第一話
「ごめんなさい、ごめんなさい…」母は嗚咽を漏らした。弥彦が戸惑っていると、母は古びた一枚の紙を差し出した。「ここに行きなさい。私にはもう、あなたを守ってあげられない。あなたは龍に狙われているから。」母はなんとか目を合わせて絞りだした。「龍って何のこと?さっきのやつのこと?それならもういなくなったよ。もう大丈夫だよ。」そう弥彦は言うが、母はうなずかなかった「私の血が、あなたをこんな運命に巻き込んでしまった、ごめんなさい。」弥彦はまるで母に拒絶されたような悲しみを覚えた。母が私の幸せを願ってくれているのは分かっていたが、それで了解できるほど大人ではなかった。紙を掴んで飛び出した。暮れなずむ街は、少年の寂しさを一層引き立てた。
紙に書かれた住所に行くと、そこは小さな普通のアパートであった。ピンポンを押してみたが、返事がない。どうやら不在のようだ。ふと、後ろに誰かの視線を感じた。いや、「何か」というべきか。後ろを振り返ってはまずい。そう本能的に感じた。スマホを見るふりをして、内カメラで後ろの様子を探る。スマホには何も映っていなかった。それなのに首筋のあたりの焼け付くような感覚が消えない。自分の周りを、黒い霧のような何かが蠢いているのが見えた。“それ”と同じ黒だ。恐怖に耐えられずに思わず後ろを振り向くと、そこにはまた“それ”がいた。龍と呼ぶべきなのだろうか。先日のものとは別個体のようで、今度は猿のような姿をしている。大きさは2メートルほどか。だが、悠長に姿を観察している余裕などなかった。後ろを振り向いた時にはすでに、猿型の龍は大地を蹴り飛び上がっていて、巨体はもう目前に迫っていた。後ろはアパートの壁、逃げ場はない。頭ではわかっていても、つい後ずさりをしてしまう。一瞬宙に浮いたような感覚に包まれた。視界が真っ暗になる。そして、気がついたらアパートの一室の中にいた。弥彦は尻餅をついた。最低限生活に必要なスペースは確保してあるが、小汚い。あの人の部屋だろうか。そんなことを考えて一瞬現実逃避してしまうほどには、先ほどから連続する事態は常軌を逸していた。しかし現実は迫りくるもの。壁が黒い靄に包まれ、その靄が徐々に形を成してきた。龍がこの部屋に入ってくるのだ。猿型の龍は大きな手を振りかぶる。今度こそ逃げ場はない。自分の横に、ふと気配を感じた。龍のそれではない。隣には昨日の男がいた。龍も驚いて動きを止めた。横に立つ男は、龍と同じ闇をまとっていた。闇が彼の体を中心に渦を巻いている。龍の手が男を狙った。男は静かに、だが素早く手を龍の方に伸ばした。龍の手が男に触れるより早く、男の手から放たれた黒い矢のようなものが龍を貫いた。龍が形を失って黒い塊になる。男は弥彦の方を見た。夕日が作り出した、どこか悲しげな影を背負っていた。「弥彦と申します。さっきはありがとうございました。母からここに行けと…」最後まで言い終わらないうちに、男は「そうか、お前もこっち側に来てしまったか。」と言った。「俺は八頭だ。隣の部屋を開けてある。修行が済むまでは、しばらくそこにいろ。」男は言った。弥彦には何がなんだが分からなかったが、家に帰れないことだけは分かっていた。あいつらは僕を狙ってきたのだ。このまま家に帰ったら、家族が狙われるかもしれない。今はこの人の元にいるしかない。こうして、弥彦は「ゲートキーパー」への修行を始めた。




