二.妖魅三相
宗介が案内されたのは、母屋ではなく別棟の一室だった。
当主の判断を仰ぐ間だけとはいえ、客人を門前に立たせたままにするわけにはいかない。そう考えたみよが、通いの商人らと同じ扱いをしたのである。
不定期な来訪者のための客間は、いつなりとも使えるよう、綺麗に掃き清められ、整えられていた。日当たりのよい室内には、新しい畳の香りが漂っている。
旅装を解くと、宗介は冬の冷気を遮断するためばかりでなく障子を閉めた。刀を帯びたまま端座し、目を閉じる。
やはり、姿勢がよい。たちまちぴんと張りつめた黙想の気配が醸し出された。
宗介の瞑目は反芻のためのものだ。
みよに続いてこの客間まで歩いた経路を脳裏に描き直し、少しなりとも名輪屋敷の構造に対する理解を深める。そのために視覚を遮断したのだ。
彼にとってここは一種の敵地であり、地形の把握は当然の仕業である。
彼の感覚によれば、名輪の家は増築を重ねた建造物である。
ぐるぐると縄を巻きつけるように、母屋の周囲へ部屋を付け足していった形跡がそこここに見て取れた。用いられる木板には真新しいものも、数十年近くを経て黒ずんだものもあり、古くから今日にかけて、建て増しが続けられていると知れる。
宗介が座する客間とは逆側、母屋から屋根続きの別棟は、村の子供たちのためのものだとみよから聞いた。
この村には、野良仕事のない時季に子供らを名輪家に預けるしきたりがある。農閑期に読み書きを教え、その中から才覚を見出して取り立てるための仕組みだ。
目をかけられた子供は親元を離れ、名輪に留まってより多くを学ぶ。育まれたのちは名輪家の使用人となるか、江戸などへ出て村の助けとなる働きをするのだ。
みよも昨年、音曲の天与を認められ、先達から三味線を習い覚える日々だという。彼女の肌の白さは、そうして畑仕事を避けえたゆえのものらしい。
その語りを聞いた折、宗介はわずかに眉を顰めた。
名輪の行いは一見、才能の芽に機会を与える善行めいた仕業に思える。が、同時に子供を人質に取る所業でもあろう。
村を出て活動する者があるとは言うが、その実態は怪しいものだ。
名輪の差配で江戸に出たいずれもが年季奉公扱いになっている。また容色に秀でた少女たちは、別途苦界へ落とされていた。
その前払いとして支払われた金が誰の懐に収まるかは、言うまでもないことだろう。
有体に述べてしまえば、村の、名輪のしきたりとはすなわち、商品を育てる制度なのだ。無論、扱われる商品とは人である。
幼い子供らは別として、当然ながら村の大人たちもこのからくりを察している。
それでも彼らが何も言わぬのは、それが糊口を凌ぐことに、村を富ませることに繋がるからだ。また、表立って名輪に反抗すれば、村社会から孤立するのは目に見えている。そうした恐怖ゆえの竦みもあろう。
さておき支配者としての名輪家を支えるのがこの制度であると、宗介たちは知っていた。
しかしこうした実状をみよに告げても詮無いことだ。
何も知らぬ彼女は、自身を見出してくれた名輪へ恩を覚えるふうである。どう噛み砕いて伝えたところで、下種の勘繰りと受け取られるばかりだろう。
だから宗介は何も言わない。代わりにひとつため息をつき、とんとんと優しく佩刀の柄を指で叩いた。
「そうだな。確かにうちの村を思い出す。あちこち似ていて嫌になる」
目を開くと、今度は宥めるように鞘を撫でる。
「大丈夫だ。全部を背負いこむつもりなんてはない」
言って宗介は頭上を仰いだ。
天井に遮られ、屋根上の蛇の姿は見えない。それでも、黒雲のように重苦しく立ち込めるその気配は感知できた。
「ただ、ああもおさとさんに絡むのは想定外だ」
最前みよが見たのと同じ光景を、宗介は視認している。その上で、より多くを見定めていた。
あの蛇は虚像である。何処よりかこの屋敷へと投射された恨みのかたちで間違いはない。もしあの巨体が実体であったなら、その重みでとうに名輪屋敷は圧し潰されている。
ならばあの蛇が現すのは、幻体幽姿の相で間違いはない。
金四ツ目たちが、妖魅三相と言い慣わすものがある。
幻体幽姿と併せて、借体形成、換体変骨。
これら三相ひとつ以上の現われを故として、彼らは対象を妖魅と断ずる。
幻体幽姿は、彼方より此方へ想念を投じる相である。
物語にある六条御息所が如く、生霊を飛ばす振る舞いと言えば通りがよかろうか。
投影される虚像は本体の似姿であることもあれば、似ても似つかぬ異形を成すこともある。人が動物器物の像を象る場合もあれば、その逆もまた然り。
この虚像のうち、現実性が強いものを幻体と呼び、弱いものを幽姿と言う。
幽姿はかすかな声を聞かせる、朧な姿を立ち現す程度の事象を起こすのが精々だ。しかし高強度の幻体は、実体と遜色ない物理干渉を行ってのける。
ならば幻体は幽姿の上位に位置するかと言えば、そうでもない。
幽姿は現実性の低さを活かし、気ままに壁を抜け、自在に宙へ浮くが叶う。
だが逆に幻体は、有する現実性に自身もまた縛られる。生物を模したなら、その生態に則らねばならないのだ。たとえば人を象ったなら、その幻体は鳥のように空は飛べず、魚のように水を泳げず、更には鼓動や呼吸、飲食に睡眠を必要とする。
ために虚像の現実性を巧みに操作し、幻体と幽姿、双方の利点のみを享受する妖魅が世に多い。
借体形成とは、他者の肉体へ干渉する相を言う。
或いは己の一部を入れ込んで心を操り、或いは本体の魂魄を封じて肉体の主導権を奪取する類の仕業である。神霊や亡魂といった自身の体を備えない存在が主として現す相変化だ。
およそ取り憑つかれた、魅入られたと称される事象の大半がこの相の機能である。
著名な例は、殷周革命において蘇妲己の肉体を奪った妖狐であろう。
換体変骨は借体形成とは異なって、内面ではなく外面を、実体を変異させる相を言う。
手足の増殖や減少、伸縮といった変形であり、単眼の一つ目小僧、頸骨長きろくろ首、髪が伸びる人形、隆々たる鬼角に狐狸の変化と、この相を伴う妖魅は枚挙に暇がない。
自身のみならず他へ一時的な影響を及ぼす場合もあり、木の葉を貨幣に、石くれを黄金に変えるといった仕業を行う妖魅もある。
言うまでもないことであるが、これら相変化の定義はあくまで大まかなものだ。至極大雑把な分類であり、例外はいくらでも転がっている。
更には複数相を同時に現す妖魅魔性も多数おり、ゆえに彼らへの予断は禁物と言えた。
実際、今回の蛇も既に二相を現している。
一相は換体変骨相。牙より滴らせた毒を小蛇へ変化させた仕業だ。
ただしこちらは宗介の警戒対象ではない。
何故なら、現す相が多ければ多いほど強力な妖魅というわけではないからだ。一芸に熟達した者ほど恐ろしいのは、武芸も三相も変わらぬところである。
彼が案じるのはもう一相の影響だ。
幻体幽姿は、知覚する側の素養素質の影響をもっとも大きく受ける相だ。どれほど強力な幻体が投影されようと、見る目のない者はそれをまるで察知できない。
ゆえに名輪屋敷の人々は、頭上のくちなわに気づかない。自分たちがどれほどの瀬戸際にあるかを認識できていないのだ。
これが厄介なところだった。
家人らがただ漠然と覚えるは、屋敷に立ち込める嫌な気配、不可思議に重苦しい粘性の空気の存在ばかり。そこへ妖魅がどうの呼びかけたところで、ただ困惑を招くばかりだ。信用にも行動へも繋がらない。
加えて宗介の見る目は、かの蛇体の不自然を知覚していた。
あれは、人ひとりの想念としてはあまりに大きい。
ゆえに宗介は蛇の本質を凝りと見た。幾人もの恨みつらみの集積が、麻の如くもつれ合って蛇体を成す、と。
ああも絡む、という先の発言の主旨はこれだった。
幻体幽姿にて生じる像と本体は無関係ではない。むしろ密と言っていいほど深く同調している。
幽姿が毀たれれば、肉体の側の機能も同じく損なわれるのだ。
たとえば幻体が目を失えば本体は視力を失い、幽姿が腕を失くせば肉体の腕も利かなくなる。
よって妖魅自身の居所を突き止めずとも、投影された虚像を屠れば大抵において状況は解決へ至る。
しかしながらこのくちなわは違う。そうはいかない。
複数の本体が複雑に絡む集合体ゆえ、一、二匹を斬り払ったところで何にもならない。
そもそもからして宗介は、蛇を斬りに来たではないのだ。
――さて、どうしたものかな。
手を拱いた耳に、「あの」と遠慮がちな呼びかけが聞こえた。
縁側を伝い、障子の外にやって来たのはみよである。
名輪家当主名輪五右衛門と、面談の用意が整ったとの報せであった。