第28話 死闘――包囲網の攻略
ズンッ、という腹の底を揺らすような重低音が、背後で無慈悲に鳴り響いた。
振り返って確認するまでもない。
俺が先ほど通り抜けてきた重厚な金属の扉が、何らかの仕掛けによって完全に閉ざされた音だ。
物理的な退路が断たれた。
その冷酷な事実を脳が認識した瞬間、背筋を這い上がるような本能的な恐怖――ぞわっとした死の悪寒が、全身の毛穴を一気に逆立てた。
密室という逃げ場のない空間で、未知の脅威に晒されることへの生存本能からの警鐘。
だが、パニックに陥りかける脆弱な精神を、俺の中で培われてきた冷徹な理性が強引にねじ伏せる。
「すー、はー」
呼吸を意図的に深くし、視界を広く保つ。
部屋の最奥では、二つの巨大な篝火が煌々と赤黄色い炎を上げ、石造りの広間を不気味に照らし出していた。
その炎の光が届かない部屋の四隅の暗がりから、無数の気配がどろどろと湧き出し始めていた。
ギチ、ギギャッ、と歯を鳴らすような下劣な笑い声と、足を引きずるような不快な擦過音。
暗闇から次々と姿を現したのは、汚泥のように濁った緑色の肌を持つ醜悪な小鬼たち――
ゴブリンの群れだった。
* * *
その数は十や二十といった規模ではない。
部屋の壁際から近寄ってくる三十匹ほどの圧倒的な数が、俺という獲物に向け明確な殺意を持って取り囲んでいる。
「……上等だ。やってやる」
俺は左手に持っていた松明を、迷うことなく足元の石畳へと投げ捨てた。
カラン、と乾いた音を立てて転がった松明が、俺の足元の暗がりを払う第三の光源となる。
両手が自由になったことで、左腕の『木の丸盾』と右手の『疾風の剣』を十全に活用できる戦闘態勢へと移行することができた。
閉じ込められた恐怖はすでに頭の隅へと追いやられ、代わりにドクン、ドクンと激しく脈打つ心臓が、生き残ろうとする苛烈な闘争心を全身の血管へと送り込み始めていた。
周囲を包囲するゴブリンの群れは、単なる知能の低い烏合の衆などではなかった。
明確な役割分担と殺意を持った、統率された一つの軍隊だ。
前衛には、血の跡がついた太い棍棒や、刃の欠けた錆びたナイフを手にした近接部隊が分厚い壁を作っている。
そしてその後方の暗がりには、弦を引き絞りこちらへ狙いを定める弓兵や、投石用の皮紐を頭上で振り回す遠距離部隊が陣取っていた。
「ギギャアアッ!」
群れの中から上がった、鼓膜を劈くようなひと際大きな咆哮。
それを合図に、前衛のゴブリンたちが一斉に床を蹴り、四方八方から俺へと殺到してきた。
それと全く同時に、後方から放たれた無数の矢と石礫が、空気を裂く鋭い音と共に俺の全身へと降り注ぐ。
近接攻撃と遠距離攻撃が入り混じる、逃げ場のない死の複合攻撃。
俺は姿勢を低く沈め、左腕の丸盾を斜めに構えることで、戦闘不能となり得る顔面への射線を強引に遮断した。
* * *
カンッ!
という甲高い音と共に、盾の表面が飛来した石礫を弾き飛ばす。
だが、三十を超える群れが放つ飽和攻撃を、木製の小さな丸盾一つで完全に防ぎ切れるはずがない。
防ぎきれなかった拳大の石が俺の右太ももに激突し、骨まで響くような鈍い痛みを走らせた。
さらに、革の胸当ての隙間を掠めた粗末な矢が、脇腹の肉を浅く裂き、熱い血を吹き出させる。
「くっ……!」
痛みに顔をしかめる暇すら与えられず、眼前まで迫った棍棒持ちのゴブリンが、脳天を砕こうと太い一撃を振り下ろしてきた。
俺は丸盾の縁を斜めに傾け、その重い一撃を真正面から受け止めるのではなく、威力を削ぐように受け流す。
『戦士』のクラスへと変更したことで得た【耐久】のステータス補正がなければ、今の一撃だけで腕の骨にヒビが入っていたかもしれない。
しかし、どれほどステータスが向上していようとも、連続する衝撃は確実に俺の身体にダメージと疲労を蓄積させていく。
盾越しに伝わってくるむせ返るような獣の体臭と、暴力の重み。
全方位から絶え間なく飛来する飛び道具の雨が、思考を休める隙を一切与えてくれない。
このまま防戦一方に徹していれば、いずれスタミナを完全に削り切られ、嬲り殺しにされるのは火を見るより明らかだった。
(この数と陣形を相手に、ノーダメージでの突破は物理的に不可能だ。ならば――)
俺は極限まで圧縮された集中力の中で、自身の戦術に対する極めて冷酷な取捨選択を行った。
機動力を活かした回避や、盾による完璧な防御を完全に放棄する。
肉を切らせて骨を断つ。
致命傷以外の被弾を意図的に許容し、自身の持つ圧倒的な一撃必殺の火力を押し付けることで、強引に敵の手数を減らす乱戦への移行だ。
俺の命を削る、最も泥臭く、最も確実な生存戦略。
左側からナイフを突き出して突進してきたゴブリンに対し、俺は防御の姿勢を解いた。
* * *
刃が俺の左腕の肉を浅く切り裂く痛みを無視し、丸盾を持った左腕ごと敵の顔面に力任せに叩きつける。
「ハッ!」
鼻骨が砕ける嫌な感触と共に敵が怯んだ瞬間、俺は右手の『疾風の剣』を閃電の如く振り抜いた。
【斬撃付与】の恩恵を受けた鋭い刃が、抵抗らしい抵抗もなく敵の首を綺麗に刎ね飛ばす。
汚らしい血の飛沫を頭から浴びながら、俺は休むことなく次の敵へと視線を向けた。
正面から太い棍棒を突き出してきた筋骨隆々の個体。
俺は盾を突き出しそれを受け止め、拮抗した力比べの状態へと持ち込む。
ギリギリと筋肉と盾が軋む音。
腕力では向こうに分があるようだ。
ニヤリと笑う大柄のゴブリン――
だが、俺は勝てない勝負を続ける気など毛頭なかった。
力をスッと抜き、敵の体勢が前のめりに崩れた瞬間を利用して、剣を持った右の手首を返す。
空いた無防備な腹部へ向けて、下からえぐるように刃を深々と突き立てた。
「ギャゲッ!?」
内臓を貫かれた敵が目を剥いて痙攣する。
その断末魔の悲鳴を置き去りにし、俺は剣を引き抜くと同時に背後へと大きく身体を捻った。
俺の死角、足元を狙って背後から忍び寄っていた個体を、振り向きざまの横薙ぎで胴体ごと両断する。
臓物が床にぶちまけられ、吐き気を催すほどの濃密な血と鉄の匂いが閉鎖空間に充満していく。
* * *
浅い傷が増えていく激痛を、俺はアドレナリンに任せて強引に思考の外へと追いやった。
一撃で確実に命を奪う火力を頼りに、俺はただひたすらに血みどろの死舞を展開し続けた。
だが、前衛のゴブリンたちを次々と斬り捨てるこちらの動きを冷徹に観察し、後方部隊の遠距離攻撃は執拗に俺を狙い続けていた。
視界の端で、篝火の光を反射して何かが鋭く飛来するのを見た直後だった。
右肩に、巨大なハンマーで全力で殴りつけられたかのような、強烈極まりない衝撃が走る。
投石部隊の放った拳以上の大きさを持つ石礫が、肩の関節を正確に打ち据えたのだ。
「ぐっ……、ああっ!」
骨が砕けたかと思うほどの激痛に、俺の体勢が大きく泳ぎ、防御の隙が完全に晒される。
その一瞬の致命的な隙を、暗がりに潜む弓兵は決して見逃さなかった。
風切り音が耳元をヒュッと掠め、直後、俺の左下腹部に焼け焦げるような鋭い熱と激痛が走る。
視線を落とせば、革の鎧を貫通した粗末な矢が、その鏃の根元まで深く俺の肉に突き刺さっていた。
内臓に達しているかもしれない致命的な一撃。
どくどくと流れ出る自身の温かい血が、ズボンを濡らして床へと滴り落ちていくのがわかる。
そして、そのあまりにも鮮烈な激痛が、皮肉にも俺の意識を死の淵から引き戻し、極限まで研ぎ澄ませた。
(こいつらを……後衛を先に殺さなければ……!)
俺は腹に突き刺さった矢を抜くことすらせず、血の混じった唾を吐き捨てながら、前傾姿勢で床を強く蹴り上げた。
* * *
残された全てのスタミナと筋力を振り絞り、弓兵と投石兵が陣取る部屋の奥へ向かって、狂気を孕んだ突進を開始する。
俺が致命傷を負って倒れると確信していたのだろう。
慌てて次弾を装填しようとする後衛部隊の懐に、俺は文字通り飛び込んだ。
そこからは無慈悲な斬撃の嵐だった。
命乞いのように掲げられた弓ごと体を切り裂き、石を握ったままの太い腕を肩から切り落とし、逃げようと背を向けた頭蓋を上段から叩き割る。
返り血を浴びすぎて視界が赤く染まり、まともな呼吸すらできない。
俺自身も全身に無数の傷を負い、腹からは大量の血を流し続けている満身創痍の限界状態だ。
だが、勝利の余韻に浸り、安堵の息をつく暇すら、このダンジョンは与えてはくれなかった。
遠距離部隊を全て血の海に沈めた俺の背後。
生き残った十数匹の近接ゴブリンの精鋭たちが、明確な殺傷能力を持った剣と斧を高く掲げていた。
「ギギャアアアアッ!」
地獄の底から響くような突撃の咆哮が、石造りの部屋を再び震わせる。
篝火の赤い光に照らされた無数の刃が、立っているのが不思議なほどボロボロになった俺を、確実な絶望と死の淵へと引きずり込もうと迫り来ていた。




