第69話:シェリィの想いが造られていく
星環暦1284年・実成月≪第10月≫11日・土曜――
アスタリア大商会本部。
朝一番にシェリィのもとへ届けられた封書には、ヴァルモント公爵家の紋章が押されていた。
先日アスタリア大商会から送ったのは、《魔導熱伝導路》を利用してアスタリアからヴァルモント公爵領まで熱を長距離輸送できる可能性について、共同で予備調査を行いたいという申し入れであり、熱供給契約でも建設提案でもなかった。
シェリィが封を開き、ローランド・ヴァルモント公爵からの回答を読み進める。
ヴァルモント公爵家は、共同予備調査を正式に受け入れる。
そのうえで、需要候補地域に関する情報、領内の地形・街道資料、現地調査への協力、《熱継送所》候補地となり得る土地の確認、土地利用上の条件、将来的な維持管理条件について、公爵家側も必要な情報を提供するという内容だった。
ただし、アスタリアで熱供給に成功したからといって、ヴァルモント公爵領でも同じように使えると決めつけてはいないことも明記されている。
距離が変われば条件も変わるため、まず調べ、その結果を見て次へ進む。
シェリィは最後まで読むと、僅かに表情を和らげた。
「その方がいいですね」
机の向かいにいたエルマー(技術研究部長)が頷く。
「こちらとしても、最初から建設を前提にされるより調査しやすくなります」
「できるかどうかを確認する前に、できると約束してしまうわけにはいきませんから」
ヴァルモント側も同じ考えだった。
それだけで、共同調査を始めるための最初の条件は整った。
◇
同日午前――
アスタリア大商会・技術研究部会議室。
ヴァルモント公爵家から正式な受諾が届いたことで、準備段階だった長距離熱供給予備調査班が正式に始動することになった。
技術面の取りまとめはエルマー(技術研究部長)が担当し、測量・施工分野についてはグローヴァー建設商会、素材と耐久性についてはベルナート精製素材商会、計測・制御についてはケストラー魔導機器商会、資材輸送と現地への到達性についてはラインフェルト運輸商会へ、それぞれ必要な業務を整理したうえで正式に発注する。
《アスタリア企業群》に属しているという理由だけで、人員や設備を無償で動かすことはしない。
業務範囲、必要人員、納期、価格、責任範囲を定め、それぞれ独立した商会との通常取引として契約する。
会議室の中央には、アスタリアからヴァルモント公爵領までを含む大きな地図が広げられていた。
技術者の一人が最短距離と思われる経路へ指を伸ばしかけたが、シェリィはその前に口を開いた。
「線を引く前に、一つ決めておきませんか」
集まった者たちの視線が向く。
「どこを通すかではなく、何を満たせば造ってよいと判断するのかです」
エルマー(技術研究部長)がすぐに記録担当へ目を向けた。
長距離《魔導熱伝導路》を建設可能と判断するためには、単に終点まで熱が届くことだけでは足りない。
冬季の低温下でも必要な熱量を届けられること、アスタリア側の安全予備能力を削らないこと、《魔導流体》が長距離運用でも安定すること、《熱継送所》によって適切に補熱できること、故障した区間だけを隔離できること、冬季でも保守員が現場へ到達できること、部品・魔石・《魔導流体》を交換できること、事故時に停止できること、停止後に安全確認を経て再起動できること、そして維持費を継続的に負担できることまで確認しなければならない。
シェリィは並べられた条件を見渡した。
「造れることと、使い続けられることは違います。完成した日に動く設備ではなく、その先の冬も使える設備にしてください」
《アスタリア熱供給網・第一期》でも、熱が届いた時点を完成とはしなかった。
長距離になっても、その考えを変える理由はなかった。
◇
同日昼――
アスタリア中央集落。
会議を終えたシェリィは別の施設へ向かう途中、初雪の残る中央集落を歩いていた。
道路脇には薄く白い雪が残り、屋根にもところどころ白さが見えるが、住宅の窓からは暖かな空気に曇った硝子が見え、作業員宿舎では夜勤を終えた者たちが厚い上着を脱いで室内へ入り、病院では診療と療養に必要な温度が保たれ、店舗や工房でも以前のように寒さだけを理由に作業を止める時間が減り始めていた。
シェリィは足を止め、少し離れた住宅を見た。
最初から、世界を変えようと思っていたわけではない。
巨大な国家事業を起こしたかったわけでも、誰かより大きな商会を作りたかったわけでもない。
寒い土地で暮らす人が、冬が来るたびに怯えなくてもよい場所にしたかった。
そのために熱を作る方法を考え、熱を運ぶ方法を考え、止め方と直し方を考え、ようやく街の中へ熱を届けた。
今では、その先を調べるための書簡がヴァルモント公爵家との間を往復している。
シェリィは白い息を吐き、再び歩き始めた。
自分が望んだことは、今も変わっていない。
ただ、そのために必要なものの範囲が、少しずつ広くなっていた。
◇
同日午後――
アスタリア大商会・技術研究部。
エルマー(技術研究部長)は、グラン・アルスター大公国へ送る定例の技術報告を確認していた。
記載された内容は事実だけだった。
《アスタリア熱供給網・第一期》が完成したこと、中央集落で初雪を迎えたこと、低温下でも熱供給が安定していること、《魔導熱伝導路》と《魔導流体》が実際の生活圏で運用されていること、そしてヴァルモント公爵領への長距離熱供給について共同予備調査を開始したこと。
そこに、「グラン・アルスター大公国にも供給できる」という文言はない。
まだ証明していないことを、可能であるかのようには書かなかった。
エルマー(技術研究部長)は報告書を閉じ、発送を指示した。
◇
グラン・アルスター大公国。
届けられた報告書を読んでいたレオンハルト大公の目が、一つの記述で止まった。
アスタリアからヴァルモント公爵領への長距離熱供給予備調査開始。
《アスタリア熱供給網・第一期》が完成したことも重要だったが、彼が長く見たのはその先だった。
これまでは、アスタリアという限られた地域の中で熱を作り、送り、管理する技術だった。
しかし長距離輸送が成立すれば、その意味は変わる。
熱源を持つ土地と、熱を必要とする土地が同じ場所である必要がなくなる。
近くにいた側近が報告書へ目を向けた。
「大公国でも、検討を始めますか」
レオンハルト大公はすぐに首を縦には振らなかった。
「まだ早い」
アスタリアの内部で成功したことと、領地を越える距離で成功することは同じではない。
距離が伸びれば熱損失が変わり、《熱継送所》の数も、維持費も、冬季保守の条件も変わる。
「ヴァルモントまで、まだ一度も熱は届いておらぬのであろう」
「はい」
「ならば、まず結果を見る」
レオンハルト大公は報告書を机へ戻した。
「今後、長距離熱伝導に関する報告は優先して届けよ」
正式な供給要請は出さない。
だが、その技術がアスタリアだけのものではなくなる可能性を、大公国側も意識し始めていた。
◇
星環暦1284年・実成月≪第10月≫12日・闇曜――
アスタリアからヴァルモント公爵領方面・長距離熱供給予備調査区域。
予備調査班は、アスタリア側の熱源設備から領境、その先にあるヴァルモント公爵領側の最初の供給候補地域までを対象に、現地調査を開始した。
まだ建設工事ではないため、地面を大きく掘削することも、《魔導熱伝導路》を敷設することもない。
地形を測り、積雪状態を見て、街道と既存拠点を記録し、資材を運べるか、保守員が冬季にも到達できるかを一つずつ確認していく。
事前に作られた地図では、最短距離となる候補経路が一つあった。
しかし実際に歩いてみると、一部は急な斜面を通り、積雪が増えれば人員の接近が難しく、資材を運び込むにも不向きな場所が続いている。
地図の上では短い。
だが、故障した時に修理へ入れない。
調査担当者から報告を受けたシェリィは、迷わず判断した。
「第一候補から外してください」
「距離は少し長くなります」
「構いません。壊れた時に、人が直せることを優先してください」
アスタリア内部で何度も守ってきた原則を、領境へ向かう路線だからといって変えることはしなかった。
◇
同日昼――
予備調査班は、《熱継送所》の候補地についても複数地点を比較していた。
単純に一定距離ごとへ配置すればよいわけではない。
標高が違えば気温も変わり、谷間と開けた場所では風の強さが異なり、積雪量も地盤も資材搬入の容易さも変わるうえ、周辺に集落や工房があれば、将来そこから支線を分ける可能性も出てくる。
一つの地点では距離条件は良好でも、冬季に街道から到達するのが難しい。
別の地点では距離は少し伸びるものの、既存の街道から資材を運び込みやすく、保守拠点を置く余地もある。
エルマー(技術研究部長)は候補地点ごとの記録を見比べた。
「一律の間隔で置くことはできませんね」
「最初から何キロメートルごと、と決めなくてよかったですね」
シェリィも地図へ視線を落とす。
必要な場所を、実際の熱損失と地形条件から決める。
長距離化するほど、その原則の重要性は増していた。
◇
同日午後――
アスタリア・ヴァルモント公爵領境。
技術的には、一本の《魔導熱伝導路》をさらに先へ延ばしていくだけにも見える。
しかし調査線が領境へ達したところで、それまでとは違う問題が現れた。
ここから先は、ヴァルモント公爵領である。
土地を誰の権限で使用するのか。
《熱継送所》を置く土地を誰が確保するのか。
アスタリア側の保守員が、緊急時にどの手続きで領境を越えるのか。
設備の警備をどちらが担うのか。
破損事故が起きた場合の責任はどちらにあるのか。
ヴァルモント側へ入った設備は誰の所有物になるのか。
故障時にアスタリア側の技術者が修理する権限を、どこまで認めるのか。
シェリィは領境を示す標識と、その向こうへ続く街道を見た。
「ここから先は、技術だけでは決められませんね」
エルマー(技術研究部長)も頷いた。
性能が足りるかどうかだけで線を引けるのは、自分たちの領域の中までだった。
領境を越えれば、土地、責任、警備、所有、保守権限という別の仕組みが必要になる。
調査班は、それらをヴァルモント公爵家との正式協議事項として記録した。
◇
星環暦1284年・実成月≪第10月≫13日・光曜――
アスタリア大商会・技術研究部。
ヴァルモント公爵家から、予備調査に使用する需要候補資料が届けられた。
まだ何世帯へ何単位の熱を送るという段階ではない。
示されているのは、将来供給を検討する場合に優先候補となる施設の種類だった。
病院などの生命維持施設、公共施設、住宅が集まる地域、宿舎、食料・物流拠点、主要工房。
シェリィは資料を確認すると、アスタリア側の熱供給記録と並べた。
「ヴァルモント側で必要な熱と、私たちが送れる熱は別に考えましょう」
相手が必要とする量を、そのまま供給量として約束することはできない。
アスタリア住民の冬季需要、病院などの生命維持施設、異常低温への備え、設備故障時の予備能力、さらに今後アスタリア内部で増える需要を先に確保しなければならない。
そのうえで残るものだけが、外部へ供給できる熱になる。
シェリィの優先順位は、領境の外に需要が生まれても変わらなかった。
◇
同日午前後半――
現地調査の結果が、大きな地図へ反映されていった。
最短距離に近い候補は一部で保守性に難があり、別の候補は距離が少し長くなるものの既存街道や拠点を利用しやすい。
さらに、将来途中の集落や施設へ支線を追加する場合に有利な経路も候補として残された。
この段階では一本に絞らない。
具体的な距離、工事費、《熱継送所》の数についても、まだ決めない。
比較できる候補を作り、それぞれの長所と欠点を明らかにする。
その作業の中で、もう一つの設計条件も再確認された。
《魔導熱伝導路》には方向性がある。
現在考えているのは、アスタリアからヴァルモントへ熱を送る路線だが、将来どこか別の地域に新たな熱源が生まれれば、逆方向から熱を送る可能性もある。
「今すぐ2本造る必要はありません」
シェリィは地図上の重要区間を指した。
「ただ、将来もう一本を通したくなった時に、最初の設備が邪魔になる造り方は避けてください」
将来の逆方向路線や追加接続を妨げないよう、土地、接続位置、設備空間に余地を残す。
目の前の一方向だけで、未来の選択肢を塞がないためだった。
◇
同日午後――
アスタリア大商会・技術研究部。
エルマー(技術研究部長)は、机上に並べられた2枚の地図を見ていた。
一枚には、完成した《アスタリア熱供給網・第一期》。
もう一枚には、アスタリアの外へ向かう複数の予備調査線。
少し前まで、彼らが考えていたのは、一つの試験用建物へどう熱を届けるかだった。
それが住宅や宿舎、病院、倉庫、工房を結び、今では領境の向こうまで調査対象が伸びている。
さらに、その進捗をまとめた報告書は、遠くグラン・アルスター大公国でも読まれている。
エルマー(技術研究部長)は、少し離れた場所で新しい調査資料を確認しているシェリィへ視線を向けた。
彼女自身は、目の前の問題を一つずつ解いているだけなのだろう。
どうすれば暖かく暮らせるか。
どうすれば安全に熱を運べるか。
どうすれば壊れた時に直せるか。
どうすれば、自分たちの生活を危険にせず他の土地へ届けられるか。
けれど、その一つ一つが積み重なり、いまや地図の上へ一本ずつ線として現れ始めている。
エルマー(技術研究部長)は、何も言わずに資料へ視線を戻した。
本人より先に、周囲の人間の方が、その広がりに気づき始めていた。
◇
グラン・アルスター大公国。
追加で届けられた報告を読み終えたレオンハルト大公は、それを保管するよう側近へ渡した。
ヴァルモント公爵領への予備調査が始まり、最短距離より保守可能性を重視していること、《熱継送所》候補地を一律間隔ではなく地形条件で選ぶこと、領境を越えることで技術以外の問題も生じ始めていることが記されている。
側近が尋ねた。
「引き続き、様子を見ますか」
「ああ」
レオンハルト大公は短く答えた。
まだ、大公国から供給を求める段階ではない。
だが、単にアスタリアで新しい技術が生まれたというだけの話でもなくなっていた。
「ヴァルモントまで実際に熱が届いた時には、すぐ知らせよ」
「承知いたしました」
それ以上の命令は出なかった。
結果を見る。
その姿勢は変わらなかった。
◇
同日夕刻――
アスタリア大商会・技術研究部。
シェリィの机には、完成した《アスタリア熱供給網・第一期》の地図と、ヴァルモント公爵領までを含む予備調査地図が並べられていた。
第一期の地図に描かれた線は、熱源から中央集落へ伸び、そこから住宅、宿舎、病院、倉庫、工房へ分かれている。
その隣の地図では、まだ細い調査線にすぎない複数の線が、アスタリアの境界を越えてヴァルモント公爵領の方向へ伸びていた。
どの線を使うかは決まっていない。
建設することさえ、まだ決まっていない。
それでも、少し前までアスタリアの中だけで終わっていた熱の線が、今は別の土地へ続こうとしている。
シェリィは、その地図を静かに見つめた。
彼女が欲しかったのは、世界を支配する力ではない。
巨大な経済圏を造ることでもない。
始まりは、もっと小さかった。
寒い場所で、人が暖かく暮らせるようにしたかった。
その想いから生まれた熱源が設備になり、《魔導熱伝導路》になり、街を暖め、今度は領境を越えるための調査線へ姿を変えている。
シェリィには、それがどこまで広がるのかまだ分からない。
彼女はただ、目の前にある次の課題を確かめようとしていた。
けれど、その想いはもう、心の中だけにあるものではなかった。
人が暮らす建物になり、地下を走る設備になり、冬を越す熱になり、そして今、地図の上へ伸びる線として造られ始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
ヴァルモント公爵家が共同予備調査を正式に受け入れ、長距離熱供給の検討が現地調査の段階へ入りました。
最短距離より保守できる経路を優先し、《熱継送所》についても一律の間隔ではなく、地形・積雪・風・資材搬入・保守性などを確認しながら候補地を選んでいます。
また、領境を越えることで土地使用、警備、設備所有、修理権限、責任分界といった技術だけでは決められない課題も見え始めました。
シェリィが最初に望んだのは、寒い土地で人々が暖かく暮らせるようにすることであり、その想いから造られた仕組みが、少しずつアスタリアの外へ広がろうとしています。
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