第35話:責務として、国王は裁きを下す
星環暦1284年・炎冠月≪第6月≫23日――
大審院・王国審理大法廷。
朝から雲一つない青空が広がっていたにもかかわらず、大法廷の空気は重かった。
証人を呼ぶ日は終わった。
証拠を積み上げる日も、証言の食い違いを確かめる日も終わった。
42家について、誰が何を知り、どこまで関与し、何をしなかったのかも、すでに一人ずつ認定されている。
今日行われるのは、その先だった。
大審院が認定した事実と罪状を基礎として、セレスティア王国の国王アーサーが、最終的な刑を承認し、王国の名において宣告する。
それは国王にしか負えない責務だった。
だからこそ、アーサーは昨夜ほとんど眠っていなかった。
王家席に座るその姿から疲労を読み取れる者はほとんどいない。
背筋は伸びている。
衣服にも乱れはない。
声も、いつも通り落ち着いている。
それでも隣に座るエレノアだけは、夫が判決書へ手を置いた時、その指先がほんの一瞬だけ止まったことに気づいていた。
そこに書かれている名の中には、自分たちの息子がいる。
国王としてならば、何をすべきなのかは分かっている。
父親としてならば、できることなら読みたくない。
その二つの感情が同時に存在することを、エレノアは誰より理解していた。
そして彼女自身もまた、同じ苦しみの中にいた。
膝の上で重ねた両手に力が入る。
目の前にはエドワードがいる。
被審理者席に座る青年。
王位継承秩序を自らの意思で動かそうとした、第2王子。
けれども、エレノアの記憶の中には別の姿がいくつも残っている。
小さな手で自分の指を握った赤子。
兄のジュリアンに負けたことが悔しくて、庭の隅で泣いていた幼い少年。
熱を出した夜、自分の手を離そうとしなかった子。
初めて剣術の試合で勝った日に、褒めてほしいと顔いっぱいに期待を浮かべて駆けてきた息子。
今日、その子に国家が刑を下す。
その最終承認をするのは、夫であり、父であり、国王でもあるアーサーだった。
エレノアはゆっくり息を吸った。
王妃として、逃げない。
そう決める以外に、今の彼女ができることはなかった。
少し離れた席では、ジュリアンが弟を見つめていた。
憎しみはなかった。
むしろ、なぜここまで来てしまったのだという問いが、ずっと胸の中から消えなかった。
ヴァルモント公爵家の席には、ローランドとシェリィが並んでいる。
シェリィもまた、静かだった。
この日を勝利の日とは思っていない。
自分を公衆の面前で断罪し、持っていない権限で追放を命じた男が裁かれる。
その事実だけを切り取れば、復讐を喜ぶこともできたのかもしれない。
けれど、シェリィにはできなかった。
愛していたからだ。
少なくとも、かつての自分は確かにエドワードを愛していた。
その過去まで偽物にしてしまえば、自分自身の心まで否定することになる。
だからこそ、彼女はただ見届けるつもりだった。
国家が事実をどう裁くのかを。
そして、自分が愛した人が最後に何を選ぶのかを。
大審院長が立ち上がった。
「これより、《王位継承秩序侵害事件》について、大審院が認定した罪状に基づく最終量刑の宣告を行います」
法廷内から最後の小さな物音まで消えた。
大審院長はアーサーへ深く一礼する。
「陛下」
アーサーは立ち上がった。
「承知した」
それだけ答え、判決書へ目を落とす。
しばらく誰も動かなかった。
やがてアーサーは顔を上げた。
「最初に、もう一度明確にしておく」
低く、よく通る声だった。
「今日、余が裁くのは、誰を支持したかではない」
貴族席を見渡す。
「ジュリアンを嫌ったことでもない」
ジュリアンは微動だにしなかった。
「エドワードを次の王に望んだという心情そのものでもない」
アーサーは一呼吸置いた。
「王太子を諫めることは忠義だ」
「王太子に不正があると考えるなら、証拠を集め、正規の手続によって余へ上奏することも正当な臣下の務めだ」
その声が、少しだけ強くなる。
「しかし、貴族には王位継承者を自ら選定し、変更する権利は与えられていない」
そして、アーサーはエドワードを見た。
「金を動かし、人を集め、軍・官僚・王宮へ働きかけ、法で定められた継承順位を実際に変更しようとした時、その行為は思想ではなく犯罪になる」
誰も口を挟まない。
「家名ではなく、行為を裁く」
アーサーは判決書へ視線を戻した。
「それが、この事件における最後まで変わらぬ原則だ」
◇
最初に呼ばれたのは、調査の結果、本件への関与が一切認められなかった8家だった。
大審院長が、一家ずつ名を読み上げる。
ザイデル男爵家――本件について、完全無罪。
ブレナー男爵家――本件について、完全無罪。
ハーゲル男爵家――本件について、完全無罪。
レンツ男爵家――本件について、完全無罪。
ドルン男爵家――本件について、完全無罪。
ヴォルフ男爵家――本件について、完全無罪。
グロース男爵家――本件について、完全無罪。
ヘンケル男爵家――本件について、完全無罪。
一つの家名が呼ばれるたび、その家の代表者たちの顔から、わずかずつ緊張が抜けていった。
疑われた。
調べられた。
同じ派閥の者と食事をしたこともある。
政治的な意見を交わしたこともある。
それだけで、家そのものが罪に染まったような目を向けられた日もあった。
だが、国家が今、明確に線を引いた。
アーサーが告げる。
「以上8家について、本件を理由とする一切の処分を認めない」
8家の代表者が顔を上げる。
「さらに、本件で調査対象となったという事実を、今後の任官・爵位継承・婚姻・商取引その他の不利益に利用することを禁ずる」
少しだけ声を落とした。
「疑われたことと、罪を犯したことは同じではない」
ザイデル男爵が、深く頭を下げた。
その肩が僅かに震えていた。
無罪という言葉は、刑を免れるためだけに必要なのではない。
疑われた者が、再び社会へ戻るためにも必要なのだ。
シェリィは、その姿を静かに見つめていた。
誰かを罰するだけでは、国家は正しくならない。
罪のない者を罪から切り離すこともまた、同じくらい重要だった。
◇
次に、政治的支持のみと認定された12家が呼ばれた。
エルンストハイム伯爵家――刑事罰なし。
ノイエン子爵家――刑事罰なし。
リヒター子爵家――刑事罰なし。
ヴァルツ子爵家――刑事罰なし。
ブルナー男爵家――刑事罰なし。
ヘルマン男爵家――刑事罰なし。
クライン男爵家――刑事罰なし。
ヴェーバー男爵家――刑事罰なし。
シュルツ男爵家――刑事罰なし。
フリート男爵家――刑事罰なし。
クレーマー男爵家――刑事罰なし。
ラウター男爵家――刑事罰なし。
アーサーは12家を順に見た。
「お前たちの中には、ジュリアンの政策を嫌った者もいる」
視線を逸らした者がいた。
「エドワードの方が王として望ましいと考えた者もいる」
何人かが、静かに頷いた。
「その考えまで罰するつもりはない」
法廷に僅かな動揺が走った。
アーサーは続ける。
「王太子を諫めることは忠義だ」
「王太子を勝手に選び直すことは越権だ」
その言葉は短かった。
だからこそ、明確だった。
「お前たちは危ういところまで進んだ者もいる」
「しかし、証拠の上で、違法な継承変更のために資金・軍・官僚・王宮工作を実行したとは認定されなかった」
アーサーは判決書を閉じる。
「ゆえに、刑事罰は科さない」
エルンストハイム伯爵は、長く息を吐いた。
安堵だけではなかった。
自分がどこまで近づいていたのかを、今になって理解した顔だった。
◇
続いて、違法な目的を理解しながら従属的に協力した12家への刑が、一家ずつ読み上げられた。
ノルトハーゲン伯爵家――爵位8年間停止・公職10年間停止・政治活動10年間禁止・罰金・8年間の監督下生活。
ローデン子爵家――爵位8年間停止・公職10年間停止・政治活動10年間禁止・罰金・8年間の監督下生活。
エーレンフェルト子爵家――爵位8年間停止・公職10年間停止・政治活動10年間禁止・罰金・8年間の監督下生活。
ケストナー子爵家――爵位8年間停止・公職10年間停止・政治活動10年間禁止・罰金・8年間の監督下生活。
ベルクマン伯爵家――爵位5年間停止・公職7年間停止・政治活動7年間禁止・罰金・5年間の監督下生活。
グライス子爵家――爵位5年間停止・公職7年間停止・政治活動7年間禁止・罰金・5年間の監督下生活。
ドレッセル子爵家――爵位5年間停止・公職7年間停止・政治活動7年間禁止・罰金・5年間の監督下生活。
バルツァー子爵家――爵位5年間停止・公職7年間停止・政治活動7年間禁止・罰金・5年間の監督下生活。
フォークト男爵家――爵位5年間停止・公職7年間停止・政治活動7年間禁止・罰金・5年間の監督下生活。
アーデルシュタイン伯爵家――爵位3年間停止・公職5年間停止・政治活動5年間禁止・罰金・3年間の監督下生活。
フェルナー子爵家――爵位3年間停止・公職5年間停止・政治活動5年間禁止・罰金・3年間の監督下生活。
メルツ子爵家――爵位3年間停止・公職5年間停止・政治活動5年間禁止・罰金・3年間の監督下生活。
同じ「協力者」という言葉で呼べても、実際にしたことは同じではない。
連絡をつないだ者。
会合の場所を用意した者。
違法な目的を知った後も書簡を運んだ者。
計画の一部を補助した者。
アーサーは一律の刑にはしなかった。
「知らなかった時点の行為まで罰しない」
判決書を持つ手は揺れていなかった。
「知った後も、自分の意思で続けた行為だけを裁く」
その原則は、重罪者にも軽度協力者にも変わらなかった。
◇
「カール・アルブレヒト・オルデンフェルト」
その名が呼ばれると、オルデンフェルト家の席で若い男が立ち上がった。
18歳。
父リヒャルトの計画全体を作ったわけではない。
だが、違法な王太子交代計画であることを認識した後、2通の書簡を運び、連絡役を務めたことが認定されていた。
「5年間の公職就任禁止・5年間の政治活動禁止・罰金・3年間の監督下生活を命ずる」
カールの顔が強張る。
「……承知、いたしました」
声は震えていた。
その隣にいる兄フリードリヒには何の刑もない。
母アデライーデ・マリアにもない。
父の罪は子の罪ではない。
弟の罪は兄の罪でもない。
同じ家族であっても、国家が裁くのは一人ずつだった。
◇
主要実行者への判決に入ると、大法廷の空気が再び変わった。
グランヴェル侯爵家の主要関与者――侯爵位から伯爵位へ降格・領地40%没収・公職資格永久喪失・18年間拘禁。
グレゴール・クラウゼル伯爵――伯爵位から子爵位へ降格・領地50%没収・公職資格永久喪失・16年間拘禁。
ヴァイスグラート伯爵家の主要関与者――伯爵位から子爵位へ降格・領地3分の1没収・公職資格永久喪失・14年間拘禁。
アルテンブルク子爵家の主要関与者――子爵位から男爵位へ降格・領地半減・公職資格永久喪失・14年間拘禁。
カルシュタイン子爵家の主要関与者――子爵位から男爵位へ降格・領地3分の1没収・公職資格永久喪失・12年間拘禁。
ローゼンハルト伯爵家の主要関与者――爵位10年間停止・停止期間中の領地を王国管理・公職資格永久喪失・10年間拘禁。
ジェラール・クロード男爵――爵位15年間停止・停止期間中の領地を王国管理・公職資格永久喪失・10年間拘禁・政治活動永久禁止。
ジェラールは判決を聞き終えた瞬間、僅かに身体を前へ折った。
それまで必死に保っていた男爵としての姿勢が崩れた。
自分の家を守ろうとした。
娘を使った。
エドワードへ近づけば家が上へ行けると思った。
結果として残ったのは、王宮から切り離され、長期間自由を失う自分自身だった。
そのすぐ近くで、ミレーヌが青ざめていた。
父の刑が読み上げられるたび、自分には関係がないと思おうとしていた。
自分は命令されただけ。
自分はまだ17歳。
自分は父ほど大きなことをしていない。
そう心の中で何度も繰り返していた。
だから、自分の名が呼ばれた時、肩が大きく跳ねた。
「ミレーヌ・クロード」
「……はい」
声がほとんど出なかった。
アーサーは彼女を見た。
その視線には怒りよりも、冷静な確認があった。
「お前について、父の命令でエドワードへ接近したという事情は考慮した」
ミレーヌの瞳に、一瞬だけ希望が浮かんだ。
「しかし、その事情だけでは説明できない行為がある」
希望が消える。
「お前は、シェリィ・ヴァルモントが自分を魔法で傷つけたという、存在しない被害を作り上げた」
法廷内が静まり返った。
シェリィは目を逸らさなかった。
「発生日時について、お前の説明は一定しなかった」
「使用されたという魔法属性を裏付ける証拠もない」
「残留魔力も確認されていない」
「魔法痕もない」
「シェリィがその場にいたことを示す証人もいない」
「医師の診断記録にも、お前の主張を裏付けるものはなかった」
ミレーヌの唇が細かく震え始めた。
「それでもお前は、自分が傷つけられたとエドワードへ訴え続けた」
「ち、違……」
声が漏れる。
だがアーサーは怒鳴らなかった。
「何が違う」
ミレーヌは口を開いた。
けれど言葉が続かない。
あの夜。
泣けば信じてもらえると思った。
シェリィが悪い女だと言えば、エドワードは自分を守ってくれると思った。
最初は父に言われて近づいた。
だが途中からは、自分が王子の隣に立つ未来を思い描いた。
自分ならシェリィより愛される。
自分なら王妃になれる。
そう思った瞬間から、もう父の命令だけではなかった。
自分の欲だった。
アーサーの声が響く。
「お前がしたことは、単なる悪口ではない」
ミレーヌの頬から血の気が引く。
「存在しない犯罪を作り、他人を加害者に仕立て、その名誉と立場を奪おうとした」
シェリィの指が、膝の上でほんの僅かに動いた。
あの日。
大勢の前で、自分は人を魔法で傷つけるような女だと決めつけられた。
証拠はなかった。
それでも多くの視線が自分に向いた。
あの時の冷たさを、シェリィは忘れていない。
だが今、ミレーヌを見ても、喜びは湧かなかった。
ただ、ようやく事実が事実として認められたのだと思った。
それで十分だった。
「ミレーヌ・クロード」
アーサーが宣告する。
「10年間の拘禁を命ずる」
ミレーヌの目が見開かれた。
「……10年?」
声が震えた。
17歳の彼女にとって、10年は想像できないほど長かった。
刑を終える時、自分は27歳になる。
学園で笑っていた少女たちが結婚し、家庭を持ち、あるいは仕事を得て、それぞれの人生を進んでいる頃。
自分だけが、その時間を失う。
その現実が遅れて胸へ落ちてきた。
「さらに、貴族籍から除籍し、一般籍へ編入する」
ミレーヌの身体が固まった。
「……え?」
拘禁よりも、その言葉の方が理解できなかった。
自分はクロード男爵令嬢だ。
そう名乗ることが生まれた時から当たり前だった。
舞踏会へ参加できたのも。
王族へ近づくことができたのも。
周囲から礼を受けたのも。
すべて、その身分の上にあった。
「ま、待ってください……」
初めて、声に本当の恐怖が混じった。
「私は……クロード家の娘です」
アーサーは静かに答えた。
「血縁は消さぬ」
ミレーヌが息を止める。
「だが、貴族籍上の地位は失う」
「刑期を終えても、自動的に貴族籍へ戻ることはない」
ミレーヌは何かを言おうとした。
だが、言葉にならなかった。
自分が他人から奪おうとしたもの。
名誉。
地位。
社会の中の居場所。
形は違えど、その重さが初めて自分自身へ返ってきた。
「政治活動を永久に禁ずる」
最後の宣告が終わった。
ミレーヌは椅子へ座るのではなく、落ちるように腰を下ろした。
◇
そして。
法廷の空気が、さらに重くなった。
残された3名について、誰も軽い判決が下るとは考えていなかった。
最初の名が呼ばれる。
「リヒャルト・アーデルベルト・オルデンフェルト公爵」
リヒャルトはゆっくり立ち上がった。
54歳。
長く王国政治の中心近くにいた男だった。
ジュリアンが王位につけば、監査は厳しくなり、貴族の裁量は狭まり、古い秩序が崩れる。
そう考えた。
自分たち高位貴族の声を聞く王が必要だと思った。
そして、そのためにエドワードを選んだ。
そこまでは政治的意見だった。
だがリヒャルトは、その先へ進んだ。
諸家を集めた。
役割を振り分けた。
資金・軍・官僚・王宮へ働きかける全体構造を組み上げた。
ジュリアンを法定順位から退かせた後の人事まで準備した。
アーサーは彼を見た。
「リヒャルト」
「はい、陛下」
「お前には何度でも、正規の道があった」
リヒャルトは答えない。
「ジュリアンを批判することもできた」
「証拠があるなら、余へ上奏することもできた」
「それでも、お前は自ら王位継承を動かす道を選んだ」
リヒャルトはしばらく沈黙した。
やがて、小さく頷いた。
「……はい」
アーサーは判決書へ視線を戻す。
「極刑を承認する」
アデライーデ・マリア夫人が息を呑んだ。
「爵位を剥奪する」
「領地は全て王国へ没収する」
「公職資格を永久に喪失させる」
一つずつ、リヒャルトが築き、守ろうとしたものが消えていく。
そして最後に。
「刑の執行は、明日、炎冠月24日とする」
アデライーデの肩が震えた。
隣にいる長男フリードリヒが、無言で母の腕を支える。
リヒャルトは妻を見なかった。
見れば、自分が崩れると分かっていたのかもしれない。
ただ正面を向いたまま、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
声は静かだった。
しかし、頭を下げたまま数秒、上げることができなかった。
◇
「アルブレヒト・レーヴェンタール伯爵」
アルブレヒトが立つ。
資金。
秘密口座。
名義を分散した送金。
表向きは通常の取引に見える形で組まれた資金移動。
政治的な願望だけなら、計画は計画のままだったかもしれない。
それを実行可能なものへ変えたのが、彼の金融実務だった。
以前、彼は語った。
自分が欲しかったのは、自分たちの話を聞く王だと。
アーサーは、その言葉を覚えていた。
「アルブレヒト」
「はい」
「臣下が王へ意見する権利と、臣下が王を選ぶ権利を、お前は取り違えた」
アルブレヒトは目を閉じた。
ほんの僅かに、口元が歪む。
悔しさなのか。
諦めなのか。
誰にも分からなかった。
「極刑を承認する」
爵位剥奪。
領地没収。
公職資格永久喪失。
刑の執行は翌日、炎冠月24日。
アルブレヒトは最後まで抗弁しなかった。
◇
「コンラート・ハルテンベルク侯爵」
最後の一人が立った。
軍務に強い影響力を持つ男。
アーサーは、彼については特に言葉を選んだ。
「認定された事実を正確に述べる」
コンラートが顔を上げる。
「お前が軍へ反乱を命じた事実はない」
法廷の一部で僅かな動きがあった。
「軍をエドワードのために直接蜂起させようとした証拠もない」
そこでアーサーは声を強めた。
「だが、お前は違法な王太子交代が実行された時、本来なら正統な継承秩序を守るため動く軍へ働きかけ、動かないようにしようとした」
コンラートの顎が僅かに下がった。
「剣を抜けと命じることだけが、軍を私することではない」
アーサーの声が法廷全体へ届く。
「国家を守るために剣を抜くべき時、その剣を鞘に縛り付けることもまた、軍を王位争いへ利用する行為だ」
コンラートは目を閉じた。
「……異論はありません」
短い言葉だった。
「極刑を承認する」
爵位剥奪。
領地没収。
公職資格永久喪失。
刑の執行は炎冠月24日。
これで、3人の運命が決まった。
アーサーは判決書を置いた。
だが、まだ座らなかった。
法廷に残っている最も重要な一人を見た。
◇
エドワード。
息子。
その名を心の中で呼んだ時だけ、アーサーは一瞬、国王ではなく父親になった。
幼い頃、ジュリアンの後ろを懸命に追いかけていた。
兄に勝てば嬉しそうに報告へ来た。
負ければ悔しそうに口を尖らせた。
自分も兄と同じように見てほしい。
同じように褒めてほしい。
今思えば、あの子はずっとそう言っていたのかもしれない。
もっと早く気づけたのではないか。
父として、何か違う言葉を掛けられたのではないか。
その問いは消えない。
おそらく、一生消えない。
それでも。
父親の後悔を理由に国の継承秩序を曲げることだけはできなかった。
それをすれば、今日ここで裁いた全ての者に対する判決が嘘になる。
アーサーは隣の長男を見た。
「ジュリアン」
「はい」
ジュリアンが立つ。
「王太子としてではなく、兄として何か言うことはあるか」
エレノアが目を閉じた。
ジュリアンはすぐには話さなかった。
弟を見た。
エドワードも兄を見る。
しばらく、王太子と第2王子ではなく、ただ2人の兄弟が向き合っているようだった。
「エドワード」
「……はい」
「私は、お前を敵だと思ったことは一度もない」
エドワードの瞳が揺れた。
「私を嫌ってもよかった」
ジュリアンの声は静かだった。
「私の政策に反対してもよかった」
「私が王太子にふさわしくないと思ったなら、証拠を集めて父上へ訴えてもよかった」
そして、少しだけ苦しそうに笑った。
「私に直接、そう言ってくれてもよかった」
エドワードの唇が僅かに動く。
ジュリアンは続けた。
「私は、お前が私を嫌っていることより、お前が私に何も言わないまま、私のいないところで私を王太子から退けようとしたことの方が悲しい」
エドワードは視線を落とした。
「兄としては――」
ジュリアンが一度、息を飲む。
言おうとしていた言葉が、思った以上に重かった。
「お前が、もっと早く私に怒ってくれればよかったと思っている」
エドワードが顔を上げる。
「兄弟なら、喧嘩くらいできただろう」
その言葉を聞いた瞬間、エレノアの胸が締め付けられた。
幼い頃の2人が蘇る。
玩具を取り合った。
剣の稽古で言い争った。
食事の菓子をどちらが多く取ったかで喧嘩した。
それでも翌日には、また一緒に遊んでいた。
どうして大人になった2人は、その程度の喧嘩すらできなくなってしまったのだろう。
「……兄上」
エドワードの口から、小さな声が漏れた。
それが謝罪になることを、ジュリアンは少しだけ期待した。
しかし、続きはなかった。
ジュリアンは数秒待ち、静かに座った。
アーサーが判決書を手に取る。
「今の言葉は、兄としての言葉だ」
エドワードを見つめる。
「だが、刑は兄の悲しみでも、父の怒りでも決めぬ」
自分自身へ言い聞かせるようでもあった。
「国王としての責務によって決める」
◇
「エドワード・セレスティア第2王子」
その呼称が、公式の場で使用される最後の一度となった。
エドワードが立ち上がる。
顔は青ざめていた。
極刑ではないことは分かっていた。
だから、心のどこかでまだ考えていた。
王位継承権を失う程度ではないか。
数年間、公務を禁止される程度ではないか。
父は怒っている。
しかし自分は息子だ。
母は自分を愛している。
兄も先ほど、自分を敵ではないと言った。
最後には家族が残る。
王子という身分まで奪われることはない。
その小さな希望に縋っていた。
アーサーが口を開く。
「大審院が認定した罪状、および本件におけるお前の地位と責任を踏まえ、国王として最終処分を宣告する」
エドワードの喉が動く。
「お前の王位継承権を、永久に剥奪する」
目が見開かれた。
「……永久に?」
「永久だ」
「ですが――」
「最後まで聞け」
アーサーの声に怒りはなかった。
それがかえって、覆らないことを伝えていた。
「王族として公務に携わる一切の資格を、永久に喪失させる」
エドワードの呼吸が速くなる。
「王族身分を剥奪する」
時間が止まったようだった。
「……何を」
エドワードの声が掠れる。
エレノアの指先が震えた。
王妃として覚悟していた。
判決内容も知っていた。
それでも、夫の口から実際に宣告されるのを聞くのは別だった。
自分が産んだ息子が、王族ではなくなる。
頭では理解していても、母親の心がすぐに受け入れられるわけではない。
アーサーも苦しかった。
だが止まらない。
「王家の系譜から、その名を抹消する」
エドワードの身体が僅かに揺れる。
「王族名簿から抹消する」
「王位継承記録から抹消する」
一つずつ、自分が生まれた時から当然だと思っていたものが消えていく。
アーサーはそこで一度言葉を止めた。
次の宣告が、最も父親として言いにくいものだった。
エレノアが夫を見る。
ほんの一瞬だけ、2人の視線が重なった。
夫婦としてなら、何も言わなくても分かった。
これを言えば、国家の記録の上では息子の出生そのものが消える。
それでもアーサーは国王だった。
「王国出生原簿に記録された、お前の出生登録そのものを抹消する」
エドワードの表情が凍りついた。
「……出生、登録?」
声が小さかった。
理解できていないようだった。
「私が生まれた記録を?」
「そうだ」
その瞬間。
エドワードの顔が大きく歪んだ。
「待ってください!」
椅子が倒れかけ、衛士が一歩前へ出る。
「それはおかしいでしょう!」
「私はここで生まれた!」
自分の足元を指すように叫ぶ。
「この王宮で生まれたんだ!」
アーサーを見る。
「父上の息子でしょう!」
今度はエレノア。
「母上が私を産んだのでしょう!」
エレノアの喉が震えた。
答えたかった。
産んだ。
忘れるはずがない。
初めて抱いた日のことも。
泣き声も。
小さな手の温かさも。
全部覚えている。
記録が消えても、自分の記憶から息子が消えるわけではない。
その言葉が喉まで出た。
けれども、ここは母親の私室ではない。
王国の最終判決の場だった。
エレノアは、涙を浮かべることすら許さないように唇を結んだ。
その沈黙を見て、エドワードの顔がさらに歪む。
「母上まで……」
小さな呟きだった。
アーサーは続けた。
「今日をもって、『セレスティア』の名を用いることを永久に禁ずる」
エドワードが父を見る。
今度は声さえ出なかった。
「残るのは個人名、エドワードのみだ」
「……名前まで」
「王家の姓は、王家に属する者のためのものだ」
「お前は今日、その身分を失う」
エドワードの拳が震える。
「私は王子だ!」
大法廷に叫び声が響いた。
「生まれた時から王子だった!」
アーサーは息子を見つめた。
本当なら、違う言葉を返したかった。
お前は余の息子だ。
それだけは変わらない。
そう言いたかった。
だが、今問われているのは血ではなく身分だった。
「もう違う」
短い言葉だった。
エドワードの顔から、何かが崩れた。
「私だけが悪いのですか!」
空気が変わった。
「オルデンフェルトが勝手に動いたんだ!」
リヒャルトがゆっくり顔を上げる。
「レーヴェンタールが金を動かした!」
アルブレヒトは目を閉じたままだった。
「ハルテンベルクが軍へ働きかけた!」
コンラートも何も言わない。
「私は全部を命令していない!」
アーサーは頷いた。
「その通りだ」
エドワードが止まる。
「だから、彼らは彼らの罪として裁いた」
「今、裁いているのはお前自身の選択だ」
「ですが、ミレーヌが!」
エドワードは今度はミレーヌを指さした。
「こいつが言ったんだ!」
ミレーヌの顔が強張る。
「シェリィが自分を傷つけたと!」
「私に何度も言った!」
ミレーヌが唇を震わせる。
「エ、エドワード殿下……」
「殿下と呼ぶな!」
エドワード自身が叫び、そしてその言葉に自分で固まった。
もう、その呼称を失ったことを思い出したのだ。
「こいつが私を焚きつけたんです!」
父を見る。
「私は騙されたんだ!」
アーサーは答える。
「だから、ミレーヌはミレーヌの罪で裁いた」
エドワードの呼吸が荒くなる。
今度はシェリィへ顔を向けた。
「シェリィだって悪い!」
ローランドの眉が鋭く動いた。
シェリィは父より先に、小さく首を横へ振った。
動かなくていい。
そう伝える仕草だった。
「お前があの日、私には権限がないと言えばよかったんだ!」
エドワードの声が響く。
「お前がその場で拒否していれば、こんなことにはならなかった!」
シェリィは何も答えなかった。
胸が痛まなかったわけではない。
かつて愛した男が、最後の最後まで自分の選択を誰かへ渡そうとしている。
その姿を見ることは、思った以上に悲しかった。
けれども、もう説明する必要はなかった。
自分がなぜあの場で公然と王族の命令を否定しなかったのか。
それはすでに証言した。
シェリィが沈黙すると、エドワードは今度はジュリアンへ向いた。
「兄上が最初から全部持っていたからだ!」
ジュリアンの目が僅かに揺れる。
「王太子も!」
「父上の信頼も!」
「臣下の敬意も!」
「全部だ!」
声が裏返る。
「私はいつだって二番目だった!」
エレノアの胸が痛んだ。
「私には何もなかった!」
その言葉だけは、母として耐え難かった。
何もなかった。
エレノアは心の中で、その言葉を何度も繰り返した。
誕生日を祝った。
病気になれば夜通し側にいた。
剣を贈った。
勉学で良い成績を取れば褒めた。
失敗した時には叱った。
兄と比べないように気をつけたつもりだった。
それでも、息子の中には何も残っていなかったのだろうか。
自分の愛し方が間違っていたのか。
母親としてもっと早く気づくべきだったのか。
エレノアは目を伏せそうになり、それを堪えた。
今、逃げてはいけない。
息子がどれほど醜い姿を見せても、母である自分だけは最後まで見なければならない。
そう思った。
エドワードはアーサーへ向き直った。
「父上が私を認めなかったからだ!」
「私がこうなったのは、皆が私を二番目に置いたからだ!」
アーサーはすぐには答えなかった。
怒りより先に、悲しみが湧いていた。
息子がここまで追い詰められてなお、自分の選択を自分のものとして受け取れない。
それが、父として何より悲しかった。
「エドワード」
「何ですか!」
「余にも、父として至らなかったところはあったのだろう」
法廷が静まる。
エドワードも一瞬、言葉を失った。
「お前が何を感じていたのか、もっと聞くべきだったのかもしれぬ」
エレノアが夫を見る。
ジュリアンも顔を上げる。
アーサーは逃げなかった。
「ジュリアンにも、お前と向き合えなかった悔いがある」
「エレノアにも、母として悔やむことがあるだろう」
エレノアの目に涙が浮かびそうになる。
「余にもある」
エドワードの顔に、一瞬だけ何かが浮かんだ。
認められた。
そんな表情だった。
だが。
アーサーは続けた。
「それでも、お前が書いた言葉は、お前が書いた」
エドワードの表情が止まる。
「『兄上を退けるには、先に諸家の意思を固める必要がある』」
エドワードの喉が動く。
「『父上への上奏は、その後でよい』」
誰も動かない。
「『オルデンフェルト公爵らの準備を止めるな』」
エドワードが視線を落とした。
「余が父として失敗したことと、お前がその言葉を書いたことは、別の事実だ」
アーサーの声は静かだった。
「ジュリアンがお前と十分に話さなかったことと、お前が違法な王位継承変更を止めなかったことも別だ」
「ミレーヌがお前へ嘘をついたことと、その後、お前自身が王太子になるための動きを続けたことも別だ」
そして、最後に。
「人は、誰かの影響を受ける」
「だが最後に選んだ行為まで、永遠に他人のものにはできぬ」
エドワードは何も答えなかった。
ただ、唇を噛んだ。
反省したからではない。
まだ納得できていない。
そのことは、誰の目にも明らかだった。
◇
エドワードの言葉を、160家を超える貴族家の代表者たちが聞いていた。
その中には、彼を支持していた者がいる。
ジュリアンの改革は急すぎると考えた者。
監査や情報公開が貴族の裁量を狭めすぎると不満を抱いた者。
エドワードなら、もっと貴族の声を聞く王になると期待した者。
彼らはこれまで、自分たちの政治的判断そのものまで否定されることには反発していた。
だが今。
彼らの前にいるエドワードは、自分の失敗を一つずつ他人へ渡していた。
オルデンフェルトのせい。
レーヴェンタールのせい。
ハルテンベルクのせい。
ミレーヌのせい。
シェリィのせい。
ジュリアンのせい。
父のせい。
最後まで、自分だけが責任の中心から外れようとしている。
エルンストハイム伯爵は、その姿を長く見つめていた。
彼はジュリアンの政策に反対していた。
エドワードを支持したことも事実だった。
その判断を恥じてまで否定するつもりはなかった。
けれど。
もし、この男が国王になっていたら。
財政政策が失敗すれば、財務官へ責任を押しつけるのではないか。
外交に失敗すれば、外交官を切り捨てるのではないか。
軍事判断を誤れば、将軍のせいにするのではないか。
民が苦しんだ時、自分ではなく領主や商人へ責任を向けるのではないか。
その想像に、背筋が冷えた。
「……私は」
隣席の者にだけ聞こえるほどの声で、エルンストハイム伯爵が呟いた。
「エドワード殿下を支持していた」
隣の貴族が彼を見る。
伯爵は言い直さなかった。
今だけは、かつての呼称として使った。
「ジュリアン王太子殿下の政策にも、今なお賛成できぬところはある」
それは政治的立場としての言葉だった。
「だが」
エドワードを見る。
「今の姿を見てなお、この方を王太子にすべきだったとは……私は言えぬ」
別の席でも、小さな囁きが生まれた。
「……私もだ」
「支持したことと、今の判決は別だ」
「これは、もう……」
誰も大声で叫ばない。
歓声もない。
だが、空気が明らかに変わった。
もちろん、その空気によって王位継承権が剥奪されたわけではない。
貴族の人気投票で王太子を決めることもできない。
判決は法と証拠によって認定され、国王が責務として承認した。
それでも。
エドワード自身が、自らへの判決を理解させる最後の材料になってしまった。
シェリィは、その変化を静かに見ていた。
胸の中に爽快感はなかった。
むしろ、少し寂しかった。
自分が愛していたエドワードは、最初からいなかったのだろうか。
その考えが浮かび、シェリィは心の中で否定した。
違う。
優しかった時もあった。
笑い合ったこともある。
自分を気遣ってくれた日もあった。
その思い出まで嘘にする必要はない。
ただ。
人は、一度の選択だけで今の自分になるわけではない。
小さな選択を積み重ねて、自分を作る。
そしてエドワードは、自分自身でここまで歩いてきた。
それだけだった。
◇
アーサーは、最後の処分を読み上げた。
「エドワード」
もう第2王子とは呼ばなかった。
エドワードの肩が僅かに震える。
「王家の記録から、お前の出生より今日に至るまでの王族としての記録を、すべて抹消する」
「王国出生原簿からも、お前の出生登録そのものを抹消する」
「王宮から永久に追放する」
「王家所有の全施設への立入りを永久に禁ずる」
「王家からの俸給・年金・扶養・護衛・使用人・住居その他一切の待遇を終了する」
「王族として保有していた印章・徽章・儀礼用装具その他全てを返還させる」
「王家の財産を用い、お前へ物質的援助を行うことも禁ずる」
エドワードはエレノアを見た。
その視線を受けた瞬間、エレノアの心が揺れた。
母ならば。
そう言われている気がした。
せめて宿くらい。
せめて食事くらい。
せめて少しの金くらい。
息子を愛する母親なら、用意してくれるだろう。
その期待が、はっきりと見えた。
エレノアは泣きそうになった。
本当は、用意してやりたかった。
今日だけでも。
最初の夜だけでも。
けれど、それをすれば判決の外側に、母親だけの特別な抜け道を作ることになる。
王妃である自分がそれをすれば、他の家族たちはどうなるのか。
極刑となる者の妻や子も、同じように愛する家族を失う。
自分だけが王妃だからと息子を支えれば、今日示した「家名ではなく行為を裁く」という原則まで歪む。
エレノアは何も言わなかった。
愛していないからではない。
愛しているからこそ、その沈黙は彼女自身を傷つけた。
アーサーが最後に言う。
「生きることは禁じない」
エドワードが顔を上げる。
「働くことも禁じない」
「王家以外の者へ、自分の意思で助けを求めることも禁じない」
「お前の命まで奪う判決ではない」
そして。
「ただし、王子として与えられたものは、今日、全て返してもらう」
判決は終わった。
大審院長が深く頭を下げる。
「国王陛下による最終承認を確認いたしました」
アーサーは椅子へ戻った。
座った瞬間、誰にも分からないほど小さく息を吐いた。
国王としての責務は果たした。
だが。
父親として何かが終わったわけではない。
むしろ、その苦しみはこれから始まるのだと分かっていた。
シェリィは立ち上がった。
父ローランドも立つ。
彼女はエドワードが王宮から追放される姿を見ようとは思わなかった。
それを見ることは、自分にとって必要なことではない。
法廷を出る直前。
シェリィは一度だけ振り返った。
エドワードは、まだ誰かを責めるような目で周囲を見ていた。
その姿を見て、胸が少しだけ痛んだ。
シェリィは何も言わず、父とともに扉の向こうへ消えた。
◇
同日・夕刻――
セレスティア王宮・王族居住区画。
追放処分は、その日のうちに執行された。
エドワードが自分の私室へ戻ることは許されなかった。
別室に、必要な担当官と衛兵だけが待っていた。
机の上には、回収品を記録する台帳が置かれている。
王家の徽章。
王子として使用していた印章。
儀礼用の剣。
王族用の外套。
公務用封印具。
王族名義の口座証明。
一つずつ確認され、一つずつ王家へ返還されていく。
「これは私の剣だ」
エドワードは儀礼用の剣を握ったまま言った。
担当官は感情を交えず答える。
「王族として貸与された品でございます」
「何年、私が使ったと思っている」
「使用年数にかかわらず、王家の所有物でございます」
エドワードは手を離さなかった。
少し前までなら、担当官が自分へそのような口調で返答することなど考えられなかった。
第2王子が自分の物だと言えば、それ以上問い返す者はいなかった。
だが、もう違う。
衛兵が一歩近づく前に、エドワードはようやく剣を机へ置いた。
乾いた音が響いた。
次に、胸元の徽章が外された。
小さな金属片だった。
それなのに、外された瞬間、エドワードは自分の身体から何か大きなものが剥がされたように感じた。
その徽章を見れば、人々は頭を下げた。
門は開いた。
自分の名を知らない者でさえ、王族だと理解した。
今はもう、何もない。
「……本当に、全部取るのか」
誰も答えなかった。
王族用の外套も回収された。
残されたのは、王家の紋章を持たない簡素な衣服だけだった。
その姿を見下ろし、エドワードは初めて気づいた。
今まで自分が「自分の力」だと思っていたもののどれほど多くが、王子という身分から与えられたものだったのか。
だが。
その理解は、まだ反省へはつながらなかった。
「父上はやりすぎだ」
小さく呟く。
「兄上なら止められたはずだ」
まだ、誰かだった。
最後まで。
◇
セレスティア王宮・正門。
夕日が王宮の石壁を赤く染めていた。
エドワードは衛兵2名に付き添われ、正門まで歩いた。
長い廊下を通った。
幼い頃、ジュリアンと走って侍従に叱られた場所。
母と庭を眺めた窓。
父の執務室へ初めて一人で呼ばれた日の扉。
どれも見慣れている。
今日までは、自分の家だった。
今は、全てが自分を外へ送り出すための道に見えた。
正門へ着く。
衛兵が止まった。
エドワードも止まる。
門の向こうには王都の通りがある。
「……馬車は?」
「ございません」
「宿は?」
「王家からの用意はございません」
エドワードの眉がつり上がる。
「金は?」
「王家からの支給はございません」
「なら、どうやって生きろというんだ!」
衛兵は表情を変えなかった。
「生計を立てることは、判決によって禁じられておりません」
エドワードが呆然とする。
「……働けというのか?」
その問いを、彼は生まれて初めて口にした。
門番が正門を開く。
外から夕方の風が入り込む。
王都の音が聞こえた。
荷車の車輪。
遠くで商人が店を閉める声。
家へ帰る人々の足音。
その全てが、これまでエドワードがほとんど意識したことのない世界だった。
「ここから先は、ご自身で」
衛兵が告げる。
エドワードは動かない。
振り返る。
王宮がある。
生まれた場所。
育った場所。
昨日まで、自分が永遠に属していると思っていた場所。
「父上は後悔する」
誰に言うでもなく呟いた。
「兄上だって……いつか分かる」
返事はない。
しばらくして、衛兵が言った。
「エドワード」
エドワードの目が大きく動いた。
殿下がない。
王子もない。
ただの名前だった。
「お進みください」
エドワードは門の外へ一歩出た。
さらに一歩。
そして振り返った。
「私は……」
言葉が止まる。
王子だ。
そう言いたかった。
セレスティアだ。
そう名乗りたかった。
国王の息子だ。
そう縋りたかった。
だが、どれも今の自分を社会的に証明するものではなくなった。
残されたのは一つだけだった。
エドワード。
それだけ。
門番が扉へ手を掛ける。
重い門が、ゆっくり閉じていく。
エドワードは最後まで王宮を見ていた。
扉の隙間が狭くなる。
中にいる衛兵の姿が消える。
庭が消える。
宮殿が消える。
そして。
重い音を立てて、王宮の門が閉じた。
◇
同日・夜――
セレスティア王宮・エレノア王妃私室。
エレノアは窓辺の椅子に座っていた。
王妃としての正装はすでに脱いでいる。
髪も簡素に整え直されていた。
それでも寝台へ入る気にはなれなかった。
部屋が静かだった。
あまりにも静かだった。
昨日までなら、会わなくても王宮のどこかに息子がいた。
食事をしている。
眠っている。
本を読んでいる。
不機嫌になっている。
何をしているか知らなくても、そこにいることだけは分かっていた。
今夜は違う。
どこにいるのか分からない。
食事を取れているのかも分からない。
眠る場所があるのかも分からない。
そして、自分には王家の財産を使って助けることが許されない。
エレノアは自分の両手を見た。
この手で産んだ。
この手で抱いた。
国家の出生原簿から記録が消えても、その事実まで消えるわけではない。
王家の系譜から名前が消えても、自分の記憶から幼いエドワードが消えるわけではない。
だからこそ、苦しかった。
「……私が、間違えたのかしら」
声が部屋に落ちる。
誰もいない。
もっと褒めればよかったのか。
もっと叱ればよかったのか。
ジュリアンと比べていないつもりでも、無意識に比べていたのか。
エドワードが劣等感を抱いていることに、なぜもっと早く気づかなかったのか。
もし、あの子が幼い頃に戻れるなら。
何を変えればいいのだろう。
答えは出ない。
過去を何度考えても、今日の判決が消えるわけでもない。
それでも母親の心は、答えのないところへ何度でも戻ろうとする。
扉が静かに叩かれた。
エレノアはすぐに返事ができなかった。
しばらくして侍女が声を掛ける。
「王妃陛下。マーガレット・ヴァルモント公爵夫人がお見えです」
エレノアが顔を上げる。
マーガレット。
シェリィの母。
自分の息子によって、その娘を公衆の面前で傷つけられた母親。
今、一番会いにくい人かもしれなかった。
「……何の用かしら」
「お茶をご一緒したい、とだけ」
エレノアは少しだけ目を閉じた。
帰ってもらおうかと思った。
今は誰とも話したくない。
王妃らしい言葉を探す力も残っていない。
けれど。
「……お通しして」
やがて扉が開いた。
マーガレット・ヴァルモント公爵夫人が入ってくる。
いつもと変わらぬ優雅な礼。
過剰な同情もない。
シェリィを傷つけた息子の母を責める目もない。
「王妃陛下」
「マーガレット」
それだけ言った。
しばらく、どちらも何も話さなかった。
マーガレットが室内を見る。
テーブルには手を付けられていない茶器が置かれていた。
「新しいお茶を淹れていただいても?」
エレノアが少しだけ眉を上げる。
「……あなた、慰めに来たのではないの?」
マーガレットは少し考える。
「慰めるための言葉を探してみたのですけれど」
エレノアを見る。
「どれも軽く聞こえてしまいそうでしたので、やめました」
エレノアの口元が、ほんの僅かに動いた。
「では、何をしに?」
「お茶をいただきに」
「私の部屋まで?」
「王宮のお茶は美味しいですもの」
エレノアは数秒、マーガレットを見つめた。
そして。
「……相変わらずね」
「よく言われます」
ほんの少し。
本当にほんの少しだけ、張り詰めていたものが緩んだ。
侍女が新しい茶を用意する。
湯気が立つ。
香りが部屋へ広がった。
マーガレットは、判決について話さなかった。
「南庭の白薔薇が、今年は少し早く咲いたそうです」
エレノアはカップを持つ。
「もう?」
「ええ。庭師が、炎冠月の初めには咲かないはずなのですが、と首を捻っておりました」
「今年は暖かい日が多かったものね」
「料理長は、それを理由に冷たい果実菓子を増やしたいそうです」
エレノアの眉が僅かに動く。
「去年も同じことを言っていなかった?」
「ええ。そして厨房長に怒られていました」
エレノアの口元から、小さな息が漏れる。
笑いに近かった。
マーガレットは、その変化に触れなかった。
少しして、王宮の猫がまた日当たりのいい廊下を占領していた話をした。
昔、幼いシェリィが庭で転び、ドレスを泥だらけにしたままエレノアの前へ現れた日のことも話した。
「あの子、背中側だけ見せなければ分からないと思っていたのです」
マーガレットが言う。
「前は綺麗だったので」
エレノアが思い出す。
「でも、あなたが『後ろを向きなさい』と言った途端、泣きそうな顔になったのよね」
「ええ」
「可愛かったわ」
「本人に言ったら、今でも否定すると思います」
エレノアは少し笑った。
けれど。
その笑みは長く続かなかった。
カップの中の水面を見つめる。
突然、視界が滲んだ。
「……マーガレット」
「はい」
声が震えていた。
王妃ではなく。
ただの一人の母親の声だった。
「私……今日は、何も考えたくないの」
マーガレットは黙って聞いた。
「正しい判決だったのか、とか」
「母親として何ができたのか、とか」
「いつからあの子が、あんなふうになったのか、とか」
エレノアの指がカップを強く握る。
「考え始めたら、きっと全部、自分のせいだったような気がしてくる」
とうとう、一筋だけ涙が頬を伝った。
「でも、全部私のせいだと言ってしまったら……あの子自身が選んだことまで奪うことになるのでしょう?」
マーガレットはすぐには答えなかった。
簡単に「違います」と言うこともできた。
でも、それでは今のエレノアが抱えているものを軽くしてしまう気がした。
だから、ただ静かに言った。
「今日は、答えを出さなくてもよろしいのではありませんか」
エレノアが顔を上げる。
「……いいの?」
「少なくとも、今夜中に答えを出さなければ王国が滅びる問題ではございません」
エレノアの涙の中に、ほんの僅かな苦笑が混じった。
マーガレットは続ける。
「でしたら、今日は何も考えない日にいたしましょう」
「明日考えたくなったら、明日考える」
「明日も無理なら、その次でも」
エレノアは黙っていた。
しばらくして、もう一筋涙が落ちる。
今度は拭かなかった。
マーガレットも慰めの言葉を重ねなかった。
王妃と公爵夫人ではなく。
傷ついた子を持つ二人の母親として。
ただ同じ部屋にいた。
夜が少しずつ深くなる。
お茶はいつの間にか冷めていた。
「マーガレット」
「はい」
エレノアは窓の外を見たまま、小さく言った。
「もう少し……いてくれる?」
マーガレットは迷わなかった。
「もちろんです」
第35話は、誰かを罰して爽快に終わる回ではなく、国王アーサーが「父親であること」と「国王としての責務」を同時に抱えたまま最終判断を下す回として描きました。
判決によって罪と無罪を明確に分ける一方で、その判決を下す側にも、受ける側にも、そして家族にも、それぞれ異なる痛みが残ります。
特に最後は、国王や王妃という肩書ではなく、一人の父親・一人の母親として何が残るのかを大切にしました。




