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内裏の専門歌人

 貫之はこれまでのように、歌一辺倒の生き方を変えようと思った。躬恒の言うところの「顔を上げた社交」を意識するようになった。機会があれば出来るだけ高貴な方に近づく努力をした。初めは何が何だかわからない心地だったが、落ち着いてくると見本となる人は周りにいくらでもいた。


 貫之たちのような専門歌人ではない普通の役人たちは、何とか官位を上げようと皆が必死だった。どうやら本来の役目だけでは上の人々の気を引くのは難しいらしい。挨拶ひとつにも、関心のなさそうな上位の人々に何とか印象を残そうと懸命に前に出ようとしていた。

 それを見苦しげに見る人もいるが、今となっては貫之にもその気持ちが良く分かる。おそらく友則も家族や一族のために、不器用ながらも社交に気を使っていたのだろう。だから大内記の職にまで昇ることが出来たのだ。そんなことを話すと躬恒も、


「そういうことが出来るところにいられるだけましだ。俺や忠岑殿なら歌を認められなければ、上位の方々の目の端にすらかかることもできない」と言っていた。


 自分は友則殿の気遣いや内裏のうちの知人たちのおかげで、上位の方に姿を見ていただける。それはとてもありがたいことで、今度は自分が友則殿のように守りたい人や、助けてくれた仲間のために社交に励む必要があるのだと貫之は理解した。

 幸い自分は歌詠みで、そのうえ世の中は痛切に歌を求めている。都は道真の祟りの噂で、暗くよどんだ雰囲気にむしばまれていた。何か悪いことが起こるのではないか? 今度は誰が祟られ、殺されるのだろうと誰もがおびえていた。

 そんな中で歌は慰めとなった。祟りや恨み、厳しい官位争いの現実とは違う、美しく、あわれを感じる、華やかな世界が歌にはあった。現実の苦悩の詳細はいらなかった。心に響かない、うわべだけの愉快さも不要だ。まるで絵巻物のように、屏風絵の中にいるように、美しく、心地よく、あわれな現実逃避の世界を人々は求めていた。


 そして貫之自身もそういう歌を求めていた。自分の卑しさ、非力さ、頼りなさを見つめる歌を詠もうとは思わなかった。貫之にはもともとそういう素地があったが、必要とされることにより一層人を楽しませ、技術に関心を寄せさせ、あわれの中にある美しさを共有する、そうした内裏にふさわしい歌を意識するようになった。

 歌人である以上、自分の心の奥に湧き上がる情熱的なものを、詠みあげたい欲求はもちろんあった。歌の道としてはその方が正しいのかもしれない。だが人々が求めているのは違うものだ。卑怯かもしれないが恋人の言う通り「現実は歌のようにはいかない」のだ。あの娘のような屈辱を身近な人に味あわせないためには、自分は歌で官位を求める必要がある。


 貫之は折を見ては高貴な方々のおそばに近づき、歌を詠んだ。得意の「物名」や「折句」で楽しませたり、絵を見て即興で美しい景物を詠んだり、贈り物の品に合わせて歌を詠んだりした。

 内裏では可能な限り積極的に人の前に出るようにし、蔵人たちに話しかけた。許しがあれば躬恒を呼んだりもした。私的な集まりや風流人の集まりでは内裏の話や官位の話は座にそぐわないので、そういう時は出来るだけさりげなくふるまったが、それでも歌が必要な時はいつでも声をかけてもらえるように触れ回った。躬恒は言った。


「おまえ最近変わったな。もちろん、いい方にだが」


 それは貫之自身も実感していた。


「本気で官位を望んでからは、現実生活を強く感じさせる歌は出来るだけ避けるようになったよ。少々媚びているともいえるかもしれない。だがそれを恥ずかしいという気持ちはいつの間にか消えていた」


「恥じる必要はない。人に求められるための努力だ。立派な事だと思う」


「そうだな。普通の役人たちはもっとなりふり構わずに色々な運動をしている。それを見苦しいとも思わなくなった。官位を争うとはそういうことなのだろう」


「俺たちが役人である限り、逃れられないことだからな」


「今は私も社交はもちろん、人に喜びを与える歌によって官位を上げ、身近な人を守る力を得ようと思っているのだ。私は家族がいない分、気づくのが遅くなったが」


 友則は女孺に孝を尽くし、あの娘を助けることが貫之の救いになると言っていた。残念ながら娘を守れてはいないが、確かな救いにはなっていた。それに報いようと、貫之は本格的な「内裏での専門歌人」としての生き方を確立しようとしていたのだ。


 貫之の歌はより技巧的に、より絵画的になっていった。それが道真の祟りにおびえる人々の癒しとなった。恐怖におびえ、すさんだ心が歌によって慰められた。貫之の歌は一層人々に求められるようになった。

 特に貫之は屏風歌を依頼される機会が多かった。屏風は祝いの席などでよく贈られるのでそれに華を添えようと依頼されやすいこともあるが、貫之の歌は普通の屏風歌より工夫があって喜ばれた。普通屏風画には画題に沿った美しい景物のほかに、小さく人物が一人以上描かれている。歌人はその背景の中の人物の心になりきって、その心情を詠む。

 しかし貫之はそこから一歩下がった角度からさらに人物を客観的にみて、その人物の想いをくみ取る歌を詠む。たとえば「月夜に衣打つところ」の題で、


  唐衣打つ声きけば月きよみまだ寝ぬ人をそらに知るかな


 (衣を打つ音を聞くと月が美しく輝いているので、まだ寝ぬ人がいるのだとそれとなく知れるのだ)


 という歌は、単に月夜に衣を打つ人の心を詠むのではなく、月を眺めている人が眠らずに衣を打つ人の姿を想像する様子を詠みあげている。そうすることで絵の物語性が深まり、より引き立つのだ。おそらく和歌編纂中に身に着いた知識が、そうした工夫につながったのだろう。そうしたこともあって、貫之の歌は人気が高まっていったのだ。


 努力が功を奏したのか、延喜十年二月、貫之は少内記に任ぜられた。この時貫之はすでに四十歳となっていた。内記の仕事は勅旨をつくり、内裏の記録を作ること。豊富な知識と漢文の素養が求められる。以前友則が付いていた役目であり、貫之の達筆と文才を生かせる職務であった。


 あの妓女とは結局うまくいかなかった。恋の傷は負っても彼女は妓女。内教坊にいる限り自立しているし、次の恋を得ることもできる。しかしそういう女だからこそ、貫之には学ぶものがあった。男をなぐさめるだけの儚い恋や、遊女相手のひと時の恋とは違うものを貫之は彼女から教わった。

 妓女は歌人同様、芸に対する真摯さを持っていることを貫之はよく知っている。 だが彼女は芸事にとどまらない生き方を貫之に見せた。恩ある人の育てた娘の世話を焼きながら、妓女として人と競う責務を果たしていた。芸術に惹かれていようとも内裏での現実をしっかりと見つめ、人の求めに応じることの重要性を彼女は教えてくれた。現実世界での人々の切実な心を知ってこそ、架空世界に何が望まれているのか知ることが出来るのだ。


 自分の感情の吐露に終わっては、和歌はまた色好みの家に埋もれてしまうことだろう。心に種を持つ人々の求めに応じ、歌を詠む。そうすることで本当にこの内裏の中に和歌の花を咲かせ、実を結ぶことが出来る。彼女は貫之にあの古今和歌集編纂と言う一大事業を終えてなお、これからも生きていく以上「内裏の専門歌人」としての責任があることを、教えてくれたのだった。


 娘の方は一心に芸に打ち込んでいた。その上達ぶりは大変なもので、年齢以上のものをあれよと言う間に身につけていった。元から恵まれた素質の上に、いくつかの悲しい出来事が彼女の成長をより早めたのだ。吸収が早く、芸もさらに深みを増していく。身体の成長も著しかった。二年もたつと心身ともに幼さが抜け、彼女はいち早く大輪の花のようになった。


 当然男たちは彼女に注目した。あんなことの後なので貫之はひどく気をもんだが、それは杞憂だった。彼女は時には子供の顔で男から逃げ、時には大人の態度で毅然と男を退けた。つらい経験が想像以上に彼女を大人にしたと貫之は思ったが、ふと思い出した。

 彼女は子供のころから観察力が高く、ませていて賢かった。孤児の立場でなければ大人に気を使わずに、もっと賢く生きられたのかもしれない。むしろ自分の名が彼女に災厄をもたらしたようなもので、何一つ彼女に後見者の責任を果たせていないのだ。


 昇進しなくては。貫之はより強くそう思う。自分に向いた内記に任を得たとはいえ、官位は変わらず七位のまま。少しでも上を目指して、彼女や躬恒のよりどころになりたい。

 そんな思いで役目はもちろん、社交も細やかに行ったのが幸いし、人々は貫之の詠歌を求め続けた。延喜十二年の春には、定方の四十賀に屏風画の詠歌を求められた。さらには年が変わる直前の立春に、その定方の妹で尚侍の満子の四十の賀も行われ、後に送られた屏風画にはあの「唐衣打つ声」の歌などを奉った。その時は屏風画だけに留まらず、贈られた装束に寄せる歌も奉った。周りから見れば華々しい活躍と映るかもしれないが、貫之本人は必死だったのだ。


 その同じ春、三月十日。淑望の父である紀長谷雄きのはせおが亡くなった。貫之にとっては庇護者がまた一人この世を去ったことになる。だが六十八歳の高齢であったし、淑望もこの年に従五位上まで上り詰めていた。本人も一学者にもかかわらず前年に中納言まで昇り、納得の生涯を終えたものと思われた。


 翌年の延喜十三年三月十三日。宇多法皇が亭子院ていじいんにて主催された『亭子院歌合ていじのいんうたあわせ』と言うかつてない大規模な歌合が行われた。

 それは大変壮麗な行事で、後の語り草となるほどだった。いかに和歌に注目を集めているかが良く分かる一大行事であった。






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