十一、霜月晦日、上月城攻めるの事
こうして、十一月二十八日の夜、上月城を攻めていた秀吉卿の軍勢が大勢討たれ、その兵士たちの死体を数えたところ、およそ二千余人と記されている。その他、足軽や雑兵、馬などが、あちらこちらの河原に幾重にも折り重なって横たわる様は、無惨以上、筆舌尽くしがたい。また、生き残った者たちも、『明日は誰が討ち死にするかわからない。』と弱気になり、進軍しようとする者はいなかった。実際に討ち死にした者たちを思うと、縁故のあった父母や妻子が嘆き悲しむ姿が目に浮かび、非常に哀れである。
城の中では、この日までに宗徒(主だった者)と聞いた者が一人も討たれておらず、さらに備前の宇喜多氏が援軍に来たので、城兵の士気はますます盛んになった。一方、攻め手側は士気が下がっているように見えた。
そのような時分に、福原の城が落ちたと聞こえてきたので、上月城を攻めている軍勢の顔色も少しは良くなった。
それから、小寺、蜂須賀、梶原が秀吉卿の命を受けて大手攻めに加わり、明石、英賀、その他国人たちも搦手攻めに駆けつけて加勢した。さらに国中の味方に属する者も非常に多く、山脇へと参上してきたので、彼らもみな上月城を攻める軍勢に加わった。
このため、上月城の四方三里の範囲には人々があふれかえり、幟や旗が天にひるがえり、鎧の金物が日光にきらきらと輝き、夜は夜通し、四方の篝火が空を焦がすようで、山、川、野原に夥しい光が満ちた。
人々の心は、何かにつけて陣屋でことさらに話したり騒いだりしているのを聞けば、『ああ、この城もあとどれほど持ちこたえることができるだろうか。今、いたずらに攻め寄せ、先駆けにしようと、(無駄に)死ぬようなことはしたくない。』と思う者もいる。昨日まで平然としていた者でも、城山の方を見上げると、恐怖に震える者もいれば、平然としている者もいた。
また、傍らに寄り合って、『この城は当国一の要害である。しかも譜代の重恩の士が、一万余りで籠城している。彼らの心を一つにまとめ、宗徒として、百なら百通りの方法で手を替え品を替え戦ってくるであろうから、あの城が落ちるのが、一体いつになるかは分からない。ましてや、我々の露の命がいつまで保てるのか。』と、群れだって嘆息したり、突然泣き出したり、うなだれて黙り込んでいる人も多かった。
このように、様々な人々の心を和らげることができないため、陣中では常に物騒な様子であった。
それでも諸将は一堂に会して攻撃を仕掛けることになった。
霜月晦日、大手と搦手の寄手が同時に川を越え、二つある曲輪の両方から二町ほど手前に竹束を立て並べ、ここに鉄砲を伏せて置き、北の方からは猪ノ谷の柵際まで進み寄り、そこから城の東北にある矢倉を目がけて激しく鉄砲を撃ちかけた。
南の方は西荒神谷と大沼がある。搦手の出口の坂下から二町余り隔てた場所から上月城の堀の岸まで竹束を付けて、その陰から激しく鉄砲を撃った。
この猪ノ谷からこの攻撃場所までの攻撃部隊は、皆、今回初めて参戦した人々であった。彼らは昨日から今朝にかけて、誰が攻め口の一番に先陣をきるかについて話し合ったが、谷、堀尾、木村をはじめとする古参の武者たちに至るまでが、『自分たちが最初から攻撃をしていた場所である。』と言って、新参者の言葉を全く受け入れず、口論になったが、ようやく静まった。
このため、本来の攻め手は夜明けから軍を発し、大手と搦手の攻撃口に一番に押し寄せ、城を囲んだのである。
このようにして、寄手は各々鉄砲を撃ちかけたが、城内の各所の矢倉や渡り塀より二町三町を隔てており、上矢(城兵が撃つ矢)も飛んできたので、ただ射撃を行なったところで、これは無益なことだと気づくに至った。城中からも矢が届くには遠すぎ、(城兵らも)鉄砲を一発も撃たず、周囲は静まり返っていたが、寄手もさすがに攻め口の近くまでは近寄ろうとはせず、ただ二日が無為に過ぎていった。
そのうち、寄せ場に陣取ることには夜討ちや火矢の恐れがあるとして、各々が攻め口から引き退いて川を越え、さらに用心して本陣を構えた。
翌日になり、秀吉卿は青野原の山端に出兵して陣取られ、諸大将を召し集められた。
『今までの様に遠くから攻めるばかりでは、いつ城を攻め落とせるというのだ。これが分からんのか。その上、夜になって城から足軽が出てきて、付捨てておいた仕寄や竹束をことごとく焼き払ってしまったら、皆、徒労に終わって悔しいことになってしまうだろう。今日からは攻め口から引くことなく、昼夜交代で厳重に弓鉄砲を張り、厳しく攻めよ。』
と、命じられ、攻め入る者の交代の手順は、その場で書き取らせて日記を書くように定められた。
その他にも、大名や有力な武将には、足軽や人夫を使って、堀の水を切って落とし、草を埋めて土手を作り、切岸に足場を設けて城内に乗り込むように、と仰せ付けられた。皆、それを承諾し、その上で攻城を交代しながら、手分けして昼夜交代で激しく攻撃していった。
ある者は堀の水を切って落とし、またある者は堀の前の深い田んぼを埋め立てて寄せてくる者もいた。
しかし、寄手のどの軍勢も隙があるようには見えなかったが、攻め口から鉄砲を撃ちかけ、城内の人々を打ち破ったという話は全く聞かなかった。
結局、城中から高嶋が指揮を取り、強弓の使い手たちに鉄砲を交えさせ、(矢を射るために)適切な距離にある矢倉の狭間や出塀から寄手を射かけると、この矢に当たって手負いになる者や死者が大勢出たために、攻め口の寄手も、水切に落ちた者たちも、怺えることができず、竹束の陰に逃げ込み、もはや攻めるための手段を失ってしまっていた。
このため、その後は(寄手は)田んぼの縁や堀の岸の所々に竹束を立てて、仕寄せを設けて埋め立てながら近寄り、堀より(攻め口にかけての)溝や川を数多く掘り壊し、堀に溜め込んでいた水を流し落としてはみせたが、しかし、元々城のある山には秘泉(湧き水)が湧き出ており、その水がこの堀に漏れ落ちる場所が多かったので、堀の水を切って落としても、いつ城内の水が枯れるのかはわからなかった。
さらに、堀の水を切って落とし、溝や川を数多く掘り切ったものの、ある場所では往来の邪魔になり、また堀や田んぼの縁の水たまりが所々大沼のようになってしまったため、埋めようとしても大変で、かえって手間となってしまった。
このようにしてできあがった湿地帯を軍役として埋めるためには、大勢の力が必要となった。
柴や薪、材木、土俵、砂、石などを、若い兵士らが我も我もと手に持って埋めに行こうと城に近寄り、それに加えて、(周辺の)村里から人夫や民衆まで、馬に積んだり背負ったりして、大勢が昼夜を問わず埋め立てるための草木などを運び入れたため、城の麓の深い田んぼはすべて埋め立てられてしまった。
堀の中には、その幅が二十間ほどの道が三本、埋め立てて作り上げられ、堀の際までは、今や高さが二丈ほどとなっていた。皆が勇んで埋め立て作業を行った功績は、非常に大きかった。本当にこの道ができあがれば、寄手はことごとく堀を越え、仮に設けた足場の崖を高く積み上げ、最終的には城に乗り込むことができるように見えた。
城からは、この様子を城の守備にあたりながら見ていたが、矢が届くには遠すぎるため、この場所へは鉄砲を一発も撃ちかけられずに居た。寄手は、この状況を好機として、武士も足軽も人夫も関係なく入り乱れ、本当に寒風が激しい時期であったが、皆が汗水になって寄せていった様子は、その気迫が見て取れた。
こうして一両日が過ぎ、十二月二日の昼頃には、西の堀の縁が弓の射程距離になっていた。
この時、城の中から『今が好機だ。』と思ったのだろう。隅櫓や出塀、渡櫓の矢狭間を一度に押し開き、同時に鉄砲を撃ちかけた。
伝承によれば、寄手の奉行や頭人、足軽、人夫に至るまでが、この時の鉄砲で将棋倒しとなって討たれとされている。たまたま、後方で道造りをしていた者たちは、この様子に驚き惑い、左右の堀へ押し落とされた者たちに巻き込まれて、次々と重なるように堀へと落下して、水に溺れる者の数は数えきれないほどだった。
まさに紅蓮大紅蓮の地獄に落ちた罪人のようであった。これではどうして勝つことができようか。また、東の堀端に集まっていた寄せ手も、この騒動に騒ぎ立ち、互いに押し合い揉み合った。その上、城からは鉄砲を撃ちかけ、遠矢を射かけるので、これに当たって、あるいは逃げ惑い、彼らが埋め立てていた溝や川へと巻き込まれ、落ちて重なった者は、どれほど居たかがわからない。
かろうじて逃げ延びた者たちは、あちらこちらに倒れ、半死半生の者が夥しくいた。
ようやく寄手が川を渡った時には、日はすでに暮れて、実際に城から打って出てみれば、逃げ惑うほどの激しい大風が吹き荒れて、これまでにない珍しいできごととなった。




