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フェアリー・クインテット  作者: 芝森 蛍
大地の無言歌(リーダ・オーネ・ウォルテ)
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第三章

「…………なるほどねぇ」


 翌日の休み時間からはクラウスの睡眠時間が無くなった。

 授業が始まる前。それから授業と授業の合間。昼休みに放課後。

 そうした、いつもは休息や睡眠に費やしていた時間が別のものに侵食されたからだ。

 昼下がりの教室。窓際最前列の居眠り特等席では、クラウスが数枚の用紙を手元に小さく唸っていた。

 書面の表には印刷された文字列。内容は授業の印刷物。

 一般教養といわれる座学の中でも一般的な教科四種。

 妖精学、数学、妖精史、自然科学。それぞれに妖精について学び、基礎的な計算知識を身につけ、先人の歩んできた歴史を理解し、それらと妖精の関わりを修める教科だ。

 これらはフィーレスト学院のような妖精憑き(フィジー)妖精従き(フィニアン)が通う学び舎において必修科目とされ、その中で妖精力や妖精術、契約妖精や自由妖精との付き合い方を学んでいく。

 そう言った基礎的な分野のほかに、実技演習や得意属性ごとの妖精術の練習などと言った実技項目が含まれ、それらを総括して学ぶ。

 その中の一般教養。授業内で使われた紙を見つめてクラウスは思考を巡らせる。

 妖精学、一部不安要素あり。数学、標準以上。妖精史、壊滅的。自然科学、優秀。

 全ての用紙の氏名欄には流麗な筆跡で書かれたユーリア・クー・シーの名前。

 これらは全てユーリアの一般教養における理解度だ。

 妖精学の中で散見できる誤答は応用問題。妖精史に至っては少しばかり頭を抱えたくなる理解度だ。

 数学、自然科学については実技方面が絡んでいるためか、そちらが頭一つ抜けて優秀な彼女にとっては納得のしやすい教科だったのだろう。


「……なんて言うか、ユーリアらしいね」

「そういうクラウスはどうなのよ」

「見て面白いものじゃないと思うけど」


 強い光を放つ紫色の双眸。尖ったユーリアの口調に言葉を返しつつ同じ用紙を見せる。


「……なんと言うか、クラウスらしいわね」


 そこに書かれた間違いの少なさに眉根を寄せるユーリア。

 一応クラウスは座学の成績は悪くないほうだ。試験では全教科八割程度は安定して取れる。


「どうする?」


 問いかけに息を詰まらせるユーリア。彼女は居心地の悪そうに視線を逸らして二枚を差し出す。

 それは妖精学と妖精史。まぁそうだろう。素直な彼女らしい。


「じゃあ僕は数学と自然科学かな」


 当たり障りのない辺りを挙げてことの始まりを思い出す。

 それは昨日の帰り道、ユーリアと交わした約束から始まる。

 あの後、それぞれの教科の小試験用紙を見せ合って、互いの不得意なところを補い合うと言う形で決定した勉強会。

 その見本として提出したのが先ほどの用紙だ。

 ユーリアは歴史や妖精に関する応用に少し問題あり。クラウスは特筆すべき点はないが、ユーリアの得意分野を享受する。

 互いに納得を交わして思考を今後へと移していく。

 筆記試験は約一週間後。ユーリアも再試験には引っかからないだろうが、このままでは委員会の面子に関わる。

 とりあえず不得意分野を克服しつつ全体的な成績の上昇を試みる。こういった指導の経験は殆どないがそれでもやらねば。


「……そうだね。それぞれに理解に苦しむ点ってある?」

「妖精史は後ろばかり見てる気がして嫌。妖精学は質問外の事を問われてるようで嫌い」


 なんともまぁはっきりした物言い。けれどその分克服すべき場所が絞れて楽だ。


「僕は────」

「ただの記述不足でしょ」


 彼女だけが告白するというのも不平等だと思い口を開く。その刹那、つまらなそうに遮ったユーリアの言葉に小さく笑みを浮かべた。

 確かに彼女の言う通りでクラウスの誤答はその殆どが小さ間違いだ。失敗は誰でも犯す。だからこそそれが重なって大きな結果となる。

 わかってはいても中々克服できないクラウスの問題点だ。


「話してても始まらないでしょ。……時間がもったいないから早くして」


 溜息と共に決意を固めたのか瞳に宿す感情を強くするユーリア。

 彼女が望むなら、クラウスはそれに答えなくては。


「わかった、始めようか。試験勉強」


 言ってクラウスも気持ちを入れ替えた。

 それから始まった試験勉強だったが、どうやらユーリアの中の『時間があるとき』は随分と多いようで。ほぼ休み時間ごとに試験勉強をしては授業へと戻っていくと言う勉強尽くしの時間を送っていた。

 二日目からは要領を得たのか初日より効率よく時間を使うようになった。その成果か、クラウスにも少しばかり自由な時間が生まれた。


「……勉強しなさいよ」


 だから少し休憩をしようと筆記具から手を離した際に言われた言葉に教室内を見回す。

 談笑する生徒、黒板に落書きする生徒。いつもは気にも留めない雑音が僅かな雑音となって耳に障る。

 そんな光景を遠巻きに見つつ本音の一部を打ち明ける。


「個人的な問題なんだけどね。もっと静かなところのほうが集中できるんだ」

「…………図書室でもいく?」


 少し考える間を空けて返って来たのは彼女の性格を表すような言葉。

 どこまでも真剣で、だからこそ結果を残すユーリアの集中力は見習いたいほどだ。もちろんクラウスにだって真剣に考えることはあるし、そういうときの集中力は普段から見れば特筆すべきなのかもしれない。けれどユーリアはクラウスにとってのその特別を何に対しても発揮する。

 それは彼女の抱える何かに事を発するものなのだろうか。

 少しだけ考えてまた思考の狭間送り。今考えるべきことではないか。


「……別に僕は良いよ。ユーリアさえ良いなら」

「……どういう意味よ」


 アンネなら、クラウスの言葉に薄く笑って軽口を重ねるのだろう。そうして一時だけ甘く苦しい感慨に浸るのだろう。

 けれどユーリアは彼女とは違って──だからこそ彼女足りえる。

 …………いくら双方を立てて繕っても比べたことには変わりないか。

 拭いきれない性分に辟易しながら小さく笑みを浮かべた。


「いやなんでもない。移動する時間ももったいないね。ここでやろう。僕もできる限り集中するようにするから」

「これだけ話をしておいて直ぐに頭を切り替えろだなんて無茶言うわね」


 確かに。論点が少しずれつつある事を自覚しつつ彼女の休憩の言い訳に気付いていない振りをしながら付き合う。


「そういうのも必要かもね。実際試験の教科と教科の間は少ししかないわけだし」

「クラウスはそんな時間なくても直ぐに切り替えられそうで羨ましいわね」

「それ褒めてる?」


 小さく問うとユーリアは遠くを見るように窓から外へと視線を移した。彼女の心根は素直らしい。

 そんなことを考えつつ僅かに震えた胸の奥の高揚をしっかりとしまい込む。

 言葉の表層を聞いた限りではユーリアの声に他意はない。少しだけ休憩の時間を延ばせたらというあわよくばもあるかもしれないが、それ以外は特に考えた末の発言ではないだろう。

 だから彼女自身も気付いていないはずだ。委員会の仕事が増えてからこちら、ユーリアの口から時々だがクラウスの名前と話が挙がるようになっていた。

 決して他意はないのだろう。彼女が語ったように、ユーリア自身が決めた友達との線の内側にクラウスを入れてくれようと努力している、と捉えれば彼女の考えと一致するはずだ。

 その裏打ちとして、友達になるかどうか見極めるためにユーリアの目はクラウスに向いている。そしてクラウスの事を少しだが気にかけている。

 恋愛感情だとかそんな甘く擽ったい関係の上に起こった興味でないのは男として少し残念だが、それでも最初に言葉を交わしたときに比べれば随分と仲良くなったのだと思う。

 クラウスだけでなくユーリアからも歩み寄ろうとしているのだ。

 異性で、考えも何もかも、その身に流れる血でさえも種族的な意味合いで異なる二人。

 けれどその二人の間に友情が芽生えないかと言えばそれは違うとクラウスは言いたい。

 だってきっと、今もまた────


「そういえば」


 そこまで考えて、ぼぅっと窓の外を見つめていたユーリアの声に我に返る。

 気付けば紫苑の瞳がいつも通りの宝石のような輝きを放ってクラウスを見つめていた。


「アンネから何かあった?」

「……いや、特には」

「そう」


 彼女の言葉に少しだけ考える。

 返した言葉の通り、あの夜以降アンネからの接触はない。注意して気に掛けているつもりはないが、教室内で見つけるこの頃の彼女の姿はなにやら難しい顔をしていることが多い。

 手には分厚い本を持ってそれに目を落としていることが多数で、気にならないと言えば嘘にはなるが彼女の決意だと受け止めて今はそっとしている。彼女の身の回りを探るようなことも今はしていない。


「何か気になることでも?」

「…………別に」


 問いかけには一瞥をくれる。続いた言葉に幾つか考えさせられることがあったが、それまで通り今は横においておく。

 何時まで掛かるにせよ、アンネはきっとその答えを出してくれるから。

 だからクラウスも今は自分に向き合おう。


「──時間を無駄にした」

「勉強に戻ろうか」


 彼女の休憩は終わりらしい。ユーリアが真剣に向き合うのだ、クラウスも続かなければ。

 何よりこれはユーリアのためだけではないのだから。

 目的が願いに変わっていることに気付きつつも触れないままで。

 きっと今しか味わえないこの距離感を目一杯感じるクラウスだった。




 それから試験終了までの日程はほぼ代わり映えがなかった。授業を受けて、休み時間にも勉強して。控えると言われた校内保安委員会の仕事は投書の処理だけに抑えた。

 そのおかげと言ってか学院にいる間はユーリアと時間を過ごすことが多くなり、彼女とも事務的なものから軽口までいくつもの言葉を交わした。

 成果があってのことか、試験の最終日にはユーリアから声を掛けられて一緒に昼食を摂った。

 そうして妖精と歩む時間は試験の終了と委員会の活動再開を機に加速する。

 試験最終日の放課後からは溜まった投書や問題に取り掛かり、数日間は仕事に忙殺される日々が続いた。

 学院の敷地内を西へ東へ。どれほどの案件に関わり、いくつの投書を処理したのか。数えるのも億劫になるほどの問題と向き合って、気がつけば試験が終わって一週間が経とうとしていた。


「そういえば今日ですね」


 声は肩上のフィーナから。机に頬杖をついて太陽が半分昇ったばかりの青い空を眺めながら言葉を返す。


「あぁ、試験結果の発表か。妖精には試験とかってあったりするの?」


 脳裏にユーリアの顔を浮かべつつ話題を振る。

 試験結果への関心はユーリアのことだけだ。クラウス自身は十分に手ごたえを感じている。彼女に付き合って一緒に勉強したことでいい復習になったのかもしれない。


「試験……は多分ないです。未熟なうちはいつも妖精術の練習をしてましたから……」

「となると毎日が勉強と試験だったわけだ」

「近いかもしれません」


 唇に指を当てて考えるように言葉を紡ぐフィーナ。

 やはりと言うべきか、妖精の生活は人間のそれとは異なるようだ。

 階級もなければ教育機関もない。けれど努力をして契約を交わさなければ二、三十年ほどで妖精は自身の妖精力を使い果たして消えてしまう。

 半端な自由だと思いながら、昔はその自由に憧れたのだと過去に抱いた小さな夢を思い出す。


「妖精は随分と自由だからね」

「そうなんでしょうか……」


 珍しく沈んだ声に突いていた頬杖の体勢を崩して相方の瞳を見つめる。綺麗な蒼色の瞳は何処か寂しそうに揺れていた。

 仕草に長い銀髪が揺れる。


「わたし、クラウスさんと契約してわかったことがあるんです」

「どんなこと……?」

「妖精は自由なんじゃなくて、少ない生き方を楽しんでいるんじゃないでしょうか?」


 フィーナの言葉が羨望のようなそれを帯びて広がる。


「わたしたち妖精は、人間の方たちより寿命が少し短いです。だから妖精の見える方と契約をして妖精力を分けてもらう」


 分けてもらう。それはきっと妖精視点のものの見方。

 クラウスは思っていた。妖精従きは妖精力を与えることで妖精を縛っているのだと。

 けれどその考えにフィーナの言葉が皹を穿つ。


「それはそうしないと長く生きられないからです。それじゃあどうして長く生きるんだろうって」

「見識を広めるため?」

「それもあると思います。けど多分本当は楽しく生きたいんだと思います」


 楽しく。妖精は楽しいことが大好きだ。それは妖精力のほかに、楽しさが妖精の原動力とまで言われるほどに。


「長く生きればその分だけ楽しいことがあります。辛いこともですけど。そういう風に生きていたいから妖精の見える方に少しだけお力を貸してもらうんです」

「………………」

「けどそうしてわたしたちと契約した人間の方は色々縛られてしまいますよね」


 人間の方が縛られている。

 そう考えたこともある。けれど人間主観の場合それはさほど重要ではなく、その契約の対価に妖精に生き方を強要していると感じる妖精従きが大多数だ。

 なぜなら契約妖精は嘘をつけないし、人間の都合に振り回されるからだ。それは人間に当てはめれば相手を物として扱い占有し、人間の都合で妖精の意思を捻じ曲げていることに他ならない。自由妖精を強く責めないのもその辺りの心境が働いているからだろうか。

 だから妖精よりも人間のほうが価値観を押し付けているのだと思っていた。


「生き方もそうです。妖精が見えるから妖精と付き合い、契約する。妖精と契約をしたからそれを活かせる職に就く」

「それは…………」

「クラウスさんは優しい人ですから。あまりそういう風に考えることはしないと思います。けど────」


 そうして優しい、けれど力強い芯のある視線がクラウスを射抜く。


「契約することで道を狭めているのは人間の方で。それを強要しているのは妖精の方ではないですか?」


 フィーナの言葉に喉の奥が詰まる。まるで今までの生き方を否定されたような感覚に陥る。

 確かに彼女の言っていることは一理ある。反論をしようと思えばそれは強要ではないと言える。妖精との契約も妖精憑きの意思だと言える。

 けれどそんな言葉で何かが変わるほど優しく浅い話ではない。

 フィーナの価値観とクラウスの主張が頭の中で堂々巡りを繰り返す。

 やがて逃げの一手のようにからからと乾いた喉からは声が漏れていた。


「そういう見方も、できるね…………」


 フィーナの欲している言葉はきっと違う。けれど真っ向からぶつかる二人の主張を納得させる答えは見つからない。

 そこに妖精と人間の隔たりがあるのだろうか。だからこそ妖精従きとして妖精と──人間と──歩む道を見出したのだろうか。


「あっ、あの…………」


 そこまで考えて、フィーナの声に焦点を合わせる。彼女の瞳は不安に揺れていて、泣きそうに歪められた表情にクラウスは困惑する。


「別に、クラウスさんと言い争うとか、そういう気はなくて……。ただわたしはそう思うって、ただ…………」


 言い訳のように紡がれる声がクラウスの胸を刺す。

 彼女が不安になっているのはクラウスの心が揺れていることだけが原因ではないはずだ。

 語った言葉が妖精従きと契約妖精の関係を揺るがすかもしれないと。もっと根源的に、クラウスと心が離れるのは嫌だと。フィーナの海のような深い色をした瞳はそう語っている気がした。


「……ごめん。まだ答えは出せないよ」

「はい…………」


 先ほど逃げた答えに向き合って正直に声を絞り出す。

 クラウスの言葉にフィーナは頷いて、壊れそうなほど儚い笑みを顔に浮かべた。

 その表情がクラウスの心を掻き立てて、自分の存在をとても小さく感じさせた。

 刹那に鳴り響いた授業の始まりの鐘に、どれほどの時間ぼうっとしていたのかと恐怖さえ感じる。

 不安になればなるほどフィーナの表情は曇る。連鎖してクラウスの心にも雲が掛かる。

 悪循環に嵌っていく感覚を覚えながらクラウスは解決策を求めて思考を彷徨わせる。

 この話を誰かにすべきだろうか。するとすれば誰に?

 誰ならこの答えのきっかけをくれる?

 巡る考えは人間や妖精の間を行き来して視界に靄を掛けていく。

 欲しいのは落としどころか、それとも疑いようのない結論か。

 二つの視点を一人が持つなんて…………。

 そう考えたところで脳裏に一人思い浮かんで彼女ならと希望を抱く。彼女なら、何か答えの道しるべを示してくれるかもしれない。

 不安と焦燥に挟まれながら、クラウスは自分の愚かさを改めて呪ったのだった。




 昼休みになると職員課の前の廊下は生徒で賑わっていた。人と妖精が犇いてまだ春だと言うのに湿度のせいで体感温度が跳ね上がって暑苦しく感じる。

 生徒たちがこうして集まっているのは、そこに先日の筆記試験の結果が発表されるからだ。

 流石に全校生徒が集まっているわけではないだろうが、それでも百人近くが一箇所に集まると言うのは中々に見苦しい。

 その見苦しい中に、クラウスとその隣には胸の前で不安そうにこぶしを作ってるユーリアがいた。

 彼女は無意識なのか、左手でクラウスの制服の裾を引っ張っている。どちらに転んでも行き過ぎた結果次第では制服が引きちぎられそうだと想像して心の中で小さく笑った。


「よぉっ」


 そんなユーリアと同じような面持ちで落ち着きなく翅をはためかせるフィーナを宥めていると肩を叩かれてそちらに振り返る。


「あぁ、珍しいね。来たんだ」

「一応な」


 そこに立っていたのはクラウスの幼馴染であるテオだった。

 彼にとっては筆記試験など通過地点で、本番は年に二度、夏と冬に行われる実技試験が本番だろう。そこで結果を出せなければいくら筆記試験で点が取れたとて、進級は難しい。

 テオは主席候補で、生活態度も申し分ない。筆記もほぼ首位を維持だし、実技方面にも問題は見当たらない。

 冬に試験を受ければ確実に進級できるだろうし、その結果に殆ど影響を及ぼさない筆記試験の、それも結果発表など後で一人で見にくればいい話なのだ。

 そんな彼が何故クラウスと一緒に結果発表を見に来たのか。


「委員会に入って最初の試験だしな」

「忙しかったからね。でもそれで落ちるほど勉強を疎かにしてるわけじゃないよね?」

「そのつもり。ただ──少し気になることがあってな」


 彼の動機を聞きつつ最後に付け加えられた言葉に少しだけ頭を働かせる。

 この場合の気になることと言うのは恐らくテオ自身のことではないだろう。

 少しだけ考えて頭の片隅に留めて置く。

 と、そうこうしていると職員課の扉が開いて部屋の中から教員が出てくる。その脇には筒状の大きな模造紙。それを持って掲示板の前に立つ。

 刹那に、騒がしかった廊下が緊張に静寂を張り渡らせる。ユーリアの裾を掴む力が一層強くなった。

 一瞬の間を空けて固定された模造紙がゆっくりと開かれていく。

 視線は気付けばトーア級のそれへ。


 1st:テオ・グライド


 その名前を見た瞬間少しだけ安堵が湧き上がる。同時──廊下のどこからか溜息と黄色い声が上がった。

 片方は彼の座を競う実力者。もう片方は彼に好意を持つ異性だろうか。

 見た目がよくて勉強ができて委員会の構成員。妬みと羨望は紙一重だ。クラウスだって彼が持つ数多の才能は羨ましいとさえ感じる。

 それでもクラウスにだけある知識も能力も確かに存在するのだ。他人を参考にしようと思う事はあっても他人になりたいという気はクラウスにはない。


「あっ…………」


 声は肩上から。気付けば試験結果も順に開示されクラウスの名前も見つかる。

 流石にテオと比べてはあまり輝きはないが、それでもトーア級の中では上位二十名に入る結果。いつもより順位が上なところを見るに少し勉強法を変えてみるとよさそうだ。

 興味のなかった自分の結果に少しだけ思考を巡らせつつ視線を隣のユーリアに。彼女は開示される結果に自分の名前を探して視線を走らせている。どうやらまだ見つからないらしい。

 順位はそろそろ半分へと差し掛かる。辺りでは次々と声が上がり、歓喜の声や励ましの言葉が耳に入ってくる。

 それらを意識的に除外してクラウスも結果に目を走らせる。

 そういえばユーリアのいつもの順位を聞いていなかったな。授業で行われた小さな試験の結果を見るに恐らくいつもは半分より少し下辺りだったのだろう。まさかそれより下がっていると言うことはないだろうが…………。

 考えて、思考を曇らせた次の瞬間、耳元で息を殺した声が上がる。

 ぼやけた視界に焦点を合わせれば表の中にユーリアの名前。何故か緊張する自分の鼓動に急かされる様に声を掛ける。


「どうだった?」

「………………相変わらず恥ずかしいわよ。でも……結果は出てる、と思う」


 素直な言葉にクラウスも安心する。

 どうやらいつもより順位がよかったらしい。彼女が浮かべた表情は笑顔とは少し違うけれど。ユーリアの優しい顔をクラウスが見たのはこれが初めてだったかもしれない。

 笑顔、いつか見てみたいな。と思ってしまうのは彼女との距離を縮めたいからだろうか。それとも自分が男で、彼女が魅力的な女性だと思うからだろか。

 その答えの境界線は、まだ自分の中では曖昧で、けれどいつか正直に向き合いたい気持ちとして胸の奥に留めて置く。


「一緒に勉強した甲斐があったよ。僕も順位はよかった」

「そう。よかったわね」


 嫌味に聞こえるかもしれない、と思いつつ口にすると返って来たのはいつもの尖った声。口調こそ変わらずユーリアだが、その声の波長は何処か嬉しそうに聞こえた。


「クラウスさん、早く戻ってお昼ご飯食べましょうよ」


 声はフィーナのもの。指先で答えて視線を移す。


「テオはこの後は?」

「残る。用事があるからな」

「そう、わかった。また今度」


 都合が合えば一緒に昼食を食べようと思って声を掛けたがどうやら何か気になることがある様子。何かあればテオのほうから話があるだろうと思考を纏める。


「それじゃあ戻ろうか」

「はいっ」


 元気なフィーナの声を聞いてユーリアと一緒に歩き出す。と、隣を歩く彼女の様子が少しだけ変わっていることに気がついた。

 なにやら俯いて思案顔。少し考えて声を掛ける。


「ユーリア、どうしたの?」

「………………先に戻ってる」


 クラウスの声に足を止めた彼女は顔を上げて睨むように視線をクラウスへ向けると、返事を待たず再び足を動かす。

 喉まで出掛かった言葉は静止だったかもしれない。けれどあの背中に声を掛けたって彼女は止まらなかっただろう。


「……クラウスさん?」


 フィーナの声に我に返って再度試験結果の模造紙へ視線を走らせる。その中に目当ての名前を見つけて幾つかの思考を重ねて疑問を解決する。


「ごめん、戻ろうか」

「…………? はい」


 瞳に疑問符を浮かべるフィーナに笑いかけて足を出す。変な展開にはならないだろうが、彼女が帰ってきたときのために幾つかの答えを準備するクラウスだった。




 購買に寄ってフィーナの昼食たるクリームパンを買い、教室へ戻るとユーリアの姿を探す。彼女の席の近くに見つけて少しだけ胸を撫で下ろすと近づいて声を掛ける。


「ユーリア」

「……………………」


 声に上がった彼女の顔は顰め顔だった。何か納得のいかないことがあったらしい。


「昼ごはんどうする?」

「食べるわよ」


 語気も気持ち強め。その小さな変化に気付かない振りをしつつ自分の席に着く。少し遅れてパンを持ったユーリアが隣の席から椅子を借りてクラウスの真正面に腰を下した。

 随分と堅苦しく気恥ずかしい位置取りだがこれが試験勉強からこっち、彼女と一緒に昼食をとるときの席の形。あまり話も弾まないのに視線の合うそこに座るのは彼女の性格を表している気がした。


「…………ねぇクラウス」


 食前の挨拶をして弁当に口をつけると珍しく俯いたユーリアが低く唸るような声で問いかける。


「何?」

「本当にアンネから何も聞いてない?」


 ご飯を嚥下して返事をすると続いたのは責めるような語調の言葉だった。

 勤めていつも通りに嘘は言わずに答える。


「聞いてないよ」

「……………………そう」


 強い光を放つ紫色の双眸がクラウスを見つめる。流石に違和感は拭えなかったのだろう。


「ならいい。独り言だから」

「……………………」

「アンネが何か隠してる」


 やはり彼女についての話か、と頭の中で咀嚼しつつ耳を傾ける。

 直接的な物言いは変わらず、時にそれは何物をも拒む鋭い刃として突き出される。


「成績も上がってたし学院でも私に声を掛けて来ない……。それに変な噂も聞くし」

「噂、ですか……?」


 成績が上がっていることはいいことだと思うのだが。そんな事を思っている横で、フィーナはユーリアの言葉に聞き返す。どうやら彼女には聞いていない振りをする、と言うのは苦手分野に入るらしい。


「アンネが学院長と一緒に居たって」


 今度はフィーナの視線が突き刺さる。彼女の疑問に答えるのはユーリアの話に口出しをするわけではないからセーフだろうか。


「この学院の創設者だよ。と言っても初代はもう亡くなってるけど」

「それって、幽れ────」

「二代目よ」


 何処か苛立たしげなユーリアの声にフィーナは肩を撫で下ろす。雷に加え、幽霊も苦手と。そういえば前にバンシーの話をしたときにも同じような反応を見せてたなと思い出す。怖いものは人間も妖精も同じか。バンシーはフィーナと同じ妖精だけど……。


「変なことに首突っ込んでなきゃ良いけど……」


 心配の声が悩ましげに響く。その声音が妙に切迫していて言葉を返しそうになったが、先に席を立った彼女に声を掛けるのは躊躇われた。


「ごちそうさま」


 言って、借りた椅子を元に戻すユーリア。

 流石に聞くだけ聞いてはいそうですかって雰囲気ではないのは分かるけれども。下手な事を言えば今度はユーリアが危険なことに足を踏み込むかもしれない。

 そんな事を考えて少しだけ手を止める。


「……ねぇ、クラウス」


 だから思わずその後に続いた言葉を聞き逃しそうになった。


「勉強で気になることがあったまた聞くから。よろしく」


 それは友達と別れるときの挨拶のようにさらりとしていて。照れも建前もないただの素直な言葉として。

 ユーリアの去る音を聞きながら、彼女の言葉に返事を返すのも忘れて静かに机に伏せる。

 あぁ、こういうの得意じゃないんだ、僕。

 不意打ちと言うか、天然と言うか。全く想像をしていない現象に打たれ弱い。

 いつも思考を巡らせているから、そこから外れたことに対処が遅れる。

 もちろん可能性を並べて幾通りもの対応を想像する事に関しては少しだけ自信はあるが、それでも管轄外と言うものは確かに存在するのだ。


「クラウスさん?」


 異変に気付いたフィーナが顔を覗き込んでくるが、その額を小突いて溜息のように零す。


「……相性悪いなぁ」


 クラウスが思うに、彼女との関係を維持していくのは随分と固い意志が必要そうだ。




 放課後になると部活や帰路に着く生徒の波を逆流して廊下を歩いて行く。肩の上には相変わらず可憐な妖精フィーナが腰を下し、隣にはユーリアとテオが並んでいた。

 すれ違う生徒から向けられる視線に尊敬と忌避が込められていることに気付かない振りをしつつ足を出す。

 片や今日の試験結果発表で堂々と首位に立つテオと、片や実技においては神童とさえ称されるユーリア。その間に挟まれるクラウスは成績が良いだけの眼鏡の生徒。ほんと、浮いていること甚だしい。彼らの視線にも納得ができる。

 けれど二人もクラウスと同じ人間だ。クラウスには少しだけ妖精の血が混じっているけれど、そこに殆ど差異はない。

 少しだけ秀でているかどうかの差。その程度で壊れる関係ならはなから願い下げだと思う。気になるなら努力して埋めればいい。叶わないなら別の得意を伸ばせばいい。

 自分という存在を確立し保てばいい。

 小さな自論を胸に灯して前を向く。

 目を開ければそこは見慣れた景色から一歩引いた傍観者の視点だった。


「それで、昼休みのあれはなんだったの?」


 自分の声が別人のように聞こえ、辺りの雑音を掻き消す。


「あれ?」

「用事があるから残るって」

「……あぁ」


 考える間を空けてテオが答える。


「ま、あまり人に話すことじゃないからな」

「そう」


 幼馴染の言葉に短く答えて話を横に置く。どうやらユーリアがいるところで話す話題ではないらしい。

 そんな二人の様子をユーリアは不思議そうに眺めて口を挟む。


「気にならないの?」

「気にならないといえば嘘になるよ。ただ無理やり聞こうとは思わないかな」


 笑って答えるクラウスにユーリアは呆れたように気をつく。


「よくそれで今まで後悔して来なかったわね」

「してきたよ? もしかすると失敗したことの方が多いかもね。終わった後から効率のいい方法見つけたりとか」


 驚いたように目を見開くユーリア。一体彼女の中でクラウスはどんな人物に変容を遂げているのだろうか。今はそっちのほうが気になる……。


「ただそれは過去だよ。終わったことばかり悔やんでてもしょうがない」

「……よく言うわね」


 ────あんたみたいな後ろばかり気にしてる人って大っ嫌いっ!


 脳裏にユーリアの言葉が残響して少しだけ胸を刺す。

 確かに、前を向き続けるユーリアにとっては理解しがたいかもしれない。けれどその溝もいつかは埋めたいと思うのは間違いだろうか。


「だから言いたくない事を無理に聞くようなことは殆どしないかな。もちろん、何事にも例外はあるけど」

「そういやぁクラウスが感情的になったところって記憶にないな」

「そうかな?」

「そうですよっ」


 テオの言葉と肯定するフィーナの声に自分の記憶を探ってみるが、確かに該当するような出来事は無に等しい。単に自分のことだから忘れているだけかもしれないが。


「特に怒らないよな」

「僕が怒る前にテオが先に怒っちゃうからね」


 茶化すと彼は恥ずかしそうに顔を背ける。どうやらそういう自覚はあったらしい。

 テオはクラウスと比べて随分と攻撃的な性格だ。感情で言葉を紡ぐことがしばしばあるし、怒りに任せて口より先に手が出る性格だろう。そういう面で比較すればクラウスは比較的穏便に事を運ぼうとするから内面の感情が表に出にくいのかもしれない。その割にはよく笑っている気もするけれど。


「それじゃあ一回怒ってみろよ」

「意味もない無茶な振りだね、それ。随分難しい注文だ」

「怒らないで済むならそれで良いんじゃない?」


 少し真剣に悩んでしまったクラウスにユーリアが助け舟を出す。いや、彼女のことだから助け舟だなんて思ってないんだろうけど。

 小さく笑って「そうだね」と答えて会話を弾ませる。いつの間にか彼女の口からテオのことは出なくなっていた。

 そんな他愛もない会話を続けて、いつの間にか生徒会室へと辿り着く。


「どう────」

「っ…………!」


 既に慣れ親しんだ扉に手を掛けて開けると、目の前に一人の男性が立っていて思わずびっくりした。よくよく見ればそれはヴォルフで、何やら焦っている様子。


「っすまない……!」


 驚いて立ち尽くす三人に、ヴォルフは小さくそれだけ言い残して入れ替わりに生徒会室を後にする。

 すれ違う間際に、クラウスの胸元に手に持っていた封筒を押し付けていき、それに視線を取られているうちにヴォルフの姿は廊下を曲がって消えてしまった。


「……何だったんでしょう?」


 疑問を口にしたのはフィーナ。彼女の声にようやく思考を再起動させて顔を室内へと向ける。

 部屋の中には生徒会長ことニーナ女史が難しい顔でこちらを見つめていた。


「どうしたんですか?」

「……読めば分かるわよ」


 とりあえず二人を促して部屋に入るとニーナに尋ねる。彼女は一拍空けて視線でクラウスの手元を示しながら弱く紡いだ。

 どうやら見ても良いらしい。

 一つ呼吸。それから開けられた封筒の中から一枚の紙を取り出して広げる。書かれた文字に目を滑らせてそこに記された内容に思考が音を立てて回り始めた。

 どうやら筆記試験でユーリアに付き合っていたことで少しだけ視界が狭まっていたらしい。情報を求めて言葉が口を突く。


「テオ、ブラキウム先輩の筆記試験の順位は?」

「半分ちょい下」


 随分とぼやけた返答だが、今はそれで十分と判断して再び息を吐く。

 思った以上に事は進んでいたらしい。相談されていたにも拘らず何もしなかったのはクラウスの責任だ。


「……何があったのよ」


 痺れを切らしたユーリアが問う。


「ブラキウム先輩に退学の通達」

「────────!」


 流石にユーリアも言葉を失う。

 テオはといえば考えるように手に額を乗せて顔を伏せている。足が震えているところを見るにどうやら我慢しているらしい。


「会長、先輩が退学ってどう言────」

「こんに……ち…………」


 テオよりも先にユーリアか。そう思考をめぐらせるのと同時、ソファーから立ち上がった彼女がニーナに詰め寄って問い質す。

 それとほぼ同じに、開かれっぱなしだった扉からレベッカが顔を出した。


「────ぇ?」


 小さく漏れたのは否定の言葉になりきらなかった音だろうか。ユーリアが振り返り、レベッカの姿を見つけて肩を震わせる。

 レベッカは静かに部屋の中を見回してそこにいる人を確認すると鞄を放り出して廊下を走り出した。


「待ってっ!!」


 静止の言葉を掛けたユーリアがその足でレベッカを追いかけて廊下にでる。

 生徒会室の空気が動き出したときには二つの足音は既に遠く、上げ損ねたのであろうテオの足は悔しそうに床を踏みしめていた。


「クラウス君……」

「分かってますよ。今はユーリアに任せます」


 重く苦しい空気の中、怖いほどいつも通りに振舞うクラウスは淡々と答える。

 あぁ、この騒ぎを利用しようだなんて酷い事を考える。

 自己嫌悪にもならない感慨を打ち捨てて変わらない調子で声を紡ぐ。


「とりあえず仕事始めましょうか」


 心配そうに視線を彷徨わせる相棒を宥めつつ腰を落ち着けて書類に目を落とし始める。

 やがて、テオもそれに続こうとするが拭いきれなかったか一つだけ疑問を落した。


「……どうして追わなかったんだ?」

「そのほうが都合が良いからだよ」


 聞こえようによっては残酷に聞こえるかもしれない。その卑劣さにユーリアが聞けば怒ったかもしれない。

 けれどここにいた人物はそれぞれに解釈を重ねてどうにか折り合いをつけて納得してくれる。フィーナも、感情流入があったのか息を呑んで糾弾するような視線でクラウスを睨んでいたが、その内小さく溜息を零した。


「会長」

「何……?」


 変わらない声音に何処か怯えたような返事をしたニーナは手を止める。


「今日は覚悟しておいて下さいね」


 勤めて笑顔で言うとニーナの頬が引き攣る。

 恐らくヴォルフとレベッカは戻ってこない。アンネの援軍も期待できない以上、今日の仕事はこれまでよりも大変なものになるだろう。

 いくら投書の数が減っているとはいえ試験期間中のものがまだ残っているのだ。覚悟と言う言葉ではまだ生ぬるいかもしれない。


「…………散々悪魔悪魔って言われてきたあたしだけど、今ほどその称号を他人にあげたいって思ったことはないよ」

「ここに悪魔はいませんよ。ないのは慈悲だけです」


 うわ言の様に呟いて頭を仕事のそれへ切り替えていく。

 既にニーナの唸り声も雑音として処理されて思考の外へ。

 そうして書面の上を流れる視線とは別に、先ほどの一件を考える自分が何処かにいた。

 幾つかの点だった情報が線で結ばれていく。ヴォルフとレベッカの間に存在する溝を少しずつ埋めていく。

 まだ少し曖昧でぼやけた部分はあるけれど、クラウスなりの視点を紡ぎ出す。

 そうして思考を重ねていると、ユーリアが一人戻ってきた。


「おかえり」

「……………………」


 俯いた表情は予想通りのもの。とりあえず書類を差し出しつつ声を掛ける。


「レベッカさんはなんて?」

「…………今日は休むって。後でまた謝りに来るって」

「そう。じゃあ仕方ないね。伝言ありがとう、ユーリア。とりあえず仕事やっちゃおうか」


 責任の在り処を有耶無耶にしつつやるべき事を提示する。

 思考を一旦外したほうがいい。落ち着いてからもう一度。

 小さく頷く仕草に艶やかな黒髪が揺れて表情を隠す。その気持ちは後悔だろうか。いくら偶然とはいえきっとその責任を彼女は感じてしまっている。

 それはユーリア個人の問題で、だからいくら言葉を並べても首を縦には振らない。

 それに後ろを振り返って反省することが悪いことだとは思わない。反省をして、それを次に活かせるのならそれは立派な成長だ。

 彼女はきっとそれに気付く。気付いて全うしようとする。

 何事にも一途で真剣なユーリアだからこそ、クラウスもそうなるだろうと想像する事が出来る。

 クラウスが危惧した彼女は俯いたままではあったが、いつものようにクラウスの隣へ腰を下し書類と格闘し始める。

 大丈夫、まだやり直せる。

 目下の目標を列挙して優先順位をつけ、その思考を一度記憶の奥にしまい込む。

 まずは目の前を見なければ。

 ユーリアに負けないように、早く仕事が終わるように。一歩を踏み出してクラウスもまた書類仕事に埋もれていく。

 その日の委員会が終わったのは陽も殆ど落ちて、青かった空が赤を通り越し薄暗くなり始めてからだった。




 翌日からはヴォルフの姿を校内で見かけることはなくなった。既に退学したというわけではなく、どうやら自主休校らしい。

 その一報に顔を曇らせたのはレベッカで、彼女は委員会に顔を出してはいたが表情は晴れず殆ど俯いていた。

 そんな日が一週間ほど続いたある日ヴォルフが唐突に委員会へと顔を出した。


「あ、先輩…………」


 それは丁度レベッカが校内の見回りに出る時で、扉を開けた目の前にヴォルフの巨体があって、驚いたように彼女の口から声が漏れる。けれどそれは嬉しさから出た響きには聞こえない。

 レベッカが道を開けると一瞬躊躇した様子のヴォルフが足を出す。


「……アルフィルク、少し時間いいか?」

「いいですよ。ユーリア、これお願い」


 ユーリアに書類を手渡すとヴォルフに着いて廊下に出る。

 前を歩くヴォルフは何処か気まずそうに口を閉ざして歩を進めるばかりで事が進展しそうな気配はない。

 意を決して彼の隣に並ぶ。


「どうしました?」

「…………レベッカのことだ」


 小さな違いに少しだけ気になりつつ先を促す。


「君のおかげで彼女との距離はある程度固まった。その点は感謝している」

「僕は殆ど何もしてませんよ」


 ちらりと視線を向けたヴォルフだったが再び前へ向き直る。


「だがそれももう必要なくなりそうだ」

「これですか」


 彼が学院へ来なかったため返す事のなかった封筒を差し出す。ヴォルフは足を止めてそれをじっと見つめて静かに手に取った。


「……気付いてて言わないのか?」

「これがコルヌ家からの書状だってことですか?」


 表情を変えないのは感情を押し殺しているからだろうか。少しだけ邪推して思考を回す。

 無言で肯定するとおり、この退学に関する手紙はコルヌの家からヴォルフに宛てた物だ。力を持っていればなんでも許されるのかと思ってもしまうが、ことはきっとそれほどに単純ではない。

 ヴォルフは元とはいえレベッカの許婚だった。そしてレベッカは今でもヴォルフに好意を持っている。

 恐らくそのことにコルヌの家はいい顔をしなかったのだろう。

 その理由にはヴォルフとレベッカの許婚が解消された根本的な事が関わっているように思う。

 そうでなければ直接ヴォルフに手紙を寄越したりしないはずだ。

 ではその問題とは何か。幾つか推論が浮かぶがどれもヴォルフとレベッカの身の上に関わる事だらけだ。想像の中でさえ、好きに書き換えていい事ではない。

 また、その理由はヴォルフにとって強制力のようなものを働かせているのだろう。

 彼と彼の家族にとって学院を辞めることは不利益にしか繋がらない。けれどそれを断らないのはそうできない理由があるからだ。更に言えば意見を言うことでレベッカにその被害が及ぶのなら、彼はそれを避けるはず。だから下手に行動ができない。

 時間のあったこの一週間で考えたことと、これまで起こった事を重ねていく。

 それでもまだ全容が知れないのは、恐らくヴォルフがまだ何かを隠しているからか。


「知ったところで僕個人にはどうこう出来ませんよ。学生の戯言に発言力なんてありませんから」


 分を弁えているといえば格好がつくかもしれないが、クラウスのそれは単に保身に走っているだけだ。

 下手に口を出せば今度はクラウスにだってその矛先が向くかもしれない。

 ヴォルフはレベッカの許婚だった。レベッカは資産家の娘で、それと吊り合うと言うことは彼もまた何かしらの後ろ盾があるということ。

 そんなヴォルフを退学させることとクラウス一人など歯牙に掛からないほどの差があることだろう。

 クラウスには野望がある。だからこそ危険は最小限に抑えなければならない。

 自分の身を危険に晒して友や囚われの姫を救う英雄に、クラウスはなれない。


「大変なことに巻き込んで悪かった」

「それを良しとしたのは僕です。先輩に何の責任もありませんから」


 ────よくそれで今まで後悔して来なかったわね


 ユーリアの言葉が脳裏に閃いて胸を突く。

 その通りだろう。またこうして一歩引けばここで足を出さなかったことに後悔をする。

 無愛想だけれど芯の強い優しい先輩を見捨てたと一人苛む。

 けれどやはり、どうしても一歩が踏み出せない。


「……来れない間に話をつけて、この学期中は在籍できる許可を貰った」

「委員会はどうしますか?」


 とても事務的で冷酷な響きが紡がれる。

 言いたいことと口から出る言葉には随分と隔たりが存在する。


「できるところまではやらせてもらう。ただ今までのようには難しい」

「レベッカさんがいるから、ですね」


 頷くヴォルフの瞳を覗き込む。薄墨色のくすんだ瞳。クラウスと似たその目は、けれどクラウスにはない力を秘めていた。


「あと、彼女との事もなかった事にしてくれて構わない」


 そうしてついでのように放たれた言葉に少しだけ胸の内が悲しくなる。


「…………戻ろう。ニーナ達が心配する」

「はい」


 顔を背けたヴォルフの後ろに着いて歩き出す。肩上のフィーナはクラウスの髪を掴んで悔しそうに唇を噛み締めていた。

 生徒会室に戻ると、テオが何かしてくれたのか出てくる前の空気は随分と和らいでいた。見回して、そこにレベッカの姿がないことに気付く。


「レベッカさんは?」

「一人で見回りに行った」


 幼馴染の言葉を耳に聞きつつソファーに腰を下す。すれ違わなかったということは彼女なりに何か思うところがあったのだろうか。

 テオが連れ出されなかったと言うのは珍しいなと思う。こういう場合第一の相談相手である彼が振り回されるものだと思っていたが……それともテオが断ったのだろうか?

 彼が背負っているのはレベッカの信頼だ。事あるごとに相談に乗るテオはレベッカにとっての心の拠り所でもある。その独占欲のような信頼に、テオの方は少し疲れを見せてはいたがそれが頂点に達したのだろうか。

 気付きづらい小さな変化に少しだけ思考を費やしてそれから顔を上げるとヴォルフが入り口のところから動かないまま室内を見渡していた。


「……今まで黙って休んでいて悪かった。この学期中、できることはやらせてもらう」


 短い言葉にユーリアが息を呑む。拳を作った手のひらに痛いほど力がこもっていて、思わずその手を解いてあげたくなった。

 流れた静寂を断ち切ってニーナが声を出す。


「仕事溜まってるから早く取り掛かって」


 尖った言葉はヴォルフに目の前の目標を提示する。いつもと変わらず、けれど少しだけ不満そうにそう言ったニーナは、自分の手元に視線を落しつつ仕事へと戻っていく。

 その内、ぎこちなく回り始めた空気に巡回から戻ってきたレベッカが加わって、久しぶりに六人揃って委員会を行った。

 その中で、ヴォルフを心配そうに見つめるレベッカと、彼の周りでいつも通り振舞おうとするクリスと幾度か視線がぶつかった。

 委員会が終わり、片づけをして帰ろうとしたところでレベッカに引き止められた。

 やはりこのまま帰るわけには行かなさそうだ。覚悟の上で彼女の声に頷くと鍵を預かって生徒会室に残る。


「それで、どうしたの?」

「先輩の事でお話が…………」


 声になった主題に思考を切り替える。

 それとほぼ同時、部屋の扉が開かれてそちらに視線をやる。そこに立っていたのは人化の術を使って人間と同じサイズに大きくなったクリスだった。


「同席いいですか?」


 言葉の裏に強制力をちらつかせながらクリスが言う。少しだけ考えて頷くとソファーへと促した。


「クリスさんもブラキウム先輩のこと?」

「クリスでいいですよ、クラウス様」


 様付けに呼び捨てで返すのは吊り合ってない気もするのだが……彼女が望むのだからいいとしようか。


「…………こういう事をアタシの口から言うと不信感を抱かれるかも知れませんけど、ご主人様を助けていただけませんか?」


 いつもはハニーと呼んで楽しそうに言葉を紡ぐ彼女が畏まった表情でクラウスの瞳を覗き込む。

 不信感。確かにそれに近い感情をクラウスは抱くかもしれない。

 通常、契約妖精は主人となる妖精従きの意見を尊重する。だからクリスのようにヴォルフの意向に背くような真似はあまりない。あっても、それを他人に頼ったりしない。

 妖精とは良くも悪くも素直で、だからこそ芽生えた疑念や問題は当人の間でのみ口を交わされる。

 けれどそんな視点、クラウスにとっては些細なことだ。行動に理由が欲しければいくらでも考えてあげられる。彼女の行動を正当化してあげられる。

 クリスはハーフィーだ。人間の血が混じるから、純粋な妖精と比べてはいけない。

 そんなどうでもいい建前を掲げて口を開く。


「それは、ブラキウム先輩が心の奥で退学を拒んでいるって事?」

「わかんない……。けど、納得はしてないと思う」


 俯く仕草にキャラメル色の二つ結びが揺れる。


「なんか、こう、胸の中がもやもやするの。視界がぐらぐら揺れて足元が崩れそうになるの」


 妖精従きの感情は契約妖精へと流れ込む。喜怒哀楽の激しいものが表面化し、言葉にならない感情として体の内に異物のように蟠る。

 そういう状態が重なって体調を崩す契約妖精もいるほどだ。その初期状態のようなものがクリスを襲っているのだろう。

 その源泉はヴォルフだ。彼が何かに悩んでいるからそのせいでクリスが不安定になる。


「それはご主人様が悩んでるから……。だからお願い、ご主人様を助けて!」

「わたくしからもお願いしますっ」


 食い気味に重なった声はレベッカのもの。


「わたくしひとりでは何もできません。コルヌもまだ名前だけで、いい案も思いつきません……」


 悲愴に暮れるような沈痛な面持ちで言葉を搾り出すレベッカの声にクラウスの胸が疼く。


「だからお力を貸していただけませんか?」


 レベッカは黒橡(くろつるばみ)色の瞳でクラウスを射抜く。

 交換条件を提示しないのはそれほど追い詰められているからか。それともクラウスの返答を試しているのか。

 どんな状況下であれクラウスに真正面から向き合おうとしない、そんな強かな姿勢に少しだけ好感触を抱いて思考を回転させ始める。

 恐らくどんな結末になろうとも最後は感情論だろう。なぜなら行動の全ては感情によって左右されるのだから。

 その感情一つ一つに理由をつけようとするのがクラウスの考え方。 

 何故そんな行動をしたのか。どうしてそんな感情を抱いたのか。

 そこを理解すれば自ずと答えを導き出せる。だからこそ、物事を客観的に見る必要性がある。

 そこから派生してクラウスは感情論を否定するようになったのだろうか、と少しだけ邪推。

 なんであれ、彼女たちの話は理解できる。けれどそれに身を入れてクラウスがその登場人物になってしまってはいけないのだ。今回の主格はレベッカたちなのだ。クラウスは登場人物であっても助言者でしかない。

 一歩引いて、全てを俯瞰した位置から正しい答えを導き出す。

 ヴォルフ、レベッカ、クリス……。話の中心に居るであろう登場人物の心境をそれぞれの視点になって考えてみる。

 これは文学ではない。主人公だけに肩入れをしてはいけない。飽くまで平等に。時に冷酷に判断を下す。

 読み手の視点を崩さないまま、そこにクラウスとは別の、クラウスと同じ役割を持つ駒を置く。

 どう動けばいいか。どう動かせばいいか。

 宛ら盤上遊戯の指し手のように冷静に事を見下ろす。


「…………こういうのあまり得意じゃないんだけどね」


 明確な敵はいない。悪事もない。それぞれが正義を掲げて、正しい行いを施行しようとしている。

 けれど結果に歪みを見せて、何かが崩れようとしている。

 どこがずれているのか。どこを正せば元に近い形になるのか。それとも一度壊して再構築するほうがいいのか。

 色々な角度から検証して足りない情報をいくつもの想像で補う。


「些細なことでいいんだけど、何かないかな? ……曖昧な聞き方でごめん」

「……レベッカさんの家…………?」


 ぼやけた盤上を見下ろして呟くと、それまで肩上で静かにしていたフィーナが補足のように零した。

 あぁ、そうか。全体を見ているからその矛盾が見えてこないんだ。

 もっと一点に。何故を沢山抱えた一点に焦点を合わせる。


「そうだね。レベッカさん、家で何か変わったことはなかったかな? 言いたくない事、言えない事は省いてもらってもいいから」

「……………………手紙」

「手紙、ですか?」


 フィーナの声にレベッカが頷く。


「手紙が沢山、あるかも。この頃特に増えた気がします」

「ふむ……」


 手紙が増えた。それはすなわち外との交流が盛んになったということだろう。もっと言えば手紙でやり取りをしているとも。

 裏を返せば直接会って話ができない相手との交信。その相手は身分の高い人なのか、それともコルヌ家の個人的な付き合いなのか。

 新たな情報が増えてそれが今までの登場人物とくっついては離れる。


「クリス、ブラキウム先輩が手紙を出すことは?」

「この頃は特にはないと思う」

「レベッカさん宛の手紙は?」

「友達、とかなら沢山ありますけど……」


 可能性を確かめてはその繋がりを排除していく。その中で不意に一つ新しい登場人物が姿を表して思考を止めた。


「ブラキウム先輩の家族について何か知ってる?」

「両親健在、一人っ子」


 答えたのはクリス。彼女の言葉に声を返しつつ脳内の盤上に新たな駒を追加する。


「他は?」

「うぅーーーんとぉ…………。ごめん、何もないかも。あまり家族のこと話さないし」

「そう」


 まぁ少しでも収穫があった事を良しとしよう。そう考えて頭を切り替えようとしたところで、別角度から声が上がった。


「わたくしのこと……は、何も話しませんよね…………」


 呟きのようなそれはレベッカの口から。彼女は寂しそうに言って顔を伏せる。


「……後輩とか妹みたいとは言ってたけど、あんまりそういうことは聞いたことないかなぁ」

「それ余計駄目になるじゃないですかっ」


 それはヴォルフに対するやりきれなさなのだろうか。何処か楽しそうに叫ぶレベッカに小さく笑う。

 唸るレベッカは少し気の毒に思うが、そう悩むほどに彼女はヴォルフの事を慕っているのだろう。けれど恐らくそれが原因でヴォルフの退学話まで事が発展した。

 ……やはり何か一つ足りない気がする。その鍵を持っているのはヴォルフだろうか。

 けれど彼に話を聞くのは難しい。レベッカにヴォルフとの接触を控えるようにと言っても現状を覆すには足りない。


「…………とりあえず、現状を維持したまま解決策を探すしかないかな」

「頭が破裂しそうです……」


 フィーナが呻いてレベッカが小さく笑う。

 今は事を大きくしないようにする他ない。停滞した思考を一旦横へやって視線を窓へと移す。

 既に暗くなり始めた空を見やって区切りをつけた。


「今日はここまでにしよう。また何かあったらその時に」

「そうですね」

「アタシも何かないか探してみる」

「危ないことは駄目だよ?」


 愛嬌と共に片眼を閉じるクリスに忠告の意味を探して息を零す。

 生徒会室を出て校門までレベッカを見送るとそこでクリスとも分かれる。

 見上げた空には小さく星が輝いていた。




              *   *   *




 あの先輩ならわたくしの求めている解決策を出してくれると思っていたのに。

 期待はずれと言うか、随分と臆病な人だった。

 困っている人のためなら危険な事もする人だと知っているのに。今回は慎重に行動しているように思う。

 それとも何かに迷っているのだろうか。……よくは分からないけどそんな気もする。

 まるで答えを出す事を避けているような言い回しをしていた。

 何かわたくしの知らない事があるのだろうか。そう思うと不安にもなる。

 けれど不安なのはそれだけではない。

 先輩。ブラキウム先輩。わたくしの慕う寡黙で格好のいい先輩。

 貴方が学院を去ってしまう事がとても心苦しい。

 一緒にいられる時間が減って、顔を合わせることもなくなるかもしれない。そんなのは耐えられない。

 先輩が退学すればあの契約妖精も一緒にいなくなる。

 今日は少しだけ彼女の考えている事を知る事ができたけれど、それは単に利害が一致しただけだ。

 先輩がここを出て行くのが嫌だから。もっと一緒にここでの時間を過ごしたいから。

 だからあのいけ好かない眼鏡の先輩に声を掛けたのに。

 間違いだったのだろうか。見当違いだったのだろうか。

 あの先輩ならどうにか解決してくれると思ったのに……。

 だったら、もういい。

 わたくしはわたくしなりのやり方で先輩の退学をなかったことにする。

 あの先輩は無茶な事をするなと言ったけれどそれはあの先輩にとって都合が悪いからだ。

 だったら、頼らないのならもう従うという選択肢はいらない。彼の手のひらの上で踊る必要性はない。

 歪んだ真実を元に戻して、またいつも通りの日常を全うする。

 そうして変わらない時間が来たらその時もう一度聞いてみよう。

 本当に駄目なのか。望みはないのか。

 もしそれで駄目なら諦める。けれど少しでも可能性があるならばもう迷わない。

 全部やり直して、もう一度最初から歩き始めるんだ。

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