第四話 オカマとコドモとセンセイと
1
この世で何が一番扱いにくいって、年頃の女の子程扱いにくいものはないと思う。それはこの世界で最も気をつけて扱わなければいけない生物であり、そして怪獣だ。対抗するには幾通りか方法があるが上げてみよう。
1、顔がいい。
2、背が高い。
3、高収入、高学歴。
4、話術の巧みさ、マメさ。
5、優しい。
男を舐めているのか、と言いたい。
この全てに該当していたら逆に同性から疎まれてしょうがないと思うのだが、女性というのは同性に向けるように異性を見られないようで、時々この項目のいくつかを満たしている男に首ったけになってしまう事がある。(無論反対にこの項目を女性版にしたもののいくつかを満たしている女性に男性が惚れてしまう事もあるだろう。しかし大体男は容姿のいい女性に好感を持つので、女性の方が見る目が厳しいとは言える)
つまり何が言いたいのかというと、人生はなかなか薔薇色にはならないという事であり、その項目を満たすのも非常に難しいという事だ。性格のいい女性を見つけるのが男にとって最終的に幸福なはずなのだが、ただ綺麗なだけの女性を好きになる愚行を繰り返してしまう。この項目に該当しないような男性はなんというかとても肩身が狭い思いがする。例えば、僕のように。
だからと言って、それを気にして止まっていたら何も出来ない。めいめい僕たちは仕事やバイトなどを通して社会を知り、顔や身長、話術、マメさ、性格の良し悪しも含めて妥協していく。それは敗北ではなく、長く始まる本物の人間関係の初歩を築き始めるという事なのだろう。だが、そんな事は十代、二十代の女性に求めても詮無いことだ。
彼女達は本能的に僕達の価値というものを判断する。
そこには経験や知識が無い分だけ、ある意味正しいその人物の内面を見つめる。僕達にはそれがたまらない。『生理的に受け付けない』というのは彼女達にとって正しい事であり、そして正義であるからだ。暴風に抗おうとする一枚の木の葉のように、それは虚しい戦いになる。可愛いは正義どころではない。最強なのだ。そしてこうも思う、僕に何の嫌がらせですか、神様、と。
「――で?」
で、と言われてもなあ。
僕の前で腕を組んで僕を見上げている彼女に、僕と華子さんは顔を見せ合って意思疎通を図る。華子はどうぞどうぞと僕に両手を差し出して笑顔を作った。逃げんなよ!
僕はその可愛い顔に思い切り唾を吐きかけたい(無論冗談)気持ちになりながら彼女に向かい直す。意を決して口を開く。「――あの」「キモいんだけどおじさん。喋らないで」
ヤバい。泣きそう。本気で。
その言葉に何故か華子さんが笑顔のまま物凄い闘気を発しながら笑っている。重そうな髪が妖怪の力なのかゆらっと揺れた。ま、ちょ待って華子さん。今それはマズい! 色んな意味で僕たちは怒ってる場合じゃない。堪えて堪えて!
怒ってくれたことに心で感謝しつつ、今度は僕が逆に両手を向け、どうどうと華子さんを落ち着かせる。華子さんはそれを見て、しぶしぶながら頷き、ふうーっと肩を回して運動していた。落ち着くための儀式らしい。僕はそれをちらりと見てからまた目の前の女の子に目を向ける。言われて見ればちょっと目元の辺りが源さんに似てるな、と思う。
僕の肩ぐらいだから身長は百六十前半くらいか。頭の両脇で小さくツインテールにした彼女は年齢よりもずっと大きく見えたが、その表情には幼さが残っている。僕はため息をゆっくり少し開いた口から漏らした。
僕たちはこれから過酷なミッションを遂行しなければならない。その為にはいくつかの課題をクリアーする必要があるのだが、まず最初に。
「あたしをどこに連れてこうとしてるわけ」
この娘に心を開いてもらわねばならないのだ。源さんのために。
骨が折れる。それしか無い。
僕と華子さんは再び目を交し合った。――やるしか、ない。
「恭子さん。嫌かもしれないけど、聴いてくれないかな」
僕はなるべく穏やかな表情を作って言った。
恭子ちゃんは僕のその声に少し余裕を見せたようで、腰に手を当て直して「何よ」と言った。僕はその笑顔のまま続ける。「会ってくれないかな」その言葉で再び顔を歪ませた恭子ちゃんは、「もしかしてアンタら……」と食い殺そうかとでも言うように僕達を睨みつけて言う。
「変態親父の、友達?」
僕達は何度目になるか解らない目配せをし合い、再び華子さんがどうぞどうぞと僕に両手を広げてきた。……卑怯者……!
にこやかな笑顔をたたえたまま、僕は言った。「そうだね、そうなるかな」
すると恭子ちゃんは僕達に不快感しかないような見下しきった笑みを浮かべて「なるほど?」と言った。僕が言う前に、彼女は言う。
「キモいやつにはキモい奴が集まってくる、って訳か」
華子さんの髪が再び舞い上がった。僕が慌ててどうどうと両手を広げる。
空に分厚い雲が立ち込めている。そんな空の下、宿借小学校の校門前で僕たちは彼女淀橋恭子ちゃんと向き合っている。
何でこんな事になってるんだろうなぁ。僕は彼女を見ながら思う。
あれもこれも皆源さんのせいだ。あの野郎、やっかいなもん押し付けやがって。
頭にあの笑顔が浮かんで思わずげんなりした。横で見ると、心なしか華子さんも元気がなくなっている。
人の家庭の事情に首を突っ込むものじゃないとは、僕が日本人だから感じるのだろうか。
恭子ちゃんの顔を見て、彼女の完全拒否している姿勢にどうしたらいいか解らなくなる。
源さんには上手くいったら何か要求しよう絶対しよう。そう心に誓った。
恭子ちゃんが苛立たしげに睨みつけてくる中、これまでの経緯を反芻してみた。
僕でも、拒否するかもなあ悪いけど。
目の前の女の子に申し訳なくも肩を持ってしまう自分は、やっぱり器が小さいなあと思わずにいられなかった。
2
商売繁盛もうかりまっか。
そんな言葉をつい使いたくなる商売人の気持ちが少し解りかけてきたオープン三ヶ月目。とりあえず僕の店は順調までは言い過ぎかもしれないけど、そこそこ人が集まり、話をし、リピーターになってくれる人がでるくらいにまではなっていた。
それはもちろん僕の努力の賜物―と言えればいいのだけど、恐らくそうでは無く、ここに住み着いているという妖怪、神仙の類のおかげであり、彼らが放つその心地よいオーラがまた来たいと思わせているからだろう。そして忘れてはならないのは「すみませーん、オーダーお願いしまーす」「はぁあーい、只今参りますー、少々お待ち下さいぃー」うん、このせいだ、間違いない。
僕は思わず漏れる笑みを完全に押し殺すことが出来ず、ごまかすために少し俯く。
僕の眼の前を、僕と同じエプロンをつけた華子さんがぱたぱたと注文を取りに行く。うん、素晴らしい、何度見ても素晴らしい眺めだなこれは。僕は首を一回縦に振って頷くと、カウンターにいた小豆さんに「何一人でニヤついて一人で頷いてんだお前?」とコーヒーを啜りながら言われた。決まってるじゃないですか、僕の店の看板娘に対して慈愛の瞳を向けていたんですよ。「……馬鹿かおめぇ」ぼそりと酷く冷たい声で言われた。しょうがないじゃないですか、事実なんだから。笑顔でそう言うと、「まあいいけどよ」とどうでもよさげに、おそらく本当にどうでもよいと思いながら小豆さんは言った。
華子さんは、今では仕事が休みの時はこうやって臨時のウエイトレスさんになって店を手伝ってくれていた。僕は休みの時くらい休んでと言ったのだが、「楽しいですから、大丈夫ですよぅ」と言って笑顔で断られた。凄く嬉しいと同時に胸が熱くなる。華子さんの優しさに、僕は感謝してばかりだ。
最初こそなれない仕事に戸惑っていたようだが、今ではすっかり様になり、人柄と容姿で評判の看板娘にまでなっていた。
彼女のために来てくれるお客さん(主に男性。少し複雑)も出来て、ますます店が賑わってきた。時々こうやって華子さんの実の姉であり妖怪派遣会社の上司でもある小豆さんも来てくれて、コーヒーを頼んで暫く雑談するようになっている。
僕と話を、というか僕に話したくて来てくれる人も自慢では無いが結構出来たのだが、何故か皆一癖も二癖もあるような人達ばかりで、正直首を傾げざるを得ない。この、僕と華子さんとの客層の違いは何なのだろう。
「そいつ自身がイロモノかどうかってことだろ。単純に」
僕を見て、これまたどうでもよさそうに小豆さんが言う。僕には謎でしかない。なぜなら僕は極々普通の一般人だからだ。
「いいんじゃねえの。それで幸せなら」
小豆さんが言う。
僕は首を捻る。はて、どういう意味か。
隣でサンドイッチを食べていた女子高生がぶはっとむせていた。
3
僕がいつも通りコーヒーカップを拭いていると、カロン、と音がして誰かが入ってきた。僕は顔を上げてその人物を見た。頭を下げた。
いや、別に相手が偉い人だとか、僕が特別に敬意を払っているという訳では決してなく、ただ単に来てしまったか、という思いでうな垂れただけだ。喫茶店経営者として、そんな
露骨な態度を取れないのもあるから、そうやって相手に不快感を与えないようにする術を身に着けた、いや、別に得ようと思って得た訳じゃないけど。
その人物は静かにコーヒーを運んでいた華子さんを見つけると「やっだ~、華子ちゃん元気ぃ~」と言って手を振りながら近寄り、その青髭の濃い顔を近づけて満面の笑顔を作った。「や~ん、相変わらず可愛い~、いや~お持ち帰りした~い」させると思うか馬鹿がァ!
とはもちろん心の中だけの大絶叫です。顔では笑顔を作っています。満面の笑顔です。
「いらっしゃいませですよう、源ちゃん!」華子さんも嬉しそうに返す。持っていた盆を掲げるようにして両手を上げ、抱きっとハグする。源さんも喜んでハグし返す。「いや~ん、良い匂い~、抱かせてぇ~!」訳ねェだろうがボケエエエエエ!! もちろん心の中だけですよ、当たり前じゃないですかぁははは。
二人はゆっくりと離れ、華子さんが「ゆっくりしていってくださいねえ」と言って笑う。すると源さんは「もちよもち。何なら一生いてもいいわよ~なんちゃってね~❤」なんちゃってにしてくれよ、頼むから。
僕は丹念にカップを拭いている振りをする。実は、彼が来てから全く変わってない。気付かぬうちにそれは物凄く綺麗になり眩しい光沢を放っている。僕の顔が伸びて映る。少し眉が吊り上って見えるのはカップのせいだ。当たり前ではないか。
そんな風に己の中だけで葛藤していると、彼は僕の方に振り向き「あいっ変わらず冴えない顔してるわねぇあんた~」と嫌らしく笑う。僕も慣れたもので「源さんには負けますけどね」と返すと、凄まじい顔をして睨むと「言うようになったじゃないのよぉ」と瞳に殺気を込めた。僕が「で、何にするんです? 水でいいですか」と言うと「あんたホントに喫茶店のマスターなの!?」と怒りと驚愕を混ぜた顔で怒鳴る。水でいいかなぁ本当に。
と言いつつ、手ではもう彼がいつも頼む特製味噌おにぎりと麦茶を作る準備をしていた。それを見て嬉しそうにしつつカウンターにつくと、「味噌濃い目でね~」と笑った。
「源さんの化粧みたいにですか」
「殺すわよアンタ」
馬鹿なやりとりをした後、僕はボウルに水を入れて手を浸し、奥の炊飯器からご飯を握って丸めた後、味噌を丁寧につける。握りの時に空気を含ませるようにするのがコツだ。固めの人もいるけど、源さんはこっちの方が好みらしいので問題はない。
「どうぞ」と言って源さんの前に氷を浮かべた麦茶と味噌を塗ったお握りを置くと、「や~ん美味しそ~」と身体をくねらせ手を合わせる。
「いっただきまあ~す」と言って箸を持つ。
僕は苦笑し、「はいはい」と言って手を布巾で拭いた。
上品に箸で身を崩しながら味噌お握りを口に運ぶ彼は淀橋源一郎。源氏名源子。
宿借町にあるオカマバーを経営する化粧の濃い、パーマのかかった長めのウィッグをつけたニューハーフ、つまりオカマさんである。
身長は僕よりも少し低い位なので百八十以上はあるだろう。そんな彼がどこからどう見ても男っぽいがっしりした顔立ちに濃い化粧をしてキツイ香水の匂いをさせているのだから思いきり奇異の視線で見られそうだし、最初に会う人は不快感を持つようだけど、実際付き合ってみると温かい人柄だし何よりユーモアと明るさがある。
人と少し違うけれど、その違いを悠々と超えてしまっている、そんな不思議な人である。
華子さんとは初めて出会った時からウマが合い、今では彼の家に泊まりに行くほどに仲がいい。まあ、何だかんだ言って僕もこの人が好きなのだろう。目の前で美味しそうにお握りを頬張られては嫌う事など出来ない。
「ねえ~ん、ムーちゃん、おかわりって出来な~い?」
「無論、追加で注文してくれれば構いませんよ。注文してくれるなら」
「ツケでお願~い。私最近立て込んでてお金無いのよ~、持ち合わせがないからさ~お願い~」
「駄目に決まってるしょう」
僕が毅然とした態度で応じる。こういう所で甘くすると後々までたかられる事になるのだ。時には厳しくいく事も必要。例え接客業でもだ。
顔が真剣みを帯びて源さんは更に言う。「駄目かしら」「駄目です」僕はまた食器拭きを再開する。周りも苦笑を漏らしているのが解るが、あえて無視。僕は堂々とした態度で彼を見つめて――
「この前ウチのアパートに泊まった時に隠し撮りした華子っちの秘蔵写真集があるんだけど――」
「しょうがないですね今回だけですよ」
僕は最大限の情けをかける事にした。いかに馬鹿でいい加減で変態的な人物だとしても大切なお客様だ。持つべきものは何より信頼と広く大きな心。ここは寛大な処置を施してやらねばなるまい。僕は手を伸ばしその差し出された安い写真クリアファイルを受け取ると即行でエプロンのポケットに隠す。華子さんが自分の名前を呼ばれたので気付いてお気に入りの漫画から目を離してこちらを向く。「呼びましたかぁ?」笑顔で返す。「何でもありません」僕はまた何食わぬ顔で食器を拭き始める。源さんは何やら俯いて笑いを堪えていた。
僕はちらりとポケットの中からファイルを取り出し、見た。
――物凄い寝相で華子さんのあられの無い姿が見える。幸せそうにご飯を食べる姿が。肌色の多い風呂上りの写真があった。僕は顔を上げ鼻を押さえる。華子さんが不思議そうにまた見つめていた。周りでは源さんと同じく俯いて震えている人が何人かいた。
カウンターでサンドイッチを食べていた女子高生がぶはっとむせていた。
4
「頼みごと聞いてくれなぁ~い。ムーちゃ~ん」
「報酬は?」
「あ・た・し・の・く・ち・づ・け❤」
「じゃあ僕からのお返しです」
僕はすっと引出しから領収書の束を取り出した。全てみな、目の前の源さんのものである。溜まりに溜まって十枚ほどある。笑顔で差し出すと、「その頼みってのはねぇ~」存在自体なかったかのようにそれを見ず、あくまでしらを切って話を継続させる源さん。
そろそろ僕の堪忍袋の尾も限界である。ていうか犯罪じゃないのかここまで来ると。無銭飲食よりも性質が悪いぞ。
僕はすうっと息を吸って吐く。吸って、吐く。吸って、吐く。吸って、よし、言おう。
「源さん。頼みごともいいですけどその前にちゃんと払うもんは払って下さい。僕だって慈善事業でやってるんじゃないんですからね、食ったら払う。払えないなら食わない。まあ、いつも来てもらってるし払ってる時は払ってもらってますから厳しくは言いたくないですけど、良識ある一人の大人としてですね、労働には報酬があること、サービスを受けたら料金を払うのが筋でしょう。今日はツケときますけど、次はちゃんと払ってくださいよ、いいですか――」
「わあってるわよぉ~、ホントに今バタバタしててお金が無いの。だらしがないとは解ってるんだけど、ムーちゃんが何だかんだ言って甘いからこうなんのよ~、変なとこで優しいと、女はそこにやられちゃうんだから~? つまりはムーちゃんのせいよぉ? 自覚なき優しさは時に罪になるのよ覚えときなさ~い」
「あれ、何か逆に説教されてない? いつのまにか僕が」
どこでどう話が変わったのか解らないが、僕がしていたはずの説教がブーメランのように返ってきていた。物凄い論理展開が(そもそも論理じゃないが)行われ、僕がまるで女たらしのような言いがかりをつけられる。失礼だが、僕はモテた事は一度も無い。そもそもそうだったら僕にはもっと輝かしい未来があったはずである。
僕が困惑していると、何故か漫画本を読んでいる華子さんがちらちらこちらを見て顔を赤くしていた。何だ、華子さんも何か食べたくなったのかな。よし、後で豪華な昼食をごちそうしよう。店の売り上げの三十%は確実に華子さんのおかげだしな。
そう思って笑い返すと、俯いて華子さんは漫画本に急いで視線を落とした。暫く見ていたが、もう僕の方は見ようとしないので気を取り直して源さんに向き直る。
すると、源さんはにやにやして僕を見つつ、「いいでしょお~、華子ちゃん。……最高よねえ~」と訳のわからない事を言い始めた。何言ってるんですか、そんな事は当たり前すぎて今更口に出す必要すらありませんよ。
そんな事を思っていた僕に源さんは残っていたお握りの欠片を箸で丁寧につまみ口へと持っていった。血のように赤い華子さんの唇と同じくらい濃い口紅が僕の視界に映る。何というか、世の中には色々な人がいるものだなと改めて感じる。趣味嗜好もそれぞれだし、性格なんて言ったらそれこそ星の数だ。ま、だからこそ世の中は回っていくのだろうけど。
そんな世界の不思議に思いを馳せていたら源さんはごくんと飲み込み、ようじで歯から小さなご飯粒を取り除き始める。
何だかその仕草だけどこにでもいる中年のおじさんで、何故か僕は少し物悲しい気分になってしまった。同情や憐みでは無い、でもどこか寂しい感じする気持ちが、胸を過ぎて行く。
その視線に気付いたのか目線をこちらに向けると「ど~したのよぉ、ムーちゃん?」と言われたので慌てて「な、何でもないです」と首を振る。そうだ、本当に何でもないのだ、と目を閉じる。そしてとりあえず話を戻そうと源さんに尋ねた。
「で? 一体頼みごとって何なんです?」
そう聞くと、優しい顔をして源さんは笑って、「ほうら、何だかんだで優しい」と指を向けた。何故かその仕草だけは本物の女性のように色っぽく、らしくもなく僕は彼に一瞬『女性』を感じた。
指した指をゆらゆらと僕の顔をなぞるように回ながら源さんは話し始める。「ムーちゃんってさぁ、子供には好かれるタイプぅ?」と突然脈絡のない事を言い始める。
僕が「は?」と思わず訊き返すと、ちっちっちと、舌で効果音を付けながら指を左右に振る。「だから、子供に好かれるかって訊いてんの~」と続けた。
僕は意味が解らないながらも正直に答える。
「まあ、嫌いじゃないですし、格別嫌われる事も無いように思えますけど」
むしろ、小学校低学年までにはかなり好かれる自信がある。低学年と言ったのは僕が好かれるというよりおもちゃにされるからであり、高学年になってくると僕自身にもう興味を持たなくなるからだった。
「あ~まあそうよねえ、ムーちゃんなら人畜無害そうだから安心感もあるしねぇ~、それなら良かったわ~」
ぽん、と手を合わせて頷く源さんに、僕はただ「はあ」と言うしか出来ない。一体さっきから何の話がしたいのだろう。
僕が手持無沙汰になった手を有意義に使うため、白い洋皿を布巾で拭き始める。少し失礼だとは思ったが、真面目に聴いては損な会話というものもある。目線を下にし、丁寧に縁から挟むように拭いていく。キュッキュッ、という音がして、棚に入れ、また皿を洗い場から取り出して拭く。布と陶器が擦れる音が静かな店内に響く中で、僕達の周りでは静かに時間が流れて行く。
お客さんを見れば、会社の資料らしきものを読んでいる人、ノートパソコンに必死に何か打ち込んでいる青年、仲良く楽しそうに小声で談笑するカップル、カウンターでいつも来てくれる女子高生がアイスコーヒーをちびちび飲みながら小説を読んでいた。
いい雰囲気だ。僕の目指す喫茶店だ。
そのお互いがお互いを優しく無視している、でも完全に無関心では無くどこか意識の片隅に全員の感覚が伝わっている様な不思議な空気。僕の作りたかった喫茶店がそこにあった。
その視線に気付いたのか、源さんも穏やかな表情を作ってゆっくりと狭い店内を見回した。「ムーちゃんの人柄かしらね、この居心地の良さは……」と呟く。「いい思い出になったわねぇ」と小さく言って僕に向きなおる。
最後の言葉の意味がわかりかねたが、あえて訊かない。それがここで唯一守られるべきルールだからだ。
源さんはそのキチンと無駄毛処理してある綺麗な脛を上げて脚を組むと、本題に入った。
「小学生、連れてきてくれない?」
僕は眼を真ん丸にして彼の顔を凝視する。今、何て言ったんだこの人。大分危ないこと言わなかったか正確に言うと僕の両手に手錠がついちゃうような。
華子さんも驚いて僕達を見ていた。奥の方から出て来て近づいてくる。
「……何言ってるんですかぁ源ちゃん……?」
心底不思議そうにカウンター越しに源さんを見つめる華子さん。こんな時だというのにそのカウンターに零れていたご飯粒を全く見ずに丁寧に拾い、下のゴミ箱に捨てる。凄え。
ふふっと笑って、「言葉足らずだったわねぇ~めんごめんご~」可愛くないのに可愛らしく舌を出して笑う源さん。僕が流石に困って華子さんに顔を向けると華子さんも同じような顔をしていた。仕方なく僕はもう一度源さんに顔を向けて訊く。「どういう事なんです?」
すると源さんは深いため息をついて、こう言ったのだった。
「……――私にも男だった時期があってねぇ」
いや今も男でしょう。と言いそうになった僕の足を思いきり華子さんが踏みつけ、絶叫を上げようとした僕の口を手を伸ばして塞ぐ。
それに気付かず源さんは話し続ける。
「その時のさ、……まあ一つの生命が誕生しちゃってたわけよ私の本来持ってるXY染色体で」
解りにくかったがボケでは無いのでツッコまなかった。
「……ええっとぉ、つまりぃ……こういう事ですかぁ……?」
華子さんも先程の源さんのようにぴんと指を立てる。「源さんのぉ、昔出来た子供を、連れてこい、とぉ……?」
嬉しそうに源さんは「そう、その通り! やっぱりそこの図体ばかりデカい男とは違うわぁ~お持ち帰りしていい?」と叫んだ。
僕こう見えてフリスビー得意なんだ。見せてあげようこの皿で。
手に持った洋皿を構える僕を慌てて止める華子さん。しぶしぶ手を下げそれを手元に置く。
源さんはそれをおかしそうに見てから、少し苦しそうに顔を歪めて笑った。
「ま、近くに住んでてもずっと音信不通なんだけどねえ。こんなになっちゃったから」
そう言って、麦茶の入っていた汗をかいたコップの縁をなぞった。
「やりたい事があんのよねえ」
僕たちは顔を見合せる。源さんは寂しそうに言って、俯いた。
「女の願いに、歳は関係無い、か…全く、ホントにしょうがない子よねえ……」
その言葉に、僕たちは再び顔を見合わせる。
見つめてた華子さんの顔を見れば、もうとっくに答えなど出ていたが。
肩を落として、これから源さんに色よい返事をしなくてはならない。恐らく一銭にもならない仕事をするために。
僕は大きく大きく、ため息を吐き出したのだった。
5
「死んだ方がいいわよ、あんな変態は」
そう吐き捨てた恭子ちゃんは、僕を見上げながらそう言った。ちっと舌打ちをしたかと思うと地面の小石を蹴っ飛ばし、それがまえを歩いていた低学年の男の子の足に当たり、ぎろっと睨らんだと思ったら恭子ちゃんの更に恐ろしい顔で一蹴され、急いで逃げ出す。
僕は何度目か解らないため息を気付かれないように吐き出した。
どうしたものかと思案する。
基本、僕は何があってもそれなりに人とコミュニケーションを取れる方だと思ってきた。それは一つのささやかな自信でもあったし、それが僕の自分で自覚できる長所であるとも思ってきた。
解り合えない事も多いだろうけど、それなりに人というものは話せばわかってくれるもの。そう考えていた。だがしかし今こうやって目の前にいる少女に完全拒否されている現状を見て、その淡い幻想がいかに脆いものだったのかという事を知る。
人と人が解り合うためには、まず相手に対する配慮が無ければいけない。要は想像力。相手の立場になって考える事こそ全ての基礎であり、根幹である。では、僕に小学校高学年、父親がオカマの場合を想像してみよう。
出来る訳ないだろ。僕の頭でなんて。
華子さんに助けを求めようとちらりと横を見る。華子さんはその視線の意図を素早く理解し、僕に笑顔を向けて来た。
――どうぞどうぞ。
手を広げて僕に向ける。僕は一人でやることを決めた。そして華子さんには今日の夕食に嫌いなピーマンを入れる事も決めた。
ふう、と息を吐き、視線を恭子ちゃんに合せる。
僕は真剣な顔をして(横で華子さんが「……様にならないですねぇ」と呟いたが無視)語りかける。
「恭子ちゃん、聞いてくれないかな」
僕がそう声に固いものを含ませて言うと、恭子ちゃんもさすがに態度を変えて僕の方を見た。まだ全然信用などしていない目だったが。
「……何よ」
僕は言うか言うまいか悩んだ事を、ここで言ってしまう事にした。
「源さ……お父さん、なんだけどね」
「だから何なのよ、早く言いなさいよ」
「この町から、出るんだ」
恭子ちゃんの瞳がわずかに大きくなる。そして、必死で一瞬の動揺を押し隠そうとするように少し震えた。この町にいたのに、一緒の町でいつでも会えたのに、殆ど連絡も無いまま今に至る、父と娘。
父は、その娘の傍から離れる。おそらくは、このままではずっと会えない事が確実な場所に、一人で。
「お店、上手くいってないんだってさ」
店に来てもツケばかりしていたのは、源さんにとっても辛い事だったのだ。もう経営がにっちもさっちも行かなくなっており、遂に大切な自分の店を畳み、知人のツテを辿って都会の店に移るという。そこはもう僕達が会おうと思っても会えない場所。住む世界が文字通り違う、そんな夜の世界。
僕はもう一度、さっき言った言葉を繰り返す。「だから」真剣に、言う。
「会ってくれないかな源さんに。どうしてもやりたい事があるんだってさ」
恭子ちゃんは俯いた。僕と華子さんは待っている。もう彼女が何というのかは解っている。
それでも、彼女の口から聞きたかった。
余所の家庭に首を突っ込んだ知人の、勝手な願望として。
6
人が恋する人に会った時の反応というのは、端から見ているととても心地いいものだなと思う。
それが本人たちとは無関係な立場だったら尚の事楽しめる。実害はないし、見ていて胸が高鳴るのは恋のいい部分だけ勝手に分けてもらっているからだろう。
恋が甘いものだけでは無い事は経験すれば誰でも知っているし気付く事だ。好きになった分だけ傷つくのが恋愛だと言ってもいい。しかし、その二人の出会った瞬間の「ときめき」に触れるだけならばそんな暗い所に目を向ける必要も無い。一種の疑似体験みたいなものだ。見ている分だけならいい気持ちに浸るだけで済む。という訳で、僕達はそんな甘酸っぱい瞬間に立ち寄っている訳だ。訳、なのだが…。
「ほうら、会いたかったんでしょお? こ・の・ひ・と・にぃ❤」
源さんは実に良い笑顔で恭子ちゃんに笑いかけていた。
「……ゲロ……親、父ッ……」
困っていつつも、その事を目の前にいる人物に対して気遅れして小さい声で反論するしかない恭子ちゃん。
ていうか、そんな暴言初めて聞いたな。よりによってゲロは無いだろうゲロは。
そんなどうでもいい所に引っ掛かりを覚えていたが、本当にどうでもいいことだった。
僕は二人、いや三人を見て心の中で呟いた。
どうなるんだろう、これから。
喫茶店の店内、貸切の今日、夕日が差しこむ中で僕と華子さん、そして源さんと恭子ちゃん、そして源さんの連れてきた人物を見てどうすればいいのか解らずただ固まっていた。
華子さんは店内に入った瞬間から何かおかしいし、恭子ちゃんは明らかに動揺していたし源さんは何がおかしいのかずっと笑いを堪えている。
そしてそのキーマンである人物はゆっくりと笑みを作って恭子ちゃんに話しかけた。「久しぶりだな、淀橋」眼鏡の蔓を撫で、鼻の位置を合わせると、その整いながらも人懐っこい顔で続ける。
「元気にしてたか? あれから」
恭子ちゃんの顔が真っ赤に染まる。窓から入ってくる夕日のせいだというにはあまりにも解りやすい狼狽だった。
華子さんは、表情を無くしている。僕は不思議に思いつつもそれどころではないと三人を見直す。いいものだな、恋というものは。それだけでは終わりそうにないけど。
僕はその恭子ちゃんの反応を好ましく思いつつも、出てくる不安感を抑えられなかった。源さんを睨みつける恭子ちゃんの顔が、今にも取って食わんとするかのように歪んでいたからである。
源さんは笑っている。恭子ちゃんは親の仇でも見るような顔で睨みつける。(本当の親なのだが)その連れてこられた男性は柔く笑い続ける。
緊張が場に流れ行先の解らない事への不安が最大値を迎えようとしていた。
源さんが連れて来たのは恭子ちゃんにとって、とても大切な人。彼女がもう二度と会う事は出来ないと思っていた人。
彼女は源さんを睨みつけていた顔を一瞬で変え、濡れたように光る恋する瞳で男性を見た。じっと、じっとそのまま視線で時を止めようとでもするかのように。
「久しぶりです、先生……」
恭子ちゃんは呟くように言って、黙る。先生と呼ばれた人物はぽりぽりと照れくさそうに鼻の頭を掻いた。源さんはおかしそうに笑いつつ、先生の肩を叩いた。
「ねえ、かっわいいでしょお~、ウ、チ、の、む、す、め、はぁ❤」
そう言ってくる源さんに、困ったように『先生』は首肯して笑い返す。
「そうです、ね」
爆発するかのように恭子ちゃんの顔が更に赤くなる。
僕は汗を流しながら、そのまま三人を見ている。
何なんだ、この人間ドラマは。
夕日が僕達の顔に陰影をつけ、これから起こる出来事に、静かに期待しているように燃える。
華子さんが表情を消しているのが、僕を更に不安にさせたのだった。
7
「この子の親父と飲み仲間だったのよ~昔~」
軽いノリでそう言い始めた源さんに、僕達はただ黙ってそれを聴いた。
と、いうより、黙って聴くしか無いような雰囲気がそこにはあった。
何故なら、華子さんは相変わらず無表情のままだったし、恭子ちゃんは真っ赤になって俯いてしまっていてそれどころではなさそうだったし、先生と呼ばれた人物は僕達二人への紹介もすんでおらずどう会話していいか解らなかったし、その彼は終始にこにこしているだけで全くこの空気を汚すことなく立っていたし、必然的にこの場で話を進められるのは源さん一人だけだった。
僕はどうしたらいいのか全く解らず、とりあえず源さんの説明に耳を傾ける事にした。
「んで、ちょっと華子ちゃんとムーちゃんにわざわざ呼んできてもらったのは、この娘絶対私の話なんか聞きそうにないからなのね。せっかくわざわざ連絡先調べて連れて来てやったっていうのにさぁ、そんなことじゃ報われないじゃない。私が」
お前がかよ。
というツッコみはもちろんしなかった。夕日に照らされた源さんのその顔に帯びた陰りを見れば、言葉など出てくるはずがなかった。僕は、改めて認識した。もうすぐ、本当にもうすぐ、この憎たらしい顔を見る事が出来なくなるのだな、と思いながら。
源さんは少し間を置くと、少し笑みを浮かべ僕たち全員を見回し言う。「ちょうど良かったわ、これで心置きなく行けるってもんよ」そう言って、恭子ちゃんを見つめ、言う。
「恭子、最後の私からのプレゼントよ、受け取ってね~」
その声にびくりと肩を震わせた恭子ちゃんは俯いた顔を上げ、睨みつけるように、または泣き出しかけた子どものように顔を歪め、源さんを見ていた。
「……余計なお世話なのよ、ゲロ親父。何で私があんたなんにプレゼント貰わなくちゃいけないのよ、ウザいしキモいのよ、とっとと消えろ臭いんだよハゲ!!」
思わず僕でも仰け反りそうになる暴言もどこ吹く風で、源さんは怒る素振りも見せずゆっくり笑いかけ、「そうそう、それでこそわが娘❤ いいじゃな~い、そうこなくっちゃね」と穏やかに言った。
あまりに突き抜けたその返答に、彼女の中の何かが刺激されたのだろう。堤防が決壊するかのように涙ぐみ、鼻をすする音がした。
そして僕達は全員それに気付かない振りをする。恭子ちゃんはまた俯く。何かを必死に我慢してきた今までを思い出しているかのように、戻らない日々を零れないように必死に繋き止めたがるかのように。
話に割り込むのは気が引けたが提案する事にした。「あの」全員の視線が僕に集まる。少し緊張しながらそれでも笑顔を作り、続けた。「立ちっぱなしは疲れるでしょうから」そう言って、ぐるりと自分の身体を回す。腰がぼきばき鳴る。ストレッチモドキをしてから、はあっと大きな息を吐き出す。
今日は色々あった。そしてこれからまたあるのだろう。少し休憩しようと思った。小さく、でも良く通る様に声のトーンに注意しながら「皆さん」と言って、その場からゆっくりと歩き出す。
カウンターに入ってコーヒーの準備を始める。薬缶に火をかけ、コーヒーメーカーをセットする。その水が熱を持って暖まっていくのを確認してから、そちらを見ずに、「まずは休憩しましょう。コーヒーでも飲んで行ってください」と言った。
彼らは、僕をじっと見ていたが、やがてふっとほぼ同時に息を吐くと、こちらへと向かってきた。僕は笑顔で言う。
「ようこそ喫茶店『トーべ・ヤンソン』へ」
コーヒーメーカーに沸騰したお湯をゆっくり注いでいく。
室内にコーヒーの香りが漂い始める。空気が茶褐色の色を持ち始め、心身共にリラックスするようないい香りがしてくる。
全員が、いや華子さんだけが無言で奥の僕達の住居に続く廊下に向かってそのまま姿を消す。僕は首を捻ったが、とりあえず今は目の前の三人に話を聴くことが先だと思い直し、聞く。
「コーヒーが苦手な方っていらっしゃいます? それなら他の飲み物もいくつかご用意出来ますが」
全員というより、主に恭子ちゃんに向けて言ったのだが、予想通り「私、ちょっと苦手なんだけど……」とおずおずと手を上げる。僕は笑いながら、「じゃあココアならどうです?」と訊き直すと、安心した様に「うん、いい」とまだぎこちなかったが笑った。
手を擦り合せながら、僕は「さて」と言い、カウンター席に座った三人に向かって言った。
「結局、どういう事なんです? 詳しく教えてくださいよ。僕だって一応、関係者なんですから」
そう言って、カップに黒っぽい液体を丁寧に注ぐ。二杯分作ると、手を伸ばして先生と源さんに配った。コーヒーに使ったお湯でココアを溶かし、右に源さん、左に先生に囲まれた真ん中の恭子ちゃんはおずおずと手を伸ばして僕からそれを受け取った。
室内に満ちたコーヒーとココアが混ざり合った空中で、僕の思考も飛んでいく。ふわふわゆらゆら揺れている。
源さんのカップにはいつもと同じ角砂糖が二つとミルクを少々足したものが置かれている。見るからに甘そうな茶色になったコーヒーが、源さんにスプーンでかき回され完全に均一な色に変わる。それを見ながら、僕はぼんやりと考えた。
世界は繋がっている。どこまでも、これからも。
何故そんな事を思ったのかは解らない。でも、その考えが頭に舞っている間、僕は少しだけ後ろを向いた。カウンターの奥に、華子さんが消えて行った廊下が見える。不思議だった。
何が不思議だったのかは、全く解らなかったのだが。
8
三人がコーヒーとココアを飲んでいる中、一人僕はそれを見る。こういう時にもそれぞれの癖や傾向が出るから中々見ていて面白い。彼らの手元を見た。
楽しむように少しずつ口を湿らせるかのようにして飲む先生。
両手でカップを持ちながら、まだ熱いココアを息を吐きかけて飲む恭子ちゃん。
一気とまではいかないものの、かなり速いペースで飲んでいく源さん。
三者三様の飲み方を見ながら、彼らの生き方までも推測するのは、間違っている事も多いだろうが意外に正しい人間観察の方法ではないかと思う。
日が落ち、室内の蛍光灯が僕たちを照らすなか、クーラーがまだ効いている室内は少し涼しく、熱い飲み物でも充分に楽しめるようだった。あと、やっぱり冷えた関係には温かい食べ物飲み物がいい。別に科学的にどうとかというものでは無いのだけど(いやもしかしたらあるのかもしれないけど)感覚の問題として、冷たい飲み物よりは温かい飲み物の方が強張った身体をほぐすにはいいのではないだろうか、と勝手に思う。
三人がカップの飲み物を飲み終え、一端休憩して僕を見返してくる。どうやら誰が話し始めるのかを気にしているようだ。さっきまで主導権を握っていた源さんは、娘に自分の口から言わせたいのだろう、ただ黙って微笑んでいた。
少し空白の時間が訪れ、僕達の上に白くて眩しい記憶のような人工の光が降り注ぐ。
まだカップを両手で包むように持っている恭子ちゃんは、ようやく落ち着いてきたのだろう、視線を左側に向けようとするのを、必死で堪えているようだった。それは紛れも無く小生意気な女子小学生では無く、一人の恋する女性のように思えた。
少しためらった後、左隣にいる先生の方をちらりと見て、また口をつぐみ、また開ける、という事を二、三回繰り返し最後に大きく息を吸い、僕の方へ顔を向け、最後に一瞬だけ右隣の源さんを見て、僕に向かい直して言った。
「私、の、えっと、その、…ちょっといいなって思ってた先生なの、この人」
明らかにそれは『ちょっと』では無く『凄く』だろうなって思ったが、もちろん口には出さない。出す必要も無いし、出してからかうには空気が真剣すぎた。
真剣に悩んでいる恋を蔑んだり、軽んじたりするのは、本当の恋愛をしたことが無い証拠だ。一人の恋人だけではなく二人、三人のボーイフレンド、ガールフレンドが当たり前になっているらしいが、本当に一途にその人を見続けているのならばそんな事は絶対に出来ない。キープ要員の相手はどう思うだろう、自分が二番手、三番手であることを心で完璧に納得できるものだろうか。僕には良く解らない。
ただ、こうやって真っ赤になってどもりながら相手の事を言おうとする恭子ちゃんを思わず応援したくなってしまった。
何でもいい。とにかく、この状態を見守ろうと思った。源さんは頬杖をついたまま前を見つめ、壁に立てかけられた昔僕が描いた風景画をじっと見ている。いや、視線をそこに飛ばしているだけで、本当は何も見ていないだろう。見ているのは、隣の彼女。必死になって今から何かを伝えようとしている一人の女性の、行く先だ。
「そんで……、名前は……」
「中村です。中村清掃」
覆いかぶせるように言葉を重ねたのはその先生と呼ばれていた男性。にこやかな表情と穏かそうな瞳。ノンフレームの眼鏡をかけていて、涼しげで知的な印象を与える人だった。僕の中ではこういう雰囲気がいい男性が本当にモテるという事が動かし難い事実としてある。なまじ顔がいい人間よりも、清潔感があって、包み込むような大人の男に『守られたい願望』が刺激され、気付いたらずっと目で追っている。でも告白しても玉砕するのが目に見えているから、仕方なく他の友達程度の間柄の男と付き合ってしまうという、学生時代にそんな同級生が結構な数いた。
そして気付けばその男性は凄くいい女性を彼女にしていたりする。人生不公平すぎて泣けてくる。どうでもいいかそんな事は。
その話してくれた男性は名乗ると、僕に目を向けて「あなたが町沢さんですね」と訊いてきた。
僕は「あ、はい。そうです町沢です」と間抜け全開で頭を下げた。これがモテるモテないの差かな、と一人胸の中で呟く。
自己紹介してくれた中村さんが、そのまま黙ってしまった恭子ちゃんに目を向け、
「この子は僕が去年まで担当していたクラスの子なんです。とても元気よく明るい子で、ムードメーカー的な存在でした。別れる時も『また会いにいくから!』と泣きながら送ってくれたのが本当に嬉しかったですよ。元気にしているかな、と赴任先でも時々思っていたんですが、突然父から電話がかかってきましてね。あ、父は教員をしているんですが、いきなり『僕の友人の娘さんがお前に会いたがってるから、ちょっと時間とって会ってくれないか』って言われましてね。それで今日、ここに呼ばれたという訳なんです。まさか、父と淀橋のお父さんが酒仲間だなんて全く知りませんでしたよ」
少し冷えて残ったコーヒーをまだゆっくりと味わうように飲む中村さん。その行為から丁寧に人に教えるタイプの様な気がした。特に理由は無いが、飲み方から深く深く付き合う人間の傾向があるのではないか、または人が解らない所を的確に見抜き助言するタイプに思えたのだ。あくまで勘であるが。
ソーサーにカップを置くと、中村さんはその波すら立たない様な静かな湖面を思わせる瞳で僕をまた見つめた後、源さんに送り、そしてまた恭子ちゃんに目を向け直した。
恭子ちゃんはこちらが見ていて心配になって来るくらい赤くなりながらカップに少しだけ残ったココアに自分の顔を落とす。無論、そこに自分の顔など映るわけが無くただコーヒーより茶色っぽい液体が手の震えで少し揺れた。
カップを無意識にいじりまくっている恭子ちゃんに苦笑を浮かべながら、中村さんは「久ぶりに見たけど、大きくなったなあ」と言ってくしゃりと恭子ちゃんの髪の毛を撫でた。
はっとして中村さんを見つめる恭子ちゃん。僕は静かに気取られないように三人分のコーヒーを淹れ直す。今度は氷を入れてアイスコーヒーにした。
ガムシロップとストローをつけ、グラスに入ったコーヒーを二人分。恭子ちゃんにはオレンジジュースを注いでそっと置く。
頼んでないけど、という顔をして恭子ちゃんと中村さんが僕を見た。僕は笑顔で「おごりです」と言う。それを聴くと二人とも何とも言えない顔をしてから僕に微笑みかけた。それだけで、嬉しくなって飲み終わったカップを片付ける。背中で声がした。
「で、どうなんだ、最近の調子は? 遊ぶのもいいけど少しは勉強もやれよ? 勉強が全てじゃないけどな、小学中学っていうのはいわば土台作りなんだ。その下地があるから後々したい事がある時に自分の基礎になる。お前は元々頭いいんだから……頑張れよ?」
そう聞こえた時に振り返り戻っていくと、恭子ちゃんは「解ってるって……」と声を上ずらせながら言い返していた。ふうん? と僕が含み笑いすると、それに気付いた彼女は「キモいんだよ」と言ってきた。……腹立つなあ。
「で?」
と突然じっと風景画に視線を留めていた源さんがその体勢のまま、視線のまま、言った。
「何か言いたいことあるんじゃないの? ――その人に」
恭子ちゃんは瞬間真っ赤になりながら悔しそうな顔をし、息を詰らせ、そわそわと視線をあちこちに飛ばし、いもしない蚊や蠅を追いかけるようにさまよわせる。
そんな事を繰り返すうちにだんだんと彼女の眼も定まり、息も整い始め、顔も赤から普段通りの色に戻ってきた。
そして覚悟を決めたかのようにすうっと息を吸い、止まり、吐き出すと同時に中村さんの方を見て、言う。
「先生」
その言葉で、いやもうおそらくずっと前から気付いていただろう中村さんは、その顔に柔らかい笑顔と同時に、少しの緊張と、少しの罪悪感を混ぜたような顔をして恭子ちゃんを見た。
「わた、し、さ……」
そう言った後、乾いたらしい唇を少し舐め、恭子ちゃんは再び真っ赤になりながら、
「友達がボール窓ガラスに当てて割った時、みんなが私がやったって口揃えて言った時、都合のいい時だけ私に押しつける皆を見た時、凄く怒ったよね……『割ったのは別にいい、でもそれを他人のせいになすりつけるのは、人として最低の行為だ、全員、恥を知りなさい!!』って、怒ってくれたよね」
次第に涙ぐみながら、恭子ちゃんは震える声で話し続ける。
「私凄く、すっごく嬉しかった。皆の事は許せなかったけど、先生のあの一言で、私も少し変われた。変われた気がした……」
そこで一端息を止め、一瞬、僕の位置だから見えた、ほんの一瞬、目だけ真横に動かして、恭子ちゃんは源さんと目を合わせた。僕は源さんがその時、今までで最も優しく、力強い顔で頷くのが見えた。恭子ちゃんも目だけ頷き、向き合う。
「大好きです」
言葉は飛ぶ。
「私、先生の事が」
弓より速く、風より速く、中村さんの鼓膜に届く。
「付き合って、下さい」
僕はそのまま後ろを向いて、お菓子を出す振りをしてゆっくり離れた。
声が聞こえてくる。
「ありがとう」中村さんは言う。僕は上にある棚の引き出しに手をかける。
「ごめんな」お茶菓子の箱を手に取り、そのまま背中を向けて包装を破こうとする。
「嬉しかったよ」気付かない訳がなかった。
僕は立ち上がり、カウンターの方に歩いていく。
ぼろぼろ泣きながら笑っている恭子ちゃん。まだ風景画に視線を留めている源さん、無意識にその左手の薬指にはまっているリングを撫でる中村さん。
拍手を心の中で繰り返す。恭子ちゃんはそのままカウンター席から降りて、走って外へと飛び出していく。僕はもう一度コーヒーを淹れ直そうと薬缶を再び火にかける。
源さんが呟く。
「ありがとね、二人とも」
僕と中村さんは何も答えない。
薬缶の中の水が蒸気になる音が、ただ響いていた。
9
「湿っぽいのは嫌なのよ」
僕と中村さんと源さんの三人で、ビールを飲んでいる。
自宅にはアルコールが無いので、僕達はジャンケンで負けた人間が買ってくる、というゲームで見事僕が敗北し、そのまま使いっぱしり同然で近くの商店街の酒屋で買ってきた。
「珍しいねえ町沢さんが酒なんて」と言ってきたので、「今日は特別でして」と言って帰る。行く時に家の中に入ってどうにも様子がおかしい華子さんの様子を見に行ったのだが、部屋にもいないしトイレにもいない。がらんとした室内だけが僕を包む。何故だか妙に寒々しい感じだった。こんなに夏真っ盛りだというのに本当に信じられないくらいの寒気を感じた。よく解らなかったが、とりあえずカウンターではなくテーブル席の方へ三人で移動し、そこでツマミを食べながらしばし談笑する。
「やっぱりさ、人間、誰でもそうなんだろうけど、鬱っぽい時は鬱っぽくしてんのが一番なのよ。波ってもんが絶対あんだからさ、どうしたって駄目な時は駄目なのよ」
酔いが意外にも早く回っているのか、かなり多めに買った酒缶が源さんの周りでもう既に四本空になっている。饒舌になった彼の言葉を僕と中村さんは黙って聴いている。ぐいぐいと男らしく喉仏を鳴らしてビールをあおる源さんはどんっと缶をテーブルに置くと、
「でも、時々はテンション上げてかなきゃならん時も多いわけ。カンフル剤みたいな? とにかく自分の止まっちまった足を少しでもいいから前に動かすための何かがいんのよ。〝波〟の悪い時は特にね」
再びビニール袋から缶を掴み、プルタブを片手で開け、一気に飲み込む。口には泡が付き、そのまま嬉しそうに喉を鳴らす。いや、本当に美味そうに酒を飲む人だなこの人。
僕が感心しつつ呆れていると、隣でもう既に源さんと同じくらい飲んでいるはずの中村さんが全く変わらず、顔も色を変えず、何もかも変わらず平然と飲んでいた。僕は違う意味で戦慄し、おそるおそる聞いてみた。
「中村さんって……ざる、ですか……?」
すると彼は「いえ?」と返し、
「飲めてもせいぜい一升ですね」
ざるって言うんだよそういうのが! とほぼ初対面の人間にここまでツッコみを入れたくなったのは久しぶりだった。
そしたら源さんが「私の話を聴きなさい!!」と超怒声を飛ばしてきて、僕はつい背筋を伸ばして座り直したのだが、中村さんはニコニコとそのまま変わらず、「大丈夫です淀橋さん、聞いてますよ」と緩やかに返答した。これがモテるものとモテないものの差か……。
つい人生について考えてしまうと、源さんは中村さんの声に気を良くしたのか、
「それでね、やっぱり、何にも出来ない駄目な親だって、なにか娘に少しくらい役に立つことがしたかったのよ…最後に一つくらい、『いい親』だと自分を思いこんで別れたいって思ったのよ……」
源さんはそのごつい顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。
「だからね、……恭子には、やり残したことを、私みたいに後悔をしながら成長してほしくなかったのよ……駄目な事だと解りつつも、伝えて欲しかったの……自分の気持ちを、きちんと相手に」
ぐいっと涙と共に缶を傾け、飲み干す源さん。
「誰かに自分の気持ちを伝えられないまま別れるほど、後悔するもんはないからね……」
「源さん……」
僕たちは黙って缶を傾けた。ビールがこんなに美味くて、そして苦いのは初めてだった。
しばし無言でツマミを食べる音とビールやチューハイを飲み込む音がする。
その時源さんは消え入りそうな声で言った。
「ごめんね……清ちゃん。ありがとね……ムーちゃん。出ていく前に、ちゃんとツケ分、払っていくから。今までありがとう。あんなに美味しい味噌お握り、久しぶりに食べたわ」
そう言って、泣きながら笑って、僕達の顔を見回す。その後、天井を見て、壁を見て、僕の描いた風景画を見た。そして、
「ムーちゃんの描いた絵でしょ? あれ」
そう言われて、僕は素直に「そうです」と言った。「くれない」僕は何を言われたか解らなくなり、もう一度訊いてみた。「何ですか?」源さんは、
「凄くいい絵だなあって思ったの。花畑なんだろうけど、描いた人間のその時の何とも言えない風景の綺麗さ、美しさってものが何て言うかこう、伝わってくるのよね……私学ないから解らないけど……いいなあって思ったのよ」
最後に、こう言って、源さんは締めくくった。
「華子ちゃん、大事にすんのよぉ、この幸せもん~~……」
バタンとテーブルに倒れ込み、そのまま凄いいびきをかいて寝始める源さん。僕たちは顔を見合わせ苦笑して、その彼の背中に、僕が持ってきた毛布を掛けてやる。
その後、僕はその風景画を外し、包装紙で包んでから、源さんのツケ代の領収書をホッチキスで留め、その包装紙に挟んだ。
後ろに「出世払い」、とデカデカとマジックで書いて。
源さんは眠った。子どものように安らかな顔で。
我が子の気持ちに一区切りつけるためのプレゼントを渡した、少しだけ満足そうな顔で。
中村さんと僕は二人で飲み直した。
黒いコウモリが時折窓を、叩いていた。
10
不思議な雰囲気を持っている人だな、と思った。
中村さんは、僕と一緒に残り少なくなったチューハイとビールを飲んでいた。
そこが恐らく恭子ちゃんが魅かれた部分なのだろうし、忘れられない所でもあったのだろう。笑顔を交わしつつ、下らない話題に盛り上がりながら、二人だけの飲み会は続いていた。
辺りは源さんの大きいいびきの他は何も音が無く、ここが本当に騒がしい街とは違うのだと実感する。
華子さんはまだ戻ってはいない。先ほどトイレに行くために家に入ったのだが、真っ暗で誰の気配もせず、何処か友達の家にも行っているのかもしれかった。態度が少し変だったから何にせよ、少し心配ではあった。
中村さんと向かい合ってテーブルを使っていると、ふと黙り、彼は源さんの方を見た。そして口を開き、言う。
「町沢さんはどう思いました? 淀橋と、源一郎さんを見て」
かなり飲んでいるというのに顔色がほとんど変わらない中村さんを、かなり焦点が怪しくなってきた揺れる頭で、かろうじて僕は返答する。
「どう、というと……?」
中村さんは残り少なくなった缶チューハイをあおると、静かにテーブルに置き、「僕は」と真剣な声を混ぜた。
「世界はまだ捨てたもんじゃないな、と思いました」
意味が良く解らず中村さんを見ていると、すいません、と照れた顔をして頭を掻く。「意味解んないですよね、いきなりそんな事言われても」
しきりに恥ずかしがる彼を見ながら、僕も「いや、言っている事は少し解ります」と返す。それが中村さんと同じかものかどうかは解らなかったが、僕も確かに思った。いいものを見せてもらった、と。
中村さんは買っておいた最後のチューハイを開けようとして止め、僕に「飲みますか?」と訊いた。僕は「いえ、充分です」と手を振って断る。「僕もそろそろ帰ろうと思います。……妻にどやされるので」そう寂しく笑い、源さんをもう一度見た。缶は横にずらされ、汚く食べ散らかしたツマミや缶が散乱するテーブルの隅に置かれた。
中村さんは静かに息を吐くと、腕時計を見て「もうすぐ終電ですね」と言って「行かないと」と持ってきていたカバンを手に取った。僕も立ち上がり、喫茶店のドアまで送る。
最後に、その不思議な雰囲気のまま、彼は僕に笑い掛けた。
「源一郎さんに、よろしくと言っておいて下さい。僕も淀橋に会えて嬉しかったです、ありがとう、と」
かろん、とベルの鳴る音がして、ドアが開かれる。中村さんが外に出ていく。
そこで、ふと思い出したように振り返り、「あの人は、町沢さんの恋人さんですか?」と訊かれた。
僕はすぐに華子さんことだと思い「なれたらいいなと思ってますよ」と、苦笑で返す。
それで何かをすぐに察したのか、「なれますよ、きっと」と言って彼も笑い返した。そこで少し真面目な顔になり、「不思議ですね」と首をわずかに傾ける。
何がですか、と問いかける前に、
「――会った事がある気がしたんですよ。ずっと前」
そうして手に持ったカバンを持ち直すと、僕を見つつ、
「僕が子どもの頃なんですけどね、彼女によく似た女の子がよく遊びに来てたんですよ。おかっぱで、いつも赤い服を着ている、女の子が」
僕は頭から冷水をかけられたような錯覚を覚える。
中村さんの口が開く。僕は、スローモーションのようにそれを見て――
「父の、教え子だって言ってたな。不謹慎な話なんですけど、その後すぐに亡くなったと聞きまして。父も酷いショックを受けていたからよく覚えているんですよ。それで、彼女を見ていたら何だか凄く懐かしくなってしまって。当時の想い出が蘇って来たんです。あの人を包み込むような温かい雰囲気が良く似てました。初恋、だったんでしょうかね…。駄目だ、酔ってるな。気をつけて帰らないと」
最後は独り言のように呟きながら、夜の闇の中に、足を向ける。
「では僕はここで。どうも本当にごちそうさまでした。また寄らせて下さい」
と言い、中村さんは歩き始める。
僕はその言葉を反芻しながら、その遠ざかり闇に消えて行く背中を見ていた。
止まることの無い震えを、自分自身で抑えながら。
立ち尽くす。どうする。どうすれば、いい。
華子さんは気付いた。自分の過去に、出来事に、思い出に。昔を呼び戻す人物が現れたことで、唐突に、突然に、――確実に。
闇が僕に、迫ってくる。
何かが壊れ、大切な何かが終わる音がした。
店の中から、源さんの何の不安も無いようないびきが、聞こえてきていた。