後奏曲
世界はいつも理不尽だ。
目に見えない力で現実を歪めて真実を覆い隠す。
だから抗いたくて、何かを残したくて行動を起こすのだ。
彼女はあたしの唯一無二だった。
若い頃は世界が広い事を理由に、沢山の事に興味を持った。
幾つかの真実を学んだ後は、そこから新しい真実を見つけようと努力した。
彼女が研究職を志したのは両親が理由だったと聞いている。
研究者だった二人の間に生まれた彼女は、幼い頃から何かを調べることが好きだったらしい。
沢山の本。読めない文字。意味の分からない言葉。
そんな煩雑な世界は、やがて彼女の興味を刺激して親と同じ道を歩ませた。
彼女との契約の事は今でも思い出せる。
用意された会場で、沢山の妖精の中に混じって存在するあたし。
その頃はまだ若くて、人間の文化さえ殆ど知らないお子様で。ただ楽しい事を楽しいと言いたい為に、自分の我が儘を振り翳していた。
契約など、したくなかった。
自由で、気ままで、奔放で。
妖精らしさを存分に胸に抱いて。人間に悪戯をすることが好きだったあたしは、そのときも孤独に世界を歪ませていた。
幾つもの妖精力が犇くあの場所に、心を刺激する感覚を見つけられなくて嫌気が差していたのだ。
人間は妖精との契約を望んでいる。けれどその殆どは強くなりたいとか、妖精従きになれるという自尊心と夢に溢れた有り触れた感情ばかりだった。
あたしはただ、悪戯に楽しく過ごしたいだけ。周りの妖精とは違い、楽しく生きられればそれでいいと思っていた。
そんな時間を何年か過ごした。過ごすうちに、自分に余り時間が残されていない事を知った。
妖精はその身一つでは長く生きられない。
自分で妖精力を生み出すことも、そこら辺に存在する妖精力を吸収することもできないからだ。
その体にある妖精力を使いきってしまえばそれまで。
だから楽しい時間を生きるために妖精は人間と契約を交わすのだ。
けれどそんな風に残り時間を突きつけられても、契約しようと言う気持ちは湧いてこなかったのだ。
人間は自分の欲の為に妖精と契約をしたくて。そうしてしまえばあたしは自由ではなくなるから。楽しく生きられなくなるから。
だからいっその事、このまま消えてしまってもいいとさえ思っていた。
そんな風に諦めさえ抱きつつ何度か人間との契約を擦り抜けて。
やがて今年が最後だと気付くときがやってきた。
今回を乗り切れば、あたしは自然に消滅する。自由に生きて何者にも縛られないまま新たな生を迎えるのだと。
それも悪くないと思いつつ揺蕩っていたあの場所で、あたしは孤独に木陰に佇んでいた。
「貴女何してるの?」
そんな世界に不躾に踏み入ってきた人物がいた。
あちこちに跳ねた手入れのされていない髪。そのくせ綺麗な色をした、白縹の長髪。こちらを見つめる縹色の双眸。
思わずその鮮やかな色に目を奪われて、直ぐに頭を振った。
「……別に。契約なんて馬鹿みたい。自由じゃなくなるのにそんなことして何が楽しいんだろうって…………」
不意に答えて、それから口を噤む。
一体あたしはは何を答えているのだろう。誰と話しているのだろう。
自分の行動に呆れさえ滲ませて、それから気付く。
彼女とは、普通に会話が出来た事に。
「……そうね。何が楽しいのかしらね。妖精なんてそこら辺に沢山いる。人間は契約なんてしなくたって生きていける。価値観の違う者と一緒にいて何が楽しいのかしら」
響く言葉。そこに宿る彼女の心。妖精術を介して胸を打つ彼女の本心。
本当に────そのままだ。
理由など見出せなくて。何が楽しいのか理解できなくて。彼女は彼女である事を自由に思っている。
まるでそれは、今の自分と同じだと。
「隣いいかしら?」
「好きにしたら?」
意味のない、その場限りの言葉。感情さえ宿さない空虚な響きにただ思った事を答える。
そうして彼女は影に腰を下ろし木の幹に背中を預けると手に持った本を開いて読み始めた。
不意に疑問が募る。
彼女は人間だ。この契約の場は、人間の都合で開かれた会場だ。ならば彼女は契約をしなければならないはずで、それが彼女達に課せられた掟だ。
「……貴女は、契約は?」
「…………するんじゃない? 誰かと。信用も出来ない妖精と、仕方なく。そうしないと帰してもらえなさそうだし」
どうでもいいことのように零す彼女。鬱陶しそうに垂れた髪を耳に引っ掛ける仕草。その指先に思わず視線を向けてしまう。
そんな彼女を羨ましく思う。誰にも縛られず、何にも興味を抱かず。否、自分が信じた道を突き進む彼女。
事ここに至って、ようやく自分が彼女に惹かれている事に気付く。
「……貴女は、契約は?」
返った言葉。その問いに少しだけ考えて答える。
「…………いらないものだと思ってた。だってしたいことが消えちゃうもの。好きなことが出来なくなるもの」
声に、彼女がこちらを向く。綺麗な瞳に見つめられて、息が苦しくなる。
「あたしね、馬鹿なことばかり考えてるんだ。誰にも縛られたくないって。自由に悪戯をして生きていたいって」
言葉が気持ちになる前から零れ落ちる。ようやく気付く。
あぁ、あたしは彼女に理解して欲しいのだと。彼女とこの感情を共有したいのだと。
「でもそろそろ時間みたいで、そんなことが長く出来ないみたい。それが寂しくて、冷たくて、どうしようもなくて……」
この思いは、そう……。彼女達人間が抱く、契約をしたいという動機なのだ。
気付いて、否定できなくなる。
「だから契約しないといけないのに、したくないの……。誰も皆、あたしに期待してるから」
「期待…………」
零れた声。それが目の前の彼女のものだと納得するのに時間がかかった。
「嫌よね、期待されるのは。勝手に都合を押し付けられて、思い通りになって欲しいと願われて。私の気持ちは蔑ろ」
彼女の声に波長が宿る。そこにようやく感情が乗って、あたしの肌を震わせる。
彼女も、同じなのだ。
期待されるのが嫌で。自由が好きで。ただ自分の理想を追いかけていたい。
とても我が儘な、子供の言い訳。
「私はただ──」
「自分らしく生きたいだけ」
彼女の言いたい事を口にする。
そうして響いた声に、彼女は驚いたように目を見開いて、それから小さく笑みを浮かべた。
「貴女、名前は?」
「ブリギッテ」
静かに答えれば彼女は告ぐ。
「……意味は確か、崇拝される者、高貴な者だったかしら? 童話のお話に出てくる登場人物と同じ名前ね」
その笑顔。楽しそうな声に彼女の名前を聞き返す。
「……貴女は?」
「ローザリンデ」
「ローザ……バラ?」
「どうかしら。親にはリンダ……菩提樹って呼ばれてるけど。それにブリギッテもバラの名前よね?」
それは面白い言葉遊びだと笑えば彼女も笑みを零す。
弾む会話。ここまで気持ちが共鳴すれば、そこに言葉はもう要らないほどで。
だからこそ、正しく音にする。
「その自由、私にくれないかしら?」
「貴女の自由をくれるなら」
そうして、彼女──ローザリンデとあたしは唯一無二の契約を交わしたのだ。
それから互いの気持ちを不可侵に尊重して、二人で一つの世界を作り始めた。
あたしは彼女に縛られず、彼女はあたしを縛らず。それぞれの感慨を自分とは違う何かだと認識して深く悩む事を放棄した。
あたし達はこの世界で最も愛され、最も愛に飢えた存在だった。
そんな彼女も恋をして。彼と契って。
重ねた年月の中で、色を失って。
その頃から彼女はあの部屋にいる事を強要された。
できることが制限され、幾人ものお世話係と監視役がつき。そのうち彼女は研究職に就いていた頃、時折一緒に考えた妖精術の開発に力を注ぐようになって。
やがて露草姫、月草姫、着草姫と民草から親しまれるようになる。
そんな自分の正しさをずっと貫いた彼女の、最期。
儚くて、優しくて、悲しくて、辛い。そんな形容が幾つあっても足りない笑顔で静かに眠った彼女。
彼女のその笑顔を見て、あたしは一つ答えを得たのだ。
彼女の人生は、彼女が満足に足るものだったのだと。何かを遺すことができたのだと。
昔からよく言っていた。
人間の生きた証は、涙の数と遺したものできまると。
だから何かを遺したくて、彼女は自分に疑問を突き付け続けた。
そうして、最期に託した。
それが彼だ。
実のところあたしは彼の事を余り信用していない。
真人間の思考を持っているから、そこから抜け道を幾つも知っている。言わば彼には人間の常識が通用しないのだ。
それは彼女が託した理想には必要なものなのだろう。けれど絶対に人間とは相容れない存在なのだ。
だから彼は間違えて、新しい真実を見つける。認められないものを認めさせてしまう。
世界を、変えてしまう。
変わっていく世界と停滞する世界。どちらに平穏があるかと問われればあたしは間違いなく後者を選ぶ。
だって必ずしも便利になること、真実を見つけることが正しいことだとは限らないから。ならば今存在する正しいことの中で永遠に生きていた方が平穏であるはず。
そう思ったから、あたしは彼女と契約するまで孤独でいたし、彼女と契約してからも束縛される事を嫌って自由気ままに行動をしていた。
だからこそ、同じ視点から彼の未来には信頼も抱く。
信用は過去から類推する判断。信頼は未来に対する精神的な安堵。
過去に彼女が話していた言葉だ。
あたしはクラウスの今まで歩んできた人間らしからぬ振る舞いは信用できない。けれどそんな彼だから自分の信じたものを疑わず真実にするために行動を起こす未来の彼は信頼できる。
それはどこかで彼女の生き様とも重なるからかもしれない。
そんな事を考えて小さく笑う。
何にせよ、もうあたしには関係のないことだ。後は彼らが勝手に紡ぐ物語。
そう納得して、この身に掛けられた妖精術を解く。
刹那、意識が平たく伸びて遠くに消え去っていく。
これが妖精変調。人の似姿を模ったあたしたち妖精が本来の姿を取り戻す感覚。
懐かしくて、少しだけ名残惜しい。
不意に脳裏を何かの景色が過ぎったがそれが何なのかを知る事は出来なかった。
そうして、気付けばあたしはそこにいた。
変わらない本能。妖性としての本性。
この身はケルピー。
馬の姿をした水辺に住む妖精。背に乗った者を水の中に引き込む水難の理。
辺りに死のにおいを振り撒く存在で、同時に名馬。この身を手懐けた者には他には劣らない栄光を。
理想と現実の守護者。
かの者は如何な夢を抱きてこの背に跨るか──
降り注ぐ天の恵みを仰いで、大地を駆ける。
この身はどこへ向かうのだろう。
その身は誰が命を背負い給う────




