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アスタリア大商会起業編 ~無知な母国を置き去りに、極寒の死地を熱で満たします~  作者: IORI


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92/99

第92話:200 Miの先へ、命と大地を育てる未来

星環暦(せいかんれき)1285年・白耀月(はくようげつ)≪第2月≫30日・闇曜(あんよう)――

アスタリア大商会本部・工事管理室。

午前6時30分。

ディートリヒ・ハーゲンは、前日までに届いた施工報告を一つずつ確認していた。

アスタリアからヴァルモント公爵領へ向かう《魔導熱伝導路》の総施工距離は、196.95 Mi(ミーレ/196.95km)。

第1期は100.00 Mi。

第2期は89.30 Mi。

第3期は7.65 Mi。

全300.00 Miのうち、残る施工距離は103.05 Miだった。

担当職員の一人が、進捗表を見ながら声を弾ませる。

「あと少しで200 Miですね、事業部長」

「ああ。よくここまで来たな」

ディートリヒも、ほんの少し表情を緩めた。

「今日と明日が計画どおりなら、届きそうです」

「だが、節目を迎えるために急ぐ必要はない」

職員が姿勢を正す。

「今日も正確に造り、正確に記録する。それが一番大切だ」

第17工区から第20工区では、施工第6部隊(C06)、施工第7部隊(C07)、施工第8部隊(C08)、施工第10部隊(C10)が工事を続ける。

第21工区から第25工区では、施工第1部隊(C01)、施工第5部隊(C05)、施工第9部隊(C09)、施工第2部隊(C02)、施工第3部隊(C03)が施工を進めている。

施工第4部隊(C04)は第26工区へ転進しており、まだ新しい施工距離を計上する段階ではない。

天候が同じでも、地盤も工程も部隊ごとに違う。

施工距離をそろえるために、安全や品質を削ることはしなかった。

◇

同日午前7時30分――

アスタリア大商会・製造・倉庫管理区画。

各施工現場へ送る資材の朝次確認が行われていた。

《魔導熱伝導路》本体。

接続部材。

支持部材。

保護用品。

《魔導流体》。

制御装置。

品質検査用品。

倉庫担当者は、同じ品目でも状態ごとに記録を分けている。

現物在庫。

品質受入待ち。

工区への引当済み。

配送中。

現場到着済み。

未使用。

使用済み。

「第26工区向け資材は?」

「必要数量と納品状況を照合中です」

「C04が現地へ着いたからといって、全部出庫する必要はないぞ」

「はい。正式な着工条件と工程に合わせます」

製造できること。

倉庫にあること。

現場へ送ったこと。

現場で使ったこと。

それぞれは別の事実だった。

長大な工事だからこそ、どこに何があるのかを曖昧にはできない。

◇

同日午前8時30分――

第16工区。

メンテナンス第16部隊(M16)の受入準備が続いていた。

M16は保守員6名と同行料理人1名の計7名。

勤務開始日は、既存設定どおり白耀月4日である。

第16工区へ向けて派遣された日や、現地へ到着した日を、新しい勤務開始日に置き換えることはしない。

班員たちは、完成図面、各センサーの固有ID、《魔導流体》の管理記録、遮断機構、通信設備、保守工具、予備部材を確認する。

同行料理人は、食料と厨房用品、防寒用品を確認していた。

「施工班の仕事は終わったんですよね」

一人の保守員が、完成した設備を見ながら言った。

班長が頷く。

「施工はな」

「ここからは、私たちですか」

「ああ。完成した設備ほど、日々の小さな変化を見逃さないことが大切になる」

造り終えた瞬間から、設備は長い運用期間へ入っていく。

施工の終わりは、保守の始まりでもあった。

◇

同日午前10時――

アスタリア・都市管理部門。

白耀月末の都市統計がまとまった。

人口2,750人。

前月末比、110人増。

世帯数860世帯。

前月末比、38世帯増。

小売商店42店舗。

その他商業施設30施設。

商業施設全体では72施設となった。

職員の一人が、報告書から窓の外へ視線を移した。

通りでは、新しい商店が商品を棚へ並べている。

住民が買い物をし、荷車が商品や生活用品を運んでいた。

新しく移り住んだ家族が、住居へ荷物を運び込む姿も見える。

「数字では110人ですけれど、街を歩くと、もっと変わったように感じますね」

隣の職員が頷いた。

「人が増えると、街の音まで変わりますから」

人口増加のすべてが、大商会一社の成果というわけではない。

仕事を求めて来た者。

家族と暮らすために来た者。

商売の機会を見つけた者。

理由はそれぞれ違う。

それでも、この土地で暮らそうとする人が増えていることは確かだった。

◇

同日午前11時30分――

アスタリア大商会・熱供給事業部。

白耀月分の熱使用料金について、月末締めの照合作業が進められていた。

対象期間は白耀月1日から30日。

通常の支払期限は、翌芽風月15日。

創光月分の旧料金は、白耀月15日に徴収を終えている。

今回締めるのは、それとは別の白耀月使用分だ。

新料金の施行日。

契約ごとの適用条件。

検針値。

使用量。

減免。

未収。

一件ずつ確認する。

「白耀月末の世帯数は860です」

担当者が言う。

「だが、860世帯をそのまま契約者数には使わないでくれ」

ディートリヒが答えた。

「商業施設72施設も同じですね」

「ああ。街の統計と、熱供給契約の台帳は別だ」

請求総額は、この時点ではまだ確定しない。

月末を迎えたことと、料金計算が終わったことも、入金されたことも別だった。

◇

同日午後1時――

アスタリア大商会本部・大会議室。

農業。

牧畜。

医療治癒。

医療専門教育。

4つの新事業について、各部門が資料を持ち寄った。

アルノルト・フェルナーが最初に口を開く。

「どの事業も必要性は理解しています」

マレーネ・クルーガーが頷く。

「ですが、実証できるということと、本格投資を決定できるということは別です」

「ええ」

マレーネが農業の資料を開いた。

「農業では、まず土、水、熱、作物、保存、物流を確認します」

牧畜担当者も続ける。

「牧畜は家畜、飼料、水、畜舎、防疫、繁殖、販売まで確認が必要です」

医療治癒事業では、3つの病院をどう整備するか。

教育では、5課程、教員、施設、実習、奨学金、継続財源をどう成立させるか。

アルノルトは全員を見回した。

「必要だからといって、一度に全部を発注するわけにはいきません」

「実証で確かめるべきことから進めましょう」

マレーネが答える。

「その結果を見て、次の資金を判断する」

「それが確実です」

計画を進めるための会議でありながら、そこでは「今はまだ進めないこと」も決めていく。

それも経営判断の一つだった。

◇

同日午後3時――

総務財務部。

白耀月勤務分の給与締めが始まった。

施工部隊。

保守部隊。

同行料理人。

治癒魔法士。

土系魔法士。

本部職員。

製造・倉庫・物流職員。

各人の入社日、勤務時間、契約、給与等級、休暇、欠勤、派遣、転進、兼務、前払、未払を確認する。

特に施工部隊は、旧工区契約から新給与制度へ切り替わった日が班ごとに違う。

同じ30日間を、一律の給与で処理することはできない。

「創光月の給与総額を、そのまま今月へ使わないようにしてください」

アルノルトが言った。

「白耀月分は白耀月分の勤怠から計算します」

「承知しました」

仕入や工事の支払予定についても、納品、検収、請求が成立していないものを自動的に翌月5日の支払対象には入れない。

月末締めとは、数字を作る日ではない。

今月までに何が成立したのかを確かめる日だった。

◇

同日午後4時30分――

設備保守課。

第3期後半研修74名について、白耀月17日から30日までの施設内研修記録が整理されていた。

第3期から進んだ66名。

第2期から再履修している8名。

合計74名。

同時に、第4期前半研修では、新規56名と再履修4名の計60名について進度を確認する。

ただし、研修期間を終えたことと、資格試験へ合格したことは違う。

「74名全員を合格扱いにはしないでください」

担当者が確認する。

「もちろんです。試験記録と進級審査が必要です」

研修生は、正式に資格を得るまで各メンテナンス部隊の正式要員数には加えない。

人材育成も、工事と同じだった。

段階を飛ばさない。

◇

同日午後6時――

工事管理室。

当日の施工報告がまとまった。

第2期、+1.00 Mi。

第3期、+1.05 Mi。

合計、+2.05 Mi。

公爵領向け熱路の総施工距離は199.00 Miとなった。

担当職員が小さく息を吐く。

「残り1.00 Miですね」

ディートリヒは頷いた。

「明日も同じだ」

「はい」

「200 Miのために仕事を変えるな。今日までと同じようにやればいい」

◇

同日午後7時――

王都セレスティア・王宮。

シェリィは、マーガレットへ月末報告の一部を話していた。

「お母様。もうすぐ《魔導熱伝導路》が200 Miになるのです」

「まあ、そんなに長くなったのね」

「はい」

シェリィは嬉しそうに笑う。

「ですが、まだ全ての設備が完成したわけではありません」

「それでも、ここまで頑張った皆さんをたくさん褒めてあげなくてはいけませんね」

シェリィは少し目を丸くした。

それから、柔らかく笑った。

「はい。明日の報告が楽しみです」

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・芽風月(めかぜげつ)≪第3月≫1日・光曜(こうよう)――

アスタリア大商会本部。

午前6時。

新しい月が始まった。

だが、月が変わっても、白耀月末の未払金や在庫、未検収品、未完了契約が消えるわけではない。

前月の残高を芽風月へ引き継ぐ。

存在している在庫を、月が変わったからという理由でもう一度増やすこともしない。

売上も、債務も同じだった。

日付が変わっただけで、新しい取引が生まれるわけではない。

◇

同日午前6時30分――

アスタリア大商会・会計監査部。

ヴァルター・シュタインベルク(会計監査部長)の前には、管理番号の付いた容器と帳簿が並べられていた。

対象は《アスタリア企業群》を構成する10商会。

芽風月分の魔力調整インクを交付する。

白耀月分を回収する。

特殊印章用インクを芽風月用へ切り替え、前月分を回収して封印する。

指定帳簿と帳票を交付する。

指定筆記具の固有番号と保管者を確認する。

予備ペン先を補充し、使用済みペン先を回収する。

管理容器のシリアル番号、残量、破損、封印状態を照合する。

職員が交付記録を差し出した。

「部長、芽風月分の配布容器の確認が終わりました」

「前月分の回収は?」

「容器番号と残量を照合中です」

「よろしい」

ヴァルターは記録を確認した。

「配るだけでは終わりませんよ。回収と管理までが、私たちの仕事です」

「はい」

配送と回収は、既存契約に基づいてラインフェルト運輸商会と連携する。

企業群の各商会は独立している。

だからこそ、管理用品の受渡しにも正式な記録を残していた。

◇

同日午前7時30分――

回収品の照合作業。

インク。

容器。

帳票。

指定筆記具。

交換ペン先。

数量や番号が一致しないものがあれば、理由を推測して帳尻を合わせることはしない。

調査対象として分ける。

会計監査部専属警備班長ラインハルト・フォーゲルも、封印物の搬送記録を確認していた。

警備班は物理的な保管と搬送を守る。

監査結果そのものは監査員が判断する。

監査員も、一人で重要な証拠物を自由に移動させない。

仕事を分けることで、一人の判断だけでは記録を変えにくくする。

今月も不正事件が起きたわけではない。

それでも続ける。

何も起きない状態を守ることも、信用を守る仕事だった。

◇

同日午前8時30分――

会計監査部では、すでに翌翔風月分の管理用品について必要数量の調査が始まった。

芽風月分の交付数。

白耀月分の使用数。

交換数。

残存在庫。

予備在庫。

配送予定。

「不足見込みが出たら、すぐ発注しますか?」

若い職員が尋ねる。

ヴァルターは首を横へ振った。

「既存在庫と、すでに注文している分を先に確認してください」

「はい」

「必要だと分かったことと、発注したことは別です」

◇

同日午前9時30分――

総務財務部。

経理担当者は、独自小切手制度の月次報告をまとめていた。

報告先は王都セレスティア商業ギルド組合本部。

発行済み小切手帳の冊数。

未使用冊数。

有効小切手番号。

白耀月の振出総額。

決済済額。

未決済残高。

不渡りの有無。

保証金。

準備金。

手数料。

月額組合費。

一つずつ記録を照合する。

小切手制度の会計処理を行う者と、それを後から監査する者は分ける。

大商会が大きくなるほど、「信用しているから確認しない」という運営はできなくなる。

人を疑うためではない。

正しく仕事をした人が、その正しさを証明できる仕組みを残すためだった。

◇

同日午前10時30分――

設備保守課。

第3期後半研修74名の修了状況と、第4期前半研修60名の進度が月初の管理資料へ引き継がれた。

「74名全員が進級したわけではありません」

担当者が確認する。

「試験結果が必要ですね」

「はい。合格者だけを次の段階へ進めます」

不合格者が出れば、既存制度に従って再履修や再受験へ進む。

結果がまだない者を、都合よく合格者にはしない。

◇

同日午前11時30分――

各施工現場。

本部で監査用品の番号が読み上げられている頃、雪原では施工員が路体の接続位置を測っていた。

前日までの総施工距離は199.00 Mi。

200 Miまで、あと1.00 Mi。

だが、現場では特別な作業をしているわけではない。

測量する。

掘削する。

支持部を整える。

路体を敷設する。

接続部を確認する。

施工記録を残す。

昨日と同じ仕事を、今日も続けていた。

◇

同日午後3時――

工事管理室。

各工区から届いた報告を、担当職員が集計していた。

一度計算する。

前日の累計と合わせる。

もう一度確認する。

その表情が変わった。

「事業部長!」

室内の視線が集まる。

「総施工距離が200 Miを超えました!」

一瞬の静寂。

次の瞬間、職員たちから歓声が上がった。

ディートリヒは報告書を受け取る。

複数の工区が同時に施工していたため、200 Miを越えた正確な瞬間を特定することはできない。

だが、集計された施工実績は、確かに200 Miを上回っていた。

ディートリヒは数字を見つめた。

「……そうか」

静かに息を吐く。

「とうとう、ここまで来たのか」

「はい!」

職員の顔にも笑みが広がる。

「全300 Miの3分の2を超えました」

「ああ」

ディートリヒも笑った。

「皆によく頑張ってくれたと伝えてくれ」

「はい!」

「施工班だけじゃない。製造、倉庫、物流、品質保証、保守。皆の仕事がつながった結果だ」

喜びが広がる。

それを少しだけ見守ってから、ディートリヒは続けた。

「ただし、200 Miすべてを通熱運用できるわけじゃない」

職員たちの表情が引き締まる。

「施工が進んだことと、検査が終わったことは違う。通熱したこととも、保守へ引き継いだこととも違う」

「はい」

「200 Miを越えた。だからこそ、ここからも同じ手順で進めよう」

この日の最終集計では、公爵領向け熱路の総施工距離は201.05 Miとなった。

◇

同日午後4時――

アスタリア大商会・技術研究部。

エルマー・ザイデル(技術研究部長)は、200 Mi突破の報告を受けながら、検収済み区間の運転資料を確認していた。

熱源設備。

《熱継送所》。

《熱制御口》。

安全遮断。

《魔導流体》の品質。

通信。

運転記録。

「施工距離と、連続通熱距離は別です」

若い技術者が頷く。

第11工区を含む110 Miの通熱については、既存の物語上の運用設定がある。

一方、統合管理上の検証済み基準は100.00 Miのまま、運転証憑との照合が続いていた。

「施工が200 Miを超えたからといって、通熱距離を200 Miに書き換えてはいけません」

「はい」

「検査も制御も、継送も、安全確認も必要です」

施工の速さに、運用側が数字だけを合わせる必要はない。

◇

同日午後6時――

王都セレスティア。

シェリィのもとへ、2つの報告が届いた。

一つは、月初恒例の監査用品の交付・回収と、小切手制度の月次報告。

もう一つは、《魔導熱伝導路》の200 Mi突破だった。

業務用魔導通信がつながる。

『会長。公爵領へ向かう熱伝導路について、ご報告いたします』

「はい、ディートリヒ。お願いします」

『本日の集計で、総施工距離が200 Miを突破しました』

「……本当ですか!」

シェリィの顔に、喜びが広がった。

「200 Mi……」

『はい』

「皆さん、本当にありがとうございます」

シェリィは、ゆっくりと言葉を続ける。

「施工員の皆さんだけではなく、製造、倉庫、物流、品質保証、保守を担当してくださっている皆さんにも、私からのお礼をお伝えください」

『必ず』

「そして、これからも安全を第一にお願いします」

『承知しました』

通信を終えたシェリィは、月初業務の報告書にも目を通した。

一方では、200 Miという大きな成果を生み出す仕事がある。

もう一方では、容器番号や小切手番号を毎月確かめる仕事がある。

「大きな成果を生み出してくださる皆さんも、それを支える仕組みを守ってくださる皆さんも、私には同じくらい大切です」

シェリィは静かに呟いた。

◇

同日午後8時――

王宮。

マーガレットは、娘の表情を見ただけで何かあったと気づいた。

「届いたのね?」

「はい、お母様」

シェリィは満面の笑顔を見せた。

「200 Miを超えました」

「まあ!」

マーガレットも嬉しそうに笑う。

「シェリィ、本当におめでとう」

「ありがとうございます。でも、頑張ってくださったのは皆さんです」

「ええ」

マーガレットは頷く。

「だからこそ、皆さんと一緒に喜んでいいのですよ」

シェリィは少し照れたように笑った。

「はい」

大きな成果を自分だけのものにはしない。

けれど、自分まで喜んではいけないわけでもない。

その夜、シェリィは遠く離れた雪原で働く人々と、同じ喜びを分け合った。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・芽風月(めかぜげつ)≪第3月≫2日・火曜(かよう)――

第26工区(第3期・第6工区)。

午前6時30分。

施工第4部隊(C04)は、着工前の最終確認を行っていた。

現地到着記録。

測量結果。

施工ルート。

埋設位置。

地盤。

凍結。

障害物。

資材。

工具。

施工機器。

業務用魔導通信。

作業区域。

宿営。

緊急対応。

そして、担当区域の医療支援。

部隊長は測量図を見ながら言った。

「前の工区で覚えたことは役に立つ。だが、この土地は初めてだ」

「まず、地盤と施工位置の確認ですね」

「ああ。慣れてきた時こそ、基本を大切にしよう」

必要な条件が一つずつ確認される。

午前7時30分。

第26工区の正式着工が承認された。

◇

同日午前8時――

第26工区。

最初の施工が始まった。

掘削。

基礎。

路体の配置。

支持。

固定。

接続。

保護。

施工する《魔導熱伝導路》本体だけではなく、工区条件に応じて必要となる各種施工部材も確認する。

最初の施工距離は0.10 Mi。

第26工区に、初めて熱路が形を現した。

だが、敷設だけで工区が完成したわけではない。

《魔導流体》の封入。

制御設備。

《熱継送所》。

通信設備。

検査。

通熱。

検収。

その先にも、多くの工程が残っている。

◇

同日午前9時――

第26工区・医療支援区画。

マティアス・リンデックは、治療用品と緊急搬送用の装備を確認していた。

治癒魔法士H06。

担当区域は第26工区から第30工区。

既存の人事規則では、担当区域で最初に工事が正式着工した日を入社日とする。

第26工区は今日、正式に着工した。

そのため、マティアスの入社日は芽風月2日として確定する。

給与等級は、既存の治癒魔法士基準であるG6。

月額基本給与は金貨16枚。

ただし、実際の支給額は入社日と勤務記録に基づいて計算する。

「施工班の配置は確認できていますか?」

「はい」

「搬送経路は?」

「確保しています」

「分かりました」

治癒魔法士がいるから、危険な作業をしてよいわけではない。

事故を防ぐのが先。

そのうえで、万一に備える。

それが現場医療の役割だった。

◇

同日午前10時――

第16工区。

新しい工区でC04が施工を始めた頃、M16は完成済み設備の受入を進めていた。

完成図面。

検査記録。

温度センサー。

魔力センサー。

《魔導流体》の管理記録。

遮断設備。

予備部材。

班員たちは、資料と現物を照合する。

同行料理人は、基地の厨房と食料保管場所を確認していた。

造る者は第26工区へ進んだ。

守る者は第16工区へ残る。

離れた2つの工区で、同じ長距離熱路を支える仕事が同時に始まっていた。

◇

同日午後1時――

アスタリア市街地から約10 Mi離れた農業実証区画。

マレーネたちは、凍った土地の調査を始めていた。

ここは、熱伝導技術の研究施設とは別の場所だ。

そして、アスタリアには川がない。

そのため、近くの川から農業用水を引くという方法は使えない。

土壌。

地盤。

凍結。

日照。

水の確保。

給熱。

資材輸送。

必要な労働力。

担当者が地面を調べながら言う。

「熱が使えれば、この土地でも育てられる作物が増えるかもしれません」

「ええ」

マレーネが答える。

「でも、水がなければ始められませんね」

「そのとおりです」

井戸。

貯水。

雪解け水の利用。

どれも検討候補にすぎない。

まだ利用可能な水源を見つけたわけではない。

「土と水と熱。そのどれもが必要です」

マレーネは調査記録へ目を落とした。

「何を育てるかを決める前に、ここで何ができるのかを確かめましょう」

◇

同日午後3時――

技術研究部。

エルマーたちは、農業実証区画へ魔導熱を供給する方法を検討していた。

必要熱量。

熱損失。

給熱経路。

制御。

遮断。

監視。

安全。

維持費。

研究施設に熱伝導技術の原点があることと、約10 Mi離れた実証区画へすでに熱供給できることは別だ。

「まず、必要な熱量と設備規模を出しましょう」

エルマーが言う。

「既存技術が使えるとしても、必要以上に大きな設備を造る理由はありません」

技術があるから使うのではない。

必要な場所へ、必要な規模で使う。

その考え方は、《魔導熱伝導路》を造ってきた時と同じだった。

◇

同日午後5時――

工事管理室と総務財務部は、第26工区の正式着工記録を照合した。

施工第4部隊(C04)の初日施工0.10 Mi。

治癒魔法士H06マティアス・リンデックの入社日。

どちらも芽風月2日だ。

だが、同じ日付だからといって、同じ証憑で処理するわけではない。

施工は工事記録。

入社は人事記録。

それぞれの根拠を残す。

◇

同日午後6時――

王都セレスティア。

シェリィは、第26工区の着工と農業実証区画の調査報告を受けていた。

「第26工区も始まったのですね」

『はい』

「マティアスの入社日も確定しましたか?」

『芽風月2日として登録します』

「お願いします」

農業調査の資料には、まだ空欄が多かった。

正式な水源。

栽培作物。

温室形式。

給熱設備。

必要人員。

シェリィは、その空欄を見ても落胆しなかった。

「実際に作物を育てるところまで進むには、まだ確かめることがたくさんあるのですね」

『はい、会長』

「でしたら、一つずつ確かめていきましょう」

この日の総施工距離は203.30 Miとなった。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・芽風月(めかぜげつ)≪第3月≫3日・風曜(ふうよう)――

アスタリア大商会本部・総務財務部。

午前7時。

アルノルトの机へ、王国財務院からの送金に関する銀行通知が届いた。

前月、白耀月3日に支払われた月額概算前渡金は金貨10,000.000枚。

国家共同事業契約では、以後毎月3日に金貨1,000.000枚ずつ増額する。

したがって、芽風月分の予定額は金貨11,000.000枚。

だが、通知が来ただけで着金済みにはしない。

アルノルトは書類を受け取った。

「王国財務院の支出命令は?」

「添付されています」

「契約番号は?」

「一致しています」

「送金元と受取口座も確認してください」

「はい」

契約書に数字があること。

国が支出命令を出したこと。

銀行へ送金されたこと。

大商会の口座へ実際に着金したこと。

すべて確認する。

◇

同日午前8時――

銀行の入金記録と口座残高の照合が終わった。

「部長」

担当者が報告する。

「王国財務院からの入金を確認しました」

「金額は?」

「金貨11,000.000枚です」

アルノルトは、もう一度契約書へ視線を落とした。

送金元、セレスティア王国財務院。

受取先、アスタリア大商会。

対象、芽風月分。

資金区分、国家共同事業の月額概算前渡金。

「契約内容と一致しています」

「はい」

「では、前渡金として管理台帳へ反映してください」

担当者が頷く。

アルノルトは続けた。

「売上にはしないでください」

「承知しました」

「受け取っただけで、私たちの自由な利益になる資金ではありませんから」

国家から受け取った金貨11,000.000枚。

大きな金額だった。

だからこそ、何にでも使える資金のようには扱わない。

国家共同事業の施工、製造、輸送、検査、保守など、契約上認められた費用と対応させる。

後日の定期精算も必要になる。

王国80%、大商会20%という基本負担割合も、費用ごとの適格性を確認した上で管理する。

◇

同日午前9時――

アルノルトは、ディートリヒへ着金を報告した。

「王国からの今月分前渡金について、予定額の着金を確認しました」

「金貨11,000.000枚ですね」

「はい」

「施工と保守の費用との対応をお願いします」

「もちろんです」

アルノルトは管理表を示した。

「受領額、実際の使用額、未使用額、精算対象額を分けます」

ディートリヒが頷く。

国から資金が届いたことと、施工距離が伸びたことは別の実績だ。

金が入ったから工事が完成したことにはならない。

工事をしたから、国庫前渡金の全額を使ったことにもならない。

◇

同日午前10時――

王都セレスティア。

シェリィへ正式報告が入った。

『会長。王国からの月額概算前渡金について、ご報告いたします』

「はい、アルノルト」

『本日、契約に基づく金貨11,000.000枚の着金を確認いたしました』

「ありがとうございます」

シェリィは安堵したように微笑む。

「これで、工事と保守に必要な資金をより安定して管理できますね」

『はい。ただし、適格費用との照合と今後の精算は必要です』

「もちろんです」

シェリィは頷いた。

「王国との約束ですもの。正確に管理してまいりましょう」

王家とは親しい。

だが、国庫との契約は家族同士の金の貸し借りではない。

国民から預かった国家財政を扱う以上、個人的な親しさとは切り離して考える。

それはアーサーも、シェリィも同じだった。

◇

同日午前11時――

総務財務部。

国庫概算前渡金金貨11,000.000枚が、銀行出納記録と前渡金管理台帳へ反映された。

魔石販売の売上へ混ぜない。

熱使用料金へ混ぜない。

そして、農業、牧畜、病院、学校へ自由に使える資金が金貨11,000枚増えたとも考えない。

国家共同事業の金は、国家共同事業へ。

新規事業は、新規事業の資金計画で管理する。

◇

同日午後1時――

農業・牧畜合同検討会。

国庫資金の処理とは別の議題として、新事業の実証条件を検討する。

農業の暫定初期必要資金は金貨4,400枚。

牧畜は金貨5,270枚。

合計金貨9,670枚。

安定稼働時の暫定年間売上は、両事業合計金貨8,062枚。

年間営業利益は金貨1,336枚。

だが、これらは未承認の比較試算だ。

国庫前渡金から支出する計画ではない。

マレーネが言った。

「農業の実証が成功すれば、将来的には牧畜用の飼料作物も考えられるかもしれません」

牧畜担当者が頷く。

「ですが、まだ十分な収穫能力はありません」

オットマール・リンデンも続けた。

「牧畜を始めるなら、少なくとも初期段階の飼料は別に確保する必要があります」

「その前提で考えましょう」

将来の連携可能性を、現在存在する供給能力として扱わない。

農業も牧畜も、まず単独で成立する条件を確認する。

◇

同日午後3時――

アルノルトは、売上が20%減り、費用が変わらなかった場合の試算を示した。

年間営業損益は、両事業合計で金貨276.400枚の赤字。

「実証段階と、初期商業運営と、その後の拡張を分けましょう」

アルノルトが言う。

マレーネが頷いた。

「最初から完成形へ投資する必要はありませんね」

「はい」

「小規模に確かめて、条件を満たしたら次へ進む」

「それなら、失敗した場合の損失も抑えられます」

大きく始めることより、続けられる形で始める。

それが新事業の共通方針になりつつあった。

◇

同日午後5時――

品質保証部。

エドムント・クラウゼ(品質保証部長)は、国家共同事業の費用照合資料を確認していた。

材料費。

加工費。

検査費。

輸送費。

同じ原価要素が、別の費目名で二重に計上されていないかを見る。

「本体価格に含まれている材料費を、もう一度材料費として請求しないように」

「はい」

「国庫負担だから厳しくするのではありません」

エドムントは続けた。

「誰が払う費用でも、同じ物を2度数えない。それだけです」

◇

同日午後6時――

この日の施工増加は、第2期+1.20 Mi、第3期+1.25 Mi。

総施工距離は205.75 Miとなった。

王国から金貨11,000.000枚が届いた日も、施工現場では昨日と同じように一本ずつ設備を造っていた。

大きな資金移動と、一つずつ積み上がる現場の仕事。

どちらも国家共同事業を支える現実だった。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・芽風月(めかぜげつ)≪第3月≫4日・水曜(すいよう)――

アスタリア大商会本部。

午前6時30分。

第17工区から第20工区の施工状況と、完成済み工区の保守状況が確認された。

M17からM20についても、担当工区の完成後を見据えて工具、基地、移動、引継ぎ資料を準備する。

だが、まだ検収していない工区を保守済みにはしない。

第16工区のM16も、基地入居、設備受入、実点検、本格保守開始を別々に記録する。

◇

同日午前9時――

アスタリア大商会・医療治癒事業部。

オスヴァルト・リューデマン(事業部長)、エレオノーラ・ハルテンフェルト(副部長)、クラウス・ゼーゲルトらが、3病院の計画を検討していた。

《アスタリア高度総合医療院》。

初期240床規模を基本とし、将来拡張を可能にする新設病院。

王都セレスティアでは、既存病院の事業譲受を優先調査する。

ヴァルモント公爵領でも、地域医療を担う既存施設の譲受を優先して調査する。

3病院はいずれもアスタリア大商会の直営事業として検討している。

だが、同じ病院ではない。

必要な役割も、整備方法も違う。

エレオノーラが言った。

「新しく造る病院と、すでに患者さんがいる病院を引き継ぐのでは、準備の意味が違います」

オスヴァルトが頷いた。

「だから、同じ日に全部開院する前提にはしない」

◇

同日午前10時――

《アスタリア高度総合医療院》の段階開院案が開かれた。

全体完成時は240床。

だが、最初から全施設を一度に稼働させる方法だけを考えているわけではない。

比較案では、まず基幹外来と通常・上位治癒魔法診療。

次に一般入院120床と24時間の初期救急。

その後、手術、集中治療、分娩、高度外科と追加60床。

最後に残る60床、専門外来、臨床教育まで整える。

工事開始月を1とする比較モデルでは、第5か月頃、第13か月頃、第19か月頃、第24か月頃という段階案がある。

ただし、実際の着工日や開院日を決めた工程表ではない。

「外来だけなら、早く開けられますか?」

担当者が尋ねた。

オスヴァルトは答える。

「必要な条件がそろえば、可能性はあります」

「高度設備は後で?」

「診療内容によります」

オスヴァルトは資料を指した。

「外来だけだから、設備が不完全でもよいわけではありません」

診療するなら、必要な設備をそろえる。

薬品をそろえる。

衛生環境を整える。

安全体制を整える。

必要な人員を配置する。

一部開院とは、不完全な医療を提供することではなかった。

◇

同日午前11時――

エレオノーラが、医療体制の資料を開いた。

医師による診断と治療。

外科。

救急。

産科と分娩。

看護師による患者観察と生活支援。

薬師による医薬品管理。

治癒魔法士による治療。

上位治癒魔法士による高度な魔法治療。

魔導医療機器の安全管理。

「医療院の建物が完成しても、医師や治癒魔法士、看護師、薬師がそろわなければ患者さんを受け入れられません」

オスヴァルトが頷いた。

「そのとおりです」

「治癒魔法も万能ではありません」

「適応と禁忌、それに術者側の負担も考える必要があります」

既存の医療関係法を守る。

資格上の権限を勝手に広げない。

魔法がある世界だからこそ、誰が何をしてよいのかを曖昧にしない。

患者の命を守るためだった。

◇

同日午後1時――

王都と公爵領の病院について、事業譲受の確認項目が並べられた。

建物。

医療機器。

薬品。

職員。

患者。

診療記録。

既存契約。

債務。

許認可。

必要改修。

安全性。

未承認の比較モデルには、王都160床・職員391名、公爵領80床・職員218名という案もある。

だが、正式な病床数でも採用人数でもない。

オスヴァルトが言った。

「病院を引き受けるということは、建物を買うだけではありません」

「すでに治療を受けている患者さんがいます」

「そうだ」

「職員も働いています」

「だから、運営主体が変わる日にも診療を止めない仕組みが必要になる」

患者の診療継続を最優先にする。

それが事業譲受の第一条件だった。

◇

同日午後2時30分――

アルノルトは、医療院の資金資料を確認した。

人件費を除く全体新築の開院時確保資金について、既存の未承認概算は金貨1,820,114.400枚。

一方、外来先行・段階整備については、別の前提と費用範囲を持つ試算がある。

金額だけを並べて、安い方を選ぶことはできない。

何が含まれているのか。

何が含まれていないのか。

工事費。

設備。

開院準備。

運転資金。

採用時期。

支払時期。

一つずつ対応させる必要がある。

「国庫から届いた熱伝導路の前渡金は使えません」

アルノルトが明確に言った。

「もちろんです」

オスヴァルトが答える。

国家共同事業の金を、病院建設へ勝手に流用することはしない。

◇

同日午後3時30分――

王都セレスティア。

シェリィは、オスヴァルトから報告を受けていた。

「オスヴァルト」

『はい、会長』

「私は、ただ立派な建物を造りたいわけではありません」

『承知しております』

「患者さんが安心して治療を受けられて、医師や治癒魔法士、看護師、薬師の皆さんも安全に働ける場所にしたいのです」

『そのために必要な施設と職員を、段階ごとに検証いたします』

シェリィは頷く。

早く病院を造る。

それだけなら、目標は単純だ。

だが、本当に必要なのは、安全に診療し続けられる病院を造ることだった。

◇

同日午後5時――

クラウスは、将来の臨床実習について説明した。

「病院に教育設備があるだけでは、学生を受け入れられません」

「指導者が必要ですね」

「はい。それに患者さんの診療を妨げない人数でなければなりません」

学生の安全。

患者の同意。

診療記録。

指導者の資格。

医療院に教育部門を造ったことと、学生を安全に受け入れられることは別だった。

この日の施工増加は第2期+1.15 Mi、第3期+1.15 Mi。

総施工距離は208.05 Miとなった。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・芽風月(めかぜげつ)≪第3月≫5日・土曜(どよう)――

アスタリア大商会本部・総務財務部。

午前7時。

白耀月1日から30日までの給与支給に向け、個人別給与台帳の最終確認が行われていた。

入社日。

勤務時間。

給与等級。

契約。

手当。

休暇。

欠勤。

転進。

派遣。

兼務。

控除。

前払。

未払。

施工部隊では、旧制度から新給与制度へ切り替わった日も確認する。

施工第1部隊(C01)は白耀月12日。

C05とC09は18日。

C02は20日。

C03は22日。

C04は27日。

一方、C06、C07、C08、C10については、この時点で未確定の新給与制度切替日を勝手に作らない。

アルノルトが担当者へ尋ねる。

「勤怠と入社日、給与制度の切替日は照合できていますか?」

「個人別に最終確認しています」

「全員を同じ条件で処理しないでください」

「はい」

「働いた日数も、契約も、人によって違いますから」

白耀月分の給与総額は、既存の給与原本との照合が終わるまで新しい数値を作らない。

前月の給与総額を、そのまま転用することもしない。

◇

同日午前8時――

給与支給処理が始まった。

個人別に勤怠、雇用条件、給与額が確定した者から支払指示を進める。

「支払完了の判定は?」

アルノルトが尋ねる。

「銀行の送金記録と受領記録で確認します」

「お願いします」

給与台帳で計算した。

それだけでは、従業員へ支払ったことにはならない。

支払指示を出した。

それでもまだ完了ではない。

実際の送金記録まで確認する。

現場では、施工員や保守員たちがいつもどおり仕事をしている。

その一人ひとりへ、働いた対価を正しく支払う。

それも大商会の責任だった。

◇

同日午前9時――

前月締めの取引代金支払も進められた。

対象となるのは、白耀月30日締め、芽風月5日支払条件に該当する正式債務のみ。

取引管理番号。

正式発注書。

受注記録。

納品書。

請求書。

検収。

支払条件。

未払残高。

支払承認。

企業群内の独立商会との取引も、同じ会社の部署間移動のようには扱わない。

相手商会側では売上。

大商会側では仕入、費用、または資産。

適正価格原則と正式証憑に基づいて対応させる。

「請求書があるだけでは支払いません」

担当者が確認する。

「納品と検収、契約条件まで見てください」

アルノルトが答えた。

国庫前渡金を受け取ったから、支払ってよいわけでもない。

債務が正式に成立しているから支払う。

◇

同日午前10時30分――

会計監査部。

給与と取引代金の支払について、独立照合が始まった。

承認額。

支払指示。

銀行出金。

債務残高。

支払いを実行した経理担当者自身が、最後の監査まで一人で行うことはしない。

起案。

承認。

支払。

監査。

役割を分ける。

ヴァルターは記録を見ながら言った。

「正しく支払ったことを、正しく証明できる状態にしてください」

◇

同日正午――

アスタリア大商会・医療専門教育計画会議。

クラウスは、5つの課程を改めて整理していた。

医師養成課程は6年、年間入学定員60名。

治癒魔法士養成課程は4年、年間60名。

上位治癒魔法士専門課程は2年、年間12名。

看護師養成課程は3年、年間120名。

薬師養成課程は5年、年間60名。

年間入学定員は合計312名。

全学年がそろった成熟期の在籍上限は1,284名。

上位治癒魔法士専門課程は、すでに治癒魔法士資格を持つ者を対象とする。

学校は、教学、施設、学生管理を持つ教育機関として運営する。

ただし、会計上はアスタリア大商会の直営事業として管理する。

◇

同日午後1時――

学校本体の成熟期167名案。

学校長室3名。

教員98名。

運営・支援職員66名。

合計167名。

まだ正式な採用定員ではない。

「初年度から167名全員が必要とは限りません」

クラウスが説明する。

「ですが、人数を減らすことを先に目的にしてはいけません」

アルノルトが尋ねる。

「必要な授業と実習から、人員を逆算する?」

「はい」

専門資格。

授業負担。

実習の安全。

学生指導。

欠勤時の代替。

必要な条件を満たした上で、開校初年度に必要な人数を決める。

◇

同日午後2時――

既存の28種類の学校施設についても、段階整備を検討する。

本校舎。

講義棟。

学生寮。

自習棟。

医学図書館。

基礎実習施設。

治癒魔法実習施設。

看護実習施設。

薬師実習施設。

薬草園。

学生支援施設。

管理施設。

初年度から必要なもの。

進級後に必要になるもの。

それぞれを分ける。

ただし、初年度の授業や実習に必要な設備まで後回しにはしない。

病院側の設備を学校側へ二重計上することも避ける。

◇

同日午後3時――

授業料と奨学金の資料が開かれた。

成熟期の年間授業料総額、金貨34,884枚。

独自奨学金による免除額の理論上限、金貨8,721枚。

免除後の授業料相当額、金貨26,163枚。

学校本体167名の年間基本給与、金貨32,856枚。

基本給与だけでも、年間金貨6,693枚不足する。

しかも、建物維持、教材、実習、非常勤講師、設備更新、寮運営などは含まれていない。

クラウスが言った。

「教育の質を下げるわけにはいきません」

アルノルトが頷く。

「もちろんです」

少し間を置く。

「ですが、資金が尽きて学校を閉じることになれば、学んでいる学生の将来を損ないます」

「はい」

クラウスも資料を見る。

「だからこそ、必要な教育と、続けられる経営の両方を考えたいのです」

二人は、違う方向を向いているのではない。

同じ学校を、別の責任から守ろうとしていた。

◇

同日午後4時30分――

王都セレスティア。

シェリィは教育計画の報告を受けていた。

「学びたい方が安心して学べる学校にしたいです」

『はい、会長』

「でも、そのためには学校そのものを続けられるようにしなければなりませんね」

『初年度の施設と人員から再検証します』

「お願いします」

最初から全施設を完成させるのではなく、学生が進級し、必要な実習が増える時期に合わせて整える。

ただし、その学年に必要な教育を不足させない。

理想を諦めるためではなく、長く続けるための段階整備だった。

◇

同日午後6時――

施工、給与、取引代金、教育計画について、それぞれ別の報告がまとめられた。

給与を支払ったことは、学校計画が進んだことではない。

施工距離が伸びたことも、取引代金を支払ったこととは別だ。

一つずつ、それぞれの記録で管理する。

この日の施工増加は、第2期+1.20 Mi、第3期+1.45 Mi。

総施工距離は210.70 Miとなった。

今働いている人へ正しく対価を支払うこと。

次の世代を育てる学校を長く続けられる形にすること。

どちらも、人を支えるための経営だった。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・芽風月(めかぜげつ)≪第3月≫6日・闇曜(あんよう)――

アスタリア・各施工現場。

午前6時30分。

晴れた雪原で、施工員たちが仕事を始める。

測量する者。

地盤を整える者。

路体を施工する者。

接続部を見る者。

品質を確認する者。

資材を届ける者。

業務用魔導通信を管理する者。

一つの《魔導熱伝導路》を造っていても、全員が同じ仕事をしているわけではない。

一人ひとりが自分の役割を果たすことで、長大な設備が形になっていく。

◇

同日午前8時――

第17工区。

施工第6部隊(C06)は、この日0.35 Miを施工した。

累計9.90 Mi。

残り0.10 Mi。

施工員の一人が測量記録を見る。

「もう少しですね」

班長が頷く。

「ああ。だが、最後の0.10 Miも同じだ」

「品質と安全を守って施工します」

「頼んだぞ」

班長は先へ伸びる区間を見た。

「完成したら、ここを守る人たちへ自信を持って引き渡せるようにな」

完成が見えた時ほど、基本を変えない。

それは、これまでいくつもの工区を完成させてきた部隊が学んだことだった。

◇

同日午前10時――

第18工区から第20工区。

第18工区は8.50 Mi。

第19工区は9.35 Mi。

第20工区も9.35 Miまで進んだ。

第19工区と第20工区は、それぞれ残り0.65 Mi。

第2期全体では97.10 Mi。

残施工距離は2.90 Miとなった。

M17からM20も、各工区の完成と検収に備えて準備を進めている。

だが、この日に第17工区から第20工区が完成したことにはしない。

検査も検収も、その後の工程だ。

◇

同日午前11時――

第3期。

第21工区は3.85 Mi。

第22工区は3.35 Mi。

第23工区は3.15 Mi。

第24工区は2.70 Mi。

第25工区は2.40 Mi。

第26工区は0.80 Mi。

施工第1部隊(C01)、C05、C09、C02、C03、C04が、それぞれの工区を進めている。

第27工区から第30工区は、まだ未着工。

施工できる部隊がいるからといって、管理能力を超えて工区を広げることはしない。

資材。

医療支援。

保守。

物流。

安全。

全部が追いつく範囲で進める。

◇

同日午後1時――

工事管理室。

製造、物流、品質保証、倉庫、施工の週間記録が集約された。

この7日間の追加施工距離は16.40 Mi。

《魔導熱伝導路》本体1本は10 Er(エルン/10m)。

標準換算では、16.40 Miの施工に1,640本が対応する。

だが、1,640本をこの7日間に新しく製造したことにはしない。

既存在庫。

新規製造。

倉庫出庫。

配送中。

現場受入。

実施工。

未使用残。

それぞれ別に管理する。

HT-C001以外にも、施工には多くの資材が必要だ。

接続部材。

支持・固定部材。

保護部材。

土木施工用品。

《魔導流体》。

制御・継送設備。

通信設備。

検査用品。

すべてを使用して工事は成立する。

だからといって、全品目を全工区で同じ数量消費したことにはしない。

各工区の仕様と実使用記録に基づいて管理する。

◇

同日午後2時――

保守部門の週間報告。

M01からM10は、第1期の通常保守を継続。

M11からM15については、各担当工区の配置と引継ぎ状況を確認する。

M16は、第16工区で実際に引継ぎが成立した設備と記録の範囲を確認する。

M17からM20は、担当工区の完成に備える。

保守員が基地にいること。

設備を引き継いだこと。

点検を行ったこと。

交換部品を使用したこと。

すべて別に記録する。

設備を長く使うためには、「たぶんやった」という記憶では足りなかった。

◇

同日午後3時――

4つの新事業について、週間報告がまとまった。

農業では、実証区画の土壌、水、熱、作物、労働力、保存、物流について確認事項を整理した。

正式な水源も、栽培品目も、まだ決定していない。

牧畜では、家畜、飼料、水、畜舎、防疫、繁殖、加工、販売を整理した。

まだ家畜の本格導入は決めていない。

医療治癒では、アスタリアの240床医療院と、王都・公爵領の既存病院譲受について、施設、人員、安全、資金、開院条件を比較した。

病院はまだ開院していない。

医療専門教育では、5課程、成熟期167名案、28種類の施設、実習、奨学金、継続財源を検証した。

学校もまだ開校していない。

形になっていないことは多い。

それでも、何を確かめれば次へ進めるのかは、少しずつ明らかになっていた。

◇

同日午後4時――

総務財務部。

アルノルトは、今週の資金の動きを整理していた。

芽風月3日。

国家共同事業の概算前渡金、金貨11,000.000枚。

芽風月5日。

白耀月分の給与支給処理。

同じく、正式債務となった取引代金の支払処理。

前渡金の未使用残と、大商会が自由に使える資金を混同しない。

四大新事業の試算額を、確定支出へ振り替えない。

「資金があることと、使ってよいことは違います」

アルノルトが担当者へ言う。

「はい」

「そして、支払予定があることと、支払ったことも違います」

今週だけでも、大きな金が動いた。

だからこそ、金額ではなく目的と証拠を追う。

◇

同日午後5時――

工事管理室。

ディートリヒが週間施工報告を確認した。

第1期、100.00 Mi。

第2期、97.10 Mi。

第3期、16.25 Mi。

公爵領向け熱路の総施工距離、213.35 Mi。

全300.00 Miに対する施工進捗率は71.12%。

残施工距離は86.65 Mi。

「第17工区は残り0.10 Mi」

「はい」

「第19と第20は?」

「各0.65 Miです」

「第18は残り1.50 Miです」

ディートリヒは頷いた。

「第2期の終わりが見えてきたな」

担当者が笑う。

「はい」

「だからこそ、最後まで同じだ」

「安全と品質を優先する」

「ああ」

200 Miを突破した喜びは消えていない。

だが、それだけを見ている者はもういなかった。

次は、第2期100 Miの施工完了が近づいている。

その後には検査がある。

通熱がある。

保守がある。

仕事は続く。

◇

同日午後5時30分――


挿絵(By みてみん)


総施工距離213.35 Mi。

全300.00 Miに対する施工進捗率71.12%。

残施工距離86.65 Mi。

第2期は97.10 Miまで進み、残り2.90 Mi。

第3期は16.25 Miまで進んだ。

第27工区から第30工区は、まだ未着工である。

200 Miを超えたのは施工距離だ。

それを、そのまま連続通熱距離へ置き換えることはしない。

施工。

設備設置。

《魔導流体》の封入。

検査。

検収。

通熱。

運転。

保守引継ぎ。

必要な工程を一つずつ終えたものだけが、次の状態へ進む。

◇

同日午後6時――

王都セレスティア。

シェリィのもとへ、1週間の経営報告が届いた。

総施工距離213.35 Mi。

王国との契約に基づく金貨11,000.000枚の概算前渡金。

白耀月分給与の支給処理。

取引代金の支払。

保守。

研修。

農業。

牧畜。

医療。

教育。

一つの商会の中で、あまりにも多くの仕事が同時に動いている。

シェリィは資料を一枚ずつ読んだ。

自分が全部を直接行ったわけではない。

むしろ、ほとんどの仕事を専門家たちが進めている。

ディートリヒは施工と保守を見る。

アルノルトは金を守る。

ヴァルターは内部統制を守る。

マレーネは生産の可能性を探る。

エルマーは技術を確かめる。

オットマールは物流と市場を見る。

エドムントは品質を守る。

オスヴァルトとエレオノーラは患者の安全を考える。

クラウスは、まだ会ったこともない未来の学生たちが学べる学校を考えている。

「本当に、たくさんの方々に支えていただいているのですね」

シェリィは静かに微笑んだ。

『会長。第2期の残りも、引き続き進めてまいります』

「はい」

通信の向こうへ答える。

「でも、どうか安全を第一にしてくださいね」

『承知しました』

シェリィは、先日の王宮でアストリッドから聞いた言葉を思い返した。

長い年月で育つものは、長い目で考えなくてはいけない。

人を育てることも。

事業を育てることも。

街を育てることも。

きっと同じなのだ。

「皆さんが安心して仕事を続けられるようにすることも、私のお仕事ですものね」

◇

同日午後7時――

アスタリア。

夜の街には、2,750人の暮らしがあった。

商店には商品が並び、人々が家路につく。

完成した工区の保守基地には灯りがともり、保守員たちは一日の仕事を終えて温かな食事を囲んでいる。

施工現場では、明日に備えて工具と資材の確認が続いていた。

市街地から離れた農業実証区画には、まだ大きな農園はない。

牧場にも、まだ本格的な家畜は導入されていない。

病院も完成していない。

学校も開いていない。

それでも、誰かが土を調べている。

誰かが水の確保を考えている。

誰かが家畜の病気を防ぐ方法を考えている。

誰かが患者を安全に治療する仕組みを考えている。

誰かが学生を長く育てられる学校を考えている。

その先には、213.35 Miまで伸びた《魔導熱伝導路》があった。

200 Miの先にあるのは、残る100 Miだけではない。

大地から食料を生み出す未来。

病気や怪我を治療できる未来。

学びたい者が専門知識を身につけられる未来。

働いた者が正しく対価を受け取り、安心して暮らせる未来。

大きな未来は、ある日突然完成するものではない。

一本の路体。

一枚の帳票。

一件の送金。

一人の給与。

一つの検査。

一つの授業。

一つの判断。

その積み重ねが、やがて国の姿を変えていく。

シェリィが思い描いた未来は、まだ遠い。

けれど、その未来を育てる人々は、もう歩き始めていた。

お読みいただきありがとうございます。

アスタリアからヴァルモント公爵領へ向かう《魔導熱伝導路》は、ついに200 Miを突破し、総施工距離213.35 Miまで伸びました。

一つずつ条件を確かめ、続けられる形にしてから次へ進む。


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