第1話:断罪された少女と、五人の誓い
星環暦1284年・白耀月≪第2月≫29日――。
セレスティア王立学園・大広間。
その年の卒業記念舞踏会が、華やかな音楽とともに幕を開けていた。
セレスティア王立学園。
王国各地の貴族子弟が学び、将来は領主、官僚、騎士、魔導士として国を支える人材を育てる、王国最高峰の教育機関である。
今夜、この大広間に招かれているのは卒業生と、事前に正式登録された舞踏相手のみ。
卒業式を終えた若者たちにとって、学園生活最後の夜であると同時に、本格的な貴族社会へ踏み出す最初の社交の場でもあった。
天井から吊るされた巨大な魔導灯が、磨き上げられた白亜の床へ柔らかな光を落とす。
王家の紋章。
各名門家から寄贈された調度品。
弦楽器を奏でる楽団。
色鮮やかな夜会服に身を包み、談笑する若き貴族たち。
その中で、自然と多くの視線を集めている少女がいた。
シェリィ・ヴァルモント。
18歳。
セレスティア王国でも最高位に位置するヴァルモント公爵家の一人娘であり、第二王子エドワードの正式な婚約者。
表向きは、セレスティア王家とヴァルモント公爵家の間で結ばれた、国の中枢を担う重要な婚約関係である。
だからこそ、この夜のシェリィの装いにも、ただ美しいだけでは済まされない意味があった。
彼女が身に纏うのは、深いサファイアブルーを基調とした夜会用のドレス。
夜空を思わせる濃紺の絹は、角度によって僅かに光沢を変え、魔導灯の下では深海のような青から星夜のような蒼へと静かに表情を変える。
布地そのものが最高級品だった。
王都でも限られた工房しか扱えない極細の絹糸を幾重にも織り上げ、身体の動きに沿って滑らかに落ちるよう仕立てられている。
胸元は過度に開かず、鎖骨の線を美しく見せる端正な形。
肩から背中へ流れる薄いレースには、銀糸によって星々と蔓草を組み合わせた繊細な刺繍が施されていた。
腰回りにはヴァルモント公爵家の紋章を抽象化した意匠。
そこから裾へ向かって何層もの布が緩やかに広がり、歩くたび、静かな波のように揺れる。
近くで見れば、一針ごとに途方もない手間と費用が掛かっていることが分かる。
だが、遠目には決してけばけばしく見えない。
それは偶然ではなかった。
シェリィ自身が、そう望んだからだ。
貴族社会では爵位による上下関係が明確に存在する。
男爵家。
子爵家。
伯爵家。
侯爵家。
公爵家。
そして、その上に王家がある。
今夜の女性卒業生の中で、シェリィは家格だけを見れば最上位に位置する。
しかも第二王子の婚約者。
そんな彼女が、自分の財力と地位を誇示するような装いを選べばどうなるか。
他の令嬢たちは気にする。
自分のドレスはシェリィより派手ではないか。
自分の宝石は、公爵令嬢のものより大きすぎないか。
王族の婚約者より目立つ格好をして、周囲からどう見られるか。
本来なら、自分たちの卒業を祝う夜だ。
好きな色を選びたい者もいる。
家族が用意してくれた宝飾品を身につけたい者もいる。
一生に一度の学園最後の舞踏会で、自分が一番美しいと思える装いをしたい。
その気持ちを、自分の身分で萎縮させたくなかった。
だからシェリィは、公爵令嬢として誰からも不足を指摘されない最高級のものを使いながら、他者と華美を競う装いにはしなかった。
自分の立場を下げるのでもない。
自分を必要以上に大きく見せるのでもない。
自分に求められる格式を正確に満たす。
それが、彼女なりの配慮だった。
金色の髪を結い上げた頭上には、公爵令嬢に相応しいティアラが輝いている。
白銀を細く編むように組み上げた台座へ、サファイアと小粒のダイヤモンドを均整よく配置したもの。
中央の宝石だけを不必要に巨大にすることもなく、王族女性が用いる冠飾り(かんかざり)より高さを抑えてある。
それでも、その素材と細工を見れば、一目で最高位公爵家の品だと分かった。
右手には、美しい扇。
15歳の誕生日に、エレノア王妃から贈られたものだった。
上質なシルクと繊細な黄金細工。
そして、さりげなく組み込まれた王家の紋章。
それを持つこと自体が、王妃から個人的な庇護を受けていることを示している。
耳元には、その扇の意匠に合わせて大后陛下から15歳の祝いとして贈られた、一対の大粒のダイヤモンドのイヤリング。
王都の社交界を知る者なら、それだけで理解する。
エレノア王妃も。
大后陛下も。
シェリィ・ヴァルモントを深く慈しんでいる。
男爵令嬢や伯爵令嬢がどれほど豪華な装いを選んだところで、それは競争にはならない。
シェリィが纏っているのは単なる金額ではなく、家格と、王家から積み重ねられてきた信頼そのものだからだ。
そんな華やかな夜を、一声が切り裂いた。
「――シェリィ・ヴァルモント!」
楽団の演奏が途切れた。
談笑していた者たちが振り返る。
大広間の中央に立っていたのは、第二王子エドワードだった。
その隣には、クロード男爵家の令嬢ミレーヌがいる。
細い肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔でエドワードの腕に縋っていた。
そしてエドワードは、まるで罪人を断罪する裁判官のように、シェリィへ指を突きつけた。
「貴様との婚約を破棄する!」
静まり返った大広間に、その声だけが響いた。
シェリィは動かなかった。
眉ひとつ動かさない。
ただ、見る。
エドワード。
ミレーヌ。
そして周囲。
「貴様は我が婚約者でありながら、攻撃魔法の1つも満足に扱えぬ!」
エドワードが声を張り上げる。
「18歳となった今でもこの有様! それだけでも王家へ嫁ぐ者として恥ずべきことだというのに、あろうことか嫉妬に狂い、ミレーヌを魔法で傷つけたというではないか!」
ミレーヌが俯く。
涙を堪えるように唇を噛む。
見事な被害者の姿だった。
――見た目だけなら。
ほんの一瞬。
ミレーヌの瞳が周囲を確認した。
誰が自分を見ているか。
誰がエドワードへ賛同しているか。
その視線を、シェリィは見逃さなかった。
(……なるほど)
怒る必要はない。
まず、見る。
誰が何を言うか。
誰が誰を見るか。
誰が最初に動き。
誰が後から流れに乗るか。
前世から染みついた習慣だった。
「殿下のおっしゃる通りです!」
声が上がった。
「第二王子殿下は、これまで随分と耐えてこられたのでしょう」
「魔法も使えぬ者が王家へ嫁ぐなど、そもそも無理があったのです」
何人かの若者がエドワードへ同調する。
全員が卒業生というわけではない。
今夜は卒業生本人と、正式登録された舞踏相手のみが入場できる。
つまり学園外から来ている者も、それぞれ誰かの正式な同伴者としてここにいる。
シェリィの視線が静かに移動した。
真っ先に声を上げた者。
その言葉を聞いてから賛同した者。
困惑している者。
表情を強張らせた者。
何も言わず、エドワードから僅かに距離を取った者。
隣の者へ小声で何かを確認した者。
そして、沈黙したまま観察している者。
(……やはり)
以前から、王宮周辺には第二王子を担ごうとする一派が存在する。
エドワード自身は、その全貌を理解していない。
むしろ、自分が利用されている可能性すら認識していないだろう。
だからこそ、今夜は価値がある。
誰が、この愚かな行動へどのような反応を示すのか。
その情報は、王太子ジュリアンにとって大きな意味を持つ。
「シェリィ! 聞いているのか!」
「ええ、エドワード殿下」
シェリィは静かに扇を閉じた。
「私が、ミレーヌ様を魔法で傷つけたとおっしゃいましたね」
「そうだ!」
「では、その日時をご提示いただけますでしょうか」
「なに?」
「使用されたという魔法の属性、残留魔力、魔力痕、現場にいらした証人の証言もお願いいたします」
エドワードの表情が止まった。
シェリィは感情を込めず続ける。
「魔法による傷害であれば、少なくとも何らかの痕跡は残るはずですわ」
「そ、それは……」
「ミレーヌ様から申し立てられた日時のうち、1日は王宮財務局へ提出する予算資料の監査補助に入っておりました。担当官の記録がございます」
周囲がざわめいた。
「もう1日についても、私はセレスティア王立学園の授業へ出席しております。出席簿だけでなく、担当教師と同席した生徒の証言も確認できますわ」
ミレーヌの肩が僅かに強張った。
シェリィはそこも見る。
だが断定しない。
証拠がないうちに結論を出さない。
それが彼女のやり方だった。
「くっ……屁理屈を!」
エドワードが叫んだ。
その瞬間。
大広間の空気が、確実に変わった。
証拠を求められ。
答えられず。
返した言葉が「屁理屈」。
貴族教育を受けた者なら、それが何を意味するか分かる。
シェリィは何も言わなかった。
言う必要がない。
反応そのものが、情報になっている。
そして――。
「だが、そんなことはもうどうでもよい!」
エドワードは勢いを取り戻すように声を張った。
「貴様のような無能な女など、我が王家には不要だ!」
シェリィの目が僅かに細くなる。
無能。
魔法なし。
幼い頃から、何度も聞いた。
その言葉を聞くたび。
彼女は思い出す。
自分がなぜ、魔法を自由に使うことを許されなかったのか。
それは、才能がなかったからではない。
まったく逆だった。
星環暦1266年・白耀月≪第2月≫18日――。
セレスティア王宮・星詠みの間。
シェリィ・ヴァルモントが、この世界に生を受けた日。
ヴァルモント公爵ローランドは、生まれたばかりの娘を腕に抱きながら、人生で初めてと言っていいほど狼狽していた。
「大后陛下……お願いいたします。この子を……シェリィを、お救いください」
傍らでは、出産を終えたばかりのマーガレットが青ざめた顔で娘を見つめている。
小さな身体。
小さな手。
穏やかな寝息。
一見すれば、何の変哲もない健康な赤子だった。
しかし、その内側に存在するものは異常だった。
魔力測定器は、正しい数値を出せなかった。
測定を始めるたびに針が限界まで振り切れ、術式そのものが耐え切れなくなる。
その原因は単純だった。
シェリィ自身が持つ魔力が、あまりにも巨大すぎる。
それは将来の才能という言葉で済む量ではない。
身体が成長するより先に魔力が膨張すれば、自分自身の器を内側から壊しかねなかった。
集まったのは5人。
セレスティア大后アストリッド。
アーサー国王。
エレノア王妃。
ヴァルモント公爵ローランド。
ヴァルモント公爵夫人マーガレット。
誰1人として。
その力を見て、王国の兵器にしようとは言わなかった。
政治利用しようとも。
王家へ縛りつけようとも。
考えなかった。
目の前にいるのは、世界を変えるかもしれない力ではない。
守るべき1人の赤子だった。
大后アストリッドが、小さなシェリィの額へ指先を触れる。
魔導士として世界の三指に数えられ、《絶対防御》へ至った彼女の表情にも、珍しく緊張があった。
「……このままでは、この子の身体が先に壊れます」
マーガレットが娘を抱く腕へ力を込めた。
「では……どうすれば……」
「封じます」
アストリッドの言葉に、ローランドが顔を上げる。
「ただし、奪うのではありません」
アーサー国王が静かに問う。
「いつか、戻すことができるのですか」
「ええ。この子自身が、この力を背負えるほど成長したならば」
エレノア王妃は、赤子の頬へそっと触れた。
「でしたら、お願いします」
迷いはなかった。
「魔法が使えないと笑われても構いません。この子が生きて、笑ってくれるのなら」
ローランドも頷く。
「私も同じだ。公爵家の名誉など、娘の命に比べれば何の価値もない」
マーガレットは涙を流しながら、シェリィの額へ口づけた。
「生きてください、シェリィ。それだけでいいの」
アーサー国王は眠る赤子を見つめた。
彼にとってシェリィは、親友ローランドの娘というだけではなかった。
幼い頃から家族ぐるみで関わることになる、王家にとっても大切な子。
「王権の都合で、この子の力を利用させるようなことはしない」
エレノア王妃も続ける。
「この子が自分で人生を選べる日まで、私たちが守りましょう」
大后アストリッドは4人を見渡した。
「では、誓いなさい」
静かな声だった。
「この子の力を恐れて利用しないこと」
「この子の未来を、大人の都合で奪わないこと」
「この子自身が選べる時まで、真実を守ること」
「そして――」
アストリッドの青い瞳が柔らかく細められた。
「たとえ世界中がこの子を無能と呼んでも、私たちだけは、この子の価値を疑わないこと」
4人が頷いた。
それが。
5人の誓いだった。
深層封印の儀式が始まる。
5人の魔力が、生まれたばかりのシェリィを包み込んだ。
巨大すぎる魔力を、無理に消すのではない。
身体の奥深く。
成長する器を傷つけない場所へ、静かに眠らせていく。
その時だった。
5人の意識へ、突然、見知らぬ光景が流れ込んだ。
天まで届きそうな建物。
夜を昼のように照らす都市。
高速で走る乗り物。
巨大な画面。
世界地図。
数字。
資源価格。
海を越えて繋がる物流。
異なる言語を話す者たちが集まる会議室。
そして、その中心にいる1人の女性。
日本人の父。
フランス人の母。
日本で生まれ育ち、欧州へ渡った女性。
英国とフランスで学び。
やがてEUに関わる政策分析の現場で、資源、エネルギー、地政学、国際経済、供給網、多国間交渉を分析する仕事に就いた。
35歳で人生を終えるまで。
彼女は、国家と国家を繋ぐ「構造」を見続けていた。
5人に見えたのは、その人生の断片だった。
「これは……」
アーサー国王が息を呑む。
「この子なのか?」
「魂に残る記憶です」
大后アストリッドは、慎重に魔力を探った。
「ですが、今のこの子に、この記憶を背負わせてはいけません」
巨大な魔力だけでも危険なのだ。
そこへ成熟した大人1人分の記憶まで一度に流れ込めば、幼い人格が耐えられる保証はない。
だからアストリッドは。
前世の記憶にも、もう1つ穏やかな封を施した。
魔力の封印より遥かに柔らかい。
成長に寄り添う封。
文字を学べば、文字に関する記憶が。
数字を学べば、数字に関する記憶が。
歴史を学べば、国家を考えた記憶が。
今世のシェリィ自身が理解できるようになったものから、少しずつ戻るように。
5人が封じたのは、彼女の才能ではない。
未来でもない。
その未来へ生きて辿り着くための時間を、守ったのだ。
――そして18年後。
星環暦1284年・白耀月≪第2月≫29日――。
セレスティア王立学園・卒業記念舞踏会。
「アスタリアだ!」
エドワード第二王子が叫んだ。
「貴様を王国北部の極寒の地、アスタリアへ追放する! 王都へ戻ることも許さん!」
大広間に、先ほど以上のどよめきが起こった。
シェリィは静かにエドワードを見つめた。
もちろん。
第二王子に、最高位公爵家の令嬢を永久追放する法的権限などない。
王家とヴァルモント公爵家の間で正式に結ばれた婚約も、彼1人の宣言で法的に消滅するものではない。
そんなことは。
シェリィ自身が最もよく知っている。
12歳から王妃候補として宮廷法、国家財政、外交、条約、統治実務を学んできた。
アーサー国王やエレノア王妃の許可を得て、実際の行政資料に触れた経験すらある。
ここで一言。
「殿下には、その権限はございません」
と言えばいい。
法だけなら、それで終わる。
だが。
シェリィは大広間を見渡した。
ここにいるのは、これから国を動かす若者たち。
もし最高位公爵令嬢である自分が。
王族の言葉へ、その場で公然と。
「無効だから従わない」
と宣言したら。
今日の法的事情を知らない者に残るものは何か。
「自分が正しくないと思った命令なら、臣下は公の場で拒否してよい」
その光景だけが残る可能性がある。
いつか。
アーサー国王の正当な命令を。
あるいは次代の王となるジュリアン王太子の正当な命令を。
自分の都合で拒絶する者が、その前例として利用する可能性がある。
それだけは。
許せなかった。
自分1人が笑われることと。
国家の秩序に悪い前例を残すこと。
比較するまでもない。
(……受けましょう)
それに。
この場でエドワードを止めてしまえば、彼の周囲にいる者たちはまた影へ隠れる。
今夜、自分は既に多くを見た。
誰が最初に賛同したのか。
誰がエドワードを煽ったのか。
誰が様子を窺ってから動いたのか。
ジュリアン王太子へ渡す情報としては、十分すぎるほどだった。
シェリィは扇を閉じた。
寸分の乱れもないカーテシーをする。
「……承知いたしました、エドワード殿下」
一瞬。
広間が静まり返った。
エドワードの顔に、勝ち誇った笑みが浮かぶ。
「ふん! ようやく自分の立場を理解したか!」
シェリィは顔を上げた。
そして。
優雅に微笑んだ。
「そのご決断の責任は――どうか末永く、お背負いくださいませ」
何人かが息を呑んだ。
意味を理解した者たちだ。
エドワードだけは分かっていない。
「当然だ!」
満足げに胸を張る。
シェリィはもう何も言わなかった。
踵を返す。
大広間を出口へ向かって進みながら、最後にもう一度だけ周囲を見渡した。
エドワードに賛同した者。
距離を取った者。
沈黙した者。
そして、学園外から舞踏相手として入り込んだ者たち。
一人ひとり。
顔と立ち位置を記憶する。
(ジュリアン殿下へお伝えすることが、随分と増えましたわね)
敗北ではない。
撤退でもない。
盤面を変えるための一手。
シェリィ・ヴァルモントは、その夜、セレスティア王立学園を後にした。
星環暦1284年・白耀月≪第2月≫30日――。
セレスティア王都・ヴァルモント公爵邸。
翌朝。
シェリィの私室では、北方行きの準備が進められていた。
厚手の防寒着。
毛皮の外套。
薬。
保存食。
現金。
調査器具。
地図。
過去のアスタリアに関する行政資料。
最低限の侍女と護衛。
どう見ても、「見捨てられた娘」を送り出す荷物ではない。
当然だった。
エドワードの命令に法的な追放の効力などない。
シェリィがアスタリアへ向かうのは、表向き第二王子の言葉に従う形を取るため。
そして実際の立場としては、ヴァルモント公爵領の一部であるアスタリアの現地調査と管理を担う、公爵家の娘としての移動だった。
「シェリィ」
玄関前で、ヴァルモント公爵ローランドが娘を呼び止めた。
戦場では「国の最強の剣」と恐れられる男。
だが今、その顔にあるのは父親の表情だった。
「アスタリアは厳しい土地だ」
「承知しております、お父様」
「王都の冬とは違う。寒さだけではない。物流も、食料も、医療も十分ではない」
「はい」
ローランドは娘を見つめる。
「戻りたくなったなら、戻ってこい」
シェリィは一瞬だけ目を丸くした。
そして、柔らかく笑った。
「お父様」
「なんだ」
「エドワード殿下に、私を王都へ戻すかどうか決める権限がないことは、お父様もご存じでしょう?」
ローランドの口元が、僅かに緩んだ。
「ああ。当然だ」
「でしたら私は、いつでも帰ってこられますわ」
「……そうだな」
父娘の間に、小さな笑いが生まれた。
そこへマーガレット夫人が歩み寄る。
「シェリィ」
手には、小さな箱。
開くと、中には北方用の上質な手袋が収められていた。
「これを」
「お母様……」
「手を冷やしてはいけません。書類を書くにも、調査をするにも、指は大切でしょう?」
いかにもマーガレットらしい言葉だった。
シェリィは手袋を受け取る。
「ありがとうございます」
マーガレットは娘の頬へ触れた。
ほんの一瞬。
公爵夫人としてではない。
ただの母親の手だった。
「無理をしないで」
「はい」
「何でも1人で背負わないで」
その言葉だけ。
シェリィは僅かに目を伏せた。
自分の弱点を。
母親はよく知っている。
問題が起きると。
「自分が我慢すればいい」
「自分が犠牲になれば解決する」
そう考えてしまうことを。
「……気をつけますわ」
完全に「しません」とは言わない。
その返答に、マーガレットは苦笑した。
ローランドが馬車を見る。
「必要なものがあれば、すぐ連絡しろ。公爵家の倉庫も、商業ギルドも使え」
「はい」
「アスタリアは、セレスティア王国の土地であり、ヴァルモント公爵領の一部だ」
その言葉には重みがあった。
「お前は捨てられたのではない。忘れるな」
シェリィはまっすぐ父を見る。
「忘れませんわ」
そして。
少しだけ。
普段の完璧な公爵令嬢ではない、娘らしい笑顔を見せた。
「行ってまいります、お父様、お母様」
星環暦1284年・芽風月≪第3月≫1日――。
セレスティア王国北部へ向かう街道。
王都を離れてから、景色は日ごとに変わっていった。
整備された石畳。
広い農地。
人通りの多い町。
それらが少しずつ減っていく。
代わりに。
山。
雪。
荒い風。
人影の少ない街道。
馬車の中。
シェリィの膝には、数冊の資料が開かれていた。
人口。
年齢構成。
冬季死亡率。
食料生産量。
王都からの輸送日数。
積雪量。
河川。
地下水。
街道。
過去の鉱山調査。
隣接地域との交易。
前世ならば。
政策分析を始める時、最初に集める類の数字だ。
侍女が向かいから資料の山を見て苦笑する。
「お嬢様。少しお休みになってはいかがでしょう」
「もう少しだけ」
「王都を出られてから、ずっとそうおっしゃっています」
「まあ」
シェリィはようやく顔を上げた。
「では、この頁まで」
「その頁は、あと30枚ございます」
「……見つかってしまいましたわね」
侍女が思わず笑った。
シェリィも微笑む。
だが視線は、すぐ窓の外へ戻った。
資料だけで結論は出さない。
前世でも、数字だけを見た政策は現場で失敗することがあった。
住んでいる人。
その土地の匂い。
冬の風。
道の状態。
商人の声。
資料には書かれない情報がある。
まず見る。
そして聞く。
その後に分析する。
星環暦1284年・芽風月≪第3月≫3日――。
ヴァルモント公爵領北部・アスタリア。
馬車の扉が開いた。
冷気が、一気に車内へ入り込む。
シェリィは毛皮の外套を整え、雪の上へ足を下ろした。
靴底が。
きゅっ、と音を立てる。
目の前には、白銀の大地が広がっていた。
雪に半ば埋もれた家々。
遠くへ続く山。
灰色の空。
煙の細い家。
住民たちの服は厚く。
道の端には、固められた雪が人の背ほど積み上がっている場所さえある。
シェリィは何も言わず、しばらく景色を見ていた。
王都で読む「極寒の辺境」という文字とは。
まったく違う。
風が頬を刺す。
この寒さの中で。
人が暮らしている。
「ここが……アスタリア」
その一言だけを口にした。
判断は。
まだしない。
星環暦1284年・芽風月≪第3月≫4日――。
アスタリア・領主館。
翌朝から、シェリィは調査を始めた。
まず集めたのは、王都向けに整えられた報告書ではない。
住民記録。
倉庫の在庫。
冬季の食料配給量。
薪の使用量。
凍死者数。
病人。
街道の閉鎖日数。
商人の入域回数。
農業収穫量。
家畜数。
過去の井戸掘削記録。
鉱物調査記録。
そして。
現地の人々から直接聞いた話。
「冬は何が一番困りますか?」
シェリィが尋ねる。
年配の住民が少し困った顔をした。
「全部と言えば全部でございますが……やはり薪ですな」
「薪?」
「暖房にも、料理にも、湯にも要ります。ですが、この辺りは木を好きなだけ伐ればいい土地ではありません。遠くから運べば値が上がります」
シェリィは記録する。
「食料よりも先に、熱なのですね」
「食料も大事です。ただ……食べ物があっても、凍えれば人は生きられません」
その言葉で。
シェリィの頭の中に、1つの軸が生まれた。
熱。
暖房。
調理。
湯。
生活。
産業。
物流。
この土地の根本的な制約。
それは。
「寒さ」だった。
ただし。
まだ結論ではない。
シェリィは資料をめくる。
その中に。
僅かに気になる記述があった。
――黒色鉱石。
採掘地点、多数。
利用実績、なし。
市場価値、なし。
処分対象。
「この黒色鉱石とは?」
案内役の住民が答えた。
「ああ……あの邪魔な石ですか」
「邪魔?」
「掘ればどこでも出てきます。重いですし、燃やそうとしても燃えない。昔、魔導石として売れないか王都へ持っていった商人もいましたが、値がつかなかったそうです」
「実物を見せていただけますか」
住民が不思議そうな顔をする。
「今からですか?」
「ええ」
星環暦1284年・芽風月≪第3月≫4日――。
2時間後。アスタリア北東部・旧採掘場。
雪の間から、黒い岩肌が露出していた。
案内役の男が、足元に転がる石を拾う。
「これです」
シェリィは受け取った。
黒い。
重い。
表面には光沢がほとんどない。
一見しただけなら。
王都の商人が値をつけなかったのも理解できる。
「過去にどの程度調べられました?」
「詳しいことは分かりません。ただ、魔導石ではないと言われたと」
「燃焼試験は?」
「薪の火へ入れても燃えません」
「粉砕は?」
「そこまでは……」
「加熱時の変化」
「魔力を流した時の反応」
「水に浸した場合」
「他鉱物との混合」
「長時間加熱」
男は首を横へ振る。
「分かりません」
シェリィは石を見る。
つまり。
「使えなかった」のではない。
少なくとも記録を見る限り。
「既存の用途に当てはまらなかった」。
それだけだ。
シェリィは手袋を外した。
「お嬢様?」
「少しだけ確認します」
指先が石に触れた。
その瞬間。
身体の奥で。
何かが僅かに震えた。
「……?」
シェリィが眉を寄せる。
封印の奥。
普段は意識することすらない膨大な魔力。
そこから滲み出す程度の、ごく微量の力。
それが。
黒い石に触れた。
淡い。
本当に淡い黄金色の線が。
石の表面を走った。
「――!」
シェリィは即座に石を雪の上へ置いた。
案内役が息を呑む。
じわり。
黒い石の周囲だけ。
雪が。
溶けていく。
「……熱?」
シェリィは近づく。
だが触らない。
「皆さん、下がってください」
声音が変わった。
令嬢ではない。
分析者の声。
「この石へ直接魔力を流すことは禁止します。私が先ほど与えた量すら正確ではありません。同じ結果が起きる保証も、安全である保証もありません」
「ですが、お嬢様……」
「まず記録します」
従者を見る。
「試料番号を付けてください。採取地点、重さ、形状、周囲の地質。今の反応開始時刻も」
「はい!」
「石そのものの温度を測れる器具は?」
「領主館にございます」
「持ってきてください。加えて、同じ場所から採取した石を最低でも複数。別の地点からも採取します。ただし魔力には触れさせないように」
次々と指示が飛ぶ。
「人体への影響も分かりません。素手で長時間触れないこと」
「水質への影響」
「燃焼時の有害物質」
「継続時間」
「魔力量と発熱量の関係」
「それらが分かるまで、資源として扱ってはいけません」
案内役の男が目を丸くする。
「こんな石を……そこまで調べるので?」
シェリィは雪の上で熱を放ち続ける黒い石を見つめた。
「分からないからこそ、です」
「一度熱を出したというだけで、価値ある資源だと断定することもできません」
「逆に」
青磁色の瞳が細くなる。
「長年捨てられていたからという理由だけで、無価値だと断定することもできませんわ」
熱。
アスタリアに。
最も不足しているもの。
そして。
今。
誰も価値を認めなかった石から。
熱が生まれている。
偶然なのか。
再現可能なのか。
安全なのか。
長期利用できるのか。
何も分からない。
だから。
調べる。
それだけだった。
星環暦1284年・芽風月≪第3月≫4日――。
3時間後。アスタリア・領主館。
机の上には、黒い鉱石が複数並べられていた。
全て番号が振られている。
シェリィは試験記録を読みながら、別の紙へ文字を書いていた。
「お嬢様、王都へお送りする報告書でしょうか?」
「いいえ」
侍女が首を傾げる。
「では?」
「グラン・アルスター公国へ送ります」
「……大公殿下に、ですか?」
「ええ。レオンハルト大公へ」
シェリィは筆を止めた。
グラン・アルスター公国。
アスタリアに比較的近い位置にあり、北方の輸送と寒冷地での資源開発に経験を持つ隣国。
現時点。
シェリィに、アスタリアの採掘権を他国へ譲渡する権限などない。
まして土地を売る権限も。
勝手に国家間条約を締結する権限もない。
だから。
それを提案するつもりは最初からなかった。
欲しいのは。
技術。
資金の可能性。
流通の知見。
そして。
外部からの客観的な目だった。
もし王都の一部勢力がこの土地を「何もない辺境」としか見ていないなら。
隣国の大公本人が現地を訪れ、未知の鉱石へ関心を示した。
その事実だけでも意味がある。
「内容を読み上げます」
シェリィは筆を取った。
「――セレスティア王国北部、ヴァルモント公爵領内アスタリアにて、従来の魔導石とは異なる反応を示す黒色鉱石を確認」
「――現在、資源価値、安全性、再現性を調査中」
「――現段階では、採掘権、独占供給、土地に関するいかなる権利も提示しない」
侍女が思わず顔を上げた。
シェリィは続ける。
「――そのうえで、寒冷地資源開発および北方輸送に知見を持つグラン・アルスター公国へ、現地視察と共同調査の可能性について意見を伺いたい」
最後に。
僅かに微笑んだ。
「『これは慈善をお願いする書状ではございません』」
「『双方が利益を得られる可能性について、検討していただきたく存じます』」
侍女が書き留める。
「以上ですか?」
「最後にもう1つ」
シェリィは黒い石を見る。
「『なお、現時点では、この鉱石に価値があると断定しておりません』」
侍女が瞬きをした。
「そこまでお書きになるのですか?」
「当然です」
シェリィは答えた。
「投資を求める相手に、都合の良い情報だけを見せてはいけません」
前世でも。
それで失敗した企業も。
国家も。
幾つも見てきた。
利益を語るなら。
リスクも語る。
それが契約の始まりだ。
星環暦1284年・芽風月≪第3月≫7日――。
アスタリア・領主館前。
雪の街道の先から。
黒銀の馬車が姿を現した。
領主館の前で停止する。
扉が開き。
長身の男が雪の上へ降り立った。
厚い黒の外套。
無駄のない身のこなし。
若くありながら、周囲の空気そのものを引き締めるような存在感。
グラン・アルスター大公レオンハルト。
シェリィ自身が招いた相手だった。
「まさか、本当に大公殿下ご本人がお越しくださるとは思いませんでしたわ」
シェリィがカーテシーをする。
レオンハルトは彼女を見て。
次に。
背後の小さな町を見る。
「隣国の最高位公爵令嬢から」
低い声だった。
「『未知の資源を見つけた。だが価値があるとは保証しない。それでも慈善ではなく利益の話をしよう』」
僅かに口元が緩む。
「そんな書状を送られて、部下だけ寄越せると思うか?」
「光栄ですわ」
「それで?」
レオンハルトが辺りを見渡す。
雪。
古い家々。
狭い街道。
凍った土地。
「私をここまで呼んだものを見せてもらおう」
領主館の一室。
シェリィは木箱から黒い鉱石を取り出した。
「こちらです」
レオンハルトは手に取らず、まず目で確認する。
「普通の石に見える」
「私にもそう見えました」
「正直だな」
「事実ですもの」
シェリィは別の試料を台へ置く。
「現在までに、複数地点の試料で類似反応を確認しております。ただし、反応量には差がございます」
「何をすると反応する」
「ごく微量の魔力です」
シェリィは慎重に。
本当に僅かだけ。
石へ魔力を触れさせた。
淡い黄金色の光。
直後。
冷えていた石から。
熱が生まれる。
レオンハルトの瞳が鋭くなる。
「……なるほど」
それだけだった。
驚いて飛びつかない。
シェリィは、その反応に少しだけ満足した。
「発熱時間は?」
「試料ごとに異なります」
「必要な魔力量」
「測定中です」
「鉱脈規模」
「まだ不明」
「毒性」
「調査中」
「精製可能性」
「不明です」
レオンハルトは。
ついに笑った。
「不明だらけではないか」
「はい」
シェリィも笑う。
「ですから、お呼びいたしました」
「面白い」
レオンハルトは椅子へ腰を下ろした。
「何を望む?」
シェリィは即答しなかった。
テーブルの上へ地図を広げる。
「採掘技術」
1つ。
「鉱物分析」
2つ。
「寒冷地での輸送技術」
3つ。
「もし資源価値が確認された場合の、国外市場への接続」
4つ。
そして。
「外部の専門家による評価」
レオンハルトが眉を上げた。
「最後のものは、技術とは違うな」
「ええ」
シェリィは扇を開く。
「国内だけで評価すれば、政治的な都合が入る可能性があります」
「私を利用する気か?」
「もちろんですわ」
迷いなく答えた。
レオンハルトが一瞬黙る。
シェリィは続けた。
「ですが、大公殿下にも私を利用していただきます」
「ほう」
「もし、この鉱石に安定した熱源としての価値が確認された場合」
シェリィはアスタリアとグラン・アルスターの位置を指す。
「最初に共同調査へ参加した国には、今後の交易交渉で得られるものがございます」
「ただし」
扇が静かに閉じる。
「現時点で私は、採掘権を譲渡するとは申しません」
「土地の権利も」
「独占供給も」
「国家間条約も」
「私個人の権限だけで約束できるものではありませんもの」
レオンハルトは、しばらくシェリィを見ていた。
追放された。
魔法の使えない。
18歳の令嬢。
王都で聞く噂だけなら。
そうなる。
だが。
目の前にいる少女は。
自分が何を持っていないのかまで、正確に理解している。
「……シェリィ・ヴァルモント」
「はい」
「お前は、この土地をどうしたい?」
問いは短かった。
シェリィは窓の外を見た。
雪。
冷たい風。
煙を吐く家。
その向こうには。
昨日話を聞いた住民たちがいる。
「まず」
ゆっくりと答える。
「冬に、人が寒さで死なない土地にいたします」
レオンハルトは黙って聞く。
「そのために、この石が使えるのなら利用します」
「使えないのなら、別の方法を探します」
「では、この石そのものへ執着はない?」
「ありません」
シェリィは即答した。
「欲しいのは石ではありません」
「結果です」
青磁色の瞳が。
まっすぐレオンハルトを見る。
「この土地で暮らす人々が、熱を手に入れること」
「暖かい家で眠れること」
「冬でも温かい食事を取れること」
「その結果として産業が生まれ、仕事が増え、交易が始まること」
「資源は、そのための手段にすぎませんわ」
レオンハルトは目を細めた。
「……なるほど」
そして。
手を差し出した。
「まずは共同調査だ」
シェリィはその手を見る。
「正式な契約条件は、調査結果が出てから」
「当然ですわ」
「費用分担も」
「記録に残します」
「成果の取り扱いも」
「双方で協議いたしましょう」
レオンハルトの口元に笑みが浮かぶ。
「本当に18歳か?」
「失礼ですわね」
「褒めている」
「でしたら、ありがたく頂戴いたします」
シェリィは。
差し出された手を握った。
まだ。
何も成し遂げてはいない。
黒い石が本当に資源になるかすら。
分からない。
会社もない。
工場もない。
物流網もない。
自治権もない。
世界を変える技術も。
まだ存在しない。
あるのは。
凍える土地と。
誰も価値を認めなかった黒い石。
そして。
1人の少女が持つ。
「まず調べる」
という意志だけだった。
だが。
どんな巨大な変革も。
最初は。
誰かが。
「本当に価値がないのか」
そう問い直すところから始まる。
追放された公爵令嬢シェリィ・ヴァルモント。
魔法なしと笑われた少女。
彼女が。
極寒のアスタリアで最初に見つけたものは。
世界を変える答えではなかった。
答えを探す価値のある。
最初の問いだった。
承知しました。
前の本文の、
「答えを探す価値のある。最初の問いだった。」
その直後から、第1話の締めまでそのまま続けます。
数時間後。
レオンハルト大公との協議を終えたシェリィは、領主館の執務室へ戻っていた。
窓の外では、相変わらず雪が降っている。
王都であれば、これほどの雪が降れば人々は窓辺へ集まり、珍しい景色として眺めるのかもしれない。
だが、アスタリアでは違う。
雪は美しいだけのものではない。
道を塞ぐ。
物流を止める。
家屋を傷める。
燃料を消費させる。
そして時には。
人の命を奪う。
机の上には、例の黒い鉱石が置かれていた。
既に熱は失われている。
何の変哲もない。
黒い石。
シェリィは、その横へ新しい紙を置いた。
そして筆を取る。
最初に書いたのは。
――黒色鉱石調査計画。
その下へ項目を並べていく。
採取地点。
鉱床の広がり。
推定埋蔵量。
成分。
硬度。
粉砕特性。
精製方法。
魔力投入量。
発熱量。
発熱持続時間。
反復使用の可否。
劣化。
排出物。
人体への影響。
水質への影響。
土壌への影響。
輸送時の安全性。
保管方法。
事故発生時の対処方法。
書かなければならないことは、いくらでもあった。
「……まだ、資源ですらありませんわね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
少なくとも。
今はまだ。
熱を出すことが確認された、正体不明の鉱石。
それ以上でも。
それ以下でもない。
前世で何度も見てきた。
巨大な可能性を持つ新技術が。
安全性を軽視したことで社会から拒絶される姿を。
夢の資源と呼ばれたものが。
採算性を無視したため破綻する姿を。
一部の成功だけが大々的に宣伝され。
都合の悪い数字が隠され。
その結果。
最後には人々の信頼そのものが失われていく姿を。
だから。
シェリィは急がない。
可能性が大きい時ほど。
慎重になる。
「お嬢様」
侍女が温かい茶を運んできた。
「ありがとうございます」
カップを受け取り。
シェリィは両手で包む。
温かい。
その僅かな熱が。
今のアスタリアでは、決して当たり前ではない。
「……これですわね」
「はい?」
「この土地に必要なのは」
シェリィは湯気を見つめた。
「まず、熱です」
巨大な宮殿ではない。
豪華な街並みでも。
立派な軍隊でもない。
人が生きるために必要な。
最も基本的なもの。
冬を越すための熱。
料理をするための熱。
湯を沸かすための熱。
病人を守るための熱。
そして。
もし十分な熱を、安価に、安定して得られるようになれば。
その先がある。
加工。
製造。
保存。
農業。
工房。
産業。
人が集まる。
仕事が生まれる。
物流が動く。
市場ができる。
そして。
地域そのものの価値が変わる。
シェリィは筆を取った。
先ほどまでの調査項目とは別の紙。
中央に。
大きく1つだけ書く。
――熱。
そこから線を伸ばす。
生活。
食料。
医療。
産業。
交通。
人口。
交易。
税収。
人材。
そして。
さらにその先へ。
他地域。
国外。
市場。
技術。
シェリィの目が。
少しずつ輝き始める。
前世。
資源の価値とは。
その物質そのものだけで決まるものではなかった。
どこにあるか。
どれだけあるか。
いくらで採れるか。
どう運ぶか。
誰が必要とするか。
代替品はあるか。
政治的に安定して供給できるか。
技術的に利用できるか。
そして。
その資源を中心として、どのような産業を作れるか。
全てが繋がって。
初めて。
価値になる。
「……そういうことですのね」
シェリィは。
ようやく理解し始めていた。
自分がこの土地でやるべきことを。
黒い鉱石を売ることではない。
鉱山を掘ることでもない。
まして。
一時的に金を稼ぐことでもない。
この土地の弱点そのものを。
強みに変える。
寒いから。
熱が必要になる。
ならば。
その熱を作る技術を生み出す。
物流が悪いなら。
物流そのものを改善する。
人が少ないなら。
人が来たくなる仕事を作る。
価値がないと言われているのなら。
価値が生まれる仕組みそのものを作る。
前世で培った知識が。
この世界で学んだ貴族としての知識と。
少しずつ結びついていく。
シェリィは気づいていなかった。
それこそが。
かつて5人が守ろうとした未来だったことを。
魔力だけではない。
前世の記憶だけでもない。
どちらか一方に飲み込まれることなく。
この世界に生きるシェリィ・ヴァルモント自身が。
自ら考え。
自ら選び。
自ら未来を作ること。
それが。
18年前。
5人が願ったものだった。
窓の外。
雪の中を歩く子供たちが見えた。
厚着をして。
肩を寄せ合いながら。
それでも。
笑っている。
シェリィはしばらく、その姿を見つめていた。
「お嬢様?」
「……決めましたわ」
侍女が首を傾げる。
「何をでしょう?」
シェリィは黒い石を手に取らず。
ただ。
見つめた。
「ここを」
一度。
言葉を止める。
大きなことを言うのは簡単だ。
世界を変える。
国を豊かにする。
誰もが幸せになる。
そんな言葉なら。
いくらでも言える。
だから。
シェリィが口にしたのは。
もっと小さく。
もっと具体的な目標だった。
「来年の冬までに」
青磁色の瞳が。
静かに細められる。
「今年より、暖かい土地にいたします」
侍女が目を見開いた。
そして。
少しだけ笑う。
「はい」
シェリィも微笑んだ。
それでいい。
最初から世界を変えなくてもいい。
1つずつ。
数字を確認して。
実験して。
失敗して。
修正して。
人を集めて。
仕組みを作る。
それを積み重ねる。
前世でも。
国家を動かしたのは魔法ではなかった。
人。
知識。
技術。
資金。
物流。
制度。
そして。
未来を諦めない者たちだった。
ならば。
この世界でも。
きっと同じだ。
18年前。
5人の大人が。
1人の少女の未来を守った。
18年後。
その少女は。
誰からも価値がないと言われた土地で。
誰からも価値がないと言われた石を前にして。
同じことをしようとしていた。
まだ見えない未来を。
「価値がない」という一言だけで。
捨てないこと。
それだけだった。
王都では。
彼女は。
魔法なしの公爵令嬢と呼ばれた。
エドワード第二王子には。
王家に相応しくない女と断じられた。
アスタリアは。
何もない極寒の辺境と呼ばれていた。
黒い鉱石は。
燃えもしない役立たずの石として捨てられていた。
だが。
人の評価と。
本当の価値は。
必ずしも同じではない。
シェリィは窓を開いた。
鋭い冷気が室内へ流れ込んでくる。
侍女が慌てる。
「お、お嬢様! 寒うございます!」
「ええ」
シェリィは。
頬を刺す冷たい風を受けながら。
白銀のアスタリアを見渡した。
そして。
小さく笑った。
「ですから――」
その瞳の先には。
まだ誰にも見えていない未来があった。
「ここから始めるのですわ」
誰もが捨てた土地。
誰もが捨てた黒い石。
そして。
役立たずと呼ばれ。
王都から追われた少女。
その3つの価値が。
この日。
静かに。
書き換わり始めた。
シェリィ・ヴァルモント、18歳。
後に世界のエネルギー地図そのものを塗り替えることになる少女の物語は――。
極寒の地、アスタリアから。
ようやく始まったのだった。
【第1話改稿について】
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
暦を整理し時間を分かりやすくしました・
シェリィにとっての「追放」は、終わりではなく始まりとなりました。
価値がないと言われた土地。
価値がないと言われた石。
そして、魔法なしと笑われた少女。
まだ何一つ成功していません。
黒い鉱石が本当に資源になるのかさえ、これからの調査次第です。
それでもシェリィは、まず「調べる」ことを選びました。
ここからアスタリアがどう変わっていくのか。
そして、18年前にシェリィを守った五人の誓いが、この先どのような意味を持つことになるのか。
引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。




