燃える犬が降る時
「うん、それはそうだけど……何も出来ない今よりは……いいかな……」
「今でも、十分だと思うよ。だって、この店って、いつもこの時間は込んでるのに、俺達が店に入ったら、入れ替わりでお客さんが出て行って座れたんだし」
「うーん、たまたまかもしれないよ?」
「いや、明らかに彼らは長居するつもりだった。食べ残しがあるのに、何か急用を思い出したとかで席を立っていた」
町田は本を読み続けているにも関わらず、しっかりと出て行った客の様子をチェックしていたらしい。俺が見ていた限り、町田の視線が本から外れる事は微動だにもなかった。注文の時でさえ、町田は本を読み続け、来島さんに自分のオーダーを伝えていた。
「ちょっとした幸せ気分。それが今の私に出来る精一杯の事かな……」
困った様な笑顔で真結がそう言った。少し哀しげな目をしていたのが、俺としてはとても気になった。
「……あれ、今、弓塚君は、リザリィが帰って来る様な事、言ってなかった?」
「はい? えーと……なんでしたっけ?」
「だから、これからは敵味方を越えた愛を育むとか」
「ええ、そんな事を言った後、しばしの別れとか言って去っていきました」
「……あの子、うちのクラスなんだけどね、今は親の仕事の都合で海外に行ってて、長期休暇って事になってるの。つまり、帰ってくるつもりなのよね」
(……帰って来るのか……)
今は居ないから、こうして四人で和気藹々と話が出来るが、リザリィが戻ってきたら、また振り回される日々が始まるだろう。
一同が顔を見合わせて、いずれその時が来るという事を目で確認しあった。この時ばかりは町田も本から視線を反らして俺達の方をチラ見し、そして来島さんはがっくりと頭をうなだれた。
「……あの子、私の事を、友達だと言ってくれるのは嬉しいんだけど、都合の良い、使い勝手の良い女だと思ってるのよね……」
「それはかしこの才能だ。仕方無い。もし無能ならリザリィは頼りにしたりしない」
「そう! それが問題なのよ! 無能だと思われたくないから私としても頑張るんだけど、注文が多いのよ!」
「一応、闇のお嬢様だし……」
「真結ちゃん、その天使の力でなんとかして。悪魔払いとか出来ないの?」
来島さんが身を乗り出し、真結の手を両手で握ってそう言った。
「一応、小さな邪念はお祓いする様にラビエルさんから命じられてますけど、リザリィさんほど大きな邪念の塊はムリムリ」
真結はいつものように、片手をぴらぴらとさせながら、お手上げだと言う。
「そう言えば、ラビエルさんと一緒に、お祓いとかしたりしてるけど、あれって仕事なの?」
「そうだね、やっぱりウサ子先輩は上役の天使様だから、いう事を聞かないといけないの。タダ働きだね」
「ウサ子先輩ってラビエルさんの事?」
「うん、いままでラビエルさんって読んでたけど、もうちょっと仲良くなりたいなと思って、ウサ子先輩って呼ぼうかなと思ってるの」
「ラビエルさんはそれでいいって?」
「まだ話してない、次にあったら話すつもりだよ」
リザリィの話で、なんだか少し未来に翳りを感じた俺が道の方を見ると、通りの向こうを縫香さんがいつもの様に歩いていた。
「あ、縫香さん」
「あ、本当だ」
もし、俺が気付かなければ、縫香さんの魔法は看破されず、他の誰にもその存在を気取られる事は無かっただろう。ハイド・イン・プレーンサイトという魔法で、風景に溶け込むのだそうだ。これはコイルさんも使っていた魔法で、かなり強力な魔法だと硯ちゃんが教えてくれた。
「お姉ちゃんも毎日、仕事、頑張ってるよね……」
真結ちゃんが縫香さんの方を見てそう言った時だった。
突然。空から火だるまになった犬が落ちてきて縫香さんに直撃した。
「!?」
燃える犬が空から落ちてくるというだけでもおぞましい状態で、周り中の視線はいっきに縫香さんに集まった。しかし直撃した筈の縫香さんは、何事も無かったかの様にその場を通り過ぎ、そして、そのまま歩いて行く。落ちたはずの犬の姿も既に無い。
人々は縫香さんの姿が見えていた。にも関わらず、そこにどんな姿のどんな人間が歩いていたか、頭の中で理解する事が出来なかった。果たして男性だったか女性だったか、大人だったか子供だったか、どんな服を着ていたか。勿論、どんな顔をしていたかなんて脳裏に刻めた者は居なかった。ここに居る四人を覗いては。
「……邪神が村に炎の犬を振らせるって映画を見た事があるわ」
と来島さんが言った。
「あれは地獄の犬だが、今降ってきたのは炎の犬ではなく、犬が燃えていた様に見えた」
と町田が言った。
「なんだか邪悪な感じがしたので、お祓いをしたらすぐに消えちゃった」
と真結。
「……」
俺は、ただ、驚いて、その場に凍り付いていた一般人だった。
「今、空から犬が落ちてこなかったか……?」
だれかがそう言った。そして同意を求めるように周りを見ると、数人が、同じ物を見たと視線で確認しあっていた。
しかし、現実にそんな事はありえないし、今、目の前に犬は居ない。通りに立ち止まる数人を置いて、何も見なかった人達が通りを行き来している。ここで自分が見た幻の事を再度問うた所で、それに何かの意味は無い。
俺達ごく普通の人々にとって、今の出来事は何かの見間違いであり、幻だった。
「あれじゃないの?」
誰かがぱたぱたと空を舞う布きれを指さして言った。それはどこかの店ののぼりが千切れたもので、赤と黄色の色をしていた。
そして人々は、今見た幻覚の原因をその布きれのせいにすると、日常へと戻り、それぞれの道を歩いて行く。




