十一章
秋の深まりとともに、朝の空気は肌を刺すような冷たさを帯び始めていた。
僕は歩道橋の階段をゆっくりと上りながら、カバンから取り出した一冊の本に目を落としていた。昨日の夕方、彼女が玄関先で「絶対に読んでね」と僕の胸元に押し付けるようにして渡してきた、あの古い単行本だ。
いつものような甘い恋愛小説でも、胸を躍らせるミステリーでもなかった。
そこに書かれていたのは、ある哲学者による『生きる』こと、そして『愛』することについての、静かな考察だった。
『人間が真に生きるということは、誰かの記憶の中で意味を持つことである――』
整然と並んだ活字を目で追いながら、僕は思わず歩みを止めた。
風がページをパサリと揺らす。なぜだろう。これまで抽象的な倫理観や哲学などどこか遠い世界の言葉として捉えていた僕の心に、その一行一行が恐ろしいほどの重みを持って突き刺さってくる。
本を閉じ、胸の前に引き寄せる。彼女はこの本を、どんな想いで僕に託したのだろう。彼女が語る『生きる』という言葉の裏には、いつだって彼女自身の、刻一刻と削られていく命の灯火が重なっていた。
校門をくぐり、喧騒に満ちた教室へと足を踏み入れ、自分の席に腰を下ろす。
荷物を整理しながら、僕は無意識のうちに隣の席へと視線をやった。
誰もいない。
机の上には朝の光が空虚に落ちているだけだった。
始業のベルが鳴り、担任の先生がガラガラと扉を開けて入ってくる。ホームルームが始まっても、咲楽の席は空席のままだった。クラスメイトたちの賑やかな声が遠くで聞こえる中、僕は開いたノートの余白に、彼女が来ない理由をぐるぐると書き殴っては消した。結局、その日は一度も彼女の姿を見ることなく、放課後のチャイムが鳴った。
次の日、彼女は「おはよう!」といつもの明るい声で、何事もなかったかのように元気よく登校してきた。
「ちょっと寝坊しちゃってさ!」と笑う彼女の顔を、僕はただ静かに見つめることしかできなかった。
そんな不安定な日々が、数ヶ月も続いた。
来たり、来なかったり。彼女の登校パターンは不規則になり、僕たちの間には目に見えないカウントダウンの音が、少しずつ、だけど確実に大きく響き始めていた。
そして、季節が完全に冬へと差し掛かったある日。
彼女が、丸一週間、一度も学校に来なくなった。
最初の二日間は、いつもの体調不良だろうと自分に言い聞かせていた。だけど、三日目、四日目と彼女の空席が続くにつれ、僕の胸の奥を激しく締め付けるあの苦しみが、冷たい波のように押し寄せてきた。
放課後、誰もいなくなった教室で、僕はポケットからスマートフォンを取り出し、震える指先で彼女宛にメッセージを送った。
『なにかあった?』
短い文面。送信ボタンを押すと、画面はすぐに静まり返った。
風が一切吹いていない、静まり返った深い森の底に落とされた石のように、僕のメッセージに対する反応は何も返ってこなかった。
一日が過ぎ、二日が過ぎた。
画面を開いては閉じ、通知音の鳴らないスマートフォンを握りしめたまま、僕は自分の部屋で夜を明かした。三日目の夜、画面に映る僕たちのやり取りは、僕の投げかけた言葉で止まったままだった。彼女の消息が完全に途絶えたその三日間、僕は「死」という一文字の冷たさを、かつてないほど間近に感じていた。
三日目の深夜、液晶画面がぽつりと明るくなった。
『ごめん! ここ1週間病気の状態が悪くって…』
画面に表示されたその数行の文字を見た瞬間、僕は息を呑み、ベッドの上に弾かれたように起き上がった。指が勝手に動き、文字を打ち返す。
『全然大丈夫だよ。体調平気?』
送信して数秒。画面の上に、ゆっくりと返信が打たれていることを示す丸いアイコンが点滅した。
『うん! 今は結構いい感じ!』
『ならよかった』
短い言葉のやり取り。
画面越しに届く彼女の言葉は、相変わらず明るく、まるで何事もなかったかのような軽快さを持っていた。
彼女が生きていてくれた。
画面を見つめながら、僕は小さく深く息を吐き出し、胸をなでおろした。だけど、その安堵の直後、スマートフォンの黒い画面に映り込んだ自分の顔を見て、ハッとした。
そこに映っていた僕の顔は、安堵の表情などではなく、今にも泣き出しそうな、あまりにも悲しげな歪んだ顔をしていたのだ。
彼女は「いい感じ」と言った。
けれど、一週間も学校を休むほどの体調悪化。そして、病院からの返信に三日もかかったという事実。彼女がどれほど厳しい状況に置かれていたのかは、言葉の行間から痛いほど伝わってきた。
僕は暗い部屋の中で、膝の上にスマートフォンを置いたまま、じっと壁の一点を見つめた。
今度、お見舞いに行こう。
彼女が病院に入院するのは、これが初めてじゃない。これまでも何度も乗り越えてきたことだ。頭ではそう分かっているはずなのに、僕の心臓は激しい鐘の音のように早打ちを続けていた。全身の血が冷たくなっていくような、どうしようもない焦りが、僕の足元から這い上がってくる。
(咲楽が……死んでしまうのではないか)
一度脳裏に浮かんだその最悪の予感は、もう二度と消えてはくれなかった。
あの夏祭りの夜に見上げた月、彼女の部屋で交わした微笑み、手に残る文庫本の重み。それらすべてが、まるで遠い過去の泡のように消えていってしまうのではないかという恐怖。
僕は立ち上がり、冬の冷たい空気が張り詰める窓辺へと歩み寄った。
街灯の光の下、夜の街は静まり返っている。僕は固く拳を握り締め、彼女のいる病院の方向を見つめた。明日、彼女に会いに行かなければならない。僕の手から彼女の存在が零れ落ちてしまう前に、もう一度、その姿をこの目に焼き付けるために。僕たちの残された時間が、音を立てて崩れ去っていくのを、僕はただ焦燥感とともに感じていた。
次の休日の朝。僕は一刻も早く彼女のもとへ届くよう、右手に大切にお花を抱えながら走っていた。乱れた呼吸と激しい鼓動が耳の奥で途切れることなく響き、額から流れる汗が頬を伝って地面に落ちていく。その 汗をその場に置いていくほどの勢いで、僕はただひたすらに病院を目指した。
病院の自動ドアをくぐり抜け、受付の案内を確かめると、僕は迷わず咲楽のいる病室へと向かって走った。消毒液の匂いが漂う長い廊下の足音だけが、僕の焦りを映し出すように白く冷たい壁に反響する。
たどり着いた病室の前で一瞬息を整え、ドアノブに手をかけた。静かに引き戸を開けたその瞬間、僕は息を呑み、口を開けたまま、目を大きく見開いて固まった。
「……っ」
額から汗がすっと流れ落ちるのを感じながら、僕はただ唖然として立ち尽くした。脳裏が一瞬で真っ白になる。
そこにいたのは、僕の知っているいつもの咲楽ではなかった。
白いベッドの上、腕には細い管が伸びて点滴が打たれており、彼女は浅い呼吸を繰り返しながら、どこか身体全体が辛そうに強張っていた。窓から差し込む秋の光が、彼女の青白い肌を透かすように照らしている。夏祭りで見たあの弾けるような笑顔や、僕の家で本を楽しそうに選んでいた姿は、まるで遠い幻だったかのようにかすんでいた。
「……おお、春樹。元気してた?」
僕の気配に気づいた咲楽は、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。声はかすれ、体調の悪さを隠しきれていなかったけれど、彼女は必死に口角を上げ、僕を安心させようと頑張って笑顔を作ってみせた。その健気な努力が、かえって痛々しく僕の胸を刺す。
僕はハッと我に返ると、引き寄せられるようにして彼女のベッドの脇へと一気に駆け寄った。
「大……大丈夫?」
僕は必死に声を整え、どこか余裕を持っているかのように振る舞いながら問いかけた。だけど、そんな薄っぺらい強がりとは裏腹に、胸の中は心細さと、溢れ出しそうな悲しみ、そして息もできないほどの苦しさで満たされていた。
病室に漂う重い沈黙の中、機械の規則的な電子音だけが静かに響く。
腕の管、青白い唇、弱々しい吐息――目の前にある現実は、僕に最悪の予感を突きつけていた。これが咲楽と会える最後なんじゃないか。そんな拭いきれない不安が、黒い霧のように僕の心を覆い尽くしていく。
「……ちょっと、辛いかも」
咲楽は少しだけ頬を上げ、どこか申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた。隠しきれない身体の痛みに、彼女の眉が微かにひそめられる。
彼女はそのまま視線をゆっくりと下へ落とし、自分の掛け布団の端を細い指先でそっと撫でた。そして、小さな沈黙を挟んだ後、意を決したように再び僕の瞳をじっと見つめ返してきた。
「ねぇ、もしこれが……君と私の、最後だったらどうする?」
冗談めかした口調に混ぜ込まれた、あまりにも切実な問い。彼女の大きな瞳が、僕の心の奥底を覗き込もうとするように揺れている。
「最後にはしない。咲楽が、まだ生きる」
僕は視線を逸らさず、彼女の言葉を遮るように言い切った。声が少し震えてしまったけれど、それだけは譲れない僕の強い意志だった。
「なにそれww 全部私任せじゃんww」
咲楽は一瞬驚いたように目を丸くした後、声を出して短く笑った。だけど、その笑顔の余韻が消えかかった直後、彼女の表情からふっと軽さが消えた。
「じゃあさ……私とお別れの時は、悲しんでくれる?」
さっきまでの冗談めかした雰囲気とは裏腹に、彼女の眼差しは深く、静かで、まじめな色を帯びていた。微かに揺れるその視線は、僕からの答えを必死に求めているようだった。
「……」
僕は言葉を失い、深い沈黙に落ちて行った。
視線を咲楽の真面目な瞳から外せず、かといってすぐに答えることもできない。病室の空気が重く静まり返り、二人の間の時間が止まったかのように錯覚する。
悲しくないと言えば、嘘になる。咲楽がいなくなってしまったら、僕の心はきっと砕け散ってしまうだろう。だけど、泣きたくはなかった。ただ悲しみに暮れて、絶望の中で彼女とお別れをするのだけは嫌だった。もし最後が来てしまうのだとしても、彼女の旅立ちにふさわしい、僕なりの温かい笑顔で見送ってあげたい。それが、これまで僕にたくさんの光をくれた彼女に対する、僕の答えであるべきだと思っていた。
答えを出せないまま唇を噛み締める僕の様子を見て、咲楽はふっと緊張を緩めた。
「まぁいいや! お葬式は来てね?」
彼女は重い空気を振り払うように明るく笑い、いたずらっぽく言ってみせた。
「……わかってるよ」
僕は少し掠れた声で、静かに頷いた。
「あと、これ……お花。飾っといて」
僕は右手にずっと抱えていた花束を、少し照れくさそうに彼女の前に差し出した。走ってきたせいで少し包装紙が乱れていたけれど、秋の柔らかな光を受けて綺麗に咲いている花々だった。
「え! いいの? ありがと!!」
咲楽はその花束を見た瞬間、パッと顔を輝かせた。辛そうだった表情が一気に和らぎ、子供のように無邪気で、最高に嬉しそうな笑顔が弾けた。
彼女が大事そうに花束を受け取ると、病室の中に微かに甘い花の花香が広がり、冷たかった空間がほんの少しだけ温かく包み込まれていった。その笑顔を見つめながら、僕はどうかこの時間が少しでも長く続きますようにと、心の中で強く祈り続けていた。
消灯時間を過ぎた病室には、規則的な医療機器の電子音と、窓を微かに揺らす秋の夜風の音だけが響いていた。
病室の隅で、咲楽のお母さんが静かに引き出しの整理をしている。プラスチックのトレイが擦れる小さな音が、静まり返った部屋の中でどこか悲しげに反響していた。咲楽の身体を気遣いながらも、母親としての勤めを果たすように、彼女は手元を動かし続けていた。
「咲楽、ご飯しっかり食べてね」
引き出しの奥にあった予備のタオルを整えながら、お母さんが努めて明るい声を掛けた。その背中には、娘の病状に対する隠しきれない疲労と深い痛みが滲み出ている。
「……うん」
ベッドの上の咲楽は、短い返事を返しただけだった。
布団の上に置かれた小さな折りたたみテーブルの上で、彼女はペンを握り締め、ノートに何かを熱心に書き綴っていた。弱々しい点滴の管が下がる手元で、カリカリと紙を滑るペンの音だけが規則正しく刻まれている。彼女の視線は紙面から一度も外れることなく、残されたわずかな体力を振り絞るようにして、一文字一文字を噛み締めるように綴っていた。
「じゃあお母さん、もう行くよ」
お母さんは手元の整理を終えると、パイプ椅子にかけていたカバンを持ち上げ、肩にかけた。彼女の視線が、ベッドの上の小さな娘の背中に向けられる。言葉には出さないものの、その瞳には「まだここにいてあげたい」という葛藤と、「今夜を無事に乗り越えてほしい」という切実な祈りが宿っていた。
お母さんがゆっくりと足を進め、病室のドアノブに手をかけた、その時だった。
ペンの音が、ピタリと止まった。
「……ちょっと、まって」
咲楽の声が、夜の静寂を静かに切り裂いた。
掠れた、だけどどこか透き通った声だった。お母さんはドアノブを掴んだまま足を止め、ゆっくりと振り向いた。
咲楽は握っていたペンを静かにテーブルの上に置いた。カチャリと小さな音が響く。彼女は机の上に残された数枚の手紙――まだインクの乾ききっていない紙片を、愛おしそうに細い指先で撫でた。そして、ゆっくりと息を整えるように肩を上下させると、それを両手で大事そうに抱え上げた。
病室の薄暗い天井の光が、彼女の青白い横顔を静かに照らし出す。咲楽は身体をゆっくりとお母さんの方へと向け、布団の上で膝を揃えた。その瞳には、自分の命の終わりを静かに受け入れた者だけが持つ、深く澄んだ光が宿っていた。
「これ……私が、死んだら……」
咲楽はお母さんの目をまっすぐに見つめながら、抱えていた手紙をそっと前に差し出した。
「……っ」
お母さんは息を呑み、固まった。差し出された本と、娘の揺るぎない眼差し。その二つの重みに耐かねるように、お母さんの唇が微かに震えた。
二人の間に、重く、息の詰まるような沈黙が流れる。
窓の外では、秋の深い闇が病室を優しく包み込んでいた。お母さんはゆっくりと歩み寄り、震える手で、咲楽からその温かい紙片を受け取った。娘の残された時間が刻一刻と削られていく現実を、その本の重みが残酷なまでに物語っていた。
月日は過ぎ、世界はいつの間にか冬の硬い寒さを脱ぎ捨てて、やわらかな春の光に包まれていた。
咲楽が病院へと戻り、そのまま本格的な入院生活に入ってから、一ヶ月半という時間が流れていた。僕は毎週、休むことなく彼女のお見舞いに通い続けていた。
しかし、春の訪れとともに満開を迎える街の桜とは裏腹に、彼女の生命の灯火は日に日に小さく、脆くなっていった。
いつもの病室のドアを開けると、そこには冬の終わり頃よりもさらに痩せ細り、ベッドの上に横たわったまま動くことすらままならなくなった咲楽の姿があった。腕に繋がれた点滴の管は増え、呼吸をするたびに小さな胸が痛々しく上下している。
クラスメイトたちには、「咲楽は持病の手術をしたため、経過観察で一時的に動けないだけだ」と説明してあった。それが咲楽の望みでもあり、僕が彼女の秘密を守るための、唯一の嘘だった。
病室には、重く、切ない沈黙が続いていた。
窓の外では、春の暖かい風が木々の青葉を揺らしている。僕はパイプ椅子に深々と腰掛け、自分の膝の上で握りしめた手に視線を落としていた。電子音だけが静かに刻まれる空間で、彼女がどんな言葉を待っているのか、僕が何を言えば彼女を傷つけずに済むのか、答えを見出せずにいた。
そんな静寂を破ったのは、ベッドの上の咲楽だった。
「……春樹」
かすれた、だけど澄んだ声が僕の耳に届く。僕がハッと顔を上げると、咲楽はゆっくりと首だけをこちらへ向け、落ち窪んだ大きな瞳で僕をじっと見つめていた。
「君はさ……私といて、楽しかった?」
彼女の視線はまっすぐに僕の目の奥へと注がれていた。その瞳には、自分の生きてきた証を確認したいような、切実で繊細な光が宿っていた。
「……うん。とても」
僕は一切の迷いなく、静かに、だけどはっきりと頷いた。
嘘偽りのない本心だった。彼女と出会ってからの半年間、僕は今まで一度も経験したことのない感情を知り、読んだことのない本を開き、見たことのない景色をたくさん見てきた。彼女に振り回される毎日は、僕の無彩色だった世界に鮮やかな色彩を与えてくれた。心から、楽しかったのだと自分の中で確信していた。
僕の答えを聞いて、咲楽はホッとしたように目元を緩めた。そして、ゆっくりと視線を僕から外し、横たわった状態のまま、病室の大きな窓から見える春の青空へと向けた。
「……私さ、実は……桃子と仲良くしてほしかったの」
雲一つない空を見つめながら、咲楽はぽつりと呟いた。
彼女の親友である桃子。僕に対していつもどこか冷ややかで、警戒心を剥き出しにしていた彼女の名前が、咲楽の口から出たことに僕は一瞬息を呑んだ。咲楽は、自分が去った後の世界のことを、残される僕たちのことを、ずっと考えていたのだ。
「……わかった。頑張ってみるよ」
僕は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じながら、彼女の想いを受け止めるように力強く答えた。それが、僕にできる彼女への誠意だと思ったからだ。
――だが、この時の僕はまだ知る由もなかった。
僕たちがそんな会話を交わしていたまさにその時、病室の重い扉のすぐ外側で、桃子がひっそりと立ち尽くしていたことを。彼女が自分の胸を手で強く押し付け、溢れ出しそうな涙と感情を必死に抑え込みながら、僕たちの言葉を息を潜めて盗み聞いていたことなど、僕は何も知らなかったのだ。
咲楽との約束を交わした次の日、学校へ行くと、予想だにしなかった出来事が起きた。
朝のホームルーム前、僕が自分の席で静かにカバンから教科書を取り出していると、前の席の近くに立っていた桃子が、ゆっくりと僕のデスクの前まで歩み寄ってきたのだ。彼女はいつもなら僕を視界に入れないようにするか、苦々しい顔で通り過ぎるのが常だった。
だけど、その日の彼女は違っていた。
「……おはよう」
桃子は少しだけ視線を泳がせながら、僕の顔を見て静かに言った。
「……おはよう」
僕と桃子が、面と向かって挨拶を交わしたのは、これが初めてのことだった。
クラスメイトたちの喧騒の中で、僕たちの間にだけぽっかりと小さな空間ができたかのような錯覚を覚える。僕は今まで僕のことをあからさまに嫌っていたはずの彼女が、なぜ急にこんな風に優しく態度を変えたのか、その理由が全く分からず、ただ困惑して固まっていた。
(……でも、これは咲楽との約束を叶えるチャンスだ)
僕はハッと気を取り直し、彼女の態度の変化を好意的に受け止めることにした。咲楽が望んでいた「桃子と仲良くすること」。それを実現するために、僕も意意を決して、なるべく彼女と日常の会話を交わすよう自ら努力を始めた。
最初は「今日の課題、終わった?」といった一言二言の素っ気ないラリーだった。だけど、日が経つにつれて、彼女も僕からの問いかけに避けることなく応じるようになり、互いの間の刺々しい空気は少しずつ削ぎ落とされていった。
桃子と自然に話すようになってから、どれくらいの月日が流ただろうか。
校庭の桜がすっかり散り、若葉が眩しく光る放課後の教室で、僕と桃子は二人きりで日直の仕事を終えようとしていた。
黒板消しをパンパンと叩き、チョークの粉を落としていた桃子が、ふっと手を止めた。
「ねー、春樹」
彼女は僕の方に顔を向けることなく、うつむいたまま下を向き、寂しそうに口元だけで微かに微笑んだ。その背中は、どこか今にも折れてしまいそうなほど痛々しく見えた。
「……実はさ、私、病室での咲楽との会話……聞いてたんだ」
「え……?」
僕は手に持っていた出席簿を落としそうになり、動きを止めた。最初は、彼女が一体いつの、何の話をしているのかすぐには理解できなかった。
「咲楽が……春樹と私が仲良くしてほしいって言ってた、あの時のやつ」
桃子がゆっくりと顔を上げ、僕と視線を交わした。その言葉を聞いた瞬間、僕の脳内でパズルのピースが音を立てて嵌まり込んだ。はっと息を呑み、胸が激しく脈打つ。あの日、咲楽と交わした秘密の会話。桃子が急に僕に対して態度を柔らかくし、話しかけてくるようになった本当の理由――すべてがつじつまが合った。
「……どこから、聞いてたの?」
僕は焦りを隠せないまま、掠れた声で尋ねた。咲楽が自分自身の余命のことや、僕だけに打ち明けていた秘密のすべてを桃子に知られてしまったのではないかという不安が、冷たい汗となって背中を伝った。
「……『私と一緒にいて楽しかった?』って、咲楽が聞いてたところから」
桃子はそう答えると、緊張をほぐすように両手足をぐーっと伸ばし、大きく伸びをした。彼女のその動作には、ずっと抱え込んでいた秘密を明かしたことによる、微かな諦めと安堵が混ざっているように見えた。
『私と一緒にいて楽しかった?』――それは、僕と咲楽の会話の本当に初期の段階だ。つまり、彼女は僕たちが一番大切にしていたコアな部分、咲楽の命の核心についての会話を聞いていたのだ。
だけど、真相を知られたことへの恐れと同時に、僕はどこかで少しほっとしたような気持ちにもなっていた。彼女が咲楽の想いを知った上で、僕に歩み寄ってくれていたのだと分かったからだ。
僕はあの日、あの病室で流れていた空気と咲楽の言葉のすべてを、脳裏で静かに手繰り寄せようとしていた。
「……それが、どうしたの?」
僕は努めて冷静な声を保ちながら、桃子の真意を確かめるように尋ねた。
「……それだけ。なんか、知ってるのに隠してるのがやだったの」
桃子は窓の外の夕焼け空を見つめながら、ぽつりと呟いた。その横顔には、咲楽を想う優しさと、親友の願いを叶えようとしていた不器用な誠実さが溢れていた。春の終わりの風が、静まり返った教室を優しく吹き抜けていった。




