4月ーーシン。新しい日常(前編2)
シン視点
「…………よし! これで3枚目、焼き上がり!」
アイリスにとって誇れる父親になる為、少しずつ自分の欠点を直していこうと決意してから、20分ほどの時間が経った。
3枚目のキッシュ風を焼き終えた俺は、フライパンの中身を皿へと移す為、傍らに置いていたヘラを手に取る。
(よし。これで最後だな)
皿の上には、数分前に焼き上げた2枚目のキッシュ風が乗っている。俺はその上に、フライパンの中にある3枚目のキッシュ風を重ねる。
…………ちなみにだが、1番最初に焼き上げた1枚目のキッシュ風は、アイリス用として、既にリビングのダイニングテーブルに運んでいる。
(家にあるフライパンのサイズでは、1枚ずつしか焼けないからな)
女の子であるアイリスと違い、大人の男である俺は1枚では足りない。
とはいえ、俺の分の2枚が焼き終わるのを待っていたら、1番最初に焼き上げたアイリスの分が冷めてしまう。
という事で、アイリスには先に食べてもらうように言ってあるという訳だ。
(さーて、と。アイリスが食べ終わらないうちに、リビングへと急ぐとしますかね)
まあ、とはいえ、愛娘と一緒にご飯を食べるのは、親バカの俺にとっては大切な家族団欒の時間だ。1分1秒でも長く、アイリスと一緒に食事をしたい。
という訳で、俺は皿を持って、早足でリビングへと向かったのだがーー
「お待たせー、アイリス…………って、あれ? アイリス、まだ食べてなかったの?」
ダイニングテーブルに座るアイリスの前に置かれたキッシュ風は、全く手付かずのままだった。
疑問に思った俺が尋ねると…………アイリスは俺を見て、ぷくーっと頬っぺたを膨らませる。
「もうっ! なに言ってるの、お父さん! お父さんが来るのを待たずに、わたしが先に食べる訳ないでしょ!」
「いや…………でも、冷めちゃうよ?」
「それでも! わたしは、お父さんと一緒に食べたいの!」
「ーーっ! そ、そっか…………。ごめんね、アイリス」
なんだろ? 頬っぺたを膨らませて、ちょっとだけ不機嫌そうなアイリスには悪いのだが、正直そのセリフはグッときた。
俺はアイリスに謝りつつも…………言葉とは反対に、笑みが浮かびそうになってしまう。
とはいえ、この状況で笑ってしまったら、アイリスは余計に不機嫌になってしまうだろう。
なので、俺はそそくさと、アイリスが食器を用意してくれた俺の席へと座る。
「ーー! えへへ~!」
俺が席に座った瞬間、先程まで不機嫌そうだったアイリスの表情が、満面の笑みへと変わる。
(元々、そんなに怒っていた訳じゃ無いんだろうな)
ちなみに、このダイニングテーブルは4人掛けなのだが…………アイリスが用意してくれた俺の席は、向かい側では無く、アイリスの隣だった。
一見すると、不自然に見えるかもしれないが…………アイリスには、甘えん坊な所があるからな。
むしろ、隣同士に座らないとアイリスが不機嫌になってしまう為、俺達にとってはこれが、いつも通りという訳だ。
ーーズリッ
ついでに言うと、こうしてアイリスが俺の方へと椅子をズラし、元から近い距離を更に密着してくるのもまた、いつも通りの事だ。
「お父さん! わたし、お腹空いちゃった! 早く食べよう?」
「ああ、そうだね。…………ただ、その前にーー」
俺は、ナイフとフォークを器用に使って、自分の前に置かれている2枚のキッシュ風の中から、下のキッシュ風を抜き取って、それをそのままアイリスの皿へと乗せる。
「? お父さん? わたし、2枚も食べられないよ?」
「ああ、分かってる。だから、こうしよう」
俺はそう言うと、自分の前に置かれた皿と、アイリスの前に置かれた皿を交換。
これで、1番最後に焼き上げた熱々のキッシュ風が、アイリスに行き渡るという訳だ。
「これで、よし! さあ。食べようか、アイリス。…………いただきます」
「…………もう、お父さんったら。相変わらず優しいんだから。…………ありがとう。いただきます!」
アイリスは、すぐに俺の意図に気付いたようだ。
どこか呆れた風に呟くアイリスであったが…………とはいえ、気を使ってもらえた事は嬉しかったのだろう。
照れくさそうにはにかみながら、小さな声でお礼を伝える、アイリス。
そして、照れくささを誤魔化すように大きな声で「いただきます」をして、アイリスはナイフとフォークを手に取った。
(…………ははっ。相変わらず、かわいい娘だなぁ…………)
そんなアイリスを微笑ましい眼差しで見詰めた後、俺もナイフとフォークを手に取って、目の前のキッシュ風をに切り分けていく。
(こういう時は普通、縦に切るんだろうけど…………風とはいえ、この料理はキッシュなんだ。せっかくだから、キッシュっぽく三角に切るか)
そう決めた俺は、自分の目の前にあるキッシュ風を斜めに切っていく。
その途中、ふと隣を見ると、アイリスも自分のキッシュ風を斜めに切っている所だった。
だが、アイリスのキッシュ風をよく見ると、縦方向にも僅かに切れ込みがある。
どうやら、最初は普通に縦に切っていたようだが、途中から俺が斜めに切っているのを見て、アイリスも斜めに切り始めたようだ。
(という事は、アイリスは俺がキッシュ風を斜めに切っている理由を察した訳か。相変わらず、洞察力のある賢い娘だな)
そんな風に俺が感心している間に、アイリスはキッシュ風を切り分け終わったようだ。
斜め方向に、計2回。4分の1のサイズになった所でナイフを置いて、フォークに刺したキッシュ風を口に運ぶ、アイリス。
「…………あーん…………」
ーーパクッ
それでも、アイリスの小さな口では、1口では食べきれなかったらしい。
1ピースの半分程で噛みきって、モグモグと咀嚼する、アイリス。
(ど、どうだろう? ちゃんとアイリスに、美味しいと思ってもらえるかな?)
アイリスと暮らし始めて随分経つが、この瞬間には未だに慣れそうにない。
俺は、自分の分には手を付けず、アイリスの様子をドキドキしながら見守る。
ーーゴクン
「んー! 美味しい!」
満面の笑みを浮かべ、そう感想を漏らす、アイリス。
(…………ほっ。良かった。どうやら、美味しいと思ってもらえたみたいだ)
そう安心したのも、つかの間の事ーー
「…………もぐもぐ。…………あれ?」
2口目を食べていたアイリスが不思議そうに首を傾げた為、俺は一気に不安になってしまう。
「ア、アイリス? もしかして、美味しくなかった?」
「…………あっ、ううん。美味しいよ、お父さん。ただーー」
と、そこまで言った所で、何かを確認するかのように3口目を口に含む、アイリス。
そして、それを飲み込んだアイリスは、「やっぱり」と呟くと、俺に尋ねかけてきた。
「ねぇ、お父さん。このお肉って、ベーコンだよね?」
自分の分のキッシュに乗ったベーコンを指差しながら、そう尋ねてくる、アイリス。
俺は、コクリと頷く。
「うん。そうだよ」
「何だか、わたしが知ってるベーコンに比べて、軟らかい気がするんだけど…………?」
「あー、なるほど。そういう事か」
どうやら、味が美味しくなかった訳ではないらしい。
俺は、ホッと一安心しつつ、アイリスの疑問に答えを返す。
「たしかにアイリスの言う通りだよ。ベーコンは長期保存が出来るよう燻製されている分、水分が抜けて身が固くなってしまうんだ」
「なら、なんでこのベーコンは、こんなに軟らかいの?」
「その秘密は、これだよ」
俺はそう言って、キッシュ風に乗っているマイタケを指差す。
「? マイタケ?」
「そう。実はね、マイタケにはプロテアーゼっていう酵素が含まれていてね。それが、お肉を軟らかくしてくれるんだよ」
「なるほど! そういう事だったんだね」
俺の説明を聞いて、納得したように頷く、アイリス。
それに気を良くした俺は、更に説明を続けていく。
「ついでに言うとね、ほうれん草にはβカロテンっていうビタミンが豊富に含まれているんだけど、これは脂溶性のビタミンでね。お肉と一緒に摂ると、効率的に体に吸収されーーって! ごめんね、アイリス!」
「? どうして謝るの、お父さん?」
「い、いや、だって、聞かれていない事まで長々と説明しちゃったから…………」
つい気を良くして長々と話してしまったが、興味のない蘊蓄話を聞かされた所で、つまらないだけだろう。
そう思ったからこそ、俺はアイリスに謝罪したのだが…………アイリスは、俺の言葉を否定するように首を振る。
「ううん。そんな事ないよ、お父さん。むしろ、新しい事を知れて嬉しいぐらいだよ」
「そっか。それなら良かったよ」
アイリスの受け答えを聞いて、相変わらず好奇心の旺盛な娘だと、俺が感心しているとーー
「それにーー」
どうやら、アイリスの話には、まだ続きがあったようだ。
…………ただ、アイリスはどうして、顔を少しだけ俯かせているんだろう?
よく見ると、頬も微かに朱色に染まっているし…………。
「? それに?」
「そ、それに…………お父さんが、わたしを気遣ってくれたって知れて、嬉しいから…………。そ、その…………ありがとう、お父さん…………」
「…………ど、どういたしまして…………」
照れくさそうに頬を染めて、小さな声でお礼を言ってくれる、アイリス。
多分、俺の頬も今、アイリスのように赤くなってしまっているのだろう。
(あー、しまった。墓穴を掘ったな…………)
たしかに、アイリスの言う通りなんだ。
俺が今日の朝食をキッシュ風にしたのは、たまたま冷蔵庫に必要な材料が余っていたからだけど…………でも、他の料理を作る事だって出来た。
それでも、俺がキッシュ風を作った理由は、栄養のバランスが取れているからだけじゃない。
固いベーコンを軟らかくして食べやすくする為や、食材の栄養をより引き出す為に、相性の良い食材の組み合わせも考えてーーそれらも考慮した上で、朝食をキッシュ風に決めたのだ。
(大切な愛娘の為なら、自慢の知識を使う事も、手間隙をかける事だって、全然苦じゃないからな!)
とはいえ、こういう気遣いを知られるのは恥ずかしいっていうのに…………よりによって、自分から話してしまったぞ…………。
(と、とりあえず、話題を変えるとしよう! うん!)
そう思った俺は、気恥ずかしい気持ちを紛らわす為、4分の1に切っていたキッシュ風の1ピースを1口で頬張ると…………とりあえず、アイリスに今日の予定について話す事にした。
「と、ところで、アイリス!」
「う、うん! な~に、お父さん!?」
…………うぅ。やっぱりまだ、お互いに声が上擦ってしまっているなぁ…………。
「え、えーと、今日のこれからの予定なんだけど、とりあえず、いつも通りという事で、大丈夫?」
「う、うん! ギルドまで一緒に行って、売れ残り依頼があれば、お父さんが仕事で、わたしは学校。無ければ、修行をつけてくれる、だよね。うん! 大丈夫だよ!」
…………うん。
良かった。全く関係のない話題について話している内に、俺もアイリスも落ち着いてきたようだな。
「よし! それじゃあ、ちゃちゃっと食べて、早く行こうか、アイリス」
「うん! でも、お父さんの手料理は、ちゃんと味わって食べるからね」
「はははっ。そっか、そっか。ありがとね、アイリス」
それから、俺とアイリスは他愛のない話をしつつ、朝食のキッシュ風を食べ進めていくのだったーー




