第二章
日常は日の常として、変化のない時間の流れで移り往く景色を刻々と変える。だからこそ日常なのだと再認識して、ならばこの世界に日常は無いのだと悟る。
クラウスはいつものように傾いだ視点で世界を穿って、情報の波の中を揺蕩う。そうして自分さえも分からなくなっていく中で、クラウスの中に存在するクラウスを構成する情報が少しずつ色を変える。
浮遊術式。小さなものを浮かせることが出来る妖精術。
戦闘で使えるかと言えば微妙で、小石程度を飛ばす事は出来るかもしれない。通常は日常で物質を浮かせて移動し、生活を便利にする程度の妖精術だ。
人間に掛けても浮く事は出来ず、落下中であれば少しばかりその勢いを減速させることが出来る。
そんな術式。日常的に掛けていても特に害のない妖精術は、日常の中に溶け込んでしまっているのか、常時展開していても周りへの影響は殆どないようだった。
時折、学院の廊下ですれ違う誰かの契約妖精がちらりとこちらを窺って来る事はあったが、迷惑は掛っていないようだ。
アルからの助言。もし妖精術の行使を無意識で行えるようになれば、妖精術に対する理解が深まるかもしれないと。
妖精術について調べ始めたクラウスは中々進んだ気がしない分野に少しだけ飽きの陰が差して、可能性を求めて彼女の言い分を試してみる事にしたのだ。
そうして数日。いつものように学院生活を過ごしていれば、クラウスの元へ委員会からの召集命令が下る。
特に問題が起きたという話はクラウスの耳には入ってきていない。と言う事は先のジャッキーの一件でヒルデベルト国王陛下から言い渡された恩賞の話だろうか。
考えつつ、生徒会室へ向かえば既に全員が揃っていた。腰を下ろすとニーナが声にする。
「集まってもらったのはヒルデベルト国王陛下からの褒賞の件よ。書類も届いたしそろそろ一度話を聞いておこうかと思ってね」
そう言って数枚の紙を振るニーナ。
ふとその紙がどこを経由して委員会の元へ届いたのか……それを想像してクラウスは無駄にならないだろう褒美の候補を思いつく。
「とりあえず既に考えてる人は書いちゃいなさい。まだ決まってない人はとりあえず週末に一回提出で」
「……これって自分の為じゃないといけませんか?」
書類を受け取ったユーリアが文面を見つめて静かに零す。
「普通はそうじゃない? 貴方の夢を一つ叶えてあげます、みたいな便利な話、他人に使う方が珍しいでしょ」
確かにその通りだ。他人のために使うというのは本当に欲のない人物か、その欲が他人に向いているかのどちらかだ。
「……何かさー、こうしていざ好きなものを選べって言われると困るよな? どこまで叶えてもらえるか分からんわけだし……。まだ候補があった方が選びやすくて助かる」
「別に欲しいものがないわけじゃないでしょ?」
「そりゃそうだけどよ…………」
どうやらテオは悩んでいる様子。
「ならいっその事、先立つものにしてみるのはどうだ?」
「それを書くのってよほど勇気要りませんか?」
ヴォルフの言葉に困ったように唸って頭を書くテオ。彼が欲しいものを見つけるにはまだまだ時間が掛りそうだ。
確かに彼の言う事も一理あると思いつつ、クラウスは先程思いついた希望を記す。それを横から見ていたユーリアが小声で声を掛けてきた。
「いいわね、暢気に求められるっていうのは」
「……ユーリアは? さっきの質問からして候補はあるんでしょ?」
疑問を向ければ、彼女は言葉に詰まったように視線を手元の紙に落とした。
春の悪戯騒動から共に過ごしてきた関係だが、その繋がりを以てしても話してもらえないとは……そんなにクラウスは信用ならないだろうか。
考えつつ、その裏を返す。
もしかしてクラウスだから話せないことだろうか? だとするならば幾つかに候補は絞れる。
クラウスとユーリアが共に知っていて、それを望む事でクラウスに関するところで変化が起きること……。
考えて、下りた沈黙が居心地が悪くて代替案を提示する。
「……なら一度自分のものに置き換えてみれば? その上で、もう一度その力を使えばもうそこは個人の問題だよ」
「……………………」
思いついたのは、アンネのヴァレッターとしての地位が明るみになった一件でユーリアが使った書類。元々エルゼのもので、それをクラウスが譲り受け、クラウスがユーリアに渡した便利な紙切れ。
あの時と同じように、一度ユーリアの手元に一つの形としておいて、後々ユーリア個人としてその強権を使えばいいだけ。
そんなクラウスの提案に、けれどユーリアは黙り込んでじっと紙切れを見つめる。
別にクラウスに対して遠慮する必要は無いだろう。それは彼女の決断で、結果クラウスが巻き込まれるかもしれないという彼女の危惧。
もしその想像が現実となるならば、クラウスにとっては彼女との距離を縮める一つのきっかけに過ぎない。どう転んだってクラウスの得だ。
それにクラウスを巻き込む事に抵抗があるとするならば、それもまたクラウスにとっては有益な情報だ。
彼女の想像は全てクラウスの都合に結論付けられる。ならばこれ以上クラウスが首を突っ込む話では無いはずだ。
「……それで、今日の集まりはこれだけですか?」
「…………今のところは……」
書き終えた書面をニーナに差し出せば、返ったのは歯切れの悪い言葉。彼女の声に裏を返す。
ニーナが知っている懸念。となればその情報の出所は国軍だろうか。
流石にクラウスも軍との直接の繋がりを持って居るわけではない。アンネを介した情報はその鮮度が一段階落ちる。
一応ない事もないが、どれも間接的過ぎて使い辛い。
「また悩み事ですか?」
「……必要ならまた声を掛けるわよ。それまでは忘れてなさい」
手を振って追い払うニーナ。
もし必要なら様々な人脈を経由して集められる情報だ。深追いするほどではないか。
彼女の言葉に従って一度思考の外へと出て行ってもらう。
そうして背中を押されるように生徒会を後にすれば、足は自然と寮へと戻っていった。
過ごすべき日常は知らぬ間に時を進め、刻々と針を刻む。
クラウスにとって平穏の代名詞である学院での生活は随分と平坦でいつも通り。
これまでもこうだったなら、妖精の国のような夢を抱かなくて済んだのかも知れないと終わった事を反芻して別の道を想像する。
けれどそれは遠に捨てた道。今となっては妖精の国と言う野望以外クラウスの視界には存在しない。
だから今日も今日とて、平穏の日常を尻目にクラウスはクラウスに必要な事だけを盲目に追いかける。
時間は有限……と言うよりは人間の生が有限、だろうか。一度踏み出した道を引き返す事はただ労力の無駄だと切り捨てて前だけを見据える。
視線は未だ未知の事象を求めて手元の書物に。吹いた秋風を鬱陶しく思いながら読書の登校。
「クラウスさん、頭ぶつけますよ」
フィーナの声に顔を上げれば、目の前には伸びた木の幹。萌える葉は鮮やかに色付いて季節の只中であると知らせてくれる。
読書の秋。なのだから別に読みながら歩いてもよかろうと。見えないまま歩いて行く先の視界を相棒に任せつつ、再び視線を落とす。
視界は文字を、音は自然を。空気で息吹と、匂いで景色を。味覚がないのが少し寂しいがそれは食いしん坊なはんぶんに譲るとして。
特に持病もないクラウスとしては秋は過ごしやすい季節だと再認識する。
そんな風に学院へ向けて歩いている最中。耳が啜り泣きのような女の声を捉える。
思わず足を止めて耳を澄ませば、聞こえて来るのは敷地内の林地帯から。フィーナとアルに視線を向ければ彼女達も鳴き声のする方に視線を向けていた。
どうやらクラウスだけの幻聴では無いようだ。
声のする方に歩みを進めて覗き込んでみる。が、誰の姿もない。
直ぐにその泣き声の原因に気がついて早足にその場を離れる。見ればフィーナも気付いたかクラウスの髪の毛を引っ張って体を小さく震わせていた。
流石に彼女に話を振るのは酷か。クラウスはアルの方に視線を移すと尋ねる。
「妖精力感じた?」
「えぇ。まさかもうこんなとこまで影響が出てるとは思わなかったけど……」
考えるように視線を伏せるアル。
どうやらクラウスの想像で間違いはなさそうだ。
────バンシー。家人の死を予告すると言われる、長い黒髪に緑色の服、灰色の外套を羽織った妖精だ。死を告げる家の近くに現れ、その泣き声を聞いた家では近いうちに死者が出ると言われている。
人間の噂話にも怪談として語り継がれる存在。春にもフィーナに話をして怖がらせた妖精だ。
けれど直ぐに疑問にぶつかる。
この妖精は家に出て、家人の死を告げる者だ。泣いているうちは姿を隠しているために目に見えないとしても、こんな木々の合間に佇んで泣き声を漏らすのはおかしい。それにクラウスだけに留まらず、フィーナやアルにも聞こえている。彼女達の血縁関係を詳しく聞いた事はないが、少なくともクラウスの家系と繋がりがあると言うのは考えづらい。
となれば今の泣き声は三人同時に聞いた幻聴か、妖精変調で妖性が刺激され、バンシーとしての本来の姿を現し、当の妖精が困惑から啜り泣いたというところだろうか。前者はどうにも納得し難いが。
それに、下手をすれば現実が曲げられてしまう可能性も存在する。
フェルクレールトと言う世界は良くも悪くも妖精と隣り合わせだ。それは世界の伴侶とも言われるほどに密接に関わっている。
そんな世界で、妖精の方に変調があって、ゴブリンやデュラハンと言った加虐性の高い妖精の報告もあるほどだ。そこに、直接死を告げるバンシーと言う存在も姿を現して──彼女達の持つ妖精としての本質……人間の歴史に伝わるその存在意義がいつ牙を剥くとも知れない。
もしクラウスが考えるように妖精の干渉一つで、本来ならば死ぬはずのない生物が死ぬのであれば、それは現実の歪曲だ。
それほどに妖精が持つ意味合いと言うのは人間の世界に溶け込んでいるのだ。
……これはそろそろ本格的に世界が破綻しかけていると考えるべきだろう。
「流石に今回ばかりは僕一人の手には負えないかなぁ……」
呟いて視界の先の学院を見据える。
とりあえずニーナに連絡だろう。その上で何か起こるようなら対策を考えるべきだ。
まだ何か起こると決まったわけでは無い……そう自分に言い聞かせて悪い予感を払拭しに掛る。
そんなクラウスの肩の上で、フィーナは先程泣き声を聞いた林の方を憂うようにじっと見つめていたのだった。
学院はいつも通り。他愛ない会話と噂と勉学に対するやる気のなさが充満した変化のない日常。
そのいつも通りに安心してクラウスもどうにか形のない自分を取り戻す。
「カペラさん、少しいいかな?」
視界を平坦にすればどこから足を掛ければいいか自然に見えてくる。
アンネが利用できない現状で、クラウスの一番扱い易い駒は彼女だ。
イーリス・カペラ。風評に生きる女性徒。クラウスの情報源の一つだ。
「何かな?」
「バンシー……」
回りくどいのを抜きにして言葉にすれば、イーリスは少し驚いたように肩を揺らした。反応を見るにどうやら随分新しい情報のようだ。
イーリスは視界を回して教室内を見渡すと静かに廊下に出る。人の多いところでは出来ない話。危ない話に首を突っ込んだと自覚して気持ちを固める。
「……どこで聞いたの?」
「今朝偶然ね。もしかして何かあった?」
言葉には興味だけを灯して尋ねれば、イーリスは悩むように顔を伏せた後、溜息と共に語りだす。
「…………どうせ委員会に話が行くだろうから教えてあげる。数日前からブランデンブルクの至るところでバンシーの泣き声の噂を聞いてるよ」
その情報源は彼女の父親だろうか。
いらぬ事を考えて、それから思考を伸ばす。
「妖精変調がまた一つ噛んでるって?」
「あたしもそう思ってる。ただそうと決まったわけじゃないから……」
歯切れ悪く語る彼女は、どうやらその論に疑念を持っているらしい。
彼女の言葉の裏を返す。
彼女の考えている事は想像がつく。もし妖精変調が絡んでいるのだとしたら、妖精の本質が露になるという現象はその種ごとに一時期に纏まって起こるという可能性。
そして、もしそうならば、既に確認されているゴブリンやデュラハンと言った存在もこの世界に複数存在することになる。
「なるほどね……」
「あたしは知ってる事を教えるだけだよ。答えを見つけるのは君の仕事」
「それが僕に必要な事ならね」
薄情に言葉にすればイーリスは溜息を零す。彼女だって分かっている。分かっていて、クラウスの気持ちだからどうしようもないのだ。
「……戻ろう? そろそろ先生が来るよ?」
「そうだね」
行き場をなくした思いが彷徨って、彼女の口から零れたのはその場を埋めるだけの意味のない言葉だった。彼女の言葉に頷いて席に戻りながら考える。
バンシーは人の死に関連する妖精だ。下手な気持ちで手を出せば見たくない景色を見る可能性もある。クラウス自身がそちら側に巻き込まれる可能性も、ある……。
けれど妖精の告げる人間の死の概念は、妖精の転生とは少しだけ道がずれている。
そのずれた視点は、一体何が見えているのか……。それを知るのも妖精の国……妖精と言う種を知る上で欠かせない要点である気もする。
ならばやはり、そこに妖精と言う存在が関わる以上クラウスは首を突っ込まざるを得ないのだろう。それがクラウスの実にならなかったとしても、関係ないという結果を得られるのだから無視する事は出来ない。
何より可能性を潰しておくのは今後の為にも有益だ。
そこまで思考が纏まれば、後クラウスに出来るのは情報を集めて判断を下すだけ。
今回はバンシーと言う存在自体は認識できている。まだ問題が起きているわけでもないだろう。
ならばまだ先手だ。調べられるだけ調べて可能性を吟味するだけ。
とりあえず今朝聞いたバンシーの泣き声は、クラウスに関係するところで起こる不幸という蓋然性を低くする。
世界での慢性的なバンシーの出現。一体世界に何が起ころうとしているのか……。
手に負えない、と言う感慨を拭い去って自分の周りの駒だけで世界を構築する。クラウスはクラウスに出来る事を。
それが例え全体の一角だとしても、大きな問題の解決の糸口になると信じて。唯、盲目に知らない事を知ろうと努力する。
何よりもクラウス自身の為に。知らないことが耐えられないから──知らないことで泣かせたくないから。
記憶に疼く涙を幾度も思い返しては、呪縛のようにらしさを振り翳す。
放課後になれば常識のようにニーナから召集の声が届いた。
生徒会室へ向かえばそこには委員会の面子。変わらない景色だと視界に収めるや否や、気持ちが自然と切り替わる。
クラウスが腰を下ろせばニーナが話し始める。
「もう察しもついてると思うけれど、国からの依頼よ」
「バンシーですか?」
「えぇ」
依頼……そこまで直接的に話が回る様になってきたかと委員会の立ち位置を再認識する。
元々委員会は何かあったときの国と学院の綱渡し……国にとっては優秀な人材を軍へ引き抜くため組織として設立された場所だ。それが妖精変調以降色々な騒動が起きて、そこに首を突っ込んだり巻き込まれたりしているのが近況。
それでも直接話が回ってくるというのはやはり異例で、そこにはエルゼやニーナ、ユーリア、アンネなどの国に関係する者たちの繋がりがあるからこそだろう。少なくともクラウス個人の力を頼っての事ではないはずだ。偶然……クラウスがそこにいるから彼らは利用しているだけ。
クラウスからしてみれば、国との繋がりを持てるように手に入れた人間関係。驚きはしないが、外から見たときの違和感は拭い去れないかもしれないと、その存在自体に少しだけ疑念を抱く。
「学院は学院で何か起こらないか調査して欲しいとのことよ」
「流石にハロウィンのときみたいに直接巻き込まれるって事はないですかね?」
「ないんじゃない? あれは軍が機能していなかったから仕方なく取った策よ」
テオの疑問にユーリアが答える。
確かにジャッキーの騒動は異質だった。普通ならクラウス達が関わるべき問題ではなかったはずだ。
けれど何の因果か、その中心近くまで身を入れて解決にも一役買った。
その功績が認められて、今回もまた少しだけ話が回ってきたということだろう。今後の展望を少しだけ見渡して幾つかの終着点を描きながら言葉にする。
「……問題は、バンシーの出現がそのまま噂通りの結果を齎すかってことですよね」
「死の宣告か?」
ヴォルフの飾らない言葉に部屋の空気が硬くなる。こういう彼の実直さは誤解を招かない分少しだけ影響力が強すぎると使い所を考えさせられる。
「……もし結果が出たとして、それが本当にバンシーの影響かと言うのは判断が難しいですよ。バンシーの目撃や泣き声を聞いたという話が多すぎます。バンシーの噂が嘘だったとしても偶然誰かが命を落とす何て事はありえるわけですし……」
「本来は家に出るものでしょ? なら普通に考えれば妖精変調の影響ってだけで、バンシーの持つ風潮が現実になる可能性は低いはずよ」
「その低い可能性を現実にして見せたのは妖精変調ですよ。現に、妖精の本質の具現化は殆ど誰も予想していなかったのに起きたわけですから。今までの経験や情報が全てを解決するとは限りません」
ニーナの言葉に返して、二つの可能性を提示する。
一つは妖精変調による妖性の具現化で、そこにバンシーが持つ噂の意味合いは無いとするもの。
もう一つは、妖精変調が関わっているからこそ、その論を否定して枠に嵌らない結果を手繰り寄せてしまうという想像。
どちらにせよ、妖精変調が関わっている事は間違いなくて、そこをどうにかすればこの問題は解決できるというクラウスの結論は……けれどどうにも雲を掴む話で現実味がない。
アスタロス王妃殿下が今作っている妖精変調に対する対抗策。まずあれが本当に効果を示すかどうかも怪しい。
妖精術の構造的に言えば、術式は完璧で作動もするだろう。それは彼女もクラウスも断言できる。
けれど妖精術として昇華したところで、それが本当に妖精たちに効果を及ぼすとは限らないのだ。
人間が作り出した妖精の理に干渉する術式。それは妖精の存在を揺るがしかねない人間側の都合だ。
それに、いつ完成するかも分からない術式。その答えを待つ前に、バンシーに関係するところで問題が起きてしまえばそれまでだ。きっとそこから起きるだろう流れを、クラウスには止められない。
波及するだろう妖精に対する不審。それはクラウスの理想を妨げる最大の障害だ。
クラウスの意図しない流れは全て都合の悪い出来事だ。
だからこそ、クラウスは自分の夢を野望だと確信して盲目に進む事ができる。
そんな野望の為に、クラウスが今できること。打てる事前策。
「…………考えたところで仕方ありませんよ。起きるか起きないか、二つに一つです」
「もちろん起きない方がいいに決まってる」
「そのための会議、ですよね?」
「……えぇ。探すわよ。起こさないための方法論っ」
問えばニーナは分かりきっていた答えを口にする。
彼女はきっと打算で道を考えない。最低な未来の結果妖精に向くだろう不信も、その傍らでエルフに傾くだろう信頼も。
だからこそ、彼女は彼女足りえて、彼女らしく歩みを進める。そうして進み出したニーナを、止める術はクラウスが知る由もなく。
「で、どこから手をつければいいですか?」
「まずは噂がどこまで本当なのかよ。クラウス君、どうすればいい?」
相変わらず無茶振りを。
諦めて、いつしか楽しくなりつつある自分に自嘲すると既に考えていた手を言葉にする。
「かの魂について知るべきです。僕達はまだその存在を正しく掴み切れて居ません。情報を集めましょう。そこから精査して正しい事だけを共有して、話はそれからです」
「なら図書室ね。行くわよっ」
即断即決。悩む時間も惜しいとばかりに腰を上げたニーナについて目的地へと向かう。
そうして意気揚々と進む彼女は誰よりも自信に満ち溢れた足取りで前を行くのだった。
…………最後に全てを丸投げされるのはクラウスなのにね。まったく、酷い話だ。
そうしてバンシーについての調査の日々が始まる。
まずバンシーと言えば、死を予告する妖精だ。ベン・シー、ベン・ニーアなどの別名を持ち、長い黒髪に緑色の服、灰色の外套を羽織った女性の姿として人間がその存在を描く。また泣き腫らした目は赤いと言われる。
バンシーが泣くのは死を迎える者のため。その泣くと言う行為を人間が聞く事によって家人が死ぬという事を知るために、順番が逆になってバンシーは死の宣告者と言われるのだ。
本来は死を悼むバンシーなりの人間への評価だ。
特にその生で多くの武功を立てたり、聖なる身であった者には複数のバンシーがその死を悲しむといわれている。
地域によっては色々な話が付随し、死ぬ者の衣服を洗いながら泣くと言う話や、旧家にはその家特有のバンシーがいるという話。更にはバンシーを見つけて捕まえれば死ぬ者の名前を聞き出せたり、願いまで叶うというものもある。
こうして幾つもの変わった言い伝えがあるのは、その存在がこのフェルクレールトと言う大地でとても有名な存在だからだ。
話には尾ひれがつく。それが地域、国を跨げばこうした有名な存在は色々な脚色をされて語り継がれるのだ。
そんなバンシーは魂に干渉範囲を持つ妖精だ。魂に深い関わりを持つ妖精は多数に居るが、特にバンシーはその中でも異質な存在だ。
彼女達バンシーが持つ魂への繋がりは、人間の魂に焦点を置く。
まず前提として、魂へ干渉範囲を持つ妖精の殆どは妖精の魂に深い繋がりを持つ。ユーリアの契約妖精であるリーザも、ハインツの契約妖精であるジャッキーも、テオの相棒であり、今は亡きヘンリックの右腕であったヘルフリートも。魂に干渉範囲を持つ妖精の代表格であり、それらは全て妖精の魂に深い繋がりを持つ。
けれどそんな彼ら彼女らとは違い、バンシーは人間の魂に繋がりを持つ妖精だ。
バンシーが人間の魂に干渉範囲を持つからこそ、人間の死を予見して泣く。だからバンシーは妖精の死を悼まない。妖精の死には泣かない。
妖精は転生するものだから、人間と違い死の概念は薄い。特に妖精の死に涙するのは人間の方ではなかろうかと邪推。
人間に近いところに干渉範囲を持つ妖精。その死を予見し、人の世界に近いところで泣く妖精。
だからこそ人間の世界でもバンシーと言う名は有名で、有名であるからこそ、バンシーが持つ泣く言う意味は覆しがたい理の宣告として、不吉の象徴と言われるのだ。
言ってしまえば、バンシーと言う存在は人間に認められた概念のようなものだ。
だからこそ、どうする事もできない。
風で木が揺れるように、バンシーが泣けば人が死ぬ。
人間の視点から見れば、それは哀悼以前に、単純な死の宣告だ。
だからこそ、嫌な想像が尽きないのだ。
例えば、何かの拍子でバンシーの泣き声を耳にしてしまえば、死と言う存在を考えずにはいられなくなる。
その矛先が、自分に向くかもしれない……。自分の家族に向くかもしれない……。
人の死は唐突だ。戦場に出れば幾ら健康な人間でも槍一突きで命を落とす。
高いところから物が落ちてきて、その当たり所が悪ければそれだけで死んでしまう事だってありえる。
悪意、事故、認識していない病。死ぬ可能性など日常に幾らでも転がっている。
だからこそ、バンシーと言う存在が泣く事でそんな想像をしてしまう。
同時に、概念であるならば……。
死を呼ぶ者とも言われる存在であるならば……彼女達が泣く事で本来死ぬはずのない人物が死ぬ事だってありえる。
バンシーにその気がなくても。人間がどれだけ注意していても。
バンシーが泣けば人が死ぬというのは、言葉以上に危険なものなのだ。
また魂に干渉範囲を持つというのは、その存在に介入できるということだ。
魂への介入……死を感じ取る能力。それは見方を返れば、魂に干渉して人を死なせる事も出来るという事だ。
妖精変調と言う未知の事象は、人間と同等に妖精にも混乱を齎している。
特に妖精からしてみれば少し前のトロールの時のように、変化に対する人間の接触は恐怖の対象だ。
だからこそ、距離を詰めてきた人間に対して不可抗力のように防衛本能でその干渉範囲を振るったとしても、それは仕方のないことで……人間側からしてみれば取り返しのつかない問題になってしまうだろう。幸いか、今のところそう言った報告はクラウスの耳には入っていない。
だが今後そうならないという保証もどこにもないのだ。
だからこそ、クラウス達に出来る事は何もない。刺激しない方法でバンシーについて調べて、対策があるならそれを打つ。
そうして求めた情報だったが、バンシーと言う存在を肯定するだけで目に見えた対抗策は存在しなかった。
まず概念のような段階までその存在意義は達してしまっている。
そんな存在に対処をしようなど無茶な話で、クラウスが思いつく限りではバンシーと言う存在自体を消滅させる以外には結論を見出せなかった。
同時に、国からの連絡も最初の一回以降回ってはこなかった。
国は国で既に対抗策を見つけているのか……それとも解決策の模索自体を放棄したのか。
何にせよ、後手に回らざるを得ない状況で、クラウスにとってはバンシーと言う存在は野望の為に切っても切り離せぬものへ変化して。
やがて委員会でもとりあえず何か起こるまでは対応を見送ると結論を下してこの問題は一旦切り上げる事となった。
けれどクラウス個人は違う。避けては通れぬ問題だ。
一人でも調べなければと腰を上げれば、フィーナとアルが仕方ないとばかりに頷いてくれた。
フィーナは単純に力になるために。アルは行動の結果に得られる結論に意味を見出して。
三者三様に目的を設定すれば道は交わって進み出す。
とりあえず取り掛かったのはバンシーと言う存在の成り立ち。
ヘルフリート……ウィルオウィスプに人魂と言った根底があるように、ダフネ……ニュンペーに月桂樹と言う原形があるように。妖精はその殆どが人間の知覚できるものに繋がりを持つ。
だからこそ、バンシーにもそれに順ずるものがあると視点を絞って情報を集めていく。
バンシーはよく寓話や童話の中に登場する、死を悼む妖精だ。
登場人物の死を告げ、その身内と共に涙を流す。
この涙だが、それ自体にも意味は存在する。
涙は死者への馳走。つまりは供物の一つで、挙哀と呼ばれる弔いの泣き声だ。
同時に泣く事によってその魂を悪霊になる前にあの世へ誘う、儀式的な性格も持ち合わせる。
儀式があるならば、そこには人の存在が。祭りがその最たるものであるように、儀式と言う形は人間独自の文化だ。
他人の死を悼む儀式。葬儀などがそれだが、今回はバンシーについて。もう一つ掘り下げればその存在を見つける事ができる。
泣き女。
葬儀に雇われて泣く習俗で、今では殆ど見ないが過去にはそう言った専用の職があったとも言われている存在だ。
この泣き女がそのまま妖精の形を取ったのがバンシーと言う妖精だ。
他人……人間の為に泣き、妖精の加護を授けてその魂を誘う存在。
死を予告するという一般的な人間の解釈ではなく、人間の死を悼み泣く妖精としての本来の性格を体現した存在。
特に徳の高い者の死に対しては人間も多く涙を流す。それが転じて、複数のバンシーが泣く者の死は生前に栄誉ある人生を送った者と言われるのだ。
ここまで情報が集まれば納得も出来る。
どうしてバンシーが人間に近い居場所でその存在を有名にしているのか……。それは単純にバンシーが人間の風習と重なる存在だからだ。
自然現象を具現化したような概念的な根源を持っているわけではない。
だからこそ、余り否定される事の無い行いだから、バンシーに対する対策も思い浮かばない。知ってしまえば呆気なくて、どうしようもない事実だ。
人間が生み出した存在を人間が否定する。それまで否定されてこなかったものを否定するというのは、存外骨の折れるものだ。諦めてしまうのも無理は無い。クラウスにも、恐らくどうにもならないだろう。
けれど、裏を返せばバンシーと言う存在は人間にとても近い妖精ということだ。
妖精の国と言う存在を探しているクラウスにしてみれば、その存在はやはり無視する事は出来ない。
クラウスの求める妖精の国は今のところ想像上の存在だ。
それを見つけようという事は、即ち妖精の国を目に見える形で存在させるという事。見えないものに仮初の形を与えて見えるものへ……人間側の強欲だ。
その理想を形にするためには、人間の風習から形を得たバンシーと言う存在は鍵の一つだ。
どうあっても、どこかで向き合わなければならない存在。目を背けてはいけない妖精だ。
「……よし、これで一通り目を通したかな」
得られる情報を頭の中に叩き込んで、クラウスはようやく一歩を踏み出す。
幾ら妖精と共に歩んできた歴史とは言え、妖精の事を全て理解しているわけでは無い。理解しようと人間の欲で形を与えてどうにか認識しているだけだ。
人間の歴史は人間が紡いだもので、妖精のものでは無い。
妖精について知るならば妖精に聞くのが一番だ。
けれど妖精は多くを語りたがらない。特に妖精の本質……妖性については隠したがる傾向にある。
であるなら、もう一つの視点。人間でも妖精でもない第三者の視点から他人事に語ってもらうというのが存在する。
それに思い至れば後は語ってもらうための交渉材料を揃えるだけだ。
「さて、行こうか」
「あたし先に帰ってる」
考えて、行動に移して、準備を整えて。
腰を持ち上げて確認の言葉を零せば、アルから傾いた声音が零れた。
「クラウスのそういう節操なしなところ、あたしは嫌い」
「それなら仕方ないね。それじゃあ行って来るよ」
きっと幾ら言葉を重ねたって彼女の意見は変わらないだろう。
ならばただ飲み込んでそういうものだと納得するほかない。
ここまで文句を言わずついてきてくれた事にだけ感謝して、フィーナと二人目的地へ向かう。
眩い陽光差し込む廊下。段々と陽も短くなってきていると冬の訪れを感じながら歩みを進めれば、目的地へと辿り着く。
視界を少し上げれば扉の上に書かれた文字は学院長室。
ここに話を持ってくるのは些か気が引けたが、どこよりも情報が集まる場所なのは確かで、どんなときよりも自分を客観視できる場所なのは確かなのだ。
全てはただ自分の為に。
一つ息を整えて扉を叩けば入室を促す声が返る。
静かに開けば視界の先にはエルゼ学院長とその相棒であるリリー。それから珍しい顔が一つあった。
「あれ、アルフィルク君だ」
「カペラさんも何か学院長に話?」
「そんなところ」
クラウスに気付いて振り返った仕草に頭の後ろで括った短い髪が馬の尻尾のように揺れる。飴色の瞳がクラウスを見据えると何処か楽しそうに笑って彼女は答えた。
幾ら噂好きな少女と言えど好き好んで騒動に首を突っ込む性格では無いだろう。と言う事はそれとは別の彼女個人の話だろうか。
どうでもいい事を邪推しながら視線をエルゼに向ければ、彼女は娯楽を見つけたとばかりに笑みを浮かべる。
「いらっしゃい。今日はどうしたのかしら?」
「少し聞きたい話がありまして……一度席を外しましょうか?」
「いえ、大丈夫よ。彼女の用事はもう終わってるし、暇潰しにお喋りをしていただけだもの」
「そんなっ、あたしが学院長の貴重な時間を頂いてるだけですっ」
イーリスと言う少女はもしかするとクラウス以上に辺りの空気を気にする人物だ。
だからこそ波風が立たないように振舞う術を知っているし、それを考えずに出来てしまうほどに彼女の一部となっている事だろう。
クラウスも大概だが、彼女のは殆ど無意識。クラウスのは意識してなのだからその意味合いはやはり違う。
「それよりあたしが席を空けるべきですよねっ」
「……別にいいと思うよ? カペラさんにも少し話をした事だし」
「…………ん……あ、そういう……」
少し考えて彼女の興味を刺激すれば、イーリスは納得したように小さく零す。
まぁ、それと話に巻き込む事は別問題なわけだが、彼女の視点も別の客観視と言う意味ではあっても困らないだろう。
「どうする?」
「……アルフィルク君と学院長がよろしければ同席できたらなぁ、と…………」
遠慮がちに、しかしその瞳の奥に隠しきれないほどの好奇心を孕んで。
隠す気がないのか、隠さないことで武器にしているのか……。
全く、掴みどころのない人物だと面白く思いながら頷く。
視線を向ければエルゼも楽しげに首を縦に振った。貴女は早く話を聞きたいだけでしょうが。
「でしたらお飲み物を用意します。腰掛けてしばらくお待ちを」
逸早く空気を察したリリーが動き始める。そんな彼女に何を思ったのか、フィーナが肩を揺らしてリリーの方へと飛んでいく。いつもしないくせに。
「アルフィルク君、黒い子は?」
「寮で留守番してくれてるよ。それからその呼び方、言い難くない?」
「だよねー。ってことでクラウス君で」
クラウスと似て自分がどう振舞えばいいかを分かっている彼女。だからこそ、クラウスが望むべきものを直ぐに気付いて返してくれる。相変わらずやりやすい相手だ。
「カペラさんとこの子は?」
「…………家で弟の面倒見てくれてるんじゃないかな」
どうでもいいことのように答えながら笑わない笑みでクラウスの事を見据えるイーリス。
彼女が距離を詰めるのとクラウスが距離を詰めるのは別問題だろう。
「弟居るんだ」
「……うん。うちさ、お母さん居ないから。お父さんの負担も減らしたいし、そろそろ自分でどうにかしようと思って」
話の流れを察するにここに来たのは在学中の労働許可を貰う為だろうか。
クラウスの知らないところで誰もが苦労を重ねていると、他人事に思考を重ねて視線をずらす。
「何歳?」
「今年で12。ここに入りたいって言ってるからね。ほら、可愛い弟のお願いだしお姉ちゃんとしては叶えてあげたいわけよ」
「なるほど。弟想いだね。僕一人っ子だからその辺りよく分からないんだけど、やっぱり可愛いもの?」
「そりゃねっ。……って話をするとなんか色々言われそうだから言わないけど」
そこまで話しておいて今更ながらに視線を逸らすイーリス。
もう遅いと小さく笑えば、彼女は可愛らしく唸った。
そんな風に雑談に花を咲かせていると、目の前に紅茶が用意された。
「どうぞっ」
自身ありげに胸を張るフィーナ。
できることならそれを見栄ではなく毎日やってほしいものだが……。
考えつつ口に運べばいい匂いが鼻をついた。
「……さて、それで話と言うのは何かしら?」
「…………バンシー。その存在について少し話をしたいと思いまして」
「なるほど。また随分と面倒臭いものに頭を突っ込んでいるわね」
溜息と共に視線を落としたエルゼ。やがて思考を纏める間を置いて彼女はクラウスを見つめる。
「で、貴方はどこまで知ってるのかしら?」
彼女の言葉に調べて得た自分なりの見解を語る。
しばらく黙ってクラウスの声に耳を傾けていたエルゼだったが、クラウスが言い終えるとしばらく沈黙を置いた後口を開く。
「……言いたい事は分かったわ。けれど貴方の疑問に答える前に一つだけ伝えるべきことがあるのだけれど、いいかしら?」
「何でしょうか?」
「妖精はどう足掻いても妖精よ。この世界で妖精であると言うのは、即ち人間とは違う生まれと文化を持つ存在と言うことよ。そこを履き違えたらこれ以上前に進めなくなると思わない?」
当たり前のことだ、と納得する思考の隅で論の一部が破綻する音を聞く。
妖精の生まれは妖精のもの。それは即ち、妖精の生まれに人間は関係がないということだ。
幾ら妖精の本質を肯定する人間の見解があったとしても、それは似ているだけ。例えその考え通りだったとしても先に存在しているのはきっと妖精の方なのだ。
だから間違っていると。
クラウスの人間に認識できる部分で妖精を語ろうとするやり方は真実を歪めてしまうと気付く。
一度呼吸を整える。
妖精は妖精、人間は人間。だからこそ人間は妖精の全てを分からないし、妖精も人間の事を全ては理解できないのだと。
根本の部分をしっかりと再認識して焦点を合わせる。
「……そうですね。妖精は妖精。その前提の上に、人間と妖精は繋がりがあるわけですよね」
「…………分かっているのならいいのよ。友好的な関係を築いているとはいえ、人間と妖精が同じ先祖を持つわけではないのだから」
いつしかそう思い込んでいた誤解を取り払う。
クラウスは急ぎすぎたのだ。今はまだ、妖精と言う存在が何なのかを知るべきとき。人間と妖精の関係を見つめなおすのは、妖精と言う種を全て理解した後でいい。妖精がそれを許してくれた後でいい。
「では改めて聞きましょうか。何が知りたい?」
「……エルフの世界における妖精の存在と、バンシーと言う種について」
エルゼの言葉に居住まいを正して尋ねれば、向かいに座ったイーリスが一つ首を傾げる。
「あれ? バンシーは分かるけど、どうしてエルフ全体に向けて? 今回はバンシーについてが分かれば────な、何隠してるの、クラウス君っ」
そうして語った言葉の途中で、彼女の眉根がよって疑問の方向が変化する。
全く察しがいいのはこれだから。
なまじ断片的に知識を得ているが故の誤解も起こりうる。
けれど例えクラウスの思惑に至ったって、ここで言葉に出来る疑問ではないはずだ。
それを逆手にとって、笑顔だけで疑問を封殺する。
「……いえ、何でもないです。続けてください…………」
やがて視線を逸らしたイーリスは、危ないものにでも触れたかのようにクラウスと視線を合わせようとはしなかった。
流石に彼女まで巻き込むのはクラウス的にも少し面倒だ。後で誤解でもしてもらうとしよう。
予定を一つ追加して視線をエルゼに向ける。
「…………まず知っての通り妖精という種はエルフにとって存在自体を揺るがしかねない重要なものよ」
「同時にそれは妖精の方にも同じことが言えます」
妖精もエルフも、人間の前に姿を現した人間以外の意思疎通を交わせる生命体だ。
更に二つの種族は人間には無い異能──妖精力や精霊力を持つ。
だからこそ、二つの種族は互いが互いを侵食する懸念を重ね、危惧したのだ。
もしその二種族の出会いが、間に人間を挟まないものであったなら、もっと直接的な争いか、もっと平穏な関係を築いていたはず。
そうならなかったのは先に人間と妖精が契約を交わす術を確立してしまっていたからだ。
「今では無から有を生み出す妖精の異能と、有を操って新たな有を生み出すエルフの異能。どちらにも得意とする分野があることで、一応の住み分けは出来ている」
「けれどそれが形となったのは学院長、貴女の論文が意味を持ったからです」
人間と契約を交わす妖精。
エルフから見れば、その光景は恐怖になり得る。
なぜなら人間から見て異能を持つ種の内、片方は友好的で、もう片方が未知だからだ。
未知に対する視線は興味と疑念の入り混じったものだ。下手に刺激すれば火種にだってなりえる。
そうして、人間は知らなかった。
エルフと言う種がどれ程自分達に誇りを持っているのか。妖精に対してどんな感情を抱いていたのか……。
中には存在していただろうエルフと友好的な関係を築こうとする思い。
けれどその少数な意見を蔑ろにして、数的暴力と妖精との関係を盾に人間は暴論を振り翳した。
その裏で、少数の人たちは間を取り持とうとして、それが余計に互いの関係を悪化させて。
最後には生まれた溝が振り切れて、人間は人間側の都合でエルフを支配しようとし、そうして幕が切って落とされた。積み重なった軋轢は燃え上がり、やがて戦へと発展した。
それがエルフ兵革──蛮種戦役とも一部で呼ばれるエルフと人間、そして巻き込まれた妖精の戦争だ。
結果だけ言えば人間側の勝ち、になるのだろう。それからエルゼがエルフに関する論文を発表するまで百年単位でエルフと言う種は弾圧や差別をされ続けた。
その間に、エルフの不信は人間だけでなく、人間に助力した──契約と言う軛で縛られ、助力せざるを得なかった妖精にもその矛先を向けた。
「学院長があの論文を発表するまで、世界は疑心に満ちていました」
人間のエルフに対する嫌悪。その嫌悪に対する妖精の人間への不信と、エルフに対する妖精の懸念。エルフから見た契約を交わす二種族への疎外感。
何かが存在しなければ。どこかが繋がっていなければ発生しなかった溝は、けれど理解ではなく疑念ばかりを横たえて世界のあり方を歪ませた。
同時に、エルフと言う種が目に見える場所に居る生活は、エルフを知るという効果にも役立って、少しだけエルフと言う存在を世界に知らしめた。
そんな歴史の中で少しでも手を取れたのは、間に妖精が居たからだろう。
エルフと妖精の契約。
人間と妖精の契約の歴史に比べればとても浅い、比較的新しい部類の出来事だ。時期で語れば第二次妖精大戦前くらいだろうか。
人間側からすれば妖精との関係を揺るがしかねない事象で、エルフからしてみればだからこそ抱いた人間への嫌悪。
互いが互いを知らなさ過ぎた為に起きた衝突は、やがて同じ妖精との契約と言う橋渡しを経て少しばかり歩み寄りを見せたのだ。
そうして、ようやく人間はエルフについて少しだけ知る事ができて。そんな変化の中でブランデンブルクと肩を並べる四大国の内、北の国であるスハイル帝国でエルフの受け入れ態勢が整うようになる。
帝国の名の下に、どんな種族も平等だと謳えば世界で虐げられていたエルフ達の殆どは安息と平穏を求めて北へと行くだろう。
結果、スハイル帝国には多量のエルフが流れ込んで、国を構成する一部となることで一旦の諍いは鳴りを潜めた。
「幾つもの衝突の中でエルフの大部分はスハイル帝国に身をおくことでどうにか争いから距離を置いていられました」
「今でもエルフの大部分はスハイルに居るよね」
「それほどあそこは住み心地がいいのよ、エルフにとってはね」
懐かしむように零すエルゼ。
過去にニーナに聞いたように彼女達はスハイルに故郷の村があった。今はもうないらしいが、それでも初めて得た定住の地だ。思い入れは深かったのだろう。
「……ワタシが元々スハイルに住んでたってのは知ってる?」
クラウスが頷けばイーリスも続く。どうやら彼女も彼女の伝でどこからか耳にしたらしい。
「そんなワタシがどうしてこんな場所で学院長をしてるか……。話には聞いたことがあるでしょう?」
「…………第二次妖精大戦の終結を手繰り寄せた外交。互いに不可侵とするための人質交換、ですよね」
「スハイルはブランデンブルクに。ブランデンブルクはカリーナに。カリーナはトゥレイスに。トゥレイスはスハイルに。今後の抑止力としての人柱よ。ワタシは人ではなくエルフだけれども」
人質の交換が円を描くように。
どこかが裏切れば直ぐに分かるように。その中でブランデンブルクは分かりやすい役職にその人物を縛り付けて、他国との折衝を無くそうとした。
それがスハイルから来たエルゼがブランデンブルクの国唯一の国立の学院長を担っている理由。
普通に考えれば唯一の国立なのだからブランデンブルクの人間がその席に納まるのが道理なのだ。それを捻じ曲げてまで、ブランデンブルクは戦争を拒絶した。
「その甲斐あってかしらね。ようやく世界は戦争から手を引いて、また少しだけ平穏の日々を見つけた」
第二次妖精大戦が終わらない戦争と言われるのは、この取り決めによって戦争が終結したからだ。
それぞれの国が国の内部に爆弾を抱えて、戦争の処理を牽制し合いながら国の線引きを交渉する。
終結したのは武力的な衝突だけで、今も政治的な折衝事は絶えない。
それでもどうにか話し合いの場を設けていられるのはエルゼ達、交渉の材料となった者のお陰が大きいだろう。
「で、世界がまた少し平和になったから、ワタシはそれ以上の平和を望んだの」
「それがあの論文ですね?」
「発表したら一騒動あったけれどもね」
エルゼの発表した論文。エルフに関する世界に向けての布告。
人質であるから。国に深い繋がりをもてたから。それを最大限利用して、彼女は理を穿つ真実を文字に纏めた。
それは全てを公開されるには至らなかったけれども、大国の間で議論が交わされ、エルフは世界にとっての恐怖の対象では無いという共通認識を得た。
それが戦争が終わって数年後の事。
「エルフも妖精も人間には無い異能を操る。だからこそ差別化が必要で、その違いこそが人間の社会に溶け込める取っ掛かりだとも思ったわ」
エルフが扱う精霊術。今ではその異能の幾つかが日用品や便利な道具に流用されている。
「……同時に、あわよくば一度秘匿された真実を世界に知らしめてやろうと思ったのだけれども」
そうして薄い笑みを浮かべるエルゼ。
流石にそれは暴挙に過ぎる。
クラウスだって持て余している事実。
────エルフはエルフじゃ無い
これは言葉以上に世界を覆す理だ。だからこそ、この言葉を得られたクラウスは妖精の国への道程を肯定されたと受け取ったのだ。
「学院長、その話は然るべき時に。今はバンシーの話ですよ」
「あら、エルフと妖精の関係はもういいの?」
楽しげに笑いながら問うエルゼ。
その真実を暴いてしまえば、クラウスは彼女がクラウスに託した問題に直面しなければならなくなる。
それを分かっていて結論を急ごうとしているのだから相変わらず質が悪い。
「……まぁいいわ。それで、バンシーだったかしら?」
視線だけ返せば彼女は興味をなくしたのか椅子に背中を預けてどうでもいいことのように語る。
「単純に結論だけ教えてあげようかしら。…………エルフとバンシーは無関係よ。エルフの死にバンシーは泣かない」
そうではないかと、想像していた可能性の一つが彼女の言葉で現実となる。
バンシーは人間の為にしか泣かない。
一つ裏を返そう。
バンシーはエルフの為に泣けない。
つまりバンシーの持つ干渉範囲とは人間の魂に限った話で、エルフも、幻想生物も、妖精の魂でさえも、その死を感じ取る事は出来ないのだ。
それまで調べてきた情報が一つの結論を導き出して景色を歪ませる。
人間の為だけに泣く妖精。
人間に近い場所に存在する妖精。
だからこそバンシーの存在は、妖精が妖精の世界だけで完結しないと教えてくれる。
「……あたしから一ついいですか?」
「何かしら?」
確定した情報を吟味して思考を伸ばせば、イーリスから疑問が上がる。
「学院長から見て、今回のバンシーの出現は妖精変調が原因だと思いますか? それとも誰かの死が関係していると思いますか?」
「ワタシには分かりかねるわね。貴女が本当に知りたいのなら、貴女の目と耳で確かめるべきことだと思うわよ」
逃げ道のある質問をするのが悪いと詰めの甘さを感じながら腰を上げる。
「あら、お話は終わり? もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「やるべき事が幾つかできたので名残惜しいですがこの辺りで」
「そう、残念だわ。また楽しい話でも持ってきてちょうだいね」
「ご期待に副える話に出会えたら是非に」
社交辞令で言葉を交わせば、黄金色の笑わない瞳がクラウスを射抜く。
だからそんなに世界の趨勢が気になるなら自分で動けばいいものを。
思っても出来ないからクラウスに託したのだと。
クラウスの道のりに彼女の希望を少しだけ混ぜ込んで、イーリスと二人学院長室を後にする。
リリーに見送られて角を曲がれば、足並みを揃えたイーリスが好奇心を振りかざした。
「どうしてクラウス君はあの人から情報引き出せるのかな……?」
「見返りがあるからだと思うよ。損得勘定。……それから恩とか借りとか?」
隣を歩くイーリスの言葉に有り触れた理由を零せば、彼女は面白くなさそうに視線を逸らした。
君は賢いんだから、その賢さを少しだけ武器に出来ればもっと自由に情報を集められるのにと。考えつつ、けれど彼女は絶対にそうはしないのだと気付く。
彼女にとっての情報とは噂で、噂は日常を楽しくする非日常だ。
普通に考えれば、面倒事に自分から首を突っ込む方が珍しい。彼女はその線引きが明確だから、知らない事を知らないままにしておくことが出来る。
クラウスはそれが耐えられないから、知っていれば何かの役に立つかもしれないと徒労を背負い込んでいるのだと。
クラウスとイーリスの決定的な違いはそこだろうと客観視して羨ましく思う。
クラウスにとって噂は世界を彩る情報で、イーリスにとって噂は日常を彩る娯楽なのだ。
もし自分にアルとの約束がなければ、彼女のように自由に生きていられたのに。
だからこそ、彼女は巻き込めないと。盤の外側に彼女の駒を置いてクラウスの情報源の一つにだけ留めておく。
彼女をこちらに巻き込まなくて正解だった。
その点、あの飛び道具な彼女なら他人の──自分の──為だと嘯いて危地に一緒に飛び込んでくれる。
イレギュラーだからこそ、思いもよらない結果を持ってきてくれる。
イーリスにとっての噂が世界を彩るように、クラウスにとって無味無臭な現実に色をつけるのはきっと彼女なのだ。
「あれ、クラウス君だ」
そんな彼女が、曲がり角から顔を出す。
変わらない波打つライトブラウンの頭髪。好奇心と愛嬌を詰め込んだ水色の瞳。
女性らしく少女らしく。クラウスを見つけるや否やその瞳にもう一人の彼女が宿る。
「イーちゃんも居る。何々、どうしたの? 二人で肩並べて、もしかして────」
「僕を話の種にするのはいいけど他人を巻き込まないでよ? それから本人の前で言っちゃあ意味ないでしょ」
「だから本人の前では言ってない、でしょ?」
会って早々、軽口を叩き合う。
クラウスの言う本人と彼女の言う本人。その違いに気付いて小さく笑う。
「アンネも学院長に用事?」
「そんな感じ」
「二人仲良かったんだね」
「少し前に同じ話題で盛り上がって、ね?」
「ね」
イーちゃんとはまた変わった呼び名だと、彼女の感性を新鮮に感じる。
あと、彼女達の間で一体どんな会話がなされたのか……。そこにクラウスの名前が挙がってない事を祈りつつ女性徒二人の他愛ない会話を聞いていると、ふと思い出したようにアンネが告げる。
「そうだそうだ。クラウス君。ユーリのことよろしく」
「……うん? うん」
何をどうよろしくなのか。そう聞こうとして、けれど笑顔の奥に秘められた物言わぬ視線に気付いて言葉を飲み込む。
ここでは言えない話。イーリスが居るから言えない話。となるとヴァレッター関連だろうか。
面倒臭い事にならなければいいがと懸念を増やしつつ、アンネと別れて再び歩き出す。
「そーれーでー? クラウス君は実際のところどうなのかな?」
「どうとは?」
足を出しつつイーリスの声に答えれば、彼女は唯興味だけを瞳に灯して意地悪に問い掛ける。
「クー・シーさんとアンネ。二人の事をどう想ってるのかなーって」
そうそう。彼女はそうでなくては。
いつも通りに戻る空気に嫌な音を聞きつつ矛先をずらす。
「それはどういう意味かな? もしカペラさんの私情が入ってるなら答えないわけにはいかなくなるんだけど」
「もちろん私情ばっかりだよ。だって世界はこんなにも噂話に溢れてるっ」
ずれた矛先を更にずらして結末を有耶無耶にする。
相変わらず賢い女の子だと評価を下して他愛ない雑談に時間を塗り替えていく。
そうして笑顔で興味に邁進する彼女は、クラウスの対極で自分らしく生きている気がした。
* * *
「いらっしゃい。今日は訪客が多いわね」
扉を叩いて部屋に足を踏み入れれば、響いたのは彼女の嘆息。
先程すれ違った二人とも何か話をしていたのだろうか。だとしたら少し惜しい事をした。
扉を閉めて彼女の顔を伺えば、疲れたように一つ息を落としてそれから尋ねてきた。
「今日はどうしたの……?」
「お届け物とお話がありまして」
「誰から?」
手元の書類に筆を走らせながら問う彼女の目の前に立って姿勢を正す。
こちらの居住まいに何か感じたのか、視線を上げた彼女は手を止めて背筋を伸ばした。
「……第二十九代ブランデンブルク国王、ヒルデベルト・アスタロスの意向を代行して貴殿に勅書を下達する。この文書は国賓であるエルゼ・アルケスへ向けての国儀である。譲渡以降、書面に記された文言は貴殿の器量に付するものとする」
「国立フィーレスト学院、学院長エルゼ・アルケスとして謹んでここに拝命いたします」
堅苦しい言い回しで言葉を選んで告げれば、彼女はいつもの怠惰の衣は脱ぎ去り真摯な表情で文書を受け取った。
彼女の手に渡ったのを確認して、ようやく胸の内から重い息が零れる。信頼は嬉しいがこういう事を私に任せないで欲しいと、主に胸中で抗議しつつ呼吸を整える。
その間に封を開き書面に目を通した彼女は、眉根を寄せてしばらく考えた後その書面を机の引き出しに仕舞った。
「とりあえずありがとう。面倒な役回りを任せて悪かったわね」
「いいえ、それが私の責務ですので」
とりあえず決められた言葉で返答をして気持ちをいつも通りに戻す。
「それで、ルキダさん個人の用の方は何かしら?」
「国王陛下からの勅命で今度催される四大国会議に陪従として目を掛けていただいたので、長期休学の為の認可を頂きたく」
「へぇ……。あぁ、いいわよ。いってらっしゃい。どれに署名すればいい?」
「これにお願いします」
言葉にしてもまだ実感はわかない。
ヒルデベルト国王陛下の付き添い。それも年に一度あるかないかの大きな席に自分がいるという景色。
実感がないのは、そうしている自分はきっと良い子の仮面を被っているアンネ・ルキダだからなのだろう。
ただ、不思議と緊張もない。
ヴァレッターの一員になって、クラウス・アルフィルクとの繋がりとして重用されている自分。国王陛下に庇護されている身としては余り声を大にしてはいえないが、随分と大事にされているのだろう。
事ある毎に伝令役を任されるし、城内でも余り目のないところでは陛下の方から声を掛けてくださる。
そう言った普段の繋がりが、陛下の存在を非日常から日常へと変化させて緊張感を消し去っているだろう。
あと、陛下には申し訳ないが、アンネ・ルキダ個人としては陛下の前よりもクラウスの隣に居る方が落ち着きがないように思う今日この頃だ。
「……っと、はい。これで良いかしら?」
「ありがとうございます」
「中々ない経験よ。得られるものを得てきなさい。そうしてワタシの娯楽の種にしなさいっ」
楽しげに告げる学院長に笑って返す。
「これは公務ですよ、学院長。こちらも守秘義務がございます」
「ワタシは国賓よー?」
「私は学院長より偉いわけではありませんから」
アンネがエルゼの客であるならば、エルゼはヒルデベルトの客だ。客は主賓であっても主催者ではない。アンネにとっての主催者がヒルデベルトである以上、全ての決定権はヒルデベルトに存在する。ましてや今回は四ヶ国での会談だ。
彼女も国の意向には逆らえない。
そう遠回しに告げれば、エルゼは驚いたような顔をした後楽しげに笑い声を零した。
そんな風に楽しい一時を過ごして、彼女の居城を後にする。
学院長室は彼女に許された数少ない聖域だ。
きっと幾つもの雁字搦めな都合の上に座っている椅子。
誰だってそんなものは望んでいないと考えを伸ばして、一人だけその例外を見つけた。
もしその椅子が、純粋に自分の意思で手繰り寄せたものなのだとしたら、それは本当の意味で自由なのだろうと。
彼はもしかしたらその自由を目指しているのだろうかと思考を巡らせて小さく笑う。
彼なら、手に入れられる。その確信が、今の私を突き動かす。




