大角問答・妖
「せん、参りました」
茶室の外から声がして、大角はにじり口の板戸を開けた。
現実性の薄いせんは物体へ干渉できない。つまり自力で引き戸を動かせない。それゆえの声かけと助力であるが、言ってしまえばこれは無用の行為だ。
「干渉できない」とはこの場合、「干渉されない」と同義である。その気になりさえすればせんは、戸どころか壁だろうが床だろうが透過してしまえるのだから。
けれど大角は、せんが人に近づきたい刀だと承知している。ゆえにそれそのように彼女を扱う。魁偉な容貌からは想像しがたい細やかな気遣いを、この坊主は備えていた。
「では始めるとするかの」
「よろしくお願いします」
大角が胡坐をかき直し、その対面の座布団の上へ端座する形を取ってから、せんは丁寧に頭を下げる。
「まずは、どうじゃ。長屋暮らしは楽しいか」
「はいっ!」
その問いへ、せんは声を弾ませ首肯する。
「皆と話せるのも、話しかけてもらえるのも、すっごく楽しい! わたしにはまだできないけど、お料理とか、針仕事を教わったりもしてます」
宗介の好みの食材や味付けを調査中なのだと、四文屋のものではなく、いつか自分の手料理を馳走したいのだと、せんはきらきらと目を輝かせて語った。
大角の親身を、彼が自分を人として扱ってくれることを、せんはよく理解している。加えて彼は、宗介の命の恩人でもある。ために全幅の信頼があり、つれて自然、彼女の口調は敬意を示しつつも含みつつも砕け、懐いた調子になっていた。
「それに子供! 子供って可愛いよね。きゃっきゃ無邪気で、素直で、明るくて。素敵なことのかたまりみたい。わたしにも懐いてくれるのも、嬉しいな」
異類を見る目、聞く耳は、幼い時分こそが鋭い。つまりこの種の知覚は、長ずるにつれ失われがちなものである。「霊感はおたまじゃくしの尾のようなもの」とする向きもあるほどだ。
修行や体験が耳目を開く例もあるから、この説が正しいとは一概には言い切れない。
しかし、かつて育んだ友情が成長にともに薄れゆき、やがて忘却に沈んで消える――これは人妖間によくある、別離の形のひとつだった。方相長屋の子とて例外はなく、いずれせんを見失い、彼女と過ごした時を忘れ去る者も出よう。
が、それは今、したり顔でせずともよい指摘だ。
ゆえにせんの言葉にただうむうむと頷いて、大角は余計を言わない。
「となれば、せんよ」
「はい」
「それだけお主を認識する者が増えたならば、構わぬな?」
「え?」
大角の曖昧な言いに、せんはきょとんと小首を傾げる。
「金四ツ目となったのちは、宗介と離れても、もう構わぬな?」
「……っ!」
ざくりと切り込まれて、せんが息を呑んだ。おそらくは悲鳴の代わりに。
「お主は宗介以外と、宗介はお主以外と物を見るがよいかと思うてな。目に映る景色が変わらば、知見もまた変わろうて」
「だ、駄目。それは駄目だよ、大角さま」
身を乗り出し、大角の膝へ取りすがるようにしてせんは言い募った。
「わたしを一番上手く使えるのは宗介だし、宗介の剣も、ほら、わたし前提なところがあるから。だからわたしたち、ばらばらだと力を発揮できなくて……!」
「それほど、宗介と離れるのが嫌か?」
大角が問えば、せんは童女のようにこっくり頷く。
元来せんは抜けぬ刀である。使い手を選ぶ刀ですらなく、人を拒む刀なのだ。刀としての本分を果たすを厭い、自らを鞘のうちに封じた。せんの弁ずる通り、抜刀を許される宗介が例外なのだ。
だから。
もし宗介と引き離されるような裁定が下るなら、いっそ悪い妖魅になってしまおう。そんな危うい考えをせんは抱く。
尽くせるだけの悪事を尽くして、最後は宗介に退治されるのがいい。
宗介は優しいから、そうしたらきっと、いつまでもわたしのことを覚えていてくれる。それはずっと、宗介と一緒ということだ。
「宗介以外には、他の誰にも使われたくない。どれだけわたしを意識してくる人が増えても、でも、宗介は特別だから」
「ふむ。如何に名刀であろうと、鞘から出ぬなら使い用はないのう」
稲妻のように過ぎったせんの独善を見透かしたように、大角はさらりと自案を引っ込めた。
「……ごめんなさい」
「なんの。そもそも宗介も、似たことを申しておったわ。己の技はせんありき。常に頼ってばかりで心苦しい、とな」
「そんなこと、ないのに」
続く言葉を耳にして、せんは安堵と含羞を面に浮かべる。
後者の色合いがより強いのは、宗介に不可欠と評されていたことが甚く嬉しかったためだ。己の有用を承認され、賞賛さるるを欲するは付喪の性である。
「まあ、宗介については致し方ないところかのう。聞く限り、じっくりと時をかけ悪い妖刀に、自分好みに仕立て上げられてしもうた様子じゃ」
「あ、や、待って大角さま。その言い方、わたしが宗介を誑かしたみたいに聞こえるっ」
「したじゃろう。実際、宗介に振るわれる心地は格別なのじゃろう。うん? 連日稽古に用いられ、連夜丹念に手入れされ、大変ご満悦なのじゃろう。ううん?」
「それは、その……そうかも、だけど」
せんは他所を向き、声を小さくした。
別段不埒を働いたつもりはないのだが、そのように指摘されれば後ろ暗いような心地がする。そもそも、その挙措がもう蔵頭露尾だ。
にたにたと人が悪く笑って見せたのち、大角は声色を変じる。
「ひとつ詫びおけば、お主らを分けて使うとはこの大角の虚言よ。連理木を無理矢理に引き裂かば、どちらも枯れゆくと弁えておる。が、せんよ。儂は過日、申し渡したな。己が何者たるかを見定めぬがゆえ、お主は未だ何者にもなれぬ、と。未だ何者ともならぬまま、宗介に縋り続けるか」
「……」
更にぴしゃりと刺され、せんがうつむく。
けれどひと呼吸の後、彼女は昂然と顔を上げた。
「でも、それでもね、なりたいものは見つけたんだ。縋っているって、また叱られちゃうかもだけど。でもわたし、ちゃんとなりたいものができたんだよ」
「ならばその欲、申してみよ」
返されてせんははたと固まり、それから茶室を見回した。
自身と大角以外の耳目がここにないことを、改めて確かめるように。
「あのね、大角さま。宗介には……ううん、誰にも内緒だよ?」
「案ずるな。儂の口は巌の如しじゃ」
「――わたしね、宗介のお嫁さんになりたい」
ひと呼吸置いてから、せんは含羞んで笑んだ。
如何にも彼女らしい、陽がそこにだけ差すような笑みだった。
不意にそこから覗いたのは、穏やかな祈りのように強く真摯な思慕だった。
「人の大好き同士は、お婿さんとお嫁さんになって家族を作るんだよね? それならわたしも、宗介とそうなりたい」
必ずしもそうではない、と否定するのは簡単だ。
が、この場合、それはただの衒学である。少なくとも、せんの心と向き合う姿勢ではない。
ゆえに大角はただ静かに先を促す。
するとせんはまぶたを伏せて、もう一度だけ軽く笑んだ。今度の微笑は、諦念の色彩を湛えていた。
「でも、無理だよね。大丈夫。わかってるから。だって夫婦って助け合うものなのでしょう? なのにわたしは何もできない。いつも助けてもらうだけ。なあんにも、してあげられないんだ」
無力感に、せんはきゅっと唇を噛む。
幽姿は確たる実体ではない。そんな些細な仕草すら、彼女は本当には行えない。
「もし大角さまがいなかったら、宗介はあの時あのまま儚くなってた。わたしはそれを、ただ見ているしかなかった。ここへ来てからもおんなじ。宗介が魘されていたって、やっぱり傍で見ているだけ。いつも、わたしはいつもね、『誰か宗介を助けあげて』って願っているしか、できないんだ」
それがせんの傷だった。
ずっとずっと、胸を苛み続ける棘だった。
「でもね」
視線を上げて、せんはわずかに声を弾ませる。
「でもこの頃少しだけ、できたことと思えたことあって。大角さまはおかねさん、知ってる?」
「ひたじ屋の、おっかねぇ婆さんじゃな」
「お口が悪いよ、大角さま」
めっ、とせんに睨まれ、大角は首を竦めて見せた。
ひたじ屋とは、方相長屋近くの小さな茶店だ。
かつては一膳飯屋だったが今では構えを小さくし、甘味や甘酒、季節のものを商っている。飯屋時分の工夫があるのか、ひたじ屋の団子はこね具合が実によいと、所の者には知られた名物だった。
かねとは、このひたじ屋をひとりで営む媼の名だ。長年に渡る客商売の眼力ゆえかせんを見聞きしてのけ、ために宗介とせんの贔屓の先となっている。
少々気難しい部分があり、大角が口にしたようにその名とかけて、「おっかねぇ婆さん」などと口さがない子供たちには呼称されていた。
「実はおかねさん、宗介と同じ常州の生まれなんだよ。だからお願いして、土地の子守唄を教わったんだ。もしかしたら宗介が悪い夢を見ている時の、慰みになればと思って。そうしたら、ね。期待してたよりずっとり効き目があって、ちょっぴりだけど寝息が落ち着くんだ」
告げてせんは、また淡い微笑を浮かべた。
少しだけでも、宗介の役に立てたのではないか。そう思うと、小さな灯が灯ったように胸が温かかった。
「でも宗介は強い子だから、最近は夢なんかに負けずによく眠れるみたいで、わたしの出る幕はなくなってきてるんだけど。あ、でもそうやってぐっすりの時は、たまに寝言でね、わたしの名前をね、えへへへ……」
どんな夢を見ているのだろうと思いはするが、問いたい気持ちを、せんはぐっと押し殺している。
寝顔をずっと覗かれているだなんて知ったら、宗介により嫌われてしまうかもしれないからだ。
「それだけじゃなくて、他にもあるんだ。行き帰りの時に、いってらっしゃいとおかえりなさいを言っていたのだけど、そうしたら宗介がね、『自分の帰っていい場所ができた気がする』って、優しく笑ってくれたんだ」
続く宗介の言葉を、せんは誰にも語らないつもりだ。
――せんの隣が俺の居所と、そう刷り込まれた気がする。
気恥しさもあるけれど、何より自分と宗介、ふたりだけの秘密にしておきたい気持ちが強い。
宗介を自分に縛りつけるつもりは毛頭ない。宗介はすごい子なのだから、どこへでも自由に羽ばたいていくのがよいとせんは思う。けれども彼の言葉を聞いた時、本当にそうなればいいと願ってしまった。ひどく、いけないことだ。
「大角さま。わたし、欲張りみたい。最初は、話せるだけで十分だったのに。刀として振るってもらえれば、それで満足なはずだったのに。叶ったら、もっと欲しがっちゃう。もっともっと、欲しくなっちゃう」
目線を上げて、せんは大角の大きな双眸を見返した。
「前に教えてくれたよね。妖魅を斬って精気を吸えば妖相が強まるって。そうすれば人の体と変わらない振る舞いができるようになるって」
「それを目当てに、お主は金四ツ目を志すか」
「うん!」
ぐっと両拳を握り、せんは強く肯ずる。
いつも「誰か」にお願いするばかりだけれど、本当は他ならぬ自身の手で、せんは宗介を助けたい。そして。
「ちょっとずつでもできることを増やしていったら、もしかして、いつか。宗介もわたしのこと、好きになってくれないかなって。いっぱい好きになってくれないかなって、思ってるんだ。だってわたし宗介のこと、たくさん好きだから」
夢見るように唱えてから、せんは忸怩とまた目を伏せた。
「嫌だな、恥かしい。口に出してみたらわたし、自分のことばっかりだね」
これもまたよくないことだと、せんは憂える。
これは自分のためだけに、他を踏みつける思考だ。
さんざん斬るを厭うておきながら、肉の身に近しい妖体を得るべく、自分の恋慕を叶えるべく、他の妖魅を餌食にしようとしている。つまるところ、私利私欲の殺生を行う心積もりでいる。
その上、殺戮行為自体も宗介頼りなのだ。これでは依存していると指摘を受けるも道理でしかない。
彼の手に握られなければ、何もできない身の上がせんなのだ。
宗介はせんを愛刀として、大事に、とてもとても大切に扱ってくれている。それはせん自身もよくわかっている。
固陋でしかない理由で気鬱に陥った時だって、せんのためだけの剣舞を編み、頑是ない心を癒してくれた。
宗介の心遣いはいつも静かで穏やかだ。そっと抱き締めるように寄り添ってくれる感触は、たとえるならば鞘に似る。ぴったり彼に包まる限り、何からも守られて、怖いことなど何ひとつない。
多分、宗介にしてみれば、それは親しい者へ示すごく当たり前の親切であるだろう。
けれど彼の心遣いは、せんのやわらかな部分を的確に貫き通してやまない。
まるで当たり前のように手渡されるその優しさに気づくたび、せんはいつもたまらなくなる。たまらなく、愛おしくなる。
宗介が金四ツ目を志してくれるのも、おそらくはこの種の気配りに違いなかった。
つまり、せんのことさえなかったら、宗介は別の生業を選ぶことができるのだ。
方相長屋は働きに対する対価を惜しまない。数年も金四ツ目を務められれば、のちの暮らしは安穏平平であると聞く。
そこまで実入りのよい仕事は珍しかろうけれど、もっと安全な、命の危険のない働き口は、江戸にごまんと存在している。
宗介はこれまでに、たくさんの辛い目を見た。だからこれからは偸安怠惰に過ごしていいはずだ。妖魅などには関わらず、気楽で身軽な仕事に就いて、ゆるりと好きに生きて構わないはずなのだ。
なのにせんは、そんな宗介を刀槍剣戟の場に連れ出そうとしている。ただ、己の欲望がために。
何より平穏無事な暮らしのうちで、いずれ無用の長物として埋没していくことを彼女は恐れた。刀たる己がもっとも輝くのは、所詮修羅の巷であるのだから。
斯様に自分が、自分だけが宗介の特別であることに固執するのは、器怪の性か、恋の性か。
どちらであろうと、これはあんまりな裏切りだ。
宗介の幸いのためになら全てを捧げると嘯きながら、結局自分のことしか考えていない。
そもそもからして宗介が、せんの手助けを欲しているとは限らないのだ。相談も承諾もなしに行動をして、「全部あなたのためにやりました」なんて、ただの感情の押し売りだろう。
だから本当は、願うべきではないのだろう。今以上の幸福なんて。
「こんな独りよがり、よくないよね。もし大角さまもそう思うなら、わたしの金四ツ目の話はなかったことにしてください。そうしたら宗介も危ない橋を渡らないでよくなるし、自分を利用しようとする悪い妖魅とも縁が切れるから」
「諦めの理由はそれでよいか」
「……え?」
「宗介を諦める理由はその綺麗事でよいのかと問うておる。であるならば、儂の目利き違いであったな」
「だって。だってお話しした通りだよ。わたしは宗介に迷惑ばっかり――」
「今一度問う。それで、よいのじゃな?」
更に重ねられ、とうとうせんはぺしゃんこになった。
「……大角さま、意地悪だぁ……」
「ふん。己が心へ嘘を吐くお主が悪い」
大角は私利私欲を否定しない。
善きにしろ悪しきにしろ、それは世を、物事を先へと進める原動力であるからだ。
同じ観点から、方相長屋は対価を伴わぬ依頼を一切容れない。
金四ツ目をはじめとした長屋衆の働きへ存分の報酬を出すためであり、仮に完全な善行であったとしても、無償の奉仕など続くものではないと知るからだ。余人に為せぬ業をする者は、それだけの見返りを受くべきでだろう。
妖魅を狩ることへついても、同様に肯定である。
如何に悪事を働いた者相手とはいえ、その生殺与奪を自儘にするのは傲慢この上ないことだと、そのようにせんは考える様子だ。
実に善良めく思考であるが、妖魅を貪るを大角は悪事と見ない。そもそも金四ツ目が敵対するは、基本、他へ暴虐を為した妖魅だからだ。
方相長屋の定義によれば、妖魅とは妖相を発したもの、およそ逸脱したものを指す。これはその存在の由来を問わない。人であろうと器物であろうと鳥獣であろうと、妖相を備えるならば悉くが妖魅なのだ。
そして逸脱者であるがゆえ、彼らの行状は善にも悪にも振れ幅が広い。存分の悪意を持って、思うさま悪事を働いた場合、その害は測り知れないものとなる。
せんが餌食とするは、こうした手合いなのだ。そこに情状酌量は不要であろう。
大角に言わせれば、「殴りつけたから殴り返されるのじゃ。後で四の五の言うでないわ」ということになる。他所へ石を投げるなら、同じかそれ以上を投げ返される覚悟を持っておくべきなのだ。
盗人の上前はねるは善であるとは、大角の常々思うところである。必ずそうされると世に知れ渡れば、盗み自体がなくなろうからだ。
もちろん細瑕を論い、それを罰する自分たちは正しいと、特別だと思い込むとなるは危うい。
だが宗介とせんならば、ふたり揃ってなら尚更に、そうした堕落はするまいと大角は見極めていた。その上で嗾けるのだから、悪僧と呼ぶ以外にあるまい。
「さておき、せんよ。物わかりよく体裁を取り繕ったが、結局のところ思い切れぬのであろう?」
諦めてせんは、こっくりと首肯した。
他の誰にも振るわれたくないと告げたばかりでもある。到底誤魔化せるものでない。
「他を憂い、己を律するは善し。が、過ぎて清廉潔白を求むるは悪しぞ。そも、無毀無謬の命などないわ。生きるために食らうのではなく、美味を味わうために食すが生きとし生けるものの本性よ。己がため、欲するままを為すがよい。ただし品よく、の」
「大角さまって、あの、お坊様だよね……?」
「如何にも然り、高徳の清僧じゃ。だが、せんよ。その儂とて飯を食らい、糞をひるぞ」
理想とは異なる生の図太さを提示され、せんは目をぱちくりと瞬かせる。
大角は両の鼻孔から息を吐くと、更に彼女を惑わす言葉を続けた。
「しかしながら、せんよ。宗介の身を危険に晒すを心苦しく思うなら、妖威を増す別法とてなくもない。無論、妖魅喰らいよりも時は要するがの」」
「本当!? 教えてください、大角さま!」
縋りつくな反応に、うむ、ともったいをつけて大角は己の顎を撫でる。
そうして、ぎょろりと両の目玉を動かした。
「艶夢のひとつも見せやって、夜ごと宗介の精を啜ればよい」
「そんなことできるの!? ……じゃなくて、そんなの駄目。駄目ったら駄目!」
「蒲魚ぶるでないわ。巫山の雲雨なぞ女怪の常套手段であろう。黄表紙を見よ。猫も氷柱も狐も鶴も蛤も、人に嫁入りよるが近頃の世じゃ」
言下に否定するせんに、大角は露骨に面倒げな顔をする。
「でもだって大角さま、そういうのは大好き同士がすることなんだよ。わたしは宗介に好かれてないから、そんな無理強いしたら、きっともっと嫌われちゃう…………」
「ああん?」
大角が唸りを上げた。素の声が出たと言うより、思わず胴間声が漏れたと述べるが正しかろう。
ああも相思相愛のさまを見せつけておきながら、一体何を言い出しよるか、この小娘は。
意訳するなら、およそそのような意味合いである。
「え、あの、どうしたの大角さま?」
「どうもせぬわい。何ゆえお主がそう思うのか、続けよ、続けよ」
払うように手を振って促され、せんは得心いかない顔のまま言葉を重ねた。
「大角さまにはお話ししたよね。わたしのせいで宗介は、大好きな剣の先生と決別してる、って」
せんが宗介に忌まれるとの感覚は、そこに端を発するものだった。ひどく大切に扱われていると感じることとは、また異なる部分の話である。言うなれば、それは罪悪感の鏡だった。
宗介は我が師と刀を天秤にかけ、後者を取った。ひどく嬉しい選択であったけれど、せんの胸には、そんな決断を押しつけてしまった悔いがある。
同様の思考が、宗介の身のうちにも芽生えたのではないか。本来しなくていい決断を、別離を押しつけられたと、彼はそう考え始めたのではないか。近頃のせんには、そのような危惧がある。
「……わたしさえいなければ、宗介は今も故郷で暮らせていたかもしれなくて。だから、だと思うんけどね。わたしと話している時、宗介がふっと目を逸らすことがあるんだ。でも、『どうしたの?』って訊いても、いつもはぐらかされちゃう。もしかしたら口にしないだけで、本当はわたしなんて目にも入れたくないくらい……」
隔意の証左の一例を挙げ、せんはしゅんと声を落とす。いっそ真っ向から責めてくれればいいのにと、そう続けてうつむいた。
聞く大角は、両の鼻孔から呆れ果てた息を噴出するばかりだ。余人の視点からすれば、その理由など明白である。岡目八目と言うもおこがましい。
要するに、近いのだ。
腰に佩かれる刀としての性分からか、宗介に対するせんの距離は非常に近い。
起居を共にする意中の乙女が、頻繁かつ無防備に身を寄せてくるのだ。男子としては、特に宗介のように純朴な青年としては、眩しくて他所を向くしか仕様のない場合もあろう。
つまりは和氏の璧のわずかな曇りを、必要以上に気にかけているに過ぎぬのだ。
ただそれだけのことを、どうしここまでこじれさせよるのかと、大角には不思議しかない。
「もうよいわ。満腹じゃ」
「ちょっと、大角さま! 真面目に聞いて!」
退屈げに耳の穴をほじって見せれば、きゃんきゃんとせんが喚く。
分厚い手のひらでそれを制して、大角は話の流れを変えた。
「じゃがのう。もしも、仮に、万万が一、宗介がお主を疎んじるとして、それでもやはり、お主は宗介を思い切れぬのであろう?」
「それは、えと……」
「ならばお主はそのままでよい」
「……いいの? わたし、宗介のこと好きのままでいいのかな?」
「思うままにせよ。男女の仲の正答など、釈尊ですら存ぜぬわい」
頬を桜色に染めての答えに、大角は素っ気なく瓢を呷る。
「よいか、せん。そも恋路のみならず、およそ世のあらゆることに解なぞはない。それぞれに見定めた、各々の道があるのみじゃ。そして解とは外より得るに非ず、己の内に見出すものよ。命の答えを探しゆく、その旅の名を生と言う。ゆえに儂は初手より問うた。宗介に依らぬ、お主自身は何者なりや、とな」
「え、すごい。大角さま、なんだかえらいお坊様みたい!」
くるりと始点に戻った問いに、せんが素直な感嘆を上げた。きらきらと輝く瞳にあるのは、おそらくは賞賛と尊敬の色であろう。
聞きようによっては無礼ともとれるその言いを、大角は酒臭い息で押し流した。
「多くは申さぬがお主はまず、儂の言葉を疑うことから始めることじゃ。これは我が領解ゆえ、お主にぴたりとは当て嵌まらぬぞ」
「もうっ、折角意気込んだのに、どうして出鼻を挫くみたいなこと言うの!?」
憤慨して膨らむせんを、大角は慈しみの目で眺めた。
そうして、背筋を伸ばし声音を変える。
「一寸先は闇なれど、足を踏み出さなければ何処へも着かぬ。まずは動け。動かねば悔いることすらできぬ。次いで頼れ、寄りかかれ。憂き世は相身互いじゃ。受けた恩を返すは、自らの足で立てたのちのことでよい」
せんは白装束の袂で口を隠してくすりと笑う。
頼り切りでよいとは決して言わず、報恩を示唆するところが、大角の誠実さであり、可笑しみであり、気遣いであろう。
「宗介の伴侶たらんというその欲やよし。ためには幻体を得、宗介の心を得る。見様よっては、遠い行き先よな」
「……はい」
「ゆえにせんよ。お主はまず、おからとなるを志せ」
「おから?」
「其は大豆の搾りかす、即ちきらずの別称よ。よって斬らずの刀の意となろう」
問い返すせんへ、大角は得意至極の笑みを浮かべた。
「しかし、ふむ。おからのせんでは今ひとつ格好がつかぬな。ならば、おから村正と号するか」
せんの刀身は村正の作刀に酷似した特徴を持つ。
世人はかの刀匠の銘に名刀妖刀の感を抱くから、秀でた刀として、ひと口に彼女を語るものとして通りがよい。
その上で美しく冴え渡る刃へ、斬らずと否定の語を冠する。
刃の性より離れんとするせんにとって、またそんな彼女を携える宗介にとって、この言葉遊びはより強い意志の表明となろう。
「――おから村正」
せんが繰り返した。
囁くように。夢見るように。
村正は妖刀と世は謳う。
が、実際に村正を見た者、握った者が幾人あろうか。
所詮は巷説、噂の類。直接向きわねばそのものの性根が知れぬのは、人も刀も同じこと。
そうした大角の含意までもを受け止めて、せんはその号を舌に転がす。胸の前でぎゅっと小さな拳を握り、再び決意の眼差しをする彼女を、今度は大角も揶揄しなかった。
「しかしながら、峻険ぞ」
言う目には、確かな慈しみの色がある。
「人の似姿に至る過程で、お主は妖魅として当たり前に持ち合わせた多くを失うじゃろう。若さの真価を悟るは老いてのちであるように、いつか、その喪失を悔いる日が訪れるやもしれぬ。何より、どこまで人に近しうなろうとも、畢竟お主は人、足りえぬ。お主と宗介の上を流れる時の速度は、致し方なく異なるままよ」
そのまま大角内供は、ぴたりとせんに視線を据えた。
目を逸らすを許さない、心の奥底まで暴き通すような眼光だった。
「作麼生。せんよ。無縫無銘の惑い子よ。比翼たる汝は、片翼との永訣がのち如何に在らんや」
「大角さまは、きっとご存知だよね」
問われて、せんは淡く微笑む。
――俺からこの手は離さない。
――じゃあ、ずうっと一緒だね。
交わした言葉が叶わぬ約束であることを、彼女は毎夜のように確かめている。
けれど。
「ただそこに在るだけなのを、生きているって言わないんだよ。宗介に逢う前のわたしがそうだった。ぼんやり佇んでいるだけで、どこにもいないのとおんなじ」
かつてせんは、死に近しいものを体験している。
どこでもない場所の真ん中を彷徨い、誰とも繋がらないまま消え失せる経験をしている。
終焉の感触は、ひどく寂しく孤独だった。
今までと、これまでと、少しも変わらない顔をしていた。
「でも今のわたしには、やりたいことがあって、なりたいものがあるよ。ちゃんと生きているんだって、胸を張れる」
せんは己の胸に、両の手のひらを重ねる。
大切な何かを、そこへ抱き締めるように。
「だからその時どうするか、どうなるかは、一生懸命生き終えてからにならないとわからないかな。その日にわたしが、どんな思いで満ちてるか。それを覗くまでは、誰にも」
ただひとつだけ、確かに言えることがある。
あの眠りのようなおしまいが、もしまた目の前を訪れたとしても。
せんはもう、心細くない。
何故って今は、まぶたが宗介を覚えている。
だからきっとそれだけで、優しい夢をずっと見られる。
「……あ」
そこではっと思い至って、せんが目を上げた。
「大角さま。答えを探すって、こういう?」
「汝の領解、聞き届けたり」
直接には答えず、だが大角はにたりと笑って顎を撫でる。
「こうも想われ、巾木宗介は果報なことよ」
思慕を後押しする言いを得て、せんは心強く笑み返した。
感謝の意を申し述べ、深く丁寧に頭を下げる。
これへゆったりと頷いたのち、大角は面持ちを組織を束ねる者のそれへと変えた。改まった重々しさで言い渡す。
「お主との問答はこれまでじゃ。ひとまず下がるがよい。そして半刻ののち、宗介共々我が面前に参れ」




