あやかし管理課
◇ ◆ ◇
思い出すのは、いつも背中ばかり。
深夜遅くであっても、休日であっても、身支度もそこそこに駆けていく背中。
娘を置いて仕事に向かう背中。
追いかけられなくて、寂しくて不安で、でもわがままなんて言えなくて。
自分はいらない子なのではないか。
何度も喉元まで出かかっては、呑み込んだ言葉。
弥生にとって、母親とはとても遠い存在だった。
仕事に全力を注ぐことが、ひいては祖母と弥生のためになることは分かっていたのに、どうしても応援しようと思えなかった。
職場から呼び出しを受け駆けていく姿は、いつだって情熱とやりがいに満ちていたから。
自分という存在が頭から閉め出される瞬間を、否応なしに見せ付けられていたから。
そうして、いつからか期待することさえ諦めた。
いらないと思われているならば、こちらにだって必要ない。
母がいなくても、生きていけるーー
◇ ◆ ◇
翌日、弥生の寝覚めは最悪だった。
あんな夢を見てしまったのは、四十九日を終えたばかりのためだろうか。それとも鬼と遭遇し、母について話したからか。
昨晩起こった非現実的なできごとを思い返していると、頭上に影が差した。友人の雅奈恵だ。
「おはよう、弥生。あなたが勉強をしていないなんて、珍しいわね」
普段なら授業中でなくても一心不乱に勉強している弥生が珍しくぼんやりしていたためか、彼女は不思議そうだ。
弥生は手付かずの問題集を見下ろしたあと、周囲に視線を滑らせる。
いつもと変わらない教室の風景がどこか遠く、よそよそしく感じられた。
「おはよう、雅奈恵。実はさ……ちょっと脳の処理が追い付かない事態になってて」
雅奈恵は弥生の肩を優しく叩き、案じるような声音を発した。
「そうよね、お母様の四十九日法要を終えたばかりだものね。あなたにもそういう当たり前の感性があったことにホッとしたわ。何か、私にできることがあるなら力になるからね」
「あれ? 今普通に悪口交じってなかった?」
本心から友を心配していれば、普通は暴言など出ないと思うのだが。
心遣いはありがたくも複雑な心地で、どんな顔をすればいいのか分からない。結果、不具合を起こした顔面が形容しがたい表情を作り出し、ますます雅奈恵の視線が冷たくなった。理不尽だ。
「それで? あなたほどの人は、一体何が起こればそんな難しい顔をするのかしら?」
『あなたほどの人』という言い回しに尊敬が込められていないことは明らかだったけれど、弥生は抗議より話の進行を優先した。
「うーん……。私自身目まぐるしくて何がなんだか分からないんだけど、一応就職先が見付かっておめでたい、のかな?」
弥生からの突然の報告に、彼女は目を瞬かせた。
「あら、よかったじゃない。常々資格職を求めていたあなたのことだから、手堅い職なんでしょうね」
「肩書きは手堅いけど、実態はぶっちゃけ私もよく分かってないの。昨日、お母さんの仕事関係者がうちに来て、仕事を紹介してくれて」
あやかし、という部分を取り除いたとしても、高校生をスカウトするなんてあまりに怪しい。
雅奈恵も不審に思ったらしく、眉をひそめた。
「弥生。それ、何か怪しげなお仕事じゃ……」
「怪しいは怪しいんだけど……」
「えぇっ!?」
「公務員」
「ーーええぇえっっ!?」
お上の暗部にまつわる仕事だし、危険なこともあるらしいけれど。
情報を全て明かせば顔色が悪くなりそうな友人を案じ、弥生はそれ以上を笑って誤魔化した。
放課後。
急いで帰途に着くと、門前に長身の鬼が堂々と待ち構えていた。
けれどその外見は様変わりしている。
いかにも高級そうなスーツを隙なく着こなしているし、赤銅色の髪はすっきりと短くなっている。爪も短く、目立っていた角や牙がない。
「おおっ、人間仕様になってる……って言っても、十分目立つけど」
「はあ? 俺の変化が未熟だって言いたいのか?」
「美形すぎるって言ってんの。ご近所中の視線を集めたいの?」
ため息をつく弥生を無視した彼が縁側に面した庭先へと進もうとしたため、慌てて腕を掴んだ。
「ちょっとやめてよ、お祖母ちゃんに見付かったら説明できないでしょ?」
「じゃあお前が見付からないよう誘導しろ。庭の祠を通るからな」
祠に何があるのか問いかけ、弥生は呑み込んだ。
昨夜も様々な説明を省いた彼に、何を聞いても無駄だろう。青年が突然現れたのも祠からだったのだし、何か不思議な仕組みがあるのだと思えば無理やり納得できる。
きっと彼の上司なる人物が教えてくれることだろうと考えれば合理的だ。
今日は、母が在籍していた職場に行き、上司らと顔合わせをする予定だ。
帰りが遅くなるかもしれないことを伝え、彼の指示通りに祖母を誘導する。
「お待たせ、えっと……あれ? そういえば、あなたの名前聞いてなかった」
「俺のことは、赤鬼とでも呼べばいい。あやかしってのは、そう簡単に自らの『真名』を明かしたりしないもんなんだよ」
「そう。じゃあ、アカって呼ぶことにする」
すぐ庭先へと歩き出した弥生は、いきなりあだ名を付けられた鬼の物言いたげな視線に気付かない。
祠は、代わり映えのない質素なものだ。
どうするつもりなのかとアカを振り仰ぐと、手を差し伸べられた。
いくら変人扱いされていたって、弥生も人間だ。この手を取ればどうなってしまうのか、しり込みする気持ちはある。
「ちなみに、苦しかったり痛かったりはない?」
「ふーん。お前にも、そういうまともな感性が備わってるんだな」
「……ねぇ。まさかうちの友達と、示し合わせたりしてないよね?」
どこもかしこも平均的なはずなのに、全方位から不本意な評価を受けている気がしてならない。
くだらない会話に、余分な力が抜けた。
ここまで来て後戻りはできないと、弥生はアカの手をとった。大きく、少し冷たい手だ。
ぎゅっと握り返されたことに気を取られていると、そこはもう柴垣家の庭ではなかった。
視界が悪い。薄いもやが立ち込め、まるで雨雲の中にいるようだ。
ふと、初めてアカが現れた時、もやに包まれていたことを思い出す。もしかしたらこれの名残だったのかもしれない。
「はぐれるなよ。放り出されたら人間は彷徨い続けるしかないからな」
脅しにも忠告にもとれることを言って歩き出すアカの手を、弥生はすがるように握った。
けれどそれを振り払わないあたり、彼も存外優しいのではないだろうか。
ーーって、鬼に優しさを求めてもね。
連れられるまま歩いていると、目の前に巨大な陰が立ち塞がった。
段々近付いてきたというより、忽然と姿を現したという感覚だ。
古そうだが、立派な赤煉瓦の建物だった。
整然と並ぶ窓の多さに、まず圧倒される。全体が煉瓦の色で構成されているので、窓枠の白漆喰が対比で際立っていた。
中央のドーム状になっている部分は、屋根の頂上が尖塔のようになっており、正面に小窓が付いている。大正や明治の雰囲気が漂う西洋建築だった。
「えー、公務員が本当にこんなところで働いてるの? やっぱり詐欺だったんじゃ……」
狐に化かされるならぬ鬼に化かされてしまったのかと、アカを見上げる。
彼は弥生の心境など気にも留めていないようで、さっさと建物内へと進んでいく。
「ちょっと、少しはゆっくり歩けないの?」
「建物に入ればとりあえず安全だ。早くしろ」
長身の彼に引きずられるようにしながら、躊躇う暇もなく建物内へと足を踏み入れる。
窓が連なる廊下は、どこかひんやりとしていた。
「俺は詳しく知らねぇが、昔は官憲が働いてた建物だって聞いたぞ」
時間差で返ってきた答えが、先ほどのぼやきに対したものだと分かり、弥生はピタリと足を止めた。
「……もしや、日比谷にあったっていう警視庁のことじゃないよね?」
けれど有名な建築物だった赤煉瓦庁舎は、関東大震災で焼失したという話だ。
そんなはずがない。いやでもまさか、と考えている内にずいぶん遠ざかってしまっていた背中を、弥生は慌てて追いかけた。
キョロキョロと内部を見回す弥生とは対照的に、アカはずんずん進んでいく。
それなりに歩いたというのに、ひと気が全くない。やはり騙されているのではと、弥生は段々不安になってきた。
「ねぇ、この先にたくさんのあやかしがいて、私を八つ裂きにする算段ってことはないよね?」
「そもそも、それを聞かれて俺が本当のことを言うと思うのか?」
「……愚問でした」
どうやら黙って従うほかないようだ。
それから、どれくらい歩いただろうか。ようやくアカの足が止まった。
両開きの扉は、一見何の変哲もないほど事務的な造りだ。
本当にこんなところで人間が働いているのかと、弥生はまだ半信半疑でいる。
「オラ、連れてきたぞ」
アカが壊れるほどの勢いで扉を全開にした。
日当たりのいい窓辺には、青年が立っていた。彼がゆっくりと振り向く。
目映く輝く金色の髪に、灰色がかった青の瞳。
鋭い印象のアカとは対照的に、浮かべる笑みはどこまでも優雅。柔らかな物腰と相まって、まるで水のように清廉な雰囲気だ。
アカが上司と言うからには、彼はそれなりに高い地位に就いているのだろう。何だかにわかには信じられない。
「はじめまして、柴垣弥生さんだね? ーーようこそ、あやかし管理課へ」
低く落ち着いた声音で告げられた言葉に、弥生は目を瞬かせた。




