埋もれた和歌
自大津皇子之初作詩賦、詞人才子、慕風継塵。移波漢家之字、化我日域之俗。民業一改、和歌漸衰。
大津皇子の初めての詩賦を作りしより、詞人才子、風を慕ひ塵に継ぐ。彼の漢家の字を移し、我が日域の俗を化す。民業一たび改まり、和歌漸く衰ふ。
(大津皇子が初めて詩賦を作ってから、詩人や才学のある人は、その詩風を慕って、後塵を拝そうとした。彼の唐国の文字を移し入れて、我が国の日常の風俗を変化させてしまった。民の業務は一度改められ、和歌はしだいに衰えていった。)
思えばやまとことばが衰退したのは、我が国が唐の国の漢詩や漢字を取り入れたことがきっかけだったという。古い話なので真実はわからないが、史実の上では大津皇子が詩賦を作り、それが我々の日常の言葉の変化を招いた。それが和歌衰退に結び付いた……と言うのが一般的な意見になっている。
だが本当にそうなのだろうか? 確かに漢文の利便性と合理性から内裏での文章は漢文に頼るようになり、文章作成業務が改まったことは事実だろう。だが、それが和歌衰退のすべての原因と言えるのだろうか?
それは違う気がする。和歌には和歌の、漢文には漢文の良さがあり、我々は唐国の知識に助けられて発展をし、その陰で自分たちの心をやまとことばで表すことも忘れずにいた。それでも和歌が衰退してしまったのは、我々の心のありようからだろう。唐風文化のきらびやかさにかぶれてしまい、なんでも体裁を整えることに終始しすぎた。ただ、それだけのことなのだ。
「今の世の中、色につき、人の心花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみ出でくれば、色好みの家に、埋もれ木の人知れぬこととなりて、まめなる所には、花すすき穂に出すべきことにもあらずなりにたり。」
(今の世の中は、和歌の傾向も華美で、人の心も花のように移り気で、誠意のない歌、軽薄な言葉ばかり言いはやされるので、そういう歌を好む人の家に、埋もれ木のように人に知られぬ存在となってしまい、改まった場所には、地味でも移り気に色変わりしない、ススキの穂のように、正式に出すこともできなくなってしまった。)
和歌衰退の原因は漢詩の攻勢だけが理由ではない。我々の心に問題があった。
本来我々は身近な自然を愛し共に生きてきたのだが、唐風文化を賛美しすぎて過剰な華美に走りすぎた。そこに言葉と本音の乖離が生まれ、人は建前を重視してしまった。そういう浮ついた心で新文化を取り入れたものだから、建前のない私的空間において和歌も色事専門のように扱われた。
だがそれを率直に批判するのはやまと言葉にふさわしくない。そこで貫之は人の心を「花」で表した。華美さは「色」。うつろう心は「花」。その軽薄さは内裏には似つかわしくなく、自然と和歌は「埋もれ」木のように「埋もれ」てしまった。同じ花でも落ち着きのあるススキの穂なら、堂々と出すべきところにも出せるものを。
古天子、毎良辰美景、詔侍臣預宴筵者献和歌。君臣之情、由斯可見、賢愚之性、於是相分。所以随民之欲、択士之才也。
古の天子、良辰美景ごとに、侍臣の宴筵に預かる者に詔して和歌を献ぜしむ。君臣の情、斯に由りて見るべく、賢愚の性、是に於て相分かる。民の欲に随ひて、士の才を択ぶ所以なり。
(古代の天皇は、良い時節や美しい景色につけて、侍臣で宴席に侍る者に詔して和歌を献上させなさった。君臣の情は、歌によって見ることができ、臣下の性質の賢愚も歌において見分けられた。それは民の希望に随うように、人材の才を選ばれたからである。)
遠い昔は和歌も尊重され、異国の言葉で飾り立てて面目を保つこともなかった。自らの言葉で歌を詠み、帝に献上し、君臣の情を表した。帝もそうやって民の求める人材を選抜成された。歌に現れる心は帝にとっても、民にとっても信頼できるものだった。
「その初めを思へば、かかるべくなむあらぬ。いにしへの代々の帝、春の花の朝、秋の月の夜ごとに、さぶらふ人々を召して、ことにつけつつ、歌をたてまつらしめたまふ。あるは花をそふとて、たよりなき所にまどひ、あるは月を思ふとて、しるべなき闇にたどれる、心々を見たまひて、賢し、愚かなりとしろしめしけむ。」
(歌もその初めを思えば、そのようなものではなかった。古くからの代々の帝は、美しい春の花の朝や、心地よい秋の月の夜といった折々に、侍臣たちをお召しになり、何かにつけては、和歌を献上させておられた。ある時は花の心に沿うように、ある時は月への想いを、道しるべさえない闇を歩く心地で悩み、歌を詠む、それぞれの心をご覧になって、賢さ、愚かしさを見極められたりした。)
代々の帝は賢明であらせられた。歌をどのように活用すればよいかを、よくご存じであった。人の心が現れる春の朝、秋の月夜など臣下に歌を詠ませるべき時を知っておられた。そして臣下もその意味を理解しており、自分の能力と誠意をこの国らしい心によって、いかに伝えるべきか苦慮したことだろう。
「しかるのみにあらず、さざれ石にたとへ、筑波山にかけて君をねがひ、よろこび身にすぎ、たのしび心にあまり、富士の煙によそへて人を恋ひ、松虫の音に友をしのび、高砂、住の江の松も、相生のやうにおぼえ、男山の昔を思ひ出でて、女郎花のひとときをくねるにも、歌をいひてぞなぐさめける。」
(それだけでではなく、歌は時に「さざれ石」にたとえられたり、「筑波山」に君の繁栄を願ったりし、その喜びは身の程を過ぎるほどで、楽しさは心にあまりあり、「富士の煙」に人に恋する心を添えて、「松虫の音」に友を思い出し、「高砂」や「住の江の松」さえも、人と共に生きているように思え、「男山」を見ては昔の男盛りの頃を思い出し、「女郎花」の花を見ては女盛りの短さをすねるなどと、歌を詠むことで慰められるのだ。)
そして歌はそうした実用性だけの世界ではない。美しい「歌ことば」の世界なのだ。「さざれ石」「筑波山」「富士の煙」に「松虫の音」。「高砂」に「住之江の松」。そして「男山」に「女郎花」。こうした昔ながらの言葉の数々が、歌の世界、この世のすべてを表している。美しく懐の広い物。それが和歌なのだ。
「また、春の朝に花の散るを見、秋の夕暮に木の葉の落つるを聞き、あるは、年ごとに鏡の影に見ゆる雪と波とを嘆き、草の露、水の泡を見てわが身をおどろき、あるは、きのふはさかえおごりて、時をうしなひ、世にわび、親しかりしもうとくなり、あるは松山の波をかけ、野中の水をくみ、秋萩の下葉をながめ、暁の鴫の羽掻きをかぞへ、あるは呉竹のうきふしを人にいひ、吉野川をひきて世の中を恨みきつるに、今は富士の山も煙立たずなり、長柄の橋もつくるなりと聞く人は、歌にのみぞ心をなぐさめる。」
(また、春の朝に花の散る姿を見て、秋の夕暮に木の葉の落ちる音を聞いて、あるいは、年を取るたび「鏡の影」に映る雪のような白髪と、波のようなしわを見つけては嘆き、「草の露」や、「水の泡」の消える様子を見ては、わが身も同じように儚い運命だと気づいて驚き、あるいは、昨日まで栄え驕っていた人が、良い時を失い、世を辛く思い、親しかった人づきあいも疎くなり、あるいは「末の松山」の波にたとえて愛を誓い、「野中の水」に昔をしのび、「秋萩の下葉」に一人寝のわびしさを思い、「鴫の羽掻き」に恋人の来ぬ夜を数え、あるいは「呉竹の世」のような苦しみを人に愚痴り、「吉野川」を引き合いに出して、どうにもならぬ男女の仲を恨んだりするが、今ではわが身を焦がす「吉野川」「富士の山」の煙が立つこともなくなり、古びた「長柄の橋」も造り直したと聞く人にとっては、歌だけによって心を慰められるのだ。)
ああ、和歌を誉める言葉は止まらなくなる。歌ことばの世界は実に奥が深い。爽やかな心を呼ぶ「春の朝」、あわれな心となる「秋の夕」、身も心も映し出す「鏡の影」、儚い「草の露」に「水の泡」、「末の松山」「野中の水」に胸を焦がし、「秋萩の下葉」「鴫の羽掻き」は恋の苦しみを教えてくれる。「呉竹の世」「吉野川」を恨み、「富士の山」「長柄の橋」に思いをはせる。これらはすべて歌ことば、枕詞の世界で、誰もが心に持つ和歌の種。それはこれほどに美しいのだ。




