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第三話  例え君が忘れたとしても


 1



 扱いに困る人間というものはどこにでもいるものだ。

 それが例えば結婚した相手の母親であったりだとか、長年一緒に暮らしてきた夫や妻であったり、まあ、それも一つのめぐり合わせ、縁みたいなもの。

 そうなったらそうなったなりの付き合いを考える。僕はそういうスタンスで今まで生きて来たし、これからもきっとそうだろう。

 両親や友人とは普通に仲がいい方だと思っているし、まあ、よくズレていると言われるのを除けば極々何処にでもいる一般人。特に何の特徴もない男である。

「身長が190近くあるし、見えているのか本当に怪しいキツネ目だし、自分の事を自分で判断出来てない典型ですねぇ」

 と華子さんが言ってくるが、彼女にこそ言われたくない。自分がまともだと思っている妖怪が一体どこにいるというんだ。いやここにいるんだが。

 これからする話は少しヘンテコかもしれない。いや、華子さんと関わるようになってから変な事ばかり起きているのだけど、それを置いといても変な話だった。

 華子さんが一体どんな人と仕事をしているのか、そしてどんな風な関係を築いているのか、この件を境に少しだけ解ったような気がした。

 まあそれもこれも皆この人のせいなのだけども。

「あたしの顔に何か付いてるかオイ」

 どこにでもいる一般人の僕が出会う事になった変な人(・)その二。

「つーか相変わらずここは酒置かねえのな、大丈夫なのかよココの商売」

 笑いながら自分で持ってきた一升瓶片手に豪快に笑う。あの、小豆(あずき)さん、ここ飲食物持ち込み禁止です。

「んん? 何か言ったかムーミン」

 なんでもないです、と僕はあっさり引き下がった。こういうのは引き際が肝心である。下手に長引かせると面倒な事になりそうだし。

「そうそう華子。お前明日スペイン行ってくんねえ? あそこのサッカー場のトイレが凄い事になっちまってるんだとさ、散々上から文句言われた」

 華子さんは露骨(ろこつ)に嫌そうな顔をして彼女を見る。「何で私なんですかぁ?」と全力で拒否する勢いである。

「しゃーねーだろ、お前くらいしかこんなの頼めねんだし」

 瓶(びん)の蓋(ふた)を開け、勝手に店のカップに並々と日本酒が注ぐ。大きなため息と共に、僕は彼女用にとってあるスルメイカの細切りとマヨネーズを出す。「さんきゅーさんきゅーさんさんきゅー」と言ってマヨネーズをたっぷり付けて咥える。なんだか様になっているのが悔しいが、こういう事が似合う人は格好いいな、などとも思う。

 コーヒー用のカップに注がれた日本酒を一気にあおると、つまみであるスルメをその鋭い歯で噛み切りながら、僕に言う。

「この前は悪かったな」

 笑って彼女はスルメを咀嚼する。その悪戯っぽい顔を華子さんが親の仇でも見るような目で睨んでいる。

 デートをしたんです。そう僕はこの人と。

 それはまあ華子さんにとっては最大級に許せない事らしく、でも僕はその感情が僕に対しての嫉妬であれば、失礼だけど嬉しいなあとも思ってしまう。ま、それ以外の可能性もある訳だが。

 僕は今スルメを食べている彼女の秘密を知ってしまっているため、そこは曖昧にごまかすしか無かった。


 御手洗(みたらい)小豆(あずき)。華子さんの上司であり、友人であり、そして姉代わりと言ってもいい存在の、華子さんが勤めている派遣会社の先輩社員。妖怪『小豆洗い』、である。

 その鋭い相貌で華子さんを睨み返した後、ふっと笑って言った。

「お前がこの前酔ってあたしに言った言葉、言ってやろうか」

 すると華子さんは猛烈な勢いで近寄ってきて、僕の耳に指を突っ込むと、僕に聴こえない様な声で怒り始める。何だ何だ?

「あ、あれは酔った勢いでちょっと冗談が出ただけです、変な言いがかりつけるの止めてください御手洗さん!!」

「いいじゃんいいじゃん、ようやくお前にも昔の事から離れられてるって事じゃねえか。むしろ喜べよ、何なら今本気で言ってやろうか、お前はムーミンが大す――」

 更に指が耳の中に入った。

 のおおおおおッッッ!!! 痛い、痛いって華子さんんん! 何も聞こえないどころか脳にまで達しちゃいそうな勢いだよこれ、拷問(ごうもん)だってばこれぇ!!

「だから、酔った時の勢いですよう!! これ以上辺な事を言う様だったら、私にも考えがありますよぉ!?」

「何だよ、まさか私がムーミンを誘惑してるのは本気だとでも言うつもりか?」

 おかしそうに笑う小豆さんに僕は首を傾げざるを得ない。何を言ってるのかさっぱり解らないから。

「ええッ、そそうなんですかぁッ!? や、止めてください御手洗さんッ、民ちゃん馬鹿ですから本気にしちゃいますよぉ!!」

「冗談に決まってるだろうが。こんな冴えないヤツ、誰が好きになるかっての」

「の割によく絡んでるじゃないですかぁ!!」

「楽しいからなぁ、こいついじると」

「最低ですよぅ、御手洗さん!」

「……ま、確かに見た目より骨あるみたいだけどな」柔らかい笑みを浮かべ僕を見た。

 華子さんも厳しい目付きで僕を見た。何の会話しているのか解らなかったが何となく抗議の視線のように感じたので、にこりと曖昧に笑う。華子さんは後ろから太ももを思いっきり蹴り飛ばしてくる。痛い! 凄く痛い!

「まあ、そういう訳でよろしく頼むわ、華子」

 おかしそうに笑う彼女に、華子さんは今にも掴みかからんとするような強烈な眼光で小豆さんを威嚇する。が、柳に風、全く気にしてない風に酒を更に注いで飲む。豪快だ。

 何でこんなことになってるんだろうなぁ。僕はため息をつきながらこの前の事を思い出す。そう、この行動が休日のお父さんのような小豆さんに無理やりデートされられた時の事を。

 複雑な感情が僕の胸に渦巻く。小豆さんの胸の裡を、少しだけ知ってしまった代償として。

「酒はいいぞ。生きるのに疲れた時には最高の薬だ」

 また注ぎ飲み干す。ざるの人間相手程難しいものは無い。

 小豆さんの顔を見る。少しの疲れと少しの安らぎ、少しの満足感がないまぜになった顔をしている。

 小豆さんは優しい、それだけは確かな事だ。

 例え、それが相手に伝わらないとしても。

 僕は彼女を尊敬する。

 優しい嘘を守り続けている、彼女を。



 2



 一週間が過ぎた。

 僕は恒例となった華子さん起床作戦を決行し、再び服を脱いでいないかどうかを確認してから肩を叩き、起こす。極度の低血圧な彼女に熱いコーヒーを淹れてから僕はしばし空白の時間を過ごす。暇だったので華子さんが起きてから実際に覚醒するまでを図ってみた。八時ちょうどに声がかかったので二十分三十秒くらいだった。どうでもいい。

 そして作った朝食を二人で食べる。僕は食事中喋らないし、彼女もまだまだ電源が正常に作動してないので部屋はつけっぱなしのテレビが誰も見ていない朝のニュース番組を放送していた。

 そして食べ終わる頃には二人とも手早く仕事の準備をする。

 僕は喫茶店の方を。

 そして華子さんは会社からのケータイメールを見て僕(・)の(・)家(・)の(・)ト(・)イ(・)レ(・)か(・)ら(・)他(・)の(・)仕(・)事(・)場(・)へ(・)と(・)移動する。

 相変わらず何の追及もせずにトイレからトイレへとワープ出来るという設定を受け入れている僕だけど、実際どうやってワープしているのか実は凄く気になる。気になるけど、真相を知ってしまうと華子さんに僕が抱いている一種の幻想が砕け散りそうなので、中々ツッコむ機会が無い。このままこうやって流されるままに生きていくのかな、なんて厭世的な事すら考える。

 僕は行ってしまった華子さんを見送った後、トイレから離れ店内に向かう。

 お客さんを待ちながら、軽食に使う食材を冷蔵庫で確かめながらチェックする。痛んだものや少し日の経ったものは捨てる。美味しく新鮮な食材で作る。調理師の免許を持っているわけでは無いので偉そうな事は言えないが、ささやかなプライドというより喫茶店へ来てくれる人には落ち着いた時間を過ごしてもらいたい。そのためには美味しい料理と美味いコーヒーが必要不可欠。何かと忙しない時代だからこそ、何かに追い立てられない空間を作ることが大事なんだ、そう思っている。

 アルコール類は基本置かないことにした。置けば客単価が上がるしその分料理も注文してくれるので随分と悩んだのだが、やはりここはコーヒーで勝負をかける方が僕らしいかな、と思ったのだ。元々そんなに酒に詳しい訳では無かったし、付け焼刃のようにそれらを使ったとしてもたかが知れている。それに酒が入ってしまうとどうしても酔ったお客さんが他の静かにしたい客に迷惑をかける、という懸念もあるにはあったし。まあ、そんなにまで飲む人は喫茶店に来ないだろうけど。

 掃除をし終わったカウンターをもう一度台拭きで拭(ふ)く。表面の焦げ茶色がコーヒーのように穏やかに輝く。

 日が出て来て今年の暑さがこれからの事を教えていた。鼻歌を歌いながら僕は音楽を流す。絞ったボリュームに緩やかなジャズ。あまり詳しくは無いけれど、店のイメージに合うように選んだ曲ばかりなので雰囲気づくりには成功しているんじゃないかと思う。

 それを聞きながら、開店までの二十分間、持ってきていた文庫本を広げる。今日読むのは『老人と海』。主人公のサンチャゴに憧れ、読み返すのはもう三度目だ。繰り返し読める本というものは中々出会えない。それが古典とよばれる本の魅力だとも思う。それだけでは詰らないので他の本も読むけど。

 開店時間がだんだんと近づいてくる。僕は静かに流れるジャズとコーヒーの香り、そして活字を追うという素晴らしい時間を堪能していた。ああ、素晴らしきこの空間。思わず自画自賛してしまいたくなる最高の場所だ。うっとりとしていたら、もう開店時刻。外に出て、ドアの所に描かれている『CLOSE』の札をひっくり返し『OPEN』にする。よし、今日も一日やりますか。腰に手を当てて、眩しい空を見た。晴天。雲一つない吸い込まれそうな程青い空が僕の視界いっぱいに広がる。

 暑い夏の日に相応しく、蝉の大合唱が天高く舞っている。うるさいと感じつつもこれが無くなったら多くの人が寂しがるだろう音に耳を澄ませた。生きている事をその羽で主張する彼らの短い生を堪能してから店内に戻ろうとする。

 その時、背後から「おうい、兄ちゃんよぉー」と声がかけられた。

 女性の声だ。ぶっきらぼうの中にどこか少年のような明るさも感じる口調。

 振り返った僕はその人物と向き合った。遠くでは陽炎が立ち上り、アスファルトをゆらゆら揺らす。

 僕はお客さんかな、と思ってその女性に返事をした。

「何でしょうか」

 その人は唇の片側だけ上げて笑うと、手に持ったブランデーの瓶を揺らしながら近づいてきた。小豆色の茶色の髪に、きゅっと引き締められたように細い目。鼻筋が通っていて顔が小さい。目元に無きぼくろがあり、唇の赤さが妙に人目を惹く。女性にしては高い身長で百七十はあるだろうか。黒いスーツスタイルで足にはハイヒールを履いている。

 にやにや笑いながら僕の前に立った彼女は僕を見ると一言こう言った。

「冴えねえ面だな」

 初対面からそんな暴言吐かれるなんてこっちもビックリだ。

「だがまあ、『あいつ』に似てなくもないか。なるほどなあ、いい傾向じゃねえかよ、うんうん。よかったよかった」

 一人で判断し一人で納得して一人で勝手に感慨にふけられても困る。

 困惑する僕を尻目に「あーあっちい、わりー、少し休ませてもらえるか。あたし暑いの駄目なんだマジで」と言って僕の横を通り過ぎ、店内へと入って行く。はっとして慌てて僕も向かう。

「えーっと、あのいらっしゃいませ、で、いいんですよね?」 

 頭がまだこの展開について行けてない僕が間抜けにそう訊くと彼女は笑い、「何でお前があたしに訊くんだよ」と言ってカウンターの前に腰かけた。そこでブランデーの瓶の蓋を開け、直接飲み始める。色の白い肌が見え、喉仏が上下に動く。喉周りに汗で張り付いた数束の髪の毛が妙に色っぽい。

 僕がカウンターに急いで入っていくと、彼女はまた片側の唇だけ上げ僕を見た。

「何か食いもん作ってくんねえ? 朝飯抜いてきちまってよ」

 僕は戸惑いながらもメニューを取り出し、彼女の前に広げた。「おっ」と声を上げ嬉しそうに眼を輝かせる。「喫茶店なのに結構重めのも作れんじゃんか」と言い、じっくりメニューを覗き込んでいる。僕は邪魔をしないようにしながら考えていた。

 ――さっきの、どういう意味なんだ?

 まるで僕の事を最初から知っているような言い方だった。それに事情があるようにも思えたし。華子さん関係なのか、この人も。

 僕がそう思考を遠くへ飛ばしていたら、「おい」と声をかけられる。その声で意識を視線の先の女性に向けなおし、「はい、ご注文はお決まりでしょうか」と訊き返す。

「この『チキンとタルタルソースの特製サンドイッチ』くれ、あとブレンドコーヒー、アイスで」

「かしこまりました、少々お待ちくださいませ」

 ひとまず疑念は置いておいて、言われた通りコーヒーとサンドイッチを作る準備を始める。黙々と手を動かしていたら、「お前さ」と呼ばれ僕は「はい?」と訊き返した。「あたしが誰だか気にならねえの?」

 少し悩んだが、正直に「まあ、多少は」と言う。その後に少し間を置いて「でもお客さんですから。ゆっくりしていってほしいですしこちらからは訊きませんよ」と言い足すと、彼女は少しあっけに取られたように僕をまじまじと見た。この仕草、どこか華子さんに似ている。そんなに変だろうか?

「なるほど?」

 肩肘をついた彼女は納得したとでもいうように僕を見、

「人(・)間(・)に(・)し(・)ちゃ(・・)珍(・)し(・)い(・)タ(・)イ(・)プ(・)だな(・・)」

 と言った。

 僕はその言葉で悟る。ああ、この人もあっち側なのかやっぱり、と。

「――御手洗(みたらい)小豆(あずき)だ。アンタのとこに世話になってる綺麗華子の上司をやってる。今日はアイツが押(・)し(・)かけ(・・)女房(・・)した(・・)って言うから気になって来てみたんだ。よろしくな」

 手を差し出してきた御手洗小豆さんに、僕も急いで手を拭いてそっと握る。ひんやりと冷たく、すべすべした肌が触れてちょっとドキッとした。

 僕が顔を赤くしていると、おかしそうに御手洗さんが笑って言った。

「面白れえ人だなあ、アンタ」

 その理由が解らなかったので、僕は内心首を傾げる。何か変な事をしただろうか。

「人間(・・)じゃ(・・)ねえ(・・)って暗に言ってんのに、全然動じてねえ、大物なのか、馬鹿なのかよく解んねえなって思ってよ」

 褒(ほ)めてるのか貶(けな)してるのか解らない言い方で僕を評する御手洗さん。

「あいつが気に入ったのも、何となく解るな」

 そう言って、ぎゅっと先程よりも強くこちらの手を握ってくる。

「よろしくな、町沢民男さんよ」

 その向けられた笑顔に、僕はやっぱり華子さんにどこか似ているな、と思ったのだった。



 3



「いけるじゃねえか」

 コーヒーとサンドイッチを食べた後、小豆さんはそう言って満足そうに僕を褒めた。

 軽食を出した僕としてはどのような反応が返ってくるのか心配だったのだが、どうやら味はお気に召してくれたらしい。食べている間一心不乱に集中して食事していたので、これが作り終えてから最初の会話になる。

「味もしっかりしてるし、丁寧に作られてる。飯が目的じゃなくても、これなら口コミで評判上がるんじゃねえか? あたしはそういうの良く解んねえけどよ」

 爪楊枝(つまようじ)で歯の間のチキンを取っている御手洗さんに、僕は何と返せばいいか解らなかったが、とりあえず素直に「ありがとうございます」と笑顔で頭を下げた。うん、何はともあれ喜んでもらえたなら本望だ。食事は美味しく食べるのが作る方も食べる方も嬉しい。御手洗さんが僕の料理とコーヒーを褒めてくれたのは素直に自信になりそうだった。社交辞令で褒め言葉を言うタイプには見えない。

 それはともかく、僕は気になっていた事を早速訊いてみる事にした。

 目の前の食器をカウンターから持ち上げて洗い場へ持っていき、洗う。手早くすすぎ、水切り場に置くと戻る。そうしていたら、先程と同じように肘をカウンターについてにやりと笑いながらこちらを見ている御手洗さんと目が合う。普通の人がやると何だかあまり気分のいいものでは無いにやつきは、彼女がやるとやたらと似合っている。キャラクターの他にその人が持つオーラみたいなものが関係しているのだろうか、と僕は印象の不思議について一瞬考える。

 僕がカウンターに戻ると御手洗さんはその笑顔のまま僕に「で? 訊きたいんじゃねえのか、華子のことをよぉ」と言った。

 僕が正直に「知りたいです」と一区切りしてから「華子さんって普段、どういう仕事してるんですか?」と付け足す。御手洗さんは「え、そこ?」と本当に驚いた顔をして僕を見た。「どんな(・・・)ヤツ(・・)か(・)、と(・)か(・)じゃ(・・)なく(・・)て(・)か(・)?」僕はその質問の意味が良く解らず、「はあ」と間の抜けた返事を返す。

「華子さんがどんな人―って人じゃないらしいですけど、っていうのは見てれば何となく解りますしね。それに、それを華子さんをよく知っている人に教えてもらうっていうのも何かフェアじゃないと思いますし。話したくない事を他の人から訊き出すのもちょっと違うし。だから、自分の事は本人が話したくなるまで言われなくても別にいいです。それより、どんな仕事しているのかの方が興味ありますよ。華子さん、あんまり自分の普段の仕事の話しないから」

 僕がそう言うと、僕の瞳をじっと射るように見ていた御手洗さんに動揺したが、とりあえず悪い事はしていないと思ったのでそのまま見られるままにされた。

 大分長い間、といっても三十秒くらいだったろうがじっと見つめた後、ふうーっと大きく息を吐いて御手洗さんは顔を下に向けると「嘘は言ってねえな……」とぼそりと呟いた。

 顔を上げて再び僕を見てきた御手洗さんは、「お前、やっぱ面白れえわ」と言って泣き出しそうになりながら笑っていた。僕は意味が解らず困惑する。少しだけ残ったアイスコーヒーをぐいっと飲み干すと、御手洗さんは唐突に、本当に唐突に言った。

「町沢さんよ」

 目線を僕に合せて良く通る少し低音の声で僕に言う。

「あたしとデートしねえか」

 言語が理解出来ない経験が最近多い。

 僕が眼を瞬かせながら「……はい?」とだけ返すと、その今にも泣きだしそうな顔のまま僕に顔を近づけて言った。

「話してえ事が出来ちまってな」

 御手洗さんは、何かを決意したように指を組み、強い光を放つ眼光で僕を包みながら言う。

「華子を任せられるかの、よ」

 意味が解らないことだらけで、何より事態が突然進み過ぎて波に乗り遅れた僕は溺れるしかない。でも一つだけ言える事は。

「やっと(・・・)待(・)っ(・)て(・)い(・)た(・)奴(・)に(・)、会(・)えた(・・)かも(・・)しれ(・・)ね(・)え(・)から(・・)な(・)」

 僕にとって大切な出来事になる、という予感だった。



 4



 人は最高潮に不機嫌になると、顔から表情が消えるらしい。

 華子さんはただ黙って僕を見ている。僕は目を逸らしつつ、ちゃぶ台の上にあるマトリョーシカのお土産を見ている。華子さんが買って来てくれたのだが、もう深くはツッコむまい。その時点で僕の負けな気がするし。

 ついと視線を逸らし、華子さんはその能面のような顔を僕では無く僕の後ろの方に向けた。「ええ、大丈夫ですよ、この人はまだ食べなくてもいいです」何がいるの!? 僕の後ろに一体何がいるの!!??

「それで?」華子さんは僕に再度視線を合わせ訊いた。

「御手洗さんとデート、するんですかぁ?」

 ようやく顔には表情が、笑顔が出て来ていたが、それが僕には人を喜んで殺す異常者の笑いに見えた。(無論会った事は無い)

「……まあ、一応、そうなりますか、ね……」僕が楽しむためではないけど。

「そうですかぁ。じゃあ――暫(しばら)く。私に。話し。かけないで。ください。ねぇ。――」 

 笑顔でぶつ切りの単語を連ねながらそう言うと、正座の姿勢から何とも美しく立ち上がり、そのまま華子さんは自室へと向かう。ばたん! と大きな音を立てられて襖が閉まる音がする。僕はため息をついてもう一度マトリョーシカ人形を見た。

 その微笑は何を表しているのか解らない。ただ、その顔が御手洗さんが僕に見せた笑顔似ている事に更に胸の中が黒々としたのだった。



 5



「秘密があんだよ」

 御手洗さんは僕にそう言って、もう無くなったグラスの底を見つめていた。

 今日はお客さんが来ない。というより、大事な話を聴くために一時時閉店する事にしたのだ。こんなに休んでばかりいるのも評判が悪くなるし、なにより収入の面でもマイナスなのであまりしたくないがしょうがない。

 華子さんの件で、自分があれこれ詮索するのはあまり気分がいい事じゃないし、なによりそれを他の人から教えてもらうというのにも罪悪感があったけど、御手洗さんの真剣な瞳と態度を見ればそんな事は言っていられない。

 それなりに口は堅い方だと思うし、言う必要もない。ただ、御手洗さんが何を考えているのかがよく解らない。いきなりそんな真剣になられたら僕も困る。

 ただ、その秘密というものが僕には話していいと判断されたものであるならば、やはりきちんと聴くべきだろう。それは信頼された証拠なのだろうし、その信頼から逃げる様な真似はしたくはなかった。

 でも、一つ疑問が残る。

「……何で、デートする必要があるんです?」

 もっともな疑問を口にする。だって、今ここでそれを話しても全く問題ないではないか。せっかく閉店しているというのに。

「ここじゃ、駄目なんだよ」

 御手洗さんはそう言ってカップを自分の口に持っていこうとしてもう中身が無い事に気付き、持っていたブランデーの蓋を開けようとした所で僕が新しいアイスコーヒーをグラスに注ぐ。驚いている御手洗さんに「おごりです」と言って微笑むと、彼女は「……悪いな」と言ってぐいっとカップを傾けた。とん、と置かれたグラスに僕が新たに注ぐと「…お前本当にお人好しな」と言って笑った。こんなにも辛そうにしている人に何もしなかったら喫茶店などやる意味が無いではないか。理想論ばかり語る気は無いがそのために僕はこの喫茶店を開いたのだし。……まあ、純粋に金は欲しいが。生活する上でも。

「華子から聴いてねえか? ここの霊的な空間がどうとかよ」

 そういえば華子さんも言っていた。この場所は霊的に安定しているから過ごしやすいとかなんとか。

「お前さん相当鈍いみたいだから解らねえみたいだけどよ、今この時点でも相当な数の霊とか妖怪やら神仙の類やら大勢住み着いてるぜ。まあ、どれもこれも質的にはいい奴らばかりだから、逆に客が来るかもしれねえけどよ。商売の神様も時々居るみてえだしな」

 それは素晴らしい。ぜひずっと居座ってもらいたいものである。

「本当に馬鹿なのか大物なのか解らん奴だな……ま、いい。そんな中で話なんかしてみろ。真面目な奴がいたら一発でアイツの耳に届いちまう。華子は何故かやたらと他の妖怪達に好かれてるからな。もし傷つけるような発言でもしたら目の色変えて襲ってくるぞ」

 その理由は一緒に過ごしてみて嫌という程理解出来たが、それで命まで狙われるのは恐ろしい。華子さんが逆にされたら僕でもそうするかもしれないと思ったので、尚更だ。

「と、いう訳でよ。なるべくならここじゃない所で話したいわけだ。華子の耳に入らない様な場所で、な」

 アイスコーヒーを今度はゆっくりと飲む御手洗さんに、僕は複雑な感情を持て余しながらそれを聴いた。僕としてはなるべく華子さんに誤解されるような事はしたくない。でも、見た所御手洗さんは本気で僕を信頼して大切な話をしたいと思っている。

 拒むのは楽だ。ここでお断りしますと言えばいい。でも、それをしてしまってはいけない気がした。ここは僕の、ちょっとしたターニングポイントではないのか、という予感とも直感ともつかない何かがあった。

 無意識に顎に手をやっていた。考える。どうするべきなのか。たかがデート、されどデート。頭の中で天秤がゆらゆら揺れながら、僕は俯(うつむ)く。答えは――



 6



「で、お前は何でそんなにげっそりしてんだ」

「いえ……好きな人から嫌われるのって、……辛いって思いましてね」

「人生そんなもんだ。上手くいかねえ方が何倍も多い」

「……いや、まぁ……そうです、かね……」

「お前の場合は完全にあたしのせいだけどな。ははは」

「よぉっく、解ってんじゃないですか!!」

 僕はデートをしてます。御手洗小豆さんと、結局。


 ――宿借公園。


 宿借町でも一、二を争う大きな公園であり、中央の大きな池には貸し出しのボートもある。特別な施設など無いものの、よく手入れされた草木や花々が季節ごとに色どりを加え、鳥たちも清らかな声で来る人を楽しませる。

 ジョギングコースではイヤホンをしながら軽快に走っていく人が通り、かと思えばゆっくりとした足並みで老夫婦が仲良さげに笑いながら歩く。犬を連れた家族連れが楽しげに喋っているのには、『平穏』がどれほど尊いものなのかを教えてくれる。

 その大きな池を左手に見ながら、僕と御手洗さんはゆっくり歩いていた。僕はやつれながら。御手洗さんは出会った時と同じようにシニカルな笑みを浮かべつつも、どこか緊張感を含んだ顔をして。美しい景色と心安らぐ公園を前にして思う。

 ――帰りてえ。いや、やっぱ帰りたくねえ華子さんキレてるし。滅茶苦茶言葉にならない程怒ってるし。……逃げ出したい。このまま、どこか遠くへ。

 よく晴れた木曜の朝。

 そんな外の景色とは裏腹に僕の心に暗黒が迫る。

 人当たりがいい人程怒らせたときの気まずさは半端じゃないとこんな時に知る。僕は今朝も一言も口を聞いてくれない華子さんの背中に声をかけれず、そのまま仕事に行く彼女をため息と共に見送った。徹底的に行われている掃除のため光沢を放つようになった廊下に、自分の顔をわずかに映しながら。

 そんな風に重い足取りで待ち合わせの公園前で御手洗さんと合流し、一緒にこうやって歩いている訳だが、こちらから訊きそびれていた事を聞いてみた。

「……思ったんですけど、わざわざデートするって言った意味あるんですか? 御手洗さんに『華子に事前に言っとけ』って言われたから伝えときましたけど、店内で言っちゃってんだから、住み着いてる妖怪とか神仙とかが伝えちゃうんじゃないですか? 勝手に」

 僕が非難混じりの口調でそう言うと、御手洗さんは笑って「解ってねえな、おめぇ」と返す。僕が理由を聞く前に彼女は口を開いて、

「神仙とかってのは基本優しいんだよ。それに思慮深い。けど、人間より人間くせえんだ。そんな奴らがわざわざあたしらが重い『華子の秘密を暴露する』ってあたしたちが言って告げ口しないと思うか? あいつらも教えた方がいいとお節介にも思うだろうさ。 かえって『デートだ』って言った方が向こう側としても黙ってるいい言い訳になるだろ? それに華子を不用意に傷つけるよりは怒らせた方がマシだよ。あいつの本当に悲しんだ顔は見たくねぇしさ」

 そう言って息を吐き横の池を眺める御手洗さん。その言葉でいかに彼女が華子さんを大事に思っているかが解った。が、僕がその理由を知る訳が無かった。これから知ることになるのかもしれないが。

 池に反射した陽光が光の粒となって僕達の網膜を焼く。目を細めた僕の横で小さく御手洗さんが呟く。

「……聞くか? あ(・)た(・)し(・)たち(・・)の(・)話(・)をよ」

 御手洗さんは僕の方を見て笑った。やっぱりだ。

 僕いつも見てますよ、その笑顔。

「意外にヘビーだけどな」

 華子さんとそっくりだから。本当に。



 7



「妖怪ってのはな、実は人間だったって事も多いんだ。私たち二人(・・)みたいにな」

 歩きながら僕にそう語り始める御手洗さん。僕は真剣になりながら彼女の横顔を見る。その顔には疲れや、その胸に秘めていたものをようやく出せるといった安心感があり、彼女が今まであまりこの事を人に言って来なかった事を物語っていた。

 華子さんが言っていた。『私は以前の記憶が無くて、別の人格になったようだ』と。それを考えればやはり何かしらの事情があるとは思っていた。

 僕は「華子さんが人間だった時の事を知っているんですか?」と尋ねた。

 御手洗さんは「ああ」とって再び池の水面を見た。僕の方は見ないようにして「知ってるよ」と風にかき消されそうな程小さく言った。

 僕は落ち着かない気分で隣を歩く。何やら僕は華子さんのとても大切な秘密を聞いてしまう事になるようだ。でもそれは果たしてフェアなのか? 華子さんから直接聞いたならともかく、全くの他人(でもないんだろうけど)から教えられるというのはやはりどうにも居心地が悪い。

 僕がそんな事を思いながら前から来る自転車を避けて池側に近づいた時、御手洗さんは静かに言った。

「あたしは、華子のために妖怪になったんだよ」

 その言葉の意味を理解しようとして、結局無駄だった。解るわけがないから。

 僕の当惑ぶりを少し面白がっているような御手洗さんは、ちょっと笑って僕を見た。

「意味解んねえよな。悪い、説明不足だった」ポケットに手を突っ込む御手洗さん。何やら難しい顔をして、続きを話そうとする。

 その時家族連れが僕達の前に現れ、小さな姉妹と両親が互いに手を繋ぎ合って笑っていた。その光景を見た御手洗さんの顔が一瞬、くしゃりと歪む。僕はそれを見て不思議に思ったが、その事を訊く前に早足で彼らの前を通り過ぎる。何かを堪えるようなその背中は今にも消えてしまいそうに小さくなったように感じた。僕も急ぎ気味で彼女の横に並び直す。僕の方が歩幅が広いのですぐに追いついたが、御手洗さんは顔に含まれた辛さが消えておらず、僕は内心胸を締め付けられながらもこう言った。

「話したくない時は、無理に話さなくてもいいですよ」そう言ってから、そういう問題ではないんだよな、と自分自身にツッコみをいれた。彼女が言う言わないを決めているのだから気休めもいい所だし、実際何の解決にもなっていない。でも、こんなに辛そうなら今はなさなくても僕は全然構わなかった。ゆっくりでいい事はゆっくりでいい。辛い事があったら思い切り泣いて喚いて逃げ出せばいい。そうする事で少しは楽になれる。気持ちがすとんと腹に落ちてくる。安定する。だから、焦ることはない。その人のペースに合わせて秘密や抱えたものは出していけばいい。何でもすぐ吐き出せば楽になれるという訳ではないから。その時はよくても、後から後悔の念が襲ってくる事だって日常茶飯事だ。

 その人が胸の裡をポロリと零してしまった、くらいの時がきっと一番いい。そのタイミングが僕達の一番楽なタイミングなのだから。だから。

「焦ることないんじゃないですか? 辛い時は、無理しなくていいですよ御手洗さん」

 そう言って、僕は御手洗さんに笑った。

 御手洗さんは僕の方を見て少し驚いた顔をしたが、だんだんと柔く優しい顔になっていく。鋭いながらも美しい顔立ちの彼女は、ぐっと息を吸い込んだと思ったら、ふうーっと大きく地面に向かって息を吐いた。僕が何をしているんだろうと思っていると、「名前でいい」と言って、僕はとっさに意味を図りかねた。

 そうすると、顔を上げた御手洗さんは僕に向かって吹っ切れた顔をしながら、こう言ったのだ。

「名前でいい、御手洗さんって呼びにくいだろ? 小豆でいいからよ。解ったか、町沢民男」

 幾分か元気を取り戻した声に安堵した僕も笑って返す。「僕も名前でいいですよ」

 小豆さんを見返すと、また笑いながら「言いにくいなあ、なんかあだ名とかなかったのかよ」と言って唇の端を上げる。

 僕は不本意ながら「学生時代は『ムーミン』と呼ばれていました」と言った。

 すると小豆さんはじわじわと顔に笑みを作っていき、次第に大きな声で笑い出した。

 憮然としていると、小豆さんは「悪ィ悪ィ、でもあまりにイメージにぴったりだったからよ、つい、な」とまだおかしそうにしていた彼女は顔をこちらに向けて言った。「じゃあそういう訳で」と言ってニヤリと笑い、僕はちょっと不機嫌になりながら、「よろしくお願いします、小豆さん」「よろしくな、ムーミン」と言葉を交わした。

 先ほどの姉妹の笑い声が、背中から伝って来ていた。



 8



「華子もあたしも、元は人間だ。そして、今では妖怪に分類される存在になってる。最初は『幽霊』だったんだが、次第に変質していって今の妖怪の類になった。私たちはそういう種類(・・)なんだよ」

 ポケットから煙草を取り出し口にくわえる小豆さん。百円ライターで火を点けると、そのまま美味しそうに紫煙をくゆらせた。僕はタバコは基本的に吸わないが、あの匂いはさほど嫌いではない。身体に悪いので止めてもらえれば一番いいのだけど、本人が吸いたいのならば別に構わないかな、とも思う。

 僕がその煙の行先を眺めるように空を見ていたら、小豆さんは聞き流してしまうくらいあっさりと、超重要事実を言った。


「あたしと華子は血のつながった実の姉妹だ」


 僕は人生史上最大に目を見開き小豆さんを見た。

 小豆さんはその反応を予想していたのか「ほら驚いただろ?」と少し楽しげに、そして少し寂しげに言った。

 慌てた僕は「いやでも待ってくださいよ!」と自分も珍しいと思いながら声を荒げた。周りの人々が少しこちらを注目し始めていることに気付いてボリュームを落として言い続ける。

「華子さんと話した時、明らかに彼女小豆さんの事を実の姉とは思ってないみたいでしたよ。何で伝えてないんです!? 言えば華子さんなら絶対喜ぶのに!!」

 そこでふうっと煙草の煙を吐くと、小豆さんはふっと笑って携帯灰皿に吸った吸殻を押し付けた。そして話し出す。

「俺が華子と一緒に死んだのは、アイツが十歳、あたしが十五の時だった。久しぶりに二人で町まで買い物しに行った帰り、公園の夜のトイレに行ったあたしたちを、頭のおかしいロリコンの変質者がいきなり襲ってきたんだ。あたしは腹をナイフで一突きされて殆ど声も出せない状態。華子の方は恐怖のあまり声が出せなかったし、すぐにガムテープで口を塞(ふさ)がれた。そして男は嫌がる華子をトイレに連れこんだ。……あとはまあ、言わなくても解るだろ? そういう事をちゃちゃっとして、最後にはあたしと同じく腹を刺して殺した。かろうじてまだ息があったあたしは部屋のドアを開けて華子を抱きしめた。夜の人気のないトイレだった。薄汚くて、不衛生で、しかもそこにはその男の匂いがした。あたしは誓った。華子を一人では死なせない、あたしが絶対に守ってやる、……ってな。

 そしてあたしもその後すぐ死んだ。気付いたら――幽霊になってたんだよな。場所を洗うとそこに関係している人を幸せにする、『小豆洗い』の妖怪として」

 どうやって人間から幽霊になって、そこから妖怪になるかのシステムは良く解らんねぇんだけどな。と、小豆さんは付け足した。

 僕はどう声をかければいいのか全く解らなかった。

 華子さんにそんな酷い事をする人間も許せなかったし、一緒に死んだ小豆さんも悲しすぎる。僕は抑えようのない怒りが身体中を渦巻いているのがはっきりと解った。煮えたぎるどろどろした熱の塊が、出口を探して暴れ回っている。そんな感じだった。

 黙りながらそれを聴いていたら、再び小豆さんが話し出す。僕は隣にいてその顔を見ながら続きを聴くことにした。

「そして、妖怪になったあたしは妖怪専門の派遣会社に入って、清掃部門についた。生きている――とは言わねえんだろうけど、生前の記憶もちゃんと残っていて、それで頑丈な身体と能力を貰った訳だから、文句を言ったらばちが当たるよな。でもあたしはずっと心残りがあった。妹はきちんと成仏できたんだろうか、あの酷い目にあった華子は、ちゃんとこの世の悔いを清算して消える事が出来たんだろうかってな……」

 二本目の煙草を取り出すと、風に消されないように手を覆いながら先端に火を点ける小豆さん。僕は黙って聴く事に専念した。それくらいしか出来る事は無かった。

 細く長く煙が高く高く昇っていく。僕はそれを見ながら、公園の先にあるベンチを見ていた。掃除婦の人が箒で掃いている。チリ取りが忙しなく地面に接して、擦れる音が聞こえてきそうなほど乱暴な使い方だった。

「そして、華子の事を知った」

 そう言って、遠くを見る様にして中空に視線を漂わせる。まるで今ここでその時が正に起きているとでもいうかのように。

「華子は別人になっていた。見た目も。そして中身も。身体は随分と成長していたし、性格も大人っぽくなっていた。でも人を無意識に惹き寄せる性格は変わってなかったし、なによりあの笑い顔は忘れる訳がねえ。私はスカウトしに行くという口実で会いに行った。そして――華子はあたしの事も、今までの事も、襲われた事も殺された事も全部、覚えてなかった」

 煙が思い出したように左右に揺れ、人の心を全く無視して舞い上がっていく。僕はその言葉を噛み締めるようにしてぐっと拳を握り、ボートに乗る恋人たちを目で追った。幸せそうなその二人に、何故か言いようのない怒りも感じながら。

「記憶は取り戻すことが出来るらしい」

 小豆さんはその瞳を少し滲ませ始めながらまた煙草の煙を吸い込んで吐き出す。フィルターギリギリまで息を吸い、長く吐き出す。吸殻を携帯灰皿に押し付けると、もういいのかポケットに仕舞った。

「うちにはサトリとか、催眠術系の妖怪も揃えてるからな。その気になれば一発で私のことも、昔の事も、何もかも思い出すだろうよ。でも、その時点で……例の事件の事も思い出すだろう。辛いだけの、本当に辛いだけの記憶もな。雷が鳴り響いていたあの夜の事を、また思い出すんだろうよ、――……くそったれだな、全く」

 ポケットに突っ込んだ手が、布越しにも細かく震えているのが解る。理不尽な事をされて、未だにその理不尽さと人知れず戦っている、心優しい姉は震えている。この世の理不尽さに怒りを押し殺して生きている。

「あいつが、男嫌いのアイツが男の家に転がり込んだって聞いた時は本当に飛び上がって驚いたぜ。深い所で身体が覚えてる恐怖を、少しずつ克服してきてるって思えた。……だから、どんな奴なのか、一目見て確かめようと思ったんだよ。本当に、華子を大事にしてやれるような奴なのかってな」

 にやっと笑うその顔は今までとは少し違う、ちょっと悪戯っぽい、――時々華子さんが見せるような――顔をして、僕を見た。

「結果は……どうだったんでしょうか、小豆さんの僕の、評価(・・)は……」

 空を見て、遠くを見て、そして掃除婦さんをちらりと見て、最後に僕を見て、言った。

「馬鹿な妹だけど、よろしく頼むぜ、ムーミン」

 ぽろりと、小豆さんの瞳から何かが零れる。不覚にも、僕の眼からも同じものが流れた気がした。

 男の物より、女性の方が、何倍も美しく思える、その一雫。

 自(・)分(・)が(・)姉(・)と(・)名(・)乗(・)り(・)出(・)る(・)事(・)さ(・)え(・)我(・)慢(・)し(・)、辛(・)い(・)記(・)憶(・)か(・)ら(・)大(・)切(・)な(・)妹(・)を(・)守(・)り(・)抜(・)い(・)て(・)い(・)る(・)、たった一人の姉が溢(こぼ)した涙。

 空に鳥が鳴いている。空気は澄んで、輝いている。

 世界はそんな平穏を、愛している。



 9



 帰宅すると、華子さんが居間で座って待っていた。美しすぎる姿勢。ぴんと立った背中、丁寧に折りたたまれた脚。目線はテレビでも僕でもなく、何もない壁を向いている。正直怖い。何の反応も示さない彼女が心底怖い。

 とりあえず、大きな(自分で言うのもなんだが本当なのだから困るが)僕の方がその圧倒的オーラを纏った彼女の背中を見るようにして座る。もちろん正座で。慣れていない僕がどこまで耐えられるかは解らないけど。

 そしてゆっくりと、華子さんは膝で回転する様にこちらへと身体ごと振り返り、言った。

「楽しんできましたかぁ?」

 一瞬、彼女の後ろに大きな鎌を持った骸骨が見えた気がした。僕は疲れているらしい。幻覚だ。僕は目を擦ってもう一度華子さんを見る。今度は閻魔さまが見える。あれえ、僕遂におかしくなっちゃたのかな。反射的にか恐怖かは解らないけど、僕はとりあえず深々と頭を下げた。

「ごめんなさい」

 と言って、そのまま畳の匂いを嗅ぐようにして床に顔を近づける。華子さんはケタケタ笑って(ニコニコではない)僕に近づいてくる。僕はずりずりと尻で後退を開始する。華子さんは壊れたように笑いながら僕に近づく。僕は恐怖でまた下がる。来る。下がる。来る、下がる。来る――の所で背中が壁にぶつかった。

 華子さんはそこで立ち上がり、いつもと逆で彼女の方が目線が上になるので必然的に僕を見下ろす形になった。そこで、言う。

「いいですねえ、楽しそうですねえ、何ですか、愛のチューでもしちゃったんですかぁ? それとも池のボートで二人で仲良く漕いじゃったりしたんですかぁ? 散歩しながらとても素面では言えない様な事でも語っちゃたんですかぁ色で言うなら真ピンクみたいな事しちゃったんですかぁ?」

「何言っても信じて貰えないだろうけど、僕は今回やましい事は何一つしてません」

 そう言うと、身体中から溢れんばかりの殺気(なのだろうか)を放出して、華子さんは物凄く冷たい目で見下ろした。「へえ、何にもしてないんですか」ここまで信じてないという事を匂わせながら喋る人に初めて会った。

「そんな事を言うとは思いもしませんでしたぁ、残念です。がっかりです。本当です」

 肩を怒らせながら、背を向けて部屋のテレビを点ける華子さん。でも見ているわけでは無く、ただ単純に話したくないのと気詰まりだからだろう。事実、目線は殆ど動いておらず、ただ目を向けているだけで意識はここには無いのが丸わかりだった。

 僕は今日買ったものを紙袋から出して、華子さんの隣に座った。露骨に間を開けようとする華子さんに、それを渡す。

 華子さんはいぶかしがりながらもその僕の持っていた箱を手に取った。小さな、でも洒落たロゴマークの箱。きょとんとしながら僕を見て来た華子さんに、どうぞ、と手でジェスチャーして開けるように促す。

 真剣な顔をして開ける華子さんの顔が、驚きと感嘆で声を上げる。

「……うわぁあー……可愛い、ですぅ……」

 それは、リンゴ型の銀色のネックレスだった。

 僕は照れくささで真っ赤になりながら、言う。

「いや、初めて売上出たから、そのお金でちょっとね……あんまり重いもの渡されても困ると思ったから、上司で仲もいい小豆さんに頼んで、ちょっと買い物にも付き合ってもらったんだよ。華子さんリンゴ好きだから、これがいいと思って」

 しどろもどろとはこういう時にある言葉な事を身体で表現して、僕はつっかえながら話した。

 これは小豆さんの提案だったのだが、『誤魔化すにはやっぱプレゼントだろ、王道として』との言葉を信じ、実行してみたのである。

 まあ、売上が出たので、何か買ってあげたいと思ったのも事実で、感触を見る限り喜んでもらえてるようなので一安心した。

 途端にはしゃいで何度も蛍光灯にその銀色をかざして目を細める華子さんに、僕は言いようのない苦しさに襲われた。こんな愛しい人が抱える傷だらけの過去を、僕なんかが癒せるなんて夢にも思わない。でも、少しだけ、少しだけ欲を言わせてもらえれば、僕と一緒にいる時は、笑顔でいてほしい。辛い思い出を掘り起こさない様に、僕がまた頑丈なシャベルで土をかけたい。見えてしまったその思い出が、二度と顔を出さないように。

 華子さんは嬉々としてそのペンダントを付けようと後ろに手を伸ばすが、中々上手く着けれない様だった。僕はそっと近づき、その手を握って、「僕がやるよ」と言ってチェーンを繋げる。華子さんのうなじが、真っ赤に染まっていた。僕の顔もきっと同じになっているはずだ。

「ありがとうございます、ねぇ……」

 はにかみながらこちらを向いた華子さんが、僕にお礼を言った。思わず泣き出してしまいそうになる心をぎゅっと握って、笑う。

「良く似合ってるよ」

 華子さんは笑って、「鏡、見てきますねぇ」と言って洗面台の前に向かった。

 僕は天井の蛍光灯を見た。滲(にじ)んだ何かをごまかすために。零(こぼ)れない理由の無い切なさに翻弄(ほんろう)されないように。

 華子さんが襖(ふすま)の隙間から見える洗面代の前で、くるくる回ってペンダントの位置を確認している。僕は笑う。そうやってずっと笑っていてほしい。愚か者の、ささやかな願いである。

 ごろんと仰向けに寝っ転がる。瞳を閉じる。

 今日は何だか疲れたなぁ、そう思いながら、ふと呟く。あれ?

 なんで華子さん、僕と小豆さんが公(・)園(・)で(・)デ(・)ー(・)ト(・)し(・)た(・)こ(・)と(・)知(・)っ(・)て(・)る(・)ん(・)だ(・)ろ(・)う(・)、言(・)っ(・)て(・)な(・)い(・)の(・)に(・)。

 戻ってきた華子さんにちょっと訊こうかと思ったのだが、何故かやめた方がいい気がしたので思考を止め、また目を閉じたのだった。


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