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第二話  ラブコメ的手続き(ある意味王道的な)

 



 1



 さてどのあたりから話すべきだろうか。僕は慣れない思考活動の結果、これから語ろうというものをようやく見つける。

 それは男一人の空間に女性が入ることでいかに場が華やかになるか、いかに男臭いだけの部屋が砂漠の中のオアシスのように潤うのかという事である。

 その時間は、心の肌がすべすべに成るほど充実していた。それは間違いない。

 開店初日。華子さんが去ってからすぐ。

 あれが夢で無い事はその飲みかけ食べかけのコーヒーやお菓子によって証明されていたため、信じがたくとも信じるしかなかった。僕自身がわざわざ自分のためにお茶菓子用のクッキーと自分で淹れたコーヒーを飲むという行為をしたのでなければ、まず間違いのない事だろう。

 狐に化かされたという感覚が一番近かったが、別に悪さをされたわけでもない。むしろトイレを輝くほどに磨いてくれたのだから逆にラッキーだったと思うべきだ。―多分。

 でも、未だに華子さんのあの宣言が社交辞令か僕をからかったのではないかという気持ちが強く残っていた。そりゃそうだろう、妖怪さんとはいえ、相手はあんなに可愛らしい女性なのだから。こんなむさくてしかも頭が湧いてるとしか思えない言動を繰り返した僕の所に来るなんて、それこそ冗談にしか思えなかった。

 だから、あの話はきっと冗談で、直ぐに喫茶店としての新しい、けれど常識に沿った人生がまた始まるのだと思っていた。思っていたのである、が。

 現実というものは時に小説より奇なる事があるようで、それは僕の人生の中でもかなりの驚きと放心をプレゼントしてくるものだった。

 華子さんが使ったコーヒーカップを片付け、閉店していたのを止めて再度OPENし、入ってきたお客さんと短い会話をしたり、自慢のブレンド(豆から選んだもの)が意外と良い評価をしてもらって機嫌よくしたり、話好きな愛嬌のある顔立ちの女子高生さんの話を聴いたり、最初にしては有意義なスタートを切れたんじゃないかと思った。まだ改善する所は多々あるが、立地条件も含め中々いい買い物をしたのは華子さんの言う通りかもしれなかった。来てくれた方の多くが「落ち着いていい雰囲気ですね」と評してくれたのは嬉しかったし、僕のずっと目指していた喫茶店に少し近づけたかな、という感触も得る事が出来た。

 そんなこんなしてる内に閉店の時間となった。今日だけで何人か常連になってくれそうな人達に会えたし、滑り出しは上々、ここからまた僕の人生が始まるのかと思うと胸が熱くなった。いい店にしていきたい。そんな情熱が身を包んでいた。高校の時に文化祭でやった喫茶店の時のような高揚感。自分の淹れたコーヒーを美味しいと言ってもらえる幸せ。堪らなく嬉しいものだ。そんな思い出の後押しも受け、僕は食器を片づけ、明日の準備をし、そして何だかんだ言って疲れていたらしい身体を、敷布団を畳の自室に広げて、寝っ転がり目を閉じた。大きく息を吐き、身体全体をリラックスさせる。気持ちいい。一時期呼吸法にハマった時があってそれが思わぬところで役に立っている。神経の高ぶりも真向法やストレッチは効用があるとやってみて実感する。

 まだ荷物が全部片付いて無い室内。床には雑誌や喫茶店経営の本を図書館から借りて読んでいるので散乱していた。今は『差別化』の時代だというけれど、具体的にはどういう『売り』でいけばいいのか正直悩む。

 布団の上で大の字になって天井を見つめた。これから上手くやっていけるだろうか。先のビジョンが曖昧で、あんなにシュミレーションした対応や反応もやはり『実践』は違う訳で。中々難しいと言うのが正直な本音だ。

 一番の『売り』と言えばやはりコーヒーなのだろうが、僕の実力ではまだまだ通を唸らせる様な一杯は望めない。修行あるのみだな、とそこら辺はあまり深く考えずすんなり腹に落とす。

 昔から、決めてしまった事はやるしかない、という意識がとても強かった。よく言えば『芯がある』、だろうけど、悪く言えば『考えなし』というだけの事。それが凶と出ない事を祈るしかない。ま、なんとかなるだろう。その言葉が僕の一番の根っこなのだと最近感じる。何とかならなかったらまたその時考えればいい。お気楽なのか、ただの馬鹿なのか。おそらく後者だがそれも僕のあり方だな、と天井に出来たシミをみて思った。これまでも何とかなった。その根拠のない自信はある意味凄く強い核になっている。人間、意外とタフである。その点は疑いようのない事実だ。

 天井に見飽きると、少し部屋の整理でもしようかと起き上がり、まだ梱包の解かれていない段ボールを二、三個一気に開けてみる。どうせ大したものは入っていない。せいぜい生活用品と服の着替え、そして読みかけの文庫本が二十冊ほどだ。読書は趣味ほどではないがよく読む方だと思う。喫茶店のイメージにも合うし、読んでいると別の世界が広がっていくのも魅力の一つだ。この世の中には様々な人生があり、数多くの物語が生まれていく。喫茶店を経営していく上で欠かせない『聞く』技術というものも読書によって鍛えられる。本自体が人の話を聴く姿勢が前提となっているからだ。

 まあそういった趣味の話はどうでもいい、ただその本というのは魔力がある。ついつい気になった所でやめていた小説などがあると、勝手にいつの間にかページを開いて気付けば三時間経っちゃってましたなんてのはザラである。

 そして今回僕はそれを乗り越えるべく文庫本を出した。片づけた。

 そして、読んだ。そりゃもうがっつりと。どっさりと。

 時間が矢の様に飛んでいき、気付けば一時間が経っていた。本の魔力恐るべし。

 僕はそこで顔を上げる。寝っ転がって読んでいたら、肘が痛くなった。布団に再び仰向けになり、うーんと伸びをする。しまったしまった本当に読んでしまっていた。読書はこれだから困る。僕は栞を挟み、出来た簡易性のブックラックに本を並べ、うん、自分でもびっくりするくらいの雑食だと分かる。

 そんな本棚をしばし眺めた後、僕はシャワーを浴びようと廊下に出た。

 木造建築のこの建物は所々で耐震構造が脆く、地震が起きたら一発で崩れ落ちる事が想像できた。そんなうぐいす張りの廊下を歩き、先程の―華子さんが物凄まじく綺麗にした便器の左横。風呂場へと向かう。

 今日はまだ涼しい日だと思うけど、それでもまだ熱さは残っている。

 少しべとついた身体を洗い流すようにと、僕は途中で上着を脱いで脱衣所に入った。特に何も考えずこれからの事について考えながら、半無意識で服を脱ぎ、脱衣籠の中に入れる。

 ふうーっと大きなため息をついて、風呂場のドアを開ける。

 産まれたままの精巧な人形が、驚いた眼をしながらこちらに振り向いていた。

 僕はふうーっと大きなため息をつき、ぱたむとドアを閉じる。

 悲鳴が聞こえてきた。間違えようがないが間違いということにしておきたかった。

 僕は疲れている。

 可愛い悲鳴だろうと水を弾くような白くて若々しい肌だろうと化粧っ気が無いのに妙に色っぽかったりと、ラブコメにありがちな展開だけどなってみるとただ心臓に悪いだけで嬉しさはほとんど込み上げてこないのにはがっかりだった。嘘だ。光景を脳内メモリーで完全記憶した。要らないとこにばかり脳を使ってるから、普段の行いに〝キレ〟が無いんだろうなと考えながら。

 どうやって謝れば穏便にすむかと頭を抱える。

 良く考えると僕は全然悪く無いんだけど、女性の裸を見た罪はグローバルに共通して、覗いた方が悪い。これが男と女の確定事項だ。

 しかしその前に、言い訳一つ出来るのなら、こう言いたい。

 男がいる家で、オンナノコが堂々とシャワーを浴びるのはどうなんだ、と。

 もちろん、僕に言う度胸などありはしないのだが。



 2



 僕は両手を床に着け、頭も床に着け、背中を丸め立っている彼女に言った。

「申し訳ありませんでした」

 華子さんはふうとため息をつきながら僕を見下ろした。そして僕の方にしゃがみこんできて、

「乙女の入浴シーンに憧れるのは解りますけどぉ、ちょっと気が早いんじゃないですかねえ。そう思いませんかあ町沢さん?」

「返す言葉もございません」

「無ければ身体で表してほしいですねぇ、そんな下らない土下座なんてせずにぃ」

「では、どうすれば……」

 僕が顔を上げ既に涙声で尋ねると、華子さんはにやりと笑って、

「町沢さんの〝手料理〟でぇ、手を打ちましょうー」

 僕に拒否権は無いらしい。素直にコクリと土下座のまま頭を動かした。

「美味しいの、待ってますよぉー」

 僕は正直それどころではなかった。

 何故、同じシャンプーを使ったはずなのに、こんなに室内がいい香りで満たされているんだ。ここは天国じゃないのか。僕はもう既にこの世にはおらず、幽霊になって気付いてないだけなんじゃないのか。『シックス・センス』みたいに。

 それに追い打ちをかけるように、華子さんのパジャマ姿が可愛すぎる。ピンク色を基調とした柔らかそうな生地のパジャマは、湯上り独特の色っぽさが加味されるだけでなく、普段雪のように白い肌がほんのり桜色になり、水を多く含んだ毛量の多い艶やかな黒髪は、しっとりとしてまたなんだか扇情的である。

 その色気を振りまく女性が同じ部屋にいて見下ろしているというシチュエーションは、中々くるものがあった。僕にロリコン属性とM属性が無いとしても。

 ここは天国、それもたった一人の人が作り上げた楽園だ。ああニルヴァーナー!

「じゃあお願いしますねぇ、夕飯が楽しみですぅ」

 華子さんが楽しそうに言った。

 僕は根本のところを尋ね逃していたが、もうどうでもよかった。別にもう取り出さされるような事でも無いんだろうし。

 ホントに住むんですね、華子さん。ここに。

 聞くだけ野暮だろう。だって。

「何作ってくれるんですかあ、町沢さぁんー」

 こんなに楽しそうにしてくれてるんだから。

「ありあわせの材料で巻き寿司でも作りますか」

「お寿司大好きですぅ!! 楽しみですねぇ!!」

 胸が熱く、こんなに気持ちいいのだから。寿司でも何でも作ります。

 誰かと食べるご飯、好きな人と食べるご飯は本当に美味しい。

 僕は土下座を止め、台所へと向かう。

 誰かに喜んでもらいたい料理は、いつ作ってもいいものだと、再認識した。



 3



「ちゃぶ台しかないんです、申し訳ないですね」

 僕は作り終えた巻きずしの材料と適度に酢を加えたご飯を用意し、それをちゃぶ台に置き言った。

 華子さんは驚きと喜びを半々にしその光る酢飯や中に挟むキュウリや納豆、かんぴょうは流石に無かったので梅干しの種を取って潰し、ペースト状にした物を見ていた。

 後は魚肉ソーセージや卵焼きのあまりを適度に細長くカットしたものも足し、ちゃぶ台に置いた。

 華子さんはきらきらした目をしてそれらをじっと眺めた。僕はそんな華子さんが喜ぶ顔が見れただけでも充分お腹いっぱいだったのだが、やはり食べる事に食事は意味があるので、二人で「いただきます」と手を合わせて用意したカット焼き海苔に酢飯を乗せ、納豆をかけ、醤油で食べる。美味しい。あまり手間暇かけなくても美味しいものは意外と作れる。向かいでほくほく顔で卵を入れて食べている華子さんも嬉しそうだった。作ったかいがあったというものである。

 暫く食べる事に集中した。何故なら腹が減っているから。

 僕は食べている間無言になる癖がある。理由は良く解らないが、多分自分の獲物は自分のものだという意識が働くのではないかと勝手に分析している。だったらなんなんだという感じだが、もちろん特に何もない。

 しかし今日に限っては、言いたいことが多すぎた。

 訊きたい事がありすぎて、どこから訊けばいいのか解らないくらいである。

 華子さんは一体どうして僕の家に来ようと思ったのか、どうしていきなり現れたのか、どうやったらそんなに可愛くなれるのか、などなどなど……

 僕が食べる手を止め、彼女をじっと見ると、華子さんは「な、何ですかぁ、私の顔に何かついてますぅ? ……そういえばこのやりとり、前もしましたねぇははは」と言ったので、僕はとりあえず梅ペーストをスプーンで掬う手を止め、まず一番訊きたかった事を聞いてみた。

「ええと……綺麗さんは本当に何で僕の家なんかに来たんですか? 明らかに危ないでしょう独身男の家に住むなんて……あっさり決めちゃっていいんですか? もう少し考えてからでもいいんじゃ……」

 本気で心配して言ってみたのだが、華子さんはそう受け取らなかったらしく、

「……なんですかぁ、私がいたら嫌ですかぁ、それならそうと言ってくれればいいのにぃ。いいです、すぐ出て行きますから。お世話になりましたぁ」

「ちょちょちょちょ、ちょっと待ってください!! 僕は全然嫌じゃないですっ、でも綺麗さんが僕みたいな冴えない奴の所に来ていいのかなって思ったんです。いて欲しくない訳ないじゃないですか。こんな美人次に会えるのなんて来世くらいでしかなさそうって何言ってんだ僕はああああああああああッッッ!!!」

「……本心が出過ぎるって言うのも考え物ですねえ。……はは」

 ごめんなさい、ごめんなさい、馬鹿な僕でごめんなさい! ホントに本当アイムソーリー!!

「じゃあ文句は無いんですねぇ、良かったぁ。内心かなりドキドキだったので、ホッとしましたよぉ……」

「駄目な訳ないじゃないですか!! 僕がこんなにその事を強調しているのは僕がそんな魅力ある美形でもなんでもなくて、可愛い女性に突然一緒に住める事になったので動転してて、そして僕の立場になった大抵の男はそのラッキーの理由を知りたがるからです絶対にね!! この世で都合のいい話ほど危ないものは無いんですから!!」

「凄い説得力のあるセリフですねえ……何か嫌な事でもあったんですかぁ?」

「綺麗なバラには棘があるんです」

「具体的な事何一つ言われていないのに、何故か中身が想像出来てしまうのは何ででしょうねぇ……」 

 僕は猫背ぎみな背中を更に丸くし、当時の消したい思い出を鮮明に思い出した。

 結婚詐欺にあいそうになるなんて、これから先死んでも起こらないだろうな……。

 僕が自分の過去との対話をしていると、華子さんは、

「別に大きな理由はありませんよぉ? ただ、あなた大人しそうですし、節度もありそうだったのでいいかなと思っただけですぅ。私、これでも人を見る目はあるつもりなのでぇ」

 そう言って柔らかく微笑んだ。僕はその顔を見て体温急上昇。息が上手く吸えなくなり、一瞬本当に苦しくなった。まずい、何がまずいかって何故かは知らないけど彼女に妙な信頼感を与えてしまっている事だ。僕だってこんな容姿していても男である。好みのタイプの女性が傍にいるのに、平然としていられるほど恋愛経験値は高くない。

 華子さんは食べる手を再開し、今度は梅ペーストが食べてみたくなったらしく、「それもらってもいいですかぁ」と言ってちゃぶ台の上から手を伸ばしてくる。  

 慌てて僕は持っていたスプーンを彼女に渡し、「どうぞ」と言って梅ペーストの皿も渡してた。その時軽く手が触れてしまってかなり焦った。そんな事を全く気にしていない華子さんが恨めしくなったが、それこそ自意識過剰というやつだろう。

 梅ペーストを挟み、美味しそうに食べる華子さんを見ながら考える。彼女が一体僕のどこを信用してここに来たのかという事を。そしてこの展開は何てコメディ要素を含んでいるのだろうかという事を。

 華子さんが口をすぼめて「すっぱーいいいいい!!」と震えつつ食べる手を止めずにいるのを見て思った。

 これ、ドッキリじゃね?

 幸いなことに、部屋に監視カメラは設置されていないようだった。



 4



「華子さん、これは由々しき事態ですよ」

「つくづく真面目な顔が似合わないですねぇ町沢さんって」

 さらりと毒を吐かれたが、そんなことを言っている場合では無い。どうしたらいいのか、教えて欲しい。いや、教えてくれなくてもいい。助言が貰えさえすればそれでいい。


「布団が、無いんですよ」


 僕は重々しく口を開く。

 それが由々しき問題以外の何であろうか。僕は腕を組んで考える。横ではナイトキャップをかぶった華子さんが眠そうにこちらを見ていた。どことなく呆れが混じったように見えるのは気のせいだろう。いや気のせいにしておきたい。すみません、僕もここ引っ越したばかりなんで。予備なんてある訳が無いというかなんというかええとごめんなさい。

 僕は考えを固め、大きく頷いた。

「一緒に寝ましょ―」

「今なら冗談ですみますよー」

「冗談でーす」

 笑ってごまかした。本気二十、冗談七十、願望十%である。願望八十%かもしれない。そこは自分では気づかない振りをする。

 ま、所詮(しょせん)答えなど出ている訳で。

「僕、適当に転がって寝るんで。ちょっと汗臭いかもしれないですけど、今日は我慢して僕の使ってもらえますか。明日それなりの布団見繕(みつくろ)ってくるんで。すいません」

 頭を掻(か)きながら言う。

 華子さんはぱちくりと目を瞬かせ、

「そんな、悪いですぅ。むしろこっちが押しかけてきたのに、布団まで取ってしまったら立つ瀬がありませんよぉ。どうぞ構わず使って下さって結構ですぅ。私妖怪ですよぉ? 一日くらい床で寝ても平気ですぅ」

 華子さんはナイトキャップをぶんぶん左右に振りながら答えた。

 僕は一度頭を振って返す。「駄目です」びしりと指を指して言った。

「女の人に床で寝させたなんて言ったら、僕は明日から男でいられません」

 華子さんはぽけんとした顔をして暫く僕の顔を見ていたと思ったら、ぷっと笑って、

「やっぱり、真面目な顔が似合わないですねえ」

 とおかしそうに言った。

 あまりに楽しそうなのでこちらも釣られて笑った。可愛い。本当に可愛い人だなこの人。僕があまりににこにこしていたので不思議に思ったのか華子さんはこちらを見て、

「……目、見えてますぅ?」

 と言った。

 見えてます。細目なんです。失礼です。

 ちょっとだけ不機嫌になった僕だった。



 5



「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいますねえ」

 そう言って、華子さんは僕の部屋の隣の、空いている部屋に入って行った。

 格安でしかも部屋数も多い。しかも元々店を経営していたのか商店街の中にあっても違和感のないこの家は、借家だとしてもラッキーな物件だったと思う。何だか借りる時に担当者の人がしきりにお祓いを勧めていたのが気になったけど、あまり大した事は無いと思ってすぐに忘れた。

 それでこんな事態になったのだと言われればそれまでだが。

 それはともかく、ここは部屋が和室が四つ、トイレは店に一つと中に一つ、台所と風呂がつき、どれも古めかしいものだがまだまだ現役で使える。僕がそんなに流行に敏い方では無いので特に気になることは無いし、テレビがあれば大抵の情報は事足りる。ネットがなければ生きていけないと豪語する友人もいたけど、あまり共感は出来なかった。なにせこの家には未だにダイヤル式の黒電話がある。その友人にしてみたらタイムスリップしたと勘違いしてもおかしくない状況だろう。ま、そこが僕としては気に入ってるところだが。

 華子さんが今入って行った部屋は僕が物置として使おうと思っていた部屋であり、中にはまだ僕の手つかずの荷物が散乱していたが、華子さんがチリ取りと箒を持ったらあら不思議、人が一人生活していくには充分なスペースが生まれていましたとさ。流石掃除のプロ。間近で見ていた僕が唸る程だから相当な腕前である。この調子なら家なんて二、三時間あれば余裕で片付くのではないだろうか、真面目に思った。

 新しく彼女の部屋になろうとしているその部屋に僕の布団を持っていき、一応ファブリーズをした後少し乾かした。僕も人間であるから、匂いや汚れが付いているだろうし特に女性に使うのだから多少神経質気味にかけた。(掃除婦の華子さんらしくなく「別に気にしませんけどねえ」と言っていたが)

 彼女の荷物はトイレの脇に置いてあって、赤いトランクケースに風呂敷と中々異色な組み合わせだった。女性の引っ越しにしてはあまりに少ない荷物の量に(いや男でも旅行ではもう少し持っていくだろうというくらい)驚き、しかも引っ越しを一日で終えてしまった事にちょっとしたホラー気分で尋ねると、「引っ越しは前からする予定でしたし、荷物はトイレ(・・・)から(・・)送(・)って(・・)くる(・・)ので(・・)心配いりませんよー」との返事が返ってきた。

 トイレからどうやって送ってくるのか、どうやってそれを行っているのか、これからそれらが届くのか、訊きたいことは山積みだったが、あまり考えない方が健康のために良さそうだったので思考を放棄する。ちなみに元の華子さんのベットは備え付けだったらしいので持って来れなかったとのこと。

 彼女が部屋に消えた後、僕も色々ありすぎて少し疲れているようだったので今日は早めに休むことにした。気付けば外では風の音が強くなり、雨がガラス窓を激しく叩き始ていた。今日店を開ける前に見た天気予報が頭によぎる。

「――日中は良く晴れますが、夜には激しい雷雨となるでしょう――」

 僕は外を見た。

 激しい音が暗くなった廊下を、満たしている。



 6



 眠れぬ夜というのは残酷である。

 疲れているのにそれが抜けない時の苛立ちほど神経を摩耗させるものはない。

 一体どうしたというのだろう。たかが隣で綺麗で茶目っ気がありそれでいてどこか子どもっぽい女性がすやすやと無防備に寝ているだけで、こんなにも落ち着かず先程から寝返りを三十回も繰り返しているのか。僕の部屋と今華子さんが使っている部屋を隔てているのは壁一つだけ。そこに耳を押し当てれば彼女の寝息が聞こえてくるだろう。僕はじっと壁を見て、『プライバシー』と『変態』と『何故かされている信頼の崩壊』が頭に巡り、またごろんとなって転がった。買っていた『ジャンプ』があったのでそれを枕にして、テキトーにあった毛布を引っ張り出してきて目元まで引っ張る。睡魔さまはまだ来られない。ちゃんと仕事をしなさいよとツッコみたくなる。

 外では先程よりも更に激しく風雨が吹き荒れ、時折遠くで雷が落ちる音がした。だんだんと音が大きくなってきているので、もしかしたら雲が近づいているのかもしれない。

 しかし、こういう時に降る雨というのはささくれたった心を落ち着かせてくれる。音が風に乗りガラス板を叩く音と、それに微かに聴こえる雷鳴。こんな時は妙に哲学的な事も考えてしまう。僕が今こうしてここに居る事と、新しい生活が始まった事。いきなり同居人が、しかもとても可愛い女性が一つ屋根の下で暮らすというハプニング以外の何物でもない事が起きた事。そしてその人が妖怪であり、有名な『トイレの花子』さんだということ。しかもちゃんと外見は大人になって出るとこは出てるし色っぽいし何より性格がストライクだし。どうしても首を傾げたくなる。普通、いや華子さんは普通じゃないから前提自体おかしいかもしれないけど、どうしてボクなんかの所へ来ようと思ったのか、解らない。

 もう一度隣の部屋を壁越しに見つめた。

 解らないけど、信頼を裏切ることだけはすまいと決めた。

 もう一度目を閉じ深呼吸し、手足をリラックスさせる。自己催眠のようなもので、まず手足が重いと感じるようにしてゆっくりと息をした。じわじわと身体が重くなってくる、頭で唱えて徐々に身体を沈ませる。身体が程よく重くなったら全身で、自分の呼吸に集中する。だんだんと意識が溶けていき、瞼が上がりにくくなっていく。

 気付いたころには僕は夢の一部に足を踏み入れていた。

 眠さは一度入ってしまうと中々抜け出せない。困ったもので、今日は特に色々な事が起こりすぎた。何かと忙しない現代社会だけれども、僕のような人間にも平等に疲労は分けられるらしい。

 まあ、いい。

 今日は寝てしまおう。明日の事は明日考えよう。どうせ明日になればまた日は昇るのだから。疲れた身体の最高のご褒美は質の良い睡眠。これに尽きる。

 夢を見た。

 誰かの泣く姿が見える。

 僕はその人の肩を抱いて背中を撫でる。嬉しそうに鼻をすするその人は、僕に何かを言った。

 何といったのか、全く覚えていなかったが。

 夢での出会いを楽しんでいると、ふと、僕の部屋の襖が開く音がした。

 半分眠りの中で誰かと話していた僕は、朦朧とした意識の中でその人物を見る。

 あれ、この家って僕以外の人間っていたっけ? おかしいなあ。

 テレビで見た『入眠時幻覚』という言葉が頭に浮かんだ。誰でも寝る前には幻覚を見る事があるらしい。僕は専門家でも何でも無いから解らないけど、もしかしたら幽霊の類もそういった幻覚の場合が多いのかもしれない。いや待てよ。僕は何か重大な真実を今日知ったんじゃなかったか。今までの人生でこれまでに無いショックを受けたんじゃなかったか。

 そう思いつつも、瞼は重く、今日の肉体的というよりも精神的にくるものがあった疲れのせいで中々その存在を視認する事が出来ない。

 一体何だと思っていたら、雷の大きな音が室内にこだました。

「う、――きゃああああうぅッッッ!!」

 何だか凄まじく高く、可愛らしい女性の悲鳴が聞こえた気がしたが、まだまだ僕の身体は睡眠を貪欲に欲していた。反応が出来ない。

 そんな中、微かに聴こえてくる声が、頭に自動で入ってきた。

「うう……今日は晴れるって言ってたのにぃ……いきなり雷は反則ですよぅ……嫌だもう、怖いよぉ、ううう……」

 うとうととした眠りの中、僕はようやく現実世界に引き戻される。

 うっすらと瞳を開けると、そこにはナイトキャップを揺らしながらこちらを見つめている女性の姿が。身体は小刻みに震え、弱弱しく、まるでどこかの小動物みたいだなと思っていると、彼女は言った。


「すいません……ちょっとだけ一緒に寝ても、いいですかぁ……」


 はい、何言われたのか全く解りませんでした。

 僕の思考回路が一瞬にして焼き尽くされる。

 半開きだった目を完全に開けて、飛び起きた。

 勢いよく上半身を起き上がらせた後、信じられないものを見るかのようにその声の持ち主に尋ねる。

「……綺麗さん、一体何してるんですか僕の部屋で。しかもこんな時間に」

 驚きのあまりつい追及するように話してしまったのは悪いと思ったが、これは非常事態だ。何の? 僕の倫理観の。

 華子さんは僕を見つめるように膝を折り、半立ちの姿勢で僕と目を合わせた。吸い込まれそうな澄んだ二つの瞳が僕を捉えている。おずおずと彼女はにじり寄って来て、ゆっくり、しかし震える声で何か言おうとした。

 その時雷鳴が轟き、開いていた襖の外、廊下の窓ガラスから目を焼くような閃光が迸った。直後に物凄い振動も襲ったので、直ぐ近くに落ちた事が分かる。しかし、そんな風に冷静に考えていた時間はそこまでだった。

 上半身だけ起こした姿勢の僕の身体に、華子さんは有無を言わさず突っ込んできて、タックルの要領で僕を押し倒す。そして震えながら歯をかちかち鳴らしぶつぶつ何か呟いている。

「何なんですかぁもう何なんですかぁ本当にぃ……何であんなに大きい音でしかも光るんですかぁ、おへそ隠し損ねちゃいましたようう……私もうへそが無いかも……」

 それはないです。僕が断言してあげますよ華子さん、それはないです。

 それが本当だったら今頃数えきれないほどの人がへそを無くして病院に駆け込んでるだろう。

 って重要な所はそこじゃない。

「綺麗さん!? 今何て言いました!? っていうより僕に抱きついているのは何でなんですか!!」

「雷なら、高い所に落ちるって聞いたからです!!」

「僕は避雷針じゃありませんよ! それ以前に僕に落ちたら確実にあなたにも向かいますからね! 落雷に耐えられる人間は今の所皆無です!!」

 僕は体よく盾に使われたショックを隠そうともせず叫ぶ。でも華子さんの身体からはいい匂いが漂ってきて、身体は柔らかくてああもう、どうしたらいいんだこれ!

 うんうん唸(うな)っていると、華子さんは鼻を鳴らして、

「駄目なんです、私昔から雷が苦手でぇ……あの音と光は最早凶器ですよう……うう、何でこんな事になっちゃったんだろう、嫌だもう……」

 その予想外の返答に僕は面食らった。

 いや、アナタ妖怪でしょう。雷なんて恐れるに足らずじゃないですか。そんなぶるぶる震えられたら僕の方が困っちゃいますよ。色んな意味で。

「と、とにかく離れましょう綺麗さん。大丈夫ですから。心配いりませんから、確かに近くに落ちたみたいでしたけど、ここは安全です。大丈夫ですから」

 していいかかなり迷ったものの、僕は震えて怯え、顔を僕の服に押し付けて泣いている彼女のナイトキャップを取って頭を撫でた。初めて触った髪の毛は一本一本が美しく、次第に闇に慣れてきた目で見ても、周りと同化したかのように黒々としている。

 触り心地もとてもよく、自分で出来る限りの優しい手つきで何度も撫でる。大丈夫、大丈夫ですからと繰り返し小さく言いながら。

 僕達二人は汚い室内で抱き合っている。一人は怯(おび)えながら。一人はその不安を取り除こうと必死になりながら。

 雷が遠ざかっていく。光は離れ、音とのギャップが生まれていく。

 雨だけが激しく窓を叩いている。

 その音を何故か心地よく感じ、僕は自然と撫でる手を強くしていた。

 華子さんの身体も次第に落ち着きを取り戻し始めてきたのか、震えが収まってくる。

 異様な展開だ。だが、心は凪のように穏やかになっていく。

 華子さんの心地いい髪の手触りが、そうさせたのかもしれなかった。



 7



 布団はなんとなく色気があるものだと思う。

 あくまでこれは僕の個人的な主観に基づくものなので、話半分に聞いてもらえればいいのだが、思う。ラブホテルの安っぽい大きなベットよりも、田舎の人里離れた民宿の和室の布団の方が絶対にエロティックだ、と。

 あの独特な肌と床までの位置の近さ(なにせ布団一枚分の距離)、そして身体に合せてズレる形。男女の営みが如実に分かる畳と混じり合った汗の匂い。もうどこをどうとっても官能的ではないだろうか。ではない? いいんだ僕が勝手に思ってるだけだから。

 日本人に生まれたせいもあるのかもしれないが、そのように僕は布団には退廃的な性の香りがしてしまう。自分一人では絶対に思わないのに、異性と共にいると一気にそのことを意識する。目の焦点をどこに合せていいのか解らない。そんな道具、布団。

 今、それが目の前にある。外では雷の音が断続的に響き、その度に隣にいる華子さんの身体がびくんっと跳ねる。僕も実は少し跳ねる。華子さんとは全く別の理由からだけど。

「「……………………………」」

 無言。

 互いに何も喋らない。語らない。口に出さない。銅像のように固まる。

 僕達は目の前の布団の前に座って、僕の部屋に移動させてきた布団の前で、二人仲良く微動だにしていなかった。

 しかし、やがて華子さんが意を決したように口を開く。

「寝ない訳にはいきません……女にとって夜更かしは美容の敵ですぅ……意を決して寝るしかありませんねぇ……」

 そう言って、彼女は布団を持ち上げると、黙ってその中に入って行った。後ろから見えた耳たぶが暗がりでも分かるくらいに真っ赤になっている。肌が白い分だけ目立つのかな、とどうでもいい事を考え本来考えねばならない事から目を背ける。

 しかしどうすればいいのか分からず、僕は時間が止まったかのようにその場から動けずにいた。先ほどの『美容の敵』発言が妖怪にどこまで通じるのかとツッコむことすら忘れ、小さく盛り上がった布団をただ見ているしかなかった。

 沈黙がその場を支配していた。

 その時、僕の頭に電球が輝いた。そうだ、華子さんは別に一緒に寝てくれは言ったがそれは別に同じ布団の中で一緒に寝てくれという意味では必ずしも無かったはずだ。

 要は雷が怖いから傍に居てくれというだけの事であり、同じ部屋で一緒にいれば役割は充分果たせるのではないかと気付く。

 うん、それならそれでいいではないか。僕も変に欲情したりせずに済むし、華子さんから受けている妙な信頼感を裏切ることも無い。僕だって明日も仕事がある。初日に色々とごたごたしていたから忘れていたが、明日からは喫茶店経営が一日の中心になるのだ。充分に休息を取らねばならない。自己管理も自営業には必要なスキルなのだから。

 と、言うわけで、僕は早速先程枕代わりにしたジャンプを手に、華子さんが寝ている布団のすぐ傍、一メートルくらいの間隔を取って横になった。

 何かと騒がしい一日だったけど、これでようやく寝れる。ああ、瞼が下がってきた。駄目だ、……お、……ち……すー…

 夢の中へ再び誘われそうになった時。

 その行為を完璧に破壊するかのような、地響きの様な恐ろしい声が、布団という洞窟の中から響いていた。


「何で寝てくれないんですかぁ……こんなに怖いって言ってるのに、今日会ったばかりの人に恥も何もかも目を瞑ってお願いしているのに、雷におへそを取られるかもしれないのに、どうして一緒に寝てくれないんですかぁ……分かってます、今日会った人間に夜一緒に寝てくれなんて言うなんて気持ち悪いと思ってるんでしょう。分かってます、ええ分かってますともそうでしょうとも気持ち悪いでしょうとも、いいんです分かってるんですから……町沢さんも彼みたいに私が煩わしいんでしょう、分かってるんですよ、ええ……いいんです、どうせ私なんか、どうせわた、わた、しなんか、なんか、なん、か、なんか……」

 ぐずぐず泣き出してしまった彼女に何も考えることなく布団を捲り、その胸に引き寄せられていた小さく細い指を掴んだ。そして勢いよく布団をかぶる。

 ぎゅっと包むように握ると、そのまま顔だけ反対方向に向け、言う。

「寝ますよ。明日も仕事ありますから」

 何も聞こえないというようにそのまま目を閉じ息を吐く。

 華子さんが驚いた顔をしているのが見ずとも想像できたが、無視して狸寝入りを決め込む。その内、華子さんが両手でしっかりと握りしめるのが分かった。

 雷はだんだん遠ざかる。音が離れ、光も差し込まなくなり、部屋は雨の音だけが響く、真っ暗な空間となった。

 華子さんがどんな人(?)生を送ってきたかは知らない。どんな苦労をしてきたかも知らない。だからこそ、僕が今すべきことはこうやって手を握る位しかない。

 雷の恐怖に、もうそこから先の違う、ざらざらした肌触りの辛い思い出まで行かない様にと。

 僕は手をまた少し強く握る。華子さんも黙って強めに握り返す。

「……ありが、とぉ。町沢、さん……」

 華子さんが呟く。

 僕は眠ったふりをして、そのまま手を握り続けたのだった。



 8



 僕は目覚めるのが早い。

 特に誰に躾けられたとかではなく、ただ単純に自然と目が覚める。

 朝。僕は何故こんな事になっているのか非常に問いただしたい気分で一杯だった。

 身長が望んでもいないのにかなり高い僕は、布団もそれなりに大き目のものを使っている。そうなると、自然布団の中のスペースも大きくなり布団の中には広い空間が出来る事になる。冬場は熱で暖まってかえっていいのだけど、夏は暑い。暑くてついつい掛布団を蹴っ飛ばして起きたら上が無いという事もしょっちゅうである。

 そんないつも通り何もかかってない状態で朝を迎えた訳だが、僕の身体は僕以外の生物にきつく抱きしめられていた。

 華子さんが、僕に身体を絡めている。何故チラリズムの極致のように、へそや胸を見えそうで見えないぎりぎりのラインで露出させながら。

 さしずめ木にしがみつくコアラのように僕にまとわりつきながら、華子さんは口をもゆもにゅさせながら何か言っている。「せんせー、…待ってくださいよう…置いていかないでくださいよう…もう…」寝言まで可愛い。もう殺人鬼的な可愛さである。何言ってるのかは全く解らないけれど。

 まあそれはともかく。

 僕は起きたい、非常に起きたい。そして朝の淹れたてのコーヒーを美味しく頂きたい。

 だが、そのためにはこのコアラチックな小動物を起こさなくてはならない。しかしこの幸せそうな、いやでも少し悲しそうな表情の華子さんを起こすのはしのびない。どうしたものか、答えがでないまま十分が過ぎようとしていた。今は五時四十分を回った所である。

 仕方なく、僕は最後の手段を取ることにした。華子さんはその低い身長を僕の腰辺りに腕を回して眠っている。つまり、僕が彼女を起こさず、そして僕だけが寝床を離れる方法が、一つだけある。華子さんがぐっすり眠って起きそうにない事を確認すると、僕はよしと一人頷いて作戦を決行した。

 パジャマの上だけを脱ぐ。鍛えた訳でもない極々普通な肉体が上半身シャツ一枚だけになる。そっとボタンを外し、腕を抜き、身体を捻ってするりと抜く。

 蛇の脱皮のようにして服から抜け出た僕は、そのまま隣の部屋に着換えを持って行って素早く着替える。窓ガラスからは昨日の雷雨などまるで無かったかのような朝日が顔を出し始めていた。

 夜露が猫の額ほどの小さな庭の草に垂れ、鋭い光を放っている。柔らかな空気が生温く伝わってきそうな気配がする。

 僕は隣で寝ている華子さんを起こさないようにそっと窓ガラスを開けた。

 雀が鳴いている。二匹が連れたって追いかけっこをしながら飛び回っている。

 同居人は妖怪である。それはまあいい。問題はそこじゃない。それはもう自分の中で一区切りついている。僕の今日の一番の問題。それは。

「寝れるわけないじゃないか……」

 鏡を見なくても容易に想像つく酷い顔。

 柔らかな身体が僕を抱きしめた時の温かさ。気持ちよさ。寝ぼけて頬ずりしてくる時の穏やかな顔。動作。悲しい夢でも見ているのか、時折顔を歪め、握りしめられた手を優しく握り直すとまた安心して笑顔になるその表情。全てが僕にとって良くも悪くも心臓を速まらせる。とどのつまり、

「寝れないっての……全く、さぁ……」

 ごつんと窓枠に額がぶつかる。地味に痛かったが、それよりも眠い。眠すぎる。

 特大のあくびをしながら、超巨大なため息をつく。

 女性と寝ました。同じ布団で。しかも寝かせてもらえませんでした。

 一字一句違っている事は一つも言ってない。

 どういう意味かと聞かれたら、本当にその言葉通りですと言うしかない訳だけれども。

 寝不足です、それでも朝日は昇るのです。

 望もうとも、望まざれども。



 9



 湯気が立っている。コーヒーの香ばしい香りが、辺りに漂う。その湯気が室内を満たす。

 こぽこぽとコーヒーメーカーに黒く輝く液体が雫となって落ちていく。僕はそれをぼんやり見ながらちゃぶ台に肘をつき音を絞ったテレビを見ている。

 東京は今日も声高に流行を叫び、それに煽られた人々がまた流行の商品を買い求める。だけど、流行って何なんだろう。それは、僕達が勝手にマスコミや会社に先導された一種の洗脳なんじゃないかと新商品に舌鼓みを打つアナウンサーを見て思う。

 世界に不思議は満ちているけど、わざわざそれを解明しようとか、謎を解き明かそうとするのが人間なのか。

 流行を分析する人達は更にその理由を追い求め、そして新たな流行を作り出そうともがく。でも、そんな事に本当に意味はあるのか。

 太陽に向かって開こうとする花を美しいと思う事に理由がいるのか。誰かを好きになったら、その好きになった理由を絶対に求めなくてはならないのか。

 流行を先取りするというテレビのリポーターが熱心に新しい音楽の形らしい電子音をメインにした曲を紹介している。僕はそれを見て思う。進歩と進化は違うんだなあ、と。

 不思議は不思議のまま共に歩いていくのも、一つの形では無いだろうか。

 偏見や無理解から来る弊害は無くさなければならないだろうけど、あえてそこに存在する理由まで血眼になって探すことはないだろう。そこにそれがいて、あって幸せならばそれでいいではないか。

 どんな生き方をしても、僕達は絶対百%物事を理解する事など出来やしないのだから。

 とりあえず自分に一回通してみる。それで駄目ならそのまま離れればいいし、よかったら自分に入れてみればいい。

 流行だから、今の時代に必要だから、仕事に付いていけなくなるから。そんな所から少し離れたところで生きるのも、存外悪くないと僕は思う。

 どんなものであろうと関係ない。そこから始める関係が一番いいような気がする。

 朝だし頭も回ってないので思考がおかしくなっているが気にしない。

 チャンネルをリモコンで変えた。天気予報が映る。

『今日は暑い一日になるでしょう』

 華子さんは起きてこない。僕は大きく息を吸い込み、吐いた。

 華子さんの寝姿が頭から離れない。

 お天気お姉さんの作り笑顔が、眩(まぶ)しかった。 



 10



 僕が開店の準備を一通り終えると、時刻は七時半過ぎになった。

 エプロンを着て朝ごはんを作り始める。

 今日は炊き立てのご飯と焼き魚、昨日商店街で買った肉屋のコロッケをオーブンで焼きなおして、ネギと豆腐の味噌汁に少しキムチの素を垂らして完成。

 だが、まだ華子さんが起きてくる気配は無かった。どうしたものかと少し悩んだが、申し訳ないが起こすことにする。一緒に暮らして行くわけだから、なるべくなら食事のタイミングは一緒にしたい。部屋まで行くと、すーすーと静かな寝息が聞こえてくる。よく眠る人だなあ、と思って、襖を開ける。華子さんに声をかけに行こうとした所で、


 華子さんの上半身がブラ(・・)だけになっているのを見て、即行で閉め、居間へと走った。


 寝かせておいてあげよう。疲れてるんだろう、うん。

 あえて僕は自分に今の光景に対するセルフツッコみせず、どっかと畳に腰を降ろした。

 どうすればいいんだ。

 湯気の立つ味噌汁を口に含み、飲む。味噌汁には精神安定効果があるらしい。

「嘘つきが!」と小さく呟くと、僕はちゃぶ台に頬を乗せる。熱くなった頬が、ちゃぶ台に冷やされ、少し心地良かった。



 11



「おばようござびばずぅ……」

「あの。綺麗さん」僕はとりあえず言った。

「だんでずがぁ……?」彼女は全く意志の光を宿していない瞳で見つめ返してきた。

 ここで負けてはいけない。ここで負けたら僕は本当に変態(・・)になってしまう。だから、思いっきり目を閉じて、言う。

「服着て下さい!!」

 華子さんは、先程よりも酷い恰好になっていた。


 パジャマは消え、上下、ブラとパンツだけ。


 僕は思いっきり息を吸い込んだ。

「―――何で!? 何でさっきより酷くなっちゃてるんです!? もしかして確信犯なんですか!? 僕をからかってるんですね、そうなんでしょ!! そんなに男をいじめて楽しいですかあなたは!!」

 絶叫した。そりゃもう全力で。今回全く落ち度が無い僕は全身全霊をかけてツッコむ。ツッコまないとやってられない。僕だって無味無臭ながら人間なんですよ! 無味無臭の毒だって世界にはごろごろしてるんですよ!! 食べられちゃう事を学習して下さい、その薄ピンクの下着とアンバランスな身体の凹凸が死ぬほど目に悪いです!!

 そんな僕の焦りと混乱を華麗に無視し、華子さんはちゃぶ台の前に座った。テレビをぼけっとして眺める。

 僕は何も言わず部屋を出て、僕の部屋から華子さんの服を(パジャマ)を取って来て丁寧に畳み、彼女の隣に置いた。そしてコーヒーメーカーからカップにコーヒーを注ぎ、彼女の前のちゃぶ台に置く。

 極度の低血圧らしい華子さんは僕が淹れたコーヒーを全くの無表情で顔に持っていき、ずずずと吸ってほおっと息を吐いた。

 徐々にその瞳に精気が戻り、表情というものが取り戻されていく。そして、目に焦点があった所で、僕はなるべく彼女の方を見ないようにして再び言った。

「おはようございます、綺麗さん」

「……あ、おはようございますぅ町沢さん…昨日はお見苦しい所をお見せしてしまい、大変すみませんでした……それと、ありがとうございました。おかげでよく眠れましたぁ……あはは、借り一つですねぇ」

 ふわりと笑ったその顔は正に天使。僕は今の現状を一瞬忘れ、その身体をぎゅっとしたい衝動にかられたものの、いかんそんな場合ではないと首を振り、言う。

「綺麗さん、人はいつごろから『恥じらい』を覚えたんだと思います?」

 華子さんはきょとんと首を傾げ、僕の言っている事が解らないというように訊き返した。

「はぁ、『恥じらい』、ですかぁ……?」

「そうです、恥じらいです」

 僕は目を瞑りながら正座し、姿勢を正しながら話し続ける。

「最初の人間であるアダムとイブは『知恵の実』を食べた事で知恵をつけ、そして自分たちが裸であることに羞恥を覚え、葉で陰部と女性は胸を隠し、神からは自分に近い存在になられる事を恐れられエデンを追放されます。つまり、恥じらいは人間が人間である一つの特徴なのです」

「原住民の方は裸でも平気みたいですけどねぇ……」

「あげ足取らないで下さい」

「取ってないんですけどぉ……」

 僕は目を閉じたまま、しかし真面目な顔で言った。

「そして恥じらいは知性があることの何よりの証拠、つまり女性が持っている素晴らしい長所の一つなのです」

「そうなんでしょうか、ねぇ……?」


「ですから、早く服を着なさい」


 僕のその一言で、華子さんは何も言わなくなる。僕も何も言わない。綺麗な叫び声だった。色々言いたいことはあるけれど、その声が聴けただけでもよしとしよう。

 ばたばたと自分の部屋となった隣の隣の部屋に駆けていく音がする。僕はゆっくりと目を開け台所に行く。着替えたら朝食を温めないといけない。レンジに朝作ったご飯を入れてボタンを押す。

 騒がしい日になりそうだ。僕は台所に置いておいたコーヒーをこくりと一口、静かに飲んだ。



 12



 無言。

 無言。

 咀嚼(そしゃく)。

 無言。

 咀嚼。

 咀嚼。

 無言。


 僕はそれを黙って見ている。華子さんは一言も口にせず無言で僕の作った朝食を食べていく。時折思い出したように味噌汁を啜り、ごくんとその小さな喉仏が動く。

 どうしたもんかな。机に肘をつき、時計を眺める。先程から華子さんは怒っているのか恥ずかしがっているのか解らないがとにかく顔を真っ赤にしながらご飯を食べ続けている。膨らんだ頬がリスを思い出させたが、そんな事を言ってからかえる雰囲気では無かった。

 おずおずと口を開こうとするとぎろりとその大きな瞳でこちらを威嚇してくるため、下手に手を出せない。僕は仕方がないので機嫌が直るまでこうやって時間という人間関係の中でも最高の部類に入る薬が効いてくるのを待った。ちなみにこれ、毒にも変化するので注意が必要である。

 茶碗が静かにちゃぶ台に置かれ、箸もその上に揃えると、丁寧に手を合わせてお辞儀をする。「ごちそうさまでした……」とふて腐れながらもちゃんとお礼を言う華子さん。眉がYの字になって怒っているようだけど、その恥ずかしそうにも見える顔がうん、滅茶苦茶可愛い。そのまま何処かにお持ち帰りしたい。本気でちょっと思う。

「下着を見るなんて最低ですけどぉ…この朝食に免じて今回だけは許してあげますぅ……」

 あなたが勝手に見せたんですけどね。

 そうは思ったものの、引っ込みがつかなくなる時は誰にだってある。ここは大人しく僕が罪をかぶり引き下がるのが得策だろう。華子さん、人当たりがいい割に意外と頑固みたいだし。

 そんな脳内会議で出た結論に基づき、使い終わった食器を片づけるため、持っていく。

 華子さんは、まだ何かうーうー唸って何か言いたそうにしていたが僕は無視して食器を洗う。もうすぐ開店時間なので、余計な事を考える事が出来なくなった。

 昔から一つの事にしか集中出来ない人間だったので、接客業である喫茶店ではもう少し視野を広げられたらと思っている。中々難しいが修行あるのみだろう。


 そんないつもと違う僕にちょっと気圧されたのか、華子さんが後ろで言いよどむのを聞いたが僕の頭はモードが切り替わっていて反応しない。しかしどうやらそれが華子さんには僕が怒って無視しているように感じてしまったようだった。

 つかつかと歩いて来る音がしたかと思うと、僕の横に立ち、ぎゅっとエプロンを掴んだ。何だ? と思ったら小さな声で囁くように、僕を真っ赤な顔で涙をにじませ、言った。


「ご、ごめんなさ、いぃ……」


 ショートするかと思った。

 その潤んだ瞳、掠れた小さな声、切ない表情。何よりその艶やかな唇が僕の視線を捉えて離さない。

 思わずそのまま押し倒してしまおうかと思ったが、ぎりぎりの所で自制心が最後の奮起を見せ、何とか僕の本能の暴走を阻止した。

 その代り、ちょうどいい高さにある髪の毛をもしゃもしゃと掻き混ぜて、ぽんぽんと叩いて誤魔化した。「ご飯、美味しかったですか?」と優しく訊くと、困ったように俯いたがすぐに顔を上げ「……はい」と笑ってくれた。僕も笑って「これからはちゃんと起きてくださいよ」と言ってもう一度掻き混ぜる。

「わぷ」と言いミキサー化された頭を押さえようとする華子さんの頭をぐるぐる回して遊ぶと、パッと手を離した。少し目が回った彼女は「うう~!!」と怒ったが、それがまた何だか可愛かったり。

 僕はそんな華子さんをじっくり愛でてからエプロンの紐を縛り直し、店に向かう。

 華子さんはそれに気付いて付いて来ようとする。僕が尋ねる。「綺麗さん、仕事は?」

 そっけなく「今日は休みです」とだけ言った。

 僕が「じゃあ、もう一杯コーヒー飲みます? どうせ淹れますし」と言うと、何故か赤くなりながらこくんと頷き、店内に一緒に入った。

 コーヒーメーカーに向かう僕に、少し大きな声で、華子さんは言った。

「町沢さん!」

 僕が振り向くと、彼女は真っ赤になりながら続ける。「―名前、でいいですから」はい?

 首を傾げてもう一度言ってくれと尋ねそうになった所で、華子さんは限界まで赤い顔をしながら言った。


「私の呼び方ぁ、『名前』で、いいですからぁ!!」


 その時僕はどんな顔をしていただろう。自分では解らないが相当間抜けな顔をしていただろうと思う。

 華子さんは笑ってこう言った。「お願いしますねぇ!」

 僕に、こう言ったのだ。


「――こ(・)れ(・)か(・)ら(・)、よ(・)ろ(・)し(・)く(・)お(・)願(・)い(・)し(・)ま(・)す(・)、ね(・)ぇ(・)!!」

 僕が華子さんと出会って二日目。

 僕は華子さんを名前で呼び、華子さんも僕を名前で呼ぶようになった日。

 雨は上がり、外からは鳥の涼しげな高音が世界を包んでいる。

 二人の距離が何となく縮んだ気がした気持ちのよい朝。

 光が世界に溢れ、僕の身体にも静かに熱が籠(こも)ったように感じた。

 一人では無い新しい生活が、ゆっくりと幕を上げたのだった。

 ……が、華子さんは速攻で僕を『ムーミン』からもじって『民ちゃん』と呼ぶようになってしまった。それはまあ、あんまり悪い気もしなかったのでよしとしたのだが。

 ……『民ちゃん』、て……


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