第57話:10社の信用を、1つの決済網にする
星環暦1284年・恵雨月≪第8月≫20日・火曜――
アスタリア大商会本部・会長執務室
朝の執務が始まって間もなく、総務財務部から前日に作成された書類一式がシェリィのもとへ届けられた。
企業群9社が《アスタリア経営者会議》の席で記入した、一般向け独自小切手帳の発行申請書だった。
担当者が確認済みの書類を机上へ置く。
「会長、昨日お預かりした9社分の独自小切手帳発行申請について、添付書類を含めた確認が完了いたしました。不備はございませんので、本日正式に発送いたします」
シェリィは申請一覧へ目を通した。
ラインフェルト運輸商会、モーゲン食品卸商会、シルヴァン繊維商会、ケストラー魔導機器商会、ベルナート精製素材商会、グローヴァー建設商会、ヴァルデン倉庫商会、フォルスター車両製作商会、ハインデル商業印刷・紙工商会の9社すべてが揃っている。
「お願いします」
「かしこまりました」
昨日決めたことを、翌日に実行する。
それだけの確認を終えると、シェリィは別の分厚い資料へ手を移した。
表紙には、《アスタリア企業群内決済小切手・制度協議資料》と記されている。
今日の本題はこちらだった。
前日の経営者会議で生まれた構想を、便利そうだからという理由だけで始めるわけにはいかない。
アスタリア大商会を含む10社だけで利用するとはいえ、小切手は信用を金貨の代わりとして動かす仕組みである。
制度を間違えれば、取引を速くするどころか、1社の資金問題を残る9社へ伝播させる可能性さえある。
そのためシェリィが用意させたのは、制度案だけではなかった。
企業群加入前の9社それぞれの貸借対照表と損益計算書。
企業群加入後の最新月次貸借対照表と損益計算書。
売上高推移。
企業群内部で発生した取引件数と取引額。
外部企業との売上・仕入れ状況。
今後予定される北方支部、住宅建設、《アスタリア熱供給都市実験実証区画》、魔導通信、物流、素材研究に伴う決済見込み。
すべてを数字で説明できるようにしていた。
銀行へ条件を要求する以上、こちらも銀行にとっての利益を証明しなければならない。
シェリィは最後の資料を閉じた。
「では、王国銀行へ向かいましょう」
◇
同日午前――
王国銀行・アスタリア仮支店・会議室
王国銀行側からは、アスタリア支店の開設責任者、企業決済担当者、口座管理担当者、法務担当者が席についていた。
アスタリア大商会側にはシェリィを中心として、総務財務部と法務担当者が同席している。
新しい支店建物はすでに引き渡されているが、正式開業は恵雨月25日。
それまで銀行業務そのものが止まっているわけではなく、現在も仮支店で通常業務は続けられていた。
冒頭の挨拶を終えると、シェリィは制度概要を記した資料を相手側へ差し出した。
「本日ご相談したいのは、一般向けの独自小切手とは別の決済制度についてです」
銀行側の決済担当者が資料を開く。
「《アスタリア企業群内決済小切手》」
「はい」
シェリィは頷いた。
「利用できるのは、アスタリア大商会と企業群9社の合計10社だけです。企業群外の企業や個人への振出、譲渡、裏書による第三者への移転は認めません」
法務担当者がページをめくる。
「一般市場では使用できない、と」
「はい。新しい通貨を作りたいわけではありません」
シェリィは明確に答えた。
「実際に存在する商品・役務・工事・物流など、10社間で成立した正式な取引債務を決済するための証書です」
「白地での振出は?」
「禁止します。振出会社・受取会社・金額・振出日・決済期限・取引番号を必須とします」
「企業群外へ流出した場合は?」
「決済対象外です」
法務担当者が頷きながら記録する。
銀行側の開設責任者が尋ねた。
「なぜ一般の独自小切手では足りないのでしょうか」
シェリィはその質問を待っていた。
「企業群になってから、10社間の取引そのものが急速に増えているからです」
総務財務部の担当者が、別の資料を配布した。
シェリィが続ける。
「こちらは企業群9社の加入前と現在の貸借対照表、損益計算書、それに売上高と企業群内取引の推移をまとめたものです」
銀行側の空気が変わった。
制度構想だけを持ち込まれたと考えていた担当者たちが、数字へ視線を落とす。
企業群加入以前、資金繰りに余裕を失い、取引縮小や設備更新延期を余儀なくされていた会社も少なくなかった。
現在は9社すべてが同じ割合で伸びているわけではない。
それでも加入前と比較して売上高は増加し、企業群10社間で発生する商取引も明確に増えている。
銀行側の企業決済担当者が、数枚の資料を行き来する。
「建設と魔導機器の取引増加が大きいですね」
「北方での設備整備がありますから」
「運輸と倉庫も増えている」
「物資量そのものが増えています」
シェリィは別表を示した。
「今後、アスタリア支部への人員移動、住宅建設、実証区画、熱供給設備、通信設備、車両、食料、衣料、印刷物まで動きます。10社間の決済件数は、現在よりさらに増えると見ています」
開設責任者は資料を閉じずに尋ねた。
「なるほど。そこで企業群専用小切手ですか」
「はい」
「しかし銀行から見れば、決済事務は増えます」
「ですから、その点も含めて条件をご相談したいのです」
シェリィは、交渉条件を記した資料を前へ出した。
口座開設料は1社につき銀貨10枚。
月額口座管理料は0。
通常決済手数料も0。
通常口座照会料も0。
特殊な支払停止、不渡り処理、法的手続きその他通常業務を超える特殊事務についてのみ、実費を負担する。
銀行側の決済担当者が顔を上げた。
「かなり踏み込んだ条件ですね」
「承知しています」
「口座を10社分作り、その管理を行い、決済件数が増えても、通常決済では手数料を取らないと?」
「はい」
一瞬、会議室が静かになった。
開設責任者が資料を置く。
「王国銀行側に何の利益がありますか」
シェリィはその問いにもすぐ答えなかった。
代わりに、企業群内取引推移と資金計画を並べた資料を相手へ向ける。
「決済1件ごとに費用を取れば、企業は決済回数そのものを減らそうとします」
銀行側が聞いている。
「今回作りたいのは、その逆です」
シェリィは10社間取引額の推移を指した。
「企業同士が必要な時に、必要な取引をためらわず行えるようにしたいのです」
「それだけなら、アスタリア側の利益です」
「もちろんです。ですが、決済はすべて王国銀行で行います」
そこで、銀行側の決済担当者が僅かに眉を動かした。
シェリィは続ける。
「10社それぞれに専用決済準備金口座を開設します。そして《アスタリア企業群内決済小切手》の未決済残高に応じて、一定割合の準備金を維持します」
「割合は?」
「10%を提案します」
金貨500枚の未決済小切手が存在する会社なら、金貨50枚。
金貨1,000枚なら、金貨100枚。
未決済残高が増えるほど、王国銀行へ置かれる決済準備金も増える。
しかも小切手が決済される時には、原則として王国銀行内部の口座間で資金が移動する。
銀行側の口座管理担当者が資料へ目を落とした。
「つまり、この制度が使われれば使われるほど、企業群10社の決済資金が当行内へ集まる」
「はい」
「決済件数も増える」
「はい」
「それでも1件ごとの手数料は取らない方がよい、と」
シェリィは頷いた。
「手数料を取らないことそのものが目的ではありません。企業間の現金の動きを良くすることが目的です」
そして少し間を置いた。
「利用を増やすことで王国銀行にも利益が出る仕組みにしたいのです。決済1回から利益を取るのではなく、決済網全体が大きくなることから利益を得ていただきたいと考えています」
銀行側の開設責任者は、再び9社の貸借対照表と損益計算書へ視線を戻した。
加入前。
現在。
売上高。
取引額。
そして今後の事業計画。
数字がなければ、ただの値下げ要求にしかならなかっただろう。
しかし、目の前には企業群化によって実際に商取引が増えている証拠がある。
「固定の振出限度額は?」
決済担当者が尋ねた。
「設けない方がよいと考えています」
今度は銀行側の数人が同時に顔を上げた。
シェリィは説明を続ける。
「一般向け独自小切手の初回限度額は金貨50枚ですが、今回の仕組みは10社間の企業取引だけです。建設設備で金貨数百枚になる場合もあれば、印刷物でそれよりずっと小さくなる場合もあります」
「だから一律の金額上限を置かない?」
「はい。その代わり、未決済残高の10%を準備金として維持していただきます」
企業決済担当者が考え込む。
「会社が大きな小切手を振り出せば、拘束される準備金も増える」
「そうです」
「取引規模に応じて、利用可能な信用額が変化する仕組みですね」
「はい。企業が成長するたびに限度額を改定するより、その方が自然だと思います」
法務担当者が確認する。
「ただし準備金を置いたからといって、アスタリア大商会が残る90%を保証するわけではない?」
「保証しません」
シェリィは即答した。
「振出会社の債務は、その会社の債務です。企業群だからという理由だけで、アスタリア大商会が自動的に保証する制度にはしません」
その言葉に、王国銀行側の緊張が少し緩んだ。
親会社が何でも保証する制度ではない。
逆に、何でも助けてもらえると考えた企業が無制限に信用を膨らませる仕組みでもない。
しばらく銀行側だけで小声の確認が交わされた。
やがて開設責任者が顔を上げる。
「条件を整理します」
会議室が静まる。
「専用決済準備金口座の開設料は1社につき銀貨10枚。月額口座管理料は0、通常決済手数料は0、通常の制度運営上必要な口座照会も0とします」
シェリィは聞き続ける。
「未決済残高の10%を専用決済準備金として維持し、通常業務を超える支払停止・不渡り処理・法的対応・特別調査等については実費をご負担いただく」
「問題ありません」
「固定の振出限度額は設けない」
「はい」
「ただし、制度の運営状況について当行とアスタリア大商会で定期的に確認する」
シェリィは一度資料を確認してから頷いた。
「それでお願いします」
開設責任者が右手を差し出す。
「では、その条件で進めましょう」
シェリィも手を伸ばした。
「ありがとうございます」
こうして、金貨を運ぶ回数を減らすために始まった構想は、10社専用の決済網として制度の骨格を得た。
◇
同日正午――
王国銀行・アスタリア仮支店・会議室
次に協議されたのは、誰がその決済網を監視するのかだった。
王国銀行側の担当者が確認する。
「当行は専用決済準備金口座と実際の資金移動を管理します。しかし、小切手帳そのものの発行、番号管理、各社の振出残高管理は御商会側ですね」
「はい」
シェリィは答えた。
「そのため、《アスタリア企業群決済管理室》を新設します」
アスタリア大商会本部の隣にあるオフィスビルの一画を専用区画として使用し、小切手帳の発行・追加発行・会社識別番号・冊子番号・個別小切手番号・振出総額・決済済額・未決済残高・準備金・流通量を一元管理する。
ただし、資金そのものを預かるわけではない。
管理室は銀行ではない。
資金保管と実決済は王国銀行。
管理室は発行と流通監視。
そして各社の経営判断は、それぞれの会社に残す。
王国銀行の口座管理担当者が尋ねた。
「管理室には専用準備金口座への照会権限が必要になりますね」
「そのつもりです」
「かなり強い権限です」
「承知しています」
シェリィの表情が僅かに引き締まった。
「ですから、アスタリア大商会で最も厳しい情報管理部門にします」
王国銀行側が静かになる。
「口座照会を行った者、日時、対象会社、照会項目、照会目的をすべて記録します。取得した情報を営業活動や価格交渉に利用することも、企業群内外へ流すことも禁止します」
「会長であるあなた自身は?」
その問いに、シェリィは迷わなかった。
「私も同じです」
銀行側の法務担当者が顔を上げる。
「会長権限で自由に閲覧することはしない、と?」
「制度監督、重大な信用リスクの確認、経営者会議への必要な報告など、正当な目的がある場合に限ります」
シェリィは資料を閉じた。
「信用を守るための制度なのに、その制度を管理する者が信用されなければ意味がありませんから」
王国銀行側の法務担当者が、ゆっくり頷いた。
「それならば、守秘義務規程についても当行側と整合させましょう」
「お願いします」
重大な情報漏洩は即時の職務停止対象。
懲戒審査。
決済関連職務への再就任禁止。
損害が発生すれば損害賠償。
悪質な利益供与や情報売買など、違法性が疑われる場合は司法機関への通報対象とする。
信用を見る者には、信用を裏切れない仕組みを先に置く。
その原則も決まった。
◇
同日午後――
アスタリア大商会本部・会議室
王国銀行から戻ったシェリィは、すぐに《アスタリア企業群決済管理室》の初期人員選定へ移った。
候補者には、経理・資金管理・決済・証書番号管理・内部監査・情報管理の経験者が集められていた。
求められたのは、計算の速さだけではない。
他社の資金状況を見ても、それを面白半分に話さないこと。
数字が大きく動いても、感情で危険と決めつけないこと。
自分の上司から求められても、目的外の情報提供を断れること。
そして、自分自身も監査されることを受け入れられること。
最終的に8名が選ばれた。
コンラート・ヴェルナー(48・アスタリア大商会総務財務部決済統括主任)が、初代室長。
マティアス・エーベル(43・アスタリア大商会内部監査担当主任)が、副室長兼内部統制責任者。
エルザ・クレーマー(39・王都商業ギルド系決済事務所口座決済担当)が、決済・口座管理主任。
ユリウス・ハルトマン(34・アスタリア大商会総務財務部資金管理担当)が、決済・口座管理担当。
レオニー・ファルク(36・アスタリア大商会文書管理室主任)が、小切手帳・番号管理主任。
オットー・ベルガー(31・商業ギルド登録事務所証書登録担当)が、小切手帳・番号管理担当。
イレーネ・ヴォルフ(45・アスタリア大商会上級内部監査担当)が、監査・情報管理主任。
ニコラス・ライナー(37・アスタリア大商会契約管理部門情報取扱監査担当)が、監査・情報管理担当。
8名が揃った会議室で、シェリィは最初にコンラートを見る。
「管理室は企業群10社の信用状態を見ることになります」
「承知しております」
コンラートは落ち着いた声で答えた。
「ですが、数字が増えたという理由だけで、他社の経営へ介入することは認めません」
「異常値を確認し、事実を報告し、判断は経営者会議へ渡します」
シェリィは頷いた。
「お願いします」
次にマティアスが口を開く。
「重要な口座照会と支払停止関連処理については、担当者単独で完結させず、二重確認を原則としたいと考えています」
「採用します」
「管理室職員自身の照会履歴も監査対象とします」
「それもお願いします」
イレーネは用意された情報管理規程を読み終えると、シェリィへ確認した。
「会長からの依頼でも、制度目的外の照会であれば拒否してよろしいですね」
室内が少し静かになった。
シェリィは表情を変えなかった。
「もちろんです」
イレーネが一度だけ頷いた。
「それなら引き受けます」
その返答に、シェリィは僅かに笑った。
「そのためにお願いしました」
管理室の8名は、守秘義務規程と情報管理規程を順番に確認し、署名した。
誰が・いつ・どの情報を照会したのかを記録すること。
帳票や口座情報を私物として持ち出さないこと。
許可のない複製を行わないこと。
営業・仕入れ・契約交渉その他決済管理以外の目的へ使用しないこと。
企業群内外を問わず、第三者へ情報を漏らさないこと。
最も強い情報を見る部門だからこそ、最も強く自分たちを縛る。
《アスタリア企業群決済管理室》は、そういう部署として始まることになった。
◇
同日午後――
アスタリア大商会本部・購買会議室
制度が決まれば、次に必要なのは実際の小切手帳だった。
王国銀行との協議で確定した要件を基に、帳票仕様がまとめられる。
会社識別番号、冊子番号、個別小切手番号を組み合わせ、どの会社へ渡されたどの冊子の何枚目なのかを追跡できるようにする。
受取会社、振出金額、取引番号、振出日、決済期限を記入する欄を設け、企業群外では決済できないことも明記する。
専用紙と番号管理、複製防止措置も必要になる。
印刷先として候補に挙がったのは、ハインデル商業印刷・紙工商会だった。
シェリィは確認する。
「企業群の会社だからという理由ではありませんね?」
購買担当者が頷く。
「はい。専用帳票の製造実績、番号管理能力、納期、価格を確認しております。今回の仕様ではハインデル商業印刷・紙工商会が条件を満たしています」
「では正式に発注してください」
「初回は10社分、それぞれ1冊でよろしいでしょうか」
「はい。追加発行は決済管理室で利用状況を確認してからにします」
その日のうちに正式発注書が作成された。
納品予定日は恵雨月24日。
印刷・番号登録・製本・全数検査を終えた後、《アスタリア企業群決済管理室》が受入検査を行う。
欠番・重複番号・印刷不良・会社識別番号の誤りが1つでもあれば、その冊子は引き渡さない。
小切手帳が入荷した後、王国銀行アスタリア支店で10社それぞれの専用決済準備金口座を開設し、口座情報と小切手帳番号を紐付ける。
そして恵雨月25日・光曜。
新しい王国銀行アスタリア支店が正式に開業する日に、10社へ最初の小切手帳を引き渡し、《アスタリア企業群内決済小切手》の運用を開始する予定となった。
◇
同日夕刻――
アスタリア大商会本部・《アスタリア経営者会議》会議室
10社の代表が席につく中、いつもの経営者会議とは少し違い、会議室の一角には新たに任命された8名が並んでいた。
シェリィが立ち上がる。
「本日の王国銀行との協議で、《アスタリア企業群内決済小切手》の基本条件について合意しました」
各代表の表情が引き締まる。
「固定の振出限度額は設けません。その代わり、未決済残高の10%を王国銀行の専用決済準備金口座へ維持します」
ルートヴィヒが頷く。
「前回話していた、金貨50枚のような固定上限はなくなったわけですな」
「はい。取引規模が大きくなれば、その分必要な準備金も大きくなります」
シェリィは続ける。
「王国銀行との条件は、口座開設料が1社銀貨10枚、月額口座管理料0、通常決済手数料0、通常口座照会料0です。特殊な支払停止や不渡り処理などについてのみ実費となります」
ブルーノが思わず笑った。
「決済するたびに料金が取られないのはありがたいですな」
「利用を減らすための制度ではありませんから」
シェリィも僅かに笑った。
「使いやすくして、10社間の取引を速くするための制度です」
そして、会議室の一角に立つ8名へ視線を向けた。
「その制度を管理するため、本日、《アスタリア企業群決済管理室》を設置しました」
8名が一歩前へ出る。
シェリィは順番に紹介する。
「室長、コンラート・ヴェルナー、48歳」
コンラートが一礼した。
「副室長、マティアス・エーベル、43歳」
マティアスが続く。
「決済・口座管理主任、エルザ・クレーマー、39歳。決済・口座管理担当、ユリウス・ハルトマン、34歳。小切手帳・番号管理主任、レオニー・ファルク、36歳。小切手帳・番号管理担当、オットー・ベルガー、31歳。監査・情報管理主任、イレーネ・ヴォルフ、45歳。監査・情報管理担当、ニコラス・ライナー、37歳です」
8名が10社の代表へ揃って礼をする。
コンラートが一歩前へ出た。
「今後、企業群内小切手の振出額・決済済額・未決済残高・準備金状況・支払停止・不渡りの有無について集計し、《アスタリア経営者会議》へ定期的に報告いたします」
ブルーノが尋ねる。
「残高が多ければ、管理室から振出を止められるのですか?」
コンラートは首を横へ振った。
「管理室は各社の経営判断を行う機関ではありません」
シェリィがその答えを引き継ぐ。
「例えば、ある会社の未決済残高が前回より大きく増えていれば、この会議で理由を確認します」
トビアスが理解したように頷く。
シェリィは続けた。
「その会社から、外部取引先からの入金予定や決済予定を説明していただきます。問題がなければ、それで終わりです」
ブルーノが腕を組む。
「つまり数字だけ見て危険だと決めない」
「はい」
「逆に、理由を説明できなければ?」
「その時は皆様で確認しましょう」
ここでマティアスが口を開いた。
「管理室自身も監査対象となります。重要な口座照会や処理については二重確認を行い、誰が、いつ、どの企業の情報を、何の目的で照会したかを記録します」
続いてイレーネが代表たちを見る。
「管理室は、専用決済準備金口座を照会する権限を持ちます」
クララの表情が僅かに変わる。
イレーネはその反応を見ながら続けた。
「その分、情報管理はアスタリア大商会の全部門の中で最も厳しくします。口座情報、入出金、未決済残高、入金予定、信用状態等を職務外で利用することも、外部へ流布することも認めません」
「営業担当へ教えることも?」
エリーゼが尋ねた。
「禁止です」
イレーネは即答した。
「たとえアスタリア大商会内部であっても、職務上知る必要のない者へは提供しません」
アドリアンがシェリィを見る。
「会長にも?」
「私にもです」
シェリィが答えた。
その一言で、数人の代表の表情が変わった。
アスタリア大商会が制度発行元になるからといって、9社の資金情報を自由に利用できるわけではない。
むしろ、見ることができるからこそ、見る理由まで記録する。
それが制度の前提だった。
シェリィは最後に伝える。
「小切手帳は本日、ハインデル商業印刷・紙工商会へ正式発注しました。恵雨月24日に納品予定です」
クラウディアが頷いた。
「番号重複や欠番を含め、こちらでも全数確認してから納品します」
「ありがとうございます」
「王国銀行アスタリア支店の正式開業は恵雨月25日です。その日に10社の専用決済準備金口座を開設し、小切手帳番号と口座を紐付けた後、各社へ最初の1冊を引き渡します」
マルタが小さく息を吐く。
「本当に始まるのね」
シェリィは頷いた。
「はい」
前日まで存在しなかったものだった。
だが、思いつきをそのまま制度にしたわけではない。
銀行と話し、数字を示し、責任を分け、準備金を置き、管理する者を決め、その管理者を監査する仕組みまで作った。
信用は、人を信じるだけでは守れない。
信じても壊れにくい仕組みを作って、初めて長く使える。
◇
その日の夕刻――
アスタリア大商会本部・会長執務室
シェリィの机には、今日だけで新しく生まれた書類が並んでいた。
王国銀行との協議合意書、《アスタリア企業群内決済小切手》制度案、《アスタリア企業群決済管理室》設置文書、初期8名の任命書、守秘義務規程、情報管理規程、ハインデル商業印刷・紙工商会への発注書。
小切手は、まだ1枚も振り出されていない。
専用決済準備金口座も、まだ開かれていない。
それでも、10社の間を流れる信用に、形が与えられた。
これまで10社は、それぞれが自分の帳簿を持ち、自分の金貨を持ち、自分の契約を結んでいた。
それはこれからも変わらない。
会社を一つにするつもりはない。
経営を一つにするつもりもない。
けれど、互いに信用して取引するための道だけは、1本につなぐことができる。
その道を使うかどうかは、それぞれの会社が決めればいい。
使うなら、安全に使えるようにする。
シェリィは恵雨月25日の予定表へ目を落とした。
王国銀行アスタリア支店、正式開業。
10社の専用決済準備金口座開設。
小切手帳引き渡し。
そして、《アスタリア企業群内決済小切手》運用開始。
10社の信用が、1つの決済網として動き始める日まで、あと5日だった。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、《アスタリア企業群内決済小切手》を単なるアイデアではなく、王国銀行との正式な協議を経て実際に運用できる制度へ落とし込みました。
企業群加入前後の貸借対照表・損益計算書や売上高、企業間取引の増加を交渉材料とすることで、専用口座の月額管理料・通常決済手数料・通常口座照会料を0とし、未決済残高の10%を準備金として維持する代わりに、固定振出上限を設けない仕組みが決まりました。
また、《アスタリア企業群決済管理室》も正式に設置され、初期8名が任命されています。強い口座照会権限を持つからこそ、アスタリア大商会でも最も厳しい情報管理と監査を受ける部門として動き始めます。
ハインデル商業印刷・紙工商会へ発注された最初の小切手帳は、恵雨月24日に納品予定です。
そして恵雨月25日、王国銀行アスタリア支店の正式開業とともに、10社の信用をつなぐ新しい決済網が実際に動き始めます。
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