二、寄手城後の大嶽に夜討一揆引残之事
このようにして十二月十一日の夜は寄せ手らが退散していったので、城内から迎撃に出た者たちは敵を追い払いつつ、合図の鐘と共にすぐに城内へ引き揚げていった。
その時、城の正面には、高嶋右馬之助正澄と小寺庄之助隆則が足軽を引き連れ、城門の内側から左右に分かれ、今一度城内を巡回し、それから役所に引き上げると約諾して城内を見て回っていた。
ちょうどその頃、城の後方にある大嶽方面よりひそひそと人の囁く声があり、その声を高嶋の手の者たちが聞き付け、その様な事があったのだと報告した。
高嶋はこれを聞いて、「その様なことも有り得るだろう。他でもなく崖際にまで近付いて伺い聞いたのであれば、疑い様がなく、敵が岨破(≒急峻な崖などの小さく開けた場所)に張り付いておるのだ。ならば小寺にも知らせねばならぬ」と、急ぎ使いを出したところ、衣笠、芳賀、大谷、中村らが持ち場の近くに控えていた。
彼らは戦場の理に長けた者たちばかりで、高嶋があれやこれやと説明すると、それを聞いた小寺が、「なんと愚かな者どもか。飛んで火に入る夏の虫の例え通り。仕掛け置いた石弓や大木の綱を切り落とせ」と言った。
正澄は小声で、「殿は尤と仰られている」(国書データベース:殿は左宣はん、書籍版:殿は尤宣はん)と今も小七郎と言い合っていた。
「この場は捨て置け。(崖下からから)城内へ乗り込むことは困難だ。しかし、こんな切り立った場所に取りつこうとするとは敵ながら不憫なものだ。ただそのまま放置しておけ。夜も程なく明けるだろう。見張りの兵士を残して出直そう」
(そうして)各々が連れ立ってそれぞれの持ち場へと戻っていった。
その後は、高嶋七郎兵衛尉と小寺右衛門允の手勢である弓・鉄砲の足軽たちが、交代で夜を徹して守りを固めさせていた。
やがて夜が明けると、高嶋と小寺は「ここが(敵兵の声が聞こえてきた)該当の場所である」と、視線を向けてみれば、案の定、険しい崖にへばりついている敵の姿がはっきりと見ることができた。
しかしながら、この場所は谷底から十丈(約30メートル)余りもある高い崖となっており、今となっては二十丈ほどにも感じられるほどで、岩の狭い隙間に(敵兵が)それぞれが取り付き、その場所で進むことも退くこともできない有様であった。
皆、笠印をつけており、当国播磨出身の武士である明石、高砂、曽根、志方の者どもだと思われた。
その時、高嶋が大声で叫んだことには、
「ここにいる人々の笠印は、どれも見知ったものだと思われる。ならば、この国育ちの人々で(この大嶽の話を)聞いたことがなかったのだろうか。ここは獣でさえも通らない。まして、甲冑を付けた人間なぞが通れる場所ではない。鷹なぞ賢いもので、(この大嶽の絶壁が)人が通らない場所だと知っているがゆえに、毎年巣を掛けているほどだ。なんと愚かな人々だろうか。災難に遭ってさぞ不快な思いをしていることだろう。こちらには無数の石弓もあるのだぞ」
こんな状況の人々の様子を見て、思いつく古語がある。
懐に入ってきた鳥は、猟師であっても殺さない、というもので、まして人の道においてはどうだろうか。
「もともとは顔を見知った仲の者たちもいるのだ。薄情ではないだろうか」
このように申し上げたのは、小寺右衛門允隆遠と高嶋七郎兵衛尉正建で、「皆、急いで引き揚げよ。差し縄が足りないのであれば持って来い」といって、差し縄を多く投げ下ろさせ、「右に左に」と言い捨てながら縄を捨て置き、足軽たちを連れてそれぞれの持ち場へと帰っていった。
このようにして城へ夜襲に向かった者たちは、まるで虎の尾を踏み、毒蛇の口を逃れるような心持ちであったが、ようやく苦労しながらもこの場所から下り、生還を果たすことができた。
この出来事は寄せ手の陣中において広く知れ渡り、この話を聞いた人々はめいめい高嶋や小寺の志の高さに感じ入って鎧の袖を濡らすほどであった。
(上月城が)落城した後の時代になっても、犬を追いかけて遊ぶような小さな子供らの遊びの中で、「小寺殿よ、高嶋殿よ」と、即興の詩(童歌?)が誦じられているということだ。




