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未来への扉

「かな文字による序文? 貫之、正気か?」


「もちろん正気に決まっている。序文の重要性も忘れてなどいない。それでも私はかな文字を使った正式な文章と言うものを、世の人々に知らしめてみたいと思うのだ」


 躬恒の問いかけに答える貫之を見て、今度は淑望が慌てた様子で口を挟んだ。


「ちょっと待て、貫之。冷静に考えてくれ。序文だぞ。これまでのような和歌にやまとことばで解釈を添えて人々の理解の一助にしようという試みとはわけが違う。かな文字はある程度自由に表現が許される本文中にて、和歌と言うわかりやすさと親しみやすさが何よりも受け入れられてきた世界だからこそ、許されるのだ。しかし序文を整えるのは形式の決められた義務。本文のように軽々しく扱ってよいものではないはずだ」


 淑望の意見に躬恒もさらに口を添えた。


「淑望殿のおっしゃる通りだ。序を整えるということは、これは帝に献上する正式な勅撰の和歌集であるということのあかしの様なもの。序文の様式が整っていなければ、それは正式な編纂集として認められない恐れがある。もうすぐ編纂を終えようというこの時になって、何をおかしなことを言いだすのだ。お前はこれまでの編纂の苦労を台無しにするつもりか?」


 しかし貫之は頑なな表情を変えない。


「私は冷静だよ。本文も序文同様軽々しく扱ったつもりはない。序の形式は淑望が書いた漢文で整えられている。私のかな序はその補足の様なものだ」


「しかし……」


 戸惑う躬恒と淑望に貫之はさらに言葉を重ねる。


「二人が言いたいことはわかっている。宮中と言う場がこの世の何よりも様式を重んじる場所だということは重々承知の上だ」


「それがわかっていながら、なぜ?」


 躬恒のいらだった声に動ずることなく、貫之はあっさりと答えた。


「それが帝のお求めになることだと思うから」


 その言葉に、皆思わず黙り込んだ。それを見て貫之はしみじみと語り始める。


「覚えているか? 我々が初めてこの御文庫みふみぐらに通された日のことを。あの日、我々は帝の期待がどれほど高いものであるかを知った。あの夜戦わせた熱い論議も、その最中に帝が私を呼ばれて、ほととぎすの声のめでたさをお伝えくださった喜びも、心の中にはっきりと思い浮かべることが出来る」


「それは皆同じだ。あの日の感激は誰一人として忘れることなどないだろう」


 躬恒もその日のことを思い出したのか、感慨深そうな声を出す。


「その時我々は感激しただけではなく、心から情熱を燃やしたはずだ。帝の望む『幾百年にもわたり、人々に賞賛される手本となるべき歌集』を生み出そうと。これまで世になかったものを生み出そうと思ったはずだ」


「だからこそ、これまで幾多にもわたる工夫を凝らしてきたんじゃないか。部立て、流れ、詞書。一つ一つの和歌にさまざまなつながりを持たせて、一つの大きな作品としての趣を持たせようと全力を尽くしてきた。我々に許される範囲で、出来るだけのことをした。……それでいいじゃないか」


 躬恒の言葉に貫之は申し訳なさそうな顔を見せた。


「それでは、私は納得いかなくなってしまった。私はこの編纂作業に携わるうちに、かな文字の可能性の深さに気づいてしまったんだ」


 かな文字の優れた表現は、決して和歌にだけ限定されるべきものではない。貫之はこの言葉を使って序文を書いてみたい。正式な文章として書いたときに、決して漢文に引けを取るものではないことを証明してみたいと思ってしまった。


「これをしなければ私は、この編纂に全力を尽くしたとは言えなくなってしまったのだ」


 躬恒は貫之の悲しげな顔に、再び言葉を失った。それでも間を置くと、


「だが前例のないことは宮中では認められないだろう」


と、口ごもりながらつぶやいていた。


「私は無理を言っているのかもしれない。だが、帝はこの編纂の前に我々に続万葉集の編纂を望まれた。その時我々はこれまでにない部立てを行い、長歌を詠んで献上した。その新しい表現を帝は喜ばれて、我々に新たな表現の可能性を期待してこの和歌集の編纂を命じられたのだ。そして私にはそれに応える用意がある。様式にとらわれない、かなによる序文と言う表現を帝に献上する用意が」


 貫之の言葉は熱い。しかし躬恒はため息をついた。


「淑望殿、いかが思われますか?」


 躬恒は重い口調で淑望に聞くが、淑望も難しい顔をした。


「貫之殿の言葉は歌人としては理想的であろうが、役人達からは受け入れられないだろうな……」


 やはり。そんな空気がその場に流れた。


 宮中内裏は厳格な様式によって作られる世界だ。一つ形を変えただけでも様々な影響を及ぼす。だからそれを乱す考え方自体が受け入れ難い。せめて歌人たちがもっと上位の者であれば、多少なりともその言葉に耳を傾けることもあろうが、卑官の身の上で宮中の様式に逆らうなど帝はともかく、役人やほかの貴人が許すとは淑望には思えなかった。


「低い身分にもかかわらず帝に殿上を許されている皆が、周りからどのような目で見られているかは、皆のほうが良く分かっているはずだ」


 淑望は暗い表情で答える。編纂者たちは多くの者に歓迎されているとは言えない。嫉妬、冷ややかな視線、たびたび行われた妨害。帝の特別扱いにより自分たちが目をつけられていることは編纂者全員、身に染みて知っていた。


「しかし、これまでにないものを帝は望んでいらっしゃる」


 貫之はなおも食い下がった。


「それは本文の中で十分に果たされているではないか。わざわざ貴人たちの反感を買う必要はないであろう? 肝心の歌集そのもののが献上出来なければ、帝の命は果たされないことになってしまう。様式だけはこれまで通りでよいではないか」


「その様式は、唐から習ったものばかりだ」


 淑望の妥協めいた説得に、貫之はすぐさま反論する。


「様式なら淑望の序文で整っている。だが帝は唐の文化に偏った今の世に、そこからの脱却を望んでいらっしゃる。補足とはいえ正式な序文だからこそやる価値があるのだ。この国の言葉を取り戻すためには、より分かりやすく表現豊かなこの国で生まれた文字がふさわしいと私は思う」


「しかし、かな文字は女がつかうための……」


「そんなこと、いつ、誰が決めたのだ!」


 珍しく貫之が声を荒げた。


「女の文化をなぜそうも否定する必要がある? 女がいなければ帝と言えども御子をなすことはできない。宮中の奥は女のためにあるようなものだ。素晴らしい文化もその方々が高貴な御子様方に伝え育ててくださらなければ、浸透することは無いというのに」


「しかし、現実に女やかな文字は軽んじられている」


「だからこそ、かな文字を使う必要があるのだ。かな文字の価値に人々が気付くように。私は内教坊育ちだ。女の文化の深さも濃さも良く知っている。かな文字は決して浅い表現ではない」


 貫之は一歩も引く気配を見せなかった。淑望の意見を封じ込めてしまう。


「この国の言葉を表そうとするとき、異国の文字である漢字に頼った万葉仮名の表現には限界がある。しかし、漢字にかな文字を組み合わせたかな交じり文には無限の可能性があると思う。帝なら、きっとこの必要性をわかってくださる。誰が使っているかなんて関係ない。かな文字はこの国で生まれた文字。自国で生まれたものに誇りを持てずに、この国にどんな希望があるというのだ!」


 強引なまでに自分たちを庇護する帝に、その願いは単に和歌が人々に広まるだけのことではないと貫之は感じていた。和歌によりやまとことばが復活を遂げ、この国の心とともに成長することを望んでいると。この国のさらなる発展のために、新たな文化を必要としているのだろうと。


 貫之は淑望から視線を外すと、皆に向き直って語りだした。


「おびえずに良く考えてください。帝が望んでいらっしゃるのは、この国の新しい文化。古いものを復活させるだけではこの国の文化に未来はありません。それにもかかわらず『変わったこと』だから、『前例がない』からと否定してしまっては、帝の望む文化は生まれないでしょう。表現と言うのは本来自由であるべきだ。かな文字による序文は、きっとこの国に新たな文化を生み出します。唐の国に負けないほどの文化を!」


 唐の国に負けない文化。誰もが心で願いながらも、本当にやまとことばにその力があるのか確かめようとはしていなかった。淑望の序文は『毛詩』の大序や『文選もんせん』の序を強く意識して書かれている。帝に献上するため唐の国の序を参考に、十分に形式を整えている。この序文は正式に認められるだろう。しかしこれまでの唐の文化の踏襲を繰り返していては、この国は永遠に唐の文化から脱却などできない。


「帝は我々に扉を開きかけてくださっている。新たな国風文化と言う未来への扉を。それを歌人である私が閉ざしてしまうわけにはいかないではないですか。扉を開く方法を、私は見つけてしまったのだから」



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