第80話 高級珍味
手元の羊皮紙に最初の広場の形状と南北東西へ繋がる穴を描き終えると、俺は筆を収め、視線を上げた。
湿り気を帯びた暗がりの中で、アキラとルミが保持するふたつの松明の炎が揺れ、洞壁に不気味な影を落としている。
その二点の火光の真ん中で、怯えを押し殺したランが、痩せこけた小さな体を強ばらせながら俺の挙動を見つめていた。
「よし、まずは東側の通路から探索を開始する」
俺の言葉に、アキラとルミは力強く頷いた。
迷宮の探索において最も不可欠なのは、無秩序な直感ではなく、しらみつぶしの確実性だ。
分岐を一つずつ潰していけば、自ずと正解のルート――
下層へと続く道やボス部屋へ辿り着く。
この空間から伸びる四つの通路の入り口には、それぞれアキラから借りた護身用の短剣で印をつけている。
俺たちは隊列を維持したまま、東へ伸びる暗い横穴へと足を踏み入れた。
足元は相変わらず泥と湿気でぬかるみ、踏みしめるたびに微かな水音が洞内に低く反響する。
途切れ途切れに天井から滴り落ちる冷たい水滴が、首筋を濡らして不快な冷気を走らせた。
* * *
通路を進むこと、およそ二十分。
絶え間なく続いていた狭苦しい岩肌の圧迫感が薄れ、再び天井の高いひときわ開けた大部屋へと躍り出た。
静まり返った広場の内部には、先ほどのような浮遊クラゲの姿もなく、静寂だけが溜まっている。
「モンスターは……いないみたいだね、トオル君」
アキラが松明を高く掲げ、注意深く広場全体を照らし出しながら呟く。
俺はこの空間に接続されている通路の数を素早くカウントした。
今俺たちが歩いてきた縦穴を含め、全部で四つの通路が放射状に伸びている。
「油断はするな。三手に分かれて部屋を調べるぞ。何か異変がないか確認だ」
俺の指示に従い、アキラとルミが壁際へ歩み寄り、松明の光を岩肌に押し当てるようにして見回し始めた。
ランは俺の影に隠れるようにぴったりとついて回っている。
「あっ! トオル君、こっちの穴の脇に印があったよ!」
アキラが弾んだ声を上げ、入ってきたばかりの通路の入り口を指差した。
続いて、対面側の壁を調べていたルミも振り返り、声を上げる。
「トオル君、こっちの穴にも印があります……! ここ、私たちが一番最初に入ってきた入り口です」
二人が見つけたのは、最初の広場を出る際、分岐の混乱を防ぐために俺が岩肌へ深々と刻み込んでおいた矢印状の傷だった。
俺は壁に歩み寄り、削られた岩肌の感触を指先で確かめながら、頭の中で空間の構造を再構築した。
(なるほど……そういう構造か)
東側の通路を二十分かけて歩いた結果、俺たちは直進していたつもりで大きく円を描き、最初の部屋の南側入口へと戻ってきていたのだ。
ダンジョン固有の立体的な曲率が生み出す、典型的な回廊構造だった。
一見すると二十分の移動時間を無駄にしたように思えるかもしれない。
だが、未知の迷宮において「不必要な行き止まり・ループルートを一つ完全に特定した」という事実は、極めて大きな収穫だ。
矢印や地図無しで進んでいると、ループしたことに気づかずに迷うことになる。
それは、地味だが最も警戒すべき躓きだ。
俺は【アイテムボックス】から紙とペンを取り出し、書きかけの地図にぐるりと繋がる環状の通路を描き足した。
* * *
「これで潰すべき選択肢が一つ判明した。次は西側の通路を進むぞ」
「うん! 地図があると全然安心感が違うね」
アキラが明るい笑みを浮かべ、ルミもほっと胸を撫で下ろしている。
俺たちは迷わず未探索の『西側の通路』へと足を踏み入れた。
西側の通路は、先ほどの東側よりも一層湿気が強く、壁面には湿った苔がへばりつき、奥から吹き抜ける風が松明の炎を微かに揺らしている。
十数分ほど歩を進めると、再び前方から水が揺れる微かな音と、青白い光の明滅が見えてきた。
通路を抜けた先には、またしても広大な水たまりを擁する空間が広がっていた。
澄んだ黒い水面の上空を、体長一・五メートルほどの半透明な傘を持った『浮遊クラゲ』が三匹、青白く放電しながら揺らゆらと漂っている。
俺は即座に腰の『鉄の小盾』を収め、重厚な『朽ちた躯の大盾』を取り出して左手で構えた。
ずしりと響く金属の重量感が腕を押し潰すが、ルミの【プライム・エンハンス】と装備補正によって高められた耐久力(32)が、揺るぎない踏み込みを保証してくれる。
戦闘準備を整えようとしたその時、後ろからアキラとルミが怪訝そうな声を上げた。
* *
「ねえ、トオル君。一匹だけ光り方が変じゃない?」
「そうだよね……あの一匹だけ、光り方が他よりもずっと青白くて、綺麗です」
二人の視線の先を追うと、中央に漂う一匹の浮遊クラゲだけが、周囲の二匹に比べて一段と透過度が高く、体表から放たれる放電の火花がサファイアのような濃密な青を帯びているのが目に入った。
(言われてみれば……ただの個体差か、それとも変異種か……?)
俺は思考を切り替え、スキル【鑑定】をその個体へと集中させた。
視界の隅に透明なテキストウィンドウが立ち上がり、詳細な情報が文字となって浮かび上がる。
─────────────────────────────
名称:浮遊クラゲ・デリカシー
種別:浮遊クラゲ
特徴:稀に発生する変異個体。
体内から毒素や不要な不純物が排除されており、身は透き通るような甘みを持つ。
貴族や富裕層の間で高級の珍味として珍重され、市場では高値で取引される。
─────────────────────────────
(……まさか、希少種を引き当てるとはな)
魔物の解体屋や市場へ持ち込めば、金貨数枚に化けるはずだ。
通常の『浮遊クラゲ』は金にならないが、この希少種は持って帰ることにした。
アイテムボックスの容量には余裕があるし、状態を保ったまま収容できる。
スキル【鑑定】を発動させた際の不快な魔力を察知したのか、浮遊クラゲの希少種が俺に気づき、仲間たちに知らせたようだ。
三匹が揃って傘をくねらせ、こちらへと向き直った。
「ギィ……ッ」
と不快な摩擦音を奏でながら、体表の青白い火花を激しく散らし、俺たちに向かってゆっくりと接近してくる。
「お前たちはこの場で待機。デリカシーの体はなるべく傷つけないように、俺が始末する」
* * *
俺は大盾を前方に構え、堅く湿った岩肌の床を力強く蹴って間合いを詰めた。
先頭の通常個体二匹が、電撃をまとった半透明の体を巨大な塊となって俺の正面へ叩きつけてくる。
――ドガッ!
重厚な『朽ちた躯の大盾』が衝撃を軽々と受け止め、発生した衝撃波が足元の泥を吹き飛ばした。
直後、バチバチと音を立てて強烈な電流が盾を経由し、俺の全身へと奔流となって流れ込んでくる。
だが、ルミが事前に施してくれた『レジスト・バリア』の魔法耐性と、圧倒的な数値を誇る耐久補正の前では、その放電も皮膚をかすかに痺れさせる程度の刺激に過ぎない。
身体の硬直すら発生せず、俺は冷静に大盾を押し込み、体勢を崩した通常個体の一匹へ『疾風の剣』を鋭く突き立てた。
【斬撃付与】の宿る刃は柔らかい胴体を容易く貫通し、内部の核を一撃で破壊する。青い体液を撒き散らして落ちていく一匹目を踏み越え、間髪入れずに二匹目の通常個体へ横一文字の斬撃を叩き込んだ。
正確に核を切り裂かれた二匹目も、苦悶の声すら上げずに水たまりの中へと沈んでいく。
最後に残ったのは、青白い光を撒き散らす希少種『浮遊クラゲ・デリカシー』だ。
俺は無意味な損傷を与えて商品価値を落とさないよう、剣先を核の位置へと正確に狙いを定めた。
仕留めた敵が水たまりに落ちないよう、後退しつつ引き付ける。
迫り来る青い電撃の火花を大盾の縁で受け流しながら、隙だらけになった中央の核へ一閃の突きを繰り出す。
「――シッ!」
薄氷を突き破るような感触とともに、疾風の剣の先が核だけを的確に穿った。
『浮遊クラゲ・デリカシー』は放電をピタリと止め、その美しく透き通った巨体を地面の上へと静かに横たえた。
* *
「ふぅ……よし、最小限の傷で仕留めたな」
俺はすぐさま希少種の巨体に向けて、スキル【アイテムボックス】を発動させた。
青く輝く半透明の体が空間の歪みの中に吸い込まれ、劣化しない異空間の中へと格納される。
これで一稼ぎ確定だ。
「トオル君、すごい! あの珍しいクラゲ、全然傷つけずに捕まえちゃったんだね!」
「さすがトオル君です。手際が見事すぎて、見ていて惚れ惚れしちゃいます……」
戦闘が終わると同時に駆け寄ってきたアキラとルミが、目を輝かせて称賛の声を上げてくれた。
背後からトコトコとついてきたランも、心底感服した様子で小さく頷いている。
俺は呼吸を整えながら大盾を解き、再び『鉄の小盾』へと戻すと、広場全体をじっくりと検分した。
この広い小部屋にある出口を調べると、入ってきた西側の通路のほかには、奥へと伸びる一つの洞穴が存在するのみだった。
「出口は一つか。迷う必要がなくて助かるな」
俺たちは隊列を整え直し、唯一残されたその奥の通路へと足を進めた。
数十メートルほどの短い岩道を抜けると、通路の突き当たりに開けた小さな石室が現れた。
松明の明かりが照らし出したのは、洞窟の粗削りな自然岩ではなく、人工的に整然と削り出された黒ずんだ石造りの構造物だった。
そこには、暗闇の奥深く――さらに下層の未知なる領域へと一直線に伸びる、重厚な『地下への石階段』が静かに佇んでいた。
* *
「階段……! 下の階へ続いてる」
アキラが息を飲み、階段の暗がりを覗き込む。
「うん。これで『白霧の洞窟』の第一階層を無事に突破できたみたいだね」
ルミも緊張混じりの安堵の笑みを漏らした。
冷たく湿った風が、地下階段の底から絶え間なく吹き上がってきて、俺たちの頬を撫でる。
第一階層で予期せぬ珍味の収穫を得た俺たちは、確実にこのダンジョンの深部へと近づいていた。
俺は腰の剣の柄を固く握り直し、未知の脅威が待ち受ける第二階層への階段を見据えた。




