一、寄手城内へ夜討ちの事
天正五年(1577)丁丑、十二月十二日。
山の麓では激しい風が吹き荒れ、寄せ手の兵たちは寒さに震え、心休まる暇もなかった。
そのうえ負傷者も非常に多く出たため、昨日羽柴筑前守秀吉公が命じられた堀を掘る作業も全く手につかない様子であった。
こうした中、角倉と蜂須賀の二人は、残りの諸大将にも知らせず、今朝になって山脇の本陣へ参上していた。
そして、城側から夜討ちを仕掛けられた状況や退却する敵を追い詰め、(前の戦で)目覚ましい働きをした次第を秀吉公に報告した。
「仰せの通り、堀を掘り堤を築いて城内からの通路を封鎖し、干し殺しにすべきでしょう。しかしながら、味方は度々不覚を取っているだけでなく、堀や堤を構えて敵を防ぐというやり方はあまりに臆病ではないでしょうか。後世に(臆病者の)そしりを受けるのは口惜しいこと。たとえこの身を骸に晒そうとも、運を天に任せ、何度でも攻め寄せてはいかがでしょうか」
と申し上げた。
秀吉公はこれをお聞きになり、浅野弥兵衛尉長政に向かって「お前はどう思うか」とお尋ねになった。
弥兵衛尉は承知し、
「二人が言うことは尤もなことです。しかし味方は疲れており、その半数は怪我を負っております。また、城は堅固な地形で、攻める術が少のうございます。これを無理に攻め続けるよりも、ここは一旦引き下がってはどうでしょうか。味方の隙に乗じて国内に反逆者が現れたり、他国から援軍が来たりすれば大変なことになるでしょう」
と申し上げたので、
「いやいや、城内でも大勢討たれていると思われます。籠城していて疲れていることでしょう。間もなく矢玉も尽きるに違いありません。このような状況で攻めないのは無念なので、夜討ちであろうと昼討ちであろうと、ただ攻めなさるに越したことはありません」
と、二人は重ねて申し上げた。
また秀吉卿はこれを聞いて、
「二人の言うことは尤もなことだ。私も元々そう思っていた。士卒が疲れているのは確かだ。また、新年も近いので一旦引こうと思っていた。しかし、疲労困憊している敵を見ながら退くのは、上方(京都・大坂方面)の味方たちを欺くようで無念となる。ただ総攻撃を続けることとする。浅野弥兵衛尉にその旨を触れさせよ」
と仰ったので、あれこれと評議することも止み、攻めることに決定してしまった。
兵士たちはこれを聞いて辛い気持ちを堪えながら、「命があるうちに、身を捨ててさっさと討ち死にせよ」とわめき叫び合っていた。
そうこうするうちに夜が明け、十二月十三日、上月の二つの曲輪の前面に(秀吉卿の軍勢が)攻め寄せ、楯や竹束を突き並べ、矢懸(射た矢の届く範囲)の近い方から鉄砲を数多く撃ちかけた。
(これに対し)城内からは各々の持ち口を指し固めて静まり返り、音もせず、(寄せ手は)互いに交替する理由がないまま、日も暮れようとする間際になって皆が引き退き、城の正面は川を越えて、搦手方面は形見山の東の山岸に陣取ることにした。
この日、寄せ手の諸大将が集まって会議を開き、「今のままでは、いつまで攻めても味方が疲れるばかりで益がないだろう。夜襲をかけよう」と一決し、各々手分け、合言葉を定め、諸大将の中から二十人、三十人、五十人、百人と選び出して、それぞれの集団の目印を付けさせることにした。
十二月十三日の月が沈む頃、各自両曲輪の前面へ忍び寄る者もおり、堀の造作物を経て切岸の下へ寄る者もいた。
もし、何かの手違いで城方が早く攻め入ったならば、城内の役所所々へ火を放とうと、火縄まで持っていた。
城中は、まさか夜討ちが入ってくるとは思わず、兼ねてより夜々ごとに諸大将の中から当番となり、二人ずつ城中の詰所や切岸の辺りを巡回し、所々で互いに巡り合った。
その夜、高嶋右馬助兄弟、小寺庄之助は、それぞれ侍や足軽を連れて、静かに見回りをしていた。
ちょうど真夜中頃のことである。
(見回り中の)高嶋が小寺に言うには、
「不思議なことだ、思いがけず寄せ手の陣中から馬の嘶きが聞こえるのはどういうことだ」
小寺はこれを聞いて、二人で共に行ってみると、所々の陣屋で疑うところもなく馬の嘶きが聞こえてきた。
小寺は高嶋へ言った。
「貴殿はよく気がつかれた。(この馬の嘶きは)きっと夜陰に紛れて寄せ手が攻め入ろうとする準備だろう。そもそも馬は、よく物事の変化を知っているために人に先んじて進み、人に先んじて陰気になるものだ。恐らく城方へ夜襲を仕掛けてくるに違いない。さあ、それならば、各所の持ち場へ知らせに行こう」
二人は部下を従え、前後の役所各所、その列の二ノ丸まで派遣し、各々静かに出陣せよ、火縄銃の火は隠せ、松明の灯りは最優先で消し止めよ、と触れを出した。
それから高嶋は大手門の櫓へ上り、門櫓と渡塀の間は相伴わせた(自軍の)五百余人の足軽たちを手配し、弓鉄砲を伏せて待ち構えた。
小寺は、猪ノ谷の矢倉出塀辺りの持ち場なので、柏原兄弟を相伴って固めていた。
搦手は門矢倉から東西の渡り塀まで、上月権之正、国府寺父子、広戸、丸山父子三人が固めていた。
同じく東の矢倉には早瀬父子が固め、同じく東西の切岸、渡り堀までは、真嶋、浦上、頤宮、端山らが弓鉄砲の足軽を配置していた。
二ノ丸谷口の矢倉は横山が担当しており、南北の切岸出塀辺りには神吉、佐用、中村らが固めていた。
城の裏手の大嶽には芳賀、衣笠、大谷、岡田、山田、三宅、野々村らが北嶽の上を行き来して足軽を配置していた。
これに加えて宇喜多掃部助、本間、神宮、別所らが他の勢力を交えずに(独立した兵力として)三百余人を率いており、持ち場を定めず、臨機応変に急を要する方へ加勢できるように巡回していた。
さて一方、寄せ手だが、彼らは若城より打ち出て(城方を)追い返さんと、大手橋から二町ほど離れた北の柵際へ糟屋、竹中、中村、杉原、英積、岸本、長濱甚吉、海津孫八らが鉄砲を持った集団と弓を持った集団を二手に分けて出陣させていた。
これは、もしも城兵らが打って出たならば、ここから出合って迎撃に出ようと出陣させた集団だった。
蜂須賀、小寺、中嶋、本巣、山口、堀、木村、堀尾、山中らは皆これを憤っていた。
「(これから攻めようというのに)後方で着陣している場合か。攻め口へ寄せよ」
と催促してみせたが、そう言う誰もがその身に手傷を負っており、まして兵士らにあってはことさらに心身が疲れ果てており、威勢ばかりが先行しても実態としては立ち居振る舞いや進退のけじめを失い、全くの落ち着きをなくしている有様となっていた。
けれども(秀吉卿は)軍使を巡らせ、足軽や弓兵の軍勢を催促して攻め口へ派遣させた。
(城内へ)忍び入ろうとする者たちも、橋の外柵を各々打ち破り、十人二十人ずつ橋際へ集まりながら板材木などを持ち寄って、橋の板を引き剥がして手前に引き寄せ、すぐにでも橋を打ち渡らんと後続の味方を待ち、切岸の辺りでは、梯子や掛け梯子を持ってきて、あるいは鉤や熊手で柵を破り城内へと侵入を果たした。
坂の中の左右には、宮部、小田垣、中條らが、密かに足軽十四人と弓兵三十四人を率いて出陣しており、ここに足軽を伏せさせ、城から(兵ら)が押し出てこようものなら追し返そうと控えていた。
城の後方の大嶽には、この国の案内者である小寺、梶原、英積、志方、曾根らの国人たちの他に、谷、堀尾、山中らの手勢が少々分かれて出ており、これも熊手や鉤を持って控えていた。
そういったわけで、城中は静まり返っていたので、(城兵らが)待ち構えているとは知らない寄せ手らは囁き合い、
「それにしても、近ごろ耳に響く嶺を吹き抜ける激しい嵐や、松を鳴らす風は肌を引き裂かんばかりだが、そんな寒風でも今夜ばかりは忍び入る我々の鐘などの金物が立てる音が紛れて幸先が良い」
と喜び合いながら勇んで進み、盾と竹束を橋の行桁に打ち渡しながら橋を易々と越え、小門の前に少し離れて後続の兵士らを待つ体勢を整えようとしていた。
哀れだが、今回の計略も三五の十八破羅利(=情けないが当たり前のことに)に違わない。知らぬは凡夫の身の上なのだ。
こうして城の矢倉では、政範と高嶋が目配せし合い合図の太鼓を打てば、時を同じくして、大手搦手所々の持ち場より(伏せていた城兵らが)一斉に鬨の声を上げた。
そして、夜討ちを仕掛けていた寄せ手が予想外の展開に驚き揉み合っていたところ、城中の矢狭間から(城兵らが)鉄砲を撃ちかけ矢を放ち始めたために、敵は驚き、揉み合っては押し倒され、あるいは堀または溝川に巻き落ちていく有様は前代未聞の出来事であった。
また、山頂の切り立った崖を登ろうとしていた所においても、(山の)上方より大木や石弓の綱を切り放ったがために、人も梯子も、石材、木に至るまで一巻きになって崩れ落ちていった。
その轟音は山野に夥しく響き渡り、堀に道を作製するために充満した者たちも、左右の堀へ崩れ入り、水に溺れて半死になる者も多かった。
上月城の後方の山を登る者は石材木に打たれ、また山麓に指し集まった者たちは、大沼へ巻き込まれてしまい、どれぐらいの人数が亡くなったのかは元より分からない。
元々、二つの曲輪の先に攻め寄せていた者の半分は鉄砲に撃たれ、残り半分はそれぞれが押し倒され、さらにその上に重なり伏しながら橋の上から押し落とされるほどの大変な混乱状態にあった。
城内では(敵勢が)夜襲に失敗したとみて、この隙に乗じて討って出ようと、柏原父子と小林兄弟が足軽を出して小門を開かせてみたところ、橋の上は寄せ手の死骸が満ち溢れていた。
闇夜で地理も悪いため、(柏原親子と小林兄弟が城内に)足軽を引き入れようと命令を下そうとしたところ、寄せ手の方からは、もともと出陣していた糟屋、竹中、英積、岸本、海津、長濱、杉原、中村、中島、山口、蜂須賀、谷、小寺が足軽大将などの味方先陣が敗北した者らに入れ替わっていた。
橋の外側の柵のあたりまで出てきた柏原と小林の両名が、従わせている足軽たちに命じて、橋の上に転がっている寄せ手の死骸を熊手で左右の堀の中へ突き落とさせ、さらに橋の梁の上に夜襲側が設置していった盾や竹束などの防御物をことごとく落とし、小門の方へと引き揚げようとしていた。
しかし、ちょうどその時、糟屋、竹中、梅津などの足軽が真っ先に(城に向かって)進軍してきており、橋の西脇にある小門の前に、大勢の者が押し寄せてひしめき合っているのを見つけた。
「いかにもこれは、城の中から打って出てきた敵軍に違いない」と思った彼らは、問答無用で(柏原親子と小林兄弟に向かって)鉄砲を撃ちかけてきた。
これによって、小門の前では土佐守の武者・横山五郎左衛門尉、鵜山権六などという宗徒の者をはじめ、小林の武者、足軽少数が鉄砲に当たって討たれてしまった。
生き残った者らも敗走を始め、どうしようもなく、(糟屋、竹中、梅津などの足軽も)共に小門の中へ引き入れてしまった。
柏原、小林等も危うい所を免れて引き籠もった。
このようにして寄せ手は次々に攻め返し、橋の際まで寄せてきたのだが、城兵は皆引き籠り、橋の中ほど(の板)は突き崩されており、たやすく向こう側へと渡ることはできなかった。
(橋を渡れないので)橋の外側を目指して進み、あちこち動き回っていたところに、城の正面にある矢倉から鉄砲を撃ち、あるいは精兵の弓の手垂れなどが、指し矢遠矢を射かけるので、これに当たる者が大勢出たために堪え切れず、寄せ手は散々になって後退していった。
あれこれしているうちに、夜はほのぼのと明けた。
東の山端に秀吉卿がいらっしゃられたのだが、攻め口には一人の兵士の姿が無く、城の中からも何の音もしなかったために、東の河原に打ち集まった者たちへ軍使を立てられ、負け戦となった士卒を集めさせながら、非常に不機嫌な様子でいらっしゃった。
どうしようもないので、敗軍の諸大将のもとへ軍使を立てて、
「敗軍の兵士たちを集めさせて陣を張れ。味方の隙に乗じて城から打って出ることもあるだろう」
と、頻繁に命令を下された。
城ではこの機に乗じて打って出ようと宇喜多(掃部助)がとりわけ熱心に進言したが、諸大将の中に少し異議を唱える者がいたために遂に彼の望みは叶わなかった。
寄せ手も準備が不十分で大勢の者が討たれ、傷を負いながら這々の体で残党が退却していた。
城中からは国府寺親子、真嶋治郎右衛門、三宅、中村、野村が坂の半ばまで敵勢に追い打ちを仕掛けたが、寄せ手の宮部、小田垣、中條などが坂の真ん中で足軽を伏せており、「しめた」とばかりに(宮部らの)足軽らがを立ち上がって弓や鉄砲を撃ちかけたところ、三宅、中村、野村、頓宮又兵衛をはじめ、大勢の者が討ち倒されてしまった。
残党らは敗走して坂を逃げ登っていったが、宮部の方も矢種が尽きており、元々小勢だったので「この戦はここまでであろう」と素早く退却していった。
これは(宮部らにとっては)幸運な事で、坂の上には国府寺父子、真嶋、芳賀らの弓兵が陣を張って控えていたため、もし宮部勢が勝ちに乗じて追撃しようと坂を登って来たら討たれていたことが必定だった。
また、(城内に引き上げた)国府寺をはじめとする各将も、それ以上に(宮部勢を)追いかけようとはせず、負傷者たちに(苦しまぬよう)とどめを刺し、柵や逆茂木などを取り繕い、すぐに木戸へ引き籠もったので、夜がほのかに明ける時間帯になっていた。
搦手から打って出た者の中で、宮部勢によって討たれたのは、頓宮又兵衛尉、真嶋彦六、三宅左兵衛尉、野村又助をはじめ、宗徒の武者六人、郎従三十余人、その他足軽少々が討たれた。
芳賀父子と頓宮は、坂の上で左右に足軽を配置して控えさせ、(彼らを)殿として(自分たちは)木戸の内側へと退却していった。




