布と心得の本
入室の許可を出すと、三人の女性が部屋へ滑り込むように入ってきた。慣れた手つきで布を広げていく。その一枚一枚が花弁のように開き、空間に色彩が満ちていく。
この瞬間が、たまらなく好きだ。
気づけばわたしは、布を手に取るマギーのそばへ歩み寄っていた。
「お嬢様? まだお求めになるのですか?」
「見るだけよ」
わたしは呆れた視線を受けた。失礼な、露骨に「どうせ買う」と言いたげで、実に不敬だ。
今のドレッシングルームは手狭だし、さすがに全部いただく、などと言うつもりはない。
本当に、少し覗くだけ。
手前の薄布に指を滑らせる。なめらかで、ひやりとした感触が心地いい……寝具にも良さそうね
「迷うわ」
「お嬢様、完全にお買い上げの顔です。こちらへどうぞ」
マギーはしたり顔で紙を差し出してきた。
なんなのかしら、これはあくまで、快適な睡眠の追求の結果であって他意はない。一応、色について相談しておく。
「マギーのおすすめは?」
「先ほどメインがコバルトブルーでしたから、ホワイト系がよろしいかと」
「そうするわ」
……違う。これは寝具用。ドレスではない。けれど、白は悪くない、余ればドレスに回してもいい。
選定の最中、リズがイルトゥンに声をかけた。
「お嬢様にお渡しした布、他の色はないのですか?」
「いえ、あれはつい最近織り上がったばかりでして。今後、色展開は増える予定です」
用意周到に似合う色を持参したのかと思っていた。よく見れば、先ほどのコバルトブルーはここにない。そもそも、まだ一色しか存在しないようだ。
「では、予約は可能かしら?」
「承れますが……現時点では色味が未定でございます。製造元も秘匿されており——」
「構わないわ。色は問わない。布地でお願い」
一瞬の逡巡ののち、イルトゥンは頭を下げた。
「かしこまりました」
共和国の正装は七着もあれば足りる。だが布はいくらあっても困らない。妙な色なら寝具に回せばいい。あの布は肌触りも群を抜いていた。
リズがさらに問う。
「一色だけでは、どうしても似通ってしまうのでは?」
「否定はできません。ただ、正装は縁や胸元に大きく刺繍を施すのが伝統でして」
なるほど。首都区がコバルトブルー、一色で埋まる光景は、想像するだけで圧があるけれど、刺繍で差が出る、というわけね。
金糸で大きくあしらわれた花と葉の文様。確かに、目を引く。
「刺繍は完成後も手を入れられます。同じ意匠でも、同一にはなりません」
差し出された布には、複雑で精緻な刺繍が走っていた。
「……見事ね」
「お嬢様、刺繍は私にお任せください!」
リズが弾んだ声で言った。
そういえば彼女は刺繍が得意だった。
背中から、知識を吸い尽くそうとする熱が伝わってくる。
燃えているわね。
ホワイト系の追加注文を終え、しばし休憩する。やがてマギーが戻ってきた。選定は済んだらしい。
「お嬢様、こちらを」
紙に並ぶ十の色。いずれも沈んだ色調で、控えめだ。
正直、もう少し華やぎが欲しいが、これは諜報用。目立たぬことに価値があるから仕方ない。
リズとマギーが採寸の準備に入る。その間に、わたしは明るい色味の布を五点、追加で発注した。
「ご用意が整いました」
呼ばれてドレッシングルームへ。無駄のない所作で、採寸はあっという間に終わる。
「仕上がり次第、お届けいたします」
四人が一礼し、静かに去っていく姿を、扉口から見送る。
仕上がりが楽しみね。
自室で本を開いた途端、マギーが入ってきた。
「お嬢様、こちらは……」
言いよどみつつ、追加分の布を指す。確認のつもりだろう。その様子を眺めながら、わたしは彼女のまだ幼さの残る面差しに目を留める。
「追加分は、あなたの好きにしなさい。年頃でしょう。たまにはいいわ」
「お、お嬢様ー!」
頬を染めて大げさに声を上げる。
「リズにも分けなさいね」
「はい!」
元気な返事と、「お嬢様、最高!」とはしゃぐ様子は、とても淑女とは言い難い。けれど、その無邪気さは嫌いじゃない。
マギーが結婚相手を連れてくるのは、もう少し先になりそうね。
夜。就寝前。
鞄に入れたはずの本が、ひとりでに出てきた。
重力を忘れたように滑り出たそれは、わたしの目の高さでぴたりと静止する。無地だった表紙に、じわりと文字が滲んだ。
《読み終えましたか?》
「あら、また来たのね」
最近は隠しても無駄だ。
《読み終えましたか?》
「何のことかしら」
わざとらしくとぼける、思い出すだけで少し気が滅入る本だ。
《初心者向けの本です。いかがでしたか? 心躍る素晴らしい出来だと思うのですが……》
「ああ……あれね。魔法は危険で大変。それを扱える作者はすごい――そんな内容だったわ」
《……え。そんな嫌味っぽい本でした?》
手引書が小刻みに震える、あからさまな動揺だ。
はて。そこまで衝撃を受けることだろうか。まるで自分のことのように反応する理由が分からない。
昨晩まで読んでいたのは『魔法使いの心得』は、教本めいた題名に反して、中身はほとんど自伝だった。
「自己顕示欲の塊みたいで、少し疲れたわ」
魔道具が共感できなくても問題はない。そもそも、人の感情を汲み取るのは難しいものだ。
《それは……たぶん、読み取り方の問題かと……》
わたしは本の記述を思い返す。
“私はパッと打ち出した。”
“体内の魔力をギュルギュルした。”
心得、と呼ぶには随分と曖昧だ。
「魔法使いを馬鹿にしているようにしか聞こえなかったのだけれど」
正確には読者、かもしれない。
魔法がそんな野生の勘で扱えるなら、偉業など生まれない。遺物一つ取っても分かる。彼らは体系立てて積み上げる、知的な生き物だ。
《やめてください。分かりました、もうライフはゼロです。貴方の感想は十分伝わりましたから、これ以上追撃しないでください……その本、わりと気に入っていたので》
手引書は話題を変えるように、すっと姿勢を正した。本に姿勢があるのかは疑問だが。
《こちらを……》
どこからともなく、別の本を差し出してくる。相変わらず取り出し方の原理が分からない。
……質量を無視しているのは確かだ。
二冊目を受け取りながら、わたしは言った。
「それより、孤島の話は聞いている?」
《それより? ……流さないでください。一応、聞いてはいますが》
紙端を不満げに揺らす手引書を指先で軽く押しやり、椅子に座ったまま指を組む。
「結構。それについて聞きたいの。魔法使いを帯刀していけば、問題はないかしら」
《帯刀って……人を剣みたいに扱わないでください》
「似たようなものでしょう」
護るために傍に置く、機能としては同じだ。
なぜこういう言葉にだけ敏感なのかしら。
(マギーの夢の中)
マギー「お嬢様ー!こんなに大きくなりました。お嬢様を手のひらに乗せられるし、エドガーも指先一つで対抗出来ちゃうの!」
ロッテ「まぁ、成長したのね」




