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自尊心(誹諧歌 五)

「何を今さらご謙遜をおっしゃるんです? 私たち若輩を頼らずとも、忠岑殿や友則殿のほうが経験も歌の解釈も豊富でいらっしゃるのに」


 今さらと言いながらも貫之は必死に忠岑の謙遜を否定したくなった。自分たち選者の中でもっともよい立場にいる友則が、今は病でこの場を離れている。それより年上の忠岑からほんの少しの弱気な言葉も、今は聞きたくないような気がしたからだ。しかし忠岑は、


「謙遜ではない。単純に時間のことを言っているのだ。私が君たちより長生きするのは難しい。もし運よくできたとしても、その頃には君たちと肩を並べて歌を詠むことはできないだろう。求める望みが大きくなれば、相応の時間はかかる。私は後々まで歌の栄える世を望んでいる。それを託すのがこの歌集なのだ」


 そういいながら忠岑は目の前の紙の束を愛しむように撫でる。


「……いつかは私も世を離れるだろう。誰もが迎えなくてはならないことだ。だが、その日が来てもこうして共に歌を並べた君たちが志を受け継いでくれる。この世に素晴らしい歌集が残る。この歌集の編纂者に選ばれたことは、私にとって何よりの誇りとなる。この歌集は我々歌人にとって、矜持を持ち続ける支えとなるのだ」


『歌人の矜持を残し、伝えたい』その思いは貫之や躬恒も同じである。同じではあるのだが……、忠岑はさらに覚悟が深いように思える。それは残された人生の時間の差からくるものであろう。忠岑でさえ時が容赦なく減っていくのを実感しているのだ。この場を離れ病と闘っている友則は、どれほどの思いを抱いていることだろうか。


「この先わが身がどうなろうとも、歌人の矜持だけは持ち続けたい。いや、自分の心だけは失いたくないものだ。この興風殿の歌のように」


 そういいながら忠岑が示した歌は、



  身は捨てつ心をだにもはふらさじつひにはいかがなると知るべく


 (身は捨てたが心だけは放るものか。自分が最後にどうなるものか知れるように)


 忠岑は貫之たちよりも身を捨てる日への実感が強いようだ。それだけにこの歌への思いは歌人としての矜持はもちろん、いつ身を捨てる日が来ようとも、最後まで自分自身として生き抜く覚悟を持つ、自尊心も現れているようである。自分の人生への誇りは、たとえ身を捨てても失われることはないのだろう。


「ご自分の最後を見届けられるお覚悟。そのお心こそ、官位などよりも素晴らしいものに思えます。私などそうした覚悟がありませんから、せめて官位で自分を取り繕いたいと考えてしまうのかもしれません」


 身を捨てる日など、まだまだ自分には遠い先のこと。それよりも今目前にある与えられた仕事を全うするのに精いっぱいな貫之は、忠岑や年配の歌人たちの覚悟に驚かされるばかりだった。


 しかし躬恒は少し考えが違うようで、


「官位で取り繕う。結構な事じゃないか。歌人は心を歌に詠む者だ。聖人のように煩悩を捨ててしまっては、人の苦悩や喜びなど読めなくなってしまう。擬人も投影も意味のないものとなるではないか。煩悩結構。むろん自尊心を捨てる必要もない。そもそも自尊心と虚栄心は別の物だ。自尊心のために官位を求めるのも悪くないだろう」


 と、官位を求める生き方を肯定する。すると忠岑も、


「躬恒の言う通りだ。煩悩も官位も悪くない。何より人の人生そのものが悪くない。人生の苦悩も喜びも歌に詠めば皆美しい。人生は味わい深いものなのだ。せっかく人として生まれたのだから、煩悩を味わい尽くすほうが興も深まるというものだ」


 と賛同する。


「ただ、我々は歌人だ。興深い人生の煩悩も過ぎ去ればすべて淡雪のように消えてしまう儚いものだ。その儚いもののあわれさを歌に残し、人々の心にとどめるのが我々の役目。儚いものを儚く終わらせないために、我々は歌を詠まねばならない。そのためにも私は最後まで心を失いたくないのだ」


 躬恒も貫之も、自分が身を捨てる覚悟を決めた時の心までは、本当に理解できてはいないのかもしれない。だが真剣に語る忠岑の姿や興風の歌に触れる時、こうした歌人たちの心を受け継いでいかねばならないと思うのだ。それ以前に歌人は理屈抜きに歌を求めるものではあろうが。


「それが歌人の性というものなのかもしれませんね。千里殿が詠んだこの歌も、一見自嘲気味に思えますが心に秘めた自尊心を感じます」


 その、大江千里が詠んだ歌は、



  白雪のともにわが身はふりぬれど心は消えぬものにぞありける


 (白雪が降ると同じくわが身も古びて年老いてしまったが

  心は雪のようには消えないものであったよ)



 人は老いるほどに過ぎ去る時の速さを知り、人生の儚さを思い知るもの。若ければやり直し、成長することを夢見て生きるが、老境を迎えればいっそ綺麗に消し去ってしまいたい思いも多々あることだろう。

 しかし人は雪のように消えることはできない。過ぎ去って儚くなった出来事や想いも、何らかの足跡は残る。人々の心に。何よりも自分の心に残ってしまう。この歌はまるでそれを恥じているようにも思える。


「でも、私はそれだけの歌とは思えないのです。千里殿がご自分の心を雪と比べられたのは、雪は美しくとも儚く消えるばかりの物ですが、人の心は決して儚くなどない。その身が消えても世に確かに残るものだと……歌人である以上、歌の心を残さねばならぬと覚悟されている歌のように感じるのです」


 貫之がそういうと躬恒もうなずいた。


「私もそう思います。これも歌集の編纂のために、多くの歌、多くの歌人の心に触れることが出来たからでしょう」


 それを聞いて忠岑は、


「二人の言葉を聞いて安心した。その思いがある以上、歌人たちの思いは必ずやこの歌集を通して人々に伝わることだろう」


 と、ほっとした表情を見せた。そして、


「これなら私も前言を撤回して、わざわざ生き恥を抱え込まずにさっさと出家して、煩悩を消し去った方が気が楽かもしれんな。特に恋の煩悩などいつまでも持っていると、世間に笑われる。このよみ人知らずの歌のように」



  梅の花咲きてののちのみなればやすきものとのみ人に言ふらむ


 (美しい梅の花が咲き終えて、ただの実のようになってしまったわが身だから

  人生の花の頃と違って、人々は酢き物……好き者というのだろうか)



 と言って笑う。


「何をおっしゃいますか。恋の花などいつかは散る儚いもの。実がなってこそ真実がある。梅の実にこそ真実の愛、人の心があるのでしょう。忠岑殿は煩悩を手放したりなさいませんよ」


 躬恒がそういうと貫之もつられて笑う。


「おやおや、貫之は笑っていていいのか? お前こそもっと恋の煩悩が必要だ。ここに女人からの恋文が届くくらいにな」


 と言ってからかってきた。貫之が言い返そうとしたその時、


「貫之殿に、内教坊から使いの者が参っております」


 と、部屋の外から声をかけられた。


「おや、いつの間にか隅に置けないやつだ。いったいどなたからの使いだ?」


 躬恒は興味津々で使いの顔を見ようと部屋の外をのぞいた。するとそこには見た目も愛らしい幼い少女が立っていた。


「ほう。使いの主がこの子の姉や母なら、かなりの美人と察するが」


 好き勝手なことを言う躬恒に貫之は苦笑しながら、


「この子の主は女孺にゅじゅ(内教坊の女官)の長だよ。大歌所の歌を見せていただくために許可をいただけるよう、大歌所の別当べっとう(長官)へのつてを頼んだのだ」


 と言って、使いの子に言づけを促した。


「別当様が私の主に『ご覧いただく準備が整った』とおっしゃってました。今夜にでもお越しくだされば、大歌所の案主(職員)様がお通ししてくれるそうです」


 と、少女ははきはきと言う。貫之は笑顔で少女に礼を言った。


「ありがとう。女孺殿に礼を言いたい。今うかがってもよいだろうか?」


「大丈夫だと思います。一応私が先に帰って、貫之様がお見えになるとお伝えしておきますね」


 言うが早いか、少女は風のように飛び出していった。てきぱきとした、身の軽い子のようだ。


「本当はその女孺と良い仲なんだろう?」躬恒はしつこく勘ぐった。が、


「残念だな。確かに彼女は素晴らしい人だが、とてもご高齢の方だよ。何しろ私が子供の頃に世話になっているのだから」


 と貫之はさらりと受け流した。


「なんだ。つまらんやつだな。せっかく内教坊に知り合いがいながら……もったいない」


「内教坊は私にとって故郷さ。恋を楽しむより心安らぐ場所なんだ。ちょっと、昔なじみのおばば様に会ってくるよ」


 そう笑って貫之は内教坊へと向かっていった。




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