偶然と必然
月のない夜。
そんな時でも文明の利器が人々の足元を照らし、無数の影を作る。
影は交錯し、混成されやがて分離していく。
人通りの少ない路地、そして時刻も午前2時にまわろうかという条件の下で、始終を見ていた者を探すのは不可能に近かった。その影は他のものと混ざり合うことなく歩を進めていたが、右手の獲物から滴り落ちる血液と奇妙に混ざり合っていた。
足取り重く、しかし前方だけを見つめて歩く影の持ち主は、血色の悪い顔をした青年だった。少しくたびれた紺色のスーツに身を包み、つやの取れた革靴を見ると、何日も同じ格好をしているようだった。何かの事情でずっと同じ格好をせざるを得なかったのだろうが、そうだとしても手にもったモノが異彩を放っていることは、誰の目から見ても明らかであった。
何の前触れもなく足を止めた彼は、思いついたかのように右手に軽く力を込めてみた。すると獲物の持ち手はいとも容易く破壊され、刃の部分が手から滑り落ちて周囲に甲高い金属音を響かせた。すっかり空いてしまった右手をただただ見つめて、彼はやがて体全体を使って震えだした。
「おいおい・・・すげぇぜこりゃあ・・・」
歯を剥き出しにして悦びを露にするその顔は野性的で、人間というよりは獣に近いものだった。知的生命体としての理性という鎧を脱ぎ、己の欲望のままに行動する。それが今の彼の姿だった。
やがて彼は人間として得た二足歩行という技術を捨て、自身の持てる力を全て込めた四足歩行で、何事もなかったかのようにその場から消え失せた。
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「怪力をもつ連続殺人犯ねぇ・・・。大体の目星はつくが、そうじゃないことを願うね」
コーヒーカップを片手に新聞を広げ琉生が呟く。人差し指につけた爪のモチーフをした指輪が昇りかけの太陽の光を受けて際立っていた。
桐島 琉生。紅茶と古書を愛する自分を、客観的に愛でる自己陶酔型人間の一つの呼称である。といっても彼はもう一つ、イタリアにおいてサルヴァトーレ・ジュリアーノという名前も持ち合わせている。詰まる所は日本人の母とイタリア人の父との間に生まれた子で、二つの郷土それぞれに名前を持っているわけらしい。遺伝的にも、掘りが深い顔に薄い茶色の瞳、黒い髪といった特徴が表れている。体躯はといえば、日本人の平均よりはずっと高く、街を歩けば頭一つ抜き出してしまうようだ。
彼は樹 眞央という6つほど歳の離れた助手と共に、ある稼業をして暮らしている。彼女とは、親同士が友人であるゆえに、自然と付き合いが長くなった幼馴染のようなものらしい。いつ仕事が入るかわからない稼業の性質上、今では琉生の家で共同生活をしている。
「琉生さんのことだから、金にならない仕事は御免だって言うんでしょ」
「当たり前だ」
さきほどまで読んでいた紙の束を無造作に机の上に置いて、琉生は食卓から離れていった。それを見て溜息まじりにエプロン姿の眞央が、紙の束と化していたものを綺麗に折りたたんで新聞へと戻す。琉生が見ていたと思われる記事が一面の隅にあった。コンクリート塀が無残にも打ち砕かれている写真が、遠慮がちに載せられている。何があったのかはわからないとされているが、破壊の跡と殺人という事実だけは明確に報道されていた。
眞央は慣れた様子で手際よく─2セット並んだ食器類に何も残されていないのを見て機嫌がよくなったのか今度は鼻唄まじりに─朝食の跡も片付けていく。
普段から食事の用意や洗濯といった家事は、眞央がすべてこなしている。琉生は掃除機もろくに扱えないほどの機械音痴で、協議の結果家事全般を彼女が執り行うようになった。正確にいえば、機械音痴というよりは機械に嫌われているといった方が正しいのだろうか。触れる機械を片っ端から理由もなく壊してしまう琉生の生まれもってのポテンシャルをもってすれば、それは当然以上の判断だった。
突如として、べートーヴェンの「運命」が食堂中に鳴り響いた。どうやら音の源は、エプロンのポケットに入っている眞央の携帯電話のようで、数回問答すると、どこかの場所をメモに書き取り電話を切った。電話を取る前から憂鬱そうな眞央の顔が、その着信音が特定の相手からの場合のみであることを語っていた。
メモを持って2階への階段を上っていくと、やや重厚感のある扉に行き着く。初めてこの家に来た人なら誰しもが持つ違和感が、そこにはあった。1階部分は標準的な洋風住宅の内装であるのに対し、この扉の向こうは壁紙から室内の調度品に至るまで、琉生の手によって懐古主義に染めつくされているのである。元々は所謂機械と呼ばれるもの一切を取り除いた結果生じた少しの空虚感を、インテリアで埋めようという安易な考えがきっかけだった。そうして蒐集しているうちに魅力に取り憑かれ、気付けば家の中に異空間を作り出してしまっていた。
鈴蘭の形をしたウォールランプが蛍火のように照らす廊下の突き当たりの部屋が目的地のようだった。途中に見える部屋からは、生活の気配が一切しなかった。そこかしこに群生する古書の森林を抜けると、日が昇っているというのに分厚いカーテンで仕切られた意図的な暗さの中、まどろむような目をしながら読書をたしなむ琉生がいた。
「仕事か」
眞央の気配を感じ取り、ゆっくりと視線をうつして応えた。
「はい・・・依頼人に会って欲しいそうで・・・」
「その様子だと志奈からの紹介だな」
目線の落ち着かない様子の彼女を見て、琉生は静かに立ち上がりそう言った。そして彼女の頭をそっとひと撫ですると、生い茂った古書の森に手をかき入れて何かを探し始めた。探しものはすぐに見つかったようで、年季の入った皮製のトランクケースをつかんで違う部屋へと消えていった。恐らく着替えにいったのだろう。
眞央は一瞬だけ笑みをこぼした後に、慌てて出立の準備にとりかかりだした。ぱたぱたと軽い足音をたてながらエプロンをたたみ、商売道具を探す彼女の銀色の髪が、さわさわと柔らかに揺れていた。




