やまとことば
この話では藤原基経を悪役として扱っています。話の進行上作者が「阿衡の紛議」を宇多天皇・菅原道真側の視点によって書いているからです。
しかし阿衡事件は矛盾も指摘されていますので、基経側の視点に立てば別の解釈もあります。
これは作者の創作のための解釈ですので、誤解のないようにお願いします。
あくまでもフィクションですから。
宇多帝の即位した年、世の中は帝のもたらした新風に新たな息吹を感じていたが、実はその頃帝は窮地に立たされていた。後の世に「阿衡の紛議」と呼ばれる政治的事件が起こったのだ。宇多帝は朝廷で大きな権力をふるっていた太政大臣の藤原基経の力によって帝の地位に即位した。当然即位したばかりの帝は権力者の基経に、これまで通り実務的政務の執行を頼らなければならない。そこで帝は基経に引き続き太政大臣として政務を執行するよう詔を出したのだが、その詔に、
「阿衡の任を持って、卿の任とすべし」
と任じた。だがこれに基経が不満を申し立てた。
「帝。たしかに阿衡とは唐の故事では、すべての機会において広く摂政する意味がありますが、文章博士の藤原佐世が言うには『阿衡は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務が無い)』とのこと。この詔は私に対する皮肉にも取れるのですが」
「私は阿衡に職掌が無かったなど聞いたことが無いが」
戸惑う帝に基経は、
「帝がそう言うお気持ちであるなら、私はとても政務など行えません。帝の御信頼が得られぬのなら、私は今後の政務を放棄させていただきます」
と言って基経は本当に一切の政務を放棄してしまった。基経は若い青年天皇が藤原氏の傀儡に終わらない存在であると考えた。そのため帝に釘を刺す必要があったのだ。
帝は屈辱を味わった。基経は自分を見下している。基経の外孫のために一度は臣籍に下された自分を、帝として基経は実質認めていないのだ。政を動かせるのは基経しかいないのだから、黙って基経に従えと……。
何と言う傲慢。それならばと帝は他の文章博士たちに、
「本当に阿衡には職掌が無かったのか調べるように」
と命じた。だが、博士たちは皆、
「やはり、阿衡は職掌が無かったようでございます」
と、佐世の意見に同調した。朝廷一の権力を持つ基経を誰もが恐れてのことであった。
帝をかばい、基経の意見が強引で不遜だと反発したのは、橘広相ただ一人だけであった。基経はその唯一逆らったを広相を処分し、詔を撤回するよう求めてきた。
この時帝に味方をする者は一人もいなかった。基経の多大な権力の前に若い帝はなすすべが無かったのだ。
無念……!
帝は身を焼く思いで広相を罷免し、詔を撤回した。しかし基経はさらに帝を追い詰めようとする。
「多くの博士の意見に耳をかさず、政を滞らせた橘殿への御処分が、あまりにも甘いのではありませんか? 橘殿は遠流(流罪)に処するべきかと」
「何を申す! この件は橘殿にそれほどの非は無いであろう!」
帝はそう言ったが、基経は繰り返し「橘殿に、遠流を」とせまった。
この一件はどう考えても広相に罪は無い。これは権力者に逆らった者への事実上の制裁だ。自らの見せた隙によって何の罪も無い者をこれ以上罰することなど、この清き青年の帝には出来なかった。もちろん基経もそう言った帝の気性を見抜いての心理的圧迫である。帝は再び窮地に立たされる。
だがこの時、帝を助ける者がいた。基経のもとに一通の書状が届き、基経は怒りを解いたと言う。その書状は讃岐守、菅原道真からの物であった。その書状の内容は、
『太政大臣(基経)殿がこのまま詔の文字の使い方という些細なことで帝の政治を滞らせていては、藤原北家のためにならない』
と言う沈着冷静な物だった。
時の帝と世を統べる太政大臣が意見の相違を戦わせていては、誰もが恐れをなして口をはさむことなど考えも及ばない。そんな中、一介の地方の国司が都の政を案じ、一方帝や朝廷、権力者であるはずの藤原氏が細事にこだわり紛争して政を滞らせているのである。理は明らかに讃岐守にあった。
「一介の国司の身でありながら、なんと言う気概を見せる男だろう」
この時帝の心には、道真の名がくっきりと刻みこまれた。
基経が鉾を収めたことで、紛議は解決した。だがこれによって帝は基経の傀儡であることを思い知らされた。
しかしこの気骨ある青年の帝はそのまま折れたりはしなかった。政務ではなく後宮文化や文芸の振興にいそしみ、政以外において世の革新を図って行く。人の心によって作り出される後宮文化や文芸の道までもは、権力者の力さえ及ばぬところであったのだ。
そして時は帝に味方した。四年後の寛平三年(八九一)、基経が亡くなると左大臣 源 融、右大臣 藤原良世もそれぞれ七十代の高齢で、権力者基経の嫡子である時平もまだ二十一歳と若年。ようやく参議として政にかかわるようになったばかりで、藤原氏の権力は一時的に弱まっていた。
帝はこの期に乗じて、天皇による盤石な体制を作り出そうと考えた。そうすることによって我が国の独自文化推進による国家としての基盤をを作り出そうとしたのだった。
帝はさっそく讃岐守であった道真を蔵人頭に抜擢した。以前、帝の窮地を救った道真は帝の注目を得る事となり、基経亡き後、道真を天皇側近の要となる要職につけたのだ。
そしてますます文芸の振興に力を注いだ。それまで恒例の行事としての詩宴は内宴と重陽宴ぐらいしかなかったのだが、この帝の御世では曲水宴、七夕宴までもが恒例化した。内裏の行事とは別の帝自身による詩宴は、さらに多く行われた。
道真を蔵人頭に起用して間もなく、帝は道真を呼ぶように人に言った。
「また、宴でございますか?」
伝言を頼まれた人は明らかに非難を交えてそう聞いた。殿上人達が宴にばかり力を注ぐ帝を快く思っていないと言いたいのだ。
「そうだ。蔵人たちに手配を私自ら命じたい。だから道真を呼んでくれ」
そう言う帝は殿上人の不満など意に反さぬ口調だ。帝は自分の意志は必ず付き通す。そんな姿勢をずっと貫いている。
時を待たずに蔵人頭の道真は帝の前に現れた。かしこまる道真に帝は用件を伝える前に個人的に話がしたいと道真を近くに呼び寄せた。道真は不思議に思いながらも帝の傍に控える。
それを見て帝は道真に何を問われても正直に、自分の真意を答えるようにと言った後、
「道真。私はそなたを信頼するとともに、そなたのこの国の政に対する志の高さを確かめたく思う。そなた、この国の文化についてどう思っている?」
帝は道真にそう、問いかけた。
「この国は古来より遠く唐の国からさまざまな事を学んでまいりました。その教えは大変尊く、その文化を積極的に取り入れられた歴代の帝の徳により、この国はこのように栄える事が出来ました。ですが……」
「あまりにも、唐の文化に傾倒しすぎている。そう言いたいのだな?」
「さすが主上(帝)。我が心のうちなど見通されているようでございます」
「そなたはそう言う考え方をするものだと信じたから、私はそなたを抜擢したのだ。そなたは大変に学識が深く、さらに漢詩の名人でもある。その心はこの国の事をとても深く案じている。それだけに唐の文化だけに留まらず、より広い視野で物を見ているのであろう。そんなそなたに私は打ち明けたい事がある」
「ただ人ならぬ、その御身に神を宿らせたる帝が、私などに一体何を打ち明けると言うのでしょう?」
「今はそなたと同じただ人の言葉として聞いて欲しい。確かに唐の国は素晴らしい文化を我々にもたらしてくれた。政だけでなく、さまざまにこの国の基礎を築き上げてくれた。それは先人たちの大変な苦労の末の事でもあり、その文化を私は否定する気はない」
「まったくでございます。この都は唐国に負けぬきらびやかさがあると思っております」
「だが、私は思うのだ。この国は今のままで良いのかと。かつてわが国にはわが国特有の文化があった。この国の神々の声を聞き、それを言葉にし、受け継いでゆく『やまとことば』があった。そしてそれをもとにした文化、和歌の世界があったのだ」
「主上は大変な文芸趣味をお持ちだと伺っております」
道真がそう言った時、帝は悲しげに目を伏せた。
「趣味……。そう、この国ではやまとことばを趣味と呼ぶ。朝廷の政はすべて漢字漢文にて行われる。成程、唐の文化は大変に合理的で文化的だ。役に立つ教えであり、これが無くては我が国の発展は無かったのであろう。しかし我が国は唐国の文化ばかりに頼っていて良いのであろうか? 唐国の文化によって作られたこの国を、我が国の人々は心から自分の国として誇る事が出来るのであろうか?」
「主上は、今のこの国の文化に御不満をお持ちなのですか?」
「不満と言うより、物足りぬのだ。唐の政にならい、唐の言葉を使い、文芸までもが漢詩こそ文化的な物と信じられ、我が国の言葉で語られる和歌など低いものと見られている。だが、やまとことばによる和歌と言うのは、それほど程度の低いものであろうか? 我々が心から沸き上がる物を我々の調べに乗せて語ることは、そんなにも文化的に劣る事であろうか?」
若い帝は、その澄んだ瞳を道真に向け、語り続けた。
「私はそうは思わない。この国に古来から伝わる歌は……やまとことばは美しい。我々の心にすんなりと溶け込む文化的な言葉だと思う。言葉の問題だけではない。魂と文化の問題だ。そして我々は決して非文化的な人間ではない」
「もちろんです! この国は素晴らしい国です!」
「そう思いながら、何故この国の人々は何事にも唐の文化に頼るのだ? たとえ漢詩であろうとも、そなたの様にこの国の魂を宿らせる事も出来ようものを、何故そうしない。自分の国の古来からの魂が、そんなに信じられぬと言うのか」
「この国の和御魂を信じないわけでは……」
「信じていない者が多いと思う。自国の魂を信じず、唐の制度に傾倒している。帝を信じず、権力におもねっている。唐の言葉に頼り、自国の物としない。皆、自国の文化に誇りが無いからだ! 魂が無いからだ!」
帝はそう心の叫びを吐露するとさらに、
「これではまるで、唐の属国ではないか……!」と嘆いた。
その姿を見て道真は感動した。帝の行いはただの文芸趣味からではない。心の底からこの国を愛し、この国の行く末を考えている。それだけに深く苦悩していらっしゃる。道真は思わず問いかけた。
「主上は、この国を一体どうされたいのでしょうか?」
「道真。私は一度臣下に下された身の上だ。普通なら晴れがましい元服の日が、私にとっては母子共々臣籍に下された屈辱の日となった。私は皇族としては一度死んだも同然の身であった」
帝は遠い目をして、その手を握り締める。まるでその日の屈辱の味を再び舐めるように。
「だが、運命のいたずらかめぐりあわせか、私はこうして帝位に着くことが出来た。こんな私に恐れる物など無い。私はこれまでの帝のように藤原氏の傀儡に終わるつもりはない。一度は死んだ身。私はこの国の文化を変えようと思う。唐の文化に頼らず、この国の言葉と文化を復権させようと思う」
帝の目の色が変わる。それまでの怒りから、新たな目標に対する意思と覚悟を思わせる物へと変化する。遠くに見える、崇高な物を目指す目となる。
何と言う気概。何と言う志の高さ。道真はこの若い帝に心からの尊敬を持った。
「道真。私の考えは間違っているだろうか?」
そう問われて道真は答える。
「私も主上のおっしゃる通りだと思います」
「私の言う事は、途方も無い夢だとそなたは思うか?」
若い帝の言葉に道真は首を横に振ると、微笑んだ。
「夢は叶えようとする者がいなければ永遠に夢のままでございます。主上のその夢は今、私の夢になりました。私はこれから恐れ多くも主上と夢を分かち合う事が出来ます。決して途方も無いなどと言う事はありません。我々がこうして夢を追う決意を持ったのですから、いつの日かきっと叶う日が来るはずです」
「……私もそう、思う」
この日、こうしてこの国の文化を変える歴史は、静かに幕を開けたのだった。




