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その日にたどり着くまで(後)


 それからというもの、俺はその研究所で働きながら……主に社教授とかいうクソジジイに振り回されながら過ごした。

 女――みちるには不本意ながらかなり世話になった。何せ研究所から外に出たことなどなく、俺が知っていたのはB達からの伝聞でしかなかったのだから。


「じゃあとりあえず、必要な物いっぱいあるから買いに行こうか」


 最初にそう言って外に連れ出された時、初めて見た外の景色が何もかも新鮮で驚いた。人が自由に歩いていて、知らない物ばかりがあって、色に溢れていて……皮膚や髪を晒さないように目深に被った帽子とマスクの隙間からひたすら辺りを見回した。

 此処があいつが来たがっていた“外”。新鮮な光景に目移りすると同時に、そんな場所に俺が先に来てしまったことに酷く罪悪感を覚える。

 だが最も衝撃を受けたのは別のことだった。


「……ケーキ」

「どうかしたの?」


 通り過ぎようとした店の前にあるのぼりに『誕生日ケーキのご予約受け付けております』と書かれていた。


「なあ、あのケーキっていうのは高いのか」

「ケーキ? まあピンキリだけど、あのお店は別に普通だと思うよ」

「普通っていうのは、一般人でも買えるってことか」

「勿論。誕生日とかお祝いに買うこともあるけど、ちょっとしたご褒美とか、あと今日はケーキ食べたいなと思ったら買えばいいし」

「……」

「燐君ケーキ食べたいの? 買ってあげようか?」

「いらねえ。……絶対に食わねえ」


 食べられる訳がない。俺はみちるを置いて足早にその場から離れた。

 あいつが食べたがっていたケーキ。それはこんなにも当たり前に溢れていて、だけどあいつの手に届かなかった物。


「……いつか」


 いつの日か必ず、あいつにそんな当たり前を渡すと誓った。






 ーーーーーーーーーー






「燐、少しいいか」

「なんだよ改まって。気色悪いな」


 研究者の助手をするのだ、日常生活だけではなく覚えることは山ほどある。本来は子供でも知っているような常識的なことから専門用語まで、簡単な手伝いの傍らひたすら知識を頭に叩き込む。ちなみにそこで俺の名前の由来は知った。適当過ぎるだろ。

 そんな日々の中、そこそこ研究にも深く踏み込むようになってきた頃に突然社のジジイが研究の手を止めて話しかけてきた。珍しいこともあるもんだ。


「そろそろ聞いておこうと思ってな。お前、アイ君を見つけたらどうするつもりだ」

「どうって、そんなの決まってんだろ。あいつを裏社会から引きずり出して普通の生活を送らせる」

「それは本当に可能だと思うかい」

「あ?」

「悪いが僕は協力しない。その子がうちに来て、それでXを呼び込んだらたまったものではないからね」

「ってめえ」

「君とは前提が違うんだよ。その子は存在するだけでその場を滅ぼす可能性がある。この研究所を破壊されてみちる君もお前も死なせる訳には行かない」

「……っ」


 冷静な声でそう言われてぐっと押し黙った。客観的に見ればこいつの言うことは間違っていないのだろう。だがそれでも、俺はIを助けると誓った。それだけは絶対に譲れない。


「……分かった。あいつを取り戻したら俺は此処を出て行く。それでいいだろ」

「ちっとも良くないね。いやはや全く論理的じゃない」

「はあ?」

「お前が此処を出て行ったら僕が助手を失って忙しくなるじゃないか。それにアイ君もお前もいつXに殺されるか分からない。そんな中でその子が普通に暮らせるとでも?」

「……じゃあ、どうしろってんだ」

「簡単な話だ、根本から原因を取り除けばいい。私の研究対象で、お前の得意分野だ」


 社が楽しげににやりと笑う。


「あの化け物を殺す毒を作ってしまえばいいじゃないか」

「!」


 あれを殺す。そんなこと、思いつきもしなかった。

 X。再生の血が流れる不死身の化け物。見た瞬間から恐怖を植え付けられて、立ち向かうという意識を徹底的に奪われる悍ましい白の塊。


「……く、」

「燐?」


 そんな単純なことだったのかと思わず笑ってしまった。


「そうだなぁ……勝手にクローン作られて勝手に殺されるあいつには同情するが、しょうがねえよな。人間は身勝手で傲慢なんだから」


 勝手に研究所に連れて来られて、勝手に毒人間にされて……だったら俺だって好きにしていいだろう。元から優しい性格じゃない。他人のことなんてどうでもいい。


「作ってやろうじゃねえか。化け物の再生能力をぶっ殺す猛毒を」



 そうして、俺の研究が始まった。以前採取した僅かなIの血を利用して、それを完全に消滅させる為の毒を作り出す。言葉では簡単だが、その研究は当たり前だが難航した。それはそうだ、死なない物を殺すなんて生半可な努力でできる訳がない。

 社のジジイが血の分析を進め、俺はまだこの世に存在しない新たな猛毒を生み出すべく様々な毒を呷った。この体には元々いくつもの種類の毒が混ざり合って存在しており、そこに更に新たな毒を追加して体内で新しい毒を作り出す。あの頃研究所でされていた訓練を自ら行って、Xを滅ぼす毒を模索した。体外に排出する毒の種類をコントロールするなんて無理難題だと思っていたのに、いつの間にかできるようになっていた。


「なに無茶苦茶やってるんですかこの馬鹿共は!」


 みちるには怒られたし俺を止めなかった社はぶん殴られていたが、絶対に止めないことを知ると大きくため息を吐かれた。ただ一言「絶対に死なないこと」とだけ言われたが、それは俺が一番気を付けている。あいつにケーキを食べさせるまで死ぬわけには行かないのだから。






 ーーーーーーーーーー






 それから何年経っただろうか。相変わらずあいつの情報は得られない。何処か特別な空間に隔離されているのか、それとももう……捕食されてしまったのか。

 考えないようにしていてもその懸念は常に過ぎる。あれから何度かXが現れたという情報は得ているが、もしそこにIが居れば捕食されてしまっているかもしれないのだ。だがそんな心配をしていても何も始まらない。少しずつだが毒の研究は進んでいる。必ずXを殺すのだとそればかりを考えて日々研究に打ち込んでいた。


「燐君、大事な話があるの」


 転機は、警察署から戻って来たみちるが持ってきた。


「因幡教授は分かるわよね?」

「当然だ、ちょうど今研究結果も読んでる。確かにクローン体の大量出血等でX細胞が多量に外に排出された時にXが関知して現れるというのは――」

「燐君、社教授に似てきたわね」

「は?」

「とにかくその因幡教授なんだけどね。表でも裏でもかなり有名な人物で、特に裏社会では“学園”を運営してる」

「学園。裏社会で学校を?」

「そう。何でも特殊な力を持った子供を集めて教育を施し、それを裏のバイヤーに売っているらしいの。気分が悪い話だけど」

「……で、それがどうしたんだ」

「あの人はXの研究の第一人者でしょう。それに多分アイちゃんの生みの親。だから私も随分前から何とか接触できないか色々やってたのよ。そしたらこの前講演会の時に運良く話しかけられてね? 社教授の助手だって言ったら随分興味を持たれて『是非うちの学園で教鞭を執って欲しい』って」


 ……あのジジイが教師? あいつに化学知識を散々叩き込まれた俺が言うのも何だが無理だろ。教え方滅茶苦茶だったぞ。そもそも研究が忙しいのに受けるはずもない。

 俺が考えていることが手に取るように分かったのか、「勿論教授は断ったんだけどね?」と話を続けた。


「そしたら教授が『うちの息子でよければ』って勝手に因幡教授に返事をしちゃったのよ」

「バッカじゃねーのかクソジジイ。誰があいつの息子だよ!」

「まあ戸籍上は養子になってるから……。それでね、更に続くんだけど。警察の方もその学園に何とかメスを入れたがってたものだから……これ幸いと潜入捜査を要請されちゃって」

「……」

「因幡教授の元へ行けばXに関する情報はもっと得られるかもしれない。だけどあそこは裏社会の温床。何が起こるか分からないし、何を強要されるかも分からない。だからね……嫌ならはっきり断っ」

「行くに決まってる」


 みちるの声を遮ってはっきり告げた。裏社会? 何をされるか分からない? そんなもの少しでも情報が得られる可能性があるなら何の障害にもならない。


「俺の所為であいつが居なくなった日からずっと、そのくらい覚悟してる」

「燐君」


 この数年俺は研究に明け暮れた。だがそれは決して苦痛な日々ではなかった。毒を飲んで倒れようが看病してくれる人間がいる。俺と共に毒の開発にいそしむ研究者がいる。そんな日々を過ごす度に、これが当然の日常を送る度に、あの時選択を間違えた自分を思い出す。自分の罪を思い出す。


「教師でも何でもやってやる。……その代わり、あのジジイのこと頼んだぞ」


 あいつは今の俺を見てどう思うだろうか。一人だけ助かって幸せに暮らしやがってと恨むだろうか。……恨んでくれ。恨んで、殺意を持ってて構わないからどうか。


 そんな願いがすぐに打ち破られるのを、その時の俺は知る由もなかった。






「ああ、君が新しい化学教、師の……」


 背後から呼び止められて振り返った瞬間、その男は顔を引きつらせて固まった。


「くくっ、人の面見て随分と間抜けな顔してやがるなぁ?」

「……そんなガスマスク付けてたら誰だって驚くよ。まあ“あの”社教授の子だって言うんなら納得だが」

「あのクソジジイと一緒にされんのは御免だな。俺はわざわざくしゃみか何かで人を殺さねーように気を使って着けてやってんだよ」

「くしゃみ?」

「社燐、毒人間だ。皮膚と体液は全て毒性がある。死にたくなけりゃ近付かねえのが賢明だぞ?」

「……成程。僕は心谷光だ。カウンセラーをしている」


 学園に呼ばれた初日。心谷とかいう胡散臭い教師と話しながら、俺はしきりに顔に装着したガスマスクに触れた。……どうにも慣れない。


『ガスマスクはいいよ。いざという時身を守れるし見た目のインパクトがあるからすぐに存在を認識される割に顔を覚えられる心配がない。おまけに僕の息子だと一瞬で分かる』

『分かられたくねえよ』


 あのジジイは外に出る時いつもガスマスクを着けている。だからあいつは裏社会でも結構名が知られているのに不自然なくらい素顔は認知されていない。……が、絶対に一緒には歩きたくないと常々思っていた。

 ただあの時は否定したが、この心谷を含めて此処に来るまで出会った人間全てに一瞬で『あの社教授の息子』と認知されたのは確かに便利だった。何せ素顔を晒さずともマスク一つで身分証明になるのだから。一応事前に会った学園長には確認の為にマスクを取って顔を見せたが問題ない。どうせガスマスクの印象ですぐに忘れるだろう。


「学園長、失礼します」

「心谷先生。それと……ようこそ学園へ、社先生」


 目的地が同じだった為嫌でも一緒に歩く羽目になった心谷と共に学園長室に入ると、何やら慌ただしい様子の学園長がこちらを振り返った。

 ……この女がX研究の先駆者。辺りに散らばる杜撰な管理の資料をちらりと確認しておく。そのうち忍び込んで根こそぎ情報を奪ってやる。


「学園長、どのようなご用件で」

「……ええ、実は大事な話があるんです。藍、こちらへ来なさい」

「!?」


 呼吸が止まった。思考も停止した。

 因幡学園長が背後に呼びかける。すると高く積み上がった本の隙間から一人の少女が顔を出したのだ。

 真っ先に人に与える印象は、白。そして際立つような赤だ。白い髪と赤い目を持つ彼女は学園長の呼びかけにゆっくりと歩いて傍までやって来る。

 ガスマスクを着けていて心底良かった。今の俺の顔を見れば誰だって動揺を露わにしているのが分かっただろうから。


「その子は……」

「因幡藍、私の養子です。今日からこの学園に通わせることにしました」

「養子、ですか」

「ええ。少し事情がありまして。それで心谷先生、あなたはこの子が学園に慣れるまでサポートをお願いします。どうにも自発的に行動が出来ないので」

「ああ、分かりました。お任せ下さい」

「それから社先生。早速ですがこの学園での役割を与えます。生徒達を見張り、もしもよくない行いをしている者を見つけたら処罰をお願いします。最初は大目に見ても構いませんが……そうですね、三度。三度問題を起こせば退学にして下さって構いません」

「……はっ、そういうことか」

「ただしこの子は、藍だけは例外です。もしこの子に危害を加えるようでしたらこちらもあなたの処分を考えなくてはならないので」

「はいはい精々気を付けますよっと」

「用件は以上です。それではお二人とも、くれぐれもよろしくお願いしますね」


 にこりと作り笑いを浮かべた学園長に背を向けてさっさと部屋から出る。心谷に追いつかれないように早足で来た道を戻り、そして人気がなくなったのを確認すると俺は壁に寄りかかってガスマスク越しに顔を覆った。


「……居た」


 居た。生きていた。Iが食べられずに生き延びていた。

 だが……その心は死んでいた。姿を見せてから一度も動かない表情、視線が合わない濁った瞳、ただ呼吸をしてそこにあるだけの存在。

 俺の罪深さを体現したような姿がそこにあった。この学園に来るまでの数年間あいつがどんな目に遭っていたのかをまざまざと見せつけられたようだった。

 きっと今のあいつには何を言っても届かないのだろう。俺を恨むなんて心すら存在しないのだろう。……それでも、俺がやることは変わらない。ようやく見つけたんだ。必ず此処から連れ出し、Xを殺してあいつに平穏な日々を差し出す。




 それからの二年間は怒濤の日々だった。

 あの研究所での暮らしとは一変した学園生活は、あまりの忙しさに目が回るばかりだった。そもそも人にものを教えることが初めてで、更に生徒の監視、事務作業、絶対に削ることの出来ない毒の研究。時間を切り詰めても切り詰めても足りない。


「はっ、あっはははは!! 悪い子には罰を与えねえとなぁ!」


 おまけにこの学園に入るに当たって作った“社燐”という男の仮面を被り続けるのも相当疲れる。だが狂った環境では狂った人間の方が逆に浮かないのだ。下手に大人しくして疑われるよりも派手に暴れた方が人を寄せ付けずに好都合。体質もあって俺に近付く人間は生徒も教師も殆どいなかった。

 そして俺の与えられた役割は執行人。試されているのだ。裏社会の人間らしく躊躇いなく人を害し、時に殺害できるのか。クソジジイならともかくぽっと出の俺がどんな人間なのか把握する為に学園長は俺をこんなクソみたいな役目に任命した。


 あいつを助ける為ならなんだってやる。それに人だって既に殺したことがある。だから何てことないと思ったのに……生徒を毒殺しようとしたその時、一瞬手が止まった。

 こんな場所に連れて来られて家畜のように生かされる子供。それがあいつらの――AやB達の姿と重なってしまったらもう駄目だった。その瞬間俺は使おうとしていた毒を即座に切り替えて、その生徒を仮死状態にした。


「……はは、喜べよ。お前は俺がこの学園に来て最初の退学者だ!」


 狂ったように笑いながらそう言って他の教師に心臓が止まっているのを確認させた。死体を貰うぞと言えば眉を顰められたが「まあそういう人もいるよね」とあっさりと認められ、俺はそいつを引き摺ってさっさとその場から去った。


「忙しい……!」


 すぐにみちるに連絡を取って業者を成り代わらせ、仮死状態のうちにさっさと学園の外へと運び出す。おまけに適当に眼球やら臓器を模した作り物をホルマリンに漬けて理科室に飾れば証拠隠滅の完成だ。本当に忙しい。

 だがそうやって悪趣味なコレクションを増やして行けば俺を疑う人間などすぐに居なくなった。そしてその生活に慣れて来るとようやく人目を盗んでI――藍の血液を採取することが出来るようになったのだ。

 これにより、殆どサンプルが無かった研究所と比べても研究が一気に進んだ。あと少し……細胞は完全に消滅させなければすぐに再生してしまう。跡形もなく遺伝子一つだって残さずに消し去らなければ完成とは言えない。

 あと少しなんだ。あと少しで――殺せる。






 ーーーーーーーーーー






「社先生」


 二年。それだけの時間が過ぎ、藍が三年に上がったその年の始業式の日。俺は珍しく普段は近寄って来ない心谷に呼び止められた。


「何だよ変態野郎」

「社先生にだけは言われたくな……まあいい、実は藍さんが階段から落ちて記憶喪失になってしまったようなんだ」

「……は?」

「彼女の面倒は僕が見るが、一応今年の担任には伝えておこうと思ってね」


 それじゃあ、とさっさと踵を返す心谷の背を、俺は間抜けな顔で見送ってしまった。

 藍が記憶喪失だと。再生能力があるあいつに限ってそんなことあり得るのか。そう疑問に思いながらも教室に着いてみればそれが正しい情報であったことが一瞬にして分かった。


 藍の顔に、表情が戻っている。怯え、戸惑い、それがマイナスな感情であることは明白なのに、俺はそれを見て嬉しくて嬉しくて堪らなかった。

 暴れた生徒を足蹴にしながらも意識は彼女の方にばかり集中する。人形だった彼女がやっと人間に戻った。それなら記憶など忘れて正解だ。何もかも、俺のことも忘れようがあいつの心が戻ったのならそれでいい。





「しいちゃん!」


 確かにそう思ったのに、この感情は何だ。

 目の前で出雲のことをしいちゃんと呼ぶ彼女に何とも言いがたい感情が広がった。

 違うだろ、そいつじゃない。そう言いたくても言えない。


 出雲忍。そもそもこいつは何だ。

 藍と同じX細胞を持つ人間だということは担任になった時に聞いている。大方他の研究機関で不完全ながら藍と同じような人型が運良く作り出されたのだろう。だがどうして藍に近付く。この男の目的は何だ。一体何を企んでいる。


 嫌な予感がして、あいつが編入してからろくに睡眠も取らずに研究を急いだ。急げ、急げ、完全に殺し切れ。そう焦り、ますます研究に没頭した。




「……はは」


 とうとう職務を放棄して研究を続けていたその日、いつもの作り物とは違う素の笑いが漏れた。目の前の試験管に入っていた血は毒を与えた瞬間みるみるうちに蒸発して消え、何一つ痕跡が見つからない。


「完成した……」


 ついに、ついにXを抹殺する猛毒が生み出された。体から力が抜ける。連日眠れていない体が重く、目が痛い。

 少しだけ仮眠を取ろうとふらふらの体を引き摺ってベッドに沈み込む。しかし意識を落とそうとしたその瞬間、耳障りな電子音が響き渡ったのだ。


 ふざけるなよ。一瞬でぶち切れそうになりながらも何とかスマホを耳に当てると、聞こえてきたのはあまりにも最悪な言葉だった。


「出雲と藍が学園を抜け出した……!?」

「藍の制服のボタンにはGPSが着いています。私もすぐに向かいますから先に追跡して下さい」


 しかしあまりにタイミングが悪すぎる。俺は電話を切って即座に跳ね起きると、ガスマスクを着けてすぐさま部屋を飛び出した。

 外に出て車に乗り込み、俺はみちるに連絡を入れながら一気にアクセルを踏み込んだ。この嫌な予感が外れていてくれと願う。祈る。そうして何時間車を走らせたことだろうか。途中でGPSの位置が動かなくなったのを確認して更に急げば、そこには大きな教会のような建物があった。

 いや正確に言えば――今まさに破壊された教会だった建物が。


「――っ、」


 白い化け物が、暴れている。

 資料は飽きる程見返した。夢にも何度だって現れた。それなのに再び肉眼で直視したXの姿に俺の体は震えが止まらなかった。

 落ち着け、冷静になれ。藍のことだけを考えろ。いつの間にか追いついてきた学園長が悲鳴のような金切り声で藍を探すように訴えて、俺もようやく足が動いた。


 複数の人間が壊された入り口に向かうのを見ながら、俺は不意に視界の端に白がちらついた気がした。目の前の化け物から目を離してそちらを見れば、暗闇の中に僅かに浮かび上がった小さな白を木々の合間を走り抜ける。俺は即座にそれを追いかけた。


 真っ暗闇の中一度はすぐに見失ってしまったが、教会の喧噪から離れてしまえば僅かな息遣いはすぐに耳に入ってくる。案の定そちらへ向かえば、しゃがみ込んで俯いたまま動かない藍の姿を発見することができた。

 思わず安堵で肩から力が抜ける。いつもの調子で声を掛ければ藍はゆっくりとその顔を上げてこちらを見た。


「先生。……殺して下さい」

「っ、」


 だがその表情を見た瞬間、俺は凍り付いた。戻った。学園で再会した時のような、あの表情に戻ってしまっている。記憶を失って豊かになっていた表情は、再び死へと向かって行ってしまった。

 もう藍に生きる気力なんて無い。それなのに無理矢理生かす方がこいつにとっては辛いのかもしれない。

 だが。


「……くっ、」


 思わず息のような笑い声が漏れた。


「はは、くくくあはははははっ!! 随分と馬鹿なこと言ってんなぁ? 俺がお前を殺してやる義理が何処にある」


 このまま開発したばかりの毒で殺すことだって出来た。だけど嫌だ。俺が嫌なんだよ。何があってもこいつを殺したくないし、嘘でもそう口にしたくない。ただもう一度あの頃のように、何てこと無いくだらない話をして笑っていて欲しい。それだけだ。


 俺は有無を言わせず藍を抱え上げて走り出した。睡眠不足、長時間の運転、元々ガタが来ていた体が悲鳴を上げるが構わず走る。

 あいつらに藍を引き渡してさえしまえば後はどうにでもなる。だからもう少しだけ動けと何度も体に鞭を打つ。



「社先生、藍を保護して下さりありがとうございます」


 しかし、やっぱりそう都合良くは行かないもんだ。

 足を撃たれて思い切り地面に倒れ込む。何とか振り返ってみれば追っ手の姿。……は、上等。今更ここまで来て諦める訳にはいかないんだよ。たとえ撃たれようが体が引き千切られようが、絶対に藍をこいつらに渡さない。


「最後通牒です、速やかに藍をこちらに引き渡しなさい。あなたは我が校の優秀な執行人、こちらとしても失うのは惜しい。今なら引き返せますよ。さあ……」

「断る。俺の目的はあんな学園じゃあとても為し得ないからな」

「……あなたは一体何をするつもりで」

「とんでもなく重要なミッションだ。何せ俺はこれから――こいつを外に連れ出して幸せにし(ケーキ食わせ)なきゃなんねえからなぁ!」

「は? ケーキ? 一体何を言っているんですか?」

「生憎てめえが知る必要なんてねえな?」


 他人が意味を知る必要なんてない。そう言って笑った瞬間、今まで動かなかった藍が突然俺に飛びついてきた。


「な」


 続いて響く銃声。衝撃が何度も体を襲って熱を持つ。しかしそれは撃たれたにしては随分と弱いものだった。


「藍!」


 俺を庇って銃弾を受けた藍がぐったりと動かなくなる。なんで、なんで庇ったんだよ。なんでまた俺の所為で苦しんでいるんだ。

 藍を抱えて必死に呼びかけると、彼女は震える手で俺のガスマスクに手を伸ばし――それを取り払った。


「間違えて、ごめんね」


 俺を見て、泣きそうな顔でそう言って。――もうその言葉だけで十分だった。何もかも満たされたような、そんな気持ちになった。


 けれど現実はそこで終わってくれない。


「藍! 早く逃げて! 社先生、あなたでいいから藍を遠くに……!」


 学園長の叫びと共に地面が揺れる。……ああ、来やがったか。

 バキバキと木々を破壊しながらやつが現れ、俺は藍を置いて立ち上がる。三度目の今度は、何故だが全く恐ろしいと感じなかった。


「や、めて。しいちゃ」

「あの学園で、俺がずっと何をしていたと思う」


 ずっと、全てはこの日を迎える為の準備だった。

 一直線にこちらへ向かってくる化け物を視界に捉えながら、俺はおかしくなって笑いながら赤黒く変色した手をXに向かって突き出す。

 死ね。


「お前を殺す為だけの毒だ。存分に味わえよ」


 俺の人生を懸けた研究成果が目の前の化け物を殺し始める。地響きのような呻き声を無視して巨大な口の中に無理矢理血を流し込み、どんどんとXは消滅していく。

 最後の最後まで油断せずに全ての細胞を殺し尽くす。そうして――呆気ないほどあっさりと、白の化け物はこの世から完全に消え去ってしまった。


 体から力が抜ける。やべえな、流石に無理し過ぎた。指先一つ全く動かない。藍が俺を呼ぶ声が聞こえるが、頼むからこっちに来るんじゃ無い。


「駄目だ。今あいつに触れたら君の方が死ぬ」


 声も出せずにただそれだけを思っていると、不意に聞こえてきた声に悔しいぐらい安堵した。どうやら、俺が死ぬ前に間に合ったらしい。


「燐君! すぐに助けるから」


 走り寄ってきたみちるがてきぱきと手当を始める。止血の為に体が締め付けられるのを感じながら薄らと目を開けると、いつの間にか藍がこちらを覗き込んでいた。


「……藍」


 泣くなよ。もうお前を脅かす化け物は居なくなったんだ。何とか力を振り絞って名前を呼ぶと、藍は途端に気を失って地面に崩れ落ちた。


「!」

「おっと危ない」


 俺の血だまりに倒れそうになった藍をぎりぎりで社のジジイが掴んで事なきを得る。やつは藍を少し離れた場所に寝かせると、ガスマスクを外して随分と楽しそうに笑った。


「久しぶりだな燐、気分はどうだ?」

「……さい、っこうだよクソジジイ」






 ーーーーーーーーーー






「どうしよう……本当にどうしよう」


 藍が酷く深刻な表情でぶつぶつ呟いているのを、俺はテーブル越しに呆れた顔で眺めた。

 あれから一週間ほどが経った。俺は動けるようになり、藍は精密検査を終えてようやく一段落ついた所だ。

 そしてそんな今日、久しぶりに戻ってきた研究室には、場違いなほど大量の種類のケーキが所狭しと並べられていた。

「別に全部食えばいいだろ。何悩んでんだよ」

「だってこの人生初のケーキだよ!! 最初に何から食べるか死ぬほど迷うに決まってるじゃん!」


 というかこいつあれだけケーキケーキ言ってたのにそもそも食ったこと無かったのかよ。むしろ何があってそこまでケーキに執着したんだか。……Bに聞いたのか?


 まあなんでもいいか、と俺は必死にケーキを見比べている藍を頬杖を付きながら眺めた。


 こいつにケーキを食べさせる。……端的に言ってしまえばたったそれだけの為に今までの人生を懸けた。それだけのことにとんでもない苦労を強いられるほど、今までのこいつは狂った環境に置かれていたのだ。


 目の前の光景がどれだけ貴重なものかと実感する。


「しいちゃん? 何にやにやしてんの?」

「なんでもねえよ。いいからさっさと食べろ」


 藍が不思議そうにこちらを見るが、すぐに視線はケーキに戻され、あれやこれやと真剣に吟味したあと苺のショートケーキを手元に引き寄せて震える手でフォークを掴んだ。


 実のところ何もかも解決した訳じゃない。Xは死んだがこの先藍を狙うやつはいくらでも出てくるだろうし、また突然Xのような生命体が現れる可能性だって完全に否定はできない。今までよりももっと最悪な事態だって起こるかもしれないし、未来のことは何も分からない。


 だが、まあ。今ぐらい何も考えずにこの瞬間を楽しんだって罰は当たらないだろう。

 俺もこいつも、ずっとこの瞬間を待ち望んでいたんだから。





「いただきます!」



end


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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです!!! とくに社先生の視点めっちゃよかった、、 [気になる点] 燐って名前の由来はなんなんだろう、リンの原子番号が15だからとかですか? [一言] 完結おめでとうございます、…
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