第86話:王国の未来を、共に担う
星環暦1285年・創光月≪第1月≫16日・水曜――
アスタリア。
午前5時30分。
気象監視所が記録した最低気温は、−49.1 °Gr(グラーデ/−49.1℃)だった。
窓の外では、吐いた息さえ白く凍りつくような寒気が街を覆っている。
だが、地下を通る《魔導熱伝導路》の熱は止まっていなかった。
第1工区から第10工区まで。
連続通熱距離100.0 Mi(ミーレ/100km)。
設備保守課では、供給温度、還流側の状態、《魔導流体》、各計測地点の熱量を監視していた。
午前6時。
メンテナンス第1部隊(M01)からメンテナンス第10部隊(M10)までが、それぞれの担当区間の点検を始める。
10部隊、60名。
さらに、各部隊には同行料理人が1名ずつ配置されている。
寒さが厳しいからといって、すべての作業を最低気温の時間帯に行うわけではない。
安全に点検できる時間を選ぶ。
危険なら作業を止める。
それでも、住民へ必要な熱は送り続ける。
完成した100.0 Miは、すでに工事現場ではなかった。
人々の生活を支える設備になっていた。
◇
同日午前6時30分――
アスタリア大商会本部・《魔導熱伝導路建設課》。
ヴァルモント公爵領へ向かう第2期工事も動き始めていた。
現在施工中なのは、第11工区から第16工区までの6工区。
施工第1部隊(C01)。
施工第2部隊(C02)。
施工第3部隊(C03)。
施工第5部隊(C05)。
施工第9部隊(C09)。
施工第4部隊(C04)。
レオンハルト・ベルクハルト(建設課長)は、前日の進捗と現場在庫を照合した。
この日からは、既存の施工実績に異常がない限り、各部隊の日速0.2 Miを正式施工実績として扱う。
6工区で、1日合計1.2 Mi。
ただし、必要資材まで自動的に同じ量を発注するわけではない。
現場在庫。
既引当。
配送中。
それらを差し引く。
不足した分だけを内部発注する。
第4地域備蓄倉庫(W04)は、第11、第12工区を支える。
第5地域備蓄倉庫(W05)は、第13工区から第15工区。
第6地域備蓄倉庫(W06)は、第16工区を担当する。
ただし、第6地域備蓄倉庫(W06)が正式に受け取れない資材については、中央大倉庫からの直送を続ける。
第1期で余った建設専用品も確認する。
だが、保守用品や緊急復旧用品まで施工へ回すことはしない。
完成した100.0 Miを守りながら、その先を造る。
両方を同時に進める必要があった。
◇
同日午前9時――
アスタリア大商会本部・熱供給事業部。
ディートリヒ・ハーゲン(熱供給事業部長)の前へ、料金徴収の報告書が置かれた。
対象は、星環暦1284年・帰魂月1日から30日までの熱利用料金。
締め日は帰魂月30日。
支払期限は創光月15日だった。
「帰魂月分の熱利用料金について、対象となる徴収がすべて完了しました」
ディートリヒ(熱供給事業部長)が報告書の末尾を見る。
「未収金は?」
「今回の請求対象分については0です。入金記録との照合も終わっています」
「分かった」
ディートリヒ(熱供給事業部長)は報告書を閉じた。
「熱を送って終わりではない。正しく測り、請求し、受け取るところまでが事業だ」
今回の入金は、新しい売上ではない。
すでに前年度に売上として計上した熱利用料金の回収である。
同じ熱を2度売上にはしない。
◇
同日午前10時――
総務財務部では、別の数字が並べられていた。
現金・預金。
すでに発注済みの工事。
確保済みの支払資金。
未払金。
給与。
資材。
輸送。
第2期工事。
第17工区から第20工区へ移る施工部隊の費用。
そして、その先にある第3期。
帳簿上に預金残高があることと、その全額を新しい工事へ使えることは同じではない。
発注済みの仕事には、支払わなければならない金がある。
給与にも使途がある。
完成検収時に支払う予定の工事代金もある。
その資金を別の着工費へ回せば、今度は既存契約を守れなくなる。
午前11時30分。
ディートリヒ(熱供給事業部長)は、経営企画室と経理部門へ指示を出した。
「残高ではなく、使える資金を出してください」
担当者が頷く。
「既契約、見積中、未発注も分けます」
「お願いします。金額が確定していないものは、勝手に埋めないでください」
今すぐ工事が止まるわけではない。
しかし、この支出構造のまま長距離建設を続けられるか。
その問いに、数字で答える必要があった。
◇
同日午後3時――
王都セレスティア。
アスタリアからシェリィへ、定例経営報告が届いた。
第1期100.0 Miの通熱は安定。
帰魂月分の熱利用料金は全件徴収完了。
第2期施工も継続。
その一方で、今後の建設費と支払予定について再計算が必要。
シェリィは最後の部分を読み直した。
「資金不足が確定したの?」
魔導通信の向こうで、ディートリヒ(熱供給事業部長)が答える。
『いいえ。ただし、自由に使える資金と、帳簿上の預金残高を同じものとして考えることはできません』
「そうね」
『明日、今後の支払予定を含めた資金繰り見通しを提出します』
「お願いします。安全基準や給与を削ることを前提にしないでください」
『承知しました』
通信を終えたシェリィは、窓の外へ目を向けた。
熱供給事業は成立した。
料金も回収できている。
だが、それと、ヴァルモント公爵領までの長距離熱路を自社資金だけで造り切れるかは別の問題だった。
◇
星環暦1285年・創光月≪第1月≫17日・土曜――
王都セレスティア・ヴァルモント公爵家王都滞在先。
午前9時30分。
資金繰り報告が届いた。
現在使用可能な資金。
既存契約により将来支払う資金。
今後、新たな工事へ必要となる資金。
3つは分けて示されていた。
第1期100.0 Miの運用は維持できる。
第2期の6工区も施工を続けている。
第17工区から第20工区へ移る4施工部隊も準備中。
だが、その先まで自社資金だけで負担するなら、新規契約余力を慎重に見なければならない。
シェリィは数字を追った。
利益が出ていることと、現金を自由に使えることは違う。
黒字でも、支払いが先に来れば資金は必要になる。
まして、《魔導熱伝導路》は300 Miに及ぶ。
「支払先に延期を求める案は?」
シェリィが尋ねた。
『入れていません』
「給与を遅らせる案は?」
『ありません』
「安全設備を削る案は?」
『ありません』
「それでいいです」
自社資金で続けるなら、着工時期や新規契約を見直す。
約束した支払いを守れないのに、新しい工事だけ増やすことはしない。
◇
同日午後1時――
王宮・ジュリアン王太子執務室。
ジュリアンは、シェリィが持参した資料を見ていた。
第1期100.0 Mi完成。
第2期工事。
残る200.0 Mi。
厳寒下でも続く熱供給。
保守基地。
メンテナンス部隊。
地域備蓄倉庫。
料金徴収。
そして、資金繰り。
「シェリィ嬢」
ジュリアンが顔を上げた。
「君は、この事業をどこまで自分の商会で負担するつもりだ?」
「現在契約している範囲は、責任を持って進めます」
「では、その先は?」
シェリィは答えなかった。
ジュリアンは資料へ視線を戻した。
「今は、アスタリアからヴァルモント公爵領までの熱路を造っている」
「はい」
「だが、この仕組みが成功すれば、王国は他地域でも必要とするだろう」
シェリィは静かに頷いた。
「その可能性はあると思います」
「なら、一商会だけに負わせ続けてよい話ではない」
ジュリアンの声は穏やかだった。
だが、言葉には王太子としての重みがあった。
「国家が必要とする事業を、一商会の予算だけで賄わせるわけにはいかない」
シェリィは、しばらくジュリアンを見つめた。
「国家共同事業に、ということですか」
「ああ」
「国庫から資金を受ければ、国家側の監督も必要になります」
「当然だ」
「ですが、《アスタリア大商会》そのものの経営権まで王宮へ渡すつもりはありません」
ジュリアンは笑わなかった。
「そこも含めて、制度にすればいい」
◇
同日午後3時――
シェリィは、自分から条件を示した。
商業活動の自主性。
《アスタリア企業群》各商会の独立性。
公正な調達。
監査できる会計。
安全基準。
国家と大商会の責任分界。
国庫から金を受け取る代わりに、王宮が大商会の日常経営すべてを指揮する。
その形にはしない。
国家共同事業として監督される部分と、民間商会として独立して判断する部分を分ける。
ジュリアンは最後まで聞いた。
「分かった」
「殿下?」
「父上に進言する」
ジュリアンは立ち上がった。
そして、少しだけ表情を和らげる。
「もう一つ、まだ終わっていない約束もある」
シェリィには、それが何を指しているのか分かった。
第2王子擁立事件の最中。
ジュリアンと交わした、商業自由権の約束。
法制化の準備は進んでいる。
だが、正式な王令はまだ発布されていなかった。
「今度こそ、国家として答えを出す」
ジュリアンはそう言った。
◇
星環暦1285年・創光月≪第1月≫18日・闇曜――
セレスティア王宮・国王執務室。
午前9時。
ジュリアンは父であるアーサー国王と向き合っていた。
机の上には、《魔導熱伝導路》の全300 Mi計画が置かれている。
「100 Miは完成したのだな」
アーサーが確認した。
「はい、父上。すでに連続通熱しています」
「残り200 Mi」
「工事は継続中です」
ジュリアンは、熱供給の効果を説明した。
寒冷地の住居。
診療。
商業。
工房。
物流。
人が暮らし続けるための基盤。
さらに、将来ほかの地域へ応用した場合の可能性。
アーサーは黙って聞いた。
「それで、国庫を使いたいと」
「はい」
「王太子であるお前が価値を認めた。それだけで国庫を開けると思うか?」
「思っておりません」
アーサーの口元がわずかに動いた。
「ならば、何を確認すべきだ」
「総事業計画。国益。財源。法的根拠。調達。監査。事故責任。そして、大商会の独立性です」
「分かっているならよい」
アーサーは資料を閉じた。
「九院に審議させる」
午前11時。
《国王御前九院会議》の開催が指示された。
ジュリアンとシェリィには、今回の案件に限って特別出席が認められた。
ローランド公爵も軍務卿として出席する。
ただし、公爵家は既存契約の当事者でもある。
その利害関係は、会議で明示しなければならない。
国家の金と、公爵家の金を混ぜないためだった。
◇
同日午後――
王宮内では、翌日の会議資料がそろえられていった。
全300 Mi建設基本計画。
第1期100.0 Mi完成報告。
第2期施工報告。
建設契約。
資材調達。
保守計画。
資金繰り。
土地と管理境界。
事故責任。
熱利用料金。
将来の経済効果。
将来予測は、実績と分ける。
まだ起きていない人口増加や税収を、成果として書くことはしない。
シェリィも資料を確認した。
国庫の支援を受けるなら、問われるのは成果だけではない。
その金を、どう管理するのか。
誰が責任を負うのか。
そこまで答えなければならなかった。
◇
星環暦1285年・創光月≪第1月≫19日・光曜――
セレスティア王宮・御前会議室。
午前9時。
アーサー国王を中心に、王国を運営する九院の責任者が席に着いていた。
国務卿オズワルド・レインハルト。
内務卿マティアス・ヴァルナー。
財務卿ヘレーネ・フォルクナー。
外務卿セバスティアン・ロートベルク。
商務卿クラウディア・メルク。
農政国土卿ヨハン・グリューナー。
法務卿エリアス・アルヴェルト。
軍務卿ローランド・ヴァルモント。
爵務卿コンスタンティン・エーベルハルト。
そして、特別参加者としてジュリアンとシェリィが出席する。
この日の議題は2つだった。
アスタリア大商会の商業自由権。
そして、《魔導熱伝導路》の国家共同事業化。
同じ日に議論する。
だが、同じ制度にはしない。
前者は民間商会の権利を守る王令。
後者は国家が公共的責任と費用を担う事業政策である。
アーサーが会議を開いた。
「王太子から、《魔導熱伝導路》を国家共同事業とする提案があった」
室内に視線を巡らせる。
「同時に、以前から審査中の商業自由権についても結論を出すべき時期に来ている」
まず、ジュリアンが立った。
王国の地図が広げられる。
「アスタリア大商会は、ヴァルモント公爵領へ向かう長距離《魔導熱伝導路》の最初の100.0 Miを完成させました」
さらに200.0 Miが計画されている。
現在も第2期施工が続いている。
「父上。これは、一つの商会が自らの利益だけのために造っている設備ではありません」
ジュリアンは九院長たちを見る。
「北方に暮らす者の生活を守ります。産業を支えます。医療や物流にも関わります」
一度、言葉を切った。
「その未来を王国が必要とするなら、費用と責任を一商会だけに負わせるべきではありません」
誰もすぐには答えなかった。
次に、シェリィが説明へ立つ。
全300 Mi。
30工区。
第1期100.0 Miは完成。
第2期は施工中。
施工部隊と保守部隊は分離。
建設専用品と保守用品も別管理。
完成工区ごとに検収する。
支払も契約条件に従う。
通熱後は、メンテナンス部隊が担当区間を守る。
「売上があることと、自由に使える現金があることは同じではありません」
シェリィは財務資料を示した。
「すでに支払義務がある資金は、新規工事へ自由に回せません」
ヘレーネ・フォルクナー財務卿が、その言葉に反応した。
「では、国庫から資金を出せば解決すると?」
「いいえ」
シェリィは即答した。
「国庫からいただくなら、国庫側にも支出を管理する権利があります」
財務卿が少し目を細める。
「一括で資金を渡し、大商会に任せる形を望んでいるのではないのですか」
「望んでおりません」
「では?」
「対象工事ごとに追える仕組みが必要です」
契約。
発注。
納品。
施工。
検収。
支払。
証拠をつなぐ。
前払が必要なら、その理由と条件も明記する。
「国庫支出である以上、何に使ったか説明できる形にします」
財務卿は資料へ視線を落とした。
「それなら次です。国庫が負担する範囲は?」
「既存契約まで自動的に国庫負担へ移すべきではありません」
シェリィが答えた。
「すでに支払った費用も同じです」
ローランド公爵も口を開いた。
「公爵家独自の契約も別だ」
父親としてではない。
軍務卿としての声だった。
「我が家が負担すると決めたものを、国家共同事業化したからといって国庫へ付け替えるべきではない」
ヘレーネ財務卿が頷いた。
「その区別は必要です」
◇
午前10時45分。
マティアス・ヴァルナー内務卿が尋ねた。
「熱供給に障害が起きた場合、誰を優先しますか」
「人命と公共機能を最優先にします」
シェリィが答える。
「ただし、具体的な優先順位は契約と非常時運用規則で定める必要があります」
ヨハン・グリューナー農政国土卿は、施工経路を問題にした。
「街道沿いに敷く以上、道路工事と衝突する」
「事前照会を義務化しています」
「山間部は?」
「既存街道を基本にします。必要な区間では、トンネルも保守経路として利用します」
「土地への緊急立入りは?」
「平時は事前連絡です。緊急時は即時立入りを認め、後から報告する契約にします」
次々と質問が飛ぶ。
シェリィは、一つずつ答えた。
知らないことを、分かったふりはしない。
未確定な項目は未確定と答える。
◇
午前11時30分。
ヘレーネ財務卿が、再び口を開いた。
「私は、この技術の価値を否定しているわけではありません」
会議室の空気が静まる。
「ですが、国庫は王国全体の財産です」
シェリィは黙って聞く。
「国庫が何を負担するのか。上限はいくらなのか。何を証拠に支払うのか」
財務卿は続けた。
「完成後の維持費は誰が負担するのか。事故や設計変更が起きた時、追加費用をどう扱うのか」
「必要な確認だと思います」
シェリィが答えた。
ジュリアンが彼女を見る。
「厳しい質問だぞ」
「国庫を扱う方が聞かなければならない質問です」
財務卿の視線がシェリィへ戻る。
「では、国家から資金を得るための障害だとは思わない?」
「思いません」
シェリィは首を横へ振った。
「支援を受けるなら、説明する責任も受け取ります」
その答えに、アーサーは何も言わなかった。
ただ、静かにシェリィを見ていた。
◇
午後1時。
議題は商業自由権へ移った。
エリアス・アルヴェルト法務卿と、クラウディア・メルク商務卿が既存の王令案を確認する。
取引相手。
商品。
販売先。
価格。
供給量。
契約条件。
それらについて、商会自身が判断する権利を保障する。
王家や貴族が、自分たちの都合で取引を強制してはならない。
ただし、商業自由権は法令違反の免責ではない。
非常時に法律に基づいて行う措置。
公正な司法手続き。
行政上の正当な監督。
それらは維持する。
クラウディア商務卿が確認した。
「国家が《魔導熱伝導路》へ出資する。その代わりに、大商会の商業自由を制限する」
少し間を置く。
「そういう交換条件にはしない。よろしいですね?」
アーサーが答えた。
「その2つは別だ」
国家共同事業に対する監督は行う。
だが、それを理由に大商会の日常的な商業活動まで支配しない。
2つの制度を混ぜない。
◇
午後2時。
ローランド公爵は、公爵領側事業について説明した。
「ヴァルモント公爵家が既存契約で負担する部分は、引き続き別に管理する」
非常時の供給。
管理境界。
事故対応。
公爵領側で負う責任。
それを国家予算へ無条件に含めない。
コンスタンティン・エーベルハルト爵務卿は、別の問題を指摘した。
「将来、他の貴族領へ延ばすなら、今回の公爵領と同じ契約をそのまま使うことはできないでしょう」
「その通りです」
シェリィが答える。
「土地条件も、領主との契約も異なります」
午後2時45分。
セバスティアン・ロートベルク外務卿は、この技術が国外へ知られた場合の影響を述べた。
オズワルド・レインハルト国務卿は、各院の意見を整理した。
国庫。
商業。
国土。
法務。
軍務。
爵務。
単独では決められない問題だった。
午後3時30分。
アーサーが議論を締めた。
「事業の価値は理解した」
国王は静かに言った。
「だが、国庫を使う以上、善意だけでは動かせぬ」
国家共同事業の目的。
国庫負担の対象。
大商会の独立性。
設備の権利。
保守責任。
事故責任。
監査。
商業自由権。
「明日、実務条件を詰めよ」
この日は、まだ決定しなかった。
それでも、議論は明確に次の段階へ進んだ。
◇
星環暦1285年・創光月≪第1月≫20日・火曜――
セレスティア王宮・財政実務協議室。
午前8時。
国家共同事業の対象経費が分類された。
すでに施工し、支払った部分。
施工中で、既存契約がある部分。
これから新しく発注する工事。
保守用品。
緊急復旧用品。
施工部隊や技術者の人件費。
将来の設備更新。
公爵領が独自に負担する工事。
国家共同事業化とは、大商会の帳簿にある支出をすべて国庫が負担する制度ではない。
どこから国家が参加するのか。
そこを明確にする必要があった。
午前9時30分。
協議の中で、国庫80%、大商会20%という負担案が提示された。
だが、まだ正式決定ではない。
国家共同事業として承認された対象経費について、検討するための比率だった。
「仮に国庫が80%を負担するなら、支出審査は厳しくなります」
ヘレーネ財務卿が言った。
「当然です」
シェリィは答えた。
「大商会が20%を負担する場合も、その資金は自社で確保します」
「既存の第1期100 Miへ遡って80%を請求するつもりは?」
「ありません」
「公爵家が負担する部分は?」
「別契約です」
線引きが、少しずつ形になっていく。
午前11時。
法務面の協議へ移った。
国庫負担割合が、そのまま設備所有権割合になるとは限らない。
所有。
使用。
管理。
保守。
事故責任。
料金。
監査。
契約変更。
一つずつ、正式協定で定める方針となった。
ここでも、すべての条文をこの日に完成させることはしない。
正式契約は、次の段階へ引き継ぐ。
◇
同日午後1時――
クラウディア商務卿が、調達について確認した。
《アスタリア企業群》には、施工、製造、物流、倉庫などの機能がそろっている。
だが、9商会はアスタリア大商会の一部署ではない。
それぞれ独立した法人である。
「国家予算を使うなら、企業群だからという理由だけで発注先を決めることは認められません」
「承知しています」
シェリィは答えた。
市場相場。
実際原価。
品質。
納期。
契約条件。
合理的利益。
それらを確認し、公正な価格で取引する。
今までの適正価格原則を、国家共同事業でも維持する。
午後3時30分。
協議内容を受けたシェリィは、アスタリアへ連絡した。
「国庫負担は有力な方針になっています」
魔導通信の向こうに、ディートリヒ(熱供給事業部長)がいる。
「ただし、まだ契約していません。入金もありません」
『では、現在の資金確保制度を維持します』
「お願いします。将来入るかもしれない国庫資金を、今日使えるお金にはしないでください」
『承知しました』
国家が支援する方向へ進んでも、現場の帳簿が先走ることはなかった。
◇
星環暦1285年・創光月≪第1月≫21日・風曜――
セレスティア王宮・国王執務室。
午前9時。
九院から最終意見が提出された。
すべての院が同じ考えではない。
財務院は、支出証憑と監査を重視した。
法務院は、商業自由権と国家共同事業契約を分離するよう求めた。
農政国土院は、土地と施工管理を重視した。
商務院は、公正な調達制度を求めた。
それでも、条件を整えることを前提に、国家共同事業化という基本方向は共有された。
午前10時30分。
ジュリアンは、改めて父王へ進言した。
「目先の支出だけでなく、その先を見ていただきたいのです」
寒冷地の生活。
産業。
物流。
医療。
将来の経済。
ただし、将来の利益をすでに得たものとして扱うことはしない。
可能性は可能性として示す。
アーサーは九院の意見書を読み終えた。
午前11時30分。
「よかろう」
短い言葉だった。
ジュリアンが顔を上げる。
「《魔導熱伝導路》を、王国にとって重要な事業と認める」
アーサーは続けた。
「国庫を主たる財源とする国家共同事業化の方針を承認する」
正式な国家共同事業決定は翌日。
国家と大商会の個別契約も、まだ結ばない。
予算額も決めない。
80%という協議案も確定ではない。
国庫からの入金もない。
この日に決まったのは、王国がこの事業を自らの責任として担うという方針だった。 貼り付けたMarkdown
午後1時。
アーサーは財務院へ、正式契約が整った対象工事について支出審査を優先する準備を命じた。
急ぐ。
だが、証拠は省かない。
早く支払うために、必要な審査を先に進める。
午後2時。
エリアス法務卿が、もう一つの文書を国王へ提出した。
商業自由権の王令。
長く署名を待っていた文書だった。
アーサーは内容を確認する。
「明日、発布する」
◇
同日午後3時30分――
ジュリアンはシェリィへ国王の判断を伝えた。
「父上が、国家共同事業化の方針を認めた」
シェリィは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、まだ早い」
ジュリアンが言った。
「契約も、予算も、これからだ」
「はい」
「それと」
ジュリアンは少し間を置いた。
「明日、もう一つの約束も果たされる」
シェリィは静かに目を伏せた。
あの事件の最中。
王宮の権力争いに巻き込まれていた頃。
商売を、自分の意思で行えるようにする。
不当な権力介入から守る。
ジュリアンが交わした約束。
それが、ようやく王令になる。
◇
星環暦1285年・創光月≪第1月≫22日・水曜――
アスタリア地域内。
午前6時30分。
王都で歴史的な決定が行われようとしている朝も、工事はいつもどおり始まった。
第11工区から第16工区。
6施工部隊が資材と安全条件を確認する。
第17工区へ向かう施工第6部隊(C06)。
第18工区へ向かう施工第7部隊(C07)。
第19工区へ向かう施工第8部隊(C08)。
第20工区へ向かう施工第10部隊(C10)。
4部隊は、まだ移動中だった。
到着していない。
だから、施工距離は0.0 Miのまま。
国家共同事業化が決まりそうだからといって、現場の数字まで先に進めることはしない。
◇
同日午前9時――
セレスティア王宮《玉座の間》。
アーサー国王の前に、王令原本が置かれていた。
ジュリアン。
シェリィ。
九院長。
全員が立ち会う。
アーサーは署名を終えると、ジュリアンを見た。
「ジュリアン」
「はい、父上」
「お前が以前、約束したことだな」
「はい」
「王太子が交わした約束には、それに見合う責任がある」
「承知しております」
アーサーは、今度はシェリィへ視線を向けた。
「その責任を果たす時が来た」
シェリィは姿勢を正した。
「王国は、《アスタリア大商会》の正当な商業上の自由を保障する」
取引相手を選ぶ自由。
商品を選ぶ自由。
販売先を決める自由。
価格や供給量、契約条件を正当に決める自由。
王家や貴族、その他の権力者が、不当に強制介入することを禁ずる。
ただし、法令に基づく非常時の措置や、公正な司法・行政手続きは維持する。
王家は、その正当な権利を保護する。
王令として、正式に制度化する。
「陛下のご決断に、心より感謝申し上げます」
シェリィは静かに一礼した。
欲しかったのは、何をしても許される特権ではない。
正当に商売をする権利だった。
そして、その権利が約束ではなく制度になった。
◇
同日午前10時30分――
しかし、その日の決定はそれだけではなかった。
アーサーは別の文書を手に取った。
商業自由権の王令とは、別の文書。
《魔導熱伝導路》国家共同事業化の決定文書だった。
「続いて、《魔導熱伝導路》について王国の方針を示す」
シェリィが顔を上げる。
「王国は、国庫を主たる財源とし、《アスタリア大商会》と共同で本事業を推進する」
玉座の間が静まった。
「ただし、事業対象、予算、契約、所有、運営、監査、支払条件については、関係各院と大商会との正式協定によって定める」
商業自由権は守る。
国家共同事業には、公的監督を行う。
両方を成立させる。
そのため、2つの決定は別々に管理される。
この瞬間、《魔導熱伝導路》は一商会だけが背負う事業ではなくなった。
◇
同日午前11時――
玉座の間を退出した後、ジュリアンとシェリィは短く言葉を交わした。
「シェリィ嬢」
「はい、殿下」
「これからは、王国もこの事業を共に担う」
シェリィは、まっすぐにジュリアンを見る。
「でしたら、私どもも、その信頼に結果でお応えします」
「君たちだけに背負わせるつもりはない」
「王国が負う責任があります」
シェリィは答えた。
「そして、商会が負う責任もあります」
ジュリアンが頷く。
「その通りだ」
国庫から資金を受ける。
だから自由に使える。
そういう話ではない。
国家は国民の金を預かる。
商会は、その資金を使って結果を出す。
互いが責任を果たして、初めて成立する。
ジュリアンは静かに言った。
「共に担おう。王国の未来を」
シェリィも頷いた。
「はい」
それ以上の言葉は必要なかった。
◇
同日午後2時――
シェリィはアスタリアへ正式な魔導通信を入れた。
ディートリヒ(熱供給事業部長)が応答する。
「2つ、報告があります」
『伺います』
「商業自由権の王令が発布されました」
通信の向こうで、わずかな沈黙があった。
『正式に、ですか』
「はい」
『おめでとうございます、会長』
「ありがとう」
シェリィは続ける。
「もう1つ。《魔導熱伝導路》の国家共同事業化が正式に決まりました」
今度の沈黙は、少し長かった。
『国庫資金は?』
「まだです」
ディートリヒ(熱供給事業部長)はすぐ理解した。
『では、既存運用は変更しません』
「お願いします」
正式契約。
予算。
国庫負担割合。
支出審査。
実際の入金。
それらは、これからだった。
王国が支えると決めたことと、金が入ったことは同じではない。
だから現場は、今日までのルールで動き続ける。
◇
同日午後4時――
アスタリア大商会本部・工事管理室。
レオンハルト(建設課長)のもとへ、創光月22日の施工報告が集約された。
総施工距離131.8 Mi。
施工進捗率43.93%。
残施工距離168.2 Mi。
連続通熱距離100.0 Mi。
第17工区から第20工区へ向かう4施工部隊は、まだ移動中。
だから、その4工区は0.0 Miのまま。
王国が国家共同事業化を決めた日も、現場は実際に進んだ距離だけを記録した。
◇
同日夕刻――
王都セレスティア。
シェリィは、その日の最後に届いた施工報告を開いた。
131.8 Mi。
目標は300.0 Mi。
残り168.2 Mi。
100.0 Miは通熱している。
だが、ヴァルモント公爵領へ向かう熱路は、まだ完成していない。
国家共同事業化が決まったからといって、明日からすべてが変わるわけでもない。
契約を結ぶ。
予算を決める。
支出を審査する。
資金を受け取る。
工事を進める。
検査する。
保守する。
これからやるべき仕事は、むしろ増えた。
それでも、1つだけ大きく変わったことがある。
これまでは、《アスタリア大商会》が中心となって背負ってきた。
今日からは、王国自身も責任を負う。
ジュリアンが約束を守った。
アーサーが国王として判断した。
九院も、それぞれの責任から条件を示した。
そしてシェリィも、国家の金を受ける責任を引き受けた。
シェリィは施工進捗表へ目を落とす。
131.8 Mi。
まだ半分にも届いていない。
「ここからね」
小さく呟いた。
王国が未来を与えてくれるのではない。
商会だけが未来を造るのでもない。
それぞれが、自分の責任を引き受ける。
そうして初めて、遠い未来へ続く道になる。
アスタリアからヴァルモント公爵領へ。
その1本の熱路は今、王国と商会が共に担う道になった。
お読みいただきありがとうございます。
創光月16日から22日にかけて、《魔導熱伝導路》事業は大きな転換点を迎えました。
第1期100.0 Miの連続通熱を維持しながら、第2期は31.8 Miまで施工が進み、アスタリア側総施工距離は131.8 Miとなっています。
一方、厳寒下での運用や今後の建設費を通じて、一商会だけで長距離インフラを支え続けることの難しさも見えてきました。
そこでジュリアンは、国家が必要とする事業なら国家自身も費用と責任を担うべきだと判断し、アーサー国王へ正式に進言します。
国王と九院による審議では、国庫負担だけでなく、監査、公正な調達、所有、保守、事故責任、大商会の独立性まで議論されました。
そして創光月22日、商業自由権の王令が正式に発布され、《魔導熱伝導路》の国家共同事業化も決定しました。
ただし、国庫負担割合、正式予算、国家と大商会の契約、最初の国庫支出はまだこれからです。
現在建設しているのは、アスタリアからヴァルモント公爵領までを結ぶ長距離《魔導熱伝導路》です。
その完成まで、残施工距離は168.2 Miあります。
一商会が未来を背負う段階から、王国と商会がそれぞれの責任を持って未来を造る段階へ。
物語も、ここから新しい局面へ進みます。
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