第三章 ファティマ その③
たしかに未然に惨事を防げず犠牲者をだし、《御使い》たるカルマン卿を捕り逃がしたのはいただけないが、それでも聖キリコはふたつの成果をあげた。
ひとつは、早期のうちにカルマン卿にたどりつき、それをルシオン大司教に告げたことで、標的の一人であったバスク国王を復讐の魔手から救ったこと。
もうひとつは、惨劇の中にあってランフォード男爵令嬢を救い、貴重な「生き証人」を得たことである。
とくにカルマン卿の一連の所業を証言できる人間を得られたことは大きい。
大量殺戮犯としてカルマン卿を諸国に手配するとしても、それには事件の裏付けがとれる証人が必要である。
事件の裏側を知る二人のうち、聖キリコは教皇庁にあって極秘の存在たる聖武僧。
彼に証人としての役目を求められない以上、彼のかわりに公の場で証言できるランフォード令嬢の存在はきわめて重要である。
大勢の犠牲者がでたことは痛ましいが、早期のうちにカルマン卿の正体を突きとめたことで、教皇庁としても多様な対応策を錬ることができる。
それを考えれば、今回の一件はそれほど悲観する結果ではない。
それがフェレンツ大司教の論じるところだった。
言い終えると同時に猛烈な異議の声があがった。声の主は言うまでもない。
「な、なにを言われるか、フェレンツ卿。それは問題のすり替え……」
だが、バーハイデン大司教は最後まで言い終えることができなかった。
彼の周囲で、彼の異議の声を無視し、彼以外の大司教が意見をかわしはじめたのだ。
「なるほど。まるきり収支が赤字ということもないわけか」
「たしかにフェレンツ卿の言われるとおり、早期のうちに《御使い》を探しだした意味は大きいな。かの者がよけいな知恵をつけぬうちに、われわれとしてもいろいろな手が打てる」
「うむ。それに公の場に出せる証人を得たこともな。聖武僧の存在が極秘である以上、ランフォードなる娘の証言があれば、われわれとしても堂々とカルマン卿を手配できる」
たちまち一変した場の空気に、バーハイデン大司教は困惑のあまり、両目をくるくると回転させた。
それまで自分の主張に同調していたはずの同僚たちに、一転して「なかったこと」にされて、つい思考の波が乱れてしまったのだ。
着地点を探して宙空をさまよっていたバーハイデン大司教の視線が、やがて一点に止まった。
固定された視線の先にはフェレンツ大司教の秀麗な顔がある。
殺気めいた視線、という表現があるなら、このときフェレンツ大司教に向けられたバーハイデン大司教の目つきがまさにそれであったろう。
いまいましい口巧者な青二才め! フェレンツ大司教の顔に向けられるバーハイデン大司教の表情はそう叫んでいた。
一方のフェレンツ大司教はというと、こちらはまさにしてやったりの様子で、バーハイデン大司教に鋭い眼光を突きつけられても、平然と微笑をたたえている。内心で舌を出している若い大司教の姿を想像したのは、おそらくバーハイデン大司教だけではないだろう。
小さく咳払いをした後、グレアム枢機卿が声を発した。
「とりあえずバスク王国の件は、聖キリコがランフォード嬢をともなって帰還し、彼らから詳細な報告をうけた後に、あらためて協議をすることで私としては了としたいが、諸卿らの意見は如何?」
グレアム枢機卿は大司教たちを見まわした。異を唱える者は誰もいなかった。
枢機卿の発言が確認という形の決定であったこともあるが、実際、書簡での報告だけでは詳細を確認することはできないのだから、キリコたちの帰還を待つしかないのだ。
一人バーハイデン大司教だけは一瞬、不本意そうな表情をつくったが、グレアム枢機卿はあえて気づかぬ態をよそおい、会議の終了と解散を命じた。
「それでは今日の会議はここまでとしよう。皆、退がってよろしい」
安楽椅子から立ちあがり、うやうやしい一礼を残して大司教たちが退出する中、一人シトレー大司教だけが部屋に残った。
会議の始まる前、終了後も部屋に残るようにグレアム枢機卿から言われていたのだ。
二人以外の気配が消えて静けさを取り戻した部屋で、グレアム枢機卿がおもむろに口を開いた。
「聖キリコの働き、あいかわらず見事なものだ、シトレー卿。よくぞこの一月足らずのわずかな期間のうちに、転生者の正体と狙いにまでたどりついた。たいしたものだ」
「恐縮にございます、猊下。本人にかわって礼を申しあげます。されど転生者たるカルマン卿にたどりついておきながら、その彼を捕り逃がしたのは由々しき失態。先刻も申しあげましたように、すべてはかの者を推挙した私に責任がございますれば、当人には寛大な処置を願うものであります」
「なに、たいした傷手とはなるまい」
グレアム枢機卿は微笑し、軽く手を振ってみせた。
「ルシオン卿も書簡の中でふれていたが、聖キリコが短期間のうちにカルマン卿にたどりついたからこそ、害は王家にまでおよばずにすんだのだ。フェレンツ卿の言ではないが、バスク王をカルマン卿の魔手から救っただけでも十分な成果といえよう」
渇いた喉を潤すようにコーヒーの一杯を干し、枢機卿は語をつないだ。
「卿も知ってのとおり、かの国王は教圏諸国においても屈指の敬虔な神教徒。万が一にもかの王を失えば、それはバスク国内にとどまらず教圏全体にも影響をおよぼしたにちがいない。ジェラード侯爵をはじめとする犠牲者たちには気の毒であったがな」
「それでは猊下、バスク王のもとにはすでに警護の聖武僧を?」
「うむ、すでにかの国に派遣した。十名ほどの聖武僧がルシオン卿の指揮の下、これより王宮の内外を護衛することになるだろう。もっとも……」
言いさして言葉をきった枢機卿の口もとに、皮肉っぽい微笑が浮かんだ。
「当のカルマン卿にしてみれば、もはやバスク王に執着している場合ではなくなるであろうがな」
「たしかに……」
グレアム枢機卿の意図を了解し、シトレー大司教はうなずいた。
ほどなくダーマ教皇の御名によるカルマンの手配令が、すべての教圏諸国に発せられる。
罪状はジェラード侯爵をはじめとする貴族らへの殺戮行為と、そして悪魔崇拝者としてだ。
とくに後者は、教圏世界においては親殺しにも勝る重罪である。
早晩、カルマンの行動は著しく制限され、もはや人目を避けるように動くことを強いられるであろう。そうなればバスク国王の生命をつけ狙う余裕などなくなる。それがグレアム枢機卿の論じるところであった。
そのグレアム枢機卿がふいに話題を転じた。
「ところで、シトレー卿。これからちと散策に付きあわぬか」
「散策、でございますか?」
唐突な誘いに、シトレー大司教は困惑したように瞬きをした。枢機卿が薄く笑う。
「そうだ。久しぶりに〈あの男〉の顔が見たくなったのでな」
〈あの男〉という一語をグレアム枢機卿が口にした瞬間、シトレー大司教の表情に緊張めいた色が走った。
枢機卿が何者をさしているのか、シトレー大司教にはすぐにわかったのだ。
「シトレー卿も知ってのとおり、あそこに通じる道は二人でないと開けられぬのでな。卿にはすまぬが、しばし付きおうてくれぬか」
グレアム枢機卿は立ちあがり、シトレー大司教もそれに従って部屋を出た。




