第三章
日をまたいで翌日。
テオから聞いた期待の返事に、クラウスは湧き上がる衝動をどうにか抑えつつ学院へと向かう。
三日後には一つの区切りとして終業式を迎える。そうすれば連続的な学業の時間とはしばらくお別れできるし、当初の目標である委員会の最初の目的にある程度専念できる。
クラウスの中でもまだ方法論は確立されていない。目指すべき未来は存在するが、そこに至る為の過程はまだ決めていないのだ。
決めてしまえば確かに目指すべき目標がわかりやすくはなる。けれどそれでは突然の事に対処が効かなくなるのだ。
自分の事はある程度理解している。考えすぎて効率的な方法を見つけたとて、それが途中で頓挫してしまっては意味がないのだ。
だからこそある程度は成り行き任せ。こちらからあまり干渉する事はしないのだ。
だが、今回の話は違う。
テオから回ってきた話は元々クラウスがそう望んだもので、自分から欲した駒のひとつだ。
冷炎の君主、ヘンリック・アヴィオールの相棒にして封印指定の英雄的妖精。ヘルフリート。
妖精史の授業で、いくつもの文献で、果ては街角の小話で。
戦争の話題になればその名前を聞かないほど、このブランデンブルク王国では有名な妖精だ。
彼の存在はその名前に意味がある。
ヘルフリートは前の戦に幕を引いた要因の一つであり、少し前までは鎖に繋がれた兵器だった。
他国ではその名を口にする事を憚れるほどに忌み嫌われ、その畏怖は国内でも広がっている。
戦争を終わらせるほどの力。そして今はなき国王の右腕……。
拡大解釈された肩書きは今やそこにいるだけで憂懼の対象へとなり、いくつもの影響を及ぼす。
その存在感。衝戟の強さは国を揺るがすほどに────
まぁそんな物騒な事はしたくないけれど。
ともあれ、クラウスが欲しくて望んだ事だ。その順番が回ってきただけの事で、ならば予定通り利用するだけだ。
教室へ向かうとまだ人は疎らで、けれどその中に目的の人物を見つけて少しだけ安心する。
彼女はいつも早い時間に学院へ来ている。それにクラウスの記憶が正しければ、今日は彼女が日直だったはずだ。
また、教室内を見回してもう一人の人物が居ない事を確認すると、その少女の背に声を掛ける。
「おはよう、アンネ」
直ぐに肩上の相方から抗議があったが、彼女も衝動的なものなのか不機嫌そうに唸ってその小さな体躯をクラウスの顔の後ろに隠す。
声に振り返った彼女はいつも通りの柔らかい表情を何処かへ置き去りにしてきたようにクラウスに瞳をじっと見つめ返す。
「おはよう。それで、何の用事?」
「約束を一つ取り付けて欲しいんだ」
「……誰?」
「ヒルデベルト・アスタロス」
「…………頭痛い」
挨拶の前置きを挟んで単刀直入に話題を挙げる。
頭を支えるようにして唸ったアンネに、けれどクラウスは真剣に次ぐ。
「必要でなければこんな危ない事はしないよ」
「分かってるわよ……。ほんと、ユーリじゃないけど何考えてるのか想像したくない」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
呆れた様子の少女に茶化して、それから静かに答えを待つ。
少しだけ考える間を空けて、アンネは徐に頷く。
「分かった。いつ?」
「今日の放課後」
「幾らなんでも急過ぎ……あぁ、もうっ。やるけどさっ。後で覚悟しときなさいよ」
「覚悟なら既に出来てるよ」
望まない答えを返すとアンネが面白くなさそうに視線を外す。
確かに彼女に任せた仕事は荷が重いのだろう。
アンネは先のヴォルフの退学騒ぎの裏で国に太い情報網を作ってくれた。そしてその重要さをクラウスも理解をしていて、だからこそ必要とし利用した。
アンネの身を置く場所はまだ詳しくはわからない。けれど退学騒ぎを収めて見せたその影響力から察するに随分と内部に居るのだろうと推察する。
だからこそ、彼女にしかできない事だと言外に語って頼ったのだ。
「言っておくけど、相手は国王……国の頭なんだからね。無理だったら素直に引き下がって。私の立場もあるんだから」
「理解してるよ。それでもアンネなら結果を持ってきてくれるって」
「っ……調子のいい事っ…………」
背けた顔は照れ隠しか。
そんなやり取りに少しだけ胸の奥を甘く疼かせて、顔横の髪がまた少しだけ悲鳴を上げて──
変わらずいつもの調子普段通りに戻っていく。
「それで、この先の事だけど。夏季休暇中に遊びに行く予定、アンネさんは何か立ててたりする?」
「立ててるよ。とっておきのやつをね」
「楽しみですね、クラウスさん」
同調は耳元。それまでクラウスの髪を引っ張って意思表示をしていたフィーナのもの。
彼女は妖精であるが故に、楽しい事象には本能的に反応を示す。
「期待しておくと良いよ。最後に笑うのは私だから」
「なら笑ってもらえるように精一杯努力するよ」
腹の内の探りあい。
一体どんな計画を立てているのだろうか。その想像をするだけで彼女の笑みを見られる気がした。
他愛もない会話はいつしか教室の喧騒の奥に埋もれて。響いた鐘の音に変わらない授業の始まりを聞きつつ、いつも通り机に伏せる。
窓から差し込む光は窓枠に腰掛けたフィーナと出会った頃よりは随分と温度を上昇させて、質量を伴うように大地を照らす。
夏はもう目の前で、白い雲が青々とした画布の上をゆるりと風に吹かれて揺蕩っていた。
時間が流れて放課後。目の前に夏の長期休暇が迫ったとは言え、授業はいつも通りあるし委員会の休みもない。
けれど今日はその普段も少しばかりなりを潜める。
クラウスはいつもの制服とは違う、黒尽くめの軍服な様なそれを身に纏っていた。
軍式礼装。ここブランデンブルク王国において公の場や行事において着用を義務付けられる儀式用の正装だ。
殆ど着る事のない儀式礼装だが、だからこそ、その意味合いは深みを増す。
「しっかしよく面会予約取れたな。相手は国王様だろ?」
「ちょっとした伝だよ」
「ほんと何考えてるんだか……」
呆れた声は隣のユーリアから。笑顔で誤魔化して歩みを進める。
これから向かう先はブランデンブルク王国の中心要、ブランデンブルク城だ。
この国が作られてから今の小競り合いの絶えない時代までおよそ600年ほど。その間に幾人も国の長が変わり、その殆どが戦の中に命を落とした武人の歴史で。ほんの十数年前に戦争に幕を引いた英雄……ヘンリック・アヴィオールも国王の一人であった。
彼の死後、幾つかの騒動はあったもののそれらを収めたのが今の国王、一度は国王の座を退いた人物。
ヒルデベルト・アスタロス。
ヘンリックの前国王、第27代国王であり、当代のこの国の主。
その人物にクラウスたち委員会の構成員はこれから謁見を賜るのだ。
手引きをしてくれたのは言わずもがなアンネ。彼女の協力でこの機会を設けられたことに感謝をしつつ城門まで辿り着く。
アンネから渡されていた通行手形を見せると、準備よく案内の女中が現れて前に立って歩き始める。
流石のクラウスも城内に入ったのはこれが初めてだ。白亜の城壁の内側は緑映える芝と幾つかの国仕えの駐屯小屋。訓練施設に倉庫のような建物と、そして視界を覆わんばかりの巨大なブランデンブルク城が鎮座していた。
城内部に足を踏み入れれば、武装した騎士たちとその傍につき従う妖精。忙しそうに廊下を歩く使用人の姿が目に付いて、どこか学院の雰囲気と錯覚する。
少しだけ回した視界で緊張の面持ちを崩さないテオとニーナ。変わらない表情を貼り付けたヴォルフと、そしてそんな三人とは違い落ち着いた様子のユーリアの姿が目に入った。
「……ユーリアはここに来た事は?」
「ないわよ。国軍と言っても専用の施設は別にあるし、私程度が国王様に謁見できるほどの機会はないもの」
「それにしては随分と落ち着いて見えるけど」
「…………空気が似てるの、学院に」
彼女の躊躇ったような言葉に、けれどクラウスは少しだけ緊張を緩ませた。
ユーリアもまた、クラウスと同じように感じていたらしい。彼女の言葉を聞いて、顔を回していたニーナとテオもいつも通りを取り戻す。
それからニーナが徐に口を開いた。
「……学院はね、歴史としては他の学び舎と比べると古い建物なの。だからこそ今でもこの国の最高教育機関として唯一の国立の名を冠してる」
ニーナの言葉は何処か懐かしむように。言葉の裏に誰かの姿を幻視しつつ耳を傾ける。
「けれどその学院だって国の所有物よ。なら雰囲気が似てたっておかしくはないんじゃない?」
納得のように紡がれた彼女の言葉に、少しだけ感傷的に空気が流れる。
確かにフィーレスト学院は学び舎としては破格なのだろう。
戦後間もないこの時期に男女別の寮と、生徒にとっても学ぶ事の多い授業構成。そして校内保安委員会の設立のような一見無駄とも思える試みを許諾されるその意味。
国立と言うその言葉の重み。
国が運営しているから、ではないのだ。
フィーレスト学院が軍属と言う扱いなのも、元は学院が国へ繋がりを求めたからだ。
学院に眠る書物で目にした覚えがある。
フィーレスト学院は元々国によって建てられた学び舎ではないのだ。
いくつもの実績を基に、国が認可して国立となり得たのだ。
学院の卒業生にも国王となった人物が居る。
ならばと考える。
国が命じて造った学び舎ではないにもかかわらず、その雰囲気を匂わせる空気。
それはきっと国が学院を意識したのではなく、学院が国を変えたということだ。
人間の歴史は知識の歴史だ。知識が形作られたものが、営みや建物だ。
だとするならば、知識から生まれたこの世界は、きっとどこをとっても同じ雰囲気がするはずなのに。
だからこそ──戦が起きた。
「……僕は、自分の事を誰かの所有物だとは思っていませんけどね」
少しだけ冷酷に。けれど自分と言う存在を確立して紡ぐ。
これから会うのだ。
フィーレスト学院の卒業生にして、戦を経験し、国の主となったその人物。ヒルデベルトと。
聞きたいこと確認したい事が沢山あって。けれどそのほとんどが口にする事を憚られる中で。
クラウスはクラウスを保つために、幾つかの現状を否定する。
「僕は、クラウス・アルフィルクとしてここに立っているつもりです」
前を見据えた言葉に、再び緊張が響き渡る。
目の前に聳え立つ両開きの大扉。その左右に陣取る騎士二人が、持った儀式杖を幾度か打ち鳴らす。
「国立フィーレスト学院からの使者五名、ただいまご到着!」
騎士の声が重く響き渡ると、次いで蝶番の軋む音と共に目の前の大きな扉が観音開きになる。
目に入ったのは豪奢なつくりの大きな部屋と、その真ん中を突っ切る真紅の絨毯だった。
絨毯の先には数段の段差があり、その奥にこれまた豪華な装飾の施された玉座が設えられ、そこに二人の人物を横に従えた白頭の男性が腰掛けていた。
齢は60歳後半だろうか。少しだけ角ばった輪郭と重そうな王服に威圧感を感じつつ、その紫色の瞳が宿す意志の強さに引き込まれそうになる。
年の功と言うか、国を背負うものの貫禄と言うか。胸の内に芽生えた感情に理由をつけて、その人物の名前を反芻する。
ヒルデベルト・アスタロス。ブランデンブルク王国、第27・29代国王。
彼の両脇には精悍を物語ったような少し老け顔の男性と、抜き身の刀のような若い騎士が立っていた。
この二人の事は政治に疎い人間にも殆ど名前を顔を知られているこの国を支える重鎮だ。
御衣を身に纏った大人の貫禄を放つ男性はハンス・クルサ。この国の実務担当であり、ヒルデベルトの右腕だ。
戦中、ヘンリックの傍らにいた事もありその噂はブランデンブルクの陰の支配者などと言われている人物だ。もちろん、そんな事実はないのだろうが。
そしてもう一人。左腰に差した大振りの両刃剣に堅く重い純白の儀式用の騎士甲冑。年はまだ若くクラウスの記憶では確か22歳だったはずだ。
戦後、いくつもの武勲を上げ歴史に稀に見る才覚を発揮して、その年で国王直轄の近衛隊総司令官となった青年。
カイ・グライド。テオの兄だ。
そうして、大きな広間に居る三人の姿を視界に収めて、クラウスたちは段差の前で立ち止まり膝を突く。
幾ら目の前の人物が同じ人間であれ、約束を取り付けたのがこちら側であるとて、ここブランデンブルク王国は完全なる立憲君主制の国だ。国王を前にして膝を突かなければ首を刎ねられても文句は言えない。
「顔を上げよ」
静かに頭を垂れて数瞬。重苦しく響いた声に、五人はゆっくりと顔を上げる。
「すまぬな、こんな場所で。先まで少し別件が入っていたものでな」
「いいえ、問題ありません」
ここへ来る前に幾つか話していた通り、受け答えはニーナがする。
クラウスの都合で設立した校内保安委員会だが、その代表者はニーナだ。クラウスが皆を振り回す事ができるのは委員会の問題の内だけであり、こういった公式の場では口を開くのはニーナの役割なのだ。
……と言うのと、いざという時にニーナの責任にして言い逃れする考えの一つでもあったりはするが、まぁそれは杞憂で終わるのが一番だ。何より、クラウスの野望に彼女の存在は不可欠だ。
「ふむ。そうだな、その姿勢も辛かろうて。楽な体勢に崩しておくれ」
深く頭を垂れてそれから真っ直ぐに立ち上がる。個人的には椅子に腰でも落ち着けて話をしたいところだがそれは口には出さず我慢。
「それで、話というのは」
「既にご存知かと思いますが、英雄的妖精ヘルフリートについてのことです」
国王を前にして物怖じしない態度は彼女の性格故か。それともエルフである事に端を発しているものなのか。
少しだけその度胸のよさに驚きつつことの成り行きを静観する。
「その事についてはわしの方からも言わせておくれ。……契約を交わしたのは誰じゃ?」
「テオ君」
「……テオ・グライドです」
一歩前に出て声を上げるテオ。その声に、視界の端のカイが肩を一度震わせたのが見えた。
「お主がそうか。ふむ……。良い顔だ。安心して任せられそうじゃな」
「我輩はテオと、それからヘンリック以外に羽翼するつもりは毛頭ないぞ」
「君がヘルフリートか。何、そう身構えんでくれ。こちらにその気はない」
品定めするようなヒルデベルトの言葉に、ヘルフリートが食って掛かる。が、クラウスたちが聞くより先に本題に触れたのは国王のほうだった。
「君は今や国の保護下を離れた。わしらにはもうどうする事も出来ぬ。君が今ここでわしたちに向かって戦を望むのなら、わしたちはそれに応える用意はあるがな」
「…………戦は好かぬ。片翼を失うのは一度きりで充分よ」
顔を背けたヘルフリートにテオが小さく笑う。
どうやらクラウスの思う以上に彼らの絆は深いところで結ばれているらしい。
そうであるが故に、その二人を利用しようとする自分がどこまでも卑劣に感じられた。
「ならば話は早い。今まで窮屈な思いをさせて悪かったという言葉だけ送らせてくれ」
「……ではヒルデベルト国王陛下。ヘルフリートの件については…………」
「うむ、お主らに一存しよう。彼が迎えるであろう最期のその時まで、彼の自由を誓ってくれ」
「謹んでここに」
ニーナの言葉に続いて、全員で腰を折る。
これで正式に、ヘルフリートは誰のものでもなくなった。厳密には、テオの相棒ではあるのだがその辺りは些細な事だろう。
幼馴染の事だ、きっとヘルフリートの事を第一に考えてくれる。
「ふむ……、ではそうだな。ハンス、彼らの案内を頼む。わしが許可する」
「御意」
「せめてもの償いだ。彼のためになろうぞ。好きなだけ文献に目を通しておくれ」
「ありがとうございます」
礼を告げて先に立つハンスに着いて広間を後にする。
その最後まで、カイがずっとテオの姿を見つめていた。
広間を後にして前を歩くハンスが口を開く。
「ご存知かとは思いますが一応自己紹介を。ハンス・クルサと申します。以後お見知りおきを」
「お噂は予予聞いています。この前も各国の諸侯との話を一つ取り纏めたとか」
「相変わらず風説は波のように早いですな。……いえ、あれは私一人の功績ではありませんがね」
彼の言葉にニーナが社交的に返す。広がった柔らかい雰囲気にこの先の流れを少しだけ垣間見る。
「さて、案内を任されはしましたが、よろしければ皆様方の意向を尊重したいものですな」
「それじゃあ幻想せ────」
「会長、羽目を外しすぎないでくださいよ」
ニーナの声に後ろから言葉を被せる。すぐさま返った彼女の視線には不満が宿っていた。
小さく溜息を漏らす。
「……客人として来てるんです。迷惑になる行動は慎んでください」
「でも見たいじゃない! ワイバーン、ユニコーンっ、グリフォン!」
「子供じゃないんですから……」
呆れつつ、けれど胸の内に湧き上がる感情にクラウスも嘘は吐けない。
確かにニーナの挙げたような生物に会ってみたい気はする。珍しい生き物だし、普通に生活をしていて間近で目にする機会など殆どない生物だからだ。
ワイバーン、ユニコーン、グリフォン。更にはドラゴンにペガススやスレイプニルなど。騎乗し空や陸を駆ける生物が存在する。妖精たちと区別し、総じてそれらを幻想生物と呼んでいる。
これらの生物は大抵が山奥や火山地帯など、人の足の届きにくい場所に生息しており、滅多に人前に姿を現す事がない。
大きさはどれも巨大で、大抵が人の身の数倍はあるものばかりだ。
幻想生物にはそれぞれに特有の能力があり、翼があるものは空を駆け、喉に火袋を持つものは炎を吐く。中には固有の異能を扱う種も存在する。その類稀な能力は歴史において時に人の助けとなり、時に災いの元へとなり得る。
そこで人間はその力を利用しようと画策した。
争いの場にすぐさま駆けつけられるように。強力な影響力で持って争いを平定できるように……。
結論から言えば、幻想生物を手懐けることには成功した。けれどそれは新たな戦の火種を生む要因にもなった。
歴史を経て、今になってようやく訪れた一時の平穏は、戦を知らないクラウスたちの世代にとっては妖精と共に人間と、そして幻想生物の歴史という認識が強い。
話の中で力を振るう幻想生物と妖精。その忌まわしさ。
畏怖は同時に夢見がちな想像を加速させ、危機感を奪い去って憧れへと昇華する。
主だった戦のない今の世界に、幻想生物という存在は人間が使役する歴史に生きた力の象徴としての側面が強く残っている。
力への憧れ。存在の偶像化。
単に子供心な気持ちの昂りと言ってしまえばそればかりだが、クラウス個人としては二の足を踏んでしまう。
いくら飼いならされた生物とはいえ、もとは自然の生き物なのだ。それに戦争の道具としての意味合いも拭いきれない。
クラウスにとって幻想生物とは人間の握る剣や銃とそこまで大差のない武力の象徴なのだ。
恐怖というよりはそこに存在するものとしての扱いに対する忌避感だろうか。
特に身内が被害にあったとかではないが、その存在意義に首を傾げてしまうのだ。
まぁ今回の場合は子供っぽい感情丸出しのニーナに呆れているといったほうが正しいのと、一段落したとはいえ国を相手にした話し合いだ。むやみやたらな行動は今後に差し障るので控えて欲しいというクラウス個人の願望の現われだ。
そんな様子をハンスは笑いに巻き込む。
「いやいや、構いませんよ。もう少ししたら兵たちも訓練から戻って来る頃合です。お時間さえよろしければどうぞお気兼ねなく」
「よろしいんですか?」
「えぇ。何より貴方たちと話す事で兵たちの士気も上がるというものです」
「……わかりました。会長、くれぐれも粗相をしないでくださいよ」
「何よその言い方……。あたしにだって節度くらいありますっ」
ハンスの随分と丸い言葉に甘えて言葉を返す。クラウスの声にはニーナが拗ねたように零して。
緊張感とは少し離れた雰囲気にハンスが口を開く。
「皆さん仲がよろしいですね」
「いい事ばかりではないですけどね」
「どういう意味よ、それ」
「ただ、飽きなく楽しい場所ではありますよ」
言葉には少しだけ本心を乗せて。
それまで頑なに口を閉ざしていたヴォルフが小さく笑いを零す。
それは先の退学騒動を思い出したからなのか。
降りた心地のいい空気は、悪くはないと思えるほど優しくて。だからこそそこにいる自分の存在がどこまでも異質に感じられるクラウスだった。
最初に辿り着いた場所は資料室だった。
ここには国宝にされた戦中の記録や文書が幾つも秘蔵されている。
中でも過去の歴史……学院での授業では習わない幾つかの事実は抱いていた想像を打ち砕き、その痛みを感じる事ができた。
前の戦で何人の兵士と妖精がその命を果てたのか…………。
詳しく知るべきなのか判断しかねる情報は、けれど知った事によって知らない世代に色をつけた気がした。
そんな記録巡りの旅の中に。学院の授業でもよく耳にした名前を見つけて手を止める。
ヘンリック・アヴィオール。その契約妖精たるヘルフリート。
彼らの存在は戦の歴史に一時の平穏を齎したのだ。その言葉の意味合いと、成し遂げた偉業はクラウスの感じている以上にこの世に一人歩きをしていてもおかしくはない事実のはずだ。
けれど実際にはその歴史の殆どが秘匿され、戦を治めたと言う確かな事実だけが不変の理の様に教えられている。
その背景は、やはりヘルフリートの存在の曖昧さだろうか。
この世界に住む人間の歴史は良くも悪くも妖精と隣り合わせに歩んできた道だ。
妖精との邂逅から700年以上。繰り返されてきた戦の裏で、確かな歩みよりと亀裂を生じさせた。
その最たるものが妖精との契約や大規模妖精術。そして妖精が見える者と見えない者の隔たりだ。
妖精の見える者を妖精憑き。妖精と契約した者を妖精従きと呼び習わすが、それらと反対に妖精の見えない者を妖精に見放された者として妖精尽きと呼ぶ者も居る。尤もこの言葉は蔑称で、頭の弱い妖精憑きや妖精従きが妖精の見えない者たちを嫌悪して呼ぶ、差別用語ではあるが。
その妖精との歴史の中で、最も勤勉だったのは恐らく妖精の見えなかった者たちなのだろう。
彼らは必要以上の被害妄想に駆られ、時間の許す限り妖精という種族を調べた。そうして少しでも理解の及ばない事を減らし、安心して居たかったのかも知れない。
結果、彼らの研究は幾つかの推論を経て共通認識となるまで広がった。
その有名なものは、妖精の国の存在と、妖精の細かな分類である。
妖精の国。有名な名前で、アルフヘイムと呼ばれる土地がこの世界に目に見える形で存在しているのかは今でも分からない。
ただあると仮定して話を進めようとすると幾つかの疑問が都合よく解決される。
妖精はどこから来るのか。妖精はどこへ帰っていくのか。
推測の域を出ない想像は未だ終着点を見つけてはいない研究だ。
もう一つの妖精の細かな分類については、ヘルフリートの存在にも関わる大きな問題だ。
一口に妖精と言ってしまえばそれまでだが、彼らには得意とする属性が存在する。大きく分けて炎、水、風、地の四種だ。これらはその妖精が好む環境や扱う妖精術によって分類される。
その妖精たちを、更に細かく分類する事ができる。
バンシーやデュラハンと言った存在だ。
妖精は外見的にほぼ同様の見た目をしている。けれどその内に眠る血……彼女たちを形成する遺伝子と言う部分ではそれぞれに異なる。
その違いと属性が妖精力の波長の違いを生み出すのだが今回は置いておこう。
妖精の種類は今知られているだけで五十種類以上居る。
全ての妖精は四つの属性に分類される。
例を挙げるとするならば、ユーリアの契約妖精であるリーザは風の妖精だ。そしてその本質は風を操る事に長けた何かしらの妖精ということだ。
その妖精がどんな名前を持つ妖精なのか。それを知りたければ契約妖精に尋ねれば教えてくれる妖精も居る。けれど妖精はあまり詳しい事は語りたがらない。妖精にとって生きると言う事は楽しいと言う事と同義だ。ともすればそれは防衛本能のように自分の存在を詳らかにする事を避けているのかもしれない。もしかすると語らない、と言うよりは自分がどんな妖精か知らず、語れないに近いのかもしれないが。
そう言った背景から妖精の詳しい存在の定義についてはあまり信憑性はないものの、けれど事実として妖精一人一人に小さな違いは存在するというのが一般的解釈だ。
ならば戦を治めるほどの力を持ったヘルフリートは炎の妖精の中でどういった種類の妖精なのだろうかという話に戻る。
攻撃的といえばゴブリンやレッドキャップなどの名前に分類される悪戯好きな種類なのだろうが、彼らが炎の属性に属するかと言えば頷きがたい。
それにヘルフリートの活躍から派生した話が幾つかある。その中で童話や英雄譚では彼や彼に類似した存在が炎を吐くドラゴンのような生物として語られる事が多々存在する。畏怖と戦争の象徴である炎。人ならざるものの一つの終着点、ドラゴン。
確かにそれなら幾つかの過程を経て理解をする事はできる。けれどその存在がクラウスの想像を不安定に揺らし、ヘルフリートの存在を曖昧にさせるのだ。
ドラゴンと言う存在は往々にして別の生き物が変化した形だと言われている。
特に有名な話が蜥蜴や蛇だ。蜥蜴に翼を、蛇には四肢と翼を生やすことでドラゴンの原型は完成する。そのため炎に近い場所に生息する蜥蜴や蛇の種は、時たまドラゴンの使いとされることもある。
炎と言う属性については一度人間からエルフの歴史に視点を移すべきだろうか。
エルフは人間、妖精と異なる種族で精霊術を扱う。この精霊術だが、言葉の由来としてエルフの歴史に登場する精霊という存在を主とする考え方が主流だ。
過去にニーナから話を聞いた事がある。
妖精に四つの属性があるように精霊にも四つの属性が存在する。精霊術においての四つの属性は妖精術と大差ないが、精霊術においてはその属性ごとに司る存在があるという。
炎にサラマンダー。水にウンディーネ。風にシルフ。地にノーム。
妖精と歴史を共にする人間にとってこの解釈は少しばかり違和感を覚えるが今回ばかりはその違和感も判断材料となりえる。
サラマンダー。この存在はエルフの歴史では火を吐く蜥蜴としての姿が存在する。
炎を司る火蜥蜴と、蜥蜴に翼を生やしたドラゴン…………。
蜥蜴と言う共通点を通してみればこの存在は同一視されはしないだろうかとクラウスは考える。
だがその二つが繋がったところで、精霊と妖精にも、ドラゴンと妖精にも共通点は今のところ見出せない。
しかし現実としてヘルフリートの名を関した存在が童話や英雄譚の中でドラゴンの姿として描かれている事は確かなのだ。力を持つものの象徴としては安易な部類ではあるがそれ故にヘルフリートを形容するにあたり題材にしやすかったのだろう。
名前だけといえばその通りだが、存在が一人歩きをしてヘルフリートの姿を妖精の枠に固定する事を拒む。
国を挙げての研究がどこまで進んでいて、ヘルフリートの存在をどこまで解明しているのかは定かではない。けれど彼の存在を曖昧とし、彼の歴史を表舞台に出す事ができないのは何か事情があるのではないかとクラウスは邪推をしてしまう。
クラウスの考えすぎだろうか。それともこの考えを可能性の一つとしてもいいのだろうか。
疑問はいくつもの要素を吟味し、他の想像と組み合わせてはありえるかもしれない現実を描き出していく。
少しの躊躇と好奇心と。芽生えた感情は禁忌のそれを伴って幼馴染に投げかけられていた。
「ヘルフリートって、一体何だと思う?」
「…………俺の契約妖精だ」
話を振った先のテオは少しだけ曇った顔で答えを返して。
何を馬鹿な質問をと、後から自分を叱咤したクラウスは手元の書物を閉じた。
考えて、それを押し付けたところで想像通りになるわけではない。
愚かさを呪ったのは誰のためか。静かに息を吐いて顔を上げた。
それから幾つかの時間を資料室で過ごし、ハンスの計らいで城内散策へと戻って。その中で敷地内に立てられた慰霊碑に黙祷して。
過ぎた時間はほんの少しだったが得たものは大きく色々と考えさせられる事が沢山あった。
そんな城内探索の最後に、資料室へ行く前に話していた通り、訓練終わりの騎士たちのもとへと向かった。
日も殆ど落ち、空気が冷たくなるってきた頃に訪れたそこは少しだけ周りと違い活気に溢れていた。
灯りが用意され、無造作に置かれた木箱の上には何本かの飲み物の容器と食べ物。そこにいる騎士たちは何処か浮かれた様子でやってきたクラウスたちを出迎えてくれた。
「いらっしゃいご一行! 良ければ少し時間をもらえないかい? 歓迎の用意があるんだ」
声を掛けてきたのは歴戦の勇者とでも言うべき古傷と堅い筋肉を背負った体の大きな騎士だった。
騎士の中でも頭一つ抜けて巨体で、浮かべた笑みは豪快そのもの。
熊のようなと形容すれば大体分かるようなそんな騎士だった。
「……どうする?」
「良いんじゃないですか? 当初の目的も終わってますし」
どうやらハンスがいつの間にか連絡をしていたらしい。念の入った歓迎だなどと邪推をして、少し引き気味に尋ねてきたニーナの声に無責任な言葉を返す。
実際言った事は本当だし、それ以上を打算で求めているというのもある。
彼らの視線に混ざる興味の感情。その先はヘルフリートに向かっていた。恐らく騎士たちの中に先の戦を最後まで生き残った人物が居るのだろう。それは先ほどのガタイのいい騎士なのかもしれない。
「……テオよ」
「水に流せとはいわねぇけどよ、少しくらい歩み寄っても良いとは思うぞ」
「うむ…………」
躊躇いはヘルフリートの引け目だろうか。
戦は荒れたはずだ。下した作戦の中には仲間を巻き込んだものもあったかもしれない。
その手で、仲間であるはずの騎士たちを焼き払ったのかもしれない。
けれどそれは過去で、変えることのできない歴史だ。
テオはそれをわかって、許容する。
「無理にとは言わないからな。言ってくれれば配慮する」
「…………過去を振り返る事は、未来に進む事と同義か?」
「俺は、そう思う」
テオの短い答えに、少しだけ悩む間を空けてヘルフリートが顔を上げる。その顔には覚悟が浮かんでいた。
炎よりも温く、人よりも暖かい空気に包まれて。少しだけ身構えたヘルフリートを騎士たちは話の中に巻き込んでいく。
そんな風景を遠巻きに見つつ、渡された飲み物に口をつけながら肩上の相棒に問う。
「フィーナは、人間が憎いと思った事はない?」
「ありません。わたしはクラウスさんを知ってますから」
それはクラウスが誰よりも悪人だとでも?
言いかけて、向けた視線だけで望む答えを返した視線に気付き小さく負けを認める。
「変な事聞いて悪かったよ」
「いつもの事です。それがクラウスさんです」
それは存在の肯定のように。他人を信じないクラウスの心を知ってなお、その傍にいてくれる彼女に感謝をしつつ空を仰ぐ。
気付けば群青の天幕には星の輝きが宿り始めていた。
息を吐くクラウスに後ろから声が掛かる。
「クラウス、ちょっといいか?」
顔を向ければそこにいたのは真摯な表情をした幼馴染だった。
隣に腰を下ろしたテオは少しだけ間を開けて徐に口を開く。
「ヘルフリートとのことで相談がある」
落ち着いた雰囲気とは裏腹に、クラウスの胸の内が騒ぎ始める。
まるでそれは新たな試みが大成するかのような勢いを伴って。
「クラウスにしか頼めないんだ。協力してくれないか?」
「……僕にできる事だったら力になるよ」
そうして次いで言葉になったヘルフリートとテオの現状に、クラウスはまた頭を抱える事となったのだった。
テオから齎された話は、有体に言えばどうしようもない現実だった。
歪んだヘルフリートの波長と、交わしてしまった契約と。テオの目標と、ヘルフリートの自由と……。
いくつもの要因は複雑に絡み合い順序立てて考えても過程の方法論が確立されない。
第一聞いた事がない。一度契約を交わした妖精従きと契約妖精の波長を元に戻す方法など。
けれど幼馴染からの相談だ。問題を解決してあげたいし、何よりクラウスのためでもある。
だったらどうするべきだろうか。いくつか考えて最も自分にあった方法を選び出す。
前例がないという事は判断基準がないと言うことだ。善行と悪行の線引きを曖昧なままに甘えて想像を具体例に置き換える。
星々が輝きを増す十分な時間を空けて答える。
「……少しだけ時間をくれる? 試せるものは試してみたいから」
「つまり既に幾つか方法が思いついてるってことだな? 流石クラウス」
光明を見たように笑顔を浮かべるテオ。
……この頃よく疑問に思うのだが、クラウスの周りの人物はクラウスの事を便利屋か何かと勘違いしていないだろうか?
確かにある程度の相談事には応えて来たつもりではあるが、それはクラウスにとって見返りのある問題であっただけで、慈善事業で困っている人の相談に乗っているわけではないのだ。
とりあえず信頼であるならば勝手にしてもらえればこちらとしてもやりやすいので問題は無いのだが……。
「まだ効果があると決まったわけではないけどね。まぁ、休暇中に片付けたい問題だね。テオの予定は?」
「……特にはないと思うけど」
「分かった。何かあったら知らせて」
「おうよ」
予定を聞きつつ視界はお祭り状態の騎士たちの方へ。
どうやら兵たちの中にはユーリアやニーナを知っている人たちがいたらしい。彼女たちは歓迎され、輪の中心人物になっていた。
「テオも行って来たら?」
「……行ったほうがいいか?」
クラウスはどうなのか、と問わない辺りにテオらしさを感じながら言葉を返す。
「僕はどっちでもいいけどヘルフリートがどうだろうね」
「……行って来る」
仏頂面で小さく零して幼馴染は人の波へと入っていく。
一人になったクラウスは人の熱気から離れる様に宴の場から席を外す。
クラウスが向かった先は城内の外れ。そこには鎧を身に纏った大きなドラゴンが伏せていた。
「……大きいですね」
「フィーナはドラゴンを見るのは?」
「初めてです……。あの、えっと、この方はお話は……」
恐々と、怯えたようにクラウスの後ろに隠れながら口にするフィーナ。彼女の言葉に少し考えてから返す。
「言葉を喋れるのは人間と妖精、後はエルフくらいだと思うよ。だからドラゴンやユニコーンみたいな幻想生物は人間と会話をする事はできないかな」
「そうですか……」
会話とは即ち心の意思疎通だ。意思の疎通が図れれば二者の距離が図りやすいのは事実明白。
しかし世の中には会話の成り立たない生物も存在するのだ。
けれど相手がどんな生き物であれ、会話を求めようとするフィーナの姿勢は自分にはないものかもしれないと尊敬する。
「けど幻想生物はその殆どが高い知性を持ってるからね。特にこうして人に飼いならされてる子は会話ができなくても簡単な意思の疎通は出来るよ」
そう言ってドラゴンの硬い鱗に覆われた首筋に手を添える。
手のひらから伝わる熱は火竜とも呼ばれるドラゴンが持つ火袋のせいだろうか。それともドラゴンと言う種が人より体温が高いのだろうか。
どうでもいい事を考えつつ視線を相方へと向ける。すると彼女は恐る恐ると言った様子で鱗に触れた。
ざらりとした感触に驚いたのも一瞬、次の瞬間にはその暖かさに優しそうに笑う。
こういう景色を見ていると、種族の壁はないのかもしれないとクラウスは時に考える。
人間と人間でさえその差別意識は消えない中で、人間と妖精は並び立っている。その危うさと、先人の歴史を感じながらドラゴンの横顔を見上げた。
「その子は前の戦を生き抜いた子だ」
そうしてドラゴンの存在を大きく感じていると、不意に声が投げかけられる。顔を向ければそこに立っていたのは重い騎士甲冑を身に纏った男性だった。
整った目鼻立ちと赤銅色の短い頭髪。双眸は黒曜石のように深い黒色を灯して未来を見据えていた。
彼は先ほどヒルデベルト国王に謁見したときに向かって右隣に陣取っていた人物だ。
「お久しぶりです、カイさん」
「あぁ、久しいな、クラウス」
カイ・グライド。テオの兄にして国王直轄の近衛兵総司令官。
クラウスとはテオを介して小さな頃に幾度か遊んでもらった事がある。
「テオは元気か?」
「……ご自分で確認なさったらどうですか?」
「君から聞きたいんだよ」
真っ直ぐに意思を宿してクラウスを見つめるテオと同じ黒色の瞳。その奥に燻る感情を慎重に読み取って小さく笑みを浮かべる。
「……元気ですよ。ヘルフリートの相棒として、きっとヘンリック前国王に引けを取らないほどに」
「それは頼もしいな」
声には寂しさが滲んで。彼の心の奥に垣間見る弟への愛情に少しだけ嫉妬を覚える。
クラウスには兄弟はいない。この身に受けたのは親の愛情と、この血への有り触れた差別と、僅かばかりの共感。
割合にしてみれば損を被った方が多い人生で、カイのような包み隠さない態度で接してくれる人物はとても嬉しかった。
「──今まで、間違っていたのかと思う事があった。あの日語ったように、わたしは今でも君の事を許容できない。けれど許容できない以上に信頼しているからこそ、弟を託したのだと。それが間違いだったかもしれないと」
だからこそ、突きつけられた刃に自分を見失いそうになった。
幼い頃の記憶が脳裏に蘇って深く抉れた記憶をざらりと撫でる。
あれはテオとカイと遊ぶようになって少し経ってからの事で、クラウスの身に流れる血の事をカイが知ったときだった。
その頃のクラウスたちはまだ子供で、けれど5歳年上のカイは幾つかの事を知っていて。その中にクォーターと言う言葉の意味があって……。
幾つか向けられた言葉は当時のクラウスにとっては裏切りと同じ意味を持っているように聞こえていた。
「けどクラウスの言葉を聞けて安心したよ。わたしは、テオの目標にしかなれなかったから」
目標。目指すべき標であり、時にそれは憎悪の対象ともなりえる。
テオがカイの事を憎んでいるとは考えにくい。けれど越えようと望んだ壁である事は確かだ。
それはきっとテオが自分に納得をつけて、一人前になろうとする最後の壁でもある。
「……個人的に一つ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「カイさんから見て、テオはまだ子供ですか」
少し悩んだように口を閉ざすカイ。しかしそれも数瞬で、気付けば彼の口から声が零れていた。
「…………そうだな。テオはいつまででもわたしの弟だ」
浮かべた表情は慈愛のようで。そうしてカイが見せた笑顔は、テオのそれとよく似ている気がした。
少しだけ昔に戻った気がして懐かしい空気に浸っていると何処か張り詰めた口調が響き渡る。
「それで、今回はヘルフリートの事でヒルデベルト国王に面会だったか」
「……何か知ってますか?」
話題の変化についていきつつ質問を投げかける。
クラウスの声にカイは考える間を空けて口を開いた。
「…………文献に幾つか載っていなかったか?」
「ある程度は目を通しました」
「大体は書いてある通りだ」
流石に今まで多くを語ってこなかっただけあって、そう簡単に情報を開示は出来ないか。
お堅い決まりごとに少しだけ同情しながら質問を少しだけ変えてみる。
「ではヘンリック前国王については?」
「そうだな……」
返った言葉は期待の兆し。カイの言葉に耳を傾ける。
「冷炎の遺物については知っているか?」
「名前だけですが」
冷炎の遺物。今は亡きヘンリック・アヴィオールが残した物の数々だ。
有形無形様々なものがあり、中には殆ど無価値なものも存在する歴史の産物。
先ほどの資料室でクラウスも幾つかのその実名を目に留めていた。
凱淵騎士団。焔紅の外套。極炎法衣。
戦を治めた英雄は彼が身に纏うものすらドラゴンの守護する宝物のように保護の対象となった。
「その中に、ヘルフリートが含まれてたって話は?」
「……今はもう関係ない話ですよ」
笑い飛ばすように勤めて軽く答えを返して。
顔横で身を小さくしたフィーナの頭を優しく撫でる。
「長々と引き止めてしまってすみませんでした」
「いや、久しぶりに話が出来て嬉しかったよ」
「それでは失礼します」
逃げるように別れの言葉を口にすればカイは優しく送り出してくれた。
胸に蟠った感慨は少しだけ視界を曇らせて。
「クラウスさん、先ほどの方は……」
「テオのお兄さんで、一応僕の幼馴染かな」
「そうですか」
相方に答える声は何処か別の世界の事のように自分の意識と切り離されていた。
騎士たちの方へと戻ると輪の中心にはニーナが居た。
どうやら何人か彼女の知り合いが居たらしい。
「軍に復帰する気はないんですか?」
「あたしがやりたいって言ってどうこうなる問題じゃないのっ。誇りは持ってるつもりだけど……あ、おかえり。よかったらクラウス君もどう?」
近づくとクラウスに気付いたニーナが飲み物を持ち上げて声を掛けてくる。
断る理由もないので受け取りつつ、交わされていた会話を少しだけ掘り返す。
ニーナは元軍属だ。その地位の剥奪は幾つかの要因が重なって起きた偶然の代償だ。
ニーナが何か特別悪い事をしたわけではない。まして誰かがニーナを陥れるために仕組んだわけでもない。
個人的無意識と集合的無意識が運悪く重なって、結果肥大した非難が彼女の身を焦がしたに過ぎない。
けれど結果はどこまでも現実的で、彼女が背負った代償はそれまで積み上げてきた彼女を形成する一部を手放すと言う形を取った。
それが軍属と言う地位の剥奪。
この国では軍属……騎士と言う称号は階級の一つとして数えられている。
普通の騎士は位が低く、普通に暮らす民より少しだけ生活が楽な程度だが、功績を積み重ね近衛隊や名誉騎士に任命されると、ある程度の発言権と融通を利かせられるようになる。
騎士になるような人物はもとより政に口出しするつもりはない者ばかりで、また爵位にもさして興味もない。その多くは国を守ると言う大義名分と、国と自分自身に誓った誇りを信念に行動している。
────誓いを違えない者こそ真の騎士である
昔ニーナが言っていた言葉を思い出す。
彼女はきっと騎士であった事と、そして何よりエルフである事に誇りを持っている。その誇りがあるからこそ、何物にも屈しない真っ直ぐな彼女でいられる。
彼女が信じる彼女を纏って、騎士達の中で笑顔を浮かべるニーナ。その高潔さに尊敬を送りつつ口を開く。
「会長は、もし軍に戻れるとしたら戻りたいですか?」
「…………どうだろ。戻って、あたしに何か出来るのかな?」
「とても優秀な医療術を扱っていたと聞いていますけど」
「……そういう意味じゃ、なくてね」
何処かで彼女の言わんとしている事をおぼろげに悟りつつ言葉を待つ。
「あたしの夢は……前にも言ったけどやっぱり皆が平等な世界だよ。けど、力を求められる軍にいて、そんな世界を目指せるのかなって……」
直ぐに返すべき言葉が見つからずに沈黙が横たわる。
「って、暗い話だね、ごめん」
「全てを平等になんて無理ですよ」
罪悪感と共に言葉にする。
「けど、貴女の周りだけでいいならどうにかできるんじゃないですか?」
「……できたら、いいね」
クラウスの言葉に、優しくそして寂しそうに笑ったニーナは大切そうに零す。
平和など。平等など。やはり口先だけのまやかしだ。その言葉がある時点で、思い描く理想は訪れない。
けれど願う事とその理想を目指して行動する事はできる。行動を起こせば、何かしらの結果が得られる。
きっとその試みを手伝う事も…………。
「だから、前に進みたいな」
女性らしい白い手をきゅっと握ってこぶしを作る。その手のひらの中に何を掴むのか。馳せた想像はきっと誰もが一つの結末だったはずだ。
「さて、もう時間も遅いし今日は帰ろうか」
「そうですね」
ニーナの言葉に頷いて視界を回す。いつの間にかテオたちも近くに来ていた。
「テオも大丈夫?」
「おう」
また今度二人でカイに会いに行こうか。
そんな事を考えつつ騎士たちに別れを告げて城を後にする。
「それで、お目当ての幻想生物には出会えましたか?」
「えぇ。頼んだらユニコーンに騎乗させてもらえたわよ」
「……乗ったんですか」
「……? 何か問題があった?」
「…………いいえ、別に」
きょとんと首を傾げるニーナに小さく溜息をつく。
彼女がエルフだからか、どうやらユニコーンがどういう生物なのか詳しくは知らないらしい。言わぬが花か。……いや、元軍属として知らないのは如何なものだろうか。
不思議そうに頭を捻るニーナを少し可愛く思いながら次の話題を振る。
「他にはどんな生物に会ったんですか?」
「ドラゴンでしょ? グリフォンにペガススに──」
子供のように目を輝かせて喋るニーナに珍しくヴォルフが笑みを零す。
つられてユーリアも顔を背けた。
「何よ~。何か問題?」
「いいえ、特に」
ヴォルフの堅苦しい返答に頬を膨らませるニーナ。
この空気こそ、彼女が望む理想なのかもしれないとクラウスは一人ごちる。
例え全ての生き物がこれを共有できても、平等は生まれないんだろうと思うけれど。
ただ今だけはこの居心地のいい空気に浸っていたい気分だった。
学院に着くと校舎の一室に明かりがついていた。
消し忘れかと思ったが、その教室がクラウスたちがいつも授業を受けている場所だという事に気づく。
「消し忘れか」
「僕が消してきます。ユーリアは先に帰ってていいよ」
ヴォルフの声に答えて、それからユーリアに告げる。
彼女は少しの間クラウスを見つめていたが、小さく「分かった」と呟くと先に立って寮の方へと歩き出した。
簡単に別れの挨拶を告げて昇降口から二層上る。クラウスの想像が当たってるとしたらきっと部屋の鍵は開いていることだろう。
問題はどうやってこんな遅くまで学院に残ったのかという方だが、そのあたりはどんな理由だっていい。個人的には彼女の家庭事情のほうが気になるクラウスだ。
「……こんな遅くまで女の子が一人でいるのは男として心配になるんだけど」
「どっちも許可を取ってるから大丈夫だよ。それに騎士様がお迎えに来てくれたしね」
クラウスが教室へ入ると、黒板に落書きをしながら一人の少女が声に答えた。
こちらを振り返る仕草に揺れるのはライトブラウンのショートヘア。小悪魔のように彩られた表情と顔に嵌った二つの水色の宝玉は嬉しさを噛み殺したようにクラウスを射抜いた。
「それで、どうしたの?」
「別に? 日誌があったから遅くまで残ってただけ」
コロコロと楽しそうに喉の奥で笑ってアンネは次ぐ。
「他に理由が欲しいなら言ってあげるけど?」
「遠慮しておくよ。女の子は隠し事があるほうが魅力的だからね」
「あら素敵。その秘密、誰かと共有できるともっと甘くなるのに」
小さな体に妖しげな魅力を詰め込んで。
夢に生きる妖精、アルプのような蠱惑さでクラウスを翻弄する。
「……それで、本当に何もないんだったら送っていくけど?」
「無いよ。だからよろしく」
肩上の相棒の主張に催促されて主題を切り出すと、アンネはいつもと変わらない様子で答える。
どうやら本当に何でもないらしい。という事は彼女が単に自分に素直になっただけだろうか。……これならまだ何か建前があったほうがよかった気がする。
胸中で唸って溜息一つ。そこが定位置の様に隣に並ぶアンネには何も言わず教室を戸締りして帰路に着く。
特に話題を振るでもなく、ただ只管に隣に添い遂げるように歩くアンネに歩調を合わせて。こちらに向けられたそれ以上の意味を込めた視線には気付かない振りをしたまま。
校門まで彼女を送り届けると足を止める。
「家までは来てくれないんだ」
「その気が無いのに誤解をさせちゃ悪いからね」
「その優しさはいらないなぁ」
笑顔で言って笑わない瞳でクラウスを見つめる。その視線に、ようやくこの頃気がついた事がある。
アンネのクラウスの前でだけ見せるこの振る舞いは、計算の上に成り立った卑怯なまでの演技だ。
彼女の気持ちは本物で、だからこそその気持ちに抗い、従ってクラウスと対等であろうと努力した末の産物だ。
だからこのやり取りは、彼女本来の言葉ではない。
クラウスに見放されないように。ともすればそれは献身を超えた依存のように。
一度手に入れたその場所を手放さないようにと願った末の、もう一人の彼女の姿だ。
失敗すればクラウスの対等からユーリアの友達になってしまうから。それだけでは満足ができないから。
誰よりも遠く誰よりも近くでクラウスを監視するために彼女は彼女を演じている。
その気持ちに気付かない振りをしたまま、クラウスはまたいつも通りに足を踏み出す。
脳裏を過ぎるのはテオとヘルフリートのこと。彼の視界に、アンネの姿はもう殆ど存在しない。
「アンネ、また一つ頼み事をしてもいいかな?」
「いいよ。だって私はそのために貴方を好きになったんだから」
建前? 本心?
少しだけ疑ってそれからまた彼女を都合のいい駒として巻き込む。
「ヘルフリート……それからヘンリック・アヴィオールについて分かる事を調べてくれないかな」
「……どこまで?」
「アンネが僕だけのモノであるところまで」
「その支配欲、私は嫌いじゃないよ?」
「強引なのは苦手だったんじゃ?」
「だってクラウスのモノだって信じていられるから」
寂しい色をした瞳で呟くアンネ。
卑怯な演技だと割り切って薄く笑顔を浮かべる。
一つ不変を願ってもいいのなら、アンネはアンネのままで居て欲しい。
疼く切なさにまた一つ儚く脆い楔を打ち込んで焦点を合わせる。
「期限は?」
「出来れば一週間くらいで」
「出来ないなら頼まないくせに」
信頼を勝ち取ったような微笑みに思考をまた一段と減速させる。
地道な一歩だなと考えた思考も一瞬、気がつけば目の前にアンネの顔が迫っていた。
「ダメですっ!」
隙を見せすぎた……と過ぎったその瞬間に、彼女との間にフィーナが割って入っていた。
「それは、ダメです」
「……そんなに恥ずかしいなら目でも閉じてればいいじゃない」
「わたしはクラウスさんのはんぶんですからっ」
からかうアンネに真っ向から声を返したフィーナは敵意を滲ませて睨みつける。
その剣幕に、発した言葉に。少しだけ悔しそうに表情を歪めたアンネは、それから初めて見る怒りの表情でフィーナを睨み返した。
「自惚れてるのはどっちよ」
一触即発。感情が爆発しそうになったフィーナを、クラウスが後ろから止める。
「フィーナ」
「…………それじゃ」
これ以上は危険だと彼女も悟ったのか、身を翻したアンネは逃げるように足を出した。
町の中に消えていく闇を少しだけ見つめて。クラウスはゆっくりと声を掛ける。
「……ありがと、フィーナ」
「……………………」
アンネの去った方をじっと見つめてフィーナは零す。
「…………自惚れてなんて、いません。ただ、いけないんです。アンネさんは……本気で好きになるから」
憎むように、恐れるように。何よりもクラウスの事を思って行動してくれる彼女の頭を優しく撫でる。
「大丈夫だよ。何があっても、僕はアンネさんを好きにはならない」
「信じて、いいですか?」
「それはフィーナの勝手だよ。だから信じて」
こちらを振り返った蒼色の瞳は涙に濡れて責めるようにクラウスを見つめる。
その瞳に胸の内で応える。
僕は誰も信じない。だから誰を愛する事も無い。




