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 ****



「じゃあね。傘、入れてくれて、ほんとうにありがとう」



 濡れた髪のまま篠原が俺を見上げる。

 学校前から家までの道中、相合傘の時間はあっというまだった。

 歩いていたときも何度か見上げて俺に話しかけていた篠原だったけど、こうして玄関の前に立つと、篠原はじっと俺を見つめた。

 久々に話した篠原も、昔と変わらず俺の目をそらさずに見る。


『人と話すときは、目をそらさずに話なさいって、ママが言うの。自分は、私と話すときに背中を向けてるのにね』


 昔、そんなことを話してた気がする。

 でも、いまでも、そうやって篠原は、ちゃんと”ママからの”言いつけを守って、俺にすら目を見て話しをする。


「ん……じゃあな」


 玄関前まで送って、屋根のあるところに篠原を立たせて、俺は踵を返した。

 背後で鞄をがさごそと探す音がする。鍵でも探してるんだろう。

 そのまま門を出るとき、もういちどちらっと篠原の方をみた。


「おい?」


 思わず声が出た。

 篠原がドアの前にしゃがみこんでいるのだった。

 何も考える暇もなく、俺は玄関のポーチに駆け戻っていた。


「どうしたっ。 気分でも悪いのか……って、なんだ探しものかよっ」


 気分でも悪くなってしゃがみこんだのかと思えば、篠原は鞄をのぞきこんでいるだけだった。


「おまえ、ねぇ……」


 ため息をついて、あらためて目を向けてみれば、鞄をのぞきこむ篠原の丸めた小さい背中が一気に脳裏に焼き付いた。濡れて背中にぴたりと張りついた、白い制服ブラウス。

 息をのんだ。

 俺は首をふって、いろんなものを飛ばして、声を冷ややかにして言い放った。湧き上がる熱気はすべて払ってしまいたかった。


「何やってんの?」


 思った以上に厳しい声が出た。

 篠原がしゃがんだまま振り返った。その俺を見上げてくる顔は、雨の日の曇った天気のせいで陰りをおびていた。そして、その顔にある、頼りなげな瞳が、一瞬、潤んでいるように見えた。ぱっとみて、篠原が不安が俺の中に流れ込んでくる。

 

「鍵、ないのか」


 俺のことばに篠原は瞬いた。

 

「どうしてわかるの……」

「別に……考えたらわかることだし」


 昔から、かぎっ子だった篠原が一番不安になるのは――家の鍵を忘れることだった。

『鍵を忘れると、ほんとうにほんとうに困るの。酷いと夜まで庭で独りぼっち。お腹すくし。帰ってきた親には怒られるし』

 たしか、まだ低学年の頃、6時くらいに子供会の会報を母親と届けにいって、家の庭の隅っこで座ってる篠原を見つけたんだった。それからだ。母親が、篠原を時々うちに呼ぶようになったのは。


 篠原はうつむいて、もう一度鞄の中に手をつっこんで探っていた。それから大きく息をついた。


「めずらしく……朝、母がいたから……しゃべってて……私、閉めなかったんだった……」


 そう答える篠原を見て。久しぶりに母親がいたから会話して、嬉しくて、気もそぞろになって……いつも自分で戸締りして鞄にいれるはずの「鍵」を忘れる姿が……容易に思い浮かんだ。


「――……親、仕事? 遅いの?」

「うん、父さんは深夜帰りだし、母さんは今日は病院の当直日だから帰ってこない。もちろん姉は、まだ留学中で遠い空の向こうだし」


 しゃがんでるいつも以上に小さくて、雨で日のささないくらい影の下では、さらに頼りなく見えた。


「篠原……」


 呼びかけると、篠原は急に俺の前で立ち上がった。


「篠原?」


 突然立ち上がって驚くおれの前で、スカートの埃を払うしぐさをして篠原は俺の方に顔を向けた。


「ほんと、私って、ドジだよね。……遠野くん、送ってくれてありがと。まぁ家にはたどりついたし……父さんに電話してみるよ。財布はあるし」


 もう不安げな顔は俺から隠してしまって、おどけるような顔さえ作って、笑っていた。

 ペラペラと言葉を並べた篠原を前にして、

 ――帰っていいよ。

 という、そんな風に言葉にはなっていない「声」を聞いた気がした。

 胸の内にカシャンとひびが入る。 

 表情には出さないように抑えたけれど、心のひびから苛立ちの震えがあがってくる。


 ……なんで、助けを求めねぇんだよ。


 俺は、その震えをおさえるように、思いっきりため息をついた。 

 大げさな息遣いに、ちょっと怯えるように篠原が俺を見た。

 俺の内なる声は、


 ――もう、やめとけって。


 と止めようとした。でも、俺の口はそれをふりきり、動いていた。


「――俺の家、来る?」

「……」

「濡れた制服のままだったら、店にはいることもできないだろ。風呂と姉の服ぐらいは貸せると思う――母親、たぶんいるし」 


 仕方ないなと装って、胸の内は苛立って言葉を並べたてた割に、最後は弱気になった。

 微妙に親のことをつけ加えたのは、二人きりになるわけじゃない――という無意識のアピールだったのか。それとも、自分自身への自制だったのか、警告だったのか。


 篠原はこちらをじっと見た。

 濡れた髪をなんとかしてやりたいという気持ちの奥に、もっと獰猛な欲が根底にある――それを見透かされるのは怖いくせに、こちらに向ける瞳を俺は見返した。

 静かな雨音に包まれて、夏服にさらされた肌は冷える――その中での沈黙。 


 ――もう、やめとけって。お前、今、そんだけ余裕ある状況なの? 進路とか、どうすんの? 近づいて、おぼれたり、きずついたりする……そんだけの余力、あんの? 今だって、ギリギリ精神の癖に。


 心のどこかで畳みかけるような警告音が鳴り響く。

 けれど、そんな心内に、もっと別の声色が飛び込んでくる。身体からの声みたいに。


 ――でも、近づくチャンスだろ?


 生々しい声。俺の心の声。

 言いわけみたいな風が吹く。


 ――濡れたままだったら可哀相だろ。

 ――風邪ひいたら、篠原、まだ残ってる明日の期末テスト、どうすんの?

 ――ほら、仕方ない……そうだろ?



 俺の心は、ズルくて。

 そして、弱い。


「来いよ、濡れ鼠」


 俺の口から出る言葉に、篠原は小さくうなづいた。

 篠原の前髪から、ぽたりと小さな滴が落ちた。



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