第3話「女王、捲土重来・後編」
女王の命により、30万の資金という兵士たちは、新たな戦場に赴いた。
半導体銘柄、100株。
数日続いていた下落から立ち直り、株価は回復の兆しを見せる……
はずだった。
期待とは逆に、開戦からほどなくして、チャートは右下へと傾きはじめた。
「……えっ?」
女王は思わず身を乗り出した。
29万9000。
29万8000。
29万7000……。
「ちょ、ちょっと待って! ……兵たちがどんどん減ってるわ!」
「ふむ、含み損でございますな」
「それってつまり……私、また負けたってこと!?」
厳しい現実を目にして、女王は血の気を失った。
「いえ、この時点ではまだ負けではありません。
戦況が不利に傾いているというだけでございます」
「でも!」
動揺で、女王の唇が震えた。
マイナスの赤い数字はさらに傷口を広げていく。
戦場に送り出した兵たちが、次々と傷つき倒れていく光景を見せつけられているようだった。
ふと、先日の敗北が女王の脳裏をよぎった。
上がると信じて買った銘柄。
しかし株価は上がることなく、資産を大きく減らすこととなった。
その苦い記憶が、女王の自信をさらに奪っていく。
「……やっぱり、撤退した方がいいかしら」
女王の指が、売却のボタンへ伸びかける。
しかし。
「女王」
軍師の声が、静かに作戦室に響いた。
「まだ、撤退の時ではございません」
「でも、これ以上は兵が……」
女王の脳裏に、兵士がさらに減っていく無惨な未来がよぎった。
資金はどんどん減り、王国は存亡の危機に——。
「もう、耐えられないの」
「女王、お気を確かに」
悲しげに俯く女王を励ますように、軍師は続けた。
「撤退と決めたラインには、まだ達しておりません」
軍師が指を振ると、チャートの下に一本の赤い線が浮かび上がった。
そこは、買う前に決めておいた損切りのライン。
株価がこの線を割ったら撤退する。
女王は軍師とそう約束していた。
「損切りは、敗北ではございません。
残された兵を守るために、撤退を選ぶことも戦略の一つです」
「うん……」
「ただし」
軍師は静かに続けた。
「恐怖に駆られて逃げてしまうことは、撤退とは申せません。
それは、ただの無策にございます」
「無策……」
「今、女王は覚悟を試されています」
「えっ」
「揺さぶり——」
それは、覚悟のない者をふるい落とすための、試練。
大量の売りが一時的に株価を下げ、マイナスに耐えられなくなった者が安値で手放す。
そして待ってましたとばかりに、底値でかっさらう者が現れる。
投資とは、常に弱肉強食の世界なのである。
「ここで無様に退けば、王が見え見えの陽動作戦に屈したことになりますぞ!」
女王は唇を噛んだ。
それは、兵を率いる将としての覚悟——。
「……わかったわ」
女王は売却ボタンから指を離した。
「作戦を続行します」
女王の決意を確かめ、軍師の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「御意。……私には、勝機が見えています」
軍師が画面に指をかざすと、新たに緑の線が現れた。
「25日移動平均線……過去25日間の平均的な株価を結んだ線です」
女王は軍師の顔を見た。
「この銘柄は、何度もこの線付近まで下落した時に、大きく反発を見せています」
「つまり?」
「はい、この売りを乗り越えることができれば……」
「上がる……かも?」
だが、チャートはなおも不安定だった。
上がったかと思えば押し返され、戻したかと思えばまた沈む。
女王が不安に息を呑むたびに、軍師は励ますかのように穏やかな声で告げた。
「株価を下げる悪材料は出ておりません」
「出来高は衰えておりません」
「売りの勢いは、先ほどより弱まっております——」
戦場は、苦しかった。
だが、最初のような一方的な下落ではない。
敵の勢いは少しずつ鈍り、30万の兵は踏みとどまり始めていた。
「……あら?」
やがて、チャートの下落が止まった。
赤い数字の減り方が、鈍くなる。
「……止まった?」
女王が小さく呟く。
「はい」
軍師は静かに頷いた。
「風向きが、変わり始めております」
戦場図に、淡い光が走った。
それまで女王の軍勢を押し返していた赤い光が、ゆっくりと勢いを失っていく。
代わりに、緑色の光が前線のあちこちで灯り始めた。
29万7000。
29万8000。
29万9000。
そして。
——30万。
「戻った……!」
女王の瞳に光が宿る。
「まだです、女王」
軍師は穏やかに制した。
「ここからが本当の戦でございます」
チャートはさらに上を向いた。
30万1000。
30万2000。
30万3000……。
含み損だった数字が、含み益へと変わり、
赤く染まっていた戦場は、勝利の緑色へと変わっていった。
「軍師……!」
「はい。我が軍の優勢ですな」
女王は拳を握りしめた。
30万の兵は今、敵陣を押し返している。
「目標地点まで、あとわずかです」
軍師のしなやかな指が、画面をスッと横切った。
すると、チャートの上に一本の金色の線が浮かび上がった。
利益確定ライン。
ここまで来たら、売却して「利確」をする。
これも事前に、女王が軍師と約束したラインだった。
「どうして? この勢いなら、まだまだ上がりそうよ?」
「いえ、決して欲を出しすぎてはいけません。
まもなく、本日の終戦の時間が近づいております」
市場という戦場は、毎日15時半に幕を下ろす。
「閉幕の前には、本日の戦果を明日に持ち越さないよう、売る者が現れます。
そのタイミングで、株価は一時的に下がることも多いのです」
「じゃ、その前に?」
「はい、高値で売り抜けるのがよろしいかと」
「……わかったわ」
時計を見ながら、軍師が静かに告げる。
「まもなく、決断の時です」
チャートが、金色の線へ近づいていく。
あと少し。
もう少し。
女王は息を止めた。
そして、チャートが目標地点を越えた。
「今です!」
軍師の声が響いた。
女王は迷うことなく立ち上がった。
「全軍、帰還!」
高らかに宣言し、売却のボタンを押す。
刹那、作戦室に眩い光が満ちた。
残高を示す数値が増え、勝利の鐘が鳴り響く。
戦いを終えた兵士たちは、数を増やして女王の元へと凱旋した。
「勝ったわ……」
女王は体の力を抜き、大きなため息と共に呟いた。
それは小さな、実に小さな勝利だった。
だが女王にとっては、嬉しい初めての勝ち戦の記憶となった。
「お見事でございました、女王」
軍師は静かに一礼した。
「私……ちゃんと、勝てたのね」
「はい。作戦通りに動き、兵士たちを勝利にお導きになりました」
女王はしばらく黙って盤上を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「……投資って、怖いわね」
「左様でございますな」
軍師は微笑む。
「だからこそ、勝った時に得るものも大きいのです」
女王はもう一度、戦場図を見つめた。
恐怖に屈せず、自分の作戦を信じる勇気。
欲に負けず、勝利を決める自制心。
それらすべてが、彼女の中に確かな経験として刻まれていた。
女王は大きく深呼吸をした。
「軍師」
「はい、女王」
「私、次の戦でもちゃんとやっていけそう」
軍師は満足げに目を細めた。
「それでこそ、兵たちが信頼するに足る名君にございます」
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
今回は、実際に株を買ってから売るまでの動きを擬似的に描いてみました。
含み損に陥ると生きた心地がしませんし、そこから上がると本当に嬉しいものです。
株式投資は無機質な数字を相手にしているようですが、その向こうには、生きた人間がいます。
人と人との心理の読み合いも、投資の醍醐味の一つです!
さて、今回の女王が学んだ教訓は……
・含み損は怖いけど、やたらと怯えない
・でも撤退ラインを割ったら潔く損切りする
・取引時間や、その日のうちに手仕舞うかどうかも意識する
・欲張らず、あらかじめ決めた利確ラインを守る
こんなところでしょうか。
トレードは難しいですし、私も負けることも多々あります。
簡単にお勧めできるものではないですが、こんな世界もあるものだと、興味を持っていただければ幸いです。
次回は、息抜きの日常ほのぼの回をお届けする予定ですので、お楽しみに♪




