求められるもの
貫之の言い分は正論だった。おそらく帝の思いもそこにあるに違いない。だが。
「貫之の言う通りだと思う。確かに序文から……様式そのものからこの国の言葉を使ったものを書けば、やまとことばの可能性は広がることだろう。帝の御心意にも沿うことが出来ると思う」
「でしたら……!」
貫之の期待に満ちた言葉を、淑望はさえぎった。
「だが、帝がお求めになっていても、内裏はそれを求めていない」
この国を治めているのは帝だが、現実にそれを実行するのは内裏の役人である。
「帝もすべてのことが思うままにできるわけではない。現に遣唐使を停止させた道真殿は、都を追われたではないか」
淑望の言葉に皆が顔を曇らせた。
道真ほどの学閥を背負った人物が、遣唐使を停止した程度のことで都を追われたなどとは考えにくい。あれは様々な事情が積み重なったうえでのことだったのだろうと、貫之たちも今では理解していた。それでも心の底では、道真のもとの官位の低さや前の帝からの寵愛、遣唐使を停止させてしまうような慣例にこだわらない大胆さなどが人々の目についていなければ、あのような事態にまでは至らなかったのではないかと言う思いがある。
「貫之は正論のためなら自身の身を軽んじてしまうところがある。私は心配なのだよ。君が若かったあの日に自ら省試を諦め私に学者の道を譲ったように、今度も誰にも責を負わせずに自分の名だけを記し、かな文字の序文を強引に献上するつもりなんじゃないかと」
それを聞いた躬恒は顔色を変えた。
「おい……。まさか、そのつもりなのか?」
躬恒は貫之を睨みつけるが、貫之も真っ直ぐに睨み返してきた。
「私は我が身を軽んじているわけではない。そういう覚悟があるというだけのことだ。それに覚悟があるのは私だけじゃない。友則殿は我が身を削るようにして病に倒れるまで編纂にあたっていた。私もこのくらいの覚悟を持つのは当然のことだ」
「覚悟だと? それはお前と友則殿だけが背負うようなものではないはずだ。この編纂作業は皆が……我々編纂者だけではない、和歌の復活に期待する人々が皆で成し遂げていくものだ。この歌集は多くの歌人や協力者によって編纂してきた。お前の態度はそういう人々を裏切っているのも同然だ!」
「しかし、かな文字での序文を思いついたのは私だ。そのくらいは……」
「そんなもの覚悟などとは言わせない。そういう思いは俺だって同じだ! どうしてもかな序を書くと言うのなら、俺の名も連名にしろ。そうでなければ俺は絶対に認めないからな!」
躬恒はそう叫ぶと、足音も荒々しく御文庫から出て行こうとした。
「きゃっ!」
するとその戸口から甲高い子供の声が聞こえた。あの女孺の長が育てている、貫之に曰くのある娘が目を丸くして尻もちをついていた。
「……ああ、すまない。驚かせてしまったな。女孺殿のお使いかい?」
躬恒は慌てて少女を立たせてやった。
「あの。女孺様に教わった舞を少し覚えることが出来たので、ご褒美に貫之様にお見せしてもいいと言われて……」
「それで貫之を待っていたのか。みっともないところを見せてしまったな。貫之、ちょっと見てやれ。今は互いに頭を冷やしたほうがよさそうだ」
躬恒はそう声をかける。貫之が出て行くと、
「お前は形だけとはいえ、この子の後見なのだろう? 今のお前にはこの子の人生に責任がある。軽々しい真似はするもんじゃない」
と言い残して御文庫を後にした。すると奥から友則の声も追いかけてくる。
「貫之、躬恒も淑望も心からお前を案じて言っているのだ。私も案じている。お前は私にとって我が子も同然。私の長男の様なものなのだから」
「……ありがたいお言葉でございます」
これまでの気持ちに変わりはない。だが躬恒と友則の言葉に、やや勇み足が過ぎたことを貫之は心に悔んでいた。
頭を冷やしたほうがいいという躬恒の言葉に従って、貫之は少女と共に庭に出た。御文庫のある内御書所に近い庭には紅梅が植えられているが、この時期花はとっくに終わっており、かと言って実がなるにはまだまだ時間がかかる。それでも初夏が近づく日差しの下では、青い葉の色が鮮やかに彩りを与えていた。
「あの、皆様のお邪魔をしてしまったのでしょうか?」
少女は心細げに聞いてきた。
「君のことだ。我々の話も聞いていたのだろう? 躬恒が言った通りさ。ちょっと頭を冷やす時間が必要だった。君は私があの場を離れるいい口実になってくれたよ」
「……皆様、仲たがいをされてしまったんですか?」
「そんなことは無い。皆熱心に考えて、その上私のことをとても心配してくれているからこそ、口論になったんだ。……いや。私が単にわがままを言っただけかもしれない」
「難しいことはわからないけれど、貫之様がかな文字で何かを書いてくだされば、私はうれしいです。かな文字で書かれた物ならば、私にも読めそうだから」
貫之は少女の無邪気な言葉を受け止めた。そうだ。かな文字は幼い者にも読める。幼いうちから豊かな文化に触れ、言葉の持つ心を理解していけば、この国の文化は見違えるほど発展することだろう。しかしそれは頑なな心では受け入れてはもらえない。この少女のように無邪気に、純粋に、言葉に触れることを喜ばなくてはならない。
自分は皆を巻き込みたくないと思うあまり、皆の心を良く考えずに自分の思いを押し付けすぎたのかもしれない。
「で、どんな舞を教わったんだい? さっそく見せてもらおうか」
少女は喜んで舞って見せた。まだ年相応に形を教えられたとおりになぞっているだけの拙い舞だが、迷いのない軽やかな動きは見ていて気持ちがいい。貫之は舞に合わせて歌を歌った。
しもとゆふ葛城山に降る雪の間なく時なく思ほゆるかな
(葛城山に降り続く雪のように絶え間なく
途切れる時もないほどに、帝のことが思われることよ)
舞い終えると少女は待ちかねるように「いかがでしたか?」と聞く。
「上手だったよ。良くきちんと覚えたね。その舞は古くから宮中に伝わる大和の舞だね。祭事などで帝をたたえて舞われる舞だ」
「女孺様は大嘗祭などで舞う舞だとおっしゃっていました。今の歌は貫之様が詠まれた歌ですか?」
「いや。これこそ大和の舞を奉納するときに歌われる歌だよ。古くから宮中に伝わる歌で、古今集にも載せようと思っている」
「まあ! 私たちが舞うときの歌も、載せていただけるんですね。 嬉しいっ!」
少女は子供らしく、ピョンピョンとその場を跳ね回って喜んだ。そうだ、こんなに素直に喜んでくれる人がいる。心待ちにして協力してくれる人もいる。この編纂は無理強いをしてはならない。強引であってはならない。誰もに喜ばれるものでなくてはならないはずだ。
人の心を表す和歌に、責を負う覚悟や一方的な意地の押し付けは似合わない。優しいやまとことばが、人々の心を動かせばよいだけだ。
かな序を正式な序文として、献上出来なくてもいいじゃないか。書くだけ書いて何かの折にでもご披露できれば。連名でもいいじゃないか。皆がそれを望むのならば。やまとことばもかな文字も、人々に求められてこそのものなのだ。
やまとことばの力を信じ切れなかったのは、私のほうだったのかもしれない。
「君の舞こそ上手だった。私が褒めていたと女孺殿にお伝えするといい。貫之がとても喜んでいたと」
「……はい!」
少女は興奮気味に走り去っていく。貫之はその背中を見送ると、御文庫へと戻っていった。
御文庫にはすでに躬恒が先に戻っていた。躬恒は開口一番「貫之、頭は冷えたか?」と聞いてきた。
「ああ、反省したよ。悪かった」
「俺も頭が冷えた。お前がかな序を求めるのは理に適っている。だから残りの編纂作業は俺たちに任せて、お前はかな序を書いてくれ。ただし編纂者の名を全員書き記すことが条件だ」
「わかった。書かせてもらえるならありがたい。……ところで、淑望は?」
「淑望殿は左大臣(時平)殿のところに向かわれた。左大臣殿はご自分の妹君を帝の中宮になさったことで今の権力を安定させた。高貴な女人に優れた文化が必要なことを、左大臣殿は知っておられる。その左大臣殿がかな文字を認められれば、あるいはかな文字の序文を献上できるかもしれないと思われたのだ」
「淑望が……」
「どうなるかはわからんが、お前は良いかな序を書くことだけ考えろ。いつか、日の目を見るかもしれないし、その方がお前らしい」
皆、貫之の心をわかってくれていた。そして、同じ覚悟を持つ仲間であった。
「皆の好意に甘えさせてもらおう。だが、この『古き大和舞の歌』は私の顔を立てて入集させてもらいたい。たった今幼い舞姫君と、約束してしまったのでね」
そういって貫之は照れた笑顔を見せた。




