第四章
翌日から、学期末の試験が始まった。
クラウスはいつも通りの手応え。それ以上に、色々な事に関わってきたからか、得に妖精学と歴史、それから自然科学については色々な視点から考察して問題に取り組めた。
これらの教科は妖精との関係が深い。学院の授業が子供騙しに見えるほど簡単で、途中何を当たり前のことを聞いているのだという感慨さえも抱いた。
数学はいつも通り。こちらは妖精術の開発や、効率的な運用方法を理詰めで考える時に使用する分野だとクラウスは思っている。
その点に関してはフィーナやアルの助言があるためにクラウスはそこまで重要視していない。
それからどうでもいい事ではあるが、試験中は妖精にとって一番暇な時間だ。
筆記試験は個人の記憶力と理解力が試される。その個人の問題に、妖精が力を貸すのは不正に当たる。そのため、妖精従きに有利に事が運ばないように試験中は妖精は教室の外で待機だ。
楽しいことが好きな彼女達にとってこれ以上退屈なことは無いだろう。
そんな妖精従きと契約妖精の隔離にも実は試験としての意味があるらしい。
クラウスが耳にしたことが本当ならば、契約相手との隔離条件下でのそれぞれの行動における絆の強さだとかを調べるらしい。
どれだけ契約妖精が妖精従きの事を信じていられるか。妖精従きとの約束を契約妖精がどれだけ守れるか。
数値では表されない秘密裏の結果らしいが、恐らくこれが国が国軍へ抜擢する者の選定指標の一つにもなっているのだろう。
妖精従きと契約妖精の関係はそのまま波長の変化に繋がる。
関係が良好ならば妖精従きと契約妖精の波長は交じり合ってより効率的なものへとなる。そうなれば妖精術の行使において他者より優位に立てる。実力も加えて、その者達を多く抱えれば国の戦力として有用性を期待できる。
汚い大人の都合といえばそれまでで、学生達にとっては最も簡単で理想とする将来だ。
フェルクレールトと言う大地はまだまだ戦後の処理で慌しい。その上今は妖精変調と言う特異な条件下に存在する。
そんな国々で今最も需要が高いのは国に仕える騎士、妖精騎士だ。
王様の庇護下で力を振るい国を守る。結果を残せば褒賞が貰え、出世をすればある程度裕福な暮らしも出来る。
妖精従きのある種の目標であり、一般的には憧れの職業だ。
もちろん学院が準軍属扱いとて、全員が従軍できるわけではない。
先程語ったように、個人の実力に契約妖精との良好な関係。一番はそこが選定基準だ。
クラウスが考えるに、この学院で言えば卒業時点でフォルト級に所属していればほぼ確実、ハーフェン級でその数の三分の一、トーア級においては両手の指の数の枠ほどしかないはずだ。
もちろんユーリアやニーナのように従軍経験がある者はその候補に上がるだろう。というか確実といっていい。
問題は国から声が掛からなかった者達だ。
先程あげた数は、この学院に限れば採ってくれるだろう生徒の数。国から声が掛かるというのは早々ない話で、例えば定員が200人だとしたら10人いればいいほどだ。残りの人数は志願者によるもの。
実力のある者は望むだろうし、普通に学院に通っていればトーア、ハーフェンが最後の階級になる。
そうなれば国に庇護されたこの学院で育った生徒はとりあえず受けてみようという気にはなる。
そこで七割以上が蹴落とされるのだ。これほどに高い競争率を毎年維持している職業は世界を探しても各国の従軍ほどだろう。もちろん例外も知っているが。
クラウス個人に視点を向ければ少し難しい関門だ。
きっとクラウスはハーフェンには上がれない。
ハーフェン級はトーア級と違いそれぞれが得意とする属性を極める事を主軸に据えている。
その為、得意な属性を持たない……属性に愛されないクラウスはハーフェンへ上がる事はできない。そうなれば従軍と言う道も薄いだろうし、それ以外の職に就く事になるのだろう。
何事に対してもクォーターと言うのは大抵の場合例外だ。
だからこの身を幾度も呪ったし、四分の一の爪弾き者である事に歯噛みもした。
クラウスの野望は他人を振り回して利用する非道だ。その為には従軍者のような沢山の人間関係が必要だったから。
実力もなければ家柄も特筆すべきものではない。父親が昔従軍していたが、上に上り詰めてもいない平凡な使い捨ての騎士だ。そんな小さな名前一つでどうしろと言う話。
クラウスは物語の主人公みたいに何かに恵まれているわけではない。
ただ偶然と言えば、同じクォーターのフィーナとアルが近くに居てくれることだけ。
それさえもただの強がりだ。
だから委員会を作った。
この学院の学院長の娘であるニーナを抱き込み。その母親であるエルゼに取引を持ちかけ。潜在能力の高い幼馴染を振り回し。権力と言う後ろ盾を欲しヴォルフを味方につけ。この学院で神童と噂されるユーリアを巻き込んだ。コルヌ家を巻き込む事になったのは偶然とはいえ僥倖だ。
ついでについて来たイレギュラーな彼女を、念のための飛び道具として扱えば、クラウスの知らないところで嫌に太い人間関係も作ってくれた。
言葉にして語れば単純。クラウスの作り出した景色は、全て他人依存だ。
けれど今では感謝こそすれ、その立ち位置に不満は殆どない。
国王には目を付けられているし、彼の最愛からは回帰の揺籃歌も受け取った。幾人かの知識人のお陰でここまでやってこられた。
ならば胸を張って我が物顔で振り回そう。
これはクラウスが欲した結果だと。クラウスが得たクラウスの為の他者の力だと。
虚栄と言うならばそれでも構わない。けれどそこに残してきたものは紛れもない真実だ。
だとしたら我が儘には最後まで付き合ってもらうだけ。
今までの実績を真実だと言い張って、その真実が新たな真実を作り出すと夢想して彼ら彼女らを利用するだけだ。
「ふぅ…………」
書き終わった解答を見直して溜息を吐く。
他人の指標。そんなものに身を任せる自分が少しだけ嫌になる。
たったこれだけのことでその者の本質の何が理解できるのかと。
胸の内で悪態吐いて、残りの暇な時間をどう過ごそうかと脳内を旅する。
それとほぼ同時、声も音もなく、頭に言葉が浮かび上がる。
思わずびっくりして恐る恐る視線を回してみるがまだ皆試験に顔を落としていた。
『クラウスさん……』
二度目の言葉でようやくそれが意味を持っているそれだと気付く。
言葉に色も形も音もない。声がなければ誰の言葉かも分からない。
けれど不思議と、その言葉に乗る感情に……響きに、誰の言葉なのか気付く。
どうすれば彼女の感情に答えられるだろうか。
思って、それが回路を介す感情だと気付いて意識を自分の中に集中する。
脳裏に描く彼女の姿。形と、色と、表情と。言葉に宿る言葉にならない感情。
胸に抱く言葉を、回路を流れる妖精力にのせる。
『……そうですね。秘密ですっ』
自分の声は響かない。
ただ彼女の声だけが胸の内に染み渡っていく感覚。
これが妖精が使う、感情の妖精語。人間のように言葉でも文字でもない……感情をそのまま伝える妖精達の世界。
波長の会話。
嘘を吐く事ができないと言われる真実の会話だ。
きっとこれはクォーターであるクラウスが授かった数少ない幸福。
妖精と本当の心を交わすたった一つの方法だ。
『だからクラウスさんは特別なんですよ』
彼女の声に小さく笑みを浮かべれば試験終了の鐘の音が鳴り響く。
そんな時間かと後ろから解答用紙を回収しに来た級友に手渡して一つ伸びをする。
とりあえず今日はこれで終わり。
明日も試験はあるが主に実技だ。きっとユーリアは嬉々として望むことだろう。
簡単な想像を巡らせて小さく笑うとフィーナとアルと合流して一度寮へ。それから黒服に着替えて校門でしばらく待つと、委員会の面々が顔を見せた。
揃った顔の中にユーリアの姿は無い。彼女は試験終了と同時に国軍の仕事があるとかで一人先にブランデンブルク城に行っている。早ければもう着いている頃だろうか?
ユーリアのいない委員会だが、今日の予定はカイの召喚に応じることだ。
任されたフェリクス登用の命の途中報告。クラウス個人としては彼の問題よりも彼の契約妖精……彼女についてが目下の興味最上位対象だ。
クラウスには見ることが叶わない妖精。けれどもし、この可能性が彼女に通じるのだとしたら────
考えつつニーナ達とブランデンブルク城へと向かう。
守衛に要件を告げてしばらく待てば、迎えに来たのはユーリアだった。
「ユーリア、仕事の方は?」
「そこまで大変じゃなかったから……それに先輩が変わってくれたし」
「そっか」
やりやすいならそれに越したことは無い。偶然に感謝をして彼女の案内に従いカイの元へ。
「よく来てくれた。悪いね、こんな時期に呼び出して」
「いえ、大丈夫です。試験と言っても普通に授業を受けてればどうにかなる程度ですから」
「…………っ」
ニーナの言葉に隣でユーリアが僅かに肩を揺らす。
彼女にとっては肝の冷える話だったか。
様子を伺えば、ユーリアは何故かクラウスの方へと真っ直ぐに視線を向けてくる。いつも授業中は怠けているクラウスに対する嫉妬? それとも彼女なりの困窮の視線? だとしたら些か鋭い気もするが……。
「それで、今回はどういったお話ですか?」
「時間はあるだろう? ゆっくり話そうじゃないか」
「……兄貴が休みたいだけだろ、それ」
「言ってくれるじゃないか」
テオの呟きにカイが笑わない笑みで言葉を返す。
彼らも仲のいい事で。兄弟のいないクラウスとしては少し羨ましい。
「分かりきった話ではあるのだがな、そろそろ明確な答えが欲しいと思ってね」
カイがここまで答えを待っていてくれたのは、もしかすると……という期待があったのかもしれない。
けれどやはりクラウス達には重い話だし、フェリクスの意思は変わりそうには無い。
答えを探すように沈黙を落とせば、彼もどこか納得したように諦めたような音を落とした。
「やはり彼の気持ちは変わらないか……」
「そうですね。残念ですが彼の心変わりに期待してという話であれば難しいかと」
「悪い話じゃないのにね。何であんなに頑固なんだか……」
何処か疲れたように零すのはニーナ。彼女は彼の契約妖精については知らない。だから知らない事を理解しろと言うのは酷な話で、それを知るクラウスにとっても今回の話はやはりどうにもならない決まりきった未来だ。
これ以上の衝突はどこにもいい事がない。ならば妥協案でどうにか答えを引っ張り出すだけだ。
「……フェリクスさんから聞いたんですが、彼の登用の話はやはりアスタロス王妃殿下の件に関することですか?」
「あぁ、そうだ。同様に、彼ほど若ければ国としても長く抱えられて都合がいいからな」
意外とすんなりと答えてくれた。
なるほど聞かれたら答えるという意地悪なものだったのかもしれない。
「彼は一応王妃殿下の肖像画を描いてはいるようです。……それで、もし可能でしたら、その辺りを手打ちにしませんか?」
「ふむ……」
「落としどころとしては無難なところかと」
考えるに、もし本当に委員会に無理な話を回してその存在意義を糾弾しようと言う思惑があるのだとしたら、その人物より大きな権力に庇護してもらうだけだ。
恐らくヒルデベルトがこの話の裏に居るということは無い。
もしヒルデベルトの謀略ならば、こうしてカイがクラウス達の目の前に居ることは無いだろう。逆に全てを理解した上でクラウス達委員会を利用している可能性もある。
例えば、委員会が今回の任務に失敗すれば、委員会を糾弾する人物が出てくるはずだ。それを炙り出すための餌と言う話。
それならば失敗するのも正しい選択かもしれない。
問題はそうであるという確証がクラウスにもないことか。
だからクラウス達には出来る限り成功に近い結果が必要なのだ。
無理難題もそのうち度が過ぎればヒルデベルトの目に付く、そうなれば未来は同じだ。
面倒臭い事に巻き込まれていると実感しながらカイに告げる。
「お願いできますか?」
「…………相談してみよう。しばらく待っていてくれ。クー・シー、客人の事を任せる」
「分かりました」
建前の理由を告げてカイが出て行く。
閉まった扉の音に一つ息を吐くとニーナが机に伏せって零す。
「こんなに疲れる仕事だとは思わなかった」
「僕は楽な部類だと思いますよ。少し交渉してそれで国からお金が出るんですから」
「クラウス君の神経は人間のそれじゃないものね」
「失敬な。人間らしく振舞ってるつもりですよ」
前にフィーナとアルに指摘された言い回しで告げれば返ったのは沈黙。
お願いだからまだ人の輪から外さないでくれ。体を流れる血は厳然として人間の方が多いのだから。
「……喉渇きませんか?」
「折角だ、貰うとしようか」
ユーリアの言葉にヴォルフが答えて、目に見えて部屋の空気が弛緩する。
城の一室で委員会の面々がこんなに寛いでいる。もしこんなところをお偉い方に見られたら大変な事になるのだろうと、その可能性の景色を想像して小さく笑う。
そんな風に過ごしているとユーリアが飲み物を出してくれる。
「ありがと」
「……あとで少しいい?」
湯気の立つ温かい飲み物を手のひらで包んで口に運ぶと、ユーリアが耳元で小さく囁く。
何事だろうか? くだらないことならいいのにと想像を巡らせて静かに頷く。
アンネのことか、彼女個人のことか。それとも委員会に関わることか……。
三択まで絞った可能性から幾つもの想像を広げて出来る限りの予想を立てておく。
そんなことができるくらい暇な空間。随分と緩んでいると見回した視界に小さく笑えば、フィーナがお菓子をねだってきたので飴玉を手渡す。
「ユーリアこの後は? 時間あるなら一緒にフェリクスさんのところにでも行く?」
「代わって貰った仕事があるの。さすがに押し付けるわけにはいかないから」
「学生と軍属の両立は大変よねー。特にこう言う試験期間中は……。融通してくれてるのかと安心してたら後から一気にやってくるし。一回それで酷い目にあった」
「前にその話を聞いて、それから出来る限り計画的には片付けてます」
「言わなきゃよかったっ」
ニーナの恨めしい呟きにユーリアがくすりと笑う。
そういえば彼女はよく笑うようになったと。春の頃と比べて柔らかい雰囲気を纏うようになったユーリアに少しだけ嬉しくなる。
凛とした彼女と、こうして笑う彼女と。どちらもユーリア・クー・シーで、彼女の一部だ。
変わったのではなく、隠れていた芽が出ただけ。
そこにはきっとアンネとの事が大きく関わっているのだろう。
そこで不意に至る。こうして笑えるという事は、先程の相談事と言うのはアンネに関することではないということだろうか。
となると二択……さてどちらだろうか。
考えていると扉が開かれてカイが顔を見せる。
だらしなく広がった緊張感のない景色に少し驚いたように足を止めた彼だったが、それから小さく笑うとそのまま笑顔で席に着いた。
「納得の言葉を取り付けてきた。これからフェリクス殿のところへ向かって、この文書を届けて欲しい」
「それだけですか?」
「可能であれば宮廷画家としての登用を拒否する理由も聞いてきて欲しい。理由があれば後はこちらでどうとでもなる」
「分かりましたっ」
書面を受け取ったニーナが頷いて席を立つ。
ようやく目に見えた進展と行動指針。こうなるとニーナを筆頭とした幾人かは原動力に熱が灯る。
クラウスとしても分かりやすい着地点が想像できてありがたい。あとは道中の足の踏み場を整備するだけだ。
そんなことを考えながらカイとユーリアに別れを告げるとブランデンブルク城を後にする。
学生の身でこれだけ頻繁に城に出入りするというのも、改めて考えれば中々に不思議な立場だ。
とはいえそれぞれに言い訳は振りかざせるし、こういう時に異分子という肩書きは理由の塵箱になってくれてとてもありがたい。
……こんなのだから人間らしくないと言われるのだろうが、それもまたクラウスの側面の一つ。言いたい奴には言わせておけばいい。それはただの嫉妬だ。
クラウスにはクラウスにしかできないことが存在する。
胸に抱く野望実現の為にも、肩書きと実績を積み上げるのはきっと間違っていないはずだと指向を整理して。
足並みを揃えた四人は町へと歩みを進め、外れにあるフェリクスの工房へと向かう。
白い壁にそれを飾る緑の蔦。夏場は涼しくていいだろうが冬はどうなのだろうかと想像を巡らせつつ戸を叩く。
クラウス達の姿を見て少しだけその瞳に疲れたような色を灯したフェリクスだったが、とりあえず中には通してくれた。
変わらない風景と鼻をつくにおいは三度目にしてもう慣れた。
それが彼にとっての色なのだろうし、彼を作る一部なのだ。
「それで、今回はどういった用件かな?」
「こちらをフェリクス殿に」
嫌悪するように尖った彼の言葉。
一線を引いたフェリクスの視線に、けれど一歩引くことさえも許されずニーナは真正面から書状を突き出す。
彼が文面に目を通して、それからこちらへと視線を向けてくる。
「そこに書いてある通りです。僕達はこれ以上フェリクスさんに無理な話を持ってくる事はありません。個人的に言えば貴方の気持ちを曲げてまでする話では無いと思いますしね」
「そうか……。まったく、だったら早くそう言ってくれよ。力技に出るのかといらない想像をしたじゃないか」
あからさまに溜息をついて緊張を弛緩させる。そんな気の抜けた声に小さく笑えば「悪かった」と謝罪を入れて飲み物を用意してくれた。
先程城でも飲んできたばかりだが、受け取らないというのも失礼か。とりあえず一口つけて話を広げる。
「それで、えっと、王妃殿下の肖像画だったか?」
「はい。完成してますか?」
「……もう少しと言ったところだな。中々納得できる色がなくてね」
「色ですか?」
言いつつ、描きかけの頒布を画架に掛けてその絵画を見せてくれる。
儚い笑顔。寝具の上で座る彼女の、その何処か幼くも見える絵に一瞬で引き込まれる。
魔性と言うわけでもなく、蠱惑的でもない。それなのに一度見れば惹き付けては離さない魅力を持った絵画。
これが彼が手にした才能かと恐ろしく思いつつ、それから気付いた事を口にする。
「表情、目を描いたんですね」
「あぁ、全てを描きたかったからね」
光を失う前の彼女。けれどその彼女は、絵画の中では寝具に座っている。
光を失った彼女の部屋で、光を失う前の彼女が存在する光景。
そんな相違に、フェリクスはローザリンデの全てを込めた。
光が差し込まない暗い部屋というのは、彼女が光を失う事を暗示しているのだろう。そんな中で、彼女の肩に座る妖精の姿……きっとブリギッテだろう。彼女だけが小さく光を放っている。
着飾った豪奢な服は、しかし何処か簡素にも見えて寂しく冷たい色合い。
ローザリンデにとっての希望と絶望を詰め込んだ一枚の絵画。
その中心で、彼女は儚く微笑んでいた。
「……足りないのは、その目の色ですか?」
「あぁ。露草色なんて直ぐに作り出せる。けれどそれは作られた色で、彼女の瞳の色では無い」
テオの言葉に足りないと嘆く彼の横顔。
そこまで本気で考えているのだ、何か力になれればいいのにと。
思考を巡らせて、それから一つ思いつく。
そう言えばカリーナの南の方では温暖な気候を生かした草花の栽培が盛んだとか。
もしかするとそこに……。
「……ツユクサの花は昔染料に使われたと聞いたことがあります。もしそれが手に入れば」
「しかしあれは確か夏頃に咲く花ではなかったか?」
「カリーナの南方に気候を生かした草花の栽培をしている地域があります。そこならもしかすると……」
「うむ、可能性はあるか……」
「どれくらいでここに届くんだ?」
「今からだと、夜の空便を使えば早くて明日の夕方。遅くても明後日には届くはずよ」
クラウスの記憶が正しければ、の問題で、その上この時期に栽培しているかも怪しい。けれど絶対にないという可能性では無い。
テオの疑問にニーナが答えて視線をフェリクスへ向ける。
「……よかったら取り寄せてもらえるだろうか? 運賃はぼくが出そう」
「いっその事任務のためと言い張って国に付けちゃえばいいんじゃないですか?」
「偶には良い事言うわね、クラウス君もっ」
「偶は余計です」
「テオも来なさい」
「うぇ、俺?」
「居たほうが話が付けやすいから」
言うが早いか、ニーナがテオを連れて工房を飛び出していく。
追いかけるのも面倒なので彼女達に任せて、クラウスはフェリクスに向き直る。
「しかし、いいのか?」
「迷惑を掛けたせめてもの償いです。それに王妃殿下の肖像画ですから、僕もフェリクスさんが納得できるものを見てみたいです」
「…………そうか。分かった。けど花から作る色は水彩のそれと同じで薄くのびるだけで色はつきにくい。別の顔料と混ぜないと使い物にはならない。例えば青色の鉱物とか」
「青と言うと、」
「藍銅鉱! ブルー・マラカイトって言う宝石になる鉱石っ。確かスハイルが原産地のものが品質がよかったはず」
ヴォルフの呟きに答えたのはクリス。流石は地に属する妖精だ。その手の知識は他の追随を許さない。
「ただあれ高かった気が……」
「そんなに希少?」
「孔雀石って言うのと一緒に採れるんだけど数があんまりないらしくて……」
「岩緑青か。そういえばそんな話を聞いたことがあるな」
クリスとフェリクスの知識が重なって異世界の言葉のように響き渡る。お願いだから分かる言葉で話して欲しい。
「……あぁ、悪いね。岩緑青ってのは少し暗い緑色の事だ。その元となるのが孔雀石って言う鉱石」
「なるほど、理解しました」
ようやく人間の言葉を話してくれたフェリクスに安堵の息を零す。
「…………因みにどれくらいの価値があるの?」
「あんまり人間の価値観はわからないけど、多分孔雀石の十倍くらいかな」
孔雀石の価値が分からないからどうにも言えないが、とりあえず学生の身では簡単に手の届かないほど高価だという事は想像できる。
同時に、十倍の価値と言う事はそれほど採れ難いということだ。取り寄せるとなると気が滅入るが……。
「試してみないと何も始まりませんね……」
「私が行ってこよう。クラウスはここへ残れ」
「分かりました」
クラウスが動くより先にヴォルフが立ち上がって告げる。
別にクラウスが行ってもよかったが、確かに彼の方が話を付けやすいかと今回はヴォルフに任せる。
何故かデートだと喜ぶクリスにそういう見方もあるかと小さく笑って彼の背中を見送る。
ヴォルフが工房を出て行くと、しばらくしてフェリクスはもう一枚頒布を準備する。
「それは……」
「あぁ、一応完成したから。見るかい?」
一つ頷いて彼の後ろに回り込むと、そこに描かれた人物画を目にする。
長く綺麗な黒髪、剣のように凛と伸びた背筋、真っ直ぐ前を見据える瞳。
炭だけで描かれた筈のユーリアの肖像画。けれど青色に見える整ったその一枚に、感想すらも忘れてただ視線を奪われる。
「そう言えば今日は彼女はいないみたいだね」
「……軍の仕事だそうです」
「そうか。若いのに大変なことだ。……それじゃあ一つ言伝を頼んでもいいかな?」
「もちろんです」
「前に話した通りこの絵は展覧会に出そうと思ってる……。題名は、不調律」
不調律? こんなに綺麗に整っているのに?
「彼女にはまだ足りていないものがある。それは彼女自身も分かっていて、けれど直ぐには届かない。だから不調律。……まぁ題名なんて深く考えなくてもいい。結局はぼく達画家のおしつけさ」
クラウスが言葉にする前に彼は独り事のように答える。
フェリクスには一体何が見えているのか……。
少しだけ考えて、けれどそれは彼の抱いた感慨だと理解する事を諦める。芸術家の感性をクラウスが全て理解できるわけでは無いだろう。
それに彼は前に言った、絵を見て感じた思いはどれも間違ってはいないと。ならばクラウスの感じる整っていると思うそれもまた正しい筈だ。
「納得できたんですね」
「本当に描きたいものとは違うけれど、これはこれで傑作だ。久々に心が躍る素材だったよ」
他意はないのだろうが素材って……。駒と素材ってどっちが酷いだろうかと自問自答。
「さて、他の者達が帰ってくるまでに何をしようかって話だけど……君なりの見解は準備できたかな?」
「……七人目ですか? 一つだけなら。逆にそれ以外なら僕には分かりません」
「それじゃあ聞かせてもらおうか」
フェリクスの言葉に一つ息を整えて、それから言葉にする。
「リャナンシー」
「……おめでとう、正解だ。しかしよく分かったね」
「僕だけの手柄じゃありませんよ。この子達のお陰です」
「そういえば前々から思ってたけど、どっちと契約してるんだい?」
「わたしですっ」
「あたしの予定だったのよ」
張り合う二人に小さく笑ってその頭を指先で捏ね繰り回す。
「大事な二人ですよ」
「けれど妖精従き一人につき、妖精は一人だ。どちらかとは何れ別れが訪れる。君はそれが悲しくは無いのかい?」
真実を突きつけられる。
確かにその通りだ。契約は一対だからこそ意味がある。けれどそこに本当の意味で契約の制限は無い。
「────逆に、どうして一人の妖精としか契約しちゃいけないんですかね?」
「…………君は、」
「僕はできると思ってますよ、二人の妖精との多重契約」
フェリクスの承和色の瞳に異物を見るようなそれが灯る。
確かにクラウスが口にしている事は異常だろう。けれど絶対に出来ないという可能性は無いはずだ。
なぜなら一瞬でも成功例は存在する。
過去に二重の契約を果たそうとした人物がいた。その者は一瞬でも二重の契約に成功した。けれどその後、自分と妖精二人の回路、計三つが体の中を食い荒らし、語るも無残な死に様を遂げた。
人間の体は妖精の回路を一つまでしか内包して維持できない。
しかし確かに、一瞬とは言えその人物の中には二人の妖精の回路が存在していたのだ。
だったらもし妖精術を全て手中に収めれば、可能性はどこかに転がっているかもしれない。
「この世に妖精術で体現できないことは無いと僕は思います。もちろん規模が大きくなればその分解決すべき壁は沢山出てくるでしょうがね」
言葉にして、それから笑顔で告げる。
「必要ならその方法論を作り出すだけです」
「……簡単なことでは無いだろう?」
「簡単か難しいかなんてのは些細なことです。するかしないか。するならそこには必ず結果が伴います。結果があるなら成功の可能性は潰えませんよ」
別にアルとの約束である妖精の国の探求に行き詰ったとしても問題は無い。
最悪手に入れた人脈を使って王立の研究機関にでも潜り込むとしよう。
少なくとも反転術式を開発した無名のクォーターとして取ってもらえるはずだ。
それほど反転術式の名前は大きいし、時折クラウスの元には卒業後の引き抜きの案内も届いている。
もちろん今のところ保留にはしているが。保険は大事だ。
「……話を戻そうか。ぼくの契約妖精、リアナンはリャナンシーの妖性を持つ少女だ」
「髪の色は、桃色に見えるんですね」
「あぁ。もちろんぼくだけにだけど。……その仕組みは理解できたかな?」
「…………残念ながら根拠を見つけられませんでした」
「そうか。……真実を聞きたいかい?」
「…………いえ、大丈夫です。確証がないだけで幾つかの可能性は持ってます。そのうち見つかりますから」
半分降参を示しつつ、けれど全面的には認めない。
言った通り、可能性は考えているのだ。
ただそこに、感情が絡むからクラウスはその理屈を肯定できないでいる。
しかし理屈を知らなくとも、結果さえ知っていれば分かることもあるのだ。特にユーリアついては……。
「リャナンシーは、愛に生きる妖精です。妖精の恋人と言う名を持つ、人の愛を肯定する存在。添い遂げる者の生命を糧に、対価として芸術の才を齎す……。命を削る芸術の……愛の権化」
「あぁ、そうだ。彼女との契約はぼくに人物画の才能を与えてくれた。だからぼくは何よりも先に彼女の肖像画を描いた」
「そしてあの失敗作が出来上がったんですね」
魂に干渉範囲を持ち、新たな才能を与え、そして愛として──対価としてその者の命を貪る。
愛は生き物だ。とても流動的で、捉えようがなくて、捕まえて離したくなくなる。
誰かを愛する心は感情から生まれる。生きた命から生まれる。
だからリアナン……リャナンシーは生の魂に干渉範囲を持つ妖精なのだ。
「芸術家の多くは短命に終わる……。その裏に潜むのは紛れもなくリャナンシーです。彼女との契約は人の道を踏み外すその第一歩」
「それでも、仕方ない感情がこの世には存在するんだ。愛と言う名の、抗い難い欲望が……。好きになったものを近くにおいておきたいのは人の性だ」
「それこそがリャナンシーが持つ干渉範囲の影響です」
干渉範囲の影響。
単純な話、妖精の持つ干渉範囲とはその者の生まれの形だ。
風に干渉範囲を持つ妖精は風から生まれるし、魂に干渉範囲を持つ妖精は同様に魂から生まれる。
それは言わば人間が生きるために空気を犯し、無意識に呼吸することと変わらない。
彼女達妖精の干渉範囲には、常に目に見えない影響が存在する。
「リャナンシーは生の魂……愛に深い繋がりを持つ妖精。その体には、魅惑を振り撒く天性の資質があります。悪魔の世界の言葉を借りれば魅惑……見るものを惹き付けて離さない魔性です」
悪魔と言う存在がいる。
それは妖精とは違い、幽霊のように目にする事はできない。
古くは妖精と諍いがあった時代、妖精の事を悪魔と呼んでいた時期もあった。けれど時代が下るにつれて、悪魔と妖精は別物と区別され、悪魔の名を口にすれば災いが降りかかるとまで否定し、忌み嫌われた。
そんな悪魔。妖精が人型を保っていたが故に、その身に秘めた妖性に左右されることなく余り目立った事が起きず、例えば慣れた森の中で彷徨うとか、例えば恋人が居るのに別の異性を追いかけたりだとか。そう言った理解のし難い事や理不尽な事象の理由として宛がわれた存在だ。
悪魔の中に、夢魔といわれる存在が居る。
男性の姿をしたものをインクブス、女性の姿をしたものをスクブスやサキュバスと言い、主に夢の中に現れる。
その姿は入り込んだ夢の主の異性の理想像と言われ、転じて抗い難い性の象徴とされ、その身には魅惑と呼ばれる相手に間違った愛情を抱かせる魔性が宿る。
妖精にも、似たような性質持つものが居るとされ、その者をアルプと呼ぶがそれは今回いいとしよう。
「リャナンシーの見る者によって髪の色を変えたりする仕組みにはきっとそれが関係しています。少なくとも、契約者に自分への愛情を抱かせるのはリャナンシーの都合です。彼女達が持つ魔性と言うほかありません」
「確かにその通りだ。ぼくだって彼女と契約した頃は君みたいな男だった。好きな異性が居る事に恥ずかしさもなく、それに甘酸っぱい青春さえ感じていた。……けれど彼女との出会いがそれを変えた。好きだった女の子への愛情は消え失せ、狂ったように彼女の事を愛するようになった。あれを魔性と言わずして何と言う。この感情を愛と言わずして何と言う!」
「けれどそれは植えつけられた虚偽の愛情です。貴方が自分から抱いたものではありません」
「嘘から真実が出来ないとなぜ言える?」
フェリクスの言葉に今度はクラウスが視線を強くする。
そうであると言う可能性を考えていなかったわけではない。逆にリャナンシーであるから、そうなる可能性の方が高いとも思っていた。
だからこそ推論が立つ。
リャナンシーが契約相手に齎す芸術の才は、彼女が受ける愛と吊り合った分だけ。
その身を焦がしてまで契約妖精を愛せば、彼女はそれに見合った才能を与えるのだろう。
そしてその対価として、契約者の命を貪る。
彼女達リャナンシーにとって愛とは有限の命と同価値だ。
「……それを本物だと言うならそれ以上は言いません。ただ最初に感じたその感情だけは、絶対に気の迷いです」
そうでないと納得がいかないから。
フェリクスは語った。彼が評価され始めたのはここ数年だと。
けれど彼の契約妖精、リアナンとの契約はもっと前のはずだ。だとしたらもっと早くに才能が開花していてもおかしくない。
なのに彼の才能はずっと鳴りを潜めていた……いや、才能を与えられていなかった。
リャナンシーの授ける才能が愛と等価交換なら、契約妖精に愛情を抱かなければ才能は受け取れない。
だとすれば彼が評価され始める少し前から、彼はリアナンに対して恋愛感情を抱いた。
そうして、愛を感じたからリアナンはその証として芸術の才を授け、その対価として愛を──命を受け取った。
だから逆に考えて、彼が人物画で評価されるまではリアナンに対して恋愛感情は抱いていなかったと言える。その感情は、虚偽の愛だ。
フェリクスとリアナンの今の関係は愛なくしては語れない。きっとそこに愛がなくなれば、フェリクスは人物画を描けなくなる。
「…………それで、君はリアナンと契約を解消しろとでも言うのかね?」
「いいえ。言ったところで、フェリクスさんはそれには従わないでしょうから」
「あぁ、そうだ。これはぼくの我が儘だ。だからこの我が儘に他人を巻き込むことは許されない」
彼が国からの召喚を断る理由。
宮廷画家と言う地位を捨ててまで守りたいもの。
「ぼくはどうせ直ぐ死ぬ。普通の人よりも短い生涯で幕を閉じる。それは国の人たちにも迷惑をかける。折角登用したのに早死にってのは……色々問題も起こるだろう」
国は責任能力を問われたりするかもしれない。
個人の自由を曲げてまですることでは無いと非難されるかもしれない。
だから今回の命は飽くまで彼自身の気持ちを尊重した交渉だった。
国にとっては譲歩で、それを断る彼の建前。けれど本音は違う。
「それにきっと理由はリアナンの所為なのだろう。それを違うとは言わない。言えば彼女を否定しまうからね。けれどそれを認めることと彼女を愛する事は別だ。……確かに君の言う通り最初は彼女の魅力に踊らされてただけかもしれない。けれど今は違うっ。今は本気で彼女のことが好きなんだ。これを嘘だとは言わせない。嘘だとは言わないっ」
全てはリアナンの為に。彼女を巻き込んで、彼女の自由をこれ以上奪わないために彼が考えた決断だ。
視点を妖精側に移して考える。
リアナン……リャナンシーは愛に生きる妖精だ。彼女達が与える愛は有限で、その対象は別に一人とは限らない。
普通の妖精が楽しい事を生き甲斐とするように、リャナンシーは愛を生き甲斐にする。
ならばリャナンシーの事を考えるならば、契約で縛るというのは彼女の自由を縛るということだ。
契約相手しか愛せず、その愛が真実なら才を渡す。対価として人間の精気を奪い取る。
彼女達が生きるために必要な条件だ。
その条件はきっと契約をしていない方が有利にはたらくはずだ。
それを人間の都合で縛り付けて、彼女達を振り回す。傲慢な人の欲だ。
「君なら分かるだろう、クラウス君。妖精は人が縛り付けていい存在では無い。ぼくたち人間はその都合に彼女達を巻き込んでいるに過ぎない」
「そうしないと世界は成り立ちませんからね。この世界から妖精が消えれば、僕達は生きていけません」
「けれどそれは妖精も同じだろう。幾ら転生するとはいえ長く生きたいのは確かだ。その為に人間が必要だから、人間を利用している。結局そこは均衡が保たれているのだよ」
互いが互いを利用する。だから世界は成り立っている。
「けれど国と個人は違う。どれほど協力関係が築かれていても国と個人だ。そこは平等には成り得ない。人は平等では無いから、国ができるのだ」
そこに平等がないから、対等がないから、彼はそこにリアナンを巻き込む事を恐れているのだ。
「国と国なんて、なくなってしまえばどれ程楽か…………」
「例え国がなくなっても、種族の壁はなくなりませんよ。何かの壁がある以上、そこに平等なんてありえません」
例えば国がなくなって、このフェルクレールトと言う大地がみんなの物になったとしよう。けれどそこには種族の壁が存在する。
それじゃあ次に暴論として種族の壁もなくなったとしよう。けれどそこには言語と感情と文化の壁が存在する。
最後にその壁を取り払おう。そうすると意思疎通が出来なくなって争い始めるだろう。
やがて人間が積み重ねてきた歴史が再現される。
その先の未来に今とどれ程の違いがある?
人間が人間である以上、そこに諍いも壁も絶えない。
だからクラウスは願うのだ。
悪を消せないなら、正義で固めてしまえばいいと。
自分以外を正義にしてしまえばいいと。
それがクラウスの理想であり、野望だ。
「別に平等なんて願ってるわけじゃない。ぼくはただ、リアナンと自由があればそれでいいのさ」
寂しい色と共に遠くを見据えた彼は、それから小さく笑ってこちらに向き直る。
「どうでもいい話だったな」
「いえ…………」
彼にしてみれば契約によって突きつけられた余命宣告だ。
人より早い死。それと引き換えに手に入れた何かを残す技術。
そしてリアナンとの関係。
きっと彼にとってはそれこそが最大の幸福だ。
考えまいとしても脳裏を過ぎる死のにおい。
魂に干渉範囲を持つ妖精との関係は、物語の中でもそうだが最後は何処か物悲しいものだ。そう簡単に救われる話は無い。
例えばクラウスがその事実を突きつけられても、納得する事はできないだろう。
だって夢があるから。成すべき理想があるから。
それを叶えるまではクラウスは死ねない。彼女達の為に、死ねない。
そんな涙は、いらない。
「深くは考えないでくれ。君にぼくの人生は関係ないだろう?」
「……だったらそこにいるだろう彼女を話の種にしないでくださいよ」
「君が知りたいと言ったからそれに付き合ったんだろう? 責任をこちらに擦り付けないでくれたまえ」
笑うフェリクスに、クラウスもどうにか笑顔を作る。
渦巻いた感情が空気を濁したのも数瞬。次の瞬間開かれた扉から入り込んできた新しい風がその空気を塗り替えていく。
「約束取り付けてきたわよっ」
「買い付けも運賃も国が負担してくれるらしいぞ」
「届いたらここに回してもらえるように手配して来た」
「うむ、色々とありがとう……」
「完成したら一報ください。受け取りに来ます」
「決まりだな」
きっと最後になるのだろう彼との関係を少し寂しく思いながら彼の居城を後にする。
外に出れば傾いた日差し。仕事帰りなのか人通りも段々と多くなっているようで、夕食に向けて食品を売り始めている店が目につく。風に匂いが乗って鼻先を擽れば食欲を刺激した。
「おーなか減ったー。作るの面倒だし買って帰ろうかな……」
「俺もそうしようか。クラウスに集るのも迷惑だしな」
「思うなら自炊すればいいのに」
「……食えれば一緒だろ?」
指摘には顔を逸らして答えるテオ。
料理さえ出来ればテオも完璧なのに。何であんな簡単なことが出来ないかね。
思っているとニーナがテオの腕を引いて店の方へ歩いて行く。仲のよろしいことで。
「……先輩は食事はどうしてるんですか?」
「…………毎度買って食べていた……」
「いた? 今はどうなんです?」
「……私は断ったのだがな、レベッカが時折作りに来ている。今日はこれからコルヌ家へお邪魔する予定だ」
恥ずかしそうに呟くヴォルフ。どうやらこちらも良好そうな様子。
コルヌとの繋がりは最悪彼を通せばどうとでもなる。
レベッカとヴォルフの関係はクラウスの想定外だったが、今となっては有用な駒の一つだ。
「折角ですから楽しんできてください。それから伯爵にはよく言っといてくださいね」
「自分で言えばよかろう」
「……僕エーヴァルトさん苦手なんですよ」
どうでもいい理由を告げて、それから彼と別れる。
テオとニーナもどうせ二人で過ごすのだろう。恋人なのだから別におかしいことではない。
幼馴染をとられ、他に親しい友も居ないクラウスは一人身。
吹いた風が少しだけ寒く感じて冬の訪れを予感する。
今行われている試験が終われば学院は一先ず休み。短いが冬期休暇だ。
休みの間に、祭礼日が一つ。ユールという、昼が一年の中で短くなった頃に催される祭りだ。
元々は冬の寒さに多くは育たない農作物が早く蘇る事を祈る、死んだ大地を蘇らせる太陽の祭り。今では季節と言う形で冬とされ、冬の後には雪が解け春が来るとわかっているからあまりそう言った視点で見られることは無い。
現代では動物が引く橇に乗ってやってくる農家の妖精、トムテが子供達に一夜の贈り物をするという子供心には嬉しい日だ。贈り物はユールの前日、ユールアフトンに行われる。
農耕を司る妖精であるから、豊穣と不作の象徴でもある。トムテの機嫌を損ねれば翌年の農作物の収穫は悪くなるとされ、気難しいその性格を諌め豊穣を願うためにユールの日に粥と呼ばれる、穀類を水や牛乳などで炊いた料理を供える。
また藁で冬を象徴する動物を形作り飾ることでユールという一日を象徴するものとしている。
トムテと言う妖精が関わっていることから、少し前にあったハロウィンやサウィンと言った話と同様、フィーナたちにも楽しんでもらえるだろう。
町の景色も綺麗に彩られ、視覚的にも楽しい祭礼日だ。
そんな浮かれた景色が人の心を動かして、ある程度の年になると子供心な期待感から、異性と一緒の時を過ごすと言う欲望に摩り替わる。大人や学生にとってはどちらかといえば恋人との一日と言う意味合いが強い。
美味しい物を食べ、少しだけ着飾って、贈り物をしたりして……。
恋人の居ないクラウスはやはり寮で賑やかに過ごすのだろうか。今年からはフィーナやアルがいるからそれなりに賑やかで、楽しくはあるのだが…………。
「……何だか楽しそうな事を考えてますね、クラウスさんっ」
「そうやって勝手に人の心を覗かない」
「だってクラウスさんの心の中覗いてると楽しいですもん。それに、アルにはできないことですし……」
「クラウスっ、ちょっと頭貸しなさい! 記憶書き換えてあげるからっ」
「本気でやめてくれ。僕が僕じゃなくなったらどうしてくれるっ」
「そのときはあたしのものになればいいのよ!」
「クラウスさんはわたしのはんぶんです!」
怖い事を言ってくれる。
冗談でも言葉にされると想像してしまうだけに肝が冷える。
相変わらず二人で火花を散らすその可愛らしい喧嘩にクラウスも巻き込まれつつ、寮へ戻るために学院へ。
すると校門のところに見慣れた人物が壁に凭れて座り込んでいた。
「こんなところでどうしたの?」
「……約束ならちゃんと取り付けたわよね?」
「…………あぁ、そう言えば……」
クラウスの声に顔を上げたユーリア。問い掛けには半眼で呻き返された。
彼女の言葉に記憶を旅して見つける。
そう言えば後で時間が欲しいとか言っていたか……。
「何の用事だったの?」
「…………勉強」
……あぁ、うん。言いたいことは分かるけれど…………流石にこちらに理解を丸投げし過ぎでは無いだろうか。
「……とりあえず外寒いから」
言って上着を彼女の肩に掛けると寮へと向かう。
全く、そういうことなら先に言っておいて欲しかった。
献立も狂うし、予定もずれる。
出来る限り計画的な時間の使い方をしたいクラウスとしては、こういう予想外は出来る限り遠慮したいのだ。
嘆いたところでこの景色が変わるわけでもなく。吹いた風に肌寒さを感じながら自室へと辿り着くと、風呂と夕食の準備。
「そういえばユーリア、寮の門限大丈夫なの?」
「外泊届けは出してきたから」
「あ…………?」
思わずユーリアに飲み物を差し出そうとした手を止めて耳を疑う。
そんなクラウスの視線に、ユーリアはさも当たり前と言う風にクラウスの手から飲み物を奪い取ると一口飲んで息を吐いた。
「クラウスのことは信頼してるから平気よ」
「そういう問題じゃ…………。あぁ、もうっ」
随分と落ち着いている彼女に既に疲れの色を見せる。
いや、うん……。確かにいきなり襲ったりとかはしない自信はあるけれど…………。
……考えるだけ無駄か。どうせクラウスには彼女を追い返せないし、それを彼女も分かっている。
下手に互いの事を知っているから、それが余計に居心地の悪さを助長する。
こういう場合深く考えたら負けだろう。いつも通り振舞うに限る。
胸に溜まったあれやこれやを長い息に乗せて吐き出すといつもの友人としての仮面を被る。
「それで、夕食はどんなのが食べたい?」
「任せる。勉強してるから出来たら呼んで」
まるでここが彼女の部屋だとでもいう風に、いつも通りのユーリアに尊敬さえ抱く。
彼女にとって他意はないのだろうし、クラウスの前でいつも通りと言うのはクラウスとしては嬉しいことだ。男からしてみれば少し情けない話なのだろうが……。
「……とりあえずそこの問題間違ってるよ」
「…………どうも」
指摘を残して台所へ。
身支度と一緒に邪念を振り払って夕食を作る。
言葉に振り回されるな。彼女が思った真実しか言葉にしないのはいつものことだ。そこに深い意味は無い。
自分を納得させてようやくいつも通りを取り戻す。
そうして出来上がった夕食を食べ終えると、片付けをクラウスに丸投げしてユーリアは風呂へと向かった。
本当にこの部屋に泊まる気らしい。彼女には恥じらいと言うものは無いのだろうか。
フィーナやアルとの生活で、異性が近くに居るという事に慣れていてよかったと彼女達に感謝をしながら食器の洗い物。それさえも終わって手持ち無沙汰になると本格的にユーリアのことが脳裏を過ぎり始めたので、クラウスも筆を手に取る。
まったく、こっちの都合も考えて欲しいものだ。
そうしてしばらく時間を潰しているとユーリアが風呂から上がって来る。
板張りの床を踏むぺたぺたと言う足音に顔を上げれば、そこには黒いの上下に身を包んだ彼女が立っていた。
頬は少しだけ上気して桃色に。けれど表情はいつも通りの能面模様。濡れ烏の綺麗な長髪が首筋に一房貼り付いていて、少しだけ妖艶さを感じさせた。
「先に入る? それとも勉強見てくれる?」
「入ってくるよ。明日の試験で出そうなところを纏めておいたから目でも通しておいて」
「ありがと」
言って立ち上がり、風呂へ向かうその最中。そう言えば彼女にしては珍しく柔らかく尋ねるような口調だったと、また少し調子を狂わされる。
…………うん。心を開いてくれているのだからいいとしよう。クラウスが小さな変化に敏感になっているだけだ。
考えて、それから開いた脱衣所の扉。鼻先を擽った彼女の匂いに知らず動きが固まる。
迂闊と言うか自然体と言うか……。本当、もう少しクラウスのこと考えてくれませんかねっ。
脳裏を過ぎるのは男の性か。できるだけその景色を振り払いつつ体を綺麗にして戻ると、既にユーリアはクラウスが用意した問題を解き終わっていた。
「見縊り過ぎよ。私だって賢くなってるんだから」
「そんなに簡た……うん。とりあえず一問目から答え違うけど」
「……………………」
せめて何か反応くださいよ。
相変わらず筆記の、それも苦手分野となると極端に駄目になる。これでクラウスより腕が立つというのだから世界はやはり理不尽だ。
それでも努力を認めつつ採点をして特に重要そうなところに絞って彼女の勉強を見ていく。
そうして間に勉強と言う緩衝材を挟めばクラウスもいつも通りへと戻る。
ユーリアが問題に向き合っている間、クラウスは手元で妖精術を弄り回す。
それは今日フェリクスに突きつけたクラウスなりの見解。
────どうして一人の妖精としか契約しちゃいけないんですかね?
クラウスが持っている知識と、フィーナやアルの助言を受けて、今後使うことのないだろう契約術式を分解して解明していく。
その途中、解いた妖精術の端に、読めない文字を捉えてそこだけを引っ張り出す。
するとそこから紐のように連なって、虹色の読めない文字が中空へ躍り出た。
引っ張れば引っ張るだけ次々に読めない文字が部屋を駆け巡って埋め尽くす。
手元に集中していたユーリアも何事かと顔を上げてクラウスの方を睨む。
「……一体何をしてるのよ。気が散って邪魔なんだけど…………」
「ごめん……。直ぐ片付けるよ」
けれどどうやって片付けたものか。空中を漂う読めない文字に手を伸ばして手繰り寄せる。
妖精語すらも読めないクラウスだ。妖精術から出てきたということは、妖精が使うように暗号化された文言なのだろう。
見ているだけで頭が痛くなってくる文字だろう羅列に、とりあえず妖精力に由来するものだから、別な妖精力の波長で消そうとフィーナの力を借りる為に声を掛ける。
「フィー…………」
「たたのぎとてがめちりするとぎのたわしりちめが────」
「ちょっとっ、クラウス。これ普通の妖精語じゃないわよ……?」
紡がれたフィーナの静かな響き。何を……と理解が追いつく前にアルの方から声が掛けられる。
「うん……? 妖精語じゃない?」
「えぇ、多分これ…………妖精古語だと思う」
妖精古語。古い時代妖精が使っていたとされる妖精たちの言葉だ。
発見された数が少なく余り研究の進んでいない分野だ。
「あれ、今の妖精って妖精古語が読めるのは殆ど居ないって…………」
「よそしんょふーらしのふーかまいいごなせやをたたへまえあくいとのみてとごのぃにもびえぃのりはいり────」
「────」
クラウスの疑問にフィーナの朗々とした鈴の音が響き渡る。
「フィーナ……」
「何だかよく分からない文章ですね…………」
「読める、のか……?」
「……? はい、読めますよ? 意味はよく分かりませんけど……」
「…………アル、これは妖精古語で、間違いないんだな?」
「えぇ。妖精語を読めるあたしが保障するわ。これは妖精語なんかじゃない。紛れもない妖精古語よ」
アルの肯定の声に息を飲んで小さく笑う。
こんな原石が眠ってるなんて……。
「クラウス……?」
「……あぁ、ごめん。ちょっと色々考えてた」
顔を覗きこんでくるアルに悪戯な笑みで答えて思考を回す。
妖精古語。
まだまだ未知の事象だ。クラウスの……世界の知らない秘密が詰まったびっくり箱。
こんなもの、他人の手に渡すのは惜しいっ。
何ができるかわからないが、少なくともクラウスの得に転ぶことは確かだ。
「フィーナ、とりあえず邪魔になるから消して」
「え、あっはい……」
例え誰であっても、この手柄だけは渡すわけにはいかない。
「ユーリア」
「言わなきゃいいんでしょ? そんな古臭い呪文に別に興味ないし」
「ありがとう」
貼り付けた笑みで告げて、それから室内に煌く残滓を見回して一つ息を吐く。
まずすべきことは妖精語からか。
どこかで見失いかけていた妖精の国への道。実現のための確かな一歩として絶対に通らなければいけない課題を目の前に突き立てる。
「楽しそうね、クラウス」
「そう見える?」
「えぇ、いつもの悪い顔してるもの」
「失敬な」
いつの間にか道化の仮面。
ユーリアの指摘に隠しきれない狂喜を胸の内で暴れさせて夢想する。
また一歩、その野望へと近づいた。
アルが望む景色を再現するために、クラウスはまた一歩、人間をやめた。
着々と組み上がっていく今後の目標。脳裏の予定表に忙しくなる未来を想像して胸を躍らせる。
あと少しだ。後幾つかの歯車さえあれば、全てを現実にすることができる。
どうやってそれを揃えようかと方法論を考えてはこの小さい体を悔やむ。
もっと自由を。人間には無い自由を!
妖精のような自由を────




