決断
大学寮で貫之や淑望は知識を精力的に吸収していった。漢文の詩文集である文選や漢語の辞典の爾雅を暗記し、あらゆる唐の文化や、漢音の正確な発音を身に付けた。教えを請うだけでなく、知識欲のおおせいな六位以下の仲間と共に議論し、さらに深い唐文学の解釈なども論議した。彼らが解釈にこだわったのは、文章生を目指すためである。文章生となるためには省試という試験を受ける必要があるが、これには文選や爾雅の暗唱のほかに、その深い解釈が求められた。解釈を深めるには漢詩文を理解するだけでは足りない。その漢詩にまつわる文学にも詳しくなければ、深い解釈は得られない。
文章生の定員は二十名。しかし彼らが採用されるには決して楽な道ではない。なぜなら大学寮の中には学問に秀でた家柄から優れた環境で学んだ上位貴族の子息たちが多くいるからだ。彼らに負けたくない一心で貫之達は学問に励んだ。
それでもたまに友則の邸でさまざまな和歌に触れ、そして気晴らしに自分でも歌を詠んでみる。貫之がそんな事をして過ごすうちに時は駆け足で過ぎていく。日々の生活を送るうちに、少年たちはいつしか立派な青年となっていた。
その大学寮で学問以外にちょっとした競争が起った。学生たちは曹という寄宿舎で寄宿生活を送らねばならないが、貫之や淑望が暮らす学寮内にある直曹では彼らの食事の世話や雑用をする女官たちがいた。皆身分の低い女たちであるがその中に一人、その身に似合わぬほど美しい娘がいた。
縹色の袍を身にまとい、遊びや女人に興じることなく学問に励む者たちでもその娘の事が気になった。浅緋色の袍の者でさえ学寮外の女人のもとに好きなだけ通っていても、その娘の事は見過ごしてはおけなかった。その美貌から彼女が女官の中でも特に優れた人が選ばれる「得選」となって、直曹を離れるのも時間の問題と思われた。彼女に声をかけられるのも今のうちであろう。
学生たちはその娘に競って文を贈った。身分の良い浅緋色の袍の者も表向きは、
「あんな賤しい女、僕の相手になどならない」
と言いながら、陰でこっそり人に頼んで文を贈っていた。だが娘はまだ心動かされてはいないらしい。それでも彼女の優しい仕草や気配り、美しい声の虜となり、思い切って文を贈る者もいた。その中に貫之も入っていた。
皆唐の漢詩を学ぶ学生である。ほとんどの者がそれらしく漢詩を贈ったが、貫之は歌を贈った。後に寛平御時后宮歌合にて披露される歌である。
君恋ふる涙しなくは唐ころも胸のあたりは色もえなまし
(あなたに恋して流す涙がなければ私の衣の胸のあたりは
恋の火の色が燃えていたことでしょう)
若者らしい情熱の歌であった。娘に歌を贈ったと聞き、同じように娘に憧れた淑望など、
「貫之が歌を贈ったのなら僕に勝ち目はないな。君のその優しげな美しい風貌で心揺さぶる歌を贈られては、太刀打ちできない」と嘆いた。
貫之は美しい青年であった。妓女である母から美貌を受け継ぎ、しかも内教坊で女達に囲まれて育ったせいで、いかにも優しげな、人懐っこい心開かずにはいられない魅力にあふれていた。同じ位の低い学友たちから親切を受けていたため、性格も明るく屈託がなかった。
彼の身分が恵まれていれば、今頃毎夜のように美しい女達との逢瀬を繰り返していた事だろう。そんな彼に情熱の籠った歌を贈られて敵う物ではないと思うのは当然だった。
翌日貫之は娘に内密に呼び出された。落ち着かぬ思いで会いに行くと娘は貫之の歌を自らの手で返したいと言う。
「ごめんなさい。あなたに歌をいただいて本当に嬉しかったのだけれど……。実は私の父の仕えている人が、越の国に下ることになったの。それに父共々私達家族も着いて行くことになっているの。もうすぐお別れしなくてはならないのよ」
「そうか……。それは残念だ」
娘が都に戻る頃には、貫之たちは大学寮を出ている。貫之の初恋は実らなかった。
しかし、この密会を誰かが垣間見ていたらしい。翌日貫之は浅緋色の者達にからかわれた。
「さすがは内教坊育ち。女心が良く分かるようだ。どんな好き者も敵わぬな」
「いやいや、実は彼は女なのではないか? いかにもなよやかな顔をしているし」
「おお、いつも一緒にいる淑望など、実は恋人なのではないか?」
流石に温厚な貫之もカッとなってしまった。思わず叫ぶ。
「僕の事ならまだしも、友人達を罵るのは許さないぞ!」
「何を! 賤しい者同士が生意気な。お前は自分の家が曹も持たず、後ろ盾は無位無官の役立たずで我らの直曹を間借りしている身ではないか。嫌ならさっさと出て行くがいい!」
間借りしている身。その通りだった。しかもここで騒ぎを起こせば友則殿に迷惑がかかる。この大学寮に身を置けるだけでもありがたい事なのに。貫之は自分の立場を悟ってしまった。
貫之はある決断をしていた。自分は省試を受けないと友則と淑望に告げたのだ。
「何故だ! 君は僕と肩を並べるだけの学力がある。にもかかわらず省試を受けないとはどういう事だ!」
淑望は貫之にそう言って責めた。これまで学友として互いに努力をしてきたのは、文章生となるためではなかったのか、と。
「もちろん僕も文章生を目指してきた。その真剣な気持ちに偽りなど無い」
「では、何故?」
興奮する淑望を友則がなだめた。
「淑望、落ち着きなさい。貫之、君が省試を受けないと言うのは、我々に対する遠慮があるのだろう?」
「遠慮?」
淑望は愕然とする。これまで自分達は同じ立場、同じ心で学問に励んで来たと思っていたのに、何故貫之が今更自分に遠慮をする必要があるのだろう?
「この家の、紀氏のためには僕は省試を受けない方がいいと思う。はっきり言って、僕が文章生を目指すのはこの家にとって負担が大きいのではないですか?」
友則は瞳を暗く陰らせながらも黙りこんだ。この聡明な青年はすべて理解しているのだ。貫之は淑望に語り聞かせる。
「大学寮には多くの良家の子息が通い、文章生を目指している。そういう家では大学寮に積極的にかかわっている。我々が寄宿させていただいている直曹も、東曹は大江氏によるものだし、西曹は菅原氏のための物。我々はそれを利用させていただいているにすぎない。他に権威のある家々は別曹を持っている。藤原氏の勧学院、在原氏の奨学院、橘氏の学館院、和気氏の弘文院。その学に優れた家の子息たちは、最低一人は文章生となるだろう」
大学寮に入らずとも本来任官は出来る。本当なら大学寮は良家の子息たちの教育機関だ。だがそれによって不遇な家の出身者でも親や祖父がどうにか五位を得ていれば、最大九年間その子息は大学寮で学問を究める道が開ける。不遇な家の子息がその制度を自分の立身出世に利用しているだけなのである。
「しかし文章生には二十人の定員がある。我々はまるで彼らの居場所を借りるように学ばせてもらっている。そして僅かな文章生の席を皆で奪い合う事になる」
「学に優れた者が上に行く。それは当然のことではないか」
貫之の冷めた物の言い方に、淑望は逆に苛立っている。
「それは理屈だよ。世の中は家柄と位が物を言う。自分の家から曹も用意せず、他家の場を借りながら学び、その上さらに少ない席を奪い合う。良家の人々は面白くは思わないだろう。本当は友則殿など、御苦労があるのではありませんか?」
貫之の言葉に淑望はハッとする。この世が何よりもやんごとなき人々への親交で成り立っていることぐらいは、学生の身でも分かる事だった。
「私は歌人としてそれなりに名も知られている。そう、厳しい事はない」
友則はそう言うが、貫之も淑望もその言葉をそのままには受け取らなかった。
「それなのに紀氏から二人も文章生を目指して省試を受ければ、この家への風あたりが強くなるかもしれない。僕の成績なら文章生でなくとも実力を認められて、弁官の職もそう悪くない物が得られるはずだ。だから僕は省試を受ける必要はない。この氏族から受けるのは淑望だけでいい」
これに淑望は納得しなかった。
「駄目だ! 君にはまぎれも無く学才がある。省試を受けるべきは君の方だ。僕が省試を諦める。君こそ受験するべきだ」
淑望はそう言ったが、貫之は首を横に振った。
「そう言う事ではないんだよ。いいか? 君には父上の実績がある。君の父上は文章生どころか、その中からたった二人しか選ばれない文章得業生となって、立派に出世を遂げている。だから息子の君に学者たちも期待していると思う。比べて僕は父親すらいない。父は若く位の低い内に亡くなってしまっている」
若い貴族の出世には父親の後ろ盾が物を言う。父のない子はそれだけで出世には不利だった。
「しかも僕は……賤しい内教坊育ちだ。そんな僕が大学寮で文章生になったりしても、高貴な方々の目障りとなるだけだと思う。この家の役に立つどころか、もしかしたら足を引っ張ることになるかもしれないんだ。文章生を目指すべきなのは僕じゃない、君の方だ」
淑望には貫之の言葉が納得できない。確かにその通りかもしれないが、自分たちに遠慮するあまり、貫之が打算的になっているように思えたのだ。
「君は……君ほどの実力がありながら、自分の生まれのために立身の夢を諦めると言うのか?」
たとえ現実であっても、それはあまりにも悲しかった。
「夢を諦めたりはしていないさ。僕には新たな夢がある」
「新たな夢?」
この時、貫之の瞳が輝いた。真っ直ぐに淑望を見て、真剣に語る。
「歌さ。僕は一流歌人を目指す。友則殿の背を、追いかけようと思うんだ」
「歌だって? 歌では出世は望めない。友則殿がこれほど世に稀なる名歌人として評価されても無位無官のまま、出世にはつながっていない。もしかしたら生涯六位にすら届かないかもしれないのだ。それなのに君は多くの学問を身につけながら、出世の道を諦めるのか」
淑望は失望した。貫之の言葉はやはり、自分達への遠慮からの方便でしかなかったのかと。
「何故、歌では出世できないと言うのだ? 今の帝の世となってからは、文芸への評価は高まっていると言うのに」
「いくら評価が高まっても歌はもともと男女の恋の道具や、宴の余興だった物。そんな物でどうやって出世できると言うのだ」
「世の中は変わってきている。これからもっと変わるかもしれない。帝は多くの詩宴や歌合を催している。僕にはそれが帝の気まぐれにはどうしても思えないんだ。あの道真殿は学識に優れ、漢詩に長けた詩人でありながらも、讃岐守でしか無かった。それを帝が蔵人頭に抜擢なさった。ちゃんと詩人が出世しているんだよ。これからは文芸が出世に繋がらないとは言えない」
「しかし、漢詩と和歌では……」
「和歌は文化的に劣ると言いたいのだろうが、帝はそんな風には思っていらっしゃらないと思う。今の帝になってから詩宴の数が増えたが、歌合の数も劣ってはいない。帝は和歌も漢詩も同じように文化的な物だと考えていらっしゃる。君も以前認めていたじゃないか。和歌も深い知識と確かな見識のもとでは、公務に劣らない評価を受ける価値があると」
淑望は自分の言葉で自分の反論の芽を摘まれてしまった。やはり貫之は賢く、手強い。
「帝は御聡明な方だと思うし、僕も和歌の素晴らしさは認めている。だが、世の中は和歌を受け入れるのだろうか?」
淑望はため息交じりに言うが、貫之は、
「きっと受け入れる。帝が歌合を開くようになってから、良い歌はすぐに世の中に広まるようになった。道真殿のご出世も相まって位の低い者も出世の夢を見ている。世の人々は明るくなっている。それだけ人々は和歌に飢えていたんだ。自分たちの心を自国の言葉で……優しいやまとことばで表すことを求めている。学識を身につけ、優れた歌を詠み続けていれば、きっと出世の道が開ける時が来る。これから時代は変わってゆくのだ」
と言いきった。貫之の表情は夢を諦めた者のそれではなかった。彼の顔は夢と希望に輝いていた。その夢は先が険しく、叶うかどうかも分からぬほど朧気な物であったけれど、それにすべてを賭けようとする彼の決意と熱意は、尊重するに値すると思えた。
「友則殿。これからは私を歌人を目指す者として、よろしくご指導を願います」
貫之はそう言って友則に頭を下げた。その姿はゆるぎない決心を感じさせる。
「和歌は人に教わる物ではないが……。出来るだけ君を良い歌に触れさせられるよう、努力しよう」
もう、友則はそう言うしか無かった。そして淑望も、
「分かった。学問の道は君の分まで僕が頑張ろう。君は君の道を進んでくれ」
と、ようやく貫之の決断を認めた。
「ありがとう。だが、そんな顔をしないでくれ。省試こそは受けないが、僕も大学寮で最後まで全力で学ぶよ。これからの歌にはさまざまな知識は欠かせないと思うんだ」
そう貫之が言った時、少しばかり表情に影を感じたのは淑望の気のせいではあるまい。若い、青春の日々をこれまですべて学問のために費やし、情熱を捧げて来たのだ。そこからすぐには離れられない未練が残るのも当然のことであった。
だがこの時淑望と友則は思った。学問の道が閉じてもおおせいな知識欲。それを新たな夢に生かそうとする発想。世の風の流れを読む判断力……。
彼は本当に、和歌によって何らかの高みに登る事が出来るのではないかと。
初恋のエピソードは当然作者の創作です。
貫之が漢詩文の知識を豊富に得たのは大学寮で学んだことによるものと考えられますが、彼が文章生となった記録はどこにも残されていないそうです。
何らかの事情で省試を受けなかったのだろうと言われますが、当時父親の後ろ盾を得られない貴族の子息は大変不遇でしたから、一般的に彼の出身の紀氏が衰退していた事や、彼自身に父親が存在していなかった事が文章生となれなかった大きな要因だろうと推測されています。




