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枕だにせで(恋歌・三)

 道ならぬ恋、隠す恋。世間に許されぬ恋は当然その苦しみも増してしまう。だからこそ心の揺れ方も激しく、人の心を打つ歌も多く生まれる。恋の歌の半ばを彩るのは、そう言った「訳ありの恋」の歌たちだ。



    弥生のついたちより、忍びに人にものら言ひて後

    に、雨のそほ降りけるに、よみてつかはしける


  起きもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめくらしつ


 (起きているとも言えず、寝ていると言えないままに夜を明かしてしまい

  長雨も春の情緒だからと眺めながら物思いのまま暮らしてしまいました)


 都が奈良から京に移り、まだ間もない頃の古い歌である。容姿は普通だが気立てが大変良いと評判で、通う男もいないわけでもない女にかの伊勢物語で「むかしおとこ」と呼ばれる業平が言い寄った。やっとの思いで女の心を開かせ、忍んで一夜を過ごした後に詠まれた歌。女と一夜を過ごせたことがまだ夢かうつつのように思え、その感慨と切なさが込められている。


「事情のある恋と言うのは、詠む歌にも大きな感慨をもたらすようだ。この歌はただのかけ詞以上の効果が感じられる。在中将(業平)殿らしい感情があふれ返っているような歌だ」


 理知的な技法に流されがちな貫之は、業平の情感の深さに若い頃から憧れている節がある。それこそが和歌を恋の小道具と呼ばせた欠点でもあり、誰もがその感情に心打たれてしまう魅力でもある。


「在中将殿は残念ながら漢学に関しては不得手で、その分技術よりも感情に任せた歌が多いのは確かだろう。だが、彼にも情感だけではない遊び心があった。この歌のやり取りなど良い例だ」


 そう言って友則は敏行と業平の奇妙な形で交わし合った歌を選んだ。



    業平朝臣の家にはべりける女のもとに、よみてつ

    かはしける


  つれづれのながめにまさる涙川袖のみ濡れてあふよしもなし


 (長雨に、暇にまかせて物思いに耽る気持ちが勝ってしまい

  涙が川となってあなたの所へ行こうにも、袖ばかり濡れて逢う事が出来ずにいます)



 これは敏行が業平の邸に仕えている、ごく年若い女に贈った歌である。友人の邸に思いがけず初々しくも美しい美少女がいて、思わず言い寄ってみたくなったと言うところだろうか?

 しかし女の方はまだまだ初心うぶで中身は子供の様なものだったのだろう。突然の恋文に返事も出来ずに主人の業平に相談したらしい。そこに業平が戯れ心を起こした。少女に代わって自分が詠んだ歌を敏行に贈らせたのだ。



    かの女に代わりて返しによめる


  浅みこそ袖はひつらめ涙川身さへ流ると聞かばたのまむ


 (浅い心から生まれた浅い川だから、袖が濡れるだけなのでしょう

  心も涙も深い涙川に身体ごと流されると聞いたなら、本気にするのですが)



 若い少女の体裁を保ちながら、やんわりと上品に相手の心をうかがっている。一方的に跳ね付けもしないが、安易に受け入れるような様子も見せない。しかし涙川に濡れる袖を巧みに詠み返しているのだ。

 この歌を見て敏行はその詠み様に感心し、業平が詠んだ歌とは知らずに、長く文箱に大切にしまって置いていたと言う。


「訳ありの恋と言うと苦悩を詠んだものばかりになるが、在中将殿はこんな遊び心あふれる歌のやり取りもした。これも歌の奥深さの一つだろう」


「恋文の代筆とは在中将殿も罪な事をしたものですね」貫之は苦笑いするしかない。


「敏行をからかったと言うよりは、情感の勝る女の様な詠み方の歌であっても、ちょっとした機知でこれほど気の効いた技術的な歌になることを、女の代筆によって示して見たかったのだろう。今の我々のように物名歌などの遊びの前から、歌にはそうした遊び心があふれていたことを示してくれる。それに在中将殿は人の情にも深いものがあった。きっと、幼さの抜けぬ少女が恥をかいたり、敏行殿の男心に振り回されぬように気を使ったのだろう。歌には人柄や、優しさと言うものもあらわれるものだから」


 友則は懐かしげにそう話す。貫之にとっては業平はすでに先人であるが、友則にとってはまだ懐かしい歌人の先輩と言った感じなのだろう。二人ともすでに故人となっているが、友則には歌を見る度に業平や敏行達のことを思い出す事が出来る、心のよすがなのかもしれない。


「敏行殿は代筆に踊らされたとはいえ、相手に逢う事の出来る恋だった。逢えない悲しみはやはり歌心にしみるものがある。それがか弱げな女の歌ならなおさらだ」


 友則が小野小町の歌をあげる。



  みるめなきわが身をうらとしらねばやかれなで海人あまの足たゆく来る


 (海松布みるめも生えぬ寂しい浦のように、

  私はあなたに見てもらう事も出来ない身だとは知る由もないのでしょう。

  海松布を刈れないと知らずに通って来る海人のように、

  私の所へ足がだるくなるほど通うなんて)


「僅かな言葉に男に事情があって逢えない辛さと申し訳なさが、海辺の景色を見事に使って詠み込まれている。しかも、自分の心と相手の心の双方を感じさせる名歌。この場合は小町の持つなよやかさが見事に生かされた歌と言っていいだろう。これほど景観に心情を投影させた歌は無いかもしれない」


 実際、こうした自然美に心情を投影させる歌は貫之や躬恒たちに大きな影響を与えている。あからさまな心情を語ることよりも、漢詩に劣らぬ知性を感じさせる歌を詠むにはこうした方法を用いることが優雅とされつつあるのだ。人目を忍ぶ難しい恋となれば、より表現に工夫が必要となる。それが人々に「訳ありの恋の歌」を魅力的に感じさせるのかもしれない。だからこの並びには自然と名歌が集められている。

 忠岑の歌も後に名歌を称賛された歌だ。



  有明のつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きものはなし


 (有明の月が薄情に見えてしまった別れの朝から

  暁のことほど辛いものは無くなってしまった)



 事情があって逢えなかった女のもとからの帰る時、そんな事情も知らずに夜明け前の月はいつもと変わらず冷たく輝いている。その時の月は心も凍るように薄情に思えて、その悲しみが暁を見る度に思い出されるのだろう。眠れぬままに暁を見上げてはため息をつく苦悩が手に取るように分かる歌である。


 逢いに行っても逢えぬ恋。そんな事を繰り返せば自然と人の噂になってしまう。風が吹く度に立つ波に逢う事も出来ぬままに噂に引き裂かれるのかと脅え始める。陸奥にある「名取川」のように、自分たちの名を人の噂に「取られて」失うのではないかと脅え、「竜田川」のように噂が「たつ」事を懸念する。それでも逢いたい心は止められない。耐えきれずに山から月が出るように、夜になれば逢いに行かずにはいられない。貫之の歌。



  しのぶれど恋しき時はあしひきの山より月の出でてこそ来れ


 (人の目を忍び恋をしている時は、

  山から月が出るように私もあなたのもとへ出て来てしまうのだ)


 そんな思いで叶う逢瀬は感慨深い。少しでも長く共にいたいと祈らずにはいられない。



  恋ひ恋ひてまれに今宵ぞあふ坂のゆふつけ鳥は鳴かずもあらなむ


 (恋しくて、恋しくて、ようやく僅かに叶えられた今宵の逢瀬

  どうか、逢坂の関にいると言う「ゆふつけ鳥」よ

  鶏のように朝を告げる声で鳴かないでおくれ)


 しかし必ず夜明けは来る。感慨深いほど、人知れず去らねばならぬ恋ほど、時がたつのが早く感じられる。



  秋の夜も名のみなりけり逢ふといへばことぞともなく明けぬるものを


 (秋の夜長とはその名ばかりではないか

  あなたと逢えた夜は瞬く間に明けてしまったと言うのに)


 これも小町の切々とした歌である。それを男の冷静な目で詠むと、また趣が違う。躬恒の歌。


  長しそも思ひぞはてぬ昔より逢ふ人からの秋の夜なれば


 (長いと思い込んでいる訳ではない

  昔から逢う人次第だと言うから。秋の夜の長さは)


「これはまた、二つの歌の対比が面白いが……。これでは私が薄情な男のようじゃないか」


 躬恒はこの並びに苦情を言ったが、


「いやいや。これこそ男と女の本音だろう。だからこそ心から思う人との夜は貴重で感慨深いのだから」


 と貫之は笑う。躬恒も文句を言いながらもこの並びの見事さには舌を巻いてしまった。


 儚い逢瀬の後の夜明けの別れは悲しみが深い。思わず鶏よりも先に自分の方が泣き声を立ててしまう。あまりの儚い逢瀬にうたた寝をしただけでも、逢った一時の事がより儚く思えてしまう。

 それが禁断の仲の二人の逢瀬ともなれば、罪を犯すことそのものが淡い夢路のようにも思えるのだろう。



    業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なり

    ける人に、いとみそかにあひて、またのあしたに、

    人やるすべなくて、思ひをりけるあひだに、女の

    もとよりおこせたりける


  君やし我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てかさめてか


 (あなたが来てくれたのか、私から訪れたのかもわからない

  これは夢か現実か。寝ていたのか覚めていたのかさえも)


 斎宮の歌に業平が返した歌は、


  かきくらす心の闇にまどひにきゆめうつつとは世人定めよ


 (まっくらな心の闇に惑わされています

  これが夢なのか現実なのかは、世間の人が定めて下さい)


 業平が伊勢に詣でた時の斎宮とは恬子内親王の事だといわれている。斎宮は天皇の娘が国の安寧を祈るために、清らかな身を神事にささげる存在。男との逢瀬などただの一目たりとも絶対にあってはならないはずだ。しかしこの歌は禁忌を犯した男女の歌が詠まれている。真実かどうかはともかく、この醜問的な状況下での激情は歌を見た者を熱くさせるに十分である。


 自分が逢いに行ったのか、あなたが逢いにきてくれたのか。それさえも判然としない、夢のような逢瀬。闇に迷い、逢瀬を隠し、いよいよ夢と現実は分かち難くなっていく。隠す恋の苦しさにいっそ恋死を願いながらも、そうなっても喪服すら着る事の出来ない仲。その苦しみが一層恋心を激しくさせる。隠す恋の辛さが幾首も並べられるが、最後にはやはり人に知られたのだろうか? 



  知るといへば枕だにせで寝しものを塵ならぬ名のそらに立つらむ


 (恋の秘密を知ってしまうと言う枕もしないで寝たと言うのに

  なぜ塵にすらならない噂が勝手に立ってしまうのでしょう)


 隠しきれなかった恋の噂に狼狽する伊勢の歌は、切実な思いが感じられる。

  

  

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