そこまで造詣(ぞうけい)の深くない、強いて言うならばその四分の一が宿るというだけの才能で至れる場所ではない。そこには何かしらの理由が必要だろう?」

「…………フィーナか」

「だが彼女が何者なのか、君は全く知らない。知ろうとすらして来なかった。その怠慢の報いが、デュラハンという形になって君を襲った」


 幾度か機会はあった。疑問もあった。

 クォーターであるはずの彼女が、親の事を覚えていなかったり。逆に考えても人の世界の事を、あまりにも知らなさ過ぎたり。

 挙げればきりがないほどに彼女という存在は過去に何も持たない。否、持っていた事をクラウスが知らない。


「その答え合わせは君が勝手に見つけて解けばいい。それが妖精と共に歩む君の最大の問題だ」


 妖精に背を向ける事は妖精が見える者の絶対なる恥である。


 不意にフィーレスト学院で何度も耳にした言葉が脳裏を過ぎった。

 別に恥晒しなのは子供の頃から知っているけれど。少しでもその汚名を雪(すす)ぎたいが為に唯一の国立の学び舎まで足を伸ばしたのだと、今更ながらに思い出す。


「全ての理由は彼女に……いや、そこに結んだ繋がりに意味がある」

「契約…………」


 呟いて、それが齎す幾つもの可能性が頭の中を駆け巡る。

 思い至ったのは少し前に彼女が音にしていた言葉らしき旋律。

 そう言えば先ほども、隣で優雅に紅茶を嗜みながら話をする彼が似たような響きを紡いでいたと。それが同一のものかはさておいて、けれど近いところで着地点を見せる。


「大法というのはいつであっても無駄なものを生み出す。だからこそそれを出来るだけ少なくする為に封をする」

「それが妖精古語って事?」

「古語、その響きは君達の了見だ。こちらにしてみればそれこそが全てなる素だ」


 次から次へと手がかりを提示してくれると、少し考えるという面白味に欠けつつも追いかける。

 つまりここは、それほど昔のとある場所。

 妖精の国と名乗る事が許され、オーベロンを立証でき、妖精古語が意味を持つ過去。

 ……なるほど大体時代背景が読めてきた。

 取り合えずその論でいくとすれば、クラウスは死んではいないという事なのだろう。もし死後の世界ならば時代考察などしなくてもいい。


「君達が妖精術と呼ぶその結実の過程。当たり前として我ら妖精が操りし技よ。この手によって作られるならその常識で語られて然るべき道理。例え時代が下ったとて、変化する言葉の理の外で受け継がれしものもあるだろうて」


 それこそ随分と昔に……今クラウスがいる妖精古語が意味を持っていた時代に作られた妖精術などはその影響下にあるはずだ。契約術式はその最たるものだろう。


「そうして語り継がれた技法。それがいつしか解き明かされて誰かの手に渡る」

「それが僕だったと。けどまぁそれは偶然といえばそれまでで…………」


 フィーナとの契約と、アルからの助言と。その二つがクラウスの手の中に収まっていたから手にした欠片だと。

 そう次いだ言葉が、けれど交わった視線に込められた威圧感にその先を見失った。

 …………待って欲しい。いや、フィーナとの邂逅もアルとの出会いも偶然の────


「純粋な偶然など世界にどれ程ある?」

「っ…………!」


 何処までも透き通った瞳に息を飲んで絶句する。

 ならば一体何処から仕組まれた話だったのかと。運命と呪う事さえ愚かに思えるほどの──本当にクラウスに自己などないではないかと。


「古い調べを詠む少女に、幻想の都を夢見る少女。その加護に愛されし君に何の意味もないという方がおかしな話だ、違うか?」

「…………まるでどこかの物語みたいだな……」

「夢を描き、追い駆けるその無謀を語れば御伽噺にも勝る幻想になろうて」


 想像だにしなかった事実を突きつけられて呆然とする。

 そうしてしばらく沈黙に身を委ねて、頭の中を整理する。

 知らなかった事を知った情報で補って本当の形を知る。

 その先にようやく、クラウスはクラウス・アルフィルクを見つける。


「…………因みにその瞳には未来が見えてるの? どんな答えに行き着くか、知ってるの?」

「無論だ。何せ妖精の寵愛を受けたその身だ。想像などするだけ愚かだろう?」


 言葉の外に肯定の音を聞いて気持ちを落ち着ける。

 全てを信じれば、クラウスの未来は保障される。そう信じられるから、ようやくそこに至る為の方法論へと手を伸ばす。


「なるほど、よく分かった」

「ならば改めて知る事だ。反転術式……それを手にしたときに何の傍を通り過ぎたのか」


 春先の謎の多いあの頃の事を思い出す。

 反転術式を手に入れたとき……否、まだその構想が頭の中で纏まりきっていなかったとき。天啓のように悟ったあの不思議体験の尻尾を追いかける。

 それを知る事でようやく妖精の国への階段に足を掛けられる。そこを軸に幾つもの景色を広げられる。

 そうして過去の回想を記憶を頼りに行う横から、遮るように彼が告げる。


「さて、託すべき問題と道標は示した。ならば今度はこちらの都合に付き合ってもらうぞ?」

「……最初に言ってた話か」

「うむ。ピスカっ!」


 クラウスの声に頷いたオーベロン。その声が続けて辺りに響く。

 僅かの間のあと、背中を突かれる感覚。思わず振り返っては見たが、しかしそこには誰もいない。

 気の所為かと考えたのも束の間。そうして戻した視界の中に先ほどまではいなかった一人の妖精の姿を見つけた。

 小さな体躯に長い耳殻。纏う貫頭衣だけでもその存在が何者でもなく妖精だと語る。

 しかし何よりクラウスが興味を引かれたのがその髪と瞳の色。

 短い頭髪は虹色に。こちらを見据える瞳は緑と青の虹彩異色。いわゆる月目というやつだろう。

 人間にも珍しいその特徴は、妖精にも言える事ながら、その確率を皆無と言わせるほど特異なものだ。時折、ハーフィーやクォーターといった生まれの者達は、親にそれぞれ違う色を持つからかそうおった変化が現れるらしいが、クラウスには残念ながらそんな特異性はない。

 一般的に妖精の身を彩る色というのはその心……妖性に左右されてある程度の系統が決まってしまう。

 例えばヘルフリート。ウィルオウィスプである彼は炎の属性に由来を持ち、赤錆色の髪を持つ。

 だから普通妖精は一つ、ないし二つの色で語られる。瞳と髪だ。

 しかし目の前の存在はそれには当てはまらない。

 左右の眼はその色を違え、髪に至っては妖精力そのもののように虹色を示している。

 妖精の国、オーベロンと、信じ難い事が続いたあとに、奥の手とばかりに目の前に現れたその存在を、幻想と見間違えてもおかしくはないはずだ。


「よろしくね、おにいさんっ」


 朗らかな笑顔にさらさらと髪が揺れる。中性的な顔立ちをしているその妖精は挨拶と共に一つの指環を差し出してきた。


「……これは?」

「契約、とまではいかないけど妖精と意思疎通できる指環。手出して?」


 言われて少し戸惑う。

 契約。その言葉の奥に居る白銀の髪を持つクラウスの相棒。

 詳しい事はまだ分からないが、どうやらクラウスは過去に旅をしてきてここに居る。

 その時と場所を越えた先の未来には彼女が居て、聖なる契約はどれ程意味を持つのだろうかと考える。

 そんなクラウスの考えを読みとったのか、オーベロンが告ぐ。


「君の相棒の事は気にするな。彼女のことはこの妖精王が加護を授けよう」 


 胡散臭い加護だと。そんな事よりもまだ信頼に足るもう一人の妖精、アルの事を思い出して彼女に託す。

 契約解除の術式があるはずだ。デュラハンに襲われた時の事はうまく思い出せないが、けれど彼女の咄嗟の判断に委ねるとしよう。願わくばフィーナが無事であるように、と……。

 考えて、それから左手を差し出す。

 契約は聖なるものだ。共に道を歩む伴侶としてその魂を捧げるとも言われ、契約の際には特にそれを象徴するとされる左手の薬指に妖精が口付けを落とす。

 絆や愛を象徴し、嘘のない関係を紡ぐ証。

 春の時も、クラウスはそこに彼女の桜色の誓いを受け取った。


「おにいさんの常識は知らないけど今回はこちらの流儀に従ってもらうから」


 静かにそう告げたピスカは、それからクラウスの指に指輪を嵌めると、そこに小さな手を重ねて朗々と紡ぐ。


「誰(た)が為の契りとして我が為の契りとする。この世この理(ことわり)に従いて結ばれし者達の行く末に最大にして最愛の幸福を。誰憚られることなくただ悠久にして永遠なる終(つい)の際(きわ)まで。寄り添いし伴侶の妖精(フィー)選びし者に妖精の加護纏いて忌み児の名と誓約を与え給へ────」


 聖なる調べ。まるで物語に出てくる詩歌の一節のように淀みない旋律が流れ、それから指先に僅かな妖精力の流れを感じた。

 刹那に、体の中を駆け巡る感情の波を捉える。

 その音はどこか温かく溶けて頭の先から足の先まで染み渡ると、境界さえも忘れて一つに交じり合った。


「っ、気持ち悪い……」

「あぁ、君は純粋な妖精か。気分を悪くさせたらごめん」

「別に、大丈夫……。ただ出来れば余りこっちに干渉しないで」

「善処するよ」


 きっとこの過去の間だけの僅かの契りになるのだろうと思いつつ、交わした契約に幾つかの実感を得る。

 取り合えずこの過去ではフィーナとの契約は関係がないということ。彼女と今も繋がっているのかそうでないのかは定かではないが、こうして目の前の妖精と契りを交わす事が出来たのだから今はいいとしよう。

 そこから発展して、もしフィーナとの回路が切れているのだとしたら、再契約も可能という事なのだと悟る。

 ユーリアとリーザの回路にも影響を及ぼした刃だ。それにまともに斬られたのだから契約ごとなかった事にされても不思議ではない。まぁ想像であってそこには証拠も確信もないのだけれども。


「因みに一つ聞いてもいい?」

「……何?」

「君は男? それとも女性?」

「…………好きな風に考えれば。ピスカはピスカだから」


 中性的な顔、判別のつかない声。その上に重ねられた言葉に少しだけ悩んで、けれど答えを見つけられないまま諦める。

 どうせ一時の契りだ。


「……分かったよ、よろしくピスカ」

「…………ふんっ」


 笑顔で答えれば、ピスカは顔を逸らして鼻を鳴らす。

 何か気に障る事をしただろうか。

 けれど会って間もない記憶を遡っても特別な事はない。

 ならば何か潜在的な嫌悪だろうかと考えて、それからオーベロンへと声を向ける。


「それで、僕にやって欲しい事って何?」

「人の世から持ってきて欲しいものがある」

「人の世?」

「ここは妖精の都だ。ならば人の住む世界と分け隔てて語るのは道理だ」


 その通りかもしれない。が、そうして隔絶された世界のように語られると、クラウスの描く野望に少しだけ靄が掛かったように聞こえた。


「詳細な話はピスカに言ってある」

「……僕がしないといけない事なんですかね?」

「君の魂はこの妖精王に委ねられているのだ。もしここが死後の世界でないというのなら、未来に戻れる可能性を信じるくらいの執着は見せたらどうだ?」

「…………つまり帰して貰える見込みはあるんですね?」

「果たしてそんな問答をしている暇があるか?」


 高圧的な物言いに屈することなくどうにか答えを得ようと試行錯誤してみるが、彼の波長は掴めない。どうやら今のクラウスの技量ではただの妖精の心の内側を覗く事はできないようだ。

 それを目指してみるのも面白いかもしれないと思いつつ、厄介払いをされるようにその場を後にする。

 全く随分なところに来てしまったと空を仰ぎ見れば、そこには見慣れた青い天井があって少しだけ安堵した自分が居た。

 いつしか周りの景色も虹色ではなく緑に囲まれている。妖精の国を追い出されたらしい。

 知らぬ間に何か面倒臭そうな事に巻き込まれたと。溜息を吐いて思考を切り替えると足を出す。

 まずは帰れる見込みを探そう。それからここで何か得られるものがあるのなら、遠慮なく奪っていくとしよう。そう心の中に刻み込んで不屈の心で前を向く。

 そうしていないと、自分を見失いそうで怖かった。




              *   *   *




 彼が寝ている。

 その隣で静かに俯いて膝の上で拳を握り締める。

 幾度も思い返す記憶。脳裏を巡るあの瞬間を夢想しては、変わらない現実に再び胸を痛める。

 どうしてあの時もっと早くに駆けつけられなかったのだろうか。

 もし後少しでも早くに足を上げていれば変わっていたかもしれない景色だ。だからこそ後悔して苛む。

 全ての原因が自分にあると塞ぎ込む。


「ユーリ…………」


 不意に響いた声。背後に居るだろう彼女に、けれど視線さえ返さず沈黙を貫く。

 分かっている。彼女が心配している事も。全部が私の所為ではないという事も。

 けれどどこかで何かが違えば変わっていたかもしれない未来に、何度も想像を馳せては目の前の現実に絶望する。

 あの時もっと引き止めていれば。あの時無理にでも強情を突き通していれば。

 そんな悔恨が積もっては胸の内に堆(うずたか)くありえない未来を重ねていく。


「面会時間、もうとっくに過ぎてるよ……」

「…………知ってるわよっ……」


 ようやく返した声は自分のものとは思えないほどに掠れて弱く響く。

 ただただ何でどうしてという諦めきれない思いだけが感情を閉ざしていく。

 今日で三日目、だろうか。既に日にちの感覚すら曖昧なほどに、私は自分を戒めた。


「……帰ろ?」

「…………嫌よ。帰ったところで──」


 そこに彼のあの軽薄な笑顔がないのだと。

 失って初めてどれほど自分が彼に恋をしていたのかを知った。

 愛だと嘯いてもまだ足りないほど、私は彼の事が好きだったのだと。

 いつもどこかずれた瞳で冷静に世界を穿って。時折ふざけたように気障(きざ)な言葉を紡いで。

 そんな彼の隣で自分に嘘を吐かずに素直に居られる事に甘えて。

 それを恋だと、愛だと語る事から目を背け続けて。

 ようやくそんな独りよがりから一歩を踏み出そうとした矢先に、今度は彼が感情を閉ざしてしまった。

 今もまた、静かに規則正しく上下する胸の動きを見ていると、ふとした拍子に起き上がって恥ずかしい台詞を音にするのではないかとさえ思える。


「……っ…………!」


 思わず斜(しゃ)に構えたその笑顔を幻視して、枯れたはずの涙がまた一筋、頤(おとがい)を撫でた。

 後どれだけ後悔をすれば前に進めるだろうか。後どれだけ彼に謝れば、目を覚ましてくれるだろうか。

 際限のない感情が胸を埋め尽くしていく。

 拭った指の感覚も冷たくて、曖昧に溶けていく。


「…………これ以上は待てないよ。待ったって、何も変わらない」

「そんな事────」

「いつまで甘えてるのっ!?」


 静寂を裂く親友の声。尖った声に肩を震わせて手を強く握る。


「待ってれば誰かが助けてくれると思ってるっ? 何もしない事が正しい事だと思ってるっ? ふざけないでよっ! いつまで子供で居れば気が済むのっ?」


 他の病室への迷惑さえも考えず、感情の赴くままに音が響く。

 彼女の思いの丈が、空気を埋め尽くす。


「私はそんな女に好きな人を奪われた覚えはないっ! そんなのクラウスに失礼だよっ! そんなに甘えていたいなら自分ひとりで部屋の片隅で泣いてればいいっ! ユーリが何もしないなら、私がクラウス貰うからっ!!」


 叫んで隣を通り過ぎる気配。視界の中で、彼に向けて手を伸ばす彼女に、気付けばあたしはその腕を力いっぱい掴んで引っ張っていた。

 刹那に頭の中を埋め尽くした感情に腕を振るって、彼女の頬を叩く。

 鳴り響いた乾いた音。けれど次の瞬間、きっとそれよりも大きな音で彼女に叩かれた。


「……っ! 何するのよっ!?」

「こっちの台詞だよっ! ユーリがクラウスのこと必要ないって言うから私が貰おうとしただけっ。ユーリにそれを拒む権利なんてないんだよっ!」

「あるに決まってるでしょっ! クラウスは私の恋人よっ!!」

「嘘だッ! 自分から告白する勇気もないくせに彼女面しないでよっ!」

「アンネこそ人のモノ横取りしないでよっ! 恋も知らないくせに!」

「何も知らないのはユーリの方だよ! 私が今までどれほど惨めな思いしてきたと思ってんのっ? 許されないのに好きになって、馬鹿みたいに背中追いかけてっ! それでも選んでもらえないから捨てられる選択肢すらないまま生殺しにされてっ! なのにただ最初に必要とされただけの意味なんてない女に好きな男奪われるこの気持ちがわかるッ? ふざけた事言うのやめてよッ!」

「アンネの責任押し付けないでよっ! 勝手に恋して勝手に玉砕してっ! それはただアンネが一人で失敗しただけでしょっ? 私だって努力くらいしたわよッ! アンネが近付くのが嫌だから親友蹴落として馬鹿な事したわよっ! あの人形に好きになってもらおうって、その感情を教えてやろうって! 利用できるもの全部利用してありえないくらい個人的な我が儘に振り回したわよっ! あいつの気が惹けるからって父親まで利用したわよっ!! その努力であいつが私のモノになるのは当たり前のことなのよッ!!」

「あいつとかモノとか……! 好きな男の事道具みたいに呼ばないでよっ! ユーリはクラウスが好きなんじゃないっ! 私に取られるのが嫌だから反抗してるだけッ!」

「当たり前じゃないっ! 人の男横取りしようとする女狐追い払って何が悪いのよっ!」

「だったらその玩具の銃で私の事を撃って見なさいよ!! 嫌なら消してみなさいよっ! いい加減な暴論振り回して本当の事を見て見ぬ振りしないでよっ!?」


 一体何を馬鹿な事をしているのだろうかと。

 何かの拍子に冷静な思考を取り戻した頭が一瞬景色を客観視する。

 そうして入り込んできた刹那の沈黙に、次ぐべき言葉を失って息を詰まらせた。

 当然といえばそれまで。彼女に向けて放った言葉に意味などなくて。ただ感情のままに支離滅裂な音の羅列をぶつけただけだ。

 別に目の前の親友の事を本気で嫌っているわけではない。

 ただ自分でも分かっている事を無粋にも距離を詰めて踏み躙ってくれたからそれに反論しただけ。

 それはただの、私の言葉で──私自身に向けた言葉だ。


「大っ嫌いだよ、ユーリなんかっ!!」


 我に返った私に向けて吐き捨てるように叫んだ彼女は、こちらが何かを告ぐ前に踵を返して病室を出て行く。

 その背中に手を伸ばす事も忘れて呆然と見つめ、やがて力なくその場に座り込んだ。

 一体私は、何をしているのだろうか──

 たった一つの狂った欠片が引き起こした大きな溝に、今更な後悔を感じつつうな垂れる。

 本当に、何を、しているのだろうか────




              *   *   *




 走り続けた呼吸が息苦しさを感じて咳を零す。空気を求めて喉を開けば余計に苦しくなってもっと大きな咳が響いた。

 煩いほどに鳴る心臓の鼓動を耳元に聞きながらようやく止まった足で近くにあった木の幹に凭れかかる。どうやら病院の外まで走ってきていたらしい。

 今更そんな事に気付きつつ、上下する肩に苛立ちが募り、不愉快になる。

 あんな事まで言うつもりなかったのに────この感情は私一人では制御が効かないのだ。

 群青に染まった冬の空を見上げながら、体の中を駆け巡る冷たい夜風に火照った体温を晒す。

 違うっ、私はただ、あんな親友の姿を見ていられなかっただけだ。

 ただ好きな男を守れなくて、その絶望に打ち拉(ひし)がれて。ほんのそれだけの些細な失敗にいつまでも後悔している彼女を見ていたくなかっただけだ。

 認められないなら認めなければいいではないか。失ったなら取り戻せばいいではないか。

 その為に足を踏み出して、盲目に前へ前へと結果だけを追いかけ続ければいいではないか。

 何でそんな簡単な事が出来ないのだと! いつまで子供の振りをして誰かが手を差し伸べてくれるのを待っているのだと!

 ふざけるのもいい加減にして欲しい!


「好きなら、本気になってよ────」


 零れた言葉に涙が浮かぶ。

 私は色々と足りなかった。

 いつも人より劣っていて、他人からどう見られているのかが気になって。そうして身についた他人へ依存する生き方。

 他人の都合のいいように振舞って安全圏で自分を探し続ける自己のない人形。

 そんな私がようやく見つけた親友を、私は本気で愛したのだ。

 何処までも真っ直ぐな彼女に憧れて。自分にはない物を持っている彼女のようになりたくて。

 だから私はいつだって本気になってきた。

 本気に彼女の事を考えて。本気に彼を好きになって。本気に自分の為に周りを利用した。

 ようやく捕まえた自分の居場所を守る為に、私はいつだって本気になってきた。

 だから私には分からない。

 本気になれない親友の事が分からない。

 好きなら本気になればいい。何処までも真っ直ぐに曲がらない強さで突き進めばいい。

 ただ自分だけを信じていればいい。

 何でそんな簡単な事が出来ないのだとっ。


「アンネさん……?」


 分からない、分からない、分からないっ!

 そんな風に答えも求めず湧き上がってくる疑問だけを涙にして泣き続けていると、不意に耳が声を捉えた。


「……ぇ…………あ、……ぁは…………」

「大丈夫ですか?」


 止まらない雫を拭いつつ見たそこには、銀色の衣を纏った彼のはんぶん────フィーナがこちらを見つめていた。

 何をどうすればいいかも分からないまま視線だけを返せば、彼女は近寄ってその頬に流れた涙を払ってくれる。

 そんなとても優しい妖精に、思わず彼の顔を幻視して何かの箍が外れる音を聞いた。


「……ごめん、ね。ごめんっ……やっぱりうまく出来なかったっ。クラウスみたいに出来なかったっ! 励ましたかっただけなのにっ、元気付けたかっただけなのに! 嫌な事たくさん言っちゃったぁ! 言わなくていい事言っちゃったぁっ!」


 それは彼に対する懺悔。

 好きになった彼のように、大好きな彼女のように。誰かの力になりたかっただけの我が儘な押し付けを、子供のように声を上げて語る。

 そこに彼は居ない。彼女は彼のはんぶんであって、彼ではない。

 けれどこの目に映るその姿は、彼に重なって心の錠前を外させる。


「嫌われたよぉ! もう戻せないよぉ! クラウスいないのに、誰も助けてくれないのに。大好きな二人がいないのにっ! また一人になっちゃう! 一人はやだよぉっ。怖い、怖い、怖いっ! みんなみんなみんなぁっ! 私の大事なものがなくなっちゃうっ!!」


 一体何度同じ失敗をすれば済むのだろうか。

 春のときも、学院祭のときも、そして今回も。

 数えるのも馬鹿になるほど同じ事を繰り返してきた。

 けれど前と違って今回は誰も助けてくれない。

 ずっと頼ってきた彼がいない。

 そんな折に過去最大級の喧嘩を愛すべき親友として。誰に語るでもなく惨めな自分を曝け出して。

 そんなところまで沈んでいってしまえば、後にはもう何も残らない。

 あるのはただ、何も知らない子供のように泣くアンネ・ルキダだけだ。


「ねぇっ、どうしたら、いいと思うっ?」


 何かに縋っていないと自分を見失いそうで。思わず目の前の彼女に声を掛ける。

 涙に濡れた声に、困ったような雰囲気を見せる白銀の妖精。

 分かっている。こんなのはただの独りよがりだ。自分で考えなければいけない私の業だ。

 それを彼女にぶつけて何となる。

 子供なのは私の方だと。やっぱり成長できていなかったこの小さな身を戒めれば、僅かな沈黙の後に声が響いた。


「…………だったら追いかければいいです。何もしないのに諦めるのは、ただ後悔するだけですから」


 はっとして顔を上げれば、その蒼色の瞳の奥に不屈の炎を幻視した。

 それは彼が宿していた野望。その胸に抱いた大道。

 彼女のその瞳は、彼と同じ夢を見ているのだと。

 初めて彼女の姿を見た春の時より、随分と変わったその横顔に置いていかれた気分になる。


「後悔の理由は、何かをした先にあるんだと思いますからっ」


 言って歩き出す妖精の少女。

 事ここに至って彼女が人間大の大きさでそこに居る事に気がついた。

 四枚の翅を背負った不完全な人化。クォーターの彼女が掴んだ精一杯の形。

 病院の中へと消えていくその背中を言葉なく見つめて、見失ってから一人項垂れる。

 ……彼女は、まだ、諦めてないんだ。彼が帰ってくる事を、望んでいるんだ。

 何処までも真っ直ぐに疑わず、信じている。

 足りない。私には、それが足りない。

 感情論でも思うままでもいい。ただ我武者羅に行動に移すことが足りない。何かの為に自分を賭ける事が足りないっ。

 自分の意思が足りないっ!

 こんな私が、彼を好きでいていい理由など、何処にもない。彼女に嫉妬する理由など、何処にもない。

 私には、私が足りていない。

 彼が振り向いてくれないのは当たり前だ。

 今更ながらに当然な事に気付いて、笑いが込み上げてくる。

 駄目だ。こんなところで泣いていては。

 私はまだ、泣けるほどに努力をしていない。泣いていいほどに、失敗していない。

 封印しよう。泣くより前に、前に進もう。

 その先で、彼を出迎えて、ようやく私になろう。

 自分ではなく、男の為に泣ける女になろう。

 私が泣いていいのは、クラウスの前でだけだ。

 それまでは、泣かない。今一度、彼の背中を追いかける。

 感情を否定して、泣く事を否定して、彼のように自分を駒にして────

 彼の居ない世界を、許さない。彼が動けないのなら、私が彼の代わりをするだけだ。

 そんなの、今までと同じだ。


「ダフネッ」

「……何?」

「今私、笑えてる?」

「…………不細工だね」


 止まらない涙を拭って立ち上がりようやく前へと進み出す。

 縋っちゃ駄目だ。

 頼っちゃ駄目だ。

 振り回すことこそが、女の条件っ!

 何かの本で読んだ謳い文句に空元気を貰いながら足を出す。

 誰かの為だなんて方便だから。

 私は私の為に必要な事をするまでだっ!

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