第7章 1話
第7章 とある世界崩壊の始まり
それは放課後のこと。未だに部活の再会は認められておらず、一斉に下校する生徒たちでごった返す校門付近。
背後から自分を呼ぶ声に、あさひは足を止めて振り向き──顔色を変えた。
「待って待って待って! 待ってよ、あさひちゃん!」
右手を振り上げ、小さな身体をこれでもかという程動かしながら、潤が下校する生徒たちを避けながらあさひへと駆け寄って来る。
対してあさひは、どのような対応をしたらいいのか迷っていた。いきなり目の前から走り去る、という奇行を行ったのが昨日のこと。正確にはまだ24時間と経ってもいない。
昨夜も、明日以降に潤たちと会った場合、どのような対応をしたらいいかと散々に迷いに迷って──結果、答えを見出せなかったのだ。
その際、うろうろと自室の中を歩き回ったり、いきなりベッドにダイブしたり、鏡を見入って百面相したり。第三者から見れば奇行どころか、下手すると救急車でも呼ばれかねない不審行動のオンパレードだったのはトップシークレット。
なのにその矢先に、いきなり潤に呼び止められるとは。
どうしよう? どう対応したらいい?
思わず辺りをきょろきょろと見回す挙動不審なあさひ。そうこうしているうちに、生徒たちを掻き分けた潤が、あさひの元へと辿り着いた。
「どうしたの? きょろきょろと辺りを見回して。何か虫でもいた?」
「ど、どうして何事もなかったかのような、ごく自然な対応なんだっ!?」
「え、何のこと?」
延々と悩んでいたことが馬鹿みたいに、実に自然に接して来る潤。まるで昨日の自分の奇行が、彼の中では無かったかのように。
この潤の対応で、あさひもようやく落ち着いた。相手が昨日のことをなかったことにしてくれるなら、ここはその流れに合わせよう。あさひはこっそりとそう判断を下した。
「そういえば、鉄心はどうした? 一緒じゃないのか?」
そこでようやくいつもこの少年の傍にいる、自分の従兄妹のことを思い出した。
「うん……鉄心はね……鉄心は……はぁ……」
と、重い溜め息を一つ。潤はまるで鉄心がどこか遠くへ行ってしまったかのような、そんな眼差しで空を見上げる。
「……何でも、例の魔法少女の非公認ファンクラブの人達と一緒に、魔法少女を探しに行くんだってとっくに学校を出ていったよ」
「ああ、なるほど……」
従兄妹が最近、例の魔法少女に入れ込んでいるのはあさひも知っている。
「それで、何の用だ? 用があったから呼び止めたのだろう?」
潤の態度から、何となくこの件にはこれ以上触れない方が良さそうだ、と判断したあさひは話題の転換を試みる。
「あ、うん、あのね、実はあさひちゃんに話があるんだ」
「私に話?」
「うん。その前に、もうそろそろ……あ、来た来た。おーい、クルルー」
その言葉を聞いた途端、あさひの身体がぴくりと震えた。
だが潤は、そんなあさひの様子には気付かず、校門の方へとぶんぶんと手を振る。
恐る恐るといった感じで、あさひがそちらへと視線を向ければ、そこには予想通り金髪の可愛らしい少女の姿。
その姿を見た時、再びぴくんと身体が震えた。いや身体だけでなく、心もまた。
あさひに背を向けた格好の潤は、そんな彼女の反応に気付きもせず、小走りに駆け寄ってくるクルルを迎え入れる。
「あさひちゃんにはまだ紹介してないから、改めて紹介するね──」
振り向いた潤が満面の笑顔で言う。
「この娘はクルルっていって──」
走り寄って来た金髪の少女もまた、幸せそうに微笑んでいる。
どくり、と一際大きく心臓が跳ねる。
──嫌だ。
この少女の笑顔は見たくない。
どくりどくりと、心臓の鼓動がどんどん大きくなる。
「複雑な事情で、今うちで居候している──」
──嫌だ。
端から見ても、何とも絵になる少女とあいつなんて。
「仕事の都合で──」
──嫌だ。
幸せそうに言葉を交わし、微笑み合う少女とあいつの──潤の姿なんて。
──嫌だ。
だけど。
──嫌だ。
一番嫌なのは。
──嫌だ。
そんなことを考えてしまう、自分の弱い心──。
──嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
もうあさひには潤の言葉は聞こえていない。代わりに彼女に聞こえているのは、全く別の声。彼女の心の中から響く、重々しくも誘惑に満ちた甘い声。その声はたった一言、あさひに語りかけた。
────だったら壊してしまえばいいだろう?
ぞくり、と。
おぞましい何かが、不意にクルルの背筋を駆け抜けた。
それは先日の、通り魔事件の時に感じたものと同質のもの。だからクルルは、その感覚のした方──潤の背後へと視線を向けた。
「ん? どうしたの?」
潤もまた、クルルの異変を感じ取った。彼女がじっと見詰める先、即ち自分の背後へと振り返り──丁度その時だった。
闇が、弾けたのは。
それは不意に現れた。それは非常に大きく、勢能市のどこからでも見ることができた。
「──何だ……あれは……?」
それを見上げながら、誰かが呟いた。
そう呟いたのは一人だったが、それはそれを見上げている者、共通の思いだった。
「……あれは……樹、か……?」
市長室の窓からそれを見上げ、室町はぼそりと呟いた。
確かに樹だ。樹にしか見えない。だが。
高層建築物など存在しない勢能市だが、それでも背の高い建築物はそれなりにある。
その樹は、そんな建築物などより遥かに大きく、しかも黒かった。
黒い巨樹は、その幹同様真っ黒な葉の繁ったたくさんの枝を、風に揺られた訳でもないのにざわざわと揺らめかせていた。
「あんな真っ黒で大きな樹が……いきなり生えてくるなんて……」
有り得るのでしょうか? と呟いたのは、室町の背後から黒樹を見上げている彼の秘書。
「普通に考えれば有り得ないが、私たちは魔法少女という常識外の存在を知っている。魔法少女がいるのであれば、いきなり樹が生えて来ても不思議ではあるまい」
そう秘書に答えた室町だが、彼の心の中では、一つの警報が鳴り響いていた。この真っ黒な樹はもしかしたらあれではないのか、という非常警報が。
「まさか……これは……この黒い巨大な樹は……」
ごくり、と息を呑んだのは室町か、はたまた彼の秘書か。
「……クルルくんの言っていた……『破滅』ではないのか……?」
その言葉は市役所内外の喧騒に掻き消され、誰の耳に届くこともなく虚空へと吸い込まれて行った。
「鉄心っ!!」
赤崎道場の門をくぐり抜けたところで、鉄心は冬華に呼び止められた。
「潤はっ!? 潤はどうしたっ!? 一緒じゃないのかっ!?」
冬華は目の前にいる鉄心と、遠くに聳え立つ黒い巨大な樹を交互に見比べながら叫ぶ。
そして鉄心は、冬華のその態度から潤がここにはいないことを悟る。
「あ、あいつ、まだ帰って来ていないのかっ!?」
鉄心はファンクラブのメンバーたちと、放課後すぐ学校を飛び出したのだが、目的の魔法少女を探し始めてすぐこの黒い巨樹が現れた。
いきなりの非常事態に、ファンクラブのメンバーたちは各々てんでばらばらに逃げ惑い出した。
中には「このような時こそ、我らが天使が舞い降りるのだ!」と叫んでその場に留まる剛の者もいたが、殆どのメンバーはばらばらとその場を去って行った。
おそらくは、パニックを起こして無目的に逃げ出したか、でなければ家族などが心配になって自宅へと駆け戻ったのだろう。
鉄心もそんな後者の1人だった。彼の両親の勤め先は近隣の大きめの都市にある。だから鉄心は、先ずは両親へそれぞれ電話をかけてその安否を確かめた。
どうやらこの騒ぎは勢能市内だけで起こっているらしく、両親はどちらも無事だった。
その事実に安堵したのも束の間、彼の脳裏に浮かんだのは赤崎家の面々だ。だから鉄心は自宅にも向かわず、真っ直ぐにこの赤崎道場へと駆け込んだのだ。
「おまえこそどうして潤と一緒じゃないんだよっ!? こんな時こそ、おまえが潤の傍にいるべきだろうがっ!!」
弟を心配するあまり、かなり理不尽なことを鉄心に要求する冬華。冬華の弟第一主義を理解している鉄心は、そのことについて文句は言わない。言うつもりもない。
「あいつとは学校で別れたんだ! あいつのことだから、真っ直ぐ家に帰っているものだとばかり……」
「何だとっ!?」
それを聞くなり、冬華は敷地の外へと飛び出そうとする。鉄心は慌ててそんな冬華の腕を取って引き止めた。
「どこ行く気だよ冬華姉っ!! 下手に飛び出して、行き違いになったらどうするんだっ!?」
「だからって潤を放っておけるかっ!? 探しに行く!!」
尚も玄関先で言い合う2人を諫めたのは、母屋の奥から姿を見せた初穂だった。
「少しは落ち着いたらどうですか、冬華? ここは鉄心の言に一理あります」
「だけどよ、母さんっ!! 潤みたいにトロい奴を、こんな非常識な状況で放っておける訳ねえだろっ!? さっき携帯に電話したけど、回線が混乱していて繋がらないんだよっ!!」
冬華は改めて遠くに見える巨大な黒い樹へと目を向ける。それに釣られるように初穂と鉄心の視線も移動する。
その時だった。どこかで何かが崩れるような音が響いたのは。
「な……何が……って、何だあっ!?」
音のした方へと振り返り、呆然とする鉄心。
赤崎家からさほど離れていないところで、巨大な黒い何かがまるで蛇が鎌首をもたげるかのように起き上がった。
「ま……まさか……あれは……根……か? あの黒い大きな樹の……?」
そう。鉄心の呟き通り、それはまさしく黒い巨木の根だった。
大人が一抱えする程の太さの根が、何本も何本も、それこそ町中の至る所で黒い蛇の如く身を起こしていた。そして、その巨大な黒蛇が身悶えするかのように打ち震える度、周囲の建造物が次々になぎ倒されていくのを、鉄心は呆然と見つめていた。いや、見つめることしかできなかった。




