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濡れ鼠の篠原を家に連れて帰ったら、母親は最初、目をまん丸にして驚いた。
だが、篠原が「ご無沙汰でしてます、篠原めぐみです」とはっきりと言って一礼したとたん、「あら、久しぶり!――まあまあ、随分濡れて。それじゃ冷えちゃうわね。女の子は身体を冷やしちゃだめよ」と言い、手際良く姉の着替えだとかを用意しつつ篠原を風呂に案内しだした。
こういうとき、母親を見ていて、女は現実に対応するのが速いよな、と思う。
あっという間に俺は母親に急きたてられて、
「着替えてきなさい。ズボンは裾汚れは拭いて、自分で干してね」
という言葉と共に、自分の部屋においやられた。
俺だって濡れてるんですけど……と、一瞬思うものの、篠原が使った直後のシャワーを自分が使うのはなんというかすごく気が引けて、駄目だと思った。
ガシガシとタオルで湿った髪を拭きつつ、Tシャツとジーンズに着替える。
制服をハンガーにかけて、制服ズボンの裾の汚れをチェックする。
思ったほど汚れておらず、そのまま風通しの良い窓際にかける。
そこまでを一気に黙々とやって――それで、やることがなくなって、俺はいつも寝ている自分のシングルベッドに腰掛けた。
その途端、今度は微妙に乱雑になベッドカバーの皺だとか、サイドボードに積んでいた雑誌や読みかけの小説とか、整頓されていないところが目につきはじめて、俺は居心地が悪くなって片付けはじめることとなった。
――自分の部屋が居心地悪いなんて。
滑稽な自分の心理に呆れているのに、やめられない。
本を書棚に戻し、雑誌はラックにまとめる。
そして、ベッドカバーの皺を伸ばしていたとき――ふいに、ありえないのに、このシングルベッドに篠原を押し倒す想像が頭をよぎって、俺はあわててベッドから降りた。
――何、やってんの……俺。
頭をぶるりと一度大きくふり、俺はふっきるようにして立ちあがった。
――この部屋に篠原があがってくるわけでもあるまいし。
苛立ちをまぎらわせるように、今、皺を伸ばしてピンと綺麗に整えたベッドカバーにわざと大きく皺を作って、俺は部屋を出た。
リビングに向かう廊下で、軽やかな笑い声が聞こえてきた。
ドアを開けると、母親と篠原がにこやかに話しをしていて、ふたりともふっとこちらを見た。
「あぁ、駿は紅茶にする?珈琲?」
「……いい。冷蔵庫の麦茶にする」
「雨に濡れたのに、そんな冷たい飲み物さらによく飲めるわね。男の子ってホント、よくわかんないわ」
母親の言葉を適当に無視して、グラスに麦茶を継ぐ。
リビングのソファまで近づくのに躊躇して、冷蔵庫近くのダイニングテーブルの椅子に座ることにした。
篠原は姉のスポーツクラブ用のジャージのパンツにTシャツ姿となっていた。学校の体操着のようなもたついた形のジャージじゃなく、足が長くみえるような身体のラインに添ったスポーツウェア。
野暮ったく着こなした制服ではなく、社会人のそこそこおしゃれな姉のスポーツウェアを着て、そこに座って穏やかに母親と話している姿は、思ったよりも落ちついてみえた。そして、学校で見かける篠原よりもなぜか大人びてみえた。
髪をきちんと乾かさなかったのか、ゴムで簡単に丸めてアップした濡れた髪から、晒された首筋に小さく滴が落ちてる――それだけが、妙に子供とういかガキっぽい感じがした。
――やっぱ、隙があるんだよ。
心でそう毒づくのは、妙に胸からウエストへのラインがわかるぴったりしたTシャツ姿を前にしたからか。
その肩口に、髪からの滴がぽたりと落ちて染みをつくるのが、なんだか艶っぽくみえたからか。
――ドライヤー……。
一瞬、その言葉が頭をかすめて、俺はそれを押し殺した。
何も気付かないふりをして、麦茶に口をつけて、目を伏せた。
篠原と母親はにこやかに明るく話している。
二人の話声によると、話題は学校の試験のことや夏休みの予定、最近のドラマの話などとりとめない。
ふだんの母親と姉との会話とたいして変わりがない、結論があるわけではない流れていく言葉のやりとりが続いていく。
よくそんなに澱みなくしゃべり続けられるものだよな、と呆れつつも、そういう明るい空気が傍にあるのはいやではなかった。
「――ね、空気みたいでしょ」
「え、まぁ……」
「昔は学校であること、逐一報告してくれて、そりゃ運動会の時なんか体操やダンスの一つ一つも『見てよ!』ってうるさいくらいで可愛かったのに……ほんと、今、空気みたいよ」
ふっと視線を感じて、俺は顔をあげた。
麦茶を継ぎ足しつつ、テーブルに置いてあった今日の新聞を適当に読んでいた手を留める。
「何?」
俺の視線がきつかったのか、篠原はふっと視線をはずし、母親の方は貫録のある笑みで言った。
「あなたが学校ではなかなか人気があるって篠原さんが言ってくれたから、家では空気みたいで無害だけど、時々オヤジ臭い男子よって説明していたの」
「――俺のことかよ」
「他に誰がいるのよ」
間髪いれずに言葉を返してくる母親に、げんなりとした気分になりながら、俺は新聞をテーブルに戻した。
「――別に、いいよ。好きに言ってて」
「そういう暖簾に腕押しなところがね……」
ため息混じる母親を無視して俺はまた麦茶を口に含んだ。
篠原が少し笑ってこちらを見ていた。
母親の軽口は、中学の時の俺はかわすことができなくていちいち突っかかっていたが、高校に入ったくらいから、聞き流せるようになっていた。こういう軽口やからかいも母親なりのコミュニケーションの取り方なんだと、受け流せる。
中学の時の俺はそんなことができなくて言い合いになって、親や姉とすぐにつまらない口喧嘩になっていたり無視したりしてしまっていた。それが反抗期ってものだったのかもしれないが、自分ではまだよくわからない。
ふとこちらをみて柔らかく微笑んでいる篠原がと目があった。
「あ、そういえばね、駿。これから母さん、出かけるのよ」
ふいに母親の言葉が俺の耳に響いた。
「えっ……」
「篠原さんにはさっき話したんだけど、母さんはこれから自治会の役員の雑用があるのよ。ほら、カレンダーにも書いてあるでしょう」
母親の指さした冷蔵庫横に貼られたカレンダーに目を向けると、母の細い字体で『自治会の夏祭り景品買い出し』とあった。
それは母親のスケジュールや、母親から見て必要な俺や姉、父の行事が書かれているカレンダーで、俺は毎日のように開ける冷蔵庫であっても目を向けたことがほとんどなかった。
「……気付かなかった」
俺の呟き声に、母親は苦笑した。
「もう少し家族についても関心を持ってもらいたいわねぇ」
「……」
「冗談よ。まぁどちらにしても、二時間ほど出掛けてくるわ。篠原さんの了解も得てるし」
母親の最後の言葉が気にかかって、母親の目を見返すと、
「あら当然でしょう? 年頃のお嬢さんと息子を二人っきりにしてしまうなら、ちゃんとそのお嬢さんが了解してるかどうか確認するわよ」
と答え、俺が反論する前にさっと立ちあがり、篠原の方に身体の向きをかえた。
「じゃあ篠原さん、ゆっくりしていってね。駿、篠原さんの服、乾燥機をかけてるから、出来上がったらよろしくね」
そんな風に篠原と俺に声をかけた母親は、「じゃあね」と手を振りつつ颯爽とバッグを持って出て行ってしまったのだった。
妙にリビングが静かな気がした。
ソファに行儀よく座る篠原と、その姿を横から見ることになる食卓テーブルの椅子に座る俺。
いまさらリビングのソファの近くに移動するのもおかしい気がするし、手持ち無沙汰にテレビをつけようと思ってもリモコンはリビングソファの横のラックにあった。
何を話しかけていいかわからず、俺は篠原の静かな横顔を見つめる。
――母親がでかけるなんて知らなかった。
――二人きりになるとは、思わなかった。
そんなことを今さら言う方が、なにか言いわけじみて格好悪い気がした。かといって、何か下心があって家に連れてきたんじゃないかと思われるのも嫌だった。
考えあぐねて、黙っていた。
沈黙を破ってくれたのは、篠原だった。
「遠野くんのお母さん……変わらず、優しいね」
「お節介なんだろ」
「ううん。私、憧れてた。……あ、うちの母親も……うん、私を気にかけてはくれてるんだけど、手間暇はかけられないって割り切ってるから……」
『私を気にかけてくれてるんだけど』とわざわざ前置きすること自体が、なんだか、すごく篠原の家族の関係性を表してるみたいで、俺は目をそらした。
そのまんま、また部屋は静かになった。テレビをつけようにもリモコンは篠原の座るそばにあった。近づくのはなんか微妙な気がした。
かといって、何をすればいいのかわからない。
そのとき、篠原の髪が濡れて、滴がときどき垂れるのが目に入った。
――そういや、ドライヤー……。
俺はふと思いついたことが妙案に思えて、すぐに言葉にした。
「……髪濡れてるだろ、ドライヤーいる?」
俺の言葉に、篠原はゆっくりとこちらを向いた。黒い瞳はじっと俺を見た。
あまり笑っていない。けれど、怒ってるだとか悲しんでいるだとかの感情が見えるわけでもない。無表情でもなければ、喜怒哀楽をうつすでもない、ぼんやりとした表情だった。
「うん……迷惑じゃなければ」
篠原の言葉に俺は立ちあがった。
何かしていないと、とにかく気持ちが落ちつかなかった。




