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 ドライヤーの音がリビングに響く。 

 ソファの隅っこでタオルを肩にかけて髪を乾かす姿は、妙にあどけなくうつり、向こうがドライヤーに集中しているのをいいことに、俺はじっと篠原を見ていた。


 さっきドライヤーとタオルを渡した時、篠原は洗面台に移動するといったが、俺が「いいよリビングで。母さんも、姉さんもソファで乾かしてるし」と言うと、篠原は少し迷っていた。

 俺がさっさとソファの横にあるコンセントにコードを差し込んでしまったから、結局、篠原はここで乾かしている。


 重そうな真っ黒な髪。

 濡れていたのが、ドライヤーの風で広がって、それをタオルで必死に押さえている。

 滴が飛ばないようにとでも気にしているのか、ドライヤーの音からするとスイッチが弱になっているようだった。


「そんな風量じゃ、乾かないんじゃないの」


 俺の口はいつのまにか、そんな風に言っていた。

 俺の憎まれ口に篠原が顔をあげる。視線があう。


「なに?」


 問うと、篠原はぼんやりした瞳のまま、口を開いた。


「じゃあ、乾かして」

「は?」


 想いも寄らない言葉だった。想像外すぎて、返事ができない。

 篠原の顔を見返すばかりだった。そんな俺に、篠原はさらに言った。


「遠野くん、私の髪、乾かしてよ」


 今度は、丁寧に言葉を区切ってはっきりと言う。その声は大きくも小さくもないのに、俺の耳に胸に迫ってきて、ぞくっと背筋が震えた。


「……な、なんで、俺が……」

「私、下手だし。うまくできないから」


 理由にならない言葉を並べて、篠原が俺の方に少し身を乗り出した。スイッチを切ったドライヤーを俺に向けてくる。

 そのままそれは、ぐいっと押し付けられた。

 逃げることも避けることもできた。

 でも、俺は篠原が差し出すそれを受け取ってしまっていた。


 俺の手の中にドライヤーがおさまったのを見届けると、篠原はくるりと俺に背を向けてソファで座る俺の前の床に座った。

 見下ろすことになった篠原の背中は、とても小さく見える。

 固まってしまった俺の前で、振り向かないままに篠原が「はやく……して」と言った。その囁くような声音に、またぞくっと背中が震えた。


 俺の手がドライヤーのスイッチを入れる。熱い風が出て、モーターの音が部屋に響く。

 何が何だかわからぬままに、俺はその熱い風を篠原の髪にそっと充てた。

 風になびく黒い髪。ただ風を当てるだけでは広がってしまう髪に、俺はそっと指を伸ばした。

 指先に髪をからめて梳く。そっと……そっと。


 湿った髪がはらはらと乾いてゆく。

 ゆっくりと髪をかきわけて風をあてる。

 黒髪の間からちらちらと見えるのは、篠原の細い首。黒い髪のあいまに浮かび上がる、隠微な白い肌。


 熱される。俺の指さきが。手のひらが。

 口が乾く。

 無理につばを飲み込もうとした時、音が鳴ってしまった。

 ――恥ずかしい。

 けれど、手は止められなかった。

 篠原は黙って俺のなすがままに乾かされていた。


 十分に髪がさらさらと指通りがよくなったころ、篠原が、


「遠野くん」


 と呼んだ。


「……なに」


 篠原の声がきこえづらくて、ドライヤーをいったん止める。


「なに、篠原」


 俺が聞き直すと篠原が少し笑ったみたいに肩をゆすった。でも、こちらはむかない。背を向けたまま。


「あのさ……遠野くんって……女の子としたことある?」

「なにを?」


 反射的に答えて、すぐにまさかと思った。

 「したこと」って「女の子とスル」っていうのは……。

 思い当たった瞬間、篠原の声が、リビングに響く。


「セックス」


 カッとなって、篠原の声が俺の身体をかけめぐる。

 手から落としそうなるドライヤーがおちなかったのは、たばたま指をひかけていたからであって。

 自分の目の前の華奢な肩。黒髪の向こうで、どんな表情で篠原がいるのかわからなくて、無理やりにでもこちらを向かせたくなる。

 手に力がこもる――、その刹那。

 再び篠原の声が響いた。


 次は俺を突き刺すようにして。


「私は……したよ。男と、セックス」


 息ができなくて、唾ものみこめなくて。

 ただ茫然と見下ろす。

 目の前のちいさなちいさな女の頭と細い肩と薄い背を。


「……初めてって気持ちいいものじゃないとは聞いてたけど、ほんと……痛かったし」


 見つめる先の黒髪が少し動いた。

 でもこちらは向かない。けれど、うつむいたように思った。

 篠原が、うつむいた。

 髪がゆれて肩の向こうにおちて、ほんの少し晒される、白い首。


「……寒かった」


 俺の動揺はものすごくて、「セックス」という言葉にも、それが篠原の口から出たってことにも衝撃だったのに、俺の耳は呟くみたいな篠原の呻きを確実にとらえていた。


 寒かった? セックスして?


 瞬時に聞きなおしていた。


「……寒かったって、どういうこと?」


 黒髪のあいまの白い肌を見つめて問う。

 うつむいている姿は、もう濡れネズミじゃないはずなのに、どしゃぶりの中でうなだれている小動物のようでイライラした。

 篠原の発してる言葉は、もっと、なんというか、惚気てて馬鹿みたいに幸せそうなアホ面で聞こえるようなことのはずだった。すくなくとも、男共の間では。


「寒いってどういうことなんだよ」

「……ん……。終わったあと……夜だったんだけど、彼、寝ちゃってて。起きてくれなくて。私も次の日学校あって、さすがに泊まるわけにいかないし、帰らないといけなくて……。ひとり、彼のマンションでたら、雨降ってて」


 そこまで聞いて、俺の中でまた鳴り響くのは警告音。


 ……これ以上篠原のことばを聞いたら、俺は、きっと引き返せなくなる。


 けれど遮ることはできなくて。


「そのまま、濡れて帰ったから」


 ピシっと額に筋が入った気がした。少なくとも俺はドライヤーを握りつぶすくらいに拳に力がはいっていた。姉が買ったそれなりに高くてしっかりしたドライヤーだったから俺の握力を跳ね返したけど、もしこれがチープな特価品ドライヤーだったらプラスチック部分をバキバキに砕いていたかもしれない。

 それくらいに。

 それくらいに、篠原の言葉に猛烈に苛立った。


「……なんで傘がねーんだよ」


 もし俺の今の声に色がついているなら、どす黒いんだろう。綺麗な黒じゃない。ぐちゃぐちゃに色を混ぜて濁って濁って濁って濁って、濁りまくってどうしようもなくなって、一滴たらした黒が際限なく広がって、結局すべてをのみこんで黒くしちまったような「黒」だろう。


「だって、彼、起きてこないし……。痛かったから、もう傘をかりに戻るための”数歩”もいやだったし」

「……」

「ほんと、寒かった……」


 ふうっと篠原が息をついた。

 さらにうつむいたからか篠原の髪は下方へとさらさら落ちてゆき、俺の目には篠原の白い首が大きくさらされることになった。

 そして、その小さな塊から、信じられない呟きが聞こえた。

 

「……あの日、今日みたいに遠野くんと会えたらよかったな……」


 ちっちゃなちっちゃな声。


「なんだよ……それ」

「ん? ……傘、入りたかったなぁ……って」

「なんだよ、それっ」


 荒げた声を止められなかった。


 どういうことなんだよ。

 篠原がセックス? 意味わかんねーんだよ。いつ、そんな相手作ってたんだよ。

 そもそも、そういうことして、明らかに慣れてない”はじめて”みたいな話してんのに、なんで一人で服きて、ひとりで雨の中、帰ってんだよ、なぁ篠原?

 それ、どういうことだよ、なんでそんな濡れ鼠に自分からなってんだよ。

 お前の”相手”はどうしたんだよ。

 どうして傘くらい持ってねーんだよ、なんで、こいつを濡れたまんまにすんだよっ!


 なんで、どうして、幸せそうじゃねぇんだよっ!


 意味のわからない、誰あてかもわからないぐちゃぐちゃの想いと言葉が頭の中も胸の中もぐるぐる回る。


「篠原、お前、なんで……」


 いっぱい聞きたいことも言いたいこともあるのに、そんな意味わかんない単語を羅列することしかできない。

 数式を解いていくようにいかない、綺麗に数字を式をつづっていけない。解き明かせない。

 意味がわからなくて、ただただ、吹き荒れるのは嵐。心の、嵐。


「前に……出先で声かけてきた大学生で……いいなって思って、デートは楽しかったけど。それだけってわけにはいかなくなって……」

「無理矢理かよっ」

「ううん、合意だよ……まぁ気持ちよくしてあげるって言ってたわりに全然気持ちよくなかったわけだけど」


 紡がれる言葉は遠い。俺の未経験の世界で。

 けれど、篠原のことばはそれよりももっと俺を突き刺す。


「それで初めてで痛んだ抱えて、雨の中一人で濡れて帰ったのかよっ!」

「一文でまとめると……そうなるね」


 篠原が「国語の要約問題みたい」ってくすっと笑って、その虚ろな笑い声がまた勘に触って、俺はドライヤーを放り出していた。

 空いた両腕で後ろから篠原を抱きしめる。

 篠原はまったくすこしも抵抗しなかった。

 「すっぽり」という言葉が正しいみたいに俺の腕の中に飲み込まれてしまった。


「……ん、だよっ。抵抗しろよ」

「どうして」

「どうしって……そんな男でも、彼氏なんだろ!」

「いないよ。それっきり、だもん。それに、こうしてる方が……あったかい」


 そういう篠原の安易な答えが、またイラッとした。同時に直感でわかった。


「そうやって、あったかいからって、ほいほいその大学生についていったのかよ」

「別に……そういうわけじゃ……結局、寒い目にあったし」


 呟く言葉から、俺のことばがあながち間違いでないことを悟る。

 そして、思っていたより、想像していたより、ほんとうに本当に、この目の前のクソ真面目な外見でクソ真面目に勉強して、クソ真面目な成績をキープしてる篠原が、すごく危ういところにいるんだってことを知る。

 世間では、「裕福な部類にはいるおうちの、そこそこ名の知れた私立に通う、真面目な生徒さん」が。

 たった、自分の傘すらクラスメイトに奪われ、身体が痛む夜にも傘ひとつさしかけてもらえず、鍵を忘れて下心すれすれの幼馴染に家に誘われてるっていう状態が――……。


 俺は。俺は。俺は――……今まで、何をして。

 なのに、それでも俺の口は篠原を追求してしまう。

 

「お前、誰でもいいんだな、あっためてくれるなら、誰でもいいだろっ」

「……わかんない。まだ、あの男としか試したことないから」


 俺の中でプツンと音がした。

 はっきりと何かが切れる音がした。

 俺は後ろからだきしめた篠原をそのままぐいっとひっくりかえすみたいにして、ソファにあおむけに押し倒した。


「じゃあ、俺でもかよっ!」


 見上げてくる黒い瞳はまっすぐで。

 そんなセックスだとかのことばを平気で言う女には見えなくて。でも、見えようが見えまいが、こいつはここにいて。

 俺を見上げていて。


「……たぶん、遠野くんも良さそう」


 寝心地いいクッション探すみたいな言い方に、さらに頭の中がかあっと熱くなった。


「お前、俺のこと好きなのかよっ」

「わかんない。嫌いじゃないけど……」


 篠原と目線を合わす。

 じっと見つめてくる目。

 長いまつげ。

 鼻はあまり高くない。

 唇はさっき風呂にはいったからかつやつやしている。

 その艶っとした唇がゆがむ。動く。


「私、好きとか……もう、よくわかんない」

「……どういうことだよっ」


 責めるみたいにそう聞いたら。

 赤い果実をゆがませて、音を吐き出した。


「好きよりも……寂しくない方が、大事だもの」

「……」

「学校にも家にも、私がいなければならないところなんてなくて、いなくてもよくて、いても邪魔になることの方が多くて。でも、あの日、あの男には”女子高生”ってところは欲しがって喜んでもらえたから……いいかな、って。欲しがってもらえる間は……寂しくないじゃない」


 篠原のことばは俺の心をバキバキに割ってゆく。


 なんだよ、それ。


 寂しかった。ただ、それだけ、かよ。なんだよ、それ。

 俺が微積だとかベクトルだとか解いてるときに、寂しいってただそれだけで、男相手に足開いてたってゆうのかよ。

 好きでもない、男に。


 なんだよ、それっ!


 でも同時に突き刺さる。

 俺は待ってた。篠原が「助けて」っていうのを。

 助けてって言ったなら、動いてやるって。

 それじゃなきゃ――俺は自分から動いて、砕け散るのはいや、で。


「……遠野くんだったら……寒くなかったのかな――……でも」

「でも、なんだよっ」

「でも、だめだぁ……やっぱり、遠野くんは、だめ」


 篠原が、のしかかる俺の腕の下で身動きし、腕をのばしてきて俺の右頬をそっと撫でた。


「だって……」

「なんだよ」

「初恋の男の子だし」


 ガツンと殴られたみたいに、頭の中がワァンと鳴った気がした。


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