深山隠れの朽木
貫之他登場人物の人生は私のフィクションですが、貫之の恋愛は全く分からないために、想像がより強くなります。ここもそういう色が濃い場面になります。
貫之にとって内教坊は生まれ故郷も同然の場所である。訪れるたびに懐かしい気持ちになって、ほかの男たちのように艶な気持ちにはなれない。
その代わりにこの場所は貫之を心から寛がせてくれた。女たちの局の前を通れば幼い日に走り回った感覚がその身によみがえるし、心は母の背に揺られていたころへと戻る。
そんな感慨にふけりながら貫之は「おばば様」と呼ぶ古くからのなじみの顔で今では女孺の長を務めており、未選(女孺見習い)の世話をするだけでは飽き足らず、才能ある妓女たちの指導まで行っている老いた女官のもとに顔を出した。
内教坊の女孺や妓女をまとめるのは本来なら頭預と呼ばれる人の仕事なのだが、ここにいる未選の数は五十人。さらに妓女たちもいるので頭預がたった一人ですべての人に目を配ることは出来なかった。自然と長く内教坊に暮らす勝手のわかる人が頭預を助けている。
「おばば様」もそんな人で、元は身分の低い出身の妓女であったが、彼女自身が舞うことよりも人に舞を細やかに教えることの方に長けていた。しかも内教坊に長く暮らしていたので儀式の次第やしきたりなどもよく知り、慣れている。
そこで年を経た彼女は身分を妓女から女孺に変えられ、その長として長年頭預を助ける役目を特別に担っていた。あまりの身分の低さから内侍司などに移動することもないが、それだけに妓女たちや未選達からの信頼も厚く、今や内教坊にはなくてはならない存在となっていた。
そんな人なので子供時代に内教坊で育った貫之は「おばば様」にずいぶんと世話になっていた。当然貫之はこの人に頭が上がらない。
「このたびは無理なお願いをして、申し訳ありませんでした」
貫之は頭を下げる。
「いいえ、大切な帝からの詔を受けての編纂作業の、ほんのささやかな手助けになれるのなら、わたくしのみならず大歌所やこの内教坊にとっても誉となります。今の大歌所の別当ならわたくしも古くから知っていますし、あちらも喜んで協力を願い出てくれましたの」
そういって女孺の長は漏れた微笑みを扇で隠した。身綺麗な装束に濃い化粧を施し、年の割には見栄えも悪くはない姿なのだが、やはり微笑むとその顔には深いしわが刻まれる。
使いの童女は二人のあいさつを交わす様子をおとなしく見ていたが、「おばば様」が褒美の果物を渡しながら、
「貫之殿とお話をしている間、遊んできて良いですよ」
と声をかけると、行儀よく礼を述べて庭に出ていった。
「よい童ですね。確か亡くなった妓女の娘だとか」
貫之が少女の背を見ながら聞く。
「ええ。大変舞に優れた人だったのですが、急な病で。妓女が相手と言うことで男のほうでもあの娘に関心がないらしく、彼女に舞を仕込んでいたわたくしが育てています」
「ふびんな身の上なのですね。けれどそれを感じさせない、明るく活発な子に育っている。おばば様のそばにいられて、あの子も幸せなのでしょう」
「あなたもふびんな身の上ながらここで育って、立派に今では帝の務めを果たされるようになりましたものね。あなたはこの内教坊にとっても自慢の種となっていますわ」
「私は母上がいましたから。ここを出てからも親族の人々が私にとてもよくしてくれました。こうして帝の命で和歌集の編纂をさせていただけて、少しでも私に良くしてくれた人々のご恩に報いられればと思っております」
「それはよい心がけですが……。あなたも人の心配よりも、いい加減ご自分のお子を持つことを考えられてはいかがです? 実はわたくしが今仕込んでいる娘が、技はもちろん、気立てもなかなか良いのですよ。ちょっと稽古の様子など垣間見てはいかがかしら?」
そらきた。貫之は心の中で身構えた。結婚について口やかましく言う親などいない貫之ではあるが、幼いころから彼を知っている自分の母親ほど高齢の「おばば様」は、まるで貫之の親のような、ずっと年かさの姉のような心で貫之の身を心配している。
内教坊にて実力で出世を果たした人らしく、位や身分にかかわらず貫之が歌人として身を立てていることには安心しているのだが、彼が結婚もせずに遊女とばかり浮名を流していることには、良い感情を持ってはいないようなのだ。
そこで貫之は少々小賢しい細工をした。まるではぐらかすかのように、懐から扇子を取り出そうとして、わざと一緒に小さく畳まれた手紙を落として見せた。「おばば様」にそれを指摘されると笑いながら、
「いや、去年の秋にちょっとした女人と知り合いましてね。この女がなかなかしつこくて」
と言って見せた。「おばば様」はさっそく、
「その方と結婚するおつもりですか?」と聞くが、貫之は深長な笑顔を見せる。
「それはまだ、なんとも。ただ、なかなか返す歌は魅力的なのです。私も歌よみ。良い歌を詠む人は捨て置けないところがあります。よかったら歌だけご覧になりますか? これはその女が去年紅葉した萩の葉に付けて贈ってきた歌です」
秋萩の下葉につけて目に近くよそなる人の心をぞ見る
(すぐに変わってしまうこの秋の萩の葉の色のように、
私の目の近くにいらっしゃるあなたも、
そのお心がよそにあることが見えてしまいます)
「まあ、なかなか意味深い歌ですこと」
「小癪でしょう? 気が強そうな人なので、私も歌を返したんです」
世の中の人の心を染めしかば草葉に色も見えじとぞ思ふ
(世の中のすべての人の心を染めてしまう魅力的なあなたです
萩の草葉の色をした私の心など、目に入ってもおりますまいに)
「こう詠んで贈ったら、この女もこちらを責めるような、それでいてなびくような良い歌を返すのです。そんな歌を贈り合っているので、今はとてもおばば様のお言葉に従うわけにはまいりませんね。その娘に御迷惑がかかりかねませんから」
貫之がそう言うと女孺の長も食い下がってはこなかった。実はこの歌、双方とも貫之自身が作った架空の恋の連歌なのだが、はたしてこの歌のやり取りを「おばば様」が本気にしたのかどうか。長く内教坊に努める優秀な女官である。貫之の本心など見抜いているかもしれなかったが、今は彼が結婚する意志がないことだけは伝わったようだ。
「……それでは仕方がありませんね。代わりと言っては何ですが、わたくしからのお願いを聞いてはいただけませんか?」
「おばば様が私に頼みとは何でしょう? たいしたお役になどなれぬ身ですが」
「実は私の育てている女童のことなのです。あの子は妓女になりたがっているのですが、父親がさっぱり面倒を見る気がありません。今はわたくしが育てていますが、私も高齢の身。とても先々の後ろ盾まではできません。わたくしはあなたにあの子の、後見を任せたいのです」
これには貫之も仰天した。
「私が? あの子供の面倒を見る? まだ結婚もしていない私が?」
「だって、あなたはいつまでも結婚する様子がないではありませんか。わたくしもいつまで生きられるかわかりません。ここで育ち、妓女たちの心を良く知るあなたになら、あの娘を任せられます。後々大人になったら、妻にしてもかまいませんから」
かまわないと言われてもあの童はせいぜい七、八歳だろう。後の妻と言われても実感もわきようがない。しっかりしているとはいえ、やはりおばば様も年を取られたようだ。
「私が元気なうちはもちろんあの子の面倒はわたくしが見ます。六、七年もすればあの子も立派な妓女になるでしょう。それまではわたくしも老いを忘れてあの子を育てます。あの子には芸のすべてを身に付けさせますし、わたくしの遺せるものはすべてあの子に捧げるつもりです。本当に、形だけでよいのです。あの子が妓女として独り立ちができるように、『歌人貫之』の名で、あの子を守ってほしいのです」
芸のすべてを身に着けさせる。貫之は少女の身のこなしと行儀の良さを思い出した。おそらく素質があるのだろう。だがその素質は、おばば様の身に何かがあれば伸ばす機会が失われてしまう。その支えになってほしいというわけか。
とはいえ、人ひとりの人生がかかっている。自分は歌人の名を高めてはいても、実質は卑官のしがない身。軽々しく返事はできなかった。貫之は言葉を濁してその場を後にしようとした。
「お待ちになって。編纂中の皆様に召し上がっていただきたい、お菓子があります。あの娘に持たせましょう」
そういって少女を呼ぶと、美しい箱に詰めた菓子を持たせ、貫之の後を追わせた。娘を手なずけさせて情に訴えるつもりかとも思ったが、動揺していることもあって断りの言葉が思いつかず、結局娘とともに内御書所に戻ることになってしまった。
歩き出してしばらくすると、娘が声をかけてきた。
「貫之様は私の後見がお嫌なの? 私、あの紀貫之様に応援していただけるなんて、すごく素敵な事だと思ってうれしかったのに」
「おばば……いや、女孺殿はそんなことまで君に話したのかい?」
「ごめんなさい。さっき、お二人の話を立ち聞きしていたの」
「油断のならない子だね。君の大切な人生を、私が軽々しく背負ったりはできないよ。人の人生を背負うには大きな責任が伴うからね」
「でも私、貫之様が後見してくださらないと、きっと妓女にはなれないわ」
「そんなことは無い。女孺殿は責任感の強い方だ。必ず君を素晴らしい妓女に導いてくれるだろう」
貫之はそう請け負ったが、少女は意外にも頑なだった。
「女孺様が私のために心を砕いてくださっているのは知っているの。でも、私はお優しい女孺様にご心配をかけたくないの。妓女にならずに誰かのお役に立つ仕事をすればいいのかもしれないけれど、私にはどうすればいいかわからないし、やっぱり妓女になりたい。だから、貫之様が私の後見をしてくだされば、女孺様が安心してくださると思ったのに」
「君は女孺殿のお使いとして、立派に役目を果たしているよ」
「そうかもしれないけれど……。私がもっと早く、大人になれればいいのに」
少女は悔しげに唇をかんだ。しっかりした気の強さもあるらしい。ますます妓女には向いているだろう。貫之はこの少女に、昔自分が歌の道に入るために、学者としての出世をあきらめた若い日のことを思い出した。少女はあの時の自分よりもずっと幼いが、その心の中にある思いはそう変わらないのだろうと思った。
「それに貫之様は意地悪だわ」
「私が意地悪かい?」
「ええ、あのお歌のお返事。『心を染めし』って褒めておきながら、『色も見えじと』って文句を言っているのだもの。せっかく女の方からお歌を贈られているというのに。冷たいわ」
「そんなに前から聞いていたのか」
さすがは粋筋で育っているだけあって、ませている。面白い子だと思っていると少女はさらに、
「私がその女の人なら、『深山がくれの朽木なるらん』くらいは返すわ。あなたはどなたの深い山で、朽木となるまで心を捧げるのかしらってね」
貫之は感心した。幼いのになかなかいい感性を持っている。
「その歌の初めはこう詠むと良い。『春秋にあへど匂ひはなきものと』もう季節は春となっているからね。そして私は君の歌にこう返そう」
奥山に埋もれ木に身をなすことは色にも出でぬ恋のためなり
(私が山の奥の埋もれ木のように目立たぬ身の上に甘んじているのは
色にも出せずにあなたに恋しているせいなのです)
「恋と言うのはむやみにあからさまにしないものなんだよ。だが、君のように物事をはきはきと言う子は気持ちが良いと思う。よろしい。おばば様がどうしても君の世話ができなくなったら、私が君を援助してあげよう。だから君は心置きなく立派な妓女を目指すといい」
「本当に? 私は妓女を目指していいのね?」
少女は晴れ晴れとした笑顔を見せて喜んだ。そして内御書所に戻ると貫之は事の顛末を躬恒に話して聞かせた。
「ほう。それはなかなか出来の良い連歌だな。お前の作った歌が面白いのはもちろんだが、その子供の切り返しも手ごたえがあるじゃないか。天下の紀貫之にそんな見事な歌が返せるとは素晴らしい。惜しいなあ。もう十歳も年かさならば、今すぐお前の妻にしてもよいくらいなのに」
躬恒がそうからかうので貫之も、
「いささか年が若すぎたな」と笑う。
「いやいや。これでお前も生涯独身だけは免れたわけだ。どんなにぐずぐずしてもその少女を妻にできるのだからな」
「バカを言うな。あの子は大人になれば良い妓女になるだろう。そうなれば若い男が放っておかない。あっという間に通う男が現れるさ。それにおばば様も口では気弱な事を言っているが、あの子が何よりの生きがいになっているんだ。あの人はきっと長生きする。あの子の面倒どころか、その子供のお守りも買って出るだろうよ」
「いや、人の人生はわからないぞ。その娘、相当手ごわそうだ。お前と真っ向から歌で張り合えるほどの力がなければ、なかなか男も近寄れなくなるかもしれん。そうなったときはお前が妻にしてやれよ」
「おいおい、あの子が年頃になれば、私は四十男だぞ」
「だからお前も頑張って、若い男に侮られない官位を得るのさ。お前が目標に挙げる五位の位を娘のためにも手に入れるんだ。いいじゃないか。位を得るまでは目的に張りが出来るし、位を得ればその娘でなくても妻を迎える覚悟もできる。朽木が隠れる深山には困らずに済むぞ」
気楽に勝手なことを言っているとは思ったが、躬恒の考え方も面白いと思い、女孺の長に「女童の件を了承した」と伝えると、彼女はこれで娘の先行きも、貫之の妻の件も解決したと大喜び。寿命が十は若返ったかのようだ。これならおばば様が自分で十分に娘を育て上げるだろう。自分は本当に形ばかりで済みそうだとホッとする一方、あの面白い娘ともう少しかかわってみたかったと、惜しむ心が交錯した。
貫之の恋愛らしい記録としては、「近江」という女性と何らかの交渉があったこと、そしてこの「ある女性との問答歌」くらいしかないのですが、残念ながらこの問答歌も貫之が作った架空の恋愛世界の登場人物を描いた作品の可能性があるそうです。
彼ほどの歌人で、有名プレイボーイ「平中」とも仲が良かったというのですから、貫之も相当に「粋筋」には長けていたはず。
仕方ないので思いっきり想像に任せて書いてます。ご容赦を。




