009 始まりの場所
「何、百面相してるのよ、パーニャ?」
ぬぅ、と。エルザの顔が目の前に現れて、完全に周りが見えていなかったパーニャは驚きのあまりぴたりと動きを止めた。なかなか声にならず、むやみに口をパクパクと開閉する。
「ひ、姫! またいろいろやらかしたそうですね!?」
「何のことよ」
「とぼけても無駄ですよ! つまみ食いはいいにしても、陛下のカップはまずいんじゃないですか!?」
「あー……アハハ」
さすがにまずいという自覚はあるらしい。
「ちなみに聞きますけど、火炎魔法で灰にしたドレスって、ハインリヒ侯爵様から頂いたあのドレスじゃないですよね?」
「さあ、どうだったかしら?」
(絶対あのドレスだ!)
パーニャは肩を落とした。
(ロバートさんに何て説明しよう……)
そんな中、シンはぼーっとどこか違うところを見ていた。知らん顔なんてひどい。
文句を言おうとしたところで、パーニャはエルザに止められる。
「姫?」
「シン、何か思うところがあるなら言いなさい」
シンは空を眺めたまま、「……降ります」とだけ言った。
「何が降るの?」
「?」
本人も言ってから、何のことやらさっぱりと言う顔をした。
――ちなみに、その夜。旅立ちの夜。
その日は、まるで雨のように惜しみなく星が降る特別な夜になった。
のちにパーニャは思う。どうして彼は、流星群の到来を予言できたのかと。
そしてこうも思う。その不思議な力をエルザは知っていて、一緒に旅に出たのではないかと。
とはいえ、それは未来の話。
「ふーん」と、何とも微妙な相槌を打ったエルザは、刹那、
「そうだったわ!」
いきなりの大声に、パーニャ、ついでにシンも肩を震わす。
「?」
「急に大声出して、どうなさったんです? 姫」
「それがそうなのよ! シン、部屋に戻って荷造りなさい」
「え……?」
「支度なさいって言ってるのよ、シン。二人で旅に出るわよッ」
想像はしていたけれど、改めて”二人”と聞くと、何とも寂しいものだ。
パーニャは静かに目を伏せた。
使用人の中で、一番長くエルザの側にいたのは自分だと、パーニャは自負していた。この強く気高い王女に仕えて、もう8年になる。お互いに信頼はあったはずだ。それはきっと、確か。パーニャの一方通行ではない。
だけれど、同行者に選ばれたのは彼女ではなく、ここに来て2年の年下の少年だった。
先日読み切った英雄譚のように、旅に出るという憧れはある。冒険が出来て羨ましいというのも本当だ。しかしそのほかに、まぎれもなくシンへの嫉妬が心にモヤモヤと巣食う。
「はいはい、行きなさい」と、背中をぐいぐい押されて寄宿舎の方に数歩、無理やり歩かされたシンが、ちらっとパーニャを伺った。
(……シンくん)
それも一瞬のことで、エルザに急かされたシンは、一礼した後パタパタと駆けて行った。
「日が落ちる前に出発するわよー!!」
「……姫、ちゃんとシンくんに旅の目的伝えないと駄目ですよ」
背が見えなくなってから苦笑して言うと、珍しく真剣な表情で、
「いいのよ。シンには、知らせるつもりはないわ」
エルザは淡く微笑んだ。
「それって、どういう……」
「パーニャ、行く前にあなたに話しておきたいことがあるの。この後時間いいかしら?」
「あ、はい」
「どうもね、雲行きが怪しいのよ。ただの楽園の魔法使い探しの旅にはならなそうだわ。だから、一般人のシンには言えない」
「私の部屋に来てくれるわね?」と尋ねられて、パーニャは僅かな緊張とともに神妙に頷いた。
「そういうことでしたら」
「部屋に来てくれたら、今朝のシンの寝顔、写真に収めてあるの。特別に見せてあげてもいいわよ?」
冗談だか本気だか分からない口調でエルザが囁く。
「……姫、シンくんの部屋に忍び込んだんですか? そりゃ反則ですよ! そんなんじゃあ、プライバシーもへったくれもないですッ」
「私も以前は、寝る時まで部屋の外に護衛がいたわ! 私生活上の自由なんて今更ね」
「それはエルザ姫が王女だからで……」
「何よ、パーニャは見たくないわけ?」
「はぁ……」
「ノリ悪いわねえ!」
そう言うと、おもむろに彼女は後ろで手を組んで、花壇の前までゆっくり歩いていった。
父親譲りの美しい金髪が春の日差しに照らされて一点の曇りもなく輝いている。ちょうどこの時間はパーニャが立つ位置からは逆光で、エルザを見やればその後ろに太陽が覗いていた。
パーニャはきゅっと目を細める。
もしこの世界に神がいるならきっとそれはこんな姿をしているのだろう、と。
見紛うほどの美貌。背が高く引き締まった体つきのエルザはひどく絵になった。
いつもの気の強そうな眼差しはゆるめられ、今彼女に見えるのは優しい、柔らかい表情。そんな顔で、エルザは咲き誇る色とりどりの花びらに、そっと指を這わす。
(ああーそういえばここだっけ)
姫とシンくんが出会った始まりの場所――。
何かいいなあ、とパーニャは人知れず笑った。
(運命って感じがして凄くいい。これからたった二人で、いつ終わるかも分からない長い冒険に出るというのを、告げた場所がココだなんて)
エルザが振り返った。
「もうね、十分だとは思わない? 十分シンは、こんな狭い世界で生きてきたわ」
「…………」
「シン、北の大国でも記憶にある限りでは一度だって王宮の外には出たことがないんですって。だったらこれからは、自由に生きるべきでしょう?」
エルザが右手を差し出した。ドレスがふんわりと舞いあがる。
「世界の綺麗なもの、美しいものをたくさん見せてあげたいの! ありったけの自由と祝福を彼に!」
いつの間にか、不思議と胸の中のモヤモヤは消えていた。パーニャは、めったにしない、低頭の姿勢のまま、
「姫の旅路に神のご加護があらんことを」
「私がこの世界では神みたいなものだけれどね」
そう言ってエルザは、茶目っ気たっぷりに一つ、ウインクをした。